野狐消暇録

所感を記す

会社とうまくいかない社員がいたとき、どうしたら良いか

2年ぐらい、ある社員で悩んでいた。その人をAさんと呼ぶ事にする。

経緯

Aさんは社内SEの募集に応じて入社してきた。AさんはSIerでの開発経験はあったが、銀行系であり、Web開発の経験はなかった。マネジメントの経験はあった。
Aさんは、入社時点ではWeb開発スキルが不足していた。その事は会社も分かっており、また当人も知っていた。しかし、それは承知の上で、入社後にWeb開発を勉強してキャッチアップする予定で入社してきた。

この時点では、一応、お互いの認識が一致していたと思う。しかし、入社してみると、会社の考えとAさんの考えにかなり違いがある事が分かってきた。

会社の考え

Aさんが、自宅でWeb開発の本を読んだり、実際に勉強のために開発をしてみたりすると思っていた。自分のスキル不足で開発が遅れたら、その分残業して開発をするなどして、早く戦力になるべく、努力してくれると思っていた。

Aさんの考え

会社で働けばそれで良いと思っていた。それ以上の努力は不要であると思っていた。

この、両者の相違が悲劇の始まりであった。

僕はAさんの上司であった。Aさんは、自分が上記のように考えている事を、今思えば、なるべく外に出すまいとしていたようである。Aさんは話がうまく、上手に説明するので、自分もずっと分からなかった。しかしやる気はあるような事を言うのに、やるまいやるまいとするので、どうしようもない状態が続いた。結局、入社して2年ほどして、Aさんは辞めた。ずっと開発の仕事から逃げていたし、2年近く経った時点で、簡単なデバッグができず、唖然とした事を覚えている。

反省

仕事をちゃんと評価する

なるほど、上手に誤魔化そうとする人は世の中にいると思う。しかし、上司が誤魔化されてはいけない。誤魔化されないというと、相手の嘘を見破るという、難しい事をしなければならないかのように感じるが、この点は、警察を見習うと良いと思う。

警察は証拠を重視する。誰が何を言ったかではないのだ。容疑者の言う事を、全部真に受けていては、決して犯人を見つける事はできない。大事なのは証拠である。

成果物を見る。その人の仕事ぶりをみる。それは会社での証拠である。口が下手でも、きちんと働いていれば良し。口がうまくても、働いていなければダメなのである。

だから、まず仕事をちゃんと見て、仕事ぶりを元に、評価する事ができなければならない。

会社とAさんとの認識の違いについて、ちゃんと話し合う。

そもそも、お互いの認識が違った時点で、面談を実施し、話し合いをしなければならない。もし、Aさんが家でも勉強せず、会社でも、自分の仕事の状況に関わらず、定時で上がりたい、振られなければ仕事に手を挙げる事はしない、と決めているならば、それは会社の期待と違うし、入社時の、会社側が理解した約束とも違う。

もちろん、Aさんとしては、「自分はちゃんとやっている」というAさんとしての主張がある事だろう。それはそれでもちろんいいと思う。

ただ、会社とAさんの認識にはギャップがあるので、このギャップが問題であると思う。

自分が会社側に立った場合、次のように話し合いを進めると良いのではないかと思う。

1. 会社は開発スキルが上がる前提で採用したのであり、現在よりもスキルが向上しないと分かっていれば、そもそも採用していない。もし、Aさんが今の程度の努力しかしないという事であれば、今後、開発スキルの向上は見込めない。会社はポテンシャルを見て採用しているので、もし、このまま、今のままで働きたいという事をAさんが希望しているという事であれば、会社としては、将来のAさんの仕事ではなく、現在のAさんの仕事に対して、直接評価を下さざるを得ない。それで良いか?

■ それで良いという回答のとき

会社としては、将来開発スキルが身に就く見込みでオファーを出しているので、この点についても、もう一度見直したいし、見直しの中で、Aさんを雇うべきかどうかについても、もう一度白紙から検討したい。

もちろん、Aさんも、この仕事が続く見通しで行動している部分があるかもしれない。引っ越したかもしれないし、ローンを組んだかもしれない。それはAさんの側で、会社が採用した以上、ある程度雇用が続く見込みと考える事も理解できる。

そのため、辞めてもらいたいという事になったとしても、退職までの期間をどうするか、辞めるにあたり、会社がいくらか払うか、払わないかといった部分についても、話し合いたい。もしAさんが退職する話になったら、次の仕事を探すときの面接などの都合も、会社はなるべくAさんの就職活動ができるように協力したい。

