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読売新聞1月12日、1月14日のWEB版からの引用
引用開始***** 北陸対決「強さを全国に」〔高校サッカー〕 ヘルプ 優勝旗は石川に――。星稜が3度目の挑戦で準決勝を突破、決勝の富山第一と の「北陸対決」が実現することになり、関係者や県民の期待と注目は一気に高まっ ている。 星稜は準決勝が推薦入試の日と重なり、金沢市の同校では、競技場に行けなかっ た教職員や生徒らが教室のテレビで試合を観戦した。 干場久男校長は「選手たちはOBの本田圭佑選手たちも開けなかった扉を開い た」と大喜び。決勝は生徒や教職員ら1000人以上の大応援団で駆けつける予 定といい、「北陸同士の戦いだが、優勝旗はぜひ石川に」と意気込んだ。 同校1年の端根(はなね)有紗さん(16)は「寺村主将のPKが熱かった。感 動でいっぱいです」と笑顔。決勝では吹奏楽部の一員として応援する予定で、 「全力でトランペットを吹いて応援します」と気合を入れた。 地元チームの快進撃に金沢市民も沸いた。同市笠舞本町の高校3年原愛莉さん (17)は、友人とテレビで準決勝を観戦したといい、「本田選手がいた時も決 勝に進めなかったので本当にすごい。北陸勢の強さを全国に見せてほしい」と興 奮気味。同市額新町の西野正次さん(77)は出席していたスポーツ関係者の新 年会で決勝進出を知ったといい、「地元の高校生の頑張りに会場も盛り上がった。 自分は富山県出身。どちらが優勝してもうれしい」と笑顔で話した。 また、七尾市サッカー協会理事長の中村勇さん(59)は「北陸勢同士が決勝 を戦うことはとてもうれしく、地域全体のレベルアップにもつながる。身近に目 標となる学校があれば子供たちも夢を描くことが出来るので、星稜にはぜひ優勝 してほしい」と期待を込めた。 (2014年1月12日 読売新聞) 北陸対決、県民魅了〔高校サッカー〕 石川、富山両県では、決勝戦が史上初の北陸対決となり、金沢市内の百貨店な どに設置された特設会場には多く人たちが詰めかけ、世紀の大激戦を楽しんでい た。各会場では、シュートが放たれるたびに歓声や悲鳴が漏れていた。 ■「夢のような対戦」 金沢市の香林坊大和では、1階ホールに大型テレビが設置され、詰めかけた約 300人が、両校の激闘に息をのみ、地元の星稜イレブンに盛んに声援を送った。 星稜の得点シーンなどでは会場が盛り上がったものの、延長戦の末、試合終了 のホイッスルが無情に鳴り響くと、「あー」と残念がる声が一斉に漏れた。中に は涙を浮かべる人の姿も見られたが、両チームの健闘をたたえる拍手が沸き起こっ ていた。 津幡町太田、金沢桜丘高3年宮下真菜さん(18)は「桜丘は県大会決勝で星 稜に負けてしまい、どうしても優勝して欲しかった。星稜イレブンが、たくさん の人の思いを背負ってプレーする姿に感動した」と、目を潤ませた。 また、星稜ファンでわざわざ応援に駆けつけた富山県高岡市伏木の会社員嶋勇 人さん(34)は「最後まで勝敗の予想がつかず、ハイレベルな試合。こういう 夢のような対戦カードが、また実現すればうれしい」と今後の両チームの活躍に 期待した。 谷本知事は「準優勝おめでとう。雪国のハンディキャップを克服した両校が熱 戦を繰り広げた。県民のみならず全国の皆さんに多くの夢と感動を与えてくれた」 とのコメントを出した。 ■初優勝に歓喜 富山市婦中町下轡田のショッピングセンター「ファボーレ」では、2階の特設 応援会場で、買い物客ら200人以上が大型テレビで試合を観戦した。 富山第一がゴールに迫るたびに会場からは「行け行け」「打て」と歓声が上がっ たが、後半に2点目を失うと、落胆のため息が広がり、目を手で覆う姿も見られ た。 しかし、1点差に迫った試合終了間際、MF大塚がPKを決めると、見物客は 総立ちとなり、ガッツポーズをしたり、抱き合ったりして喜んだ。延長戦で途中 出場の村井が決勝ゴールを決めた瞬間、会場は一気に沸き立ち、優勝が決まると、 大きな拍手でイレブンの快挙をたたえた。 富山県滑川市下梅沢、県立滑川高1年、高井順平さん(16)は「北陸勢とし て初優勝を果たし、歴史に名前を刻めた。素晴らしい」と語った。 (2014年1月14日 読売新聞) 引用ここまで***** この記事、なにか引っかかるなあ。 富山県出身の金沢(石川?)在住者を出してみたり、富山県高岡市の会社員と いう星稜ファンが出てきたり・・・。 なんでこんな書き方をするのだろうか?石川と富山は北陸という範疇にはいる とそれも二つの記事も同じような雰囲気を感じる。 いずれも石川地域版の記事だが、富山に対して、優越感?それともコンプレッ クスがあるようにも思える。 金沢市は北陸随一の都市で有り、全国知名度も同じ北陸の富山市や福井市より もダントツ高いであろう。それは、誰もが認めることである。 星稜も知名度からいえば、富山第一高の比ではないであろう。であれば、わざ わざ富山出身者を記事に出すことなく、素直に記事を書けば良いのではないかと 思う。
最終更新日
2014年01月14日 14時16分00秒
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2014年01月08日
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2014年1月8日産経新聞WEB版より引用
