8歳まで「無国籍」 フィリピンと日本、二つのルーツと共に生きて
子どもたちと共に気づいた「自分の声を持つこと」の大切さ
安田菜津紀 フォトジャーナリスト
「ママの人生は間違っていなかった」と伝えたくて
実は今年になって、母のメルバさんが三木さんの出生後、フィリピン側には出生を届け出ていたことが分かった。日本の複雑な法律や制度の壁の前で、最善の選択は何かを、メルバさんは模索し続けていたのだ。
2018年、三木さんの結婚式に、メルバさんは日本の着物を、三木さんはフィリピンの民族衣装を着て臨んだ。最後に、メルバさんへの手紙を読んだ。「育ててくれてありがとう」ではなく、「ママの人生は間違ってなかった」と伝えたかった。
「母は経済的に厳しかったフィリピンの家族や、日本で生まれた私のこと、一緒に暮らす父のこと、家族のために家族のためにって常に頑張ってきて、自分を大事にすることを後回しにしてきたんですよね。日本ではオーバーステイの状態の人って指を差される的になりがちだけれど、母の人生の選択って、どれも間違ってなかったという思いをこめました」

結婚式の「お色直し」のドレスは、どうしてもフィリピンの民族衣装が着たかったという三木さん。(三木さん提供)
母の故郷を訪ねて感じたこと
子どもの頃のアイデンティティの揺らぎは、決められたカテゴライズに寄せていくことが“正解”だと思ってしまっていたからかもしれない、と三木さんは振り返る。
「私はずっと、自分のルーツが“ほしい”と思っていたんです。ハーフは生まれたときからなのに、“なりたい”と思っていたんですね。“背が高い”とか、“外国語がしゃべれる”とか、周りの“イメージ”に近づこうとしていたんです。カテゴライズされたものって周りから見えやすいからはっきりするし、周りも安心して、それ以上考える必要がないんですよね」
求められる“ハーフ像”に当てはまらないとき、周囲に反発するように「私、日本生まれ、日本育ちだから」とルーツについての会話を手早く終わらせていた。
そんな三木さんにとっての転機のひとつが、小学校5年のときに初めて母の故郷を訪れたことだった。当時、メルバさんは再入国の許可がおりず、父と二人でフィリピンへと向かった。
「父も外国語が上手くできないし、二人で空港を右往左往していました。そんな最中に、“お母さんみたいな人が歩いてくる!”と思ったら、迎えにきてくれた母の親戚だったんですよね。言葉は何にも分からないのに、出てくる食べ物が私の家と一緒だったり、別れ際には必ずハグをしたり……。断片的に、自分はここにもルーツがある、と実感しました」