フェミニズムとは何か?:なぜ女性の権利ばかりが主張されるのか

社会問題・人権・環境

公開日 2019/05/05 18:12,

更新日 2020/11/23 01:38

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わたしたちは、フェミニズムの時代に生きている。

フェミニズムを時代性やブームのように捉えることに異論はあるかもしれないが、#MeTooムーブメントや韓国の書籍『82年生まれ、キム・ジヨン』のベストセラー、今年の東京大学入学式で上野千鶴子氏がおこなった祝辞が話題を集めたことなど、世界中でかつて無いほどフェミニズムへの関心が高まっているのは間違いない。

しかし、ある概念・言説が”よく知られていること”は、必ずしも”よく理解されていること”と同義ではない。フェミニズムも例外ではないどころか、これほど誤解され、単語が独り歩きしているケースは珍しいかもしれない。

そこで今回は、フェミニズムとは何か?というシンプルでありながら、難しい問いに応えていく。

フェミニズムについて専門的な理解を深めるためには、優れた研究者による概説書を読むことが最も適切であり、効果的である。しかしフェミニズムに関する混合玉石な言説がネットに飛び交っている現在、手軽にアクセスできる叩き台が存在するに越したことはない。

そのため、本論はフェミニズムの概説的な説明ではなく、より直接的な疑問に立ち入っていく。とはいえ、前半部では概略的な説明が必要となるため、下記の直接的な疑問について関心がある場合は、「理論としてのフェミニズム」という見出しから読みはじめてほしい。

本論が応えていくのは、

「フェミニズムが、女性の権利を擁護してきた運動であることはわかった。でも法的な男女平等は、ほとんど実現しているじゃないか。もちろんセクハラは大きな問題だ。でもそれは、一部の問題ある男性の仕業で、男性だからという理由から自分たちまで石を投げられるのは間違っている。フェミニストたちは、いま何をしたいんだ?男女の対立を煽るだけじゃないか」

という疑問だ。もっと直接的に言うならば、

「なぜいま、女性の権利ばかりが主張されるのか」

という、しばしばネットの言説で見かけられる疑問である。

また冒頭に1つ付け加えるならば、インターネットにおけるフェミニズムを擁護する記事の中には、的はずれなものも多い。本記事は決して通り一遍のフェミニズム擁護をおこなうわけではなく、むしろ”純粋な社会構築主義”のような立場には反対であり、男女差についての科学的な見解、エビデンスについて積極的に擁護するべきだと考えている。

「フェミ」とフェミニズム

ポリコレ概念と並んで、フェミニズムは藁人形論法の標的にされやすい。フェミニズムについて非難する人や擁護する人、居心地の悪さを感じる人、なにか一言物申したい人まで、多くは理解が曖昧なまま語ることを余儀なくされている。ネットのスラングで「フェミ」と呼称される場合、それは否定的なニュアンスで用いられるが、多くがフェミニズムへの誤った理解・一面的な知識のまま、実態の伴わない「フェミニズム」に批判を向けていると言っても過言ではないだろう。

今回、ネットにおける「フェミ」言説には触れないが、そうした言説が生まれる背景の1つとして、フェミニズムへの無理解があることは間違いない。人々を混乱させ、怒りと困惑を招き、そして時には断絶すら生む。果たしてフェミニズムとは何であろうか?

運動か、理論か、ムーブメントか

フェミニズムを理解することが難しい要因として、それが運動であるのか、理論・思想であるかが分かりづらい点が挙げられる。

例えば、批判者が「フェミ界隈は〜」と言った場合、フェミニズム概念そのものを批判しているのか、フェミニズムに基づいた考え方を主張したり、運動によってフェミニズムに関する諸概念を広めようとする人々を批判しているのかは、おそらく当人も無自覚である。

フェミニストとは女性の権利を擁護する人なのだろうか?それとも「完全なる男女平等」を目指す人々なのだろうか?セクシャル・ハラスメントに声を上げる人々なのだろうか?

