ポートベロー・ロードにある小さなレコード・ショップが、ロンドンの音楽史に多大な影響を与えて来た。Aaron Coultateがその類い稀な歴史を紐解く。
その数分後、店に到着したScholefieldは待っていた客の名前をひとりずつ聞き、全員が求めているものがちゃんと皆の手に渡るようにした。彼らが求めていたのは、それまでヴァイナル化されていなかったLoefahの伝説的な2曲を収録した、「Woman / Midnight」という12インチだ。Honest Jon’sで27年間働いてきたScholefieldに言わせると、この朝は「レコード販売員として経験する不思議なイベントのひとつ」であった。 この作品に対する関心の高さだけでなく、人々の求め方も彼を驚かせた。「Woman / Midnight」はウェブ上、電話、そして店舗にてどんどんと売れた。Scholefieldはオーストラリアやカナダといった場所からの注文も受付け、Honest Jon’sのサイト上の在庫は数分で売り切れた。
「とつぜん、レコードを買うのが当たり前の時代に突入した」とScholefieldが言う。「今もそんなに儲かってはいないが、レコードは沢山売れているし、家賃は払えている。10年前には、締め切りもなかったし、ただ店を開けて売れることを願っていた。今では、入荷して、どんどん売って、色々と手配してっていうプレッシャーがあるね。活気があるんだ」
Scholefieldと、彼の友人Mark Ainleyのふたりは、Honest Jon’sの創立者のJon Clare(現在では名前をJohnとスペルする)からオーナーを任された1992年以来、当店の運営を続けて来た。Scholefieldがブレインであり、この船の碇の役割を果たす。細身の、生き生きとした、文系の男だ。Ainleyはクリエイティブな面を担当している。彼はたいていのジャンルの主要な作品は保持しており、彼の知らないレゲエ、ジャズやレアグルーヴは、おそらく知るに値しないものだろう。“怖い人”として恐れられている面もある(彼を良く知るとある人は、彼のことを“冗談が通じない人”と言っていた)。ScholefieldとAinleyはおそらく、UKの指折り音楽学者の中に含まれるほどの知識の持ち主であろう。「私たちは良い組み合わせだと思う」とScholefieldは言う。「アイディアマンで、変化を恐れないやる気のある人も必要だし、日々の作業をちゃんとこなす人も、やはり必要だ」
Honest Jon’sの店舗は、市場として有名な278ポートベロー・ロードに位置し、色とりどりなアンティーク・ショップ、インディペンデント・ブティック、チェーン店、パブ、食品屋台が並ぶ道の、ラドブローク・グローヴ側の端っこに、ひっそりと佇んでいる。表には色褪せた赤い看板があり、店内は黄色と赤と緑に塗られた壁で囲まれている。棚にはテクノ、ブルース、ジャズ、ソウル、ディスコ、レゲエや、ワールド・ミュージックがレコードやCDで販売されている。2014年には40周年を迎えたが、アニバーサリー・パーティーなどは行われなかった。そういった店なのだ。
Honest Jon'sが最初にオープンしたときは、店舗は現在から200ヤードほど離れた76ゴルボーン・ロードにあった。初代オーナーのClareは1974年にゴルボーン・ロードのこの物件を友人のGeoff Francisから譲ってもらった。Francisは自身のレコード・ビジネスをベイカー・ストリートに移転したからだ。この建物にはもともと肉屋が入っており、その時代の面影がその時残っていた。レコードは大理石のカウンターで肉塊のように並べられ、壁には血痕、裏口にはミートフックがまだぶら下がっていた。
Honest Jon’sをオープンする前、Clareはロンドン大学で社会学を教え、犯罪学者としてギャングの行動パターンを研究していた。それ以前は、学校を卒業したあとジャマイカで暮らし、そこでスカバンドに入ってクラリネットを弾いていた過去も持っている。レコード店を新しくオープンした際、最初に彼がしたことは窓に大きく「レコード現金買取」と書いた看板を出したことであった。今度はラジオグラム(レコードプレイヤー付きラジオ)を購入し(「とても古臭い、ソファのように大きいラジオグラムだった」)、窓に設置し、その機械で店内に音楽を流した。そして自身が所有していたレコードを300枚ほど店内に並べた。ほぼジャズのレコードであり、多くがレア盤であった。
あらゆるお客さんが訪れた。たいていの人は貧乏であり、人種や文化背景も様々であったが、この地域のアフロ・カリビアンの人々にとくに人気の店になった。Clareが所有していたレアなジャズ・レコードはすぐに売れ、代わりに別のレコードが棚を埋めた。「ジャズ好きが来るようになった」と彼は言う。「1974年、ゴルボーン・ロードでは、音楽に詳しい年配のカリブ人やアフリカ人の男たちが沢山いたんだ。彼らに多くを学んだよ。テノール奏者の聞き分け方とか、歴史とかね。今度は若い人達が来るようになって、レゲエやスカを求められるようになった。私はそういう音楽はよく知らなくて、ジャズしか解らなかった。彼らはBig Youth、The Heptones、そういったものを求めたんだ」
70年代の西ロンドンは、音楽的にも政治的にも激動の時代であった。Notting Hill Carnivalが60年代半ばにこの地でスタートし、1958年にはこの場所で暴動が勃発した。複数の世帯が一戸に暮らすことも珍しくなく、悪名高いPeter Rachmanが運営するコルヴィル・テラスという、ロンドンの最悪のスラムが1マイル以内の距離にあった。
「人は何か逃避を必要としていたんだ」とClareは言う。「アルコールとドラッグ以外では、音楽があった。音楽はとてつもなく重要だった。人を救ったよ」
