2-1.救いは死後にある
誰も俺の言葉を理解できない。
元来、異邦とはそういう所だ。
仮に訪れた異世界の言葉と文化をあらかじめ学んでいたとしても、『羅列された知識』と『体感する現実』との間に横たわる溝は深い。配慮の不足、不注意からの衝突、困難はいくらでも予想しうる。
仮に、の話だ。
そもそも俺には言葉がわからない。
だから周囲に満ちる熱気と歓声、どこからともなく響く芝居がかった長台詞の意味を理解することなど全くできない。それは俺の耳にとって獣の咆哮となんら変わらぬ大気の振動でしかないのだ。
とはいえ、吼える獣の感情くらいなら俺にだってわかる。
目の前で頭から血を流している巨漢、その目と形相は雄弁に語っていた。
俺が背後から酒瓶でぶん殴ったそいつは、苦痛に呻きながらうずくまってこちらを睨んでいた。叫び声と唾、酒やらつまみやらが俺に向かって殺到する。避けない。甘んじて受け止め、挑発するように相手の復帰を待ち続ける。
誰も俺を理解できない。俺は誰も理解できない。
だが、少なくとも今の俺は孤独ではない。
目の前で男がのそりと立ち上がる。
俺の体格を遙かに上回る巨漢、ブルドッグそのものの頭部がくしゃりと歪み、叫ぶ。
呼応して沸き立つ周囲の声。
言葉の意味はわからない。だが意図するところは明白だ。
最もシンプルで手っ取り早い共通言語、それが俺たちを繋いでくれる。
重心を落とす。握りしめた芝居用の酒瓶をリングの外に放り投げ、散らばった飴の破片と血糊を足で払いながら低く構えた。
「来いよ、犬っころ。遊んでやる」
ブルドッグ男が日本語を理解できるはずも無いが、伝わった確信がある。
試合開始のゴングはそうして鳴った。
大仰なマントを脱ぎ捨て、布で包まれた両腕を広げ、待ちの構え。
ブルドッグ男を挑発するように威嚇の叫び。
ゴングの前に凶器で仕掛けた俺への反撃とばかりに豪快なキックが炸裂。こちらの右腕をとり、真上から叩き落とされるチョップが『延髄』に直撃。正確無比な『肩たたき』に態勢を崩され、そのまま投げ飛ばされる。
たたらを踏んでロープに全体重を預ける。派手な虹色に輝くロープは弦のようにしなって俺を矢のようにつがえ、射出した。ブルドッグ男が横方向に突きだした片腕が俺の顔面を直撃。上体で受け止めた衝撃を使いながら引っ繰り返るようにダウン。手を使うようなわかりやすい受け身はもちろん取らない。派手にマットに沈む。
主役の活躍に場内は沸騰する。
卑劣な外人野郎をやっちまえ、俺たちのチャンピオン。
場の空気がただ一人の活躍を期待して加熱していく。
人種も、性別も、年齢も、階層も問わない。
闘争の熱、力がぶつかり合うことへの期待。
強い闘技者への憧憬。リングの上には純粋な強さという夢が確かにあった。
だがあろうことか、この場所にはそんな正しい闘技者を嘲笑うような卑劣漢がいた。
俺だ。
飛び起き、棒のように真っ直ぐに伸びた左腕を振るう。
ブルドッグ男の正面でテーピングで中身の見えない腕が爆発する。
仕込まれていた爆竹が相手の目を眩まし、張りぼての腕を放り捨てた俺は飛び上がってドロップキックをお見舞いした。さしもの巨漢もたまらずに倒れ込む。
はらりと布が解けて落ちる。
がらんどうの左腕。手段を選ばない卑劣な隻腕の闘技者。それが俺の立ち位置だ。
構え直しつつ重心を微調整。隻腕で戦う際に最も重要なのがバランスだ。
体重が軽くなったからやりやすいかとも思ったが、助走の無いドロップキックで衝撃力を過不足なく伝えるのは難しい。今のは双方の呼吸が上手い噛み合い方をした結果だ。このブルドッグ男、評判通りいい目をしている。俺の技を正確に見切っていなければこういう受け方はできない。本物の闘技者、その在り方に思わず心拍が乱れる。
「どうした、来い! こっからだろうが!」
日本語など誰にも伝わらない。だがその場にいる誰もが俺の言葉を理解できていた。
