「魔神は瓶に戻せない」D・グレーバー、コロナ禍を語る/片岡大右

「魔神は瓶に戻せない」──デヴィッド・グレーバー、コロナ禍を語る

 

 

「ほんとうに自由な社会」へ

 デヴィッド・グレーバーは新型コロナ危機について、何を語っているのか?
 本稿執筆現在、メディアを通してなされた最新の発言は、フランス発の動画ニュースサイト「ブリュット」の米国版に掲載されたインタヴューだ(2020年4月29日)。「Brut Japan」が翻訳字幕を付けて公開しているので、日本語世界のわたしたちはそれを見ることができる。

 

 わたしたちは、これらすべてが終わったのち、それは夢に過ぎなかったのだと考えるよう促されることでしょう。実に奇妙な出来事だったが、それは現実とは何の関係もない、今や目を覚まして、通常に回帰すべき時だ、というわけです。しかしほんとうはそうではない。通常こそが夢だったのです。今起こっているこのことこそが現実だった。これこそが現実です。わたしたちは、わたしたちをほんとうにケアしているのはどんな人びとなのかに気づいた。ヒトとしてのわたしたちは壊れやすい生物学的存在にすぎず、互いをケアしなければ死んでしまうということに気づいたのです。

 

 上記(筆者訳)で夢に過ぎなかったと人類学者が述べているこれまでの「通常」とは、『ブルシット・ジョブ』(原著2018年、日本語訳は岩波書店より2020年7月刊行予定)で執拗に記述される奇妙な現実だ。
 実入りのよいホワイトカラーであるほどその仕事には社会的意義がなく、そのことに自覚的な少なからずが「内心必要がないと思っている作業に時間を費やし、道徳的、精神的な傷を負っている」一方、「日々行われるケアによって社会を可能にしている人びと」は、医師のような例外を除き、不安定な低処遇を強いられがちであるという現実。
 グレーバーは新型コロナ危機を、何よりそうした「通常」の異常さが露呈する契機として捉え、彼が「ケア階級(caring class)」と名付ける人びとに正当な地位を回復させて新たな社会的現実を生み出すべきことを説く。

 ラディカルな刷新の展望は、ラディカルな思索者の存在を必要とする。こうして求められていることへの確信を、グレーバーは別の場所ではっきりと表明している。ドイツのラジオ局バイエルン放送」の文化番組が行ったインタヴュー(4月8日)の冒頭を引こう。

 

──デヴィッド・グレーバーさん、人びとは今、ホームオフィスで仕事をしています。一部には、無条件のベーシックインカムの実現可能性を思いめぐらせるひとさえいる。アナキストにとってはよい時代でしょうか?

 

デヴィッド・グレーバー ともあれ、多面的にものを考える人間にとってはよい時代ですね。だって、エリートたちや指導者層は今、一種のジレンマの前に立たされているのですから。彼らはこの40年というもの、わたしたちにはもはや新しくラディカルな発想など必要ないのだと人びとを説得することしかしてこなかった。もちろんそんな考えは間違っていたわけですが、ひっきりなしにこうしたことが主張されてきたのです。
 さて今、そうした人びとは突如として、選択の余地のない状態に置かれてしまった。物事をラディカルに変えなければならない。それなのに、どうすれば変えられるのか、やり方を忘れてしまっている。だからアイディアを持った人間が求められているのです。

 

 急いで付け加えておくなら、グレーバーはここで、ある種の特権的な知識人(例えば彼自身のような?)の必要性を強調しているのではない。市井の活動家であれ、さらには黄色いベストの参加者のようにこれまで運動の世界とは距離を置いてきた「普通の」人びとであれ、変化を求め新しい発想を生み出していく人間について、彼は語っているのだと思う。
 ともあれこうして、「Brut America」のインタヴューにおけるのと同じ夢と現実の比喩を用いて、ここでのグレーバーは金融資本主義の転覆を提案する。

 

──コロナはシステム・チェンジャーとなることができますか?