誰であっても歓迎される寛容的な雰囲気がこの店には最初からあった。「店の中は安全だ」とClareは言う。「黒人も白人も共存することができた」。1976年のNotting Hill Carnivalにてまた暴動が起きたとき、ここは窓が壊されなかったゴルボーン・ロードの数少ないお店のひとつであった。Clareは自分も含め、全員に同じ時給を支払った。現在振り返るとこれは世間知らずだったと彼は反省する。「馬鹿馬鹿しいアイディアだったね。人にナメられるんだ」。しかし、ビジネスは始めから良好であり、Clareは常にポケットに札束をいれることができていた。
Sex Pistolsのマネージャーであり、パンク・シーンの重要人物、Malcolm McLarenはこの頃の常連客であった(「彼は店の後ろのほうに立っては、あざ笑っていた。嫌な野郎さ」とClare)。McLarenは、当時Johnny Rottenとして知られていたSex Pistolsのシンガー、John Lydonを連れていた。彼は「素晴らしい音楽の好みの持ち主だ」とClareが言う。The ClashのJoe Strummerも常連であり、Clareは彼と親しくなった。「Joeは人懐っこい、優しい、繊細な人だった」。1978年の『Best Dressed Chicken In Town』というアルバムで知られるジャマイカ人DJのDr. Alimantadoもよく来ていた。ジャズ・ミュージシャンのCourtney Pineは9歳から常連になった。Declan MacManusが初めて小切手にElvis Costelloという名前を書いたのはこの店の中であったという。レゲエ・レジェンド、Horace AndyとAugustus PabloはClareと共に車のトランクでレコードを買ったり売ったりしていた。
もうひとりの特筆すべき客に、Honest Jon’sに10代から通い始めたLeroy Andersonがいる。Andersonはその後、海賊ラジオの走り、Dread Broadcasting Corporationを立ち上げることになる存在だ。彼は若い頃から警察のお世話によくなっていた青年であり、Clareに助けを求めた。「警察にまっとうな生活をしていることを証明できないと、彼は刑務所行きにされるところだった」とClareは言う。犯罪学を研究した彼は、こういったことに精通していた。「私はLeroyを清掃係のバイトとして雇ってあげ、裁判にも行ってあげた。彼はよく刑務所に戻っていたが、レゲエにはとても詳しくて、彼の妹がボブ・マーリーと結婚していた。だからこのジャンルについて彼に沢山教えてもらったんだ」
店を1年ほどひとりで運営したあと、Clareは友人のDave Rynerに一緒に運営しないかと誘った。その後は急激に店が成長した。まず、彼らは第二号店をカムデン・タウンのチョーク・ファーム・ロードにて、Compendium Booksのお向かいにオープンした。この特種な本屋はカムデンに道を挟んで二店舗あり、その片方が閉店したとき、Honest Jon’sがそちらに引っ越して来たのだ。
「Compendiumの向かい側に店が出せるチャンスが舞い込んで来たとき、すぐに飛びついたよ。彼らにも、私たちと同じカウンターカルチャーの精神を感じたからだ」とClareが言う。1975年のカムデン・タウンはまだ活気づく前であった(「何も無いただの砂漠だったよ」とClare)が、その後どんどんと盛り上がっていった。ロンドンでパンク・シーンが興隆し、カムデンはイケている街となったのだ。「カムデンにお金がどんどん入ってきたんだ。市場が急成長した。2年程で全てが花開いたんだ」
ClareとRynerは音楽に詳しい他の従業員を雇うことにし、その後The Wire誌を始めることとなるアヴァンギャルド・ジャズの専門家、Anthony Woodを引き入れた。他には、Steve Barrowという、今ではレゲエの歴史学者として知られる者もいた。The Desperate Bicycles、The Snot Gobblers、Ivor Biggun & The Red Nosed Burglarsといったパンク・バンドがカムデン・タウンの店に来ては、レコードを卸し、その晩プレイするパブをスタッフに教えていた。
ビジネスが良好だったClareとRynerは、1976年にオックスフォード・ストリートの市場にもう一店オープンした。この支店はNME誌のライターやその他のウエストエンドのライターがいらなくなったレビュー・レコードを売る場所として良く利用した。彼らはどんどんと専門知識のあるスタッフを増やし、ウエストコースト・アメリカン・サイケデリック、ガラージ・ロック、バブルガム・ミュージックに関しては歩く百科事典であった、海軍を出たばかりのKevin Allertonを入れた。Allertonはすぐにかけがえのないスタッフのひとりになった。「ああいった音楽はとても人気だったんだ」とClareは言う。「私は全く詳しくなかったからね」
1977年になると、コヴェント・ガーデンのモンマウス・ストリートのRay’s Jazzという厳格なジャズ・ショップのそばに、新店舗を開店した。「向こうはとても憤慨していたのを覚えているよ」とClareが言う。「“私たちの向かいに開店するなんて!Honest Jon’sなんてジョーク・ショップだ。ジャズとソウルとレゲエなんて売ってる。品のない” しかし私にとって、そうやって音楽をミックスすることが大事だった。それが私たちのやり方だった」。ClareとRynerはモンマウス・ストリートの店舗を1981年に3000ポンドで売り払った。
1979年、Honest Jon’sはゴルボーン・ロードから(この物件はのちにモスクになった)278ポートベロー・ロードに移転した。同年、チェルシーのキングス・ロードにもう一店舗オープンしたが、この店は12ヶ月ももたなかった。「この頃、ちょっと拡大しすぎていたんだ」とClareは認める。カムデン店は黒字であり、ポートベロー・ロード店はトントンであったが、その他の店舗は赤字であった。しかし彼らは諦めず、ソーホーのグリーク・ストリートにMaroon’s Tunesというレゲエ専門店を開いた。この店は数年しかもたなかった。同店舗を運営したふたり、ゴルボーン・ロード店で清掃をやっていたLeroyと、レゲエ専門家Rae CheddieについてClareは「良い人達だが、良い組み合わせではなかった。彼らは3時に店を開けて、4時には酔っぱらってるんだ」と言った。
