杉山邦博の土俵を見つめて60年
<第38話>心に残る大関列伝(清国編)
2016年2月20日
大鵬を語るときに清国の存在を忘れることはできません。昭和16年11月生まれ、本名佐藤忠雄、伊勢ケ浜部屋。
昭和31年大鵬と同期入門し、秋田県が生んだ横綱照国の後継者として期待されました。大関時代は身長182センチ、体重128キロでしたが、下積みのころはけっして大きくありませんでした。「若い国」という四股名で幕下時代まで取っていたのですが、真っ正直な相撲を磨きました。
伊勢ケ浜部屋は前さばき、技能派の力士が育つ部屋として話題を集めていたのですが、清国は左四つ、右からの攻めを徹底的に磨きました。同期の大鵬らが上位に上がり、脚光を浴びる中で地道に前に出る相撲、あごを引き、左をのぞかせ、右からおっつける型をわがものとした力士です。それが好結果を生み、技能賞4回、殊勲賞3回の受賞にもつながっています。
中でも特出されるのは昭和44年名古屋場所。新大関として臨んだ場所で初優勝を飾ったことです。新大関で賜杯を手にするのは非常に珍しく快挙でした(大鵬、白鵬でもできませんでした)。
大鵬はすでに自他認める第一人者、もう一人の雄柏戸が引退した場所でもあるのですが、清国の存在が大きく輝いた時代でした。
忘れられないのは「壊し屋清国」と恐れられた取り口です。
右のおっつけがあまりにも強烈なために大鵬の左ひじを壊してしまったのです。大鵬が晩年、常に左ひじにサポーターを付けて土俵に上がっていた姿を覚えている方も多いと思いますが、あれは清国に苦杯をなめた痕です。
「壊し屋清国」と呼ばれていたことにふれると、本人はまんざらでもない顔をしていました。大鵬の泣き所を他の力士も攻めようとする場面がその後しばしば見られました。
綱を締めることなく終わったのは大鵬、柏戸、佐田の山という厚い横綱の壁が阻んだせいでもありますが、名大関として長く語り継がれるに違いありません。
気の毒に私生活で残念なことがありました。痛恨の極みです。
昭和60年、奥様と子どもさんが日航ジャンボ機墜落事故によって他界されたことです。個人的なことで恐縮ですが、おふたりの結婚式の司会をさせていただきました。思いもかけないご家族の不慮の事故には大変心を痛めました。つらいことを乗り越えて相撲協会の役員を務めましたが、明るい性格の彼が晩年、暗い影をちらちらのぞかせていた姿に無念、残念な思いを抱いたものです。