記憶のない半年間
こんにちは。
菜々です。
前回、かわいがっていた猫を子どものためにすべて手放したことを書きました。
今回は実家から戻り、すぐに引っ越しをしたので、そのことを書いていきます。
引っ越しの理由ですが、大きく分けて二点です。
一つめは、生活保護によるもの。
二つ目は、児童相談所によるもの。
どっちも根本的な意味は一緒なのですが、一応分けました。
まず生活保護によるもの。
これは何かというと、以前書いたように、生活保護の時は家賃上限というものが決まっています。
この上限は、世帯員(一緒に住んでいる人の人数)によって変わります。
詳しくは下記記事で言及しています。
この世帯員ですが、離婚する前は当然元旦那と二人でした。
(妊娠中の子どもは世帯員としては換算されません。ただし妊婦手当のようなものが出ます。)
これが離婚して私一人となった。
ここも後悔のポイントなのですが、子どもを連れて直接退院できてれば引っ越しの必要はなかったんです。
旦那がいなくなっただけで、その後の世帯員は私と子どもで二人のままですからね。
でも今現在子どもと暮らしているわけではないから、世帯としては私一人ということになってしまう。
数週間で帰ってくるなど明確にわかっていれば免除もされますが、このとき明確にどの程度で返してもらえるのかなど教えてもらっていませんでした。
なので、いつ二人になるかはっきりとわからないのに、高額家賃のところに住み続けていいよとは言えないと。
まあでも、これも、あくまで転居の指導という形なので、引っ越さないとすぐに生活保護打ち切りとかそういうことではありません。
産後すぐだし、そこまでのことは言われません。
なのになぜ私が引っ越しを急いだのか。
ここに関して、児童相談所が絡んでくるんです。
ざっくりと言うと、児童相談所は家の環境を整えろというのを引き取りの条件として出していました。
家の環境を整えるにあたり、すでに転居を指導されてる家を整えろと指示することはできない。
すいません、少しわかりにくい書き方をしました。
でも役所とか児童相談所はこういう言い方をするんですよね。
つまり、生活保護上転居しろと指導されてる家で、引き取りを目指すことはできない。
引っ越せと言われてる家の環境をいくら整えたところで、それでよしとは言えないということです。
矛盾ですよね。
子どもがいれば二人世帯になって今の家を引っ越す必要はなくなるわけですから、「じゃあ返してくれよ」と思いました。
でもまあ文句を言ってもどうにもならないので、そうそうに引っ越す家を探したわけです。
つまりは引っ越さないと引き取りに向けても進まなかったので。
ちょうどその頃引っ越しシーズンだったし、今を逃したら家は減るばかりでもあったので、なんとか無理やり引っ越し先を探しました。
でもかなり強引に決めたので、今の家に満足しているかといえばぜんぜんしていないです。
早めにまた引っ越したいとすら思ってます。
まあともあれ、なんとか引っ越し先を探し引っ越した私。
これでようやく引き取りに向けた話ができると思い、児童相談所に今後どのように進んでいくのかを訊きました。
そうすると、ざっくり言えば、
・家を綺麗に保てているか継続しての確認
・乳児院へ面会に行く
・その後の外泊など
というスケジュールで進んでいくとのことでした。
そしてこの時はじめて聞きましたが、これをするのに、最低三ヶ月は見るということです。
このとき、私はかなり落ち込みました。
なぜならこのとき、少なくとも三ヶ月もの間、生まれたばかりの子どもと別々に暮らさなければいけないことが決まったのです。
SNSでほかのお母さんたちが生まれたばかりの新生児期の写真をあげてる中、私は病院で撮った数枚の写真を見て過ごすしかない。
それはかなり悲しく、どうしてこんな目に遭ってるんだろうと思ったものです。
ただし、これはまだましな話でした。
前回記事で、一日も早く子どもを引き取るために猫をすべて手放したと書きました。
これは絶対にそうしなければいけないという話ではなく、そうすることで少なくとも三ヶ月で帰ってきてくれるなら、と思っての苦渋の判断です。
ただ、このとき起こったこと。
それこそ、新型コロナウイルスの流行でした。
引っ越して少ししたくらいか、引っ越す直前、児童相談所から私に電話が来ました。
最初は、「コロナウイルスの流行により、乳児院の面会がしばらく謝絶になり、予定していたお宮参りが一緒に行けないかもしれない」と言われたんです。
まあそれに関してはしょうがないな、と思ったのですが、数時間して嫌な予感がしたので電話をかけ直したんです。
「面会が謝絶ってことは、会えないのはおろか、引き取りに向けて一切なにもできなくなったということですか?」
「そういうことになります」と、答えがきました。
結論から申し上げます。