1980年代初頭、イギリスは不景気に陥り、Honest Jon’sにも不景気の風が吹き荒れた。Clareは銀行員や弁護士への相談に割く時間が増えた。「スタッフの中に過激な左翼の人がいて、我慢するのが大変だったね」とClareが言った。
「店をオープンすればするほど赤字だった」とClareが明かす。「毎週、銀行の人から電話があって、“あのグリーク・ストリートの店は売り払いましたか?当座貸越がどうなってるか解ってますか?”と言われていた」
Clareは、Rynerをパートナーに選んだのが間違いだったと反省する。「Daveは私のようにカルチャーをミックスした店をやることに興味があったのだが、彼は帝国を築き上げようとしていた。意見の食い違いがあったんだ。だが私は自分の主張を通そうとしないで、我慢してしまった」。ClareとRynerはそのうち、それぞれ別の道を歩むことを決意。Clareがポートベロー・ロードの店舗をキープし、Rynerがカムデン・タウンの店舗を引きとり、Rhythm Recordsと改名した。それが1982年のことであり、Honest Jon’sは8年の間に7店舗を展開したことになる。「店をオープンすればそれだけ収益が増えるわけではないと、ようやく気づいたよ。シンプルがベストだ」
カムデン・タウン店のほうが売上が良かったが、ポートベロー・ロードのほうが「リアル」だと感じたため、その店に戻ったのだとClareは言う。「この街だと安全な気がするんだ」と彼が言う。「街の人々の人種、言葉、文化のミックスが好きだ。とても自然な場所だと思う。カムデン・タウンは作り上げられた場所だ。とつぜん、お洒落な街になったんだ」
278ポートベロー・ロードの店に全てを集約させる作業は、Clareの人生において大変な時期と重なった。彼は精神療法士の診察を週三回受けるようになり、Camden Arts Centreのライフ・ドローイング・クラスで芸術に触れた。「私は人生に失敗したと思ったんだ。ビジネスのせいで親友を失った」と彼は言う。「私が唯一得意なのは、絵を描くことだと思ったんだ。精神療法を通じて、私は他人を喜ばせるのではなく、本当にやりたいことだけをやるべきだと解ったんだ。それまで、私は利他主義で店をやっていたが、上手く行かなかった。だから本当に好きな音楽しか売らないことにしたんだ。大半のレコードは処分した。なぜなら、好きでもない音楽を売って何になる?」
Clareは赤字店舗のジャズ・レコードを全てポートベロー・ロード店に集めた。そしてR&B、ソウル、レゲエ、ブルース、アフリカンとラテン音楽のレコードも在庫を確保し、現在のHonest Jon’sのベースとなるラインナップを設定した。さらに、オックスフォード・ストリートの100 Clubにてレギュラーイベントを主催するようになり、Eddie "Lockjaw" Davis、Art Farmer、Slim Gaillardといった好きなミュージシャンを呼んだ。そして彼は、Ace Records傘下にBoplicityというレーベルを立ち上げ、Miles Davis、Dexter Gordon、John Coltraneといった巨匠たちのレコードをリイシューした。
この時期にもうひとつ、彼は重要な決断を下している。Clareは、直感的に良いと思った人しか雇わないことにしたのだ。「正しい決断だったよ。なぜなら、それ以来そこで働いてくれた人は全員素晴らしくて、忠実で良い従業員だった」と彼は言う。1988年、彼は店の下にあった土壁の貯蔵室をジャズ・ベースメントに改装し、Ronnie Scott’sでライブをやるために同市に来ていたBetty Carterがここでオープニング・ライブを行った。これには、先見の明が働いていた。80年代、ジャズはまたお洒落なジャンルとなり、ロンドンの若者はジャズ・ファンクやアシッド・ジャズに夢中になった。「ジャズはもう年老いたビートニクのための難解な音楽ではなかった」とClareが言う。「USのソウルや、アフリカ回帰のレゲエではなく、若いアフロ・カリビアンの人々はジャズを聴いて、ジャズを演奏していた。彼らはここのジャズの伝統を理解し、歴史の一部になろうとしていたのさ。彼らはイギリス人であり、どこにもいくつもりはないのだと、伝えようとしていた」
80年代にこのジャズ・ベースメントに通っていたサックス奏者Steve Edwardsは、この店の雰囲気はヘアサロンのような、人々が集まって話をする場であったと言う。「フュージョン、ラテンやジャズに興味を持ち出したころの私にとって、ここは最高な場所だった」と彼がいう。「多くのジャズ・ミュージシャンが来ていた。ギグのことや、パーティーだとかイベントについて知ることが出来た。Honest Jon’sに入ったら活気がもらえたんだ」
Honest Jon’sの1階はジャズであり、2階はその他の音楽が置かれていたが、Bob Brooksが運営するレゲエ専門店、Reggae ReviveがHonest Jon’sの裏に出来た。ScholefieldはReggae Reviveをこう説明する。「完全に独立した世界だった。ありえないレベルでレゲエの話ができるマニアばかり集まっていて、実際に見てみないと信じられない空間だった。ドアがついていて、人は中に集まって叫んで吠えて、Bobはレコードをかけては2秒後にとめて、皆を煽るんだ」