スキルアップをもっとしたいという回答だったとき

会社の側の認識に合わせて行動してくれるという事なので、問題はない。

このまま、仕事ぶりを見るようにしながら、働いてもらえばよい。言っている事と実際の行動が違ったら、そのときは、その都度面談するようにし、また上記の話し合いを繰り返せばよい。

 

僕がこの件で今思っている事は、Aさんを育てるために一生懸命やってしまったが、そんな事は必要なかったという事である。Aさんは次の仕事を見つけて辞めていったが、もうWeb開発はしないようである。何のことはない、向いていない人だったのだ。向いていない人を、Webエンジニアに育てようとして、僕は奮闘していたのである。

なんたる徒労か。

確かに、「騙された。本人がやるみたいな事を云うから、そうなんだと思って教えてしまった」という話はある。だが、そもそもだが騙されてはいけないのである。そして、真相が分かれば、さっさと話し合って、本人も「間違えた」と思ってスッと辞めたかもしれないのである。僕が奮闘したせいで、Aさんと会社の双方にいらぬ期待を持たせた可能性があると思う。決裂すべき雇用契約を引き延ばしてしまったのだ。

まとめ

  • 仕事をしっかり評価する。口先の受け答えに誤魔化されてはいけない。
  • 会社の期待と社員の仕事のギャップは話し合いで早期に解決する。

井伏鱒二の文芸への共感と反発

井伏鱒二の世界が好きで、学生の頃はよく読んでいた。

山椒魚」や「寒山拾得」、『厄除け詩集』などだ。

しかし、働き始めてからあまり読まなくなった。のみならず、井伏鱒二の世界が嫌いになってしまった。理由は自分でもはっきりしなかったが、多分、主人公が働き者でないのが嫌だったのだと思う。自分が学生のときは、主人公が呑気に暮らしていても、一向に気にならなかった。しかし、自分が働き始めると、原稿を書くのを先延ばしにして釣りに行ったりするような呑気さに、読んでいていらいらするようになってしまったようなのである。

さて、先日「荻窪風土記」という井伏鱒二の作品を読んだ。井伏鱒二は随筆も含め、結構読んだと思うが、この作品は読んだ事がなかった。荻窪井伏鱒二が50年位住んでいたそうで、折々の町の様子や都市開発による町の変遷を描いている。

美人通りに何々商店があり、その隣は風呂屋で、といった具合に、本当にローカルな話がずっと載っている。こんなに話が細かいと、歴史の勉強と思って読むわけにいかない。でも、読み終わる頃には井伏鱒二の気持ちに読んでいるこちらの気持ちが共鳴してきて、井伏の「あの通りは昔こうだったんだ」という昔話を拝聴している気持ちになった。現在の様子を全然知らないのに「へぇ、あそこは昔そうだったのか」と何か、興味深い話を聞いている気持ちになっていた。

さて、最近自分は境遇の変化により、多少懐に余裕がある。多分それで、勤労者的でない、井伏鱒二の閑人的な文学世界に、多少共感しうる心境になったと思われる。

要は、井伏の一見するところのだらしない世界に、いらいらしにくくなったのである。

しかし、やっぱり読んでいて多少の反発を感じる。なんというか、無責任な感じを受けるのである。

僕が井伏鱒二の文学への自分の反発について考えているとき、ふと会社を辞める事になった同僚の事を思い出した。彼は仕事をする能力には全く欠けていないのに、職務に無責任であったために、会社から嫌がられていた。そして最近、退職する事になったのだが、しかし彼の側にも言い分はあった。その言い分を聞くと、彼は自分が無責任である事を自覚していないのであった。

どうも、井伏鱒二の感じと似ているのである。

そもそも、創作的な仕事というのは、いわゆる職人的な仕事と違い、仕事の見通しが立てづらいであろう事は想像できる。しかし、仕事を捨てて釣りに行くのは、やっぱり無責任な気がする。もし、見通しが立たないなら、その旨、話を通すぐらいしないと、原稿を依頼した相手に悪いではないか。別に時間に余裕があってでかけるなら分かるが、そういう風には読みづらいのである。

何かそういう、風狂なエピソードを読んで、面白いと思わなくなってしまった。むしろ、「それでいいのか」と思う側に自分が立つようになってしまったのだと思う。

モラトリアムという言葉がある。やるべきことを先においておいて、今は自由にするというような意味だったと思う。学生時代をモラトリアムと呼んだりもする。

そういう、モラトリアムの時期に旅行に行くような自由というのを、面白く感じるかどうか。試験勉強をほおって釣りに行く。そういう面白さかもしれない。

井伏鱒二の文芸への感想が、学生時代と社会人で違うのは、僕が変わったからだと思う。

井伏の世界に共感した心境のままでは、僕はきっと仕事ができるようになれなかったのだと思う。やるべきことを先延ばしにするようなあり方では、仕事に上達することは難しいからである。