もし、彼ら/彼女らが「完全なる男女平等」のようなものを実現したいのであれば、その理論的根拠はどこにあるのだろうか?理論的根拠がないのであれば、フェミニストはハラスメントに抗議する運動家なのだろうか?

運動としてのフェミニズム

歴史的に、フェミニズムが運動からはじまったことは間違いない。

18世紀にフランスで人権宣言が掲げられた時、女性の存在は完全に抜け落ちていた。メアリー・ウルストンクラフト『女性の権利の擁護』や、オランプ・ド・グージュ『女性および女性市民の権利宣言』など、女性の権利を擁護する思想はこの頃から萌芽を見せたものの、大きな潮流にまでは至らなかった。

メアリー・ウルストンクラフト

19世紀に入ると、第一波フェミニズムと呼ばれる動きが生まれる。アメリカなどで奴隷解放運動に携わった女性たちが、女性の参政権や財産権を求める運動をはじめたことで運動が広まっていった。1893年のニュージーランドでは、世界初となる国政選挙における女性参政権が実現するなど、この動きは少しずつ成果を結んでいく。

第二次世界大戦によって女性の権利を求める動きは足踏みを余儀なくされ、第二波フェミニズムが広がりはじめたのは1960年代だった。

シモーヌ・ド・ボーヴォワールは、戦後すぐに出版した著作『第二の性』において、「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という著名な文句によって、「女」という概念が社会的に構築されたものであることを主張した。またケイト・ミレットは、その著作『性の植民地』において「個人的なことは政治的なこと」という有名な言葉を表した。

第二波フェミニズムは、「生物学としてのセックスと社会的なジェンダー」や「家族という私的領域の問題として扱われてきた問題こそが、重要なのである」という今日もよく知られるフェミニズムやジェンダーに関する様々な言説を広めていった。

その後、フェミニズムに関する運動や理論は幅広い展開を迎える。ラディカル・フェミニズムやマルクス主義フェミニズム、リベラル・フェミニズムなど様々な理論が生まれ、運動の主張・形態も多様化していく。同時に1980-90年代にかけて、フェミニズムは「バックラッシュ」と呼ばれる反動運動を経験していく。(日本では2000年代前半と言われる)

80-90年にかけてのフェミニズムの動向が第三波、そして現在が第四波フェミニズムと呼ばれることはあるものの、具体的な時期や運動の特徴について、統一した見解はない。いずれにしても、19世紀からはじまったフェミニズムの波は、ソーシャルメディアの興隆などを通じて、新たな展開を迎えている。

古い議論の焼き直し?

運動の歴史を見ていくと、第一波フェミニズムが参政権を中心とした基本的人権に関わる権利擁護の運動であったのに対して、第二波フェミニズムはジェンダーとしての「女性」概念を問い直すことで、女性が押し付けられてきた役割や抑圧された側面を批判的に明らかにする運動であった。

そこから気づくのは、現在ネットで展開されるフェミニズム批判の多くが、第二波フェミニズムなど過去に乗り越えられてきた議論であることだ。第二波フェミニズム以降の議論は、人種や社会階級において多様化した「女性」の存在や、LGBTなどセクシャリティの問題などへと向かっていく。そのため、セクシズムやジェンダー差別に関する異議申し立ては、それ自体が目新しい議論ではない。

言わば、#MeTooムーブメントは決して新しい問題を持ち出しているのではなく、”相変わらず”女性の権利擁護を展開している。”相変わらず”というのは否定的なニュアンスに聞こえるかもしれないが、差別やセクシズムを無くす運動は、未だ道半ばにあることを意味している。

1つの運動が50年以上も続いている事実は、反直感的にすら思えるかもしれない。そのことが人々に困惑と驚きを呼び起こしているのかもしれないし、「フェミニストは、女性の権利を擁護する以上の何かを達成しようとしてるのではないか」と感じる人が出てくる理由になっているのかもしれない。

誤解を恐れずに言うならば、フェミニズムは100年前と変わらず女性の権利擁護を目指した運動であり続けている。その運動は男性の権利侵害を目指しているわけでもなければ、生物学的な性差をなんとしてでも乗り越えた世界を実現しようとしているわけではない。

理論としてのフェミニズム

では、フェミニズムという運動が一貫して女性の権利擁護を目指しているのであれば、なぜこれほど賛否両論が吹き荒れているのだろうか?