これまで以上に、Honest Jon'sは暗い現実から逃避する場所を人々に提供していた。1980年代のイギリスはストライキ、暴動、サッチャー夫人などが社会を揺るがし、1981年のブリクストン暴動では人種間の軋轢が露呈した。「国が欲に目がくらんでいた」とClareは言う。「しかし街中では人々が手を取り合っていたんだ」。Clareの後に続いた運営者も、この信念を受け継いだ。2008年に、AinleyはThe Independentのインタビューにてこう語っていた。「うちはただの店じゃなくて、概念なんだ。Honest Jon’sにはカウンターカルチャー、理想的思想があるんだ。もしただのビジネスだったらとっくに店を畳んでいただろうね」
Clareの雇用ポリシーにより、AinleyとScholefieldがスタッフとして入った。この時の従業員としては、他にLeftfieldのNeil Barnesと、レーベルWorld Circuitの運営や、Buena Vista Social Clubのアルバムを実現させた人であるNick Goldがいた。Ainleyは1986年にHonest Jon’sで働き始めた。彼は当時Big Flameという、左翼のアナーキスト組織のメンバーであり、レコードコレクターでもあり、Scholefieldに言わせると、「あまり目立たない所で面白いことを色々やっていた人」であった。その数年後、彼はScholefieldを推薦した。
バンクーバー生まれのScholefieldは、1968年に旅行でロンドンに訪れた際、「混乱するほど広い」ロンドンに惚れ、1980年代の半ばにイギリスに引っ越した。彼はアヴァンギャルドな演劇に関わるようになり、1980年の夏にエディンバラでAinleyと知り合った。ふたりはHugh MundellとBurning Spearのカセットを聞き、仲良くなったという。しばらくバンクーバーに戻ったあと、ScholefieldはUKに妻子を連れて移り、1988年の夏から、Honest Jon’sで金曜日だけ働き始めた。
当店に4年勤務したあと、ScholefieldはAinleyと共にHonest Jon’sのオーナーの座を任された。80年代の後半になると、Clareは別のことに夢中になっていたためだ。自身が受けた診察の経験と、Honest Jon’sでの接客の経験を元に、彼は精神療法を勉強するようになっていた。Clareがカウンターで人にアドバイスをするとき、白いコートを着るべきだ、というジョークが店内で流行ったが、Clareは真剣であった。サイコセラピストとしての訓練を始め、店をAinleyとScholefieldに任せた。
1992年8月のNotting Hill Carnivalのあと、ScholefieldとAinleyが火曜日の朝に店に出勤すると、サウンドシステムが屋根にめり込み、しっくいの破片が床にちらばり、レコードは埃まみれであった。「まるで爆発があったようだった」とScholefieldが言う。その光景は「とても象徴的だった」。その晩、ポートベロー・ロードのパブにて、ClareはScholefieldとAinleyに、18年続けたHonest Jon’sの仕事を辞めることを明かした。Clareの名前はそのまま建物のオーナーとして残され(現在もそうなっている)、AinleyとScholefieldに比較的低い家賃を請求することになった。1992年の10月に受け渡しが行われこととなり、AinleyとScholefieldはたった数ヶ月で全てのプランを立てなくては行けなくなった。Clareは自身の最終日までに売れるだけのレコードを売ったが、Ainleyは北米に渡り、レコードの買い付けを行った。
「色々な人から金を借りたよ」とScholefieldは思い出す。「姉妹3人に電話をした」。経済的に負担の大きい賭けであったが、ふたりは「思い描いている新しい店」を実現させることができることに興奮していたとScholefieldが言う。Ainleyは数週間の間に5、6回北米に渡り、毎回レコードで溢れ返ったスーツケースを引っ張って帰って来た。そして彼らは数千枚の「キラー」レコードを取り揃えることができた。そしてリニューアルのため1週間店を閉め、ペンキを塗り直し、天井を修復し、新しい照明を設置し、新しいレコードを棚に並べた。
1992年の10月31日にHonest Jon’sがリニューアル・オープンしたとき、床の赤いペンキはまだ完全に乾いていなかった。その日の朝、外は大雨であり、店のオープンを待ちわびる客が列をなしていた。その22年後にScholefieldが目の当たりにする光景と瓜二つだ。「開店の時間になってドアをオープンしたとき、私の靴が床にひっついていたのを覚えているよ」とScholefieldが言う。「お客さんは赤いペンキがついた靴で帰った」。その点を除くと、初日は大成功であり、未だにその日がScholefieldとAinleyにとって最も大きな売上を記録した日であった。
この日はHonest Jon’sの新しい章の幕開けだった。90年代初頭のロンドンは、レアグルーヴ人気が独占的だった。「面白いのは、名作とされる作品群は常に増えていて、“データベース”にはほぼ毎日新しい曲が追加されていた」とScholefieldが言う。「柔軟であり、なおかつ基盤がしっかりしていた。重要だったのは、シーンの全員が“ザ・チューン”と呼ぶ名曲を求めていたことだ。素晴らしく情熱的なリスナーが多かった。ウエスト・ロンドンのハウス・パーティーの人々、ウエスト・インディアンの親に生まれた人達、そして独学で知識や専門性を身につけたフリークやヘッズがいっぱいいるシーンだった」。AinleyとScholefieldは良く渡米し、地下倉庫やコレクターのプライベート・コレクションを掘り漁った。店のバックボーンは古い音楽であったが、新作も徐々に大きな要素となっていた。この進化を促したのは、ここ20年で最も重要なUKレーベルのひとつであるMo Waxを立ち上げた人物、James Lavelleである。
Lavelleは15歳のときから、オックスフォードからHonest Jon'sに通うようになった。「彼はHonest Jon’sで働きたがった」とScholefieldが言う。「店は騒がしく、ハードな環境だった。レコードが常に大きな音量でかかっていて、叫ばないと聞こえないぐらいだ」。Reggae Reviveの常連など、若いLavelleをいじめようとする人達がいた。「彼らは容赦しなかったね。しかしJamesは気にせず、堂々としていたよ」
