「若おかみは小学生!」シリーズなどがある児童書作家、令丈ヒロ子さんの『パンプキン! 模擬原爆の夏』(令丈ヒロ子作、宮尾和孝絵)は、今年度から小学5年生の国語の教科書で紹介されています。「パンプキン爆弾」とも呼ばれる模擬原爆は、原爆を投下する訓練として日本各地に落とされ、400人以上が犠牲になりました。自身も戦争を体験していない令丈さんが、どのように戦争について学び、子どもたちに伝えようとしたのか、伺います。


原子爆弾投下練習用の爆弾があった

――令丈さんが執筆された本が『パンプキン! 模擬原爆の夏』ですけれども、「パンプキン模擬原爆」というのはどういうものなんですか。

令丈さん: 長崎に1945年8月9日に投下された原子爆弾がありますが、かなり大きくて丸くてずんぐりむっくりで、その形から「ファットマン」という名前が付いていまして、このファットマンとほぼ同じ大きさ、重さ、形で、中に核物質は入っていないのですが火薬が入っていまして、原子爆弾の投下練習用として作られた模擬原子爆弾です。カボチャのような丸い形から「パンプキン」と呼ばれているということです。

――原爆を投下する練習のための爆弾?

令丈さん: そうですね。パイロットが飛行機で目的地に落とすときにすごく大きな煙というか風が上がって、その旋風に飛行機が巻き込まれてしまうんですね。そうならないように、しかも当時は目視で投下していますので正確に目的地に落とすための練習として、模擬原子爆弾が作られたということなんです。

――全国でどのくらい落とされたんですか。

令丈さん: 本にも一覧表を載せましたが、全部で49発です。本当は50発だったんですけど、1発は海上投棄されて地面に落ちていません。49発、北海道と沖縄を除いた日本各地に投下されたということです。模擬ですけど爆弾は爆弾ですから、亡くなられた方もいらっしゃいますし、被害も大きかったということです。

――大阪にも落とされたんですね。

令丈さん: 大阪は7月の26日に投下されています。東住吉区という、私が生まれ育った所なんですけれども、自転車でちょっと行けるような距離です。今もそうですけど、そんなにゴミゴミした場所ではなくて、ボタン工場とか民家とか畑があって、あまり都会じゃない、っていうんでしょうか。兵器工場があるわけでもないですし、学校とかは今もあるんですけど、そのすぐそばの金剛荘という料亭を爆破して爆風でかなり大きな穴が開きました。ご近所のお寺や鐘つき堂が、傾いたまま今も残されています。
現在分かっているところで、死者の数は7名、負傷者の数は73名という記録があります。原子爆弾に比べたら死傷者の数は少ないとは言えますが、爆弾は爆弾ですので被害があったということです。

――令丈さんが模擬原爆、パンプキン爆弾を知ったきっかけは何だったんですか。

令丈さん: 2003年にたまたま自転車で通りかかって、広い道路をちょっと曲がった細い道に、マンションの壁に張り付くような形で薄い石碑があったんです。腰から下ぐらいの低いもので、「なんだろう? こんなもの、あったかな」と思って、わざわざ自転車を止めて見に行ったんですね。そしたらそこに模擬原子爆弾で亡くなった方の慰霊のために建てたという文章が書いてありまして、大変驚きました。ちょっとそれを読んでみます。

模擬原子爆弾投下跡地
1945年7月26日9時26分、広島・長崎への原爆投下を想定して、この田辺の地に模擬原爆が投下され、村田繁太郎(当時55歳)他6名が死亡、多数の方が罹災(りさい)しました。ここに犠牲者の冥福をお祈りし、戦争のない世界の実現と全人類の共存と繁栄を願い、碑を建立します。 2001年3月吉日

「模擬原子爆弾」という言葉自体を、これで初めて見た、知った、という感じです。

――そのときはどう思ったんですか。

令丈さん: 「模擬原子爆弾って何?」って思いました。原子爆弾は広島と長崎に投下されたものだという知識しかなかったものですから、大阪の、しかも自分が住んでいる東住吉区に原子爆弾が関係しているということが不思議で、頭が混乱して、「本当なの?」という感じだったんです。近所のお年寄りや両親に聞いても、「知らない」って言うんですね。何だろうと思いながらも積極的に調べたりはしないまま、日がたったという感じでした。
2008年に碑のそばにたまたま引っ越すことになりまして、しかも地元の町並み保存委員会のメンバーになったんです。模擬原爆の碑を建てられた方とか、7月26日に模擬原爆で田辺で亡くなられた方を追悼する集いをされている追悼実行委員会の方がたまたま町並み保存委員会のメンバーでもあったので、初めてそこで、どういうものか教えてもらったんです。

