パラグアイ大使・中谷好江:「情熱と好奇心、体力」で突き進むワーキングマザー外交官
政治・外交中谷好江さんのパラグアイ大使任命と同時に、夫の元海上自衛官・大塚海夫氏は、ジブチ大使に決まった。自衛官出身の大使任命は初めてだ。南米、アフリカで離れ離れに外交の舞台に立つ。「私は外務省で“自衛隊制服組”と結婚した(女性職員)第1号でした。もともと落ち着いて同居するのが無理なカップルなんです」と言って、中谷さんは明るく笑う。
転勤の多い幹部自衛官、海外勤務が必須の外交官として共に多忙を極める二人が、長期にわたり離れて暮らすことはこれまでも何度かあった。中谷さんが子連れで海外赴任したこともある。だからこそ、夫、二人の娘と一緒に過ごす家族の時間を大切にしてきたという。決して楽な道のりではなかったはずだが、「夢を実現できた私は恵まれている」と謙虚だ。
夢見る少女が目指した外交官への道
広島で生まれ育った中谷さんが最初に外国にあこがれを抱いたきっかけは、少女時代に見た人気テレビドラマ『アテンションプリーズ』や『兼高かおる世界の旅』だった。「スチュワーデスになって世界を駆け巡りたい」と英語の勉強に精を出したが、大学進学を考える頃には、英語以外の言語も習得したいと考えるようになった。
「スペイン語なら公用語とする国が多いので、きっと視野が広がると思いました。それに東京の大学に行きたかった。弟は2人いましたが、一人娘だったので、父からは広島大学に行けと言われました。でも、地元の大学は滑り止めも含めて一切受験しませんでした」
無事、東京外国語大学スペイン語学科に合格し、就職を考える頃には、外務省で仕事をしたいと思うようになった。「これもテレビの影響です。NHKで『マリコ』というドラマを見て感銘を受けたのです。原作も読んで、私も外交の舞台で国益のために働いてみたいと思いました」
柳田邦男の原作は、日米開戦前夜、外交官・寺崎英成と米人女性の間に生まれたマリコが親子2代にわたって日米の懸け橋となる数奇な人生を描いたノンフィクションだ。
中谷さん世代の就職は、男女雇用機会均等法が制定される前だ。「あまり勉強をしなかった成績の悪い男子学生でも、商社などにどんどん就職が決まっていくのに、女子は成績トップでもなかなか決まらない時代でした。しかも都市銀行などは自宅通勤が前提で、地方出身者を採用してくれなかった。私は外務省試験に的を絞っていましたが、試験が難しくて『落ちた!』と思い、焦って就活を始めました。ですから、外務省に合格した時には、ボーダーラインでも、一途な情熱が伝わったのかなと思いました」
日米貿易摩擦交渉の現場へ
1983年の入省後は、スペインで2年間研修を受けた。中南米各国の若い外交官たちと一緒にスペイン外務省の外交官学校で国際法や経済、歴史を学んだという。その後、書記官としてパナマに赴任、将来の夫と出会った。大塚氏が、若手幹部として参加した海上自衛隊の練習航海で同国を訪問したのだ。「お互いの第一印象はよくなかった」が、日本での再会が縁で親交を深めたそうだ。
パナマでの任期を終えた88年、北米第二課へ配属された。周囲は米国事情に通じたスタッフばかり。おりしも電気通信市場への参入や自動車輸出を巡り、日米貿易摩擦が激しかった時期で、「ジャパンバッシング」が盛んだった。中谷さんは建設協議の担当になった。「着任した当日に、午後から米国大使館の人が建設協議の打ち合わせに来るからと上司に言われて、まだ状況を何も把握していないのにと焦りました」
「タフな仕事で、残業は多いし、やっぱり私は『体力採用』だったのかと悟りました」とおおらかに笑う。「結果を求められ厳しかったですが、外務省の最前線で仕事ができて勉強になりました。それまでは、中南米の専門家になれればいいと漠然と考えていましたが、もっといろいろな分野で経験を積みたいと思うようになりました」
在ペルー大使公邸占拠事件でプレス対応
1996年、長女を出産後の育休明けに、1歳の娘を連れてワシントンへ赴任した。ちょうど夫の大塚氏も米ジョンズ・ホプキンズ大学に留学が決まり、家族で過ごすことができた。同年12月、ペルー日本大使公邸占領事件が発生し、プレス担当を補佐するために現地へ飛んだ。事件発生後2日目のことだ。
「現地入りした大勢の日本人記者たちの取材攻勢を取り仕切り、上司のブリーフィングを補佐する役目でしたが、人の命が懸かっているので緊張しました。ゲリラも報道を見ているはずですから、少しでも間違った報道があれば、人質を傷つけるような事態になりかねない。どんなに厳しい外交交渉で決裂したとしても、それでいったん終わります。でも人質事件は終わりが見えず、緊張がどれだけ続くか分からないことがつらかったですね」
翌年4月、当時のフジモリ大統領の判断で特殊部隊が突入した。極秘裏に進められた突入作戦を、日本政府は事前に知らされていなかった。ゲリラは全員死亡、兵士2人、人質1人が亡くなった。中谷さんは、救出された青木盛久大使の会見のセッティングや人質の状況に関する取材対応に追われた。
大統領の下した判断の是非は難しい。一方で、海上自衛官の妻としては複雑な心境だったと言う。「指揮官の命令で部下が死ぬという事態を目の当たりにして、夫の命令で部下が死んだら、その家族はどんな気持ちだろうかと思いました。指令を下す立場の重さも痛感しました」