新型コロナウイルスによる面会謝絶は、二月のこのときより、七月まで続き、そのあいだ私は一切娘に会えませんでした。
こんなことがありますかね。
何やら外国ではやった病が日本に入ってきて、それが流行したばかりに、生まれたばかりの娘と数ヶ月引き離される。
引っ越しもして猫も減らして、できることはもう毎日掃除をするくらい。
自粛だなんだで外に出ることもできず、もちろん生活保護ですので仕事もなく、気を紛らわせることもできず。
ただただ屍のように面会謝絶が解除される日を待つだけ。
何度も児童相談所に面会以外の方法はないかとも訊いたのですが、結論はいつでも一緒で、「面会できないことには進まない」の一点張りでした。
猫をすべて手放した意味などなくなったんです。
結局、私がもういくら努力をしようが、ここから半年は会えなかった。
なんのために猫を手放し、なにを目標に毎日寝て起きているのかがわかりませんでした。
寝て起きても、どうせ明日もまだコロナウイルスは流行しているんですから。
この頃、鬱が一番ひどかったですね。
まあそりゃそうなんですけど。
なにをどうしたって手放した猫は今すぐ返ってこないし、子どもにも会えないし、かといって諦めればそこまでで何もなくなる。
ただただ、夫と猫と家と我が子をなくすだけ。
でも毎日いつかの収束を願って耐えるにはあまりに先の見えないことで、正直、この頃何度も死んでやろうかと思っていました。
努力してもどうにもならず、逃げる場所もなく、すべて楽にするにはそれしかないんじゃないかと本気で思ってましたね。
毎日流れるニュースが嫌で嫌でしかたなく、ネットやテレビが嫌いになりました。
一日も早く収束してほしいのに、むしろ緊急事態宣言まで発令され、感染者数は右肩上がり。
本当に、いつこの地獄は終わるんだろうと思っていました。
それでもぎりぎり生きていられたのは、犬の存在が大きかった。
この子だけはと思い手放さなかった犬が、私を生かしてくれていました。
もし本当に死ぬのであれば、この子が飢え死にしてしまわないよう、きちんとした里親さんに引き渡してから死ななければいけない。
そう思うと、まだ犬と一緒にいたい一心で、その場にとどまれました。
万が一犬も里親に出していたら、この頃に私はわりと本気で死んでいた気もします。
このとき特に現世に未練と呼べるものもありませんでしたから。
今はすっかり元気になってきてはいて、やりたいこともたくさんできました。
鬱の頃って、やりたいことやしたいことも湧いてこないんですよね。
失ったばかりなので、新しく何かをする気力もないというか。
正直、この面会謝絶の半年間のことは、これ以上ブログに書くようなことがありません。
なぜかといえば、上記のとおり自粛があったので特に外出をしたり働いたりすることもなく、かといって子どものために何ができるわけでもなかったので、食べて寝るだけの生活だったからです。
これは私だけなのか鬱病の症状なのかはわからないのですが、あまりに鬱がひどく、何もやる気もない状態で食べて寝るだけの生活をしていると、記憶が薄いんです。
このような症状、学生時代にも経験しています。
高校一年生の頃、入ったばかりの学校がつらくて、学校に行かず毎日バイトにだけ行く生活をしていた半年のあいだ、すっぽりと抜け落ちたように記憶がないんです。
もちろん本当に半年ずっとこもっていたわけではなくて、自粛の中でもたまに外出をしたり人と会ったりはしていました。
言われれば、「ああこの人とあそこ行ったな」とか事実としては思い出せるんですが、鬱の時は喜怒哀楽が薄いので、そのとき何を思ったとか、思い出として覚えていることができないんですよね。
なので学生の頃の半年と、この自粛期間の半年、あわせて一年、私には人生の記憶がありません。
なので書くことができないんです。
すみません。
本当にただただつらく、毎日死のうかと考えていましたし、子どもをもう諦めたら楽になるのかなとも何度も思いました。
また、「なんのためにごはんを食べて生きながらえているのかがわからない。生きる意味もない私なんかに消費されるごはんがかわいそうだ」と思ったりしていました。
精神としては、DVを受けていた時より離婚したときより何より、この頃が限界でしたね。
かなりヘビーな話になっちゃいました。
一番つらかったのはこのあたりで、ブログの主旨でもあるとは思うんですが、本当にあまり覚えてない上につらかったことや死のうと思っていたことばかりなので、割愛させてください。すいません。
とりあえず、そんなふうに半年が過ぎていき、少し事態が動いたところから次回書いていきましょう。
ここからはまたライトめに戻れると思います。比較的。
本日も読んでくださりありがとうございました。
よければ読者登録、スターなどよろしくお願いします。
ペットと我が子、どっちが大事?
