04 始動
ランドルフはクリスティーナからの書簡を受け取った。薄紫の便箋は、花とクリスティーナの頭文字を刻んだ封蝋を施されている。
クリスティーナはよく書簡をよこす。儀礼的で内容も用件のみのことが多いが、それでも時候のあいさつやほんの短い私的な文句も添えられている。その筆跡は美しく、乱れもなくて本人同様の印象だ。
書簡の内容は、見舞いの礼と公務を休んだ詫び、そして……。
「今後は共用の寝室には赴かぬ、か」
義務で共にしていた寝室を今後は辞退するということか。侍医からの報告でひどく腰を打ったのは承知している。今後の懐妊は難しくなっただろうとも。その事情を踏まえてのこととは理解できるが、ひどく事務的にも思える。
これがブレンダだったら。ついそうして比較してしまうが、ブレンダであれば容易に想像がつくのだ。ひどく泣いて、すがりついて夜も一人でいるのを拒むだろう。人肌に触れていたがるに違いない。
もし今後子供が望めそうにないとなったら……身も世もないほどに悲しむだろう。
クリスティーナは寝台から離れるやすぐにたまった執務を処理しだしたとか。
あれは女性の皮をかぶった男性なのかもしれない。側近としてあれば、あれほど冷静で淡々と物事を処理していくのは頼もしいだろう。王妃としての公務ぶりも申し分がないのだから。
笑いも泣きもせずに、失った子供の事などすでにあれの中ではなかったことになっているのかもしれない。やはり王妃ではなく、側妃として娶るべきだったかと今更ながらに思わされる。
「まあいい。これで側妃のもとに通っても文句はないだろうから」
寝室でも乱れた様を見せなかった氷の王妃よりも、包み込んでくれる側妃の方に情が移っても当然だろう。ましてや子供が難しいとなった現状では、本人の方から断ってくれたのはありがたい話ではないか。
そうは思いながら先手を打たれた感が拭えず、ランドルフは愉快ではなかった。
クリスティーナは自室で自分の手を見つめていた。空っぽの手は、しかし空っぽゆえに今後は何でもつかめるのではないか。瞳に決意を宿して、クリスティーナは自分の衣装担当の侍女を呼んだ。
「王妃様、お呼びとうかがいましたが」
「もっと近くに。あなた、わたくしが階段から落ちた日に靴のことでわたくしをかばってくれたそうですね」
普段はエルマ以外の侍女を側によせたりあまつさえ踏み込んだ会話もしない王妃だけに、何を言われるのかとびくびくしていた侍女はがちがちに緊張していたが、その言葉にはっと顔を上げた。
「王妃様、私、悔しかったのです。王妃様が踵の高い靴だなんて。あの……ご懐妊が分かってから王妃様がどんなに着るものや履くものにお気を配られていたか知っていたものですから」
「ジェーン、だったわね。ありがとう、あなたがそんな風に見ていてくれたのを嬉しく思います」
ジェーン、と呼びかけられた侍女は目も口も丸くしてクリスティーナを見つめる。気高い女主人は、エルマとそれ以外の侍女に明確に線を引いていて名前を呼んだりすることはほとんどなかった。
着替えを手伝ったりするとありがとうとは言われていたが、さきほどのような真摯な響きではなく嬉しいなどと気持ちを表すこともなかった。
意外なことに頭は半分真っ白だが、ようやく言葉を口にする。
「もったいないお言葉です。王妃様」
「いいえ、当然のことです。あなたが嘘吐きにされてしまったのでしょう? そのことで辛い目にはあっていませんか?」
ジェーンはぶんぶんと首を振る。王妃様が心配してくれた、その事実の前には陰口など取るに足らないことに思えた。
目の前の女主人は硝子のようなうす青い瞳でじっと見つめてくる。前にはそれが怖かった。何を考えているのか分からない、人間離れしている――そんな印象だったからだ。
それが今は小首をかしげて自分の反応を待っている。
人形が魔法で急に人間になったような気さえした。
「いいえ、私は大丈夫です」
「それならよかった。呼んだのはそれも気になっていたのだけれど、もう少し動きやすい簡素な服を用意してほしいのです」
「簡素な、ですか」
「お忍びで出かけるような類のものが欲しいのです」
今までのドレスをできるだけ手直ししてほしいと頼まれて、エルマも立ち会ってドレスを選び出した。
王妃はあまりドレスに関心がないようで自分から作ることも少なかった。側妃のブレンダに国王がドレスをかなり贈っている話をやはり衣装担当のブレンダ付きの侍女に聞かされて、悔しい思いもしていた。
着飾れば誰よりも美しくためいきを誘うのにもったいないと思ってもいた。
「体は一つなのに贅沢なものね」
