田園都市の先駆けでもある田園調布は都心部から遠いため、自前で鉄道を敷設したが、城南住宅は自前で鉄道を敷設していない。すでに武蔵野鉄道が練馬駅を開設しており、城南住宅から練馬駅までは徒歩10分ほどの距離にある。近すぎず遠すぎずの距離は、都市化を忌避してきた小鷹にとって理想的な距離感だった。
しかし、それはあくまでも小鷹にとっての話だ。城南住宅に家を構えようとする人は多くなかった。
小鷹は山形県出身者や医師のネットワークを介して居住者を勧誘した。大和郷に住居を構えていた東京帝国大学(現・東京大学)教授の佐野利器は、小鷹と同じ米沢の出身だった縁から趣旨に理解を示して城南住宅に邸宅を構える。佐野は明治神宮や東京駅、旧国技館にも関与した建築家で、東京帝国大学教授という社会的地位にあったことが、城南住宅の評判を高める。
鉄道界の大物も住んでいた
そして、城南住宅の名声を高めたもう一人の人物がいる。それが鉄道大臣を務めた江木翼だ。
江木は1929年に発足した浜口雄幸内閣で鉄道大臣に就任しているが、大臣就任時は関東大震災と昭和金融恐慌の2つの要因によって鉄道需要は大きく減退していた。鉄道需要を掘り起こすべく、江木は列車に愛称をつけることを発案。愛称をつけることで国民が鉄道を身近に感じられるようにした。
江木の発案から、東京駅―下関駅間を運行していた特急列車の愛称を公募する。この愛称公募は国民の耳目を集めることになり、多くの愛称案が寄せられた。そして、寄せられた案の中から「富士」「櫻」の2つが採用された。
鉄道における江木の功績は、ほかにもある。今では当たり前に使われている「観光」という言葉を一般的に広めたのも江木とされている。
不況の折、政府は外貨獲得を至上命題にしていた。江木は訪日外国人観光客を誘致するため、鉄道省内に国際観光局を新設。観光という言葉を積極的に使用し、一般に定着させていく。
江木が城南住宅に住居を構えたのは関東大震災後だが、城南住宅が本格的に住宅地の体裁を整えていくのも大震災以降だった。