引用開始***** 慰安婦問題、政府報告にも韓国介入 事実認定で「痛ましい生活強いられ」要求、 受け入れる 2014.1.8 07:50 (1/2ページ)[日韓関係] 慰安婦募集の強制性を認めた平成5年の「河野洋平官房長官談話」が韓国側の 修正要求に沿った「日韓合作」だった問題で、河野談話と同時発表された政府の 慰安婦に関する調査結果報告(公式事実認定)も、韓国側の修正要求を大幅に取 り入れていたことが7日、分かった。政治性を排除すべき事実認定にまで韓国側 の介入を許していたことで、政府の慰安婦問題に対する認識・見解の正当性・信 憑(しんぴょう)性は事実上、失われた。 当時の政府関係者らが詳細に証言した。韓国側からの調査結果報告への修正要 求は、河野談話発表4日前の7月31日に届いた。 調査結果報告は(1)慰安所設置の経緯(2)慰安所が設置された時期(3) 慰安所が存在していた地域(4)慰安所の総数(5)慰安婦の出身地(6)慰安 所の経営および管理(7)慰安婦の募集(8)慰安婦の輸送等-の8点について、 政府の事実認定を記述している。 証言によると、韓国側は(1)と(7)に対して、河野談話への修正要求と同 じく「軍当局の意向」を強制性が明らかな「指示」と改めるよう求め、協議の末 に「要請」で決着した。 韓国側は、(4)に関しては日本側の原案に「慰安所が存在しなかった地域も 存在し、また兵隊に対する慰安婦の割合も地域ごとにさまざまで、書物などの試 算が当時の実態と合致していたか否かは全く不明」とある部分の全面削除を要求。 慰安婦問題、政府報告にも韓国介入 事実認定で「痛ましい生活強いられ」要求、受け入れる 2014.1.8 07:50 (2/2ページ)[日韓関係] その上で韓国側は「長期に、また、広範な地域にわたって慰安所が設置されて いたことから、相当の数の慰安婦が存在したと推定される」との代替案を示し、 これがほぼ日本の事実認定として採用された。 韓国側は(6)の部分では、原案の「(慰安婦は)自由な境地とはほど遠いと ころにあった」という記述について、「自由もない、痛ましい生活を強いられた」 と書き換えるよう求め、日本側はそのまま受け入れた。 一方で、(7)の原案の「業者らが或(ある)いは甘言を弄し、或いは畏怖さ せる等の形で本人たちの意向に反して集めるケースも数多く」の部分では、韓国 側は「業者ら」を「官憲または業者ら」にすることなどを求めたが、日本側は拒 否した。 ◇ 慰安婦に関する調査結果報告 政府による慰安婦関係資料の調査は平成3年1 2月に始まり、4年7月に政府の関与を認める第1次調査結果が公表された。と ころがその後も韓国側からも「強制性の認定」が強く求められたため、5年8月 4日、河野談話と合わせて強制性を認める第2次調査結果が発表された。 引用ここまで***** 当時の河野洋平官房長官は何をしでかしたのか分かっているのか? Wikipedia 河野洋平 より抜粋 抜粋開始***** 「河野談話」(慰安婦に関する談話) 河野は談話中で、「総じて本人たちの意思に反して行われた」「募集・移送・管 理等の過程全体としてみれば甘言・強圧という方法により強制があった」という 趣旨の発言を行なった[2]が、当時官房副長官であった石原信雄は、当時の日本 政府の調査では、軍など日本側当局が慰安婦を強制連行したという資料は確認さ れなかったと述べている[3]。 遺棄化学兵器に関する取り決め 外務大臣在任中、日本が批准していた「化学兵器の開発,生産,貯蔵及び使用の禁 止並びに廃棄に関する条約」の発効に伴い、同条約4条から要請される、中国国 内に遺棄された旧日本軍の毒ガス弾の処理において、中国と取り決めを交わした。 なお、同条約及び附属文書では、遺棄化学兵器の廃棄に必要な資金技術人員施設 等すべての必要なものを遺棄した締約国(つまり中国における旧日本軍の遺棄化 学兵器については日本)の責任で用意することを求めており、また、遺棄化学兵 器の廃棄を発効後10年間(2007年まで)に終了することを求めている。 北朝鮮へのコメ支援[編集] 2000年(平成12年)、外務大臣として北朝鮮への50万トンのコメ支援を決定した。 李登輝訪日への反対[編集] 2001年(平成13年)の台湾の李登輝訪日問題での対応。中華人民共和国からの強 い抗議をうけて、自らの外務大臣辞任をほのめかしてまで入国ビザ発行に反対し た。[要出典] 戦没者追悼式における発言[編集] 2006年(平成18年)8月15日全国戦没者追悼式の衆議院議長追悼の辞で「戦争を 主導した当時の指導者たちの責任をあいまいにしてはならない」と戦争責任論に 言及した。 また、2007年(平成19年)8月15日全国戦没者追悼式の衆議院議長追悼の辞にお いては、「日本軍の一部による非人道的な行為によって人権を侵害され、心身に 深い傷を負い、今もなお苦しんでおられる方々に、心からなる謝罪とお見舞いの 気持ちを申し上げたいと思います 」と述べた。 抜粋ここまで***** 遺棄化学兵器に関する取り決め については、日本軍か関係した化学兵器は既に 中国軍、ロシア軍に引き渡しており、日本にはまったく責任がないにもかかわら ず日本が後処理を行う必要があるのである。しかも日本製でないものについても その対象になっているという。 こんな反日的な人間を長らく選挙当選させていた神奈川県民は自覚があるのだ ろうか?本人に対しては、これからも言論がかれのすばらしい業績に対して評価 を行い続け、彼が反省をしないのであれば、死んだ後も続けられると思うが、神 奈川県民の彼に投票した人たちは一体に日本に対してどう償うつもりなのか?
最終更新日
2014年01月08日 09時42分00秒
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