「王妃様、体面というものがございます」
エルマにたしなめられながらもドレスを選ぶ王妃を、ジェーンは不思議な思いで見つめながら腕にドレスをかけていく。
一通り選んで縫製の部署に持っていくことになった。部屋を出ようとして礼をすればまた王妃から呼び止められた。
「ジェーン、あなたは衣装担当ならお針子などとも親しいのかしら」
「はい、補修などの関係もありますから」
「では腕の良いお針子には仕事があるかしら」
ジェーンもエルマも王妃の意図が飲み込めずに、ちらりと顔を見交わした。
「はい、町の手芸店でもそうですが腕の良いお針子は仕事に困りません」
「知りたかったのはそれでした。どうもありがとう。仕事ぶりは元から信頼していましたが、今回のことであなたが信用するに足る侍女だということがわかりました。これからもよろしく頼みます」
ジェーンはうっすらと涙を浮かべた。認められたのが嬉しく、心の底から王妃に仕えようとする忠誠心が沸き起こってきた。
王妃付きの侍女が側妃のところに行きたいと愚痴っていたがとんでもない。
「わ、私これまで以上にお仕えします。なんでもおっしゃってください」
つかえながらそれだけを言うと、ドレスを両手にかかえて縫製部へと急いだ。
こんなに沢山王妃様と会話をしたのは初めてだ。今ほどあの人を綺麗にしたいという欲求にかられたことはない。細かく注文をつけて、このドレスを生まれ変わらせようと決意していた。
エルマは王妃を眺める。
「王妃様、ジェーンにお声をかけるなどこれまでありませんでしたね」
「あの娘はわたくしをかばってくれたのよ」
「自分に責が問われるのを恐れてのことかもしれません」
「それだったら途中でわたくしから命令されて、と主張を変えていたと思わない? 城内の者が、陛下ですら踵の高い靴を履いていたと信じているのに、あの娘は聞き取りの者の誘導にも最後までわたくしが高い靴を履いていなかったと言い通したそうだから」
小国から来た王妃と侮る者の多かった城内にあって、侍女も例外ではない。国内貴族の令嬢が務める侍女の目は侯爵令嬢のブレンダにいきがちだ。自分のことをブレンダに流しているのも承知している。
何より欲しかったのは信頼できる味方。数年かけて城内の人間を吟味し、ようやくまずはと思える人物を見出した。
そのきっかけが事故というのは皮肉だが。
「あなたの調査では掃除担当の者、営繕の者、中堅どころの侍従、そして仲介役の伯爵といったところね」
「そこまではたどれました。伯爵様と侯爵様の繋がりは……」
「貴族社会の繋がりでしょう。陛下に疎まれて侯爵の邪魔者となれば貴族階級を取り込むのは困難ね」
一人で納得してクリスティーナが頷く。
「エルマ、わたくしは決めました。次は宰相殿にお会いしなければ」
空っぽなら失うものはない。今の自分にあるのは王女であることと、王妃であること。
――自業自得で国王陛下に疎まれた王妃であること。小国の出自と侮られていること。
「ねえ、エルマ。ジェーンのように素直に泣けるのっていじらしいわね、慰めて守ってあげたくなるってこういう感じなのかしら」
「王妃様、男性のようなことをおっしゃいますな」
「もう女性である意味はないのだから、そう思うのかも」
素直に泣けて笑えるのなら。
――私の前で笑うな。妃が亡くなったのになぜお前が生きている。なぜのうのうと笑えるのだ。
――泣くな。気がめいる。誰かこれをよそに。私の前に連れてくるな。
――お前の姿など見たくない。
北の生国でも寒々しい針葉樹に囲まれた離宮で、心は芯まで凍えた。
温かくなっても融けることのない氷の大地のように冷え切ってしまっている。
「さて、氷の王妃がらしくないことを始めようかしら」
王妃の執務室に呼びつけられた宰相は言われたことに目を瞬かせた。
「孤児院、ですか」
「ええ、定期的に通いたいんです。執務の調整をお願いします。それと城下に屋敷も。小さいもので構いませんので」
この王妃は何をするつもりなのだろうか。冷静沈着、老獪と評判の宰相にも王妃の考えが読めない。
王妃は慈善活動はこれまでもしていたが、主として寄付に関するものだ。
「難しいですか?」
問われて熟考する。要望そのものは難しいものではない。調整に少し手間取ったとしても実現はする。ただ次の発言にはその意図を図りかねた。
「お忍びで通いたいんです」
「王妃様がお忍び、ですか」
貴婦人の慈善活動はいかに注目を集めて情け深い人物かという評判を取るために行う、一石二鳥の暇つぶしのようなものだ。それをお忍びでとはどういうつもりだろう。