この流れ、この場面でなら俺のコミュニケーションは成立する。
ブルドッグ男が立ち上がる。どれだけ卑劣な攻撃を受けようとも堂々たる在り方を見失わない、この男こそが真のチャンピオンだ。
「よっしゃ来いっ!」
応じるようにチャンプが吼える。観客が拳を握る。
闘争の熱がリングの内と外に伝播し、言葉と咆哮の境界は溶けて消え、意思はただ肉体によってのみ示されていく。
お互い技は避けない。攻めて受ける。受けて攻める。
力と技の応酬、このリングが求めているのはそれだけだ。
腰から掴まれれば俺も跳び上がって持ち上げられる。
上昇は下降の前振りだ。叩きつけられなければ期待外れもいいところ。
でかいブルドッグ男がこちらの上を跨ごうとすれば、小柄な俺は屈んで股の下をくぐる。衝突と交錯をテンポ良く繰り返す。試合のスピード感を疾走によって演出。跳躍して仕掛ければカウンター。互いにリングを駆ければすれ違いざまに肘を叩き込む。荒っぽい蹴りが放たれれば足を掴んで捩るように巻き込み倒す。
左腕が無い上に体格で劣る俺はまともに組み合えば不利。
絞め技を振り解くための強烈な肘打ちと頭突き、時には口から緑色の毒霧を噴いて窮地を脱し、リングの外からパイプ椅子を持ち込んでのラフプレイ。
それでもブルドッグ男は倒れない。得意の間合いに持ち込まれ、俺は締め上げられてしまう。圧倒的な体格差と巨大な存在感。まともな脱出は不可能に近い。
そこで俺は身体を揺さぶり、腕先をブルドッグ男の股間にぶちこんだ。
内腿への金的。手首の返しで打撃点を太腿側に逃がす技がある。
『外人闘技者』の卑劣なラフプレイ。会場に大ブーイングの嵐が吹き荒れた。
耐え難い激痛に悶絶するブルドッグ男。中々いい表情と呻き声だ。
卑劣で残虐な俺はダウンした相手に追い打ち。
容赦の無い踏みつけを繰り返す俺をレフェリーが止めようとするが、俺の軽い突き飛ばしで倒れた彼は頭を打って昏倒してしまう。審判員がいなくなったリングの上はまさにルール無用の死闘の舞台。もはや闘技者の誇りなどどこにもなかった。
再び持ち込まれた芝居用の酒瓶がチャンピオンを打ち据える。
割れた鋭利な凶器を俺は残忍そうな表情を作りつつ舐め回した。仄かな甘味。
絶体絶命の窮地。果たして我らがチャンプは闘技者の誇りを忘れた悪漢の手にかかってしまうのか。俺は十分に溜めを作ってから勢い良く凶器を振り上げた。
激しい流血を伴う、闘技と暴力のぶつかり合い。
実況が何かを叫ぶ。解説が何かを捲し立てている。試合を見に来た闘技ファンが、強さに憧れる少年が、仕事のついでに見物する酒とつまみの売り子が、固唾を飲んで展開を見守る。それは惨劇への期待か、それとも。
果たして。
試合の結末は、望まれた通りに推移していった。
どれだけ予想を外しても、期待を逸れればそれはエンタメとは呼べはしない。
チャンピオンは観客の前で夢を見せ続けなければならなかった。
酒瓶が弾き飛ばされる。衝撃が突き抜け、俺は勢い良くマットに沈んだ。
ブルドッグ男が立ち上がり、反撃を開始したのだ。
そこからは怒濤の猛ラッシュ。
実戦的な下段へのローキックが決まったかと思えばタックルからの掬い上げ。
幾度となく俺を真下へと叩きつけ、鋭い反撃にも挫けず勝ちへの姿勢を貫いていく。
立て続けの攻撃に俺はとうとう体力が尽きてしまう。
足下などはふらふらで、もはや立っているのが精一杯というふうに重心をぐらつかせ、乱した呼吸を不規則に吐き出す。
そろそろだ。頭に叩き込んだ段取りは画像とジェスチャーを使った簡素なものだが、細かいアドリブ以外はきちんと全てこなせている。
あとは主役が決めれば完成する。
それはチャンプの得意技だと聞いている。太い腕が俺の首を押さえ、身を屈めた犬の頭部がこちらの右脇、もう片方の腕が股下をくぐる。
弾みを付けてよいしょと片足がマットを踏みつけ、勢いのままに俺の全身が軽々と持ち上げられた。絶叫する俺の身体が鮮やかに回転し、受け身もままならないまま背中からリングに沈んだ。反射的な防御行動を強制停止。俺は敗者をやり遂げねばならない。