こんにちは。
菜々です。
まだ夏風邪が治りません。
熱とかはないのでコロナではないんですが、ずっと喉が枯れてる。
体、弱ー。
てなわけで、前回は退院の日のことを書きました。
今回は退院後、どんなことが起こったかを書いていきます。
退院してまず私は実家へ戻りました。
実家で暮らしていく気はありませんでしたが、産前戻っていて荷物もあったし、産後すぐの体で一人暮らしに戻ることに不安があったからです。
ただ引き取るためにはあまり実家でゆっくりもしていられなくて、私はすぐに動き始めました。
まず私がしたことは、飼っていた猫たちの里親探しです。
突然のことに驚かれた方もいるかと思います。
ただ、本当にこれが第一段階でした。
なぜ連れて行かれてしまうのかということを何度も児童相談所に聞いたのですが、はっきりとは言わなくて、ただ唯一いつも言われていたのは「ペットが多いため衛生的に不安がある」ということでした。
これに関しては、潔癖気味な私の母が「菜々の家は猫だらけで汚い」と児童相談所に言ったせいでもあります。
なんというか、うちの母はそういう人です。
なので、明確に「○匹まで」とか決まってるわけでもないので、「なるべく減らしてくれればそのぶん引き取りも早くなると思う」と言われていたわけです。
ここのところ、覚えておいてください。
べつに犬猫がいたって引き取れないわけではなかったけど、一日でも早く引き取るために、泣く泣く猫たちを里親に出すことを決めた。
のちのち重要になってくる話です。
当時犬が一匹、猫が五匹おりました。
どの子も我が子同然にかわいく、出産前、「子供のために犬猫を捨てろ」というような旨のことを言われた時は憤慨しました。
私にとってはどっちも我が子です。
なんで後から来る子のために先の子は捨てろという話になるのか。
その猫のうち、どの子を里親に出すか、これもかなり悩みました。
一匹くらいは残したいなだとか、一匹残すのであればもう一匹くらいはいないとさみしいかなとか悶々と悩んでいました。
ただ、最終的に私が出した結論は、猫を全員手放すということでした。
なぜそうなったのか、書きますね。
まず猫5匹のうち、メスの2匹は比較的早い段階で里親に出そうと決めました。
メスの子のほうがマイペースで一人でも平気そうな性格だったので、里親に出しても早めになじめるだろうと思ってのことです。
悩んだのは、残りのオス三匹です。
二匹はすでに成猫で、一匹だけちょうど一歳になるかならないかの子猫でした。
子猫はもちろんとてもかわいいし、でも成猫二匹の方が過ごしている時間が長いので愛着がある。
また、成猫二匹はとても仲がよく、いつもくっついているくらいなので、その二匹を引き離すことは考えられない。
となると、子猫一匹を手元に残すか、成猫二匹を残すか。
本当は全員育てたいところだけど、犬も入れて四匹となると引き取りまで少し障害が残る。
そんなふうに考え、悩みに悩み抜いて、最終的に三匹まとめて引き取ってくれる方を探したのです。
その三匹は私の中で本当に甲乙つけがたいほどかわいかったのです。
であれば、まとめて引き取ってもらうほうがもう優劣をつけなくてすむし、猫たちも幸せなんじゃないかと思いました。
ただ、ここに関して結果から言いますが、今とてつもなく後悔しています。
離れてわかりましたが、その成猫の子たちに対する愛情は私が自覚していたよりよっぽど深く、毎日手放したことを後悔しています。
今、どうにかまたその子たちと暮らせないかと試行錯誤しています。
現在はそこからまたいろいろあり、一匹の猫が我が家にいますが、やはりどうしてもその子たちのことが忘れられずにいるので……。
(我が家にいる子もとてもかわいいし、とてもかわいがって育てていますよ。でもやはり頭から離れない子たちです。)
ともかく、猫をすべて手放した私は、そのあたりで実家から家へと戻りました。
夫も猫もいなくなり、犬とだけ戻った家はがらんとしていて寂しかった記憶があります。
でもそこでもゆっくりはしていられず、産後二週間にして私は引っ越すための家を探し始めました。
それはまたなぜか。
ここに関して、ちょっと長くなってきちゃったので、また明日以降書かせてもらおうと思います。
本日も読んでくださりありがとうございました。
よければ読者登録、スターなどお願いします。
私のために嘘をついた母
こんにちは。
菜々です。
二日お休みしちゃっててすいません。
実家帰っていたのと、夏風邪、ひきました。
エアコンに弱くて結構すぐ喉やられちゃうんですよね。
というわけで、前回は児童相談所に退院の日、娘を引き取られることを書きました。