――模擬原爆について知ったのは大人になってからですよね。

令丈さん: 当時40代くらいでした。

――それまで、地元に起きた悲劇を知らなかったということについては、どうお考えですか。

令丈さん: 本当に驚きましたけど、両親やご近所の人も知らなかったですし、「知ってる人がすごく少ないんだよ」っていうのも教えてもらったんです。ここだけでなく日本全国に模擬原爆が投下されていたことも、まだ一般には全然知られていないとも聞きました。
教えてくださった方が私が作家だということは知っていて、「そういう仕事をしてるんだったら、このことを本に書いてよ」って言われたんです。私はそれまで子ども向けの本をたくさん書いていたんですが、どれもエンターテインメントっていうんでしょうか、子どもが愉快になるお話が専門で、実際にあった出来事をテーマにしたこともなければ、ましてや戦争をテーマにしたこともなかったですし、そのような重大で責任の重いテーマで書こうとは考えたこともなかったんです。
だけどその方に「世の中に本で知らせてほしい」と言われたときに、何となく見過ごすことができない気持ちになりまして、しかも東住吉区田辺という自分が生まれ育った土地というめちゃめちゃピンポイントのことなので、やらなければという気に突然なって、本当にこう、雷に打たれたような感じです。「このままじゃいけない!」みたいになってしまったんですね。

――それは使命感?

令丈さん: 使命感っていうんでしょうか、何でしょうね……。それまでの私は、学校が大変だったり人間関係で悩んだり、楽しく暮らせるような家庭環境でない子どもとかが、気晴らしになって一時的にでも本の世界で心を遊ばせて元気になって、翌日から頑張ってくれたらいいなっていう気持ちで本を書いていたんです。ですからできるだけおもしろいもの、パッと明るい気持ちになって気分転換になるものを、読んで次に進んでくれたらいいなというスタンスでずっと書いていたので、どうすればおもしろく思ってくれるかは一生懸命工夫しましたし、エンタメのための取材もいっぱいしてきたんですけれども、あとに残そうとか、絶対にこれを伝えようとかいう意志で取り組んだことがなかったんです。
でもパンプキン爆弾に関しては本当に伝えなきゃと思いましたし、伝えるということはみんなの記憶に残ってほしいということなので、これまでやったことがなかったし避けてきたけど、いよいよやらなくてはいけないときが来たというような、バリバリバリ!って、「これはもう逃れられない」という感じでした。「絶対に取り組もう。なんとか形にしたい」と思えたということです。

体験談から何を受け止めるか

――執筆のために、まず何から始められたんですか。

令丈さん: 一番もとになる資料だと教えてもらったのが、米軍資料の『原爆投下報告書』です。これが重いんですよねぇ。レンガぐらいある重さで。

――お持ちいただきましたが、ふせんもたくさんはさんでありますね。

令丈さん: そうですね。この本が全ての大本です。例えば、◯月◯日、原子爆弾投下のための会議があって◯◯将軍参加、その結果、日本の原爆投下候補地は◯と◯とに絞られたとか克明に書いてあるんです。ピックアップされたたくさんの都市から、ちょっとずつ絞られていくわけです。詳しく言いますと、45年の4月27日に第1回原爆投下目標選定委員会会議というのがあるんです。国勢調査から都市が絞られていて、東京、大阪、名古屋、神戸、京都、広島、小倉、下関、山口、熊本、福岡、長崎、佐世保、川崎、横浜。第2回、第3回と会議が進みまして、そして7月の25日に、広島、小倉、新潟、長崎に対して原爆投下命令が下されるわけです。
このちょっと前の原爆実験に成功した直後から、パンプキンの投下が始まります。模擬原子爆弾は◯月◯日、◯に出撃命令が出て、結果こうだったっていうこともすべて書いてある。報告書なので、背筋も凍るようなことがさりげなく淡々と書いてありますけれども。