ブルドッグ男はそのまま俺の両肩をマットに押し付け、いつの間にか復帰していたレフェリーがカウントを開始。もはや俺には立ち上がる体力が残されていない。
勝敗はここに決した。
正しい闘技者が勝ち、邪悪な闘技者は敗れ去ったのだ。
大歓声が会場を埋め尽くす。
立ち上がり、拳を突き上げたチャンプの姿。
彼こそが真の男。彼こそが真の闘技者。
やはり俺たちのチャンプこそが最強なのだ。
敗者として倒れながら、そんなアウェーの空気を深く吸い込む。
ブルドッグ男がわずかにこちらを一瞥する。
彼の感情などわからないし、拳と拳で通じ合えるなどということは無論ない。
だが勝敗が決したあと、立ち上がる前に彼は俺の肩を軽く叩いた。
誰にもわからないほどそっと。
今はそれだけが確かな事で、俺にはそれだけで十分だと思えた。
勝者は称えられるものだ。
リングの上でブルドッグ頭のチャンプが恰幅の良い壮年男に一抱えほどもあるトロフィーを授与されている。壮年男の丸い腹は恰幅が良いを通り越した膨張ぶりで、顔立ちも相まってカエルを思わせる。俺は密かにカエル爺と呼んでいる。
もちろん『雇い主』に面と向かってそう言ったりはしない。
言葉がわからずともあの老人の勘の良さと理解力は並外れている。だからこそ俺はこうして飼われる身に甘んじているわけだが。
この興業も会場も仕切っているのはあのカエル爺だ。
奴の好む馬鹿げた茶番はそこまで嫌いではないが、終わったあとには決まって虚無感に襲われる。それは多分、俺が『外人』だからだろう。
外人――外世界人。
異邦から来た闘技者は敵であり、素朴なゼノフォビアに基づいて悪役というアングルを与えられるのがセオリーだ。快楽原則に忠実な、エンタメの王道。
主人公には敵対者が必要だ。嫌というほどではないが、それはそれ。
勝利に飢えているのもそうだが、何より少し、刺激が足りない。
安全に血が流れ、安全に暴力が振るわれる仮初めの戦い。
強さとは、戦いとは、この程度で甘んじていて良いものなのだろうか。
何かの病に罹患した少年のような鬱屈を押し殺す。
これでいい、この光景に間違いはない。
観客席を見ろ。目を輝かせている少年がいる。薄汚れた服のスラムの子供がいる。端末を片手に興奮している眼鏡の格闘技オタクがいる。鍛えた肉体を疼かせている若者がいる。売上とチップに満足げな売り子がいて、安らかに酔い潰れている中年がいる。
悪くない。敗者である俺は一度リングを去り、漆黒のマントで身体を隠しフードを被り直して舞台脇から会場を眺めながらそんな感慨に浸っていた。
だから、それに最初に気付いた。
止められたはずだったのにできなかったのは、寝ぼけていたとしか言いようがない。
鈍磨していたのだ。ぬるま湯の闘争で俺はここまで弱くなっていた。
全ては遅すぎた。
災害と暴漢は常に唐突に訪れる。
伸びっぱなしの髪に顔面に刻まれた深い傷。薄汚い身なりの男は何かを喚きながら会場に乱入してきた。その視線が向かう先にいるのは今まさに勝者にトロフィーを授与していたカエル爺。強烈な殺意が罵声と視線に込められている。
暴漢は大振りのナイフを振り回す。動きが素人ではない。屈強な警備員が正確無比な斬撃で喉を引き裂かれ、弾き飛ばされた警棒を追ったところを背中に一刺し。
殺しに躊躇がない。作られた暴力ではない。本物の殺し合い。
観客たちにパニックが広がっていく。
腹の底から響くような声でカエル爺に敵意をぶつけ、その兇刃の切っ先を向ける暴漢。
だがその前に立ちはだかる者があった。
ブルドッグ頭の強面、先ほど圧倒的な力で勝利して見せたチャンピオンその人だ。
会場に広がる安心感。俺たちのチャンプ、本物の強者がここにはいる。
カエル爺を背後に庇い、チャンプは構えを取った。