その理由として筆者は、多くの人々がフェミニズムを運動として捉えており、その理論的な側面について十分な理解が広がっていないからだと考える。

冒頭の問いについて、改めて確認してみよう。

「フェミニズムが、女性の権利を擁護してきた運動であることはわかった。でも法的な男女平等は、かなり実現しているじゃないか。もちろんセクハラは大きな問題だ。でもそれは、一部の問題ある男性の仕業で、男性だからという理由で自分たちまで石を投げられるのは間違っている。フェミニストたちは、いま何をしたいんだ?男女の対立を煽るだけじゃないか」

フェミニズムの理論は様々であり、全てを取り上げることはできない。そこで、筆者が関心を持つ政治哲学およびリベラリズムという思想に軸足を置きながら、理論としてのフェミニズムを見ていくことで、上記の問題に応えていこう。

わたしたちが生きる社会は、自由と平等を基本的な価値観としている。現代の政治哲学者が考える問題のほとんどは、自由と平等がいかに万人に保証されるかに関わっており、プラトン、アリストテレスからジャン=ジャック・ルソーに至るまで、あらゆる哲学者が模索した問題もそこに関わる問題であった。

フランス革命や市民革命を経てわたしたちの社会は、王侯貴族であれ一般市民であれ1人を1人としてカウントする=身分や地位によって身体や生命に重み付けをしないというアイデアを獲得した。この「基本的人権」と呼ばれるコンセプトは、平等・自由に関するアイデアの1つの到達点だと言える。

「基本的人権」というコンセプトが生まれてから哲学者は、どのようにそれを万人に適用できる制度・ルールがつくれるか、また、そうした社会を実現するにはどのような条件が必要かを検討してきた。なかでも、20世紀以降の政治哲学において、最も大きな貢献を果たしたのがジョン・ロールズによる『正義論』である。

ロールズは、個人が「善」と呼ばれる多様な生き方・価値観を追求する中で生まれる諸問題に対して、「正義」というより大きな概念を導入することで調停を図った。人々は異なる「善の構想」を持つことで利害対立が生じるが、これらは「正義」という普遍的な価値観に照らし合わせることで、合意を取ることができるという考え方だ。

『正義論』において、正義にかなった社会を実現するためには

(1)政治的自由や言論の自由、財産の自由などの諸自由が誰であっても平等に分配されること
(2)社会的・経済的不平等はできるかぎり是正されること

の2つが要求され、「正義の二原理」と呼ばれる。

『正義論』は現代政治哲学の出発点となっているが、フェミニズムの立場からは批判も集めてきた。

具体的に言えば、ロールズが想定する正義にかなった社会はそもそも「自律した」成人男性のみで構成されており、家族内部における不公正や、女性や子供、老人などの存在が忘れられているという批判である。

『正義論』では自由を追求する合理的な個人が前提とされているが、その個人は「自らが自由に追求したい善」が何かを理解しており、それを追求するための諸条件を兼ね備えていることが出発点となっている。

しかし考えてみれば、3歳の子供は自らの欲望を自由に追求することは出来ない。それは身体的な制限を理由としているかもしれないし、経済的な制限かもしれないが、いずれにしても移動の自由すらままならない存在だ。

そして、その3歳児を世話(ケア)する成人Aの存在を仮定すると、その成人Aはケアする子供を持たない成人Bよりもハンディキャップを負っている。なぜならば、Aの社会的・経済的自由は子供の存在によって、かなりの程度まで制限されるからだ。多くの人は、無意識に成人Aが母親であると仮定するだろうが(それ自体が議論すべき問題ではあるが)、父親である成人Bの存在を思い起こせば、夫婦間において自由な「善の構想」を妨げる不平等が横たわっていることに気づくだろう。