今回はではその退院の日のことを書きたいと思います。
その前に少しだけ記録がてら書いておくと、入院中、娘に一度黄疸が出ました。
「なにが原因というわけではないからお母さん気にしないでねー」と言われましたが、妊娠中私がストレス与えちゃったからかなとか考えざるを得ませんでした。
まあ結果から言うとたいしたことはなくて、今やその痕跡もありません。
ただ、この黄疸が出たことで、入院中1日だけ同室ではいられなくなりました。
黄疸が出ると、光線治療といって、保育器の中でなにやら青い光を浴びます。
ちょっとあたたかいくらいで、赤ちゃんに特に害があったり、しんどかったりするものではないそうです。
全身に浴びるのでおむつ以外全部脱がせます。
ただ、この光線、目にはちょっとよくないそうなので、目隠しをします。ずれないように上からネットもかけて。
その姿がこれです。
(手首にネームバンドがあるので隠しました。あと、いろいろ心電図みたいなのがついてるのは、黄疸とはまた別で、入院中ずっとついてたものです)
この光景、いくら本人はつらくないと言われても、見てる私としては少しショッキングというか、かわいそうな気持ちになってしまいました。
数時間とかではなく、半日とか、場合によっては数日にわたり光線を受ける治療です。
この間母子同室はできず、ナースステーションの奥で管理されます。
なので、恐ろしかったのは、黄疸が長引いて何日も保育器の中に入ってしまうこと。
ただでさえ入院中の一週間しか一緒にいられないのに、さらに入院中保育器となったら、全然我が子の姿を見られない。
最悪、私だけ退院して、娘は保育器の中で入院が長引くかもしれない。
最後の日に一緒にいることすらできないかもしれない。
そう考えると、とても不安な気持ちになりました。
ただ、この黄疸に関してはマイナスなことばかりではなくて、このとき母子同室がもうできなくなったことを悲しむ気持ちを自覚して、「ああ私一緒にいたいんだ」と育てたいと思うことへの後押しにもなりました。
でも、それでもなんとか治療が早くに終わるよう祈りました。
その祈りが通じたのか、娘は無事1日弱で保育器から出てくることができました。
なので、最後の日は一緒にいることができました。
そうして迎えた退院の日。
本来であれば最後に母子ともに検診を受けて、問題なければ一緒に退院です。
でももちろん私はそれができないので、まず私だけ先に退院することとなりました。
流れとしては、私が先に病院を出て、その後役所に出生届を提出。
その後もう一度病院に戻ってきて、待っている児童相談所に出生届受理証と母子手帳を渡し、娘の見送り。
母子手帳は今後乳児院がワクチンなどを受けさせる時必要なので、私が保持していることはできませんでした。
退院の準備をしながら、最後に娘と写真を撮りました。
入院中、娘の写真は何枚か撮っていましたが、一緒に写ったのはこれが最初です。
迎えに来てくれた母と共に車に荷物を積み、役所へ向かいます。
この時私が最後まで悩んでいたのは、娘の名前です。
私にはずっと前から「自分の娘にはこの名前をつけよう」と決めていたものがありました。
結婚中、女の子とわかった時からずっとそう呼んでいました。
でも、養子にするかもとなって、その名前は自分の子につける名前だからやめようと思っていたのです。
なのでそれから名前を変えるのであれば、「咲(さき)」かなぁと思っていました。
でも、育てたいと思った今、つけるべきはもう「咲」ではない。元々考えていた名前なはずです。
ただ、その名前で出生届を出せば、「自分が育てる」という固い決意の表れであると思いました。
悩む気持ちは正直まだありましたが、結局私は、咲ではなく元々考えていた名前で出生届を提出しました。
また、児童相談所から事前に言われていたのですが、ワクチンのお知らせなどが直接届くようにするため、娘の住所地は乳児院にすることと言われていました。
なので我が子と私は親子なのに住所が違うし、世帯主は娘本人になっていました。
この時、同じく出生届を出しに来たのであろう役所の中にいる新生児を連れた夫婦や、役所の人からもらう「おめでとうございます」と書かれたパンフレットがやはり少しつらかったです。
なぜならこのあと病院に戻った私は、自分の手で我が子を他人に渡さなきゃならないのですから。
出生届を出し、病院に戻った時、児童相談所のケースワーカーはもう到着していました。
受理証や母子手帳を渡し、少し話をして、「じゃあ……」ということになり、看護師さんがナースステーションで預かってくれていた娘を連れてきました。
そうして、私の目の前で、娘が児童相談所のケースワーカーに抱かれ、連れて行かれました。