 

デヴィッド・グレーバー そうならなくては。ここではロックダウンのことばかりでなく、経済的帰結のことも考えているのですが。いずれにせよ、コロナ危機は、わたしたちの社会がこれまでかたちづくってきたあれこれの幻想の維持を、きわめて困難にしています。

 もちろん一部の人びとは、わたしたちは悪い夢から醒めたばかりだと、そして通常の生活に戻っていくのだと、そんな風に振る舞おうと務めるでしょう。しかし大部分の人びとは今や気づいています。わたしたちの通常の生活こそが実は夢にすぎないのだと。わたしたちは単に、自分たちが仕事をしているかのように振る舞っているにすぎないのだと。わたしたちは単に、巨大金融機関の存在には何かしかるべき理由があるのだと信じているかのように振る舞っているにすぎないのだと。

 しかしそうした機関の存在理由とはいったい何でしょう、ただ自らの存在を維持することのほか、何もないのではありませんか? 例えば、ウォール街。閉鎖すべきかどうかの議論がなされています。そこではずっと、すべてがクラッシュしてきたのですから。

 わたしは今、ほんとうに素敵なことだと思っているのですが、ロックダウンをするなら経済的損失が引き起こされることになるという発想を、誰も当然だと思っていない。そうであるなら、どうしていまだにウォール街が存在しているのでしょう? 巨大金融機関は失敗したのです。今となってはもう、魔神を瓶に戻すことなどできません。

 

 これまで揺るがしがたい現実とみなされてきたものが壮大な虚構にすぎなかったという事実は、すでに周知されてしまった。もはや人びとを、オルタナティヴの不在というかつての固定観念へと再度押し込めるなどできはしない、というわけだ。
 確認しておくなら、ここにあるのは反経済の主張ではない。重要なのは「経済の基本原則」を改め、「わたしたちがそれぞれの必要を満たせるように、互いをケアすること」という新たな原則から出発して、わたしたちの経済社会をつくりなおすことだとグレーバーは言う。

 

 わたしたちは経済を、まるでわたしたちには帰属しないものであるかのように扱っています。経済を救うためには人間が死んでもOK、などと言うひとさえいる。命と経済を分けて扱うことなどできないということが、どうしてわからないのでしょう? ほんとうに自由な社会では、こうした考えの誤りが正されなければなりません。

 

 「経済とは何かというと、わたしたちが互いをケアするための方法、わたしたちが互いの生存を支えていくための方法にほかなりません」──最初に見た「Brut America」のインタヴューでもこのように説かれている。

 

「わたしたちにできる最も愚かなこと」

 とはいえ、「ほんとうに自由な社会」──『ブルシット・ジョブ』の最後の一文で掲げられる理念であるが──へと向かうこのような展望は、自明のものとはほど遠い。グレーバー自身、ドイツの有力紙『ディー・ツァイト』のウェブサイト「ツァイト・オンライン」とのインタヴュー331日公開)で、これまで見てきたのと同じ展望を描き出しつつも、2008年の金融危機後の状況の繰り返しを警戒している。

 

 誰もが一週間は、こんな風に言ったものです──「おお、わたしたちが真実だと思っていたすべてが、真実ではなくなってしまった!」ついには、貨幣とは何か、負債とは何かといった、根本的な問いかけがなされるに至りました。

 けれどもある時点で、人びとは突然決意を固めたのです。「やめよう、こんな問いかけはもう放り出してしまえ。何も起きなかったかのように振る舞おう。すべてを以前と同じようにやっていこうじゃないか!」

 

 魔神は瓶に戻せないという先ほど見た断定が、こうした危惧を打ち消すようにして口にされていることがわかる。しかしインタヴュアーはいっそう懐疑的だ。
 「多くの活動家が今、もうひとつの世界について語りだしています。そうした別の世界が、突然可能になったように思われる、というわけです。しかし、このような危機のさなかにわたしたちの経済システムを解体できるなどというのは、まったくの幻想ではないでしょうか?」
 問いかけを受けたグレーバーは、「むしろ危機のさなかのほうが、こうした変革をやり通すのはずっと容易なんです」と応じる。
 しかし取材者は続けて問う。「多くの人びとがとりわけ望むのは、健康を保ち、いつかすべてが元通りになることでしょう。彼らはいかなる変化も求めず、ただ通常の、新自由主義的な生活へと立ち返ることを求めている。そういうものではないですか?」
 グレーバーの答えはこうだ。

 

 明らかに、そのように望んでいる人びとは多い。けれどもわたしたちは、これまで進んで身を委ねてきた幻想の多くをすでに失ってしまいました。労働世界について、そこで重要なのは誰なのかについて、もはや幻想はありません。

 ですから、魔神を瓶に戻そうとするなら、大変な忘却の作業が必要になります。ほんとうに働いていると言えるのは誰なのかを忘れ、そうした人びとがどれほどわずかしか稼いでいないのかを忘れなければならないのです。

 しかもそれだけではない。わたしたちの目の前には、気候変動という最大の危機が迫っています。わたしたちはずっと線路のうえに立っていた。列車が向こうから迫ってくる。そして今、誰かがわたしたちを荒っぽく、線路から突き落としました。痛いですし、まったくひどい話です。そうではあるのですが、どうにか立ち上がったあとで、わたしたちにできる最も愚かなことは、再び線路に戻ろうとすることです。列車がわたしたち目がけて突進しているというのに!

