03 否定
ようやくクリスティーナが寝台から離れられるようになった頃には、ランドルフからの見舞いは途絶えて久しかった。
一時は腰を強打したせいで歩けるかとまで危惧されていたが、ゆっくりと起きたり座ったり寝室の中を歩くことで侍医の顔に安堵が広がる。
クリスティーナはぼんやりと窓の外を眺めることが増えていた。ショールを羽織ったクリスティーナの瞳は、まばたきもせずに遠い街並みや山々を見つめていた。
「王妃様、食事を用意しましたのでお召し上がりください」
「ええ」
もともとあまり食がすすむ性質ではなかったのが、寝込んでからはいっそう細くなっていた。エルマに強く促されて口にはするものの、そうでなければ何も食べないのではと思うほどだった。
「もう食べられないの。ごめんなさい、下げて」
申し訳程度に数口つついて、クリスティーナは給仕の侍女に告げた。侍女はためらいがちに皿を下げる。せめてと香りのよいお茶を淹れて、下がっていった。
少しずつ熱いお茶を飲んで、クリスティーナは寝込んでいた間にきた見舞いの把握と、礼状を書くために王妃付きの補佐官を呼んだ。直々に礼状を書く必要のあるもの、祐筆に代筆させて署名だけをするものなどに分けられたものを処理していく。
「王妃様、あまり根をおつめになると、お体に障ります」
補佐官が進言した頃には、一通りの署名が終わっていた。
クリスティーナはペンを置いて補佐官に頷いて、執務用の机から離れた。
「王妃様、このたびのことは、あの……お気の毒でした」
まだ年若い補佐官が言葉を選んで慰めてくれる。クリスティーナは、その顔をまじまじと眺めた。
「ありがとう。教えてくれないかしら、今度のことはどういう風に言われているの?」
「あの、王妃様が踵の高い靴をお履きになっていて、階段から……と」
「そう、もういいわ。明日以降の公務も徐々に慣らしていくのでよろしくね」
補佐官が出て行ったのを確認してクリスティーナはふうと息を吐いた。
まだ本調子ではないので、体が重い。それ以上に噂のことで頭が痛い。
誰が発端か、どこから経由で広まったのか今から確認できるだろうか。国王のランドルフですらそのように報告を受けて、証拠の靴を寝台に放り投げたのだからこれを覆すのは難しいだろう。
今はまだ『事故』でもいつなんどき、これが『王妃が故意にやった』と歪曲されるか分からない。そうなれば、問題はこの城の中だけではなく生国との関係にも影響を及ぼしてしまう。
婚姻名目で同盟を結んで鉱物資源の加工技術を持った人材が技術供与を始めて数年、ようやく生国でも一定の基準の加工が可能になっている。
関係を今断ち切るのは得策ではない。
ただ、自分は今まででさえお飾りの王妃だったのが、今回のことで完全なる役立たずになってしまった。子供を望めない王妃なんて。
噂が歪曲されれば、誰が誰に話したかを丹念にたどれば発信源の特定は可能だろう。それが自分を追い落とす意思を持つ人物ということになる。
私的な居室に戻り、鏡に映る自分を客観的に眺めてみる。冷たい印象しかかもし出さない、本当に人形のようだと自分でも思う。
「お母様に似ているって本当なのかしら」
そっと手を伸ばせば鏡の向こうからも手が伸びてくる。指先の触れた鏡はひどく冷たい。本当に氷でできているようだ。笑おうとしても顔が強張っていた。
「王妃様、お茶会にお招きいただいてありがとうございます。お加減はもうよろしいのですか?」
「ありがとうございます、ブレンダ様。せっかくお見舞いをいただいたのにお礼が遅くなってしまいました」
王妃の部屋で側妃のブレンダを招いてお茶会が開かれていた。王妃の向かいに座るブレンダは魅力的だ。濃い金髪は目に眩しく、碧の瞳は輝いている。頬は薔薇色で唇も紅い。
氷の王妃とは対照的に春の化身のような侯爵令嬢だった。身につけている暖色系のドレスもよく似合っている。
クリスティーナは冷静にブレンダを観察する。今回の件で城内の勢力はブレンダ側に傾く。ランドルフが通っていることも承知している。遠からず、ブレンダが懐妊するだろう。
ブレンダは未来の国王の母で満足するだろうか。王妃としてランドルフの横にあることを望むだろうか。
「……とても綺麗な花をありがとうございました」
「いいえ、品物をと思っても王妃様はなんでもお持ちですので」
にっこりと微笑んだブレンダに、控えた侍女達がひきつけられるのを感じる。ブレンダの部屋はたいへんに活気があるらしい。時めいている側妃であれば当然か。
自分付きの侍女も、本心ではブレンダ付きの方が良かったと思っていることだろう。自分に仕えていても張り合いはないだろうから。
「わたくしは何も持ってはおりませぬ」
「ご冗談ばっかり。ドレスも宝石も両手に余るほどお持ちではないですか」
