2020年08月12日
「目覚め行く広場」であれば
Qさんが、私たちの生存するこの場からいなくなってしまいました。
突然なことではありました。
6月30日の組合大会にオンラインで参加していたことを思えば、その死はもちろんあまりに突然です。
そして、ずっと心身ともにすぐれずなかなか集まりなどに顔を出すことも困難だった日常をおくっていたことからいえば、昨年の夏以降は、フリーターユニオンの団交にも参加し、事務所での学習会にも参加しの日々がありました。しかも、
それはご自分の翻訳された「目覚め行く広場」というドキュメンタリ映画の上映であり、そこにその監督をされていたジョルディさんが、奇跡的にも日本を訪れたという幸運もあったのです。
その後、ちょくちょくメールやラインなどで意見を交わし、通信にも文章を寄せ、学習会での感想やコメントを積極的に発信しておりました。体調的には、厳しいと本人も常に心配をされておりましたし、重い持病のようなものを抱えながらにもかかわらず、そのような執筆とか発言のできるQさんをすばらしいことだと思っておりました。
彼の翻訳に関する業績といわれるものは多々あります。執筆名は、芦原省一です。
「ウォール街を占拠せよ」大月書店
彼は、私たちの心や体のいたるところに生きています。
6月半ば発行の通信誌に以下のような長文を寄せています。
断片を書く、断片を生きる
以前から、このフリーターユニオン福岡の通信紙には、書いたり書かなかったりという感じの私だ。今回書いてみたらどうかと勧められた時、次のように言って固辞しようとした。「今の自分はあまりにも衰えてしまっているので、SNSの投稿のような断片的なものは書けても、それなりの内容を持った一本の文章にまとめ上げるだけの力量はないだろう」と。だが、どうだろう。それこそ断片的なものなら書けるのではないか?
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現状分析。今の私はいくつもの病を抱えており、そのおかげでほとんど身動きが取れない状態だ。精神面では寛解していたうつ病がすっかり再発してしまった。それに加えてPTSD様の症状にも苦しめられている。身体面では、呼吸機能が大幅に低下した。医者によれば肺気腫の一歩手前だそうだ。それに肥満も抱えている。
大月書店との争議などについても、同じ様なことが言える。大月書店闘争は、合同労組の方で団交要求を行った後、労働委員会で闘い、行政訴訟も闘ったが、そのどちらも敗北した。労組が採る通常の手法としては、もはや手詰まりである。なので、こちら側からあらためて何らかの行動を起こしたいところだが、それができないままでいる。
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経過報告。私はおおよそ、思春期の初めよりうつ病ではあったが、二〇一〇年代の前半には寛解していた。そして資格試験の学習をしたり、反原発運動に参加したり、気ままに英文記事を翻訳したりしていた。が、大月書店との争議やインターネットで浴びた凄まじい差別などのせいもあり、少しずつ体調が悪化していった。
そして、二〇一六年に完全にノックダウンしてしまった。年が変わった二〇一七年の正月が明けてから、当分の間治療に専念せざるを得ない旨のメールを、各方面に送ったことを覚えている。その頃はまた、とりわけ希死念慮に取り憑かれていた時期でもあった。その後最悪の状況は脱したものの、心身の健康はいまだ回復しないままだ。
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いつかSNSに次のような投稿をしたことがあった。多少文面を変えて引用すると、「
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私の物語はある意味で単純だ。福島第一原発の事故が起きた時、私はすぐに福岡での反原発デモに参加した。そうすべき理由は山ほどあったから。反原発運動に「日の丸」を持ち込んで来る人が現れた時、これに抗議した。朝鮮系の私にとって、その血まみれの旗と場を共にするのは不可能だったから。
大月書店から二冊目の翻訳契約の際に、とても呑めないような条件を出された時には、合同労組に加盟して団体交渉を要求した。民族性(エスニシティ)というとても大切なものを、踏み躙られたくはなかった。
その他に、私を含む多くの人々に対して、インターネットでむちくちゃな差別発言をしていた人物がしばき隊なる団体を結成し、「反差別」運動のリーダーになったりもした。私はそうしたことどもに、それ相応の理由を持って反対してきた。それは、ある意味で、原発や差別や「日の丸」や「君が代」に反対するのと同じ理由だった。
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だが、その単純な物語は、全くとは言えないまでも世間には受け入れられなかった。ここで言うのは〈左派〉や〈リベラル〉を含む世間のことだ。今や、それらの人々はこんな感じになってしまった。原発をなくすためなら、差別をなくすためなら、安倍を倒すためなら、天皇はもちろんのことを、右翼や日の丸、差別者や歴史修正主義者を受け入れてもいいじゃないか……
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これまでに私が経験してきた闘いにおいては、闘い始めてから武器を探すようなものだった。あるいは競技に参加させられてから、その競技のルールが次第に判明していくようなものだった。ひどく困惑したし、ひどく苦労した。
それにまた、私はいまだに争議の渦中にいるのであり、差別被害によって受けた傷も癒えてはいない。おそらくはそのせいもあって、私は自分が経験してきた経験をまとまったものとして振り返ったり、人に提示したりできずにいる。その必要は大いにあるにもかかわらず。
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健康面でもそうだが、政治的にも私は追い詰められてしまった。今や前に述べたような人々――「新しい国民運動」などと呼ばれている潮流――こそが〈左派〉や〈リベラル〉の主流となった。
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これまでに述べてきたような状況において、私が心配せざるを得ないのは、大月書店との争議やしばき隊系の人々などからの差別被害が風化してしまうこと、忘れられてしまうこと、なかったことにされてしまうことであり、私が孤立してしまうこと、告発が無効化されてしまうこと、告発が個人の資質に帰せられてしまって、その社会的意義が無視されることである。
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それまで謂わば「野良左翼」だった私が、社会運動などに参加する中で知ったことは、〈左派〉や〈リベラル〉の中にも序列があり、虚栄があり、虚飾があることだった。目下、第二次安倍政権という極右政権かつ超長期政権に対する反対が、主たる課題とされている。それはその通りであろう。しかしながら、安倍政権の誕生とその長期化には、〈左派〉や〈リベラル〉の腐敗も資するところ大ではないのか。
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今、私はこう思うのだ。日本国の政治が長い間〈独裁〉の手に握られてきたのは、〈独裁〉に反対すべき勢力の中に、〈民主主義〉が存在しなかったからではないのか、と。必ずしも〈独裁〉を打ち倒せば〈民主主義〉なるものが訪れるものではなく、〈民主主義〉とは今ここで、私たちの手で、この場から作り上げていかなければならないものであり、実践していかなければならないものではないのか、と。
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序列の上にいる人々や勢力――野党共闘だの市民連合だの、あるいは幾人かの〈左翼〉セレブレティだの――からは、遠く離れたところでやっていこう。「野良左翼」でもけっこう、まずは自分たちの手で民主主義を生み出していこう。平等や自由や連帯を実践していこう。
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私は切れ切れに生きている。私は切れ切れに生きていく。
uimaki1957 at 08:19│Comments(0)│
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