Lavelleが働き始めたころは、ClareのHonest Jon’sでの仕事が終わりを迎えようとしている時期であった。当時、Clareは新人の面接でジャズの知識を試すクイズを出していた。「Sonny Crissが演奏する楽器とは?」「Jackie McLeanがBlue Noteと契約する前に在籍していたレーベルは?」Lavelleはその面接をこう振り返っている。「Jonの面接では、ジャズの知識と、自分の父親への気持ちを色々ときかれて、不思議だったよ」。セラピストの母を持つ彼はジャズ・クイズを勢いでごまかし、無事合格した。
Honest Jon’sに新作を入れるのは、単純だがとても重要な決断であった。Lavelleの影響で店にヒップホップ、ブレイクビーツ、トリップホップなどコンテンポラリーな音楽が入荷された。ヒップホップのレコードとHonest Jon’sで元々取り扱っていた音楽には明確な繋がりがあった。前者の多くが後者をサンプリングしており、多くのリスナーにとってヒップホップはソウルやファンク、ジャズへの入り口と化していたためだ。当時、USの人気曲をレコードで買うにはプロモ盤を手に入れるしかなく、Lavelleはアメリカとのパイプを持っていた。「プロモ・ヒップホップ盤なら俺たちの右に出る者はいなかった」とLavelleが言う。「当時、Diamond DやPete RockやA Tribe Called Questのレコードが欲しかったら、プロモをゲットするしかなかったからね」
Scholefieldは、当初Lavelleの取引のやり方に少々疑心を抱いていた。「彼は仕事をそっちのけで、どこかでせっせと何かのバンドのリーズのギグをブッキングしたりしているんだ」と彼は言う。「しかしMarkは私よりも理解があった。彼は“バカかお前は。うちが忙しくしているのは彼のおかげだとわからないのか?彼は電話でニューヨークだとかリーズだとかでコネを作ってるんだ。だから今週末は忙しいんだ。彼に掃除とかをさせていたらこうはなっていない”と言っていた。Jamesがここにいるおかげで、店は色々な面で活気づいていた」
新作を入荷することで、店にコンテンポラリーなDJカルチャーが取り入れられた。土曜日にはターンテーブルがセッティングされ、人の列は普段の4、5倍になった。「ポートベロー・ロードでの土曜日は、毎回盛り上がっていたね」とLavelleが言う。「当時、レコードをゲットするというのはステータスだった。もし12インチをゲットできなかったら、DJとしてその曲をプレイすることができなかったんだ。だから、店の中には熱狂的なエネルギーがあったんだ。店内でDJしていると、客が手を上げてレコードを欲しがるんだ。レコードを人に投げて渡すと、貰えなかった人が怒り出す」
「当時のDJカルチャーは、現在と完全に異なるものだったよ」とLavelle。「労働者階級が中心であり、ハードコアだった。白人側はフットボール文化とつながっており、黒人側はヤーディー(ジャマイカ系のギャング)やサウンドシステム系の人達だったね。今のように洗練された知的な文化ではなかった」。タフな雰囲気もあったが、この店には常に寛容的なムードが漂っていた。「社会主義者やアナーキスト、スピリチュアルな人などがごちゃ混ぜだ」とLavelleが言う。「美しくて、奇妙だったね。様々な性的志向、宗教、社会的や民族的背景を持った人達が入り混じっていた。MarkとAlanはとてつもなく知性のある人達だが、音楽は知的なものとしてではなく、純粋に聴いて楽しむものとして扱っていたんだ」
Lavelleはそのうち、レコードレーベルをやりたいという気持ちをAinleyに明かした。Lavelleの様々な才能を見抜いていたAinleyは1000ポンドを出資し、そのアイディアをサポートした。そしてふたりはニューヨークに飛び、Repercussionsと契約し、1992年にMo Waxのリリース第一弾として「Promise」を出した。Lavelleのレーベルは好調なスタートを切った。彼はMo Waxの事務所を構え、Honest Jon’sを去った。しかしこの店、特にAinleyの影響を彼は決して忘れない。「当時、彼にはとてもお世話になった」とLavelleが言う。「俺をサポートしてくれたんだ。Markが俺を信じて、1000ポンド渡してくれてなかったら、俺がやったこと全てが不可能だった」
こういう気持ちを抱いているのは、Lavelleだけではない。Ainleyのことを良く知る人の間では、Ainleyはとても尊敬されている。Scholefieldは彼のことを「偉大なことを可能にする人」と呼ぶ。「彼はJames Lavelleみたいな人を見て、誰よりも先に彼の将来を見極めることができるんだ」。目立つことをするのを嫌う彼は、今回の特集のための情報の提供や、オフレコでのサポートはしてくれたが、インタビューは断られてしまった。最後に私がHonest Jon’sに訪れたとき、数時間店内にいたが、Ainelyを見かけたのは1回のみであり、それもほんの数秒間のことだった。彼は地下室から出てきてScholefieldに何か言って、また消えてしまった。
コンテンポラリー・ミュージックを導入したものの、90年代の後半に多くのディストリビューターが倒産し、UK各地のレコード店がどんどんと閉店に追いやられていたとき、やはりHonest Jon’sも大打撃を喰らっていた。「とつぜん、それまでジャズCDなんかを買っていた常連さんたちが来なくなったんだ」とScholefieldが言う。「ほぼ一晩で、人々の行動パターンがガラっと代わる現象が起こったんだ」。1995年にAinleyとScholefieldは隣の物件を借り、ジャズ・ベースメントを閉めて、地下室を倉庫にした。ショップを拡大することでHonest Jon’sはジャズをより豊富に取り揃え、量が増える一方だったアフリカンやブラジリアン・ミュージックにちゃんとした販売スペースを確保ことができた。このプランは数年、上手くいったが、90年代後半になり売上が右肩下がりになると、追加物件で首を絞めてしまっている状態になった。更に、この物件が必要とする高級な改装に、長引いてしまった複雑な法的バトルがつきまとい、物事を悪化させていた。2005年には、10年の節目でこの物件を手放している。