社会全体で子育てを
その後、OECD(経済開発協力機構)東京センター所長などを経て、2013年、当時中学生だった次女を連れてメキシコへ赴任、15年には単身赴任でパラグアイ大使館勤務となり、18年に帰国した。
さまざまなポストを経験した上で、人生の転機は出産だったときっぱり言う。
「それまでは自分が頑張れば、どんなに大変なことでも何とかなると思っていました。ところが、赤ん坊はまだ言葉が通じないし、自分の思い通りにはならない。どんなに仕事が忙しい時でも熱を出すし、泣いてほしくない時に泣く。世の中には自分ではコントロールできないことがあると思い知らされました。子どもやママ友を通じて、社会を見る目も開かれました。例えば、妊娠中や出産後にベビーカーを押して歩くとき、バリアフリーでないとどんなに不便かよく分かりました」
仕事でも、チームとして若いスタッフと一緒に働き、育てていく過程は、子育てと同じだと言う。「何か欠けているところがあったり、話が通じなかったりする若い人でも、寛大に受け止めて、チームの中で生かして育てていくことが人材育成だと思います。経営者としても、育児経験のない男性よりも母親の方が向いている面があるのではないかと思います」
子育ては“ワンオペ”の時期が長かったというが、大塚氏は忙しくても、授業参観や運動会などの学校行事には喜んで足を運び、誕生日やひな祭り、クリスマスなど節目節目に家族と過ごす時間を大切にしてくれた。「みんながいつも一緒にいられなくても、娘たちには家族の楽しい記憶が刻まれていると思います」
2019年、「ジェンダー・ギャップ・ランキング」で日本が121位と過去最低を記録した。まだ外交の舞台で活躍する女性は多いとは言えない。家事や子育ての負担が女性に偏っているために、自由に羽ばたけない人たちが多いことは確かだ。特に子育てに関しては、社会全体で育てるという意識を共有してほしいと言う。
「私が理想とするのは、江戸時代の長屋のようなコミュニティーです。『ちょっと出掛けるから子どもをお願い』と隣人に預けられるような環境だといいですね。最近、幼稚園や小学校をつくる計画があると、うるさくなるからと近隣から反対の声が上がることが多々ありますが、子どもたちの元気な声は、繁栄の証しと受け止めてほしい。子どもは社会の財産だからみんなで育てるという意識を男女問わず共有しない限り、ジェンダーギャップは改善しないと思います」
「バーチャルな世界」に安住しないで
外交官としての強みは、日米貿易交渉、途上国への経済協力、広報などさまざまな分野を経験したからこその「ネットワーキング力」だ。「私自身に深い専門知識がなくても、一緒に仕事をした人がさまざまな分野にいるので、知らないことがあれば、誰に聞けばいいかすぐに分かります。国際交渉の場でも、相手を知っていて信頼関係があれば、どこで折り合いをつければいいかの判断もつく。人脈は外交官のアセット(資産)です」
直接体験すること、人と出会うことの重みを知るからこそ、内向きで「バーチャルな世界」で満足する傾向がある最近の若者が少し心配だそうだ。
「留学に消極的な人もいますが、海外での出会いは人生を豊かにしてくれます。それに実際に外国を訪れると、バーチャルでは分からなかった街のにおいや音に驚くはず。食べ物でも発見があるでしょう。例えば、スペインの生ハムやワインは日本でも味わうことができますが、現地の気候風土の中で食べたり飲んだりする方が格段においしい。実際に体験しないと分からないことはたくさんあるのです」
いまはコロナ禍で渡航が制限されている状況だが、若い人には海外への興味、異文化への好奇心を持ち続けてほしいという。
日系人が活躍するパラグアイ
前回は公使として赴任したパラグアイに、今度は特命全権大使として戻る。
「国土は日本の1.1倍で、人口は約700万人。アスンシオンは、建設ラッシュで都会ですが、移住地では、見渡す限り大豆畑が続いていて、見るだけで心が解放されます。日系人の数は1万人程度ですが、社会の第一線で活躍し、尊敬されています。日本人が移民した当初、みそ、しょうゆを自給するために大豆の栽培を始めました。『不耕起栽培』(耕さなくても大量に収穫できる作付け方法)を導入して、成功したのです。いまでは、世界第4位の大豆輸出国となり、パラグアイの発展の礎を築いたと感謝されています。そして日本人は、自分たちを移民として受け入れてくれたことに対する感謝の念を忘れていません」
2016年には、移住80周年の記念行事で「日本祭り」などのイベントが開催され、日系人以外のパラグアイ市民も大勢参加して楽しんだと言う。「親日の環境がもう出来上がっているので、私はとてもラッキーです。2度目の赴任を歓迎してくれる人たちも多い」と中谷さんは心からうれしそうだ。
「パラグアイの魅力を発信することも私の役目です。まだ日本企業は20社程度しか進出していないので、もっと誘致したいですね。それからパラグアイの赤身の牛肉はとてもおいしいんですよ。日本への輸出を実現したいと思っています。日本とパラグアイ双方がハッピーになるように貢献したい」
インタビュー撮影:藤原 敦子