平成28(2016)年11月9日
アメリカ大統領選挙で実業家のドナルド・トランプ氏が予想に反して勝利。得票数ではヒラリー・クリントン候補が上回る。
結語
――「革命的ジャーナリズム」の未来のために
表町通信〈十二月〉鎌田哲哉
先月最後の引用が示す通り、沖縄県主催のパネルディスカッションでは、「「多様な意見」で議論をしたい」(猿田佐世)と称するその肝心の「多様性」が、小ずるいやらせかプロレスに腐敗している。そうなってしまうのは、自らに不都合な、外交政策のラディカルな改変を促す「「安保廃棄」の意見」を司会や発言者が徹底排除し、しかもこの排除自体を「なかったこと」にしているからである。同じく日米同盟を不動の前提とするにせよ、「オール沖縄」の正直な(?)事後的言論統制とさえ異なって、それが「多様な意見」を生みだす基盤自体をあらかじめ抹消し、その可能性を一切聴衆に考えさせまいとするからである。だが、何かを提示する代りに
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この連載で、我々はごく一端だが日本の左翼運動紙を読んできた。朝日や読売等の商業紙の惨状に対して、これらの運動紙がいかに自覚的にジャーナリズムを批評し、いかに実践的にその腐敗を変革できたか。この問題を、極力具体的に「証拠付き」で検討してきた。もちろん、
だが、それなら左翼運動紙が自らの紙面に、どれほど「幾多の他の方向」を打ち出せたか。彼らが「悪い例」以外の豊かな手がかりを、後続者達に多少とも太い線で残せたと言うのか。胸に手を当てて考えよ。数個の例外が『かけはし』にあったとしても、『前進』の軽薄なお祭り騒ぎ、『未来』の書いてみただけの力ない駄文(以上六月)、『青年戦線』の姑息な論文盗用(七、八月)、『解放』二紙の過去記事の使い回しや、恥しくないのは当人だけの紋切型の濫用(三、四月)、何より殆どの運動紙に共通する「出現」の光景をとらえ得ぬ皮相な文体と、従来の企画をなぞるだけの創造なき紙面構成。一体これらの編集部=指導部のじじばばは、彼らの「革命」が生じたとして、その時これほど無様な「オルタナティブ」を増刷して我々の口元に押しこむつもりなのか。それ以上に犯罪的で反革命的な実践がどこにあるか。かつてルクセンブルクが、修正主義者の画一的で薄ぺらな言動を一蹴したあの修辞――「実のないくるみ」は、日本の左翼運動紙にも正確に当てはまる。いや、中江が明治の元老を切り捨てた罵倒を想起すべきかもしれない、「筆を汚すに足」りぬ無能な指導部が「皆死し去ること一日早ければ」、我々人民の利益も一日増えるのだ、と。
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もちろん、ここには「誰にも読まれていない」状況に屈した、各運動紙の緊張の欠如がある。それは社会の至る分野をとらえる陳腐な現象にすぎず、上述の「悪い例」、使い回しや紋切型や剽窃その他は、今日典型的には大学紀要や文芸誌に横行するものだ。「言ってくれる人」=「批評し指摘してくれる人」がいないせいで手抜きが加速し、誰もが不善をなすようになる――この悪習の日常化は、別に運動紙に限られるわけでない。
だが、だからと言って問題を人間的な弱さ一般に還元すべきでもないのだ。私が問うのは、その一歩先の事柄だからだ。所属党派が何であれ、とにもかくにも我々は大衆運動に参加し、その全身に革命の太陽の熱量を体感しているはずだ。私利私欲が全ての小人どもがいかに手抜きに手を染め、いかにパクリに加担しようと、この陽光は絶えず我々を温めて、大衆運動をまっとうな明るい場所に連れだすはずなのだ。そこでは、当分「誰にも読まれない」ことは所与の前提でしかなく、お天道様に決して恥じない仕事をすること――他人がどうあれ出版上の悪習を浄化し、紙面の抜本的な刷新を続けて迷いなく「幾多の他の方向」を作りだすこと、それが運動への忠誠を誓う一人一人の使命だからだ。にもかかわらず、現実には多数の左翼運動紙が学者/小説家/詩人君レベルの腐敗と荒廃に落ちぶれる。そこに何か決定的な錯覚がないのか。「運動」について、特に革命運動とジャーナリズムの相互関係について、根本的な考え違いがあるのでないか。
おそらく、それは革命運動とジャーナリズムがそれぞれ別の場所にあり、主観的にはいかに後者を重視しようが、結局前者を伝えるだけの従属的手段でしかない。そういう実践上の前提のためである。使い回しや紋切型や剽窃で「新聞」をでっちあげたその後で(だがそのどこが
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だが最後に聞くがいい。「革命的ジャーナリズム」(武井昭夫)は革命運動そのもの、他の何でもない
「革命的ジャーナリズム」の再生――それは極度の苦難と困難を我々に強いている。すでにルクセンブルクがヨギヘス『スプラヴァ・ロボトニチャ』の公式主義を批評し、カウツキー『ノイエ・ツァイト』の臆病と行動力欠如を破壊した時点でそうなのだ。だがこの試みを続ける限り、誰かが絶えず我々の耳元で告げるだろう。それは、この話し手の声であることで、そのままシン・ジェウクや女性労働者やアイヌの少女のものであるような、無数に透明に遍在する声である。それらが世界に砕け散り、とどこおり、はじきあい、おおいつくす時、我々は遂に「革命の言葉」を獲得するだろう。
私が最近感じていること、しかもとても強く感じていることが何だかわかって? 私の中で何かが外に出たがって動いているということ。これはもちろん何か知的なもの、書くべき何かです。また詩か短編小説のようなものだと思わないでよ。そうじゃないのよ、あなた。私が自分の頭の中に感じる何かというのは、私がまだ自分の力の十分の一、百分の一も使い切っていないということ。私は自分の書くものにとても不満で、自分は内面的にはそれ以上だ、と前からはっきりと感じているのです。
つまり、書くものの
でも、どんな風に、何を、どこで? まだわからない。
(ルクセンブルクからヨギヘスへ、一八九九年四月一九日)
(おわり)
(かまだ・てつや=批評家。岡山表町在住、江別大麻出身)