母以外の他人(看護師さんなど病院関係の人を除く)に娘が抱かれるのは、これが最初でした。
もちろんその瞬間はとてもつらく、私も母も泣いていました。
看護師さんや助産師さんが病室で話を聞いてくれ、宥めてくれました。
その時の話の内容はあまり覚えていないのですが、とにかく、これから頑張って引き取ろうみたいな話をしてくれていたと思います。
それから看護師さんが裏口まで送ってくださり、車に乗って実家までの帰路につきました。
ですが、先に出た児童相談所らしき車の中に娘がいると思うと、走って追いかけて車を止めたい気持ちにすらなりました。
それから車の中で母といろいろ話をしました。
内容についてはもう覚えていられないくらいたくさんのことを話したのですが、特に印象に残っていることを書きます。
当初、私が引き取ることに反対していた母。
元旦那の血が入っているからという話もありましたし、入院中面会に来てくれた際には、「全然かわいくない。元旦那にそっくりだもの」とまで言いました。
なので入院中、面会以外にも何度も電話で「育てたい」と伝えていたのですが、「私は応援しない」の一点張りだったのです。
ただ、この帰りの車の中で、はじめて母の本音が聞けました。
曰く「孫がかわいくないわけない。血なんて関係ないことも知ってる。でもあたしは生まれたばかりの孫よりかは娘のあなたが大事だから、あなたがつらくなるような選択を応援できなかった」ということでした。
私はこれを聞いて、今までで一番に泣いたと思います。
私はてっきり、本当に元旦那の血が入った孫をかわいいとは感じてくれていないんだと思っていました。
でも本当は違った。
かわいいと思って居た孫に対しあんな言い方をするのは、良心も痛んだでしょう。
でも、それらすべては娘である私のためを想ってのことだった。
いつもつっけんどんで放任主義の母がそこまで想っていてくれたことに、涙が止まりませんでした。
おそらく、母は私が大学に行けなかったことや、反抗期の頃「うちは母子家庭だからお金がなくて周りと同じようなことができない」と言ってしまった私のことをよく覚えていたのでしょう。
だからそんな苦労を孫にさせたくないという気持ちもあったと思いますし、口には出さないまでも、私に対してコンプレックスのような申し訳ない気持ちでいてくれたんじゃないでしょうか。
なので私は母に、「私はあなたに育てられて幸せだったよ。だから母子家庭やお金がないことが不幸だと思わない。だから育てたい」と言いました。
母はそれからペットのことや家のことなど、ちゃんとしなさいと叱ってもきましたが、最終的には「がんばりなさい」と言ってくれました。
その日、スーパーに寄って帰り、久しぶりに母とお酒を飲みました。
たくさん泣いたし、先行きも不安な気持ちでいっぱいでしたが、とりあえずは母の本心が聞けたことが嬉しかったです。
ただ、本当につらいのはこれからでした。
次回、退院後の私とその周りの動向について書いていきます。
本日も読んでくださりありがとうございました。
よければ読者登録、スターなどお願いします。
無駄になってしまった我が子のための服
こんにちは。
菜々です。
前回、私が娘を育てたいと言ったあとの元旦那の反応について書きました。
今回は、ブログ後半のメインともなる、児童相談所とのやりとりについて書いていきます。
まず、出産後、入院中にいろんな人に育てるか育てまいか相談していた私。
同じ病院内の精神科の先生や、LINEで友人、また訪問に来てくれた保健師さんにも散々悩んでいることを話していました。
そこからようやく「育てたい」となったところまで以前の記事で書きまして、そこから先、それを児童相談所に伝えたらどうなったかを書いていきます。
まず、結果から言うと、「どちらにせよ一緒には帰れない」と言われました。
その理由は以下記事でも書いたので、よければ見てみてください。
たどるのが面倒な人用に簡単に言うと、ペットが当時多かったこと、実家に帰らないことなどが理由です。
育てたいと言ったところで、前日まで悩んでいたのは事実で、「はいわかりました、じゃあもう児童相談所は帰りますね」とはならなかったわけです。
これも以前書きましたが、もし里親に出すにしても一度児童相談所が預かり、里親希望の人に通ってもらうような形になります。
だからどちらにしても一度児童相談所が預かり、乳児院に通うようになると。
それを聞いて、正直私は「なにそれ聞いてない」と思いました。
出産前、児童相談所は「育てるも育てないも今すぐ決めなくていいよ。ゆっくり考えてね」と言ってくれていました。
