カスタマーレビュー

2019年6月13日に日本でレビュー済み
予め言っておくと、評者は安部支持では断じてなく正反対であると言ってもいい。だからといって民進党系の泡沫政党の支持でも、共産党支持でも、維新の支持でも、ましてや公明党の支持者でもない。政治的なスタンスとしては、反グローバリーゼーションであり、「格差」と「不平等」と社会のいたるところに「分断」が蔓延する状況を作り出した新自由主義には徹底的に反対の立場をとっているので人から見れば左寄りと分類されるだろう。

「リベラル」のイデオローグを自任する政治学者が、この程度の論考で、安部一強を許した「野党」を断罪し自分は得意げに「オトナ」なったと自己総括している本書は、著者も含めてリベラルが負け続ける理由が非常によく分かる。悪い意味で。著者の執筆意図と内容からも汲み取れるという意味では、タイトル自体が非常に自己言及的であり、つまり噛み砕いていえば、リベラルの学者がこの程度の幼稚な内容を得意げに語るレベルだからこそ、リベラルは負け続け政党支持率は低迷し、安部の批判票すら取り込めないという実情には、残念ながら得心がいく。

例えば、「第七章「ゼニカネ」の話を政治でしたい」では著者がブレイディみかこ氏の一連の議論をもって、「経済」を崇高な政治的理念とやらから一段低く見ていた過去を反省したとある。評者はブレイディみかこ氏のパンクにルーツを持つ地べたからの反権力の姿勢に共感を覚えるものであるが、仮にも政治学者として禄を食むものが、彼女の著作に目を見開かされて自分の過去を反省したと臆面もなく書けるというのは、それこそ著者の言葉を借りれば、「詰め腹」を切って学者を名乗るのをやめるべきではないかと思う。学者の立場から言えば、あくまでブレイディみかこ氏の姿勢は、現実に展開する実例であり補強材料であって研究者としての信条がひっくり返るような話ではないとも思えるし、ひっくり返るのであればその程度の知的研鑽しか詰んでこなかったとしか思えない。

民主主義とグローバリゼーションと国家主権のトリレンマはダニ・ロドリックが一連の著作で論じているが、世界的な右派ポピュリズムの台頭と左派民主主義の退潮は、この本にあるように単に現行の日本の小選挙区制に対する野党の選挙戦略に議論を矮小化して、オトナになって「協力しよう」では、現状の民主主義の危機を打開できるとも思えない。現行の小選挙区制の得票率と議席占有率の乖離は、それこそ民意が適切に反映されていない可能性が高い、という意味で民主主義の根幹に関わる問題だと思うのだが、それに迎合して党利党略を錬ろうとでもいいたいのだろうか、著者は。ITの進化は完全直接民主制の将来的な実現(形式としてはある意味民主制の理想型ではある)が可能なところまで来ていると評者は考えるが、それを予見して仮に実現した場合の民主主義の強靱さと健全さを担保するものが何かを今から考えておくのが学者としての仕事ではないのか。

さらに「第二章 善悪二分法からは「政治」は生まれない」、で引用されるのが著者の小学生時代のエピソードであることに至っては、もはや乾いた笑いしか出ない。善悪を越えた政治のリアリズムの決断の例として評者が想起するのは、旧共産時代のポーランドでヤルゼルスキ将軍がソ連の介入を防ぐべく、民主化運動を弾圧するために布告した戒厳令であり、日本であれば政治姿勢に賛同するわけではないが故野中広務であったりするのだが、一体左派・リベラル派を自任する政治学者というのは、旧ソ連に対峙していた旧東欧諸国の政治史からも何も学んでいないのだろうか。反体制運動を弾圧していたヤルゼルスキ将軍と弾圧されていた側の連帯議長ヴァウェンサ元ポーランド大統領が、ソ連崩壊後には無二の親友になったというエピソードを評者は好きで、表面的な善悪の彼岸を越えて国を想う覚悟を持って相対した者同士しかわからないものがあるということなのだろうし、政治のリアリズムというもの教えてくれるからである。近代的思考の礎となり近代社会を形づくってきたデカルト的な二元論の限界は、世界の閉塞的な状況が広がるに到って社会科学の様々な分野で批判的に議論が進められているが、それもフォローしている様子もない。単純化して世界を認識する落とし穴は、右派にも左派にも共通するものであって結局一歩もそこから足を踏み出さずに、だらだらとエピソードをならべて我田引水に到る知的怠慢を、評者は幼稚としているのである。

最終章で”現実に立ち向かうための「リアリズム」”というが、それまでの章で筆者の自己総括のきっかけとして随所に引かれているのが映画だったりするので、最後までなんとか読了しても筆者のいう「リアリズム」というのは観念の中にしか存在しないのではないかという疑念は拭えず、よくいるオールド・レフトの自己陶酔感丸出しの気持ち悪さだけしか読後感として残らなかった。