対する暴漢は挑発するようにトロフィーを指差し、見せつけるようにナイフをべろりと舐め回した。茶番の悪役じみた無意味な動作。俺が演じていた悪役闘技者よりも堂に入った三下の仕草、いや違う。これは殺し合いなのだ。
「気を付けろ、それは唾液を塗ってるんだっ!」
咄嗟に叫ぶが、無意味だった。俺の言葉など敵意でなければ伝わりはしない。
暴漢の刃は疾風さながらだった。
一閃。ただそれだけで事足りる。
チャンプの動体視力と反射は見事の一言で、ナイフの軌道を正確に見切って躱していた。すれすれで頬を切り裂いた刃にも臆せず得意の組み技に持ち込んで一気に勝負を決めようとしたブルドッグ男の動きが、ぴたりと止まる。
最強のはずのチャンプの巨体が不自然によろめいた。
足を縺れさせながらゆっくりと倒れ伏し、放り投げられたトロフィーが転がっていく。
開いた口からだらりと舌が垂れ、泡の混じった涎が流れて落ちた。
見事なトロフィーに、一条の亀裂が入った。
何が起きたのかわからずに呆然とする観客たち。
その中にいた一人が何かを叫ぶ。そばかす顔に眼鏡、チェックのシャツといういかにもなインドア格闘技オタクの少年がタブレット型端末から立体映像を立ち上げて何かを捲し立てていた。空中に映し出されているのはカエルや蛇、キノコや煮え立った液体。どれも毒々しい色彩をしており、徒手空拳の男が液体の中に手を突き入れたりそれらを喰らったりしているという図だった。
彼が何を言っているのかは全くわからないが、意味はだいたいわかった。
いわゆる毒手。奴がナイフに塗布した唾液は神経毒の一種に違いない。
拳、唾液、あるいは血液。
あの暴漢にとってそれらはナイフ以上の凶器というわけだ。
暴漢はナイフを見せびらかすように観客たちに突きつけ、口腔内で溜めた唾を霧のように噴き出した。途端、悲鳴が爆発する。我先にと逃げ出そうとする観客が押し合いへし合い、転倒が転倒を呼び踏みつけられた者が足や腕を踏み砕かれる。
カエル爺の警護をするはずの男たちは混乱に足止めされ、その隙に暴漢は観客たちを突き飛ばし、切り裂きながら一直線に疾走していく。
無防備な老人はこのまま暴漢の毒牙にかかってしまうのだろうか。
それならそれでいい。どうせ自業自得だろう。
今日の興業などあのカエル爺の趣味の中では上品な部類。
奴の普段の行状を思えば死んだ方が世のため人のためというものだった。
刃が振り下ろされる。果たして惨劇の結末は。
これが茶番なら、そんな煽りでも入れるところだが、あいにくこれは殺し合いだ。
鋭く気息を導引し、目標地点までの最短距離を計測する。
混沌とした人混みを縫って走るのは無謀。ならばルートはひとつだけ。
肩を踏む。人混みの上を跳ぶ。
飛び蹴りに合わせた迎撃の毒ナイフ。足刀で横に捌いて着地、交錯と同時に突き。
腹に一撃、通っていない。勢いを化かされた。
凶漢の重心は後方に寄っている。右足と右腕、ナイフを前方に突き出して左腕はこちらの視界から隠されている。目に見える脅威は毒ナイフだが、俺を殺すための手はまだ全て見えていない。
「そこまで練り上げておきながら、カタギを巻き込んで刃傷沙汰か。どうせクソジジイが何かしたんだろうが、これはちょっと落ちぶれすぎじゃないのか」
伝わらない言葉を口にしながらさりげなく横に移動していく。
背後に庇ったのは酒の売り子らしい女性。その彼女もまた、転倒して逃げ遅れた二人組の少年を庇おうとしていた。薄汚れた身なりの子供たち。このクソみたいな街に逃げ込むしかなかった難民が、リングの上に夢を見に来ていた。
恐らくはカエル爺が連れてきたのだろう。
あの老人はこういう手口をよく使う。無垢な強さへの憧れに具体的な方向性を与え、『次の見世物』にするための餌代わりにしているのだ。
あるいは毒手使いの暴漢もかつてはこの少年たちと同じだったのだろうか。
それとも俺と大差のないごろつきか。
どちらでもいい。カエル爺が死ぬべきクズであることだけは確かだ。
