08 決意
私たちは、二人で森を歩いていた。
それというのも、例のマーサの父親がおそらくこの森で魔素に当てられたと思われるからだ。
彼は猟師をしていて、ある日森の中で黒い巨大なイノシシに出会ったという。彼はそのイノシシを山の神かと思い逃げ帰ったそうだが、その日からすべてのことにいらいらして仕方なかったそうだ。
まず間違いなく、そのイノシシが魔族あるいは魔素に取りつかれた動物だったのだろう。
魔王を倒して魔族の活動は停滞こそしているが、全ての魔族が滅んだわけではない。こんなに人里近い場所に魔素を放つ場所があるというのなら、被害がもっと広がらないうちに排除すべきだ。
そんなわけで、私たちは森の中をそのイノシシを探して歩いているのだった。
「なぜこんなことをするんだ? もう王国のやつらを助ける義理もないだろう」
追手から逃れるため旅を急ぐのだろうと思っていたらしいライナスは、首をかしげてついてくる。
木の棒で背の高い草をかき分けていた私は、彼を振り返って言った。
「いいの。これは自己満足。知らなかったふりをしてここを離れることもできるけど、それをしたらきっとずっと心残りになる。だからその心残りの芽を摘んでいくだけ。私のためだよ」
そう説明したものの、やはりライナスは理解できないとばかりに難しい顔をしていた。
「まあ俺は、アズサが行くところならどこでもいいのだがな」
「そういえば、ライナスって帰るところとかないの? 魔王を倒したんだから代わりに魔王になるとかさ。そもそもそのために私たちに協力してたんじゃなかったっけ」
彼が仲間に加わった理由は、確かそういう触れ込みだったはずだ。人間社会への侵略を性急に進める魔王を止めたいと。
その魔王が倒れたのだから、ライナスが次の魔王になってもいいように思えるのだが。
まあ、彼が魔王になったらまた私が討伐するよう命令されるのかもしれないので、彼にはこのままでいてほしいけれど。
そもそも日本に帰る方法を失った今となっては、ライナスの存在は心強い。彼とも別れて城に向かっていたら、私は大人しくあの場で王に捕らえられていたに違いないのだから。
「ああ、最初はそのつもりだったが、もういいんだ。魔族にはまともなやつもいる。そいつらが今頃どうにかしているだろ」
ライナスの返事はなかなかに投げやりなものだった。
魔族側の組織というものがどうなっているのかは分からないが、戦ってみた感じだと実力第一主義という感じだった。ちなみに魔王を倒してからしばらく経っているが、魔王の敵討ちに魔族がやってくることもない。人間の常識とはどうやらいろいろなことが違うようだ。
「適当だなあ。まあ、ライナスが一緒にいてくれるなら心強いけどね」
思っていたことを正直に伝えると、後ろからついてきていた足音が止まった。
どうしたんだろうかと振り返ると、なぜかライナスは片手で顔を覆っていた。
「どうしたの? 気持ち悪い?」
魔族が体調不良などあるのだろうかと思いつつ、ライナスに近寄る。するとなぜだか近寄るなとばかりに後ずさられた。
よほど手に力が入っていたのか、色白の顔がじんわりとあからんでいる。
「ちょっと。具合が悪いなら言ってよ。ライナスのことは聖なる力じゃ癒せないんだから」
癒せないどころか、魔族である彼にとって私の力は劇薬に等しい。
なのにずっとついてくるなんて随分変わり者だと思うが、もしかしたら不用意に魔族と接触しないよう見張っているのかもしれないなと思った。
それならまだ、彼の不可思議な行動の意味も理解できるからだ。
「本当になんでもな……おい、あれはなんだ?」
露骨に話題を逸らされた気がしなくもなかったが、その時彼が指さした方向には確かに強い魔素が感じられた。
慌ててそちらに視線をやれば、確かにマーサの父親が言った通り、見上げるように巨大なイノシシがこちらをじっと見つめている。
その目に理性はなく、興奮したように息が荒い。
なにより、そのイノシシを取り巻く魔素の量を見ればこれが元凶であることはほぼ間違いないように思われた。
周辺の植物すら、その魔素の影響で魔物化し始めている。
これは即刻退治すべきものだと、この二年間の経験が私にささやきかけた。
「アズサ!」
イノシシが勢いをつけてこちらに突進してきたのと同じタイミングで、ライナスが私を抱え空へと飛びあがる。
