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氷の王妃

作者:素子

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01  空虚

 夢の中で何かを必死に探していたような気がする。気ばかり焦って、でも探し物は見つからなくて、そのうちにずきずきとする痛みに取って代わる。

 するりと何かが去っていく気配がした。引き止めたくて必死に手を伸ばしても何も掴み取れない。呼びかける声は水の中のように不明瞭だ。

 待って。お願い、行かないで。私の――。


「お目覚めですか」


 聞き覚えのある声に見覚えのある景色。ここは寝室で呼びかけた侍女のエルマが目を赤くしている。何故日の高いうちから寝台に横たわっているのだろう。

 常に情報を得て状況を把握して立ち回ることが染み付いているクリスティーナは、いつもと同じように質問しようとした。

 そちらに顔を向けて起き上がろうとして、ひどく背中が痛むことに気付く。


「わたくしはどうしたというの?」

「王妃様、昼間に階段から転落なさったのです。それで……」


 いいよどみ、涙を流す様子で理解する。すうっと血の気が引いていくのが分かる。寝ていなかったらおそらく倒れていただろう。途端、痛みが耐え難いものになる。同時に下腹部の違和感が強まる。

 無意識に上掛けの下で腹部に手をやり、クリスティーナは感情をのせない声音で侍医を呼ぶようにとエルマに申し付けた。


「ご気分はいかがですか」

「背中と腰が痛むほかは――。駄目だったのですね?」


 初老の侍医はてきぱきと質問をして診察をし、目的にかなった薬を用意していたがクリスティーナの一言でその手を止めた。そして改めて腹部の診察をはじめた。

 クリスティーナは黙って身を任せる。診察が終わって手を洗った侍医の目には同情の色がある。それでもきちんとした回答をよこした。


「お気の毒なことです。今回王妃様は腰を強打されました。今後のことは現段階では予測は難しいのです。ただ、何とも申し上げにくいのですが、次に懐妊される可能性は低くなったかと存じます」

「そう、陛下のお子を流した挙句に今後の妊娠も難しい。そう言うことですね?」

「仰せの通りにございます」

「分かりました。――少し、休みます」


 寝る前に痛み止めだけは飲むようにと指示して侍医は寝室を出て行った。

 待ちかねたようにエルマが近くにくる。それまでも抑えた嗚咽は聞こえていたが、今は誰はばかることなくぼろぼろと泣いて、握り締めている手巾が随分と重くなっている様子だ。


「王妃様、おいたわしい。あの階段に油が塗ってあったのです。きっと側妃の――」

「滅多なことは言うのもではなくてよ、エルマ」

「ですが王妃様がお倒れになって大騒ぎしていた最中、私も慌てて階段を下りたのです。その時に足を滑らせました。この目で油が塗られているのを見ました。指でも確認をしたのです」


 クリスティーナの頭にその時の様子が浮かび上がる。ようやく気分がよくなり、今を盛りに咲いている花を見ようと庭園に行こうとして、階段を下りていたのは間違いない。

 その中ほどで急に足を滑らせたのもだ。あとは一瞬のことで景色がめまぐるしく変わったこと以外は覚えていない。悲鳴すらあげた覚えもなかった。

 とっさに手すりを掴もうとしてかなわずに、空を切った自分の手だけを妙に覚えている。


「張替えのためにと絨毯をはがしてありました。そうでなければ、王妃様が転落なさることもありませんでしたのに」


 エルマは悔しさのあまりに身を震わせる。

 対するクリスティーナはその情報を組み上げる。であれば、準備期間を設けての周到な計画に違いない。王族専用の階段。クリスティーナは懐妊してから、中央ではなく端を下りるようになっていた。それを知っていて準備のできる人物。

 侍医を買収できなかったから、実力行使に出たという線か。城の実務を担当する者に今回の立役者がいる。出自や縁戚などを組み合わせれば、きっと一人の人物に行き着くはずだ。


 直接の指示は側妃となっている令嬢ではなく、父親の侯爵だろう。

 内心で冷笑が浮かぶ。後ろ盾のない王妃でも、それが子供を産めば影響力は小さくない。お飾りの王妃と安心していたところに今回の懐妊が発表されて、城内に少なくない騒ぎをもたらしたのは承知している。