そんなもの――。ほとんどが生国から持ってきたもの、それも婚姻が決まって初めて利用価値の出た自分に仕立てられたものだ。ランドルフからは、婚儀をあげてほどなくそんな贈りものも途絶えた。
本当に欲しいものはいつだって自分の手には入らない。
最初から手に入らなければ、存在を知らなければまだいい。手に入ると見せかけてすり抜けられる。何度もそんな経験を繰り返して、欲しいものなど欲しいと願う思いも失せていた。
「いいえ、わたくしには」
「王妃様は『王妃』ではないですか」
「あなたは『国母』の可能性を有しておいでではないですか」
お茶の香りはとてもよいのに、きな臭い。不快に思いクリスティーナは眉をひそめた。
ブレンダは王妃の地位を望んでいる。侯爵が後押しをするなら自分は命が危うい。今まで以上に口にするものに気をつけなければならない。
物騒なことを考えているクリスティーナをよそに、ブレンダは碧の瞳をきらめかせた。
「私、今回のことはお気の毒だと存じます。でも、あまりに不注意です。陛下のお子様を宿していながらあのような軽率なことをなさるなんて。
もし私が陛下のお子を身ごもったのなら、あらゆる危険から遠ざかりますのに」
「ブレンダ様、おっしゃる意味がよく分かりません」
「とぼけないで下さい。皆が言っています。王妃様が不用意に踵の高い靴を履いていたと」
「誰がそう言ったのです?」
冷たい声音に、ブレンダは言葉を飲み込んだ。薄青い瞳に貫かれてひどく決まり悪い思いになる。
「皆が、そう……」
「その皆とは誰なのです? あの日、わたくしに衣装を着せた侍女は当日の靴も覚えていましてよ。かわいそうに、半狂乱になって靴のことを言っていましたから。
もちろんわたくしも、踵の高い靴など履いた覚えはありません」
ランドルフが信じている以上、何を言っても無駄なのは分かっている。ただ、この過失が一人歩きすれば生国が低く見られてしまう。それは王女として育った自分には容認はできない。
たとえ生国で疎まれていた王女だとしても、国の体面を汚すわけにはいかない。
ぱちりと音をさせて扇を閉じる。
「王妃様のお言葉とはいえ……」
「ええ、陛下に報告もいっていましたからどう取られても構いませんが、身に覚えのないことだけは明言しておきます」
一度、はっきりと疑惑は否定する。ランドルフにもそう言った。
信じるかどうかは彼ら次第だ。でも否定した事実だけは残しておかないと、付け入る隙を与えてしまう。
「せっかくのお茶が冷めてしまいましたね。代わりを出しましょう」
人形のような冷たい表情のまま、壁際に固まっている侍女に目配せをする。慌ててお湯と代わりの茶葉を用意する侍女達。これだけの人物が目撃をしたのだから、噂としても広がるだろう。
ここまでがここでできること。後は当日のことを覚えている冷静な第三者を探し出すこと。エルマを通じて調べさせなければ。
「王妃様は……」
ランドルフの寵愛を受けて元々美しかったのがさらに匂うように花開いたブレンダは、さすがに言葉を濁した。冷たい? 血が通っているとは思えない? その辺りを言いたかったのだろう。淹れなおされたお茶を飲みながらクリスティーナは思考する。
面と向かって王妃の人格を攻撃するのはさすがに角が立つ。さっきの発言も、取り様によっては充分に不敬なのだから。
「体調が完全に戻ったわけではありませんので、わたくしは公の場に出る機会が減ります。どうぞ、陛下の支えになってくださいませ」
「王妃様。ええ、私にできることがあれば懸命につとめさせていただきます」
「わたくしも安心です」
きっと夜会などでランドルフの側にはべる姿を想像しているのだろう、ブレンダはさっと頬を赤らめた。なんて素直で一途な、可愛い娘なのだろう。
育ちのよさが繕わない表情に表れている。まだ自分に憎しみの目は向けられていない。自分を排除する意図は見て取れない。ただ無邪気にランドルフの全てを望んで、誰より近くにいられる王妃の地位を望んでいるのだ。
淑女の礼をとってブレンダを見送った後で、クリスティーナは書簡をしたためた。
封蝋をほどこしてエルマに渡す。一通は国王のランドルフに宛てて、もう一通は北の生国に宛てて。
「ねえ、エルマ。笑ってみてくれない?」
「王妃様?」
おかしな要望にエルマが首をかしげながらも笑ってみせる。クリスティーナはエルマの笑顔に、目を細めた。
「ありがとう」
一人になって鏡の前でクリスティーナは確認するように呟く。
「此度の件、王妃の地位、国の資源と技術と流通路……わたくしの手札はどこまで通用するかしら」
空っぽは空っぽなりに働かないと。
ふとブレンダの素直さを思い出す。
「あなたの欲しがっているものは、とっくにあなたのものなのに」
あなたこそ、何でも持っているでしょう? 陛下の愛も、親の愛も。子供を持つ可能性も。笑うことも泣くことも自然にできる。
豊かな感情を表せる素直さも。