この比較は子供を持つ夫婦でなくとも、障害を持つ個人Aと持たない個人Bでも良いし、介護を必要とする両親を持つ子供Aと必要のない子供Bでも良い。いずれにしても、わたしたちの社会に”完全に自律した人々”は存在しないどころか、すべての人が幼少期と終末期、そして時には病床期などケアが必要になる時期を経験する。すなわち、全ての人が「自律した個人ではない存在」を等しく経験するのだ。

ロールズが想定する社会は現実に即しておらず、自律した成人男性のみで成り立っている社会など存在しないことから、理論的に不十分であるという批判は強力だ。ここに至ってフェミニズムが投げかけた批判は、男女に限らず「自律した個人」像を問い直す問題となる。

実際ロールズは、家庭内において「正義の二原理」を適用することに消極的である。社会的・経済的不平等はできるかぎり是正されることを「正義の二原理」に掲げているにもかかわらず、家庭内での社会的・経済的不平等については放置したままで良いということであれば、理論として不十分であるという批判は妥当であろう。

なぜ『正義論』は、家庭内の問題に立ち入らないのか?そこには幾つかの理由が存在するものの、フェミニズムは総じてその立場に批判的である。これは専門的には、政治・経済など「公的領域」と家庭など「私的領域(家庭)」の峻別という近代的公私二元論と呼ばれる。この二元論に対して、フェミニズムから投げかけられた批判は「ケアの倫理」と呼ばれるが、本論では立ち入らない。

ただ確かなことは、自由で平等な社会という我々が100年以上も前に手に入れた構想は、いまだ理論的にも不完全なのだ。

疑問への答え

ここで、先程あげた疑問の前半部に立ち戻ってみよう。

「フェミニズムが、女性の権利を擁護してきた運動であることはわかった。でも法的な男女平等は、かなり実現しているじゃないか。・・・」

たしかに法的な男女平等は、参政権や財産権が保証されていなかった時代に比べれば、かなりの程度まで達成された。しかしながら、法律が未だ想定しえない領域において、人々の平等な自由に疑問符がつく状況は存在していることがわかる。

成人A(妻)と成人B(夫)の例で考えるならば、Aが出産している間に受け取れるはずであった生涯賃金がBよりも低いことは、明らかに不公正である。しかも、これをBが補填すべきか?という問題も出てくる。

AとBが結婚したのだから、Bが補填するのは当然であるように見えるが、結婚していない成人Cを持ち出せばどうだろうか?

A・Bと同程度の能力を有するCは、不公正を被ったAおよび補填を余儀なくされたBよりも、高い生涯賃金を得ることが出来た。結果的に子供を生まないことで、CはA・Bよりも得をしているが、果たしてこれは公正なのであろうか?

では、Aの不公正を国家が補填すればどうだろうか?国家の補填は、すなわち市民による補填であるが、将来世代のためのコストであるとして全員が同意するだろうか?またAが移民であれば、その義務を国家が負うべきだろうか?

議論は尽きないが、先程の声が持つ確からしさは大きく揺らいできた。

一連の議論は、第二波フェミニズムがおこなってきたように、社会的なジェンダーとしての「女性」が負わされてきた不公正であるものの、同時に男女間の平等な自由に疑問がつくという意味で、第一波フェミニズムが扱ったような根本的な問題ですらある。100年以上が経過しても、ここに答えが出ていないことに驚きを感じないだろうか。

後半部分も見ていこう。

「・・・もちろんセクハラは大きな問題だ。でもそれは、一部の問題ある男性の仕業で、男性だからという理由から自分たちまで石を投げられるのは間違っている。フェミニストたちは、いま何をしたいんだ?男女の対立を煽るだけじゃないか」」