 

 もちろんコロナ禍は「痛い」し、「まったくひどい話」だ。それでも、以前の状態の単純な回復は穏やかな現状維持の道ではありえないのだから、それを新しい経済関係へと、地球環境とのより適切な関係へと向かう契機としなければならないのだとグレーバーは言う。
 魔神を瓶のなかに封じ込めていた力は、パンデミックによって突然無効にされたように見える。そのことを奇貨として、コロナ後の世界をこれまでの世界への回帰とは別のものにしていけるかどうかは、わたしたちにかかっているのだと人類学者は説く。

 

 実に多くの根本的な問いが、長い間提起されずにきました。なぜならそのような問いは、新自由主義的経済学者の言語では言葉にできないものだったからです。そうした経済学者は、自分たちの学問はあらかじめすべての答えを用意しているかのように振る舞ってきた。新自由主義とは本質的に言って、人びとが今とは別の、もうひとつの未来を思い描くことのないように計らう妨害の手段にほかなりません。どんなオルタナティヴもありはしないのだから、というわけです。

 けれどもたぶん、未来はほんとうは、わたしたち次第なのです! わたしたちは今、この危機のなかでまさにそのことに気づいている。

 

「アナキストのようなもの」にとっての国家

 それにしても、最後に、この「わたしたち」と国家の関係について触れておかなければならないだろう。というのも、休業補償やその他の生活保障的措置を担うのは国家であり、しかもその国家は現在の危機においては同時に、警察やさらには軍隊を投入して市民の生活を統制する強制力としても現れている。この事実は、「ほんとうに自由な社会」の展望を不吉に曇らせるものではないだろうか?
 「バイエルン放送」のインタヴューには、まさにこの点についてのやり取りが見られる。

 

──世界中の政府が行っている措置をどう思いますか? アナキストにとってはまさしく、外出制限や接触禁止のような措置は普遍的自由の原理に背くものではないでしょうか?

 

デヴィッド・グレーバー:政府はそうした措置を取らざるをえないわけですが、それはなぜかというと、コミュニティ感覚というものがもはや存在しなくなっているからです。

 各国政府はたしかに過去において、ほとんどすべてのローカルなコミュニティを破壊してきました。人びとはもはや隣人がどんなひとなのかを知りません。以前ならそんなことはなかったはずなのに。職場ではアウトソーシングが進み、もはや誰も、ほんとうに自分自身のチームに属して仕事をしているという感覚を持てなくなっている。こうして人びとは、よき相互関係のなかで生きることを忘れ、互いをケアすることを忘れてしまった。だから国家が引き受けなければならないのです。国家のやるべきことなど、ほかには何も残っていないのですから。

 けれども逆説的なことに、コミュニティはまさに今、再び生み出されつつあります。人びとは、集まることができないにもかかわらず、この危機のさなかにあって、自分自身と自分の仲間たちをまったく新しいやり方で知りつつあるのです。

 

 いくぶんか曖昧なこうした見解は、しかしその楽観性ともども、きわだってグレーバー的なものであることを指摘しておこう。
 最近も彼は、ツイッター上のやり取りで「わたしはアナキストのようなものなのでね」(2020.3.7、強調引用者)とつぶやいて物議を醸したばかりだ。「ようなもの(kind of)」とは! 真正のアナキストとして論陣を張ってきたのではなかったのか?
 真意を問われたグレーバーは、このように応じている──わたしは声高にではなく、穏やさとユーモアをもって、アナキストなんです。何か問題が?

