mRNAを医療に応用する研究は1990年、ハンガリーの生化学者Katalin Kariko博士によって始められた。
mRNAは私たちの身体を構成する約37兆個に及ぶ細胞の内部で、核内のDNAに記された遺伝情報(塩基配列)を自らに転写し、これを「リボソーム」と呼ばれる小器官に伝達する。ここで、その遺伝情報を基に(私たちの身体に必要な)各種タンパク質が作られる。
mRNAを実験室で人工的に合成し、これを人間の体内に入れてやれば、科学者が望んだ通りのタンパク質を細胞内(のリボソーム)で製造することができる。このタンパク質を一種の薬剤と考えれば、mRNA医療とは「私たちの細胞を医薬品の製造装置として利用する」試みと言うことができる。
ただ、理論的にはそうなるはずだが、当初の試みは予想外の免疫反応による強い炎症を引き起こすなど完全に失敗した。このためKariko博士は研究資金を得ることができず、自らハンガリーの食肉加工場に足を運んで、実験材料となる牛の脳を手に入れたという。
それでも彼女がmRNA医療を諦めなかった理由は、その潜在的な安全性にあるという。mRNA医療は一種の遺伝子治療に該当する。
2000年代初頭にフランス等で実施された初期の遺伝子治療は、「SCID(重度免疫不全症)」など病気の治療に必要なDNA断片を患者の細胞内に注入する方式だった。この方式では、外部から注入されたDNA断片が患者本人のDNAの意図せざる領域に挿入され、白血病など深刻な副作用を引き起こすことがあった。
これに対し(DNAではなく)mRNAを使う新たな遺伝子治療では、そのような副作用を起こすことは原理的にあり得ない。あとは先程の「予想外の免疫反応による炎症」等の問題を解決してやれば医療に応用できるはず、とKariko博士は考えた。
彼女は後に渡米してペンシルベニア大学の教授職を得ると、同大のDrew Weissman教授と共同で、その解決方法を編み出した。mRNAを構成するヌクレオチドに細工を加えることによって副作用を抑制するといった技術だ。
両教授は2005年以降、これらの技術を一連の論文として発表すると共に特許も取得した。