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更新日:2020年8月11日
10月29日(火曜日)、1年9か月ぶりに東日本大震災の象徴的な被災地である石巻市を訪問しました。安城市は発災以来、石巻市へ市職員を派遣し、まちの復興支援を続けてまいりました。そして私自身も、数年おきに石巻に足を運び、一地方都市の復興への変遷を確認してきました。以下に、これまでの経過や、現地で見聞きしたことをまとめてみました。
【宮城県地図】
平成23年3月11日の東日本大震災発生の瞬間は、この地域のどなたもまだ記憶に残っていることかと思います。
自らのことを思い起こせば、私はあの時、応接室で来客の対応をしていました。そしてその瞬間、今までに経験したことのないゆったりとした大きな体の揺れを感じ、めまいと勘違いをして体調を案じてしまいました。しかし、壁にかかった絵画が左右に揺れていたのに気づき、ようやくそれが地震の揺れだということを確信しました。
経験のない揺れを不気味に感じて、慌ててテレビで緊急地震速報を確認したところ、東日本を中心にした地震だということを知りました。「そんなに遠隔地の地震なのに、どうしてここまで揺れが伝わるのだろう…」と不吉な不安に駆られたものでしたが、それが私にとっての東日本大震災発生の瞬間でした。
「被災地を支援せねばならない」。発災以降、常に考え続けていたことではありましたが、マスコミによる東日本の報道が繰り返されるにつれて、被災範囲が尋常ではないことが分かりました。そして、「被災地を支援するといっても、一体どこの市町村をどう支援すればよいのだろうかが分からない」、それが当時の私の率直な実感であり、もどかしさを痛感しながらも打つ手がないという日々が過ぎました。
震災からほぼ半月が過ぎた頃、公益社団法人日本水道協会から安城市へ、「石巻市へ給水車を出してほしい」という要請が入り、急いで職員と給水車を石巻へ送りました。被災地が混乱を極め来訪者の受け入れは不可能という事情は承知をしていましたが、給水車が支援に向かったことをきっかけに、私自身も給水活動を確認するという理由で、別の車に乗って遠路石巻市へ駆けつけました。
そこで見た光景をここで簡単に表現することはできませんが、テレビや新聞で映し出されたままの惨憺(さんたん)たる光景を目の当たりにしました。そして、被災した市街地のありさまを見て、津波による破壊力がいかに恐ろしいものかということを思い知りました。
【派遣した給水車と震災直後の石巻市】
被災エリアが東北三県に広がっていたのみならず、関東地方でも場所によっては液状化現象が起き、支援を求める市町村が出てきました。その結果、本市は宮城県石巻市、亘理郡山元町、そして1年半という短期間ではありましたが、大きな液状化被害が出た千葉県香取市も支援することとし、市職員を現地に送り被災地を支援してまいりました。
被災地の復旧・復興は歳月とともに徐々に進み、その状況に応じて職員を引き上げてきましたが、最後まで職員を残した被災地は、約3,600人もの死者を出した石巻市でした。石巻には震災翌年の平成24年度から今年度までの8年間、常に職員を派遣し続けて、高台での新しい住居地域の確保や、海岸近くの住居地域の再構築に当たってもらってきました。
そして、私自身も壊滅的な被害を受けた地方都市が、どのように復興を遂げるのかという観点から、数年に一度のペースで被災地へ足を運び、その様子を自身の脳裏に焼き付けてきました。
【石巻市視察】
現在の石巻市内は、かつて海岸近くにまで広がっていた住宅地は姿を消してしまったものの、やや内陸寄りに新しい瀟洒(しょうしゃ)な住宅地が広がっていました。完膚(かんぷ)なきまでに破壊された住宅地区跡に人は住まないものの、震災記念公園として生まれ変わりつつあり、また場所によっては、地場産業地区として水産加工を中心とした工場が稼働を始めていました。
今回の訪問では、海岸線に近い市立門脇小学校の校舎外観を見ることができました。震災の際、子どもたちは迎えに来た保護者とともに裏山に逃れ、学校にいた全員が助かったものの、流されてきた車から漏れたガソリンなどが発火し、校舎は焼けただれていました。見るも無残な校舎に子どもたちは戻ることはありませんでしたが、今後は震災遺構として保存され後世に津波の恐ろしさを伝える象徴として残ることとなったそうです。
【震災遺構となる小学校】
また、巨大な津波は河川から遡上(そじょう)し、沿岸部のみならず市街地内にまで押し寄せました。津波が広範に被害を及ぼした大きな理由の一つに、市街地を二分して流れる旧北上川にはもともと堤防が築かれていなかったことを、今回の訪問で初めて知りました。石巻はもともと江戸時代に水運によって栄えてきたまちであり、町民は築堤によって河川とまちが分断されてしまうのを嫌い、結局、大震災まで旧北上川には堤防のない状態が続いていたのだそうです。津波の被害がけた外れに大きくなった理由の一端を垣間見たような気がします。
水の恵みによって栄えた石巻市民は、水に親しみ水とともに生きてきたものの、水は豊かな生活を支えてくれただけではなく、信じられないような冷酷な結果をもたらしました。人々は巨大津波という水の恐ろしい一面を思い知らされ、その後築造が進められてきた堤防はほぼ完成に近づいていました。また河口には大きな排水ポンプ場が設けられ、来年度中には竣工するとお聞きしました。
【建設中の大型排水機場】
想定外、未曾有、前代未聞、観測史上初など、さまざまな言葉で表された東日本大震災であり、また最近の台風の豪雨による各地の浸水被害ですが、安城市に住む私たちもこれまでの人生経験の範囲で防災を考えるのではなく、想像を超えた事態もあることを自覚しておく必要があると痛感させられました。
もちろん想像を超えた事態を想像することは不可能ですが、映像で見る各地の震災や豪雨被害をこの地に当てはめて、命と暮らしをどう守るのかを、まず市民のお一人お一人がお考えになること。そこから真の防災まちづくりが進められるものと実感しました。
【巨大地震に耐えられる海岸の新堤防】
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