理論的な問題を見てきたように、これは男女間の対立ではなく、個人の平等に関する問題である。セクハラやジェンダー差別という根源的な問題も広く残っているが、同時にわたしたち全体の問題なのだ。(そうした人は存在しないだろうが)差別意識を持っていないと自認する人々であれ、セクハラをしたことがないと考えている人であれ、平等の問題から逃れられる人はいない。

フェミニズムが掲げるアジェンダにいまのところ共感できていない人は、それを女性の権利擁護ではなく、「自律した個人ではない存在」の権利を検討する理論だと読み替えてみてはどうだろうか。自分自身がその存在になる可能性、そして身近な存在をケアする可能性があると考えた時、決してフェミニズムは、他者のための思想ではないはずだ。

セクハラや女性への差別・偏見が跋扈するなか、こうした説明をすることは批判や誤解を招くかもしれない。しかし個人的には、フェミニズムの理論的側面を理解することが、自分自身にも大きく関わる思想だと理解する重要な契機となった。

男女平等は達成されたのか

フェミニズムを「自律した個人ではない存在」の問題と捉えることは、フェミニズムが突きつける根源的な問いを鮮明化させるために有効であると筆者は考える。しかし同時に、それはフェミニズムが運動として目指してきた女性の権利獲得という大きな主題をぼかす危険性も持っている。

そこで最後に、ここまで無批判に使ってきた「法的な男女平等」という言葉や、「なぜいま、女性の権利ばかりが主張されるのか」という表現について、改めて考えてみよう。

「女」という概念が社会的に構築されたものとするボーヴォワールの主張は既に紹介したが、ジェンダーとしての男女と、生物学的な区分としての男女に違いがあることは重要である。生物的な男女差を研究する科学的・統計的な問題と、社会的に構築されたジェンダーの問題は区別する必要がある。

2005年、ハーバード大学の学長を務めていたローレンス・サマーズが、STEM(科学・技術・工学・数学)の突出した研究者に男性が多い原因について触れた発言が問題視され、学長辞任に至った。サマーズは、STEMの優秀な研究者に女性が少ないことについて、「男性に比べて女性が劣っているからだ」という紋切り型のセクシズム発言をおこなったわけではない。

むしろサマーズは、突出した女性研究者が少ない要因の仮説として女性の社会的・教育的な不利を挙げている。その上で、他の仮説としてSTEM研究に関わる能力の男女差において、男性の方が正規分布のバラツキが多いため、男性側に突出した能力を持つ研究者が出てきやすい可能性を指摘している。

平均的な知能として男性が高いという主張ではなく、男性の方が得意・不得意のバラツキが大きいという研究に注目しているため、これを差別的と言うのは非常に微妙だと思われるが、いずれにしてもサマーズの発言は本質主義的、そして差別的であると大きな批判を集めた。

本質主義とは、男女の間に生物学的・心理的な差異が本質的に存在するという立場であり、対義語として社会構築主義があり、ボーヴォワールの主張はまさに後者の考え方である。本質主義は、フェミニズムの立場から批判されることも多いが、実際には生物学的な男女差は存在している。例えば、身体的差異や男女のホルモン、生殖機能の違いは、生物学的なオスとメスを決定づけている。そのため、本質主義や構築主義について考える時、それがジェンダーについて述べているのか、生物学的な男女差について議論しているのかに注意する必要がある。

サマーズ発言には本質主義的であると受け取られる要素はあるが、同時に社会的・教育的な不利を挙げており、それは社会構築主義的な見方である。例えば、「女性は数学を学ばなくても良い」という規範を幼い頃から教育された結果、その女性が数学を不得意とするならば、生来的能力の反映ではなく社会的な規範によって構築された結果であると言える。STEM分野の突出した女性研究者が少ない理由に、男女の生物学的な違いが影響しているかはわからないが、社会的なジェンダー観が女性研究者の道を阻んでいることは確かだろう。

重要なことは2つある。1つは生物学的な男女差を無視したり、それによって導かれる科学的事実を歪めたりすることは間違っている。生物学的な男女差は存在しており、フェミニズムは生物学的な男女差を無くす運動ではない。