都合良く護衛がばらけるのはこの授与式のタイミングだけだったのかもしれない。
「それでも、今のあんたはクソだよ。わかってんだろ。毒なんて使うのは悪役だ」
背後の女性を一瞥し、少年たちを連れて逃げるように手を振って促す。
宗教的な衣装なのか、薄いヴェールに覆い隠された女性の表情はわからなかったが、意図はかろうじて伝わったようだ。女性は倒れた少年たちを立ち上がらせると二人にしっかりと手を取り合わせ、背中を押すようにして退避していった。
少年たちは強いチャンプに夢を見ていた。
卑劣な悪漢にも挫けることのない本物の男に憧れていた。
だが今、そのチャンプは兇刃に倒れてしまっている。
たかが夢。たかが虚構。
だからどうしたと言うことはできる。だが違う。
「不快なんだよ。俺の脳に喧嘩を売ったんだ、覚悟はできてんだろうな」
奴に与えられたストレスが俺の健康リスクを増大させている。心理的反応から交感神経系が刺激され、副腎から過剰にホルモンが分泌され肉体に負荷がかかっているのだ。
わかりやすい物語は人を興奮させ、心身に多大な影響を及ぼす。
それが損なわれるとどうなるのか?
不快になるのだ。俺は奴に脳下垂体を攻撃された。
殺されかけたと言っても過言ではない。よって俺は奴を殺す。
話し合いの選択肢など、最初から存在しない。
暴力。さもなくば死。俺にあるのはそれだけだ。
刃が閃く。呼吸の間隙を縫うような踏み込みだった。
右腕が自動的に動いた。分厚い布に包まれた腕がナイフを弾き、しかし二度、三度と続く斬撃が布を引き裂いてその内側に攻め入った。
毒のナイフはわずかでもかすればそれで勝ちだ。
回避ではなく咄嗟の防御を選んだ俺を嗤う暴漢の表情が、次第に訝しげに変わっていく。即効性のはずの毒が効力を発揮しない。
切り裂かれた布が落ちる。
露わになった俺の右腕を見た暴漢の目が驚愕に見開かれた。
生身の素肌などではない。
俺の右腕は人の手によって作り出された『商品』だ。
いわゆる『運動制御特化型人工知能』を搭載した生体侵襲式義肢。
表面を覆うのは超高分子量の合成樹脂素材。繊維強化を施されたその耐熱・耐衝撃・引っ掻き強度は民生品としては最高峰である。ナイフ程度では傷ひとつ付けられない。
当然毒などは無意味である。
俺の腕には温かみのある血など一滴も通っていない。
当然、心にもだ。
刃を押し退けながら間合いを詰める。
左腕のない俺にここからの追撃手段はないはず。
その油断を突いた奇襲が口腔内から吐き出されていく。
至近距離で炸裂したのは緑色の毒霧。
毒を以て毒を制す。
ツーンとくる毒のキツさを鼻呼吸でやり過ごせる俺と違い、直接目に毒霧を浴びせられた暴漢は耐えきれずに呻き、手で目を押さえてしまう。
掴んだナイフを弾き飛ばして腹に一撃。
続く直突きがガードの上から暴漢を打ちのめす。
目を開けて状況を把握しようとした相手に口から吐き出したゴム袋を直撃させ、押し込むように殴りつける。
技など馬鹿正直に受けるわけがない。左に隠した本命を使わせるなど以ての外。エンタメなら一進一退が一番盛り上がるが、戦闘なんて一方的な方がいいに決まっている。
形勢不利と見た暴漢はなりふり構わず逃走を選択した。
逃げていく男の背を指差してカエル爺が鋭く叫んでいる。
視線の先にいるのは俺だ。何を言っているのかはわからないが、何を命令されているのかはだいたい分かる。
「了解だ、くたばれ死に損ない」
結局、俺は飼い犬でしかない。
金と安全、なによりも俺が最も頼みにしているこの右腕が動くのはカエル爺の支援があるおかげだ。俺は飼い主に逆らえない。
言われるままに走る。結末などいつも同じだ。
分かっていた。俺はいつもこうだ。
追跡は容易だった。暴漢の足は雑然としたスラムを駆け抜けながら市街の端へ端へと向かって行く。あの老人から金で安全を買えない者たちは都市の隅で息を潜めて自分の肉体と時間を切り売りするしか道はない。