それはそのとおりだったんでしょうが、悩みに悩んでようやく決めたら、「じゃあそれはそれとして連れていきます」って、そんなのあんまりだろうと思ったのです。
私の結論がどっちであろうと、娘が生まれた瞬間に連れて行かれてしまうことは決まっていた。
育てると決めた私でしたが、これのせいで、ここからまた長く悩むことになります。
せっかく必死で産んでようやく育てると決めたのに、生まれて一週間で引き離され、一番かわいい新生児期を見ていることができない。
人によっては「新生児とか小さい頃なんて一瞬だよ。そのあと一緒にいられる方が大事」と言ってくれました。
一理あるとは思いますが、それはあくまでその時期を見てきた人だから言えることだと思っています。
自分の子どもが生まれた瞬間から数ヶ月様子を見られないとなっても、「まあべつにいっか。どうせ一瞬のことだし」なんて思えるわけはないです。
そんなあっさり成長を見届けるのを諦められるくらいなら、最初から育てたいなんて言わない。
この保護に関しては、私の環境や覚悟が足りなかったのがもちろんで、不当な保護だとかそういうことを言うつもりは一切ありません。
上記のように児童相談所の決定に、時々「なにそれ?」と思うことこそあれど、児童相談所の担当ケースワーカーさんは精一杯私に寄り添ってくれているとも思います。
ケースワーカーさん、難しいですよね。
寄り添いすぎてしまえば自滅するし、機械のように対応していたらトラブルになるしで。
だからこそ、誰も恨むことはできず、私はただただ妊娠前自分の覚悟がなかったことを恨むしかありませんでした。
まあ元旦那に関しては諸々恨みありますが、保護になったのは元旦那のせいではなくやはり自分の決断のせいなので……。
最初から育てる覚悟があれば、児童相談所に相談もせず、普通に元旦那からお金をもらって別れて1から育てられた。
このことに関して、娘に申し訳ない気持ちでいっぱいだし、今でも新生児の子の写真を見ると胸が痛みます。
私が見ててあげられなかった期間なので。
この罪悪感は、私が一生背負う罰だと思っています。
友人や知人に「あの時の菜々が養子を考えたのは全然悪いことじゃないよ。子どものためなら当然だよ」と言ってもらっており、とてもありがたいですし、それがそのとおりであることもわかっています。
でもこれも私が私に一生思ってしまうことです。
どんな事情があれど、一瞬でも我が子をいらないと思ってしまった罪。
その罰に、生まれたての我が子を持って行かれてしまった。
人生、これまでたくさん失敗はありましたが、ここまで自分の選択を後悔し、時を戻したいと本気で願ったのは後にも先にもこれきりです。
あの頃の自分に会いに行ってぶん殴ってやりたい。
それからは病院にいても、正直つらいところもありました。
どちらにしても離れなきゃいけないとなった時、またしても私の中で「じゃあもうやっぱり諦めた方がいいんじゃないか」という気持ちも出てきました。
でも生まれたばかりの我が子はやはりかわいくて、「同室を辞めたい」なんてことはとても思いませんでした。
あと数日で離ればなれになることをわかりながら同じ部屋で寝起きし、ミルクもきちんと自分で毎回あげていました。
この時点で、母乳は薬で止めました。
どちらにせよ離れている間はミルクになってしまうし、その間母乳を搾乳したり捨てたりするのはもっとつらくなりそうだったので。
これからどうするのか、どうなるのかよくわからないまま、「退院の日に赤ちゃんを取りに来ますね」と児童相談所に言われました。
拒否する権利などもちろんなく、わかりました、と答えました。
退院当日のことは次の記事で書こうと思うのですが、入院中、私が思っていたこと。
上でも書いたとおり、私は自分に起こったことに対し誰かを恨んだり、誰かのせいにするつもりはありません。
今から書くことも、向こうにはなんの罪もありません。
その上で、どうしても思ってしまったこと。
入院中、他のお母さんたちを見るのがつらかった。
あと数日で離ればなれになると知り毎日を耐え忍ぶようにお世話している私と違い、当然一緒に帰れるお母さんたち。
みんな産後でへとへとのようすですが、その姿は希望にあふれていて、とても羨ましく見えました。
「可愛い」と思えば思うほど別れがつらくなる私と違って、あのひとたちは、なんの障害もなくまっすぐに自分の子を愛せていいな。
授乳室なんかで他のお母さんを見るたび、私はそんなふうにうらやんでいました。
それともう一つ、最初、私は夫に出産立ち会いを希望していました。
でも現実には私は一人で出産して、面会に来る夫もいない。
まあ、これはべつにいいです。もう来られたくもなかったから。