木々がなぎ倒され、まるで悲鳴のような倒木の音が響いた。
地面に生えていた草は腐り落ち、イノシシに触れた木々は風もないのにざわざわと揺らめき始めている。
正直イノシシが纏う魔素の規模は想像以上で、よくマーサの村の人々が今まで無事でいられたなと思うほどだった。
おそらく森に入る猟師や木こりも徴兵されたことで、今まで大きな騒ぎにならずに済んでいたのだろう。だがここから二三日走れば王都だと考えると、このイノシシが今まで人を襲うことなくきたのが奇跡のように思われた。
私はライナスによって木の上に降ろしてもらい足場を確保すると、猛るイノシシに向けて意識を集中させた。
ライナスはそのまま陽動のためイノシシの傍に飛んでいく。飛んでいく彼の背中には、いつの間にか黒い蝙蝠のような翼が生えていた。
聖なる力というやつは、力を使う量に比例して発動させるまでの時間が長くなっていく。
なので相手がこんな大物だったり土地そのものを浄化する際などには、こんな風に仲間に時間稼ぎをしてもらわなければならないのである。
でも、このところずっとライナスを含めた四人の仲間とパーティを組んで旅をしていたから、囮を彼一人に任せることに申し訳なさを覚えた。
ライナスは強いので別に彼一人でもこのイノシシを倒すことは可能なのだが、そうすると魔素はこの場に残り続けるのでしばらくすると別の動物に取りついて再びこの場所に魔物が生まれてしまうのである。
だから今は、どうしてもライナスに敵を引き付けて時間を稼いでもらう必要があった。
黒い翼をはばたかせ、ライナスは重力を無視してあちらこちらに飛ぶ。イノシシは彼に誘導されるまま、走っては木にぶつかったり岩にぶつかったりを繰り返していた。そのたびに地響きが轟き大地が震える。
私は木の上から落ちないよう必死に太い枝にしがみつきながら、自分の手のひらに意識を集中させた。じんわりと温かい光が、どんどん手のひらに集まってくる。
正直、この聖なる力の使い方は未だによく分かっていない。いつの間にか使えるようになっていた力で、ついでに言うとこの力を使えるものが代々の聖女しかいなかったので研究などもされていないからである。
なので私の使い方もあくまで自己流に過ぎないが、それでもこの二年間に積み上げてきた経験が、私を落ち着かせそして自信を与えていた。
「ライナス! 離れて!」
十分に力が溜まったと判断し、聖なる力にライナスが巻き込まれないよう声をかける。
すると黒い影が、まるでマタドールのようにイノシシの突進を躱し空に飛びあがった。私はこちらに向かってくるイノシシに向かって、溜め込んでいた力を放出する。
両手のひらから白い光が溢れ、一直線にイノシシへと直撃した。そのままイノシシが動かなくなるまで、力を放出し続ける。光を浴びた周囲の木々は元の姿に戻ったが、腐り落ちた地面の草が戻ることはなかった。
力を放出し終わると、ひどい疲労感が襲い掛かってくる。単体であったとはいえ、随分と力を蓄えていたのか厄介な相手だった。
「おい、大丈夫か?」
ふらつく私をライナスが支えてくれる。
二人になってから、どうにもライナスが過保護な気がする。
一緒に旅をしていた頃は、こんな風に心配されたことなんてなかったのに。
「大丈夫だって。魔王を倒したときに比べたらこれくらい……」
あの時は本当に大変で、倒した後はひと月近く寝床から動けなかった。全身が鞭打ちになったみたいに痛くて、仲間たちに心配をかけた。
あの時、このまま異世界で死ぬのかと思ったら悔しくてたまらなくなった。
だから私は、もう後悔しないように生きると決めたのだ。
「うん、決めた」
私の突然の言葉に、ライナスは驚いたようだった。
私を見つめる金の目が、驚きに見開かれているのが分かる。
綺麗な色だ。こんなに綺麗なら、人が魔族に惑わされるのも分かる気がする。
「私、この世界で青春を取り戻す」
「は?」
「恋をして恋をして恋をして、この世界に来てよかったって言ってみせる!」
「と、突然何を言い出すんだ。頭を打ったのか!?」
私の宣言にライナスは分かりやすく驚き、困惑し、その目が泳いでいた。
いつも無表情なライナスのそんな顔を見ることができて、なんだか得をしたような気持ちになった。