だから、僕の成長過程として、井伏鱒二の文学から離れる事が必要だったのであると思う。

今後、自分は井伏鱒二の作品をもう少し読みたいと思っているが、彼の作品を読むことによって、作品の影響を受けて、僕が怠け者になる、という事はおそらくないだろう。

僕は今でも井伏鱒二の作品は好きだが、共感しきれないところがあるのは、上述の理由による。もっとも、彼が勤労を尊ぶような作品を書いたら、日本文学に残る作品になったかは怪しいし、僕が読んでいたかも怪しいとは思う。

針を抜く

去年の健康診断を覚えていた。採血の針を抜くとき、耕運機のエンジンをかける取っ手を引くように、看護師の女性に盛大に引き抜かれたのだ。

痛かった。

今年も健康診断の日がやってきて、同じ診療所で診断を受けた。

採血のとき、針を抜く直前で言った。

「そっと......」

「はい、そっと抜きますね」

看護師さんは優しく抜いてくれ、痛くなかった。

 針を抜くとき、元気よく抜いてはならない。まして、耕運機のエンジンをかけてはならない。

「銀河鉄道の夜」再読 - 命を懸けた自己犠牲

昔読んだときは、宮澤賢治の詩の世界に関心があったので、銀河鉄道の夜の持つイメージの豊かさが関心の中心にあった。

今回、改めて読んでみて、作品のテーマとして、「命を懸けた自己犠牲」という事があるんじゃないかと思った。

例えば、サソリの挿話。色々な生き物の命を取って生きてきたサソリが、自分が食べられそうになって必死で逃げる。逃げるけれども、水に落ちて死にそうになる。そのとき、サソリは「どうせ死ぬのなら、食べられてあげれば良かった。そうすれば、食べた方は一日生きられただろう」と考える。

また、難破船の挿話でも、こういう話が語られる。子供を預かっている家庭教師の青年が、船が難破して外に投げ出されたとき、自分の預かっている子供を助けようとして、救命ボートに子供を上げようとする。しかし、他の子供がたくさん乗ろうとしているのを見ると、どうしてもその人達を押し退けてまで、自分の預かっている子供を乗せてやろうという気になれない。

そして、作品そのものの話。最後、いじめっ子のザネリの命を助けるために川に飛び込んだカンパネルラは死んでしまう。

この話は、色々な形で、自分の命を捨てて他者を助ける話を書いている。それは、この作品の、少なくとも大きなテーマのひとつと言っていいだろう。

主人公のジョバンニは作品の最後、お父さんが帰ってくる事を知る。いじめの原因だった父の不在が解決され、いじめも無くなりそうな流れになる。ジョバンニの疎外は解消され、彼は自分が社会の一部に帰って行けそうになる。しかし、カンパネルラはいない。「一緒にほんとうのさいわいを探して歩いていく」はずだった一番の友人がいないのだ。

この作品は自己犠牲の尊さをどこまでも描きながら、犠牲になった人を喪失してしまった友人を描いて終わる。自己犠牲は誰かを助けながら、自己を犠牲にするというまさにそのことによって、一つの不幸を生んでしまう。この作品は終局において、自己犠牲の矛盾に辿り着いている。矛盾にまで辿り着いた作品は、自己犠牲というテーマを最後まで描いた事になり、この作品はそこで完成したのだと思う。

銀河鉄道を離れて、自己犠牲に就いて

この小説、乃至童話を読み、自己犠牲について考えてしまった。本を読み終わったときから、自分はあまり自己犠牲に共感しきれないところがあった。死ななくてもいいではないか、死なないやり方があるだろう。そういう気持ちであった。儒教の方で、体を大切にする事は孝行の始めであるという教えがあるそうだ。自分は必ずしも儒教を信奉するものではないが、やはり自己犠牲はなるべく避けるべきで、自分も助かり、周りも助かるというのが望ましいと思う。実際、人と自分の利益がぶつかるという事は、日常生活ではそれほどない。料理を作って自分が食べ、人にも振る舞うというような、みんなが助かる仕事は多いと思う。これは決して「銀河鉄道の夜」の文学作品としての価値を毀損するものではなく、単に思想と考えるのであるが、自己犠牲というのは本来はあってはならないと思う。人を助けるような人間が死ぬのはよろしくない。誰が死んでもいけないのであるが、立派な人間が亡くなるのは特に惜しく感じる。そんなわけで、カンパネルラも、実は生きていたという展開を期待したい。それでは作品にならないのは知っているが、どうしても、そうであって欲しいと願っている。