――もしかしたら自分の場所に落ちていたかもとか、自分の場所は助かったかもとか、そういうことも考えますよね。

令丈さん: 原子爆弾にしても模擬原子爆弾にしても、ちょっとのことで大きな違いになったかもしれないし、広い目で見れば、どこも逃れられなかったんだなという印象です。まずこの資料を最初に読んで、こういう計画だったんだというおおまかな全貌を知りました。
それから、近所にいらっしゃる、長崎で被爆された山科和子さんという方を紹介していただきました。長崎で一瞬にしてご家族全員を亡くされて、ご自身も放射能の後障害で長く苦しまれたんですが、日本交通公社で通訳をされてたんですね。頭脳明せき、気持ちのしっかりした方で、日本全国の学校や海外の学校にも行かれて、被爆体験を語る語り部をされてた方なので、話を聞いたらどうかと紹介してもらったんですね。そこからスタート、という感じでした。

――それまでは知らなかったわけですよね。

令丈さん: そうです。すごい近所に住んでおられたんですけど、会ったこともなくて。

――ご近所の方に壮絶な体験を聞くことに対して、迷いやためらいはなかったですか。

令丈さん: 初めてそういう話を伺ったときは、震えがきましたね、緊張して。私はどこまでその話を聞いていいのか、しかもその時点ではどういう本になるか全然決まっていないわけですので、今思えば質問もかなり曖昧だったと思います。

――どんな質問をされたんですか。

令丈さん: 「そのとき、どういうふうでしたか」とか「どういうお気持ちでしたか」とか。山科さんは話し慣れてらっしゃるので、立て板に水のような感じで「こうだった、ああだった」と話してくださるので、最初はもう、おっしゃることを全部書き留めるだけだったんですけれども、やけどがひどくてとか、ご病気の話も聞きましたし、ご結婚はされたんですけど子どもさんはつくらなかったとか、いろいろお聞きしました。
どういうお気持ちだったかをお話しされるときに思い出してつらくないのかなと思って、割り切って話しておられるのか、それともお話しするたびによみがえってつらいお気持ちになるのかとか、わりと心情的なことをお聞きしたような記憶があります。壮絶な体験で内容が内容ですので、私、これを安易に聞いていいのかと、思いましたね。

「アメリカの学生さんたちにも、長崎での被爆体験のお話をしに行ったのよ」って言われたんですけど、アメリカに落とされた爆弾でご家族を失われてるわけですから、「抵抗はなかったんですか? アメリカに行くのが嫌だとかはなかったですか」って聞いたんですね。私の予想としては、そこは割り切っておられるのかなと思ったんですけど、「いや、全然全然。嫌でしたよ」と。
今の時代のアメリカの人が原子爆弾を落としたわけじゃないと分かっていても、憎い気持ちはどうしてもあるし、もう本当に行くまでは、すごくつらかったんだと。だけど「いや、行かねばならぬ」みたいな感じで行かれて、アメリカの学生さんたちには後障害のことも話して、「だからやっぱり原子爆弾などは持たないほうがいいし戦争はよくないという話をしたら、学生さんたちがみんな泣いて話を聞いてくれて、手をさすりに来てくれた」と。やっぱり話してよかったと思ったとか、そういうお話をされていました。

この山科さんのお話のどこを受け取るかっていうのを、ものすごい迷いながら聞いていました。最終的に、山科さんの悲惨な体験を書くのがいいのか、こういう事実を読者に伝えるのがいいのか。でも、体験談として出されている書籍はいっぱいあるじゃないですか。それと同じになってしまうし、それだったら私がやる意味があるのかと。過去のことに詳しくないし、問題意識もなくそれまで来て、子ども向けのスキルでもってなんとか分かりやすく世の中に伝えられないかと思っている人間として、体験をそのまま書いてそれでいいのかっていうのがあったんです。
でも山科さんが、ポロッと最後のほうでおっしゃったんです。「長崎はすごくいい町だった。いろんな国の人が共存していた。お互いを尊重してた」って。理解できないからとバカにしたり恐れたりじゃなくて、それはその人にとって大事なものなんだからとみんなが受け入れて一緒に暮らしていた、と。「そういう世界があったのだから、この先もできないはずがない。共存共栄とかお互いの価値観を大事にする世界っていうのが、できないはずがない」っておっしゃったんです。それを聞いたときに、「今の言葉を使わせてもらいたいな」と思ったんです、何らかの形で。
そこからはそれが本のテーマというか、その言葉をうまく伝えるような作品にできないかなと思うようになりました。

<模擬爆弾「パンプキン」を知っていますか(後編)>