この過酷な時期に彼らがとった生存手段のひとつは、同じ志をもつ店や小さな優良レーベルと良好な関係を築くことであった。90年代の後半にHonest Jon’sで仕事を始めたHoward Williamsは、「いつのまにかうちのワンマン卸売り業者になっていた」とScholefieldgが言う。WilliamsはNumero groupやMississippi RecordsといったUSの専門店とコネクションを作った。そうすることで、Honest Jon’sでは特定のレコードをロンドンの他店よりも早く、あるいはロンドンで唯一、入荷することが可能になった。競争が激化していたマーケットでこれは重要なセールスポイントとなった。
Mark ErnestusとMoritz Von Oswaldが運営する、伝説のベルリン・ダブ・テクノ・レーベル、Basic Channelがもうひとつの重要なコネクションとなった。それは、Ernestusのレコード・ショップ、Hard Waxとの深い関係に発展した。ダブ、レゲエ、ダンスホールがハウスやテクノと共に並べられているといった点など、2店のスピリットには近いものがあった。AinleyとErnestusは親しい友人になっただけでなく、共同プロジェクトもいくつか実現させており、2010年のコンピレーション『Shangaan Electro』を共に監修し、Dug OutとBasic Replayというふたつのレーベルを立ち上げた。
Honest Jon'sでは、ClareのBoplicityやLavelleのMo Waxなど、レコードレーベルが成長するのに最適な環境が整っていたため、2001年に彼ら自身がレーベルをスタートしたのもとても自然なことであった。きっかけは、Blurのリードシンガーとして人気を博し、GorillazやRocket Juice And The Moonといったサイド・プロジェクトの活動も行ってきたDamon Albarnであった。ポートベロー・ロードのそばに暮らすAlbarnは90年代前半からHonest Jon'sに通っていた常連。この店は彼の音楽的志向の形成に大きく影響を与えたと彼は言う。「店に行き出してからの数年は、店に入ってただ静かにしていたんだ」と彼は明かした。「いつも面白い音楽がかかっていたんだが、間違ったレコードを買ってしまうんじゃないかと心配で、実際にレコードを買う勇気がなかなか湧かなかった」
その数年後の90年代後半には、成長したAlbarnはAinleyとScholefieldと親しい仲を築くことができていた。「この頃、アフリカに行ったんだ」とAlbarnが言う。「Honest Jon’sでアフリカの素晴らしいレコードを聴いて育ったんだが、実際にそういったレコードで演奏していたミュージシャンと演奏することができた。すると今度はアルバムを出したいと思った。Honest Jon’sでレーベルを作って出すのは、とても自然な流れだと感じたんだ」。Scholefieldはその時のことをこう説明する。「 マリ共和国から帰って来たDamonがカセットをくれて、“作品を作っているんだ。一緒に出さないか?”と言った。私はMarkに電話をして、“面白い作品があるんだが、レーベルをやらないか?”って言った。それで始まったんだ」
この時の音源が、2002年にHonest Jon’s Recordsのリリース第一弾として発売したMali Musicの作品になった。アフリカでAlbarnが出会ったふたりのミュージシャン、Kokanko SataとAfel Bocoumはロンドンに訪れ、BarbicanでのMali Musicとレーベルのローンチパーティーに出演した。2008年にはHonest Jon'sが主催するChop Ups(宴を意味するナイジェリアのスラング)がBaribican、リヨンの円形劇場、そしてニューヨークのLincoln Centerで行われた。Albarnはレーベルの運営の細かい作業においてあまり関わっていないが、こういった大規模なイベントをオーガナイズする際には重要な役割を果たす。一番最近のChop Upsは、2011年にコーク、ダブリン、マルセイユそしてBarbicanにて開催され、Albarn率いるRocket Juice And The Moon、The Red Hot Chili PeppersのFlea、アフロビートのパイオニアTony Allen、シャンガーン・エレクトロのアーティストやTheo Parrishらが出演した。
Albarnが関わっていたため、EMIとのパートナーシップ契約も実現した。「この契約が、レーベルにとって大きな助け船となった」とScholefieldが説明する。「なぜなら、メジャーレーベルに毎月少しお金をもらうことができたからだ」。レコードはEMIが製造、配給を担当し、その売上をEMIが受け取った。EMIの投資のおかげでAlbarn、Scholefield、Ainleyの3人はナイジェリア、アルジェリア、トリニダードといった場所にいくことが可能になり、大半のインディペンデント・レーベルでは成し遂げられない幅広さとクオリティの作品をリリースし続けることができた。
この頃の旅を、人生の中でもベストな経験だったとScholefieldは言う。Mali Musicのアルバムを仕上げるため、Albarnとマリに行ったときのことを彼は今でも鮮明に覚えている。「アフリカには行ったことがなかった。北米とヨーロッパ以外は初めてだったんだ」と彼は言う。「マリに飛んで、夜に着いて、バスに乗って、バマコを通って…街の匂い、スパイス、煙、音、静けさ、道の人々。人々や動物の声だとか、コラを演奏する人々を聴いた。街は音楽で溢れていた。シェイクスピアの世界に飛び込んだような、夢にような体験だったよ」
