森保ジャパン、FIFAランキング11位のメキシコに奮闘も後半2失点で惜敗
日本時間18日、オーストリアのグラーツで日本代表がメキシコ代表と対戦。前半は優勢に進めた日本だったが、後半に2失点を喫して敗戦。格上相手に勝利を収めることはできなかった。試合後、森保一監督は「チャンスがいくつかできたときに得点を奪うことができたら、違う展開になったと思う。強い相手に流れを渡すと、難しい展開になる」と振り返った。
「マリノスから移籍して来ました中村俊輔です」
抑制のきいた低い声がマイクから広がった。
「マリノスの中村俊輔です」に聞き慣れていただけに、「マリノスから来ました」という言葉に少しの違和感と新鮮さを感じる。
ジュビロ磐田の新体制発表会は、100名の報道陣が集まった。
2000年、マリノスの顔だった井原正巳が磐田に移籍した時も衝撃的だったが、中村の移籍はそれ以上の強烈なインパクトがあったのだ。
「マリノスで単純なものがそうじゃなくなった、普通だったものがそうじゃなくなったときに、純粋に普通にサッカーがしたいと。そういう矢先に名波さんがきてくれたのはタイミング的にも大きかった」
中村は磐田への移籍への理由をこう説明した。
単純なもの、普通だったものがそうじゃなくなった。
でも、それはいったい何だったのだろうか。
2016年の1stステージは存在感を見せたが、勝利に恵まれなかった。7月22日の磐田戦で足を痛めて戦線離脱。その後、リハビリに入ったが、リーグ戦ではこの姿が結局、最後になった。
トルシエもそうだったがフランス人指揮官とは相性が悪いのか、モンバエルツ監督と起用方法の考え方や他選手への対応などで関係が悪化。シティ・フットボール・グループは次年度のチーム編成を考え、強引に世代交代を計った。
そこには対話も健全な競争もなかった。
厳しい競争とプレッシャーの中でプレーしてこそ選手は成長するということを実感してきた中村にとって、それは自分の成長を鈍化させるだけではなくチームそのものを弱体化させてしまう。その危機感からチームにあえて厳しく、嫌なことも進言した。
しかし、中村の声は直近の人には響いても監督やシティ・フットボール・グループには届かなかった。それどころか求心力を失っていた監督が続投になり、逆に家族的な雰囲気でマリノスの縁の下を支えた人たちやチームに貢献した選手が契約満了で去って行った。スタッフを大事にする中村にとって、それは信じられなかった。
また、中村にはシンプルなサッカーサイクルがある。
「練習をしたことを試合に出し、うまくいかないことを見直して次の試合に出る時までに上達して、できるようする」
普通で極めて単純だが、中村にとっては非常に重要なことだ。
これを「世代交代」という方針のもとで競争もなく、一方的に奪われるのはサッカー選手としての死、つまり引退を意味する。しかし、シティ・フットボール・クラブには話が通じない。残り少ないサッカー人生を考えた時、待っている時間はなかった。
「この壁の種類は、もう越えなくてもいい。違う道にいく」
中村自らそう語ったように、普通と単純を取り戻し、サッカーを楽しむためにマリノスを出ていくことを決めた。
今回の磐田移籍の状況は、トルシエに翻弄され、苦しんだ後、セリエAのレッジーナに移籍した時に似ている。トルシエは、若きファンタジスタの力を認めながらも「ナカムラはマスコミが作ったムービースターだ」「ナカムラは15番目の選手」等々、中村のプライドとモチベーションをへし折るような乱暴な言葉を投げつづけた。
しかも、リーグ戦で調子が良くても試合に起用しなかった。
それはプレーの良し悪しでの判断というよりも個人的な理由のようにも考えられ、今回のマリノスでの状況ともオーバーラップする。
当時、中村は若かったゆえに、自分の感情を抑えきれず、いらだつこともあったが次第にこんな境地になったと言っていた
「試合に出たいけど、そんなことうんぬんいっても仕方ない。能活(川口)さんが一時期、楢崎さんと比較されて試合に出られなくて何度もトルシエに聞きに行ったんだって。でも、話をしてもどうにもならない。何も進展しない。それなら、もう自分のレベルを上げることに専念する」
その光景は昨年のマリノスでの中村の状況と同じだ。
最終的に中村は、2002年の日韓W杯のメンバーから落選した。
不当で理不尽な扱いを受けた中、やることはやった。だが、報われなかった。そうして次のステージに進むためにイタリアへの移籍を決めた。レッジーナ行きを決断する際は逡巡し、磐田移籍もかなり悩んだが最後はともに一人で決断した。
「技術への向上欲求がなくなったらサッカー選手をやめるよ」
97年にマリノスでプロサッカー選手になってから、中村はそう言い続けてきた。
その欲求が今も変わらずにあるからこそマリノスを出て、磐田に移籍を決めた。だが、今回は過去の移籍の時にはなかった、もうひとつの理由があった。
「自分はB級(指導者ライセンス)をとったんですけど、名波さんってどんなミーティングをやって、どこまでのことを選手にいって、どのタイミングで選手起用し、どうメンタルをケアして、クラブのマネジメントとかどうやっているのかなとか、そういうのも興味もあるね。もちろん、それで(磐田に)きているわけじゃない。自分がいいプレーしてFKも決めてとかもあるけど、それだけの作業のイメージじゃない。新参者だけど、自分が落とせるものを落としてクラブがいい方向に行くなら、まぁうるさいかもしれないけど、口を出すかもしれないです」
これまでとは違う動機が中村を動かしている。
38歳という年齢ゆえに引退を見越してサッカー観が近く、信頼する指揮官のやり方を間近で見て、吸収していく。プレイヤーとしてうまくなるだけではなく、指導者としての骨格を組み立てていくことを考えている。サッカー人として中村の貪欲さが垣間見られるが、将来、今までにないタイプの指導者になるのだろうなと期待が膨らむ。
また、よりチームのことを考え、チームのために有形無形の“遺産”を残そうとしている。マリノスで叶えることができなかったことを磐田でやろうとしている。それは磐田にとって、とてつもない大きな財産になるだろう。
いよいよ国内での新たな船出になる。
初めての環境で、初めての選手も多い。だが、海外の環境で言葉が分からず、ボールがなかなか出てこない中、チーム戦術を理解し、自分の力でチームの中心になっていったことを考えれば、今回の融合は難しくはない。言葉の壁もなく、チームメイトは“中村俊輔”という存在を理解しているので、アッという間にチームの中心になっているだろう。
試合になれば相手のマークが厳しくなるが、そういう状況こそ中村が求めているもの。苦しい時こそ成長できるチャンスと嬉々としてその壁を打開していくはずだ。
15年前、イタリアへの移籍を決めた時、中村はこういった。
「いろんなマイナスの状況をうまくいかすか、いかさないかでその先が決まってくる。マリオになるか、スーパーマリオになるかぐらい違ってくるんだよ」
私たちは、その姿をレッジーナやセルティックで見てきた。今シーズン、ヤマハスタジアムにサックスブルーのスーパーマリオがやってくる。
文=佐藤俊