この街を支配しているのは暴力だ。
力を振りかざして他者を支配しようとする連中が幅をきかせ、そいつらの抗争やら暗闘やらで力の無い者は心安まる時がない。
この街で力に夢を見る者がいるのは、現実の暴力に夢がないからだ。
恐喝と詐欺と賭博、誘拐と腑分けと売春、麻薬と武器の密造と密売、殺し合いによる大量消費。クズ以下の蛇頭と手配師が難民の子供に笑いかけ、不敵に笑う用心棒は店の金をちょろまかした挙げ句に娼婦に手を出してとんずらする。そういったクズどもの頂点に立つのがあのカエル爺。そして奴が君臨する犯罪組織だ。
この街の主要な産業の半分を牛耳るカエル爺に抗って生き残ることは難しい。俺が追わずとも誰かが始末をつけるだろう。
だからというわけでもない。
ただ、始めたからには終わらせなければならないと思っただけだ。
そして、俺はその場所に辿り着いた。
追い詰められた暴漢が最後に逃げ込んだそこは、多分そいつの居場所だった。
薄暗い路地裏は立ちこめるような臭気で満ちていて、呻き声と不気味な呟きが延々と響き続けていた。そこら中に無造作に人体が転がっている。いずれも四肢を欠損していたり骨と皮ばかりに痩せこけていたり無数の注射跡を掻き毟って奇声を上げたりと悲惨な有様だった。何人かには見覚えがある。
闘技場における別口の興業だった。
見世物としての残酷ショー。猛獣や拷問器具の餌食となった犠牲者たち。
四肢を失った者の大半はそのまま働くことすらままならなくなる。
俺の右腕は特権だった。
この街にいるほとんどの者は懸垂式の義肢すら手に入れることができない。
十分な治療も受けられず、傷病者たちは死を待つことしかできない。
輝かしいリングの陰に存在する悲惨。
闘技者を食い物にする老人への憎悪と義憤があの暴漢の復讐心を育てたのだろう。
わかっている。正しさがどちらにあるのかなど、最初から理解できていた。
先の無い闘争、悪意に抗えない弱い暴力の末路など決まっている。
俺もいずれこの場所に辿り着く。
だがそれでも、俺の手が掴めるものは暴力だけだ。
こいつらだって、きっとそうだったはずだ。
馬鹿げた思考を打ち切る。
息も絶え絶えに逃げていく暴漢がよろめき、そのまま倒れた。
襲撃する以前から消耗していたのだろう。
病か、怪我か。ここにいる者の健康状態がまともなはずもない。
放って置いても死ぬ。だとしても、俺は生きている敵を放置できない。
止めを刺そうと一歩踏み出したその時、標的に近付く別の一団が視界に入る。
ち、と舌打ち。奧の角から現れたのは遭遇したくない連中だった。
「修道騎士か」
騎士修道士だったか? どちらでもいいが、祭服や鎧に刻まれた松明の意匠が俺にとって不快な記憶を呼び起こすことだけは確かだ。正直回れ右して帰りたい気分だ。
集団の中心にいるのは薄汚れた路地裏に似付かわしくない男だった。
そこにいるだけで空気が浄化されていくかのような清潔感。
鮮烈な意思を感じさせるまなざしと涼やかな面差し、たとえるなら絵本の中から出てきた王子様、あるいは白馬の騎士様だろうか。
美貌はすぐに翳った。
死を待つばかりの者たちへの憐憫だろう。
男は付き従うあどけない少年たちと共に傷病者たちの介抱を行っている様子だった。
気が削がれる。そして最悪だ。
連中は慈善活動真っ最中の武装した宗教団体だ。
人を殺すのには最も邪魔な手合いと言えよう。
かといってできませんでした、とカエル爺に報告するわけにもいかない。
どうしたものかと唇を噛んでいると、修道騎士たちが一部の者たちに儀式めいたことを行い始めた。既に手の施しようがない、末期を待つばかりの重傷者。あるいは完全に精神が壊れてしまった薬物中毒者。
男が朗々と響く声で歌う。いや、これは祈祷なのか。
それから書物を開き朗唱を行い、横たわっている者の額と両手に何かを塗布していくあれは何だろう。薬、いや油?
