今回のブログは重いテーマです
実は以前から他のSNSでのネットストーカーにあっていた事をここに書きます。
私自身も家族もとても警戒していたので警察にはずっと前から相談をし、パトロールも強化して貰っていました。
なのにストーカー。
え?
私はSNSでは私生活を書いてますが当たり障りのない事だけですし自身の個人情報を書くような心当たりは全くなかったのです。
SNSの方はダイレクトメール機能がありますが私は通知を切ってます。
そして私がストーカーに悩んでた頃、見覚えのないアイコンが下の方にありました。下の方にあるという事は昔に送られた。という事ですよね。
こんな人とやりとりした?誰?と思い内容を見てみると、、、私の名前が書かれていてこれでいつでも会いにいけるね!などと書かれてました!
これには絶句を通り越して呆然、、、
なんと私の学生時代の頃からの親友が私の名前をSNSで再三呼んでしまっていた事から足がついたようです。
彼女は私のストーカー被害の事を知っていました
なのにそんな事をしてしまったのです
悪意がなかった。ただのうっかりだ。とは思いたかったのですが、彼女とのツイートキャスティングで面白いと思ってやった。との言質をとり、また仲の良い他の人からのリプライでも彼女の言質を家族がスクショしてくれました。
なぜ家族が?と思う人も多いと思います。
私には彼女が情報を漏洩した人だった。とても長く付き合いのあり、前日も仲良くやりとりしてた彼女が。との事がどうしても受け入れられず、またストーカーの恐怖もあり自殺未遂を図ってしまいました。
私は首に傷を負いましたがなんとか生きています
傷も完全に消える事はないでしょう。
何より心の傷はなかなか癒えません。
だからこそブログを気晴らしに始めた。という事です。文字に起こして気持ちを整理する。
とっても大事な事に思えたんです。
そうしないと私はまた同じ事をしてしまいそうだと思えてならなかったのです。
彼女は自分の罪に怯えたのか、それとも悪いとは思ってないのか逃げてしまいました。
私の母からの泣きながらの電話も、私の父からの手紙も、Lineも、SNSのリプライもDMも全てです。
元々そういう人だった。悪意を込めてやった人だった。
そう納得させようと私自身も努力しています。
けれど中々難しいものですね。
皆様も個人情報には本当に気をつけて欲しいのです。
そして信頼出来る人を間違えてはいけない。
命を落としかねないからです。
私はストーカーの恐怖よりもむしろ自分の命と同じくらい大切だった長年の親友の裏切りを直面したくなくてあんな事をしてしまったのです。
けれど私が危なかった時にSNSの、それも私を直接は知らないのにもかかわらず心ある優しい方々やもう1人の親友が私の命を繋ぎとめようとずっと声をかけてくれた事を後で知りました。
私は確かに親友を一人、失いました。
けれど私が危険だった時、逃げてしまった親友は本当に親友だったのか。
今では疑問が残るのです。
私が死んだら、追求がいかなくなる事を彼女は本当は望んでいたのではないでしょうか?
私は持病を抱えていますからそれを苦にして死んだ。と誰もが思うでしょう。家族すら疑わない。
彼女はあとはSNSを消せば済む事ですからね。
そう思いたくないけれど、今となってはそう思えてなりません。
私を直接知らないのに助けようとしてくれた人達
私を直接知ってたのに逃げてしまった親友
こうして書いて見ると悲しいコントラストなばかりか実に対照的ですね。
幸いに私は学生時代にとても交友関係が広かったので沢山の良き学友達に恵まれました。
その人達も心から心配をしてくれて同じように彼女に対して大きな不信感を抱き、その事もあり母校にも連絡がいきました。
彼女が逃げなければ、こんな事にはならなかったと思えてなりません。
彼女はあの歴史のある母校の卒業生としての名前をも傷つけてしまった。
その事とこれから自分のしてしまった罪や逃げてしまった事を目の端に時々思い出しながらも知らない振りをし逃げて生きていくのは私が味わったストーカー被害や自殺未遂よりもむごい生き地獄を味わうのではないでしょうか。
少なくとも私だったら親友を裏切り、危険に晒した後で知らん顔して平気で生きてはいけないからです。
私は彼女の為にもそれが残念で仕方ないのです。
彼女は創価学会という宗教を信仰していました。
宗教に優劣はありません。誰が何を信仰しようと自由です。信ずるものの為に生きる生き方は黄金を手にするよりも尊いものです。
私も彼女の信仰する宗教の事は深くは知らなくても全ての宗教に敬意を払ってます。
だからこそ、彼女は母校の名前ばかりか自身の信仰する宗教までをも含め深い傷をつけてしまった。
慎み深く、人の為に尽くす優しい信者さん達の名声までをも汚してしまった。
これから彼女がどんな天からの仕打ちがあるのか私には計れないのです。
人の身で天意は計れないものですからね。
私はまだ彼女を心底嫌いになれてはいない。
だからこそ今後の彼女が味あわなければならない彼女自身の苦悩を思うと憐憫にも似た感情を覚えるのです。
私達の過ごした日々は決して偽りではなかった。
本物の笑いと和やかさに彩られた春の花の咲く陽気にも似た日々でした。
いつ花達が散らねばならない雨や凍るような風が吹く事になったのか分からないのです。
元々、彼女が氷のような心を秘めながら私と仲良くなった。とは思いたくないのも真実です。
私の大好きだった彼女はもうどこにもいない。
彼女の中にももういない。
私はそれと向き合わなければならない時が来てる事も知ってます。
天が彼女にどんな試練を与えるかはそれこそ神のみぞ知る。でしょうね。
願わくば、己のした事を鑑みて少しでも試練を軽くなりますように。
失った小さな翡翠は今持ってる真珠よりも貴く思える。と小説でありましたが、今まさにそのような思いの試練に私もまた囚われてます。
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