もちろん、EMIとの契約は条件付きであった。「Damonみたいな人も関わっているわけだし、ビッグな契約だった」とScholefieldが言う。「マネージメントの面において色々と余計な条件がついていた。しかしEMIに打ち合わせにいって、すぐに、作品をスムースに出すための仕組みを用意してもらえた。それだけで私たちは満足だったね」
EMIとの契約はその6年後の2008年に終了した。その3年後、EMIが崩壊し、Universal Music Groupが残骸を拾った。「契約の更新に関する手紙がこなかったとき、会社はうちをサポートできるような経済状況じゃないことを悟った」とScholefield。「彼らはもっと大きな問題を抱えていた」。EMIの投資はHonest Jon’s Recordsを軌道に乗せる上で必要不可欠であったが、レーベルを導いてきたのはAinleyとScholefieldのふたりであった。Albarnは彼らの達成したことを誇らしげに語る。「この店が僕にしてくれたことを、このレーベルが多くの人にしてあげたと思うんだ」
AlbarnとScholefieldはふたりともHonest Jon’s Recordsにプロジェクトを持ち込むが、メインのA&Rの役割を果たすのがAinleyである。どういった作品がリリースされるかという点と、その作品がどのように発表されるか(ライナーノーツや背景などの情報の面と、アートワークなどのビジュアル面)という点において最終的な決断を下すのは彼なのだ。リスナーの興味を引き、より詳しく知りたがるように適度に情報を小出しにすることを、彼は得意とする。レーベルのローンチ以来、アートワークはWill Bankheadが担当してきた。とてつもない才能の持ち主でありながら、欠点といっても良いほどに謙虚なBankheadは、Honest Jon’sの重要なメンバーである(彼はMo Waxのメイン・ビジュアル・ディレクターのひとりでもあった)。Bankheadのおかげで、Honest Jon’s、そして彼のレーベルThe Trilogy Tapesが出す作品の多くは、最高峰のレコードスリーヴ・デザインを誇る。
ここ15年ほどで、Honest Jon’s Recordsは信じられないほど幅広いジャンルの作品をリリースしてきた。これまでKassem Mosse、Shackleton、Ricardo Villalobos、T++、Pepé Bradock、Actress、Morphosis、Carl Craigといったエレクトロニック・アーティストの作品を始め、Wareika Hill SoundsとLee "Scratch" Perryらのダブ/レゲエ作品、Moondogの作品集、シカゴの8ピース・バンドHypnotic Brass Ensembleのアルバム2枚(ストリート・ファンクな1枚と、伝説のPhilip Cohranとのコラボ作が1枚)、そしてLagosにて制作されたTony Allenのアルバムを出してきた。更に、Moritz Von Oswald Trio名義の全てのリリースはHonest Jon’sからであった上、The Good, The Bad & The QueenとRocket Juice And The Moonなど、Albarnのサイド・プロジェクトもこのレーベルであった。また、Honest Jon’sはシャンガーン・エレクトロを世界に紹介する役目を果たしており、同シーンのリーダー、Nozinjaはその後Warp Recordsに契約した。さらに、賑やかなトリニダードのソカ・ミュージックを始め、70年代のブリティッシュ・フォーク、コンゴとブロンクスからのアフロ・キューバン・ミュージック、西アフリカのブーガルーやカリプソ、アルジェリアの民族音楽、そして初期ブリティッシュ・ダンスホールといった音楽を集めたコンピレーションをリリースしてきた。Candi Statonが再評価されるきっかになったのもこのレーベルだ。2004年にこのUSソウル・アーティストの初期作品を集めたコンピを出したあと、LambchopのMark Neversがプロデュースしたニューアルバム『His Hands』を2006年にリリースした。そしてNeversを通じてHonest Jon’sに紹介されたウエスト・コーストのシンガー・ソングライター、Simone Whiteは、最近Kassem Mosseによるリミックスがリリースされ話題になっており、同レーベルに新たな色を添えている。
これに加え、Ainleyは最近ヘイズにあるEMIのアーカイヴに訪れて、世界に忘れられた大量の78rpmレコードを何時間もかけて掘り漁っており、その時発見された音楽が複数の面白いコンピレーションに姿を変えた。EMIの前身であったGramophone Companyは、海外マーケットにローカル・ミュージックを売り出そうと必死にレコードを作っていた。Ainleyの発掘のおかげで、同レーベルはイランやトルコの20世紀前半の音源や、1930年代、40年代、50年代の東アフリカの音楽、そして1920年代のバグダッドのラブソングを世に発表することができた。
しかしHonest Jon's Recordsのシリーズの中でも最も印象深いのが、『London Is The Place For Me』である。Ainleyとレコード収集家のRichard NoblettとDuncan Brookerがコンパイルするこのシリーズは、戦後にUKに移ってきた(主にカリブ海からの)移民たちの悦びと苦悩を捉えている。第一弾はトリニダードのカリプソに捧げられており、以降、クウェラ、ハイライフ、ジャズやレゲエを集めた作品がリリースされた。こういったアルバムはHonest Jon’sの真髄を体現していると言える。コンピレーションに収録された曲のいくつかが録音された場所であるDenis Prestonのスタジオはポートベロー・ロードに近いホーランド・パークにあり、戦後にロンドンに移って来た多くのアフロ・カリビアンの人達は西ロンドンに腰を落ち着けた。当時はそのエリアは安く、すでにボヘミアンなライフスタイルが一般的であったため、馴染んだのだ。