ひとりベーシック・インカム

ガイスタンディング著『ベーシックインカムへの道』 を読んで色々考えていた。

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元々ベーシックインカムには興味があったのだが、この本を読んで更にベーシックインカムは良いなと思っていた。それで最近、自分の生活もベーシックインカムにしたいと思った。

ベーシックインカムは、生活に最低限必要な額を全ての住民に定期的に審査なしで給付するというものである。これにより、生活に一定の見込みが立つようになり、生活上の不安からある程度解放される。また、実際の生活上でも多少安定が見込めるようになる。

これは、収入が人生のステージで、またその人の境遇によって大きく違う一方、生活に必要な支出は少額ながら常に一定額存在するという、収入と支出の性質の違いを埋める制度である。

この制度は非常に賢い。なぜなら、必要なお金が何かという判断をお金の使用者に委ねている。周りの人間が「当人が欲しがっているもの」を当てるのは難しい。これはプレゼントが本人の要求を満たすというより、贈った側の表現のためにあることと似ている。お金を給付する側が受給者の使い道や誰に受給するかを選ぶ事はお金の効果を目減りさせる。

お金の使い道は当人に決めされた方が、最大化されるのである。つまり、金銭的な意味で効率が良い。更に、少額、おそらく日本であれば、5万円程度を毎月支給するというのが最終的な完成形になるのではないかと思うが、毎月5万円だけ持っていて、贅沢に暮らせる人はいない。つまり、5万円はかならず生活費で消えていく。そういう意味で、行政が直接使い道に介入しない制度であるにも関わらず、いわゆる無駄遣いという事がない。もしあったとしても、せいぜい5万円であろう。次の月には次の5万円が来る。このとき、また無駄に使うとは考えづらい。やっぱり生活費が主になるであろう。

このような制度は賢いなと思って感心していた。この本、『ベーシックインカムへの道』に書いてあったアンケートで、どのようなお金の配り方が良いか人に聞いたところ、ベースラインとなる額を配り、それ以上の収入は各人に任すという案がトップだったという。そうかなるほどと思っていたが、今日、これは自分の人生でもそうだなと思い当たった。

全くお金がないのは困る。つまり貧乏は困るのであるが、かといって、ある程度以上のお金が欲しいかというと、特に欲しくはない。つまり、僕はお金をたくさん稼ぎたいのではなく、貧乏が嫌で働いているのである。しかし、今稼いでいる額はぎりぎりの生活費よりは多い。しかしこのお金も、贅沢のために使いたいかどうか。もちろん、それもあっていいはずだが、これをベーシックインカム風に使うといいのではないかと思い当たった。つまり、最低限必要なお金はもちろん使うとして、それ以上のお金は、将来歳を取って働けなくなった時のために貯金しておくのだ。つまり、すべてのお金を生活費だと思って、生活費以上のお金があるときも、そちらに回すようにし、自分の生活レベルを上げないようにする。別に、お金があるのに、風呂無しアパートにわざわざ住もうという話ではない。ただ、贅沢をしないで、常にベースの生活が保てるようにお金を使い、またお金を稼ごうと思う。

そういう風に決めてしまえば、自由になれると思う。

なぜなら、僕のお金は生活費なのだから、それ以上の事を考える必要はない。それ以外は、自分の夢に時間を使えば良いのだ。

契約上の義務を履行できない社員の問題

問題のある人物

ある人物(A氏と呼ぶ)としばらく働いた事があるのだが、A氏には以下の問題があった。

  • 頼んだ仕事をしてくれない。
  • 頼んだ仕事をしていない事に対して、罪悪感がない。

A氏を採用した上司は次の問題に困っていた。

  • 採用時点でスキルが足りなかったため、「大丈夫か?」と確認したところ、「一生懸命やって追い付くから大丈夫だ」と言ったので採用した。しかし一向に勉強せず、スキルも追い付いてこない。

A氏と親しくなり、色々と話すと、こんな事があったらしい。

  • 公共料金の支払いが遅れたことがある。
  • クレジットカードを止められたことがある。

また、こんな事もあった。あるシステムが問題を起こし、止まってしまった。A氏は上司である僕に報告するところまではしたのだが、その後は何もしないで上司を待っていた。可能な限り調査したり、どうしたらいいか考えるものだが、そういう事をしていなかった。その時は「なぜシステムログを調査しないのか」などと言ったのだが、恬然としており、システムが止まっているのにそれを何とかしようと真剣に焦っている様子がない。