 福祉国家に対する彼の眼差しのうちにも、こうした穏やかさとユーモアは感じられる。普遍的ベーシックインカムを擁護するグレーバーは、「UBIの長所のひとつは、扶助受給がふさわしいほど貧しいのは誰か、また実直なのは誰かを判断する福祉国家機構を、不要にしてしまうこと」(2019.4.5)であると述べている。
 しかし別の機会には、「福祉国家が偉大ではないなんてことは誰も言っていない」のであり、ただそれは「すべての美点にもかかわらず、くそくだらないペーパーワークによって台無しにされている」(2018.5.8)にすぎないのだと断っているのだから、彼の提案を福祉国家の前向きな改革として受け止めることもできるかもしれない。
 もちろん、コービンに率いられた労働党による政権交代を望むのは「社会民主主義の国家を見てみたいからだけれど、その後にわたしたちはそれを壊して、自主管理の諸団体に取って替えることができる」(2016.8.18)といった発言を見るなら、国家廃絶の原則に変わりはないようだ。
 それでも、彼が「事実上、コービン時代の労働党のために何年も仕事をしてきたあとで、党首選に参加すべく正式に入党しようと試み」(2020.3.12)さえした事実を知るならなおのこと1、暫定的なプラットフォームとしての福祉国家再建への関与が、かなり真剣に取り組まれてきたことも疑いえないだろう。

 それゆえ、グレーバーが、ロックダウンに際して国家権力が発動する一連の強制的措置の告発を――例えばジョルジオ・アガンベンのように2──最優先の課題とするのではなく、それを積極的に称賛しないまでも多少とも脱問題化しているように見えるとしても、そこに変節のような何かを認める必要はなさそうだ。
 むしろこの事実は、福祉国家の一定の擁護を含め、このアナキスト(のようなもの)における国家の位置づけを再考する機縁ともなりうる。

 英国の政治学者デヴィッド・ランシマンは、市民的自由を制限する保守政権の措置を野党も支持するほかない状況のなかで、「リヴァイアサン」としての権力の本性があらわになったと指摘している。「わたしたちの政治的世界はいまだ、ホッブズがそれと識別できるようなものであり続けている」というのだ。ここにわたしたちは、グレーバーそのひとを主要なアクターとする2000年代以降の「アナキズム的転回」ののちにもなお問われることをやめない、権力の垂直性と強制性にどのように向き合っていくべきかの問題を認めることができるだろう3


 

(注1) 反コービン派の党幹部に警戒されたためだろう、労働党は英国の選挙人名簿にない住所からの入党は認められないとして、彼を「ただちにブロックしてしまった」のだという。しかし実際には英国籍がなくとも入党は可能で、党則が求めるのは「1年以上英国に居住していること」にすぎないのだから、これは疑いなく厄介払いの口実だ。
 なお、ここ数年の英国では、コービンとその周辺を「反ユダヤ主義的」とみなす一連の告発が、労働党の内外において、明らかな追い落としの意図をもって続けられてきた。グレーバーは英国内外の知識人やミュージシャンらとともにコービン支持の公開書簡に署名しているほか、ひとりのユダヤ人として「反ユダヤ主義の武器化」を深刻に憂うる論考を『ガーディアン』紙に掲載しようと努力し(そして断られ)、また2つの動画(これこれ)を通して問題を訴えている。

(注2) コロナ危機をめぐる新刊『パンデミック!』(原著2020年4月、日本語訳はPヴァインより6月刊行予定)を著したスラヴォイ・ジジェクは、「剣を抜いた恐るべきリヴァイアサン」の台頭を懸念するアガンベンの論調に反論しつつ、ジョンソンやトランプのような保守派の政治家さえもが一定の「社会主義的」ないし「コミュニズム的」措置を採用しつつある現状の先に、「災害コミュニズム」(言うまでもなくナオミ・クラインの「災害資本主義」のもじり)の可能性を、懐疑的に示唆している。
 さしあたり、本稿の筆者によるジジェク「人間の顔をした野蛮がわたしたちの宿命なのか──コロナ下の世界」の翻訳と解説「生き延びのための「狂気」の行方」を参照(『世界』2020年6月号)。グレーバーはジジェクを長年「憎んできた」のち、今では「哀しい男、〔…〕宮廷道化師に落ちぶれた髭面のレーニン主義者」として憐憫を感じていると述べているが(2016.10.13)、そんな両者の現状認識がさほど変わらないものになっているのは興味深い。

(注3) デヴィッド・グレーバー民主主義の非西洋起源について──「あいだ」の空間の民主主義(以文社、2020年)の訳者あとがきとして書かれた、本稿の筆者による「「あいだ」の空間と水平性」を参照。

著者紹介

片岡大右

1974 年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。批評家、社会思想史・フランス文学。著書に『隠遁者、野生人、蛮人』(知泉書館、2012 年)など。訳書に『民主主義の非西洋起源について』(以文社、2020年)など。