それから儀礼用らしき装飾槍で地面を三度叩き、松明を灯して掲げながら祈る。
それがどのような儀式だったのか、俺にはわからない。
だがそれをされた男が力無く微笑み、安心したように目を閉じたのは確かだった。
俺は言葉を解さない。だからその意味も理解できない。
だが、それが俺には決して行えない『救済』なのだということは想像できた。
救いの手は俺が狙っていた暴漢にも差し伸べられた。
俺には何もできない。俺の手は人を殴るためにある。
あの美しい男のように、誰かを救うためには使えない。
そんなやり方、誰も教えてくれなかった。
そしてそれは暴漢も同じようだった。
差し伸べられた手の取り方なんて、俺たちは知らない。
はね除け、よろめきながらも立ち上がり、何か悪態を吐きながら唾を吐いて修道騎士たちを追い払う。呆然と振り払われた手を見つめる美貌の聖者。救われようとしない存在が信じられなかったのか。あるいは彼らの信じる神は違うのかもしれない。
と、そこで標的と視線が合う。死にかけの男が吼えた。
虚勢だ。憐れみを拒絶するための、張りぼての強さ。
俺の存在が奴に意地を張らせた。
あるいは、あの騎士の存在が奴に誇りを思い出させた。
いずれにせよ、奴が最後に選んだのは戦いだ。
「構えろよ。さっきは下らない手を使って悪かった。今度は俺の技で相手をする」
思ってもいないことを、伝わらない言葉で口にした。
意味はない。だから言った。
ここはリングじゃない。それでも通すべき筋はある。
だから俺は、存在しない左腕で虚空に十字を描く。
存在しないハンドジェスチャーは脳が錯覚する『腕の記憶』だった。亡霊のような腕の痛みが、それを否定しようとする欲求が、俺のあるべき姿を思い出させてくれる。
格闘動作制御アプリ『サイバーカラテ道場』を起動。網膜にデフォルメされた人体図が投影され、図像の足部分が赤く発光する。
不均等な左右の重量バランスを自動補正。俺が左足に体重をかけると、「GOOD!」の文字が輝き、赤い光は膝、大腿部、腰から右肩、肘へと移動。それに合わせて重心を移動させることで交叉する「GOOD!」と「CHAIN!」の文字。
「発勁用意」
視界に表示された四文字を読み上げるのはある種のルーチンだ。
発声と発勁は似る。咆哮が闘争心を昂ぶらせ瞬間的な力を増大させるように。
その言葉と記号は俺の技を鋭くしてくれる。
たとえそこに意味はなくとも、やるだけの価値はあるのだ。
「NOKOTTA!」
奔る。知覚は稲妻となり、体重が大地を低く滑り出していく。
滑らかな、あまりにも滑らかな踏み込み。
このとき既に肉体は俺の制御を離れていた。
オートパイロット。俺は自動化されている。
『特化型人工知能』によって最適化された俺の動きは先程までとは肉体の運用思想からして根本的に異なる。蓄積された戦闘記録の分析とそれに対する効率的な戦闘プランが複数提示され、シミュレーション結果とリスク要因を比較しながら視界を踊る。
現行プレーンの人類が作り出す汎用型人工知能などという幻想は前世紀に打ち砕かれた。俺の故郷で発展してきたのは限定的なフレームの学習と処理に特化した人工知能。運動制御という複雑な領域の最適解は既に膨大な量の計算と学習によって更新されている。
人類が積み上げた人体の科学も神秘のヴェールに包まれた中国拳法の真髄も、たかが数千年の積み重ねに過ぎない。囲碁や将棋がそうであったように、特化型人工知能の研鑚は人類を遙か後方に置き去りにした。人類が千年の修行を重ねている間に、人工知能は一万年の『解』を導き出している。
どれだけ死に物狂いで修練を重ねようと、長い歴史を重ねた拳法であろうと関係無い。
研鑚の歴史と量で『サイバーカラテ道場』に勝利することは不可能だ。
そしてこの『特化型人工知能』による運動制御はこのアプリケーションの両輪をなす機能、その片側でしかないのだ。
「俺は外人だ。異世界から来た、外世界人。わかるだろ」