もう1つは、ある男女差が生物学的なものか、社会的に構築されたものかを見分けることは非常に難しいという点である。

例えば、STEM分野の成績において、男性の方が正規分布のバラツキが多い場合、男性の生物学的な特徴を表しているのだろうか?例えば、「女性は数学など学ばなくとも良い」という規範を教えられた女性が多い結果、突出した能力を持つ女性が生まれづらい社会環境が生まれているならば、それは社会のジェンダー間によって構築された結果である。

これらを考えると、男女間に本質的な差があるのか?すべての性差は社会的に構築されたものに過ぎないのか?という二分法は不適切であることがわかる。問題は、どこまでが生物学的な男女差であり、どこからが社会的に構築された差異なのか、という点なのだ。おそらく、本質主義と社会構築主義はグラデーションのように存在している。

両者の区分がグラデーションであるならば、「男女平等が達成された」と言うことが難しい理由も明らかだろう。これまで成人Aと成人Bの例を出してきたが、例に漏れず2人の生涯賃金差について、法的には男女の間に賃金差を設けることは許されていないが、実質的に子育てを担わされることが多い女性の賃金が低いのは、明らかに不公正である。男女の賃金差が、生物学的な男女差ではなく社会的な構造やジェンダー観にもとづいて生まれているのであれば、それはあきらかに平等の理念から外れている。

女性には子育て以外にも、職場での活躍や昇進に多くの見えない壁があると言われる。所謂「ガラスの天井」として知られる現象だが、総体的に男性よりも女性のほうが、社会的に構築されたジェンダー観によって不利を被っていることに多くの人が同意している。上の世代や慣習によって不公正を強いられるならば、法的な男女平等が達成されたとしても、問題は継承されたどころか、その所在が見えづらくなったという意味で厄介である。

運動としてのフェミニズムが目指してきた女性の権利獲得は、十分に達成されたわけではないことは強調されるべきである。

まとめ

フェミニズムとは何か?という問題に一言で答えることはできない。その複雑性や理論化出来ない多様な問題群こそが、フェミニズムの本質だと述べる論者も多い。

しかし敢えて単純化して言うならば、筆者は自由と平等に関する諸問題の1つだと考える。そして諸問題の中でも、リベラリズムにとって根源的な問いを突きつけるとともに、その理論的な危うさに対して真っ向から疑問を投げかけるクリティカルな存在だとすら考える。

もちろん現代の政治哲学において、フェミニズムやケアの倫理から批判を受けた正義論は洗練された修正を経ているし、近年復権を果たしつつある功利主義からも、フェミニズムと関連して論じられる興味深い議論も多い。

しかし重要なことは、フェミニズムが投げかけている問題は、決してある業界のある個人がおこなったセクハラの問題だけでなく、現代社会に生きる市民が向き合う自由と平等に関わる問題なのである。

わたしたちは、さまざまなアイデンティティを有している。あたかも自分が、健康で経済的・社会的にも自律した立場の人間であると仮定して、議論を進めてしまうことは多いが、「自律した個人」である瞬間は決して当たり前ではない。貧困や病気といった個人の状態、社会的なジェンダー、そして様々な権力関係の網目の中で、個人のアイデンティティは常に揺らぎにさらされている。だからこそ、自分が「自律した個人」であると確信を持つ人間にこそ、フェミニズムの重要性は色褪せていない。

「なぜ女性の権利ばかりが主張されるのか」というミスリーディングなタイトルを付与してしまったが、むしろ本記事を通じて、そうした問いが全くもって的外れだということが明らかになっただろう。

フェミニズムとはなにか?

それは、女性の権利擁護を目指す運動に限らず、わたしたちの権利擁護のための理論と実践なのである。

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著者
The HEADLINE編集長。株式会社マイナースタジオを創業後、2015年に株式会社メンバーズ(東証一部)に企業売却。早稲田大学政治学研究科修士課程修了(政治学)。関心領域は、メディア論や政治思想など。Twitter : @ishiken_bot
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