もちろん、議論をわかりやすくするために映画「ダンケルク」やらPTAのエピソードを引いているのかもしれないが、だとすると筆者は想定するリベラルであろう読者の知的水準を,そもそもその程度にしか見積もっていないということでもある。

著者には申し訳ないが、評者はギリシアの元財務大臣・経済学者でもあるヤニス・バルファキスの「黒い匣」を読了した後に本書を手にとったので評点がより辛くなるのは仕方がないかもしれない。とてつもなくギリシャ債務危機の困難な状況の中、社会を護るために政治に関わる覚悟と経済学者としての矜恃に深く感銘を受けたのだが、「黒い匣」の後では、中堅私大のテニュアを持った政治学者が自分が生活基盤が脅かされることのない安全地帯から政治ごっこをしていられる余裕が東京にはまだあるのね、あるいは少なくとも著者の現状認識はそういうものなのね、というのが正直な感想である。この世代の社会科学者のこれまでの知的怠慢に対して個人的な反省文として本書は執筆されているそうだが、この世代の社会科学者の怠慢こそが、現在の人文社会科学分野と若手研究者への逆風の原因の一つになっており、この傾向が続けば近い将来さらに健全な社会の礎としての社会科学が提供すべき知的基盤の弱体化が免れられない事態を引き起こすかもしれない、という危機感と反省は著者からは一切感じられない。どこまでいっても、「リベラル」とやらを擁護し政治に関わる自分が大事なのだろうか。職を賭して選挙にうって出ればいいものを、それはせずに安全地帯で「応援」とか「参謀」に奔走するらしい。大学教員の裁量労働制がもたらす自由度はそういうためではないだろう。

著者が単なるリベラルな政治運動家の「自己総括」的反省文ならいいが、それなりの年齢の政治学者が、「友」を失う覚悟で執筆したらしい。自己決定権のある健全な社会を護るバルファキスの「覚悟」、その覚悟故に左派急進連合からも孤立していく過程が黒い匣は描かれているが、著者のいう「覚悟」とやらはそれに比して、本を売るための宣伝文句にしか見えないくらい軽く、本書で展開されている知的営為も政治的実践も学生サークル並の底の浅さである。著者もその「友」とやらも、彼らが支持している政治家もまとめて、新疆ウイグルでもウクライナでも崩壊している日本の農村部でもいいから民主主義と共同体の危機にある最前線に送り込みたくなる衝動にかられるが、うすうす感じていた日本のリベラルがどれほど絶望的にダメなレベルにあるかを再確認できたので星一つ。本当なら星ゼロでもいい。評者は次の選挙、どうすればよいのだろう。

(7月3日追記)
機内でこの本しか読むものが手元になく、あまりの酷さに勢いで書き殴った評に賛同される意見が多いことに恐縮してしまい、また読み返してみると流石にもう少しちゃんと推敲すべきであったと反省している。従って意味の変更のない形での文章の修正と、多少の追記をした。ヤルゼルスキ将軍のポーランドとかヤニス・バルファキスについてはギリシャ債務危機とか。

「ゼニカネ」の話を政治でしたいというが、そもそもマルクスの「資本論」でもピケティの「21世紀の資本」でもいいが同時代の資本主義経済・社会への異議申し立ては主題としてゼニカネの話をしているのであって、今さらリベラルぼくちゃん、仲間より先にゼニカネの重要性に気づいてえらい!みたいな口ぶりは、さすがのコウペンちゃんでも許さないのではないかと思うほどである。政治と経済は別物とでも考えていたのであろうか。さらに言えば、全てを否応なくゼニカネの問題に帰着させられる近代資本主義システムこそが格差、移民、貧困、途上国での環境破壊といった様々な地球的な問題につながっているのに。だとすれば、これまでゼニカネ抜きにこの著者は、「リベラル」の旗を掲げて誰に向かって何のために戦ってきたというのであろう。この著者の政治的見識の、耐えられない程の薄っぺらさと軽さはどこから来ているものなのだろう。一方でヤニス・バルファキスが「父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。」で真摯に今の社会を憂い、圧倒的な知見と深い洞察を背景にしながらも、できるだけわかりやすく経済の問題を一般向けに書き下ろしたものとの値段を比べると、なんとこの駄本の方が108円価格が高いのである。同じ程度の金払うならバルファキスの本の方がいい。文化祭のりの選挙に勝っても負けても大学での自分の地位は安泰、一皮むけたオトナの「リベラル」くんと、市民のために祖国を背負ってEUに対峙したバルファキスと比べるのも後者に非常な失礼な話ではあるのだが。
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