 未来の国王の祖父の立場を得るために、なりふり構わずということか。


「陛下は?」


 クリスティーナの短い質問に、エルマははっとした顔を見せた。それだけで反応が察せられる。そう、いつものことなのだ。


「王妃様の意識がない間に、報告がなされたと聞き及んでおります」


 その後は聞かなくても分かる。目覚めたときに侍女のエルマしかいなかったこと――それがここでの自分の立場を表しているのだから。

 おそらく報告を聞きはした。そして聞き流したのだろう。

 そうは思っても何の感慨もわかない。


「陛下には申し訳ないことになったけれど、安堵されたのかしら」

「王妃様っ、そんな」


 気色ばんだエルマが続けようとした時に、大勢の人の気配がした。 

 手を上げてエルマを留める。はっと表情をひきしめた侍女は、寝台の側から立ち上がって壁際に下がる。

 先触れもなく扉が開いて、近衛を従えた国王が入ってきた。近衛を扉の内側に控えさせて、国王一人がまっすぐに寝台を目指し、隅に控えたエルマが先程までいた場所に立つ。

 国王は立ったままクリスティーナを見下ろした。


「子を流したそうだな」

「陛下」

「そなたが踵の高い靴を履いていたせいで、階段から落ちたというのは本当か?」


 冷ややかな声とともに、寝台に放り投げられた片方の靴をクリスティーナは見つめた。

 子を宿したと知ってからは履かなくなっていた、でも以前は気に入りだった靴だ。他の靴と一緒に衣裳部屋に保管されているはずの靴。

 クリスティーナの視線は靴から、国王へと移った。その視線は冷静だった。


「わたくしが履いていたものとは違いますが」

「階段下に転がっていたと報告の者が持ってきた」


 内通者に、掃除か衣装を担当する侍女が追加された。エルマが口に手を当てている様子から、彼女は内通者からは除外していい。

 もっとも国元から同道した唯一の侍女なのだから、最初から容疑者にも入れてはいないが。


「陛下はどう思われるのですか?」

「事実は、そなたが階段から落ちて私の子を流した、踵の高い靴を残してだ」

「では、そういうことなのでしょう」


 クリスティーナを見下ろす国王の表情が険しくなる。肩から腕に力が入り鍛えた体の線がいかつくなる。自分が男性であれば殴られているかもしれない、とクリスティーナは感じた。

 一瞬の激情を抑え込み国王は己を取り戻した。


「弁解もせぬか。そして泣きもしない。全くそなたには氷の王妃の名称が相応しい」


 何をされても言われても表情を変えない。

 北国から嫁いだこの色素の薄い王妃は、はじめは近寄りがたさから、そのうちに数々の噂話からいつからか氷の王妃と呼ばれていた。

 今もその瞳は冴え冴えと国王を見つめている。そこには何の感情も秘めていないように見えた。


 用件はそれだけとばかりに国王はきびすを返す。

 その背中によく通る声が届いた。


「陛下、子供に関してはお詫び申し上げます」

「――もういい」


 振り返らずに国王は出て行った。

 重い音をたてて扉が閉まるのを待って、クリスティーナは細く長い溜息をついた。

 エルマはおいたわしいと側で泣く。しばらく気の済むまで泣かせておいて、クリスティーナはエルマに告げた。


「休みます。薬をこれに」


 寝台から起き上がれないので手を貸してもらって枕を何個も重ねて上体を起こし、薬を飲んだ。苦労しながらゆっくりと体を横たえてクリスティーナは目を閉じる。

 エルマはそんな女主人の上掛けを整えた後に退出した。


「泣きもしない、か。泣き方など、とうに忘れてしまっているのに」


 抑揚なくクリスティーナは呟く。

 この期に及んでも泣きもせず取り乱しもしない。――できない。

 また氷の王妃という名称を補完する出来事が起きたと、面白おかしく噂されるのだろうと思っても、何の感慨もない。


 空っぽ。身も心も空っぽなのだと自覚する。


 小国の王女が嫁いだ先は繁栄著しい、自国と比較すればまだ歴史の浅い国。

 完全なる政略の上の婚姻に温かいものは通わなかった。冷えた関係を国王は隠しもせずに、自国の貴族から側妃をめとった。以降、あからさまではないにしても周囲はよそよそしく、それをよろうための冷静さは、情の無い冷たさと受け取られる。

 ようやくできた子供もこんなことになって。

 お腹は平らだったがつわりはあった。それでここに子供が、国王陛下との子供がいるのだと実感できていたのに、今はお腹の中が空っぽなのだ。

 身内にあったくすぐったさや温かさは、空虚感と痛みに取って代わられている。喪失感が大きく考えることすらおぼつかない。

 ここに在ったものは消え去って戻らない。


「ごめんなさい」


 何もつかめなかった手を見ながらぽつりとこぼす。

 クリスティーナの謝罪の言葉は誰にも聞かれなかった。





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