2015年現在、ポートベロー・ロードの近辺の物件は一部の大金持ちのみが手に入れることができる額に跳ね上がっており、街で暮らしていた多様な移民たちは追い出されてしまっている。しかしHonest Jon’sが立っている道の魅力は失われていない。「レコードレーベルを運営したり、ナイジェリアに行ったり、DamonとLincoln Centerでイベントをやったりっていうことは全て楽しいし、人生の良いスパイスになっているんだけど、Honest Jon’sがいまだにローカルな雰囲気のお店なのが素敵だと思うね」とScholefieldが言う。「ソーホーみたいな、スーツ姿の人達がランチのサンドイッチを持ってせわしなく走っているような場所ではないんだ。マーケットの日にはポートベロー・ロードも混むけど、月曜日から木曜日まではとても普通な街で、買い物袋を持った人が店内に来るような場所なんだ」
当店には今も有名人が通っている。小説家Martin Amisはジャズ・レコードを売り買いに良く来ており、 UKのテレビで知られるシェフ、Nigella Lawsonは数年前まで常連だった。しかし有名な人だけでなく沢山の一般客がこの店を特別な場所にしている。ポートベロー・ロードに住むオーバーコートの収集家、TonyはHonest Jon’sが最初にオープンした頃から通っている。そして一般開業医のDr. Johnは週に三回は訪れる。「彼にとってうちが健康保険なんだ」とScholefieldが言った。Ivanは何でも買うことで知られ、お洒落な車と赤ちゃんを連れてくるBikoも、何でも買う。StussyのMichaelは毎週金曜日にBromptonの自転車でやって来る。ナイジェリア人の博士課程の生徒はゴールドスミスから自転車で訪れては、論文のためにレコードを買って行く。“Real Ale Man”の異名を持つ、バードウォッチングが好きなワールド・ミュージック・マニアは、世界のありとあらゆるレコードを所有していそうなほどの収集家だ。あと、普段はいたって普通だが、ひとたびダブ・レコードがかかると、足をふんばり過激に身体を揺らし始める“Head Banger”もいる。
Scholefieldの家族も今ではHonest Jon’sに関わっており、Budgieという名義で音楽活動を行う彼の息子、Benは最近ロサンゼルスに引っ越すまで、店で働いていた。ジャズ・ベースメントと呼ばれていた地下室は、今ではHonest Jon’sの司令室のようになっている。自身のレーベルの在庫に加え、Berceuse Heroique、The Trilogy Tapes、Trunk、In Paradisum、日本のEM、Theo ParrishのWildheart Recordingsなど、ディストリビューションを行っているレーベルのレコードが地下室の低い天井に到達するほど山積みにされている。そういったレーベルに加え、Renair(「ムンバイやバグダッドなどの初期ユダヤ音楽を集めたコンピを出すんだ」)、Savannahphone(「友人のCraigがアフリカの宝石を掘り起こしているんだ」)、そして未だに『Best Dressed Chicken In Town』を持ち込むDr. Alimantadoが運営するKeymanなど、それほど知られていないレーベルのディストリビューションも担当している。
最初は仕方無くではあったものの、Honest Jon'sはデジタル通販もそのうち開始した。「ポートベロー・ロードの小さなレコード店にとって、2002年頃、インターネットが全ての悪の根源のような気がした」とScholefieldが言う。「しかし実際には、インターネットは世界に向けてお店をやることができる場所だ。店舗の売上を下げるようなことはないし、むしろよりお客さんが来てくれるきっかけになったんだ。オーストラリアからオンラインの注文が多いんだが、数年に一度ぐらいの頻度で実際に会いに来てくれるんだ」
2015年、Honest Jon’sに漂うのは楽観的かつ慎重なムードだ。DJ Sotofett、Tapes、Kassem MosseによるSimone Whiteのリミックスなどのリリースで、今年も良いスタートを切っており、Moritz Von Oswald Trioの新作も発売が予定されている。「最近の音楽業界は、バズやお金がこういった所に集まっている気がする」とScholefieldが言う。「新しく出て来る作品に対する高い関心とか、受け入れる寛容性とかがあって、小さなレーベルが面白い作品を出していて。今は私たちが牽引する時代だと思うね」
ClareはHonest Jon’sを去ったが、Honest Jon’sがClareの心を去ることはなかった。彼は20年間精神療法士として働いたあと、最近引退し、今では絵を描いて毎日を過ごしている。レコード店の運営業務を恋しく思うことはないが、ポートベロー・ロードに戻るたびに感傷深くなるそうだ。1992年に去って以来、店が夢に出て来なかった週は少ないと、彼は言う。「お客さんだとか、MarkやAlanが夢に出て来るんだ。あの世界にいることを夢にみてしまう。私は“Honest Jon(正直者のジョン)”として知られていたんだ。あの名前は私にとってとても大切なニックネームで、聞くとセンチメンタルになるんだ。道を歩いていると、“やあ、Jonだ”って言われるんだ。カリブ人女性は“Mr. Jon”と呼んでくれた。今でもたまに、道で老人と出会って、昔、若かった頃にレコードを買いに来てくれた人だ、と気づくことがある」
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