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五、熱間鍛造の金属組織 資料とする銃身は先述の通り、『うどん張りの筒――』で紹介した馬上筒である。江戸後期から幕末にかけての製作と推定する。 写真a~fに各部断面のマクロ組織とミクロエッチング組織を示した。 写真aは銃尾部分を輪切り方向に切断し、かっ長手方向の切断により、ねじ部断面を現わしたものである。 右の黒い部分は銃腔内の錆の固着、左の黒い部分は、尾栓をはずそうとしたがねじきれてしまった痕である。 雌雄のねじはともに三角ねじであり、山の角度はおおよそ92.5度である。嵌め合いは良好で、ねじ山は1インチに8山(総山数13.5山)、(ピッチは当然3.175mm)であった。 一種のインチねじであり英米の影響を受けている。 ねじの寸法が製作者ごとにまちまちでは、機械部品としてきわめて不便であったので、イギリスのウイットワ一スが1841年標準ねじの寸法をきめ、ねじ製作者に同じ寸法のねじを作ることを提案した。 本資料のねじは偶然にできた型式ではない、オリジナルの火縄銃のねじ山の角度は、110度~120度以上が普通であるところからも、江戸後期~幕末に作られた銃であり、ねじであると判定した。 写真aのO内にある部分。雌雄ねじのかみ合った箇所の、ミクロエッチング組織が写真bである。 雄ねじの一山を高倍率42(写真は縮小掲載)で観察すると、写真cのようになる。 白い部分はエッチングされない鉄地で、ここはフェライト結晶(炭素を極少量しか含まない鉄の結晶)から成っており、炭素量は0.1%以下である。製作に使用されたのは、極軟鋼であることを示す。 横に長く伸びた灰色の來雑物(非金属介在物とよばれる)鉄津に由来するもので、これが多いと鋼の材質を損ねる。鋼の結晶組織と來雑物の双方が、ねじ溝のところで断ち切られており切削法で加工されたことが分かる。 dはさらに倍率を100に拡大しての雌ねじの谷底である。地の鋼結晶組織が谷の形に沿って流れるようにある。 eは雌ねじの山である。(倍率42)地の鋼結晶組織がねじ山の形に沿って、連続して流れているのが特徴的である。これは銃尾を加熱してから雄ねじの「捻型」を挿入し、銃身の外側を鍛打することによって、銃腔壁面に雌ねじを形成させたことを表わしている。熱間鍛造法で作られたことの重要な証拠となるものである。 fは雌ねじの山をさらに拡大(倍率100)したもので、熱間鍛造による鋼結晶組織が上記説明通りであることを示したものである。 雌ねじに使用の鋼は、付表の炭素分析値(0.36、0.34%)が示すように、中炭素量の硬鋼であった。 六、改造を重ねているが このうどん張りの馬上筒は、複数回の改造が施されてはいるが、熱間鍛造による「雌ねじ」分部の加工は、銃身製作の最初から行われているもので、後年の改造加工ではない。 この銃身は雷管銃に改造されつつあった痕跡を残しているが、もとは火縄銃であり、火皿がついていたものである。この銃の火皿の取り付けはアリ溝を銃身に切って嵌入する方式で、そのアリ溝も残っている。鍛打して、ねじの形成後にアリ溝を切るのが手順であり、 その逆はありえない。逆行してはアリ溝を潰してしまうからである。また改造時に熱間鍛造すれぱアリ溝は潰れるか、消滅するであろう。 蛇足とも思えたが、それでも「後年にねじを切り直したものではないか」と疑義をとなえるむきもあって、一言付け加えることにした。 むすびに 江戸後期から幕末にかけて、西洋思想が入ってきても熱間鍛造のねじが作られていたことは証明された。 しかし火縄銃伝来時の方法であるということには、つながらない。 しかもこれは、この馬上筒が一例であって、他に見てはいない。 銘 江州国友佐里郎伊知、銘 駿州住石田勘蔵藤原OO(会理事安田修氏提供)の銃も調査済である。両者ともに地の鋼結晶組織が断ち切られており、タップによる切削であることが判明している。 これら詳細は後日の発表としたい。(完) 1864年、アメリカのセラーズも標準ねじを発表している。
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