つらかったのは、離婚前から楽しみに用意していた新生児用の服なんかが無駄になってしまったという事実です。
児童相談所に引き取られた娘はその後乳児院に行くことになっていたのですが、乳児院は病気などの感染防止のため服やおもちゃを持ち込めないんです。
全部施設内で用意されたもののみ。
だから私が買った服は、乳児院に預けることもできませんでした。
退院当日、娘は病院の産着のまま乳児院に運ばれました。
同じ日に退院するお母さんたちが、楽しみに買ったであろうドレスや帽子を着せ、家族に囲まれて退院していくのを見ると、どうしても胸が苦しくなりました。
数ヶ月前まで、私もそんな未来があると信じてやまなかったですから。
このような経験を経て、元々は我が子は一人っ子でもいいと思っていた私ですが、ぜひもう一度再婚をして出産をしたいと思うようになりました。
今の子の代わりはいませんが、次こそは幸せに子どもを産んで、あのとき羨んだお母さんたちのように当たり前に我が子に自分の選んだ服を着せ、一緒の家に帰りたい。
それが今のところの私の人生の目標ですね。
というわけで、次回は退院の日の話を書こうと思います。
そのまま、母の話にもなるかな。
本日も読んでくださりありがとうございました。
よければ読者登録、スターなどお願いします。
元旦那が娘に唯一したこと
こんにちは。
菜々です。
昨日の記事にて、多くの方からお祝いをいただきました。
ありがとうございます。
ブログはむしろ佳境に入り、ここからまた続いていきますので、ぜひよろしくお願いします。
さて、前回は元旦那から慰謝料と養育費をもらえなくなったところまでお話しました。
今回はそれに対しての元旦那の反応を書いていこうと思います。
まず、協議離婚の条項にあった「養子に出す」を破ってしまうため、代わりにもらう予定だった50万円の慰謝料はいらないと言いました。
養育費に関しても、もらわないと約束していた上、そもそもそういうものを律儀に払ってくれるような人でもなかったので、もらわないこととしました。
このへんの詳細は前回記事をごらんください。
ここに対して、元旦那がどういうことを主張してきたか、箇条書きにて書きますね。
・慰謝料や養育費を払わないのは当然として、むしろ違約金としてお前が金払え
・どうせいずれ押しつけてくるんだろうから親権よこせ
・ていうかそもそもそれ俺の
1つめと2つめに関しては前回も書いたんですけど、問題は3つめです。
読者の皆さんは、ここまで書いてきた中でもかなりやばいのに、いよいよほんとにやばいこと言い始めたな、とお思いだと思います。
でもこれ、私的には予想の範囲内です。
なぜかというと、以下の記事で書いたのですが、元旦那はそもそも私の不貞を疑っていました。
事実もなければ、妊娠した頃私は元旦那につきっきりでいて出掛けることすらなかったにも関わらず、元旦那は心のどこかでずっと「また浮気をしたんじゃないか」と思い込んでいたわけです。
なので、喧嘩をした時や、離婚直後からちょこちょこ「誰の子かもわかんねえようなガキ」というような弩級のモラハラはしてきていたわけです。
で、これまで省いていたんですが、協議離婚をした時、向こう方の弁護士から、「不貞で訴えたい」だとか「自分の子かどうか調べたい」と元旦那や義母が言っているというのは聞いていました。
それを向こう方の弁護士が宥めてくれていたわけですが、今回私が離婚上の条項を破ってしまったので、もう止めることはできないと。
元旦那が親権を取るだなんだと言っていたのは、「養子に出さない限り自分が父親であることには変わりがないから、いつか菜々が子どもを捨てた時自分に迷惑がかかるから」です。
もし自分の子でないならその義務さえなくなるので、養子に出そうが育てようが好きにすればいいと思っていたらしいです。
いや、もう、びっくりしますよね。
自分の子じゃないと思っていたかもしれないとしても、自分の子の可能性もある中で、生まれた子どもによくそんなこと言えるな、と。
まあ弁護士いわくかなりの確率で自分の子じゃないと信じていたらしいので、こんなことを言えたようですが。
まあともかく、このようなことを主張してきていた元旦那とどう決着したか。
まず私としては、親権裁判はなんとしても避けたい事態でした。
その理由としては、児童相談所に確認したところ、「裁判が始まってしまうと終わるまで子どもを返せない可能性が高い」と言われていたからです。
どっちが親権を持つかという裁判なのに、先にどちらかに子どもを渡してしまうと、児童相談所がそちらに肩入れをしているということになってしまうそう。
なので、決着がある程度わかるまで、返還が先延ばしになってしまうと。