これ以外にも様々な事が重なり、「なぜこの人はちゃんとやってくれないのか」という事がずっと問題になっていた。

まとめるとこうなる。

  • 当事者意識がない。
  • 責任感がない。
  • 自分に問題がある事を理解していない。

僕は色々と考えた挙句、彼の問題の根源は以下であると結論するに至った。

契約上の義務を履行する事が苦手

クレジットカードの料金を払うのも、雇用契約に従って労務を提供するのも、契約上の義務である。人にもよるだろうが、うっかり忘れた場合を除いて、料金の支払いを遅滞した事がない人は多いだろう。彼はそういう生真面目な人物ではない。どちらかというと、本当に問題になるまでほっておくのである。

仕事に就く際に「がんばります」と言って、実際には頑張らないというのも、彼からすればいつもの生活であり、それを悪いとも思っていない。普通はやるべきことをやっていないということになれば、多少の後ろめたさはあるものだ。しかし、義務の観念そのものが薄いから、申し訳ないとか、悪い事をしたとも思わないのではないか。

つまり、彼はこの問題で責められているとき、「罪悪感を感じる」のではなく「災難である」と考えるのではないかと思う。自分の義務とは関わりのない事で問題が起きたとき、人は「悪い事をした」と思わず、「災難に遭った」と思うものだからである。

A氏は現代社会を生きられるのか

現在の社会は経済活動が社会のすみずみにまで行き渡っており、そういう意味で取引の連続でいえる。買い物、家賃の支払い、就職など、すべて取引であり、大きな取引は契約と呼ばれ、契約書が交わされる。

そういう取引に満ちた社会の中で、契約を履行できないA氏は暮らせるのだろうか。

これは当初解決策として実行された社員教育で解決できない問題である。社会人1年目ならまだしも、A氏はもう10年選手なのだ。A氏の抱える問題は、A氏の社会生活に危機を招くものである。この問題の解決は、一般的な社員教育で図れるものではない。1企業でどうするというより、おそらく社会全体で、A氏の社会生活上の困難を支える事になるのではないかと思う。つまり、社員教育ではなく、社会福祉行政の中で、解決を図るべきではないか。

会社はどうしたら良いか

A氏が正社員である以上、雇用契約に従って精勤するように求めるのが第一である。

しかし、どうしても責任をもって仕事をできないということであれば、しっかりした面談を複数回行い、A氏の今後について、お互い腹を割って話し合うべきであろう。

A氏は「約束を守らない」という点を除けば、能力的に劣っているわけではない。普通に勤務する能力があるのだが、ただ責任感が非常に薄いために、勤務に支障をきたしている状態である。

自分の意見では、会社が一方的にA氏を解雇すべきでないと思う。法的にできるできないの話もあるが、それより自分が思うのは、A氏が毎日会社で働いている事実である。A氏に責任感はない。しかし、単に仕事に責任を持たないだけで「何もせず席に座っている」訳ではないのだから、ある程度は雇用契約を守っているのであり、この点を見落とすべきではない。

しかし、会社が困っているのも事実であって、A氏にも非はあると自分は思う。A氏に責任感がない以上、会社はA氏に仕事を任せる事がずっとできない。現にA氏は入社1年半を過ぎ、他の従業員ならそろそろ仕事を任せたい時期だが、ずっと部下のポジションにいる。それは責任者のポジションがないからではなく、A氏には仕事を任せられないから、そうなっているのである。

こういう状況であるから、まずは両者が話し合い、その中で、落としどころを探るべきだ。その結果、A氏が他の部署に異動になったり、会社を辞めたりする可能性はある。しかし、そういう変化をネガティブに捉えるべきではないと自分は思う。

これは事実上、雇用契約を見直す事である。A氏に責任感がない事が明らかになったうえで、会社がA氏と雇用契約を結びたいか、A氏側に立てば、自分を評価しない会社で働きたいか、両者が話し合って決める事である。

話し合いの結果は、実際やってみないと分からないが、A氏がたとえ今の会社を辞めたとしても、A氏は社会の一員なのだから、なんらかの形で、世の中が面倒をみるしかない。何か、A氏にちょうど良い仕事が見つかるのが、一番の解決だと自分は思う。責任感がなくてもできる仕事がないだろうか。それでひとまず暮らせるような。