彦四郎の中国生活

中国滞在記

お盆帰省❸―第11回「1968年卒・河野中学校同窓会」2017・8・13

2017-08-18 06:20:40 | 滞在記

 8月13日の夕方、この日 昨年に結婚し京都に住む「息子夫妻」と「娘夫妻とその娘」、故郷の家に暮らす母と私達夫婦の8人が「お盆帰省」のために集まった。家の前に3台の京都ナンバー車が駐車される。この日の午後5時半すぎに、実家から歩いて10分ほどのところにある旅館「清海館」で行われる中学校の同窓会に出かけた。

 午後5時から始まっていた同窓会には30人ほどが集まっていた。懐かしい恩師の「仲坊先生夫妻」や「宮永先生夫妻」も来ていた。この2組の夫妻は、私たちの中学校での職場結婚組であった。仲坊先生は、小学校6年生の時の担任でもあった。私の歴史好きに影響を与えた人の一人でもある。中学校では「社会科」を担当していた。宮永先生は「国語科」担当で、その奥さんの旧姓・藤法(ふじのり)先生は、「音楽科」担当だった。先生たちは、私たちより8才〜10才くらい年上である。

 この音楽科担当でブラスバンド部の顧問でもあった「藤法先生」は、小さい体で きれいな声でよくしゃべって歌うので、ニックネームは「トランジスターラジオ」だった。今でも長髪が似合う乙女チックな美しい人だ。当時、中学校の男子生徒から人気があった。辺鄙な海岸の村々の女性にはいないタイプの人だったので、男子生徒からのラブレターもあったらしい。3年生だったある日の音楽の授業の時、私はクラスの同級生と2人で、音楽室に「青大将(蛇)」を持ち込んで机の中に押し込んでいた。先生が、一段高い教壇に立って黒板に向かい字を書いている頃を見はらかい、その青大将を先生の足元近くに投げた。振り向いて蛇に気が付いた先生は「ギャー!!!!」という絶叫をあげたと思いきや、目を点にして教室を出て行った。その後、しばらくして、男の宮永先生が入ってきて、「誰や!!!やったのは誰や!!!」と叫んで、「はい、すみません、私たちです--。」と白状した瞬間に、鉄拳が飛んできた。こんなこともあって、その後2人は結婚に至ったようだ。この問題行動(事件)は、二人が結婚に到る多少の影響があったかもしれない。

 1968年(昭和43年)3月卒業の私たちは、今年65才になった。NHK朝ドラ「ひょっ子」の主人公たちより2才年下の年代である。彼女たちが奥茨城村の中学校を卒業したのは1966年3月かと思う。ドラマの中で語られるビートルズが来日したのは1966年の夏だったからである。

 卒業アルバムを広げてみると、当時の教員は13名、内・女性が3名。教員写真には、独身当時の仲坊先生夫妻・宮永先生夫妻もあった。もう一人の女性教員の庭本先生(数学担当)のニックネームは「ガンベ」だった。「ガンベ」とは私たちの地元方言で、「蟹(カニ)」のことである。黒板の前を、右に行ったり左にいったり、小さな蟹のように ちょこちょこと忙しく 黒板に文字や数字や記号を書いていた先生だったからである。私たち卒業生は3クラス97名だった。

 校歌は3番まであり、簡潔明瞭で 軍歌のようにテンポがよく いい歌詞の校歌だと思う。この中学校で思い出に残る学校行事が2つあった。一つは、全学年のクラス対抗「校内バレーボール大会」だった。全校で9クラス、男女別なので全部で18チームが競う大会だった。もう一つは毎年夏の7月に行われる「全校・ウニ採集」だった。中学校近くの「八幡崎(はちまんざき)」の海岸で、全校生徒300人あまりがウニをとる行事だった。男子生徒は海に潜りウニをとり、女子生徒は そのウニを陸で処理して雲丹(ウニ)の実をより分ける作業を分担。そして、それを売って学校の諸費用にするというものだった。

 今年の同窓会は第11回目だった。1回目は18才の時、2回目は20才の時、3回目は25才の時、-----。それ以降は、5年毎に、30・35・40・45・50・55・60・65と続いている。97人中、すでに9人が他界している。この日の65才の同窓会には、88人中(福井県内在住が55人ほど)26人が集まった。70才となる第12回目もあるかもしれない。

 NHKドラマの「ひよつ子」の主人公たちと同じような年代の田舎の中学校だったので、中学校を卒業後、京都・大阪・名古屋を中心に半数以上の55人ほどは「集団就職」をした。また、15人ほどは 福井県勝山市の「縫製・繊維工場」に就職し、同時に夕方から夜間の工場付属の定時制高校に通った。全日制高校に行けた生徒は25人ほどで、そのほとんどは工業高校や商業高校で、普通高校に行ったのは4名にすぎなかった。全日制高校に行かせてもらうだけでもありがたく、大学に行くなどというのは「夢のまた夢」で、別世界のことだったので考えたりもしなかった。陸の孤島のように交通事情が良くなかったので、高校進学組は全員が、下宿や寮生活だった。その後、大学に進学したのは私を含めて3人だけだった。卒業後、漁師となった同級生も2〜3名いた。そんな時代だった。あれから、50年が経った。午後9時ころ「同窓会」がお開きとなった。

 翌日14日の朝、村の「円光寺」(天台宗派)のお坊さんが檀家参りで、自宅の御仏壇での「寺坂家先祖供養」に来てくれたので皆でお仏壇の前に集まった。その後、寺の背後の山にある場所の「お墓参り」に行った。昼過ぎに、15日から仕事が始まる「息子夫妻」が京都に戻って行った。この日の夕方、中学校時代からの友人である松本君の家「渓流荘」に、娘夫妻や孫、妻とともに行き、酒を飲み渓流や海の魚を食べながら一緒に過ごした。私だけはその夜、ここで泊まることとなり、翌朝に妻に車で迎えに来てもらった。

 15日の昼過ぎ、娘夫妻は夫の実家「滋賀県東近江市(旧・八日市市)」に向かうため出発。私たち夫婦も、京都に戻るため午後1時f半ころに実家を車で出発した。高速道路をほぼ使わずに、琵琶湖の湖西道路などを通って京都に戻った。

 

 

 

 

 

 

 

 

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