『朝鮮日報』の「独島物語」/事実の直視こそ必要

日本安全保障戦略研究所研究員 藤井 賢二

 今年5月から8月にかけて、韓国の『朝鮮日報』に15回にわたって掲載された「独島物語」には事実誤認がある。

 1947年4月、鬱陵島(ウルルンド)の漁船が竹島(韓国名「独島(トクト)」)近海で日本漁船の攻撃を受けたと述べている。しかし、韓国国家記録院に残る慶尚北道(キョンサンプクト)知事の政府への報告では、この時に「機関銃掃射」したのは日本漁船ではなく「国籍不明の飛行機」だった。攻撃は米軍の爆撃訓練の一環とするのが自然である。

 53年6月に2度「独島不法上陸」した時、日本船舶は米国旗を掲げていた。54年8月に日本の巡視船は韓国の銃撃に応戦したとある。このようなことは考えられない。事実なら米国が問題視するはずだがそれは確認できない。また当時巡視船は武装されておらず、「応戦」などなかったことは海上保安庁長官の国会答弁でもわかる。日本は平和的解決を求めた。

 50~60年代、日韓両政府は領有根拠を記した文書を交換して論争した。「韓国は当時外交的・学術的能力の甚だしい格差にもかかわらず、善戦した」と「独島物語」は評価する。しかし、韓国外交資料館の記録には、韓国政府は韓国を代表する歴史学者と国際法学者に62年の日本の第4回目の主張への反論作成を3回依頼したが、結局作成されなかったとある。

 65年に韓国政府が日本政府に送った文書は、日本の第4回目の主張に対応したものと冒頭にあるにもかかわらず反論部分はなかった。韓国は日本を論破できなかったのであって「善戦した」とは言えない。

 日本はずる賢く、執拗(しつよう)に挑発を繰り返して「独島」を奪おうとしたが、韓国は守り抜いた。竹島問題の経緯をこのように描く「独島物語」は、韓国人が事実を直視することを妨げている。その最大の事実が、51年9月調印のサンフランシスコ平和条約で竹島が日本領に残ったことである。

 平和条約を作った米国は50年ごろに竹島を日本領に残す方針を固め、51年の英国との協議で条約案を整理した。条約案を見て韓国は竹島を韓国領とすることを要求したが、米国は同年8月の韓国政府への公文(「ラスク書簡」)で竹島は日本領と回答し、問題は決着した。

 ところが「独島物語」は、その後53年12月9日付のダレス米国務長官から駐日・駐韓米大使館宛て電文には「ラスク書簡」は「サンフランシスコ平和会談の決定と無関係」とあったとして決着を認めない。しかし、電文にそのような文言はない。

 同年に竹島問題が深刻化すると、米国は日韓の対立に巻き込まれることを恐れて「中立的立場」に変わった、よって平和条約での決着は最終的なものではない。「独島物語」はこのように主張したいようである。しかし、時計の針は逆に戻すことはできない。根本は平和条約によって竹島がどうなったかである。竹島は日本の領土に残された。

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 ふじい・けんじ 島根県竹島問題研究顧問。同県吉賀町出身。近著に「サンフランシスコ平和条約における竹島の取扱いについて」(『島嶼研究ジャーナル』10巻1号)がある。

2020年10月25日 無断転載禁止