裁判はどんなものでも一年近く、親権となるとさらに揉めて二年近くかかることもザラなので、子どもと暮らすにあたりそれはなんとしても避けなければいけませんでした。
それを避けるためであれば正直違約金も払わなきゃいけないかなと覚悟していましたが、ここは頭をこらして、私もいろいろ考えました。
結論からいいますと、考えた結果、この違約金に関しては支払っていません。
どう決着つけたかといいますと、生活保護のシステムを利用させていただきました。
以下記事にて、生活保護は借金が禁止されていると書きました。
これを理由にして、「借金を禁止されている身分なので、今ないお金を払うことを約束することはできない」と言ったわけです。
弁護士はもちろん「そんなの無視しろ」とは言えませんから、ここで押し問答を何度かしてから、「じゃもうお金はいいです」という文言を元旦那から引き出しました。
ていうか、実家でぬくぬく暮らしてて今までの罰金や弁護士代も全部親が肩代わりしてるんだから、元旦那がお金をほしがる理由がまったくわかりませんが。
ただの私への嫌がらせと思われます。
で、親権裁判と3つめの条項についてですが、これについて、読者の皆さんドン引きすると思うんですよね。
簡単に言いますね。
娘のDNA検査を条件に、親権裁判を諦めました。
びっくりしますよね。
私もです。
一応私の尊厳のために言っておきますが、何度か断りました。
あまりに娘がかわいそうなので。
生まれる前に父がいなくなり、生まれる瞬間に立ち会いもせず、養育費や面会もなく、人生で唯一されたことはDNA検査のみ。
そんなこと、あります?
だから嫌です、と何度か言ったんですが、「じゃあ親権裁判をする」だとか、「そんな嫌がるってことはやっぱり疑わしいことがあるんじゃないか」だとかそんなことを言い出しました。
そんなことを言われるのであれば、娘と暮らすために致し方なく、「じゃあもうやましいことはないわけだしわかりました、お好きにどうぞ」と了承したわけです。
まあ、検査費用は自分たちで持つらしいですし、結果がどうであれもう私たちに関わらないと約束しましたし。
で、まあ、この結末ですが、私が了承したあと乳児院に検査員が行き数週間後に結果が出ました。
その結果、「間違いなく元旦那さんの子でした」とメールが来ました。
私は確実にそうだと最初から知ってたので、「そうですか……」しかマジで感想がなく、それ以上弁護士とも元旦那とも話すことがなかったので、そのメールに返信していません。
元旦那はわざわざ検査費用数万円を払い、生まれたての娘の細胞を摂取し、今後娘に一生会わなければ養育費も払わない他人となったわけです。
実の父なのに。
ちなみに元旦那と娘は、一度たりとも直接会っていません。
細胞を摂取したのは検査員です。
このことを思い返すと、こんだけひどいことされてなんで私無銭で別れてるんだろうとか、私と娘に対してどんだけ人非道的なことをしてるんだろうとか、今でも悔しい気持ちはあります。
でも妊娠前の葛藤ふくめ、あのとき私は毎回最善を選んでいるつもりでしたし、いつだってその時はそうするほかない状況でした。
なので結局は今の状況にしかならなかったと思うし、これ以上悩んでいてもしかたがないという結論です。
とりあえず、本日は元旦那との本当に最後の決着でした。
これにて元旦那とのやりとりは完全に終わりましたので、今後元旦那が関わってくることはないかと思われます。
(あくまで現時点の話ですが……。)
次回からは、母や児童相談所についてを掘り下げていこうと思います。
本日も読んでくださりありがとうございました。
よければ読者登録、スターなどお願いします。
【ご報告】
こんにちは。
菜々です。
本日ご報告のため、本編とは時系列など関係ないです。
あと短いです。
ご報告というのは、本日無事、半年の保護を経て娘が我が家に帰ってきました。
まだ一応正式な引き取りではなく措置停止なんですが。
このまま問題がなければ、10月に正式な引き取りです。
とはいえ、短期の外泊でもなく、これから毎日当たり前に娘と過ごせるということ。
本当に嬉しい。
このまま再度の保護などないよう、頑張って暮らしていこうと思います。
いやそもそも私が悪いことしたわけじゃないんですけどね、最初から……。
というわけで、本日はご報告までに。
引き取りでかなりバタバタしてしまって疲れきっているので、本日はこれだけです!
ただ、応援してくれた母や友人や読者さま各位、まとめてになってしまい恐縮ですが、改めてありがとうございます。
これからも何卒このブログと菜々をよろしくお願いいたします。