宰相の困惑を感じたのだろう、王妃は説明を始めた。
「わたくし、もう子供が難しいでしょう? ですから親のいない子供の親代わりのような真似事がしたいんです。この孤児院は以前に寄付した際に子供の直筆で礼状が届いたので興味がありまして」
それに、と言葉が続く。
「陛下はわたくしのすることにさして関心は示さないでしょうから」
だから好きにさせてください、とたたみかけられて宰相は承諾した。
王妃の慈善活動は褒められこそすれそしられるようなことではない。
ただ、子供が残念なことになっての行動に違和感を覚える。宰相は、この王妃は本心は語るまいと察した。ならば王妃の行動を注意深く見守ってその意図を探るだけだ。
「ただ、陛下へのご報告はさせていただきます」
「それは勿論」
大枠は固まり、細かい点は後日詰めるとして宰相との会見は和やかに終わった。さすがに有能な宰相だけあって、半月後にはこじんまりとした屋敷も手配して孤児院への訪問日も決めていた。
クリスティーナは手直ししたドレスに身をつつみ、目立たない髪形に結い上げて馬車に乗り込んだ。エルマとジェーンも同行し、王妃付きの近衛が一人は御者の横に座り、もう一人が馬で付き従う。
目にした孤児院はくたびれていた。あちこち補修が必要なようだし、子供の数に建物の大きさが見合っていない。
出迎えてくれたのは目尻の皺が優しい印象をかもし出す修道女で、院長だった。
応接室に通されてクリスティーナは院長と話をする。院長ははじめは驚いた様子でクリスティーナの話を聞いていたが、そのうちに目元を潤ませて何度か拭いそして手を胸元に持っていき、祈りの形をとった。
その後は院長の案内で院内を見て回る。明らかに定員以上の子供達がいて、一様に興味深げに見つめている。服装、居住環境、栄養状態。さすがに質素ながら掃除は行き届いてはいるがその他は問題が山積みのようだ。
冷静な目で見回していたクリスティーナは、刺すような視線を感じたが受け流した。馬車に足を向けようとしたクリスティーナは背後から呼びかけられた。
反抗的な目で見ているのは院でも年長の少年だ。体に合わないきつめの服を着ている。胸のうちに色々とたまっているように見えたので、発言を赦す。
「あんた王妃様だろう? なにしに来たんだ? ちょっと寄付して慈善家ぶるのか」
「ボブ、おだまりなさい。王妃様に失礼ですよ」
院長が慌てて止めに入るのをクリスティーナは制した。つい、とボブと呼ばれた少年に向き直る。横と背後にいる近衛がす、と気配を変えるのも感じた。
人のよさそうな院長はもう倒れる寸前に見えた。ボブ自身も敵意をみせながら、ひどく緊張している。これは自分の言っている意味を、その影響も理解しているに違いない。
「ここに手を入れようと思って来たの」
「そう言ってみんな少しの間だけは寄付したり、訪問してきたりするんだ。でもそのうち飽きてほったらかしだ。俺達はお貴族様の気まぐれに振り回されるのはごめんなんだ」
「まあ、勇ましいこと。でも振り回されるのは力がないからでしょう?」
不敬ととがめようとした近衛を目だけで黙らせてクリスティーナは少年に答えた。
ここで皮肉に笑えたならもっと効果的に少年の怒りを買えただろうに。
「あんたも気まぐれなんだろう。中途半端に手を出すくらいなら最初から手を差し伸べるな」
――温もりを知った後で飽きたおもちゃのように放り出されたら、余計に惨めになるから。
クリスティーナはボブの言いたいことを察した。
これは拾い物かもしれない。
「勿論、気まぐれよ」
言い切ったクリスティーナにボブを含めて二の句が継げないようだ。
「わたくしの気まぐれがどの程度か実感するといいわ」
近衛と御者に指示して馬車の後ろに付けていた箱を持ってこさせる。中には本とお菓子、様々な大きさの服と靴が入っていた。
呆気に取られている少年の耳を涼やかな声がうった。
「これはほんのあいさつ代わり。明日には全員分の服と靴をよこすわ。院長様、あとはこれを」
院長に皮の袋を渡す。
「当座の費用です。たまった支払いに当ててください。後ほどわたくしの代理人が参りますので、先程の件を相談なさってください。
それからボブ、だったかしら。あなた、力が欲しいのでしょう? わたくしもなの。だから吼えていないでしばらく静観なさい」
それだけ言ってクリスティーナは馬車に乗り込んだ。
走り出した馬車で侍女二人がもの問いたげな顔をしている。後で、とだけ呟いてクリスティーナは外を眺めた。宰相が用意してくれたという屋敷を目指して馬車は走る。
最初の一歩を踏み出したと、氷の王妃はそう思った。