話を豊島園駅と豊島線に戻そう。1927年、練馬駅から分岐する武蔵野鉄道の豊島線が開業。わずか1kmの路線ながら、豊島園の来園者は爆発的に増加した。
同線の開業は豊島園にとっても武蔵野鉄道にも大きな経済効果をもたらし、城南住宅のアクセス向上にも貢献した。しかし、武蔵野鉄道・豊島園・城南住宅の間に資本・人的関係はない。そのため、シナジー効果は薄かった。
1932年、堤康次郎が率いる不動産会社の箱根土地が武蔵野鉄道の経営権を掌握する。1941年には豊島園の経営会社を吸収合併し、豊島園は武蔵野鉄道直営の遊園地になった。鉄道と遊園地の経営が同じ企業になったことで、ようやくシナジー効果を発揮できるようになる。
しかし、豊島園は鉄道の利用者増に貢献するだけの存在ではなかった。集客施設が表の顔だとすると、鉄道車両の研究開発に貢献するという側面もあった。戦時中に休園していた豊島園は、戦後に復活して機械遊具を多く揃えていく。1951年、園内に「空飛ぶ電車」と呼ばれた日本初の懸垂型モノレールが登場した。
見た目こそ遊園地の遊具だったが、このモノレールの性能は遊具などといった代物ではなかった。東海道新幹線0系や小田急ロマンスカー3000形の開発に携わった技術者の三木忠直が開発し、製造は新幹線0系や最新のN700Sなどで知られる日立製作所笠戸工場が手がけた。
開発者の三木は、その後に湘南モノレールや千葉都市モノレールの開発にも関与している。車両の技術開発において、としまえんが果たした功績は無視できるものではない。
遊園地と住宅地の共存
時代とともに豊島園は西武鉄道にとってなくてはならない存在へと成長する一方、良質な住環境を目指した城南住宅の住民たちは西武鉄道と豊島園とは一定の距離を保った。そのため、城南住宅の住民は豊島園駅一帯の活性化に関しても必ずしも協力的とは限らなかった。むしろ住環境を守るために、住民が一丸となって反対運動をすることも少なくなかった。
高度経済成長期以降の東京は不動産価格が高騰し、農村然としていた練馬区にも開発の手が及ぶ。城南住宅も無縁ではなく、たびたび住環境を脅かす問題が勃発した。
従来、城南住宅の周辺は住民間の取り決めで高層建築物は規制されていた。しかし、広大な江木邸跡地に高層マンションの計画が浮上する。日照や景観の問題などから、住民は猛烈に反対。その熱意が行政を動かし、江木邸跡地は区が買い取ることで決着。その後も豊島園に場外馬券売場を併設する計画が持ち上がり、これも反対で白紙撤回させた。一度は潰えた場外馬券場問題は3年後に再燃するが、同じ経過で頓挫している。