倒れ伏した男を見下ろしながら、静かに呟く。
俺はこの世界の敵だ。あるはずのない文明を持ち込み、この世界が積み重ねた文化と研鑚を否定する。サイバーカラテの答えはいつだって無機質だ。
俺はそういう悪役だった。この世界の人々は外人である俺に敵意を向けることで感情をひとつにできる。たとえ人種や種族、言葉や文化が違っても、暴力だけは変わらない。
死にかけの男は黒い犬じみた頭をしていた。
周囲に倒れているのも犬の頭をした種族ばかり。
カエル爺のようなこの街の支配的種族とは違うコミュニティに属している。
俺という外人と彼ら犬頭の種族を戦わせるのは、あの老人流の統治の作法なのかもしれない。俺にはわからない、何もわからないまま、ただ飼われ続けている。
「とどめ、いるか?」
鋭い眼光と短い返答。何を言ったのだろう。
いずれにせよ、俺のやることは変わらない。
常駐している情動制御アプリ『Emotional-Emulator』が感情を凍らせる。
拳を振り下ろす。これは『許された』殺人だ。
義肢に伝わる感触が快の感情をもたらす。耳に心地良く響く音声に意識を集中させる。目の前の現実を、既に俺は見ていない。
機械的に振り下ろし、自動的に標的を殺害する。拳が振り下ろす度に幻聴が心を晴れやかにしていく。
『貴方は許されています。貴方は許されています。貴方は許されています。貴方は』
またこれだ。
死んでも同じ事の繰り返し。
何度生まれ変わっても、きっと俺はこうなのだろう。
事を終えて立ち上がる。
「俺を裁きたいのか、善人」
果たしてあのお優しい騎士様は俺をどんな目でみているだろう。
怒りか、それとも侮蔑か。殺意や敵意で向かってくるのならやることがわかりやすくていい。ちょうど暴れたりなかったところだ、ついでに敵の数を減らすのもいいだろう。
好戦的な気分のまま顔を上げた俺は、意外なものを目にして硬直した。
男の表情を、どう解釈すれば良かったのだろう。
憐れみのようでもあり、悲しみのようでもあるが、何かが違う。
少なくとも目の前の修道騎士は俺に敵意を向けていない。
それよりも胸に迫る何かの感情を持てあますかのようにたじろぎ、あろうことかショックを受けている。そんな風に見えた。
何故だろう。どうして今の光景を見てこいつは傷ついている?
修道騎士はそのまま何も言わずに俺から目を背け、その場を立ち去った。
拍子抜けの空気。やり場をなくした闘争心ともどかしさから壁面を叩く。
何なんだ、一体。言いようのない苛立ちを処理しきれずに座り込み、傍らの死体を担ぎ上げる。この街ではこんな猟奇的な行動をしていても咎められることはない。
報告と証明をしなくてはならない。
俺の安全のため、誰も信じていない飼い犬の忠誠を示すために。
「笑ってくれよ、クソみたいだろ?」
死体相手に語りかける。普段言葉が通じないぶん、死者との会話は気楽だ。
このわけのわからない異郷で最も安心できるのがこうして死者と話す瞬間だった。
暴力だけが意思を伝え、死だけが俺に理解をくれる。
この事実を知れば誰もが驚くだろう。
俺は死者の言葉を理解できるのだ。
「な、凄いだろ?」
答えはない。だが俺にはわかる。俺は暴力で彼に意思を伝えた。死が理解不能な相手を理解可能にした。彼はもう二度と喋らないからこそ俺と話すことができる。
俺は彼と会話をしている。言葉のない会話、死者との会話だ。
担いだ死体に笑いかける俺を道行く者たちが避けていく。
狂っているとでも思われているのだろうか。
もちろん俺は正気だ。
俺はかつて本当に死者の言葉を聞いた事がある。
人の口を通じてではあったが、それは本当に死者からのメッセージだった。
だから俺が死者と話せるのは本当だ。
それだけが絶望的なこの状況における俺の救い。
死者の言葉は俺を救ってくれた。これまでも、これからも。
それだけが、俺をこの世界に繋ぎ止めてくれている呪いだった。