06 ばれた
おいしそうな匂いが鼻孔をくすぐる。
寝汗を拭いて着替えると、随分気分がよくなった。
先ほどの出来事はなかったことにして、私は匂いに誘われるまま部屋を出る。
土間になっている台所では、マーサが楽しそうに鍋をかき混ぜていた。どうやらそれが匂いの元らしい。
「もうすぐできるから待っててね~」
上機嫌に鍋の中身をかき回すマーサに、不意に罪悪感が湧いてくる。見ず知らずの人間を快く泊めてくれた恩人を、動揺していたとはいえ部屋から追い出してしまったのだから。
「すいません。色々お気遣いいただいて……さっきも……」
私が言葉を濁していると、マーサは何を言っているのか分からないとでも言いたげに目をぱちくりと瞬かせた。
「あらやだ気にしないで。こっちの方が謝らなくちゃならないのに。ごめんよぉ。久しぶりに父以外の人間と喋るもんだから楽しくて」
どうやらマーサは、この家に自分の父親と二人で暮らしているらしい。
こちらの世界は日本と違って平均寿命がそれほど長くないので、私の母親よりも年上に見えるマーサの父親が存命だというのは、この世界では珍しいことに思えた。
「あ……そういえば私ご挨拶もしてなくて」
そんな話をしていると、ちょうど扉が開いて奥からやせこけた老人がよろけながら歩いてきた。
「まあ父さん! 勝手にベッドから出ちゃだめじゃないか」
マーサが驚いたように老人に駆け寄る。
だが老人はそんなマーサを枯れ木のような腕で振り払うと、怒りの表情を浮かべて叫んだ。
「おい! 家ん中に知らねぇ人間を上げるなんて何考えてんだ! このぐずがっ」
そう言って、老人はあろうことか手にしていた杖でマーサを叩き始めた。
これには私も驚き、咄嗟にマーサを庇おうと駆け寄る。
だが気丈にもマーサは私を近づけないよう手で制すると、逞しい腕で杖を掴み老人の蛮行を押し留めた。だがその腕にはくっきりと、杖で打たれたらしい痣が残っていた。
「ねえ父さん。お客さんが獲物を狩ってきてくれたんだよ。お肉なんて久しぶりだろ? みんなで食べようじゃないか」
マーサは何事もなかった優しい声で問いかける。
だがそれが老人は面白くなかったのか、マーサの手を振り払い家の外に出て行ってしまった。
「あ……」
突然の出来事に唖然と立ち尽くしていた私は、我に返ると慌ててマーサに駆け寄った。
「大丈夫ですか!?」
顔に笑みを張り付けたまま、彼女はなかなか立ち上がろうとはしない。
私が腕の痣をよく見ようと彼女の服の袖をまくると、そこには治りかけの痣が何本も重なり癒える暇もないようだった。
こんな怪我を隠しながら、気丈に父親の世話をしているマーサ。
私は思わず、鼻がつんとして目頭が熱くなった。
「ごめんね。見苦しいところを見せちまった」
「そんなの気にしないでください! そのままじっとして、動かないで……」
私は決意を秘めて、彼女の腕に手をかざした。
日本からこちらの世界に来る時に手に入れた、悪を滅する聖なる力。人を癒し魔族を苦しめる、私が腐っても聖女と呼ばれるゆえんである。
本当は村でこの力を使うつもりはなかった。魔法が存在するこの世界の中でも、人の怪我や病をいやす聖なる力は異世界から召喚された聖女だけが持つものである。つまりここでマーサの傷を癒せば、彼女に私の正体がばれてしまうだろう。
しかしそれでも、私はその痛々しい痣を放っておくことができなかった。
「え……」
かざした手のひらから白い光が溢れ、マーサの体に浮かんだ痣をたちまち癒していく。しばらくしてすべての傷が癒えると、私はゆっくりと手を下ろした。
向き合うマーサの顔には、隠しようもない驚きと畏れのようなものが浮かんでいる。
「まさか……あんたは……」
彼女の反応は無理もない。
まだこの村に王の追手は来ていないが、魔王を倒すために聖女が召喚されたというのは国内では有名な話である。
そして彼女の顔にはありありと、どうして聖女がこんなところにという疑問が浮かんでいた。
その時、火にかけられたままのスープが煮立ってあふれ出し、炎に触れてじゅわじゅわと大きな音を立てた。