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うどん張の筒 (2)


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三、熱間鍛造の問題点


熱間鍛造説支持者のいう、鉄砲伝来直後のタップやダイスの存在の否定は正しいかもしれない。


ただしタップ・ダイスでの雌雄ねじの加工がなかったにせよ、当時のねじ加工の実体を調査された結果ではないようだ。これは冷間切削説支持者にもいえることであり、今後の研究課題である。


ヨーロッパ・中近東・東南アジアにおいての、特に尾栓ねじの加工法にっいては不明の点が大である。


文献の調査も必要だが、当時の内外の銃による切断調査が望まれる。しかし資料(銃)不足は如何ともしがたい。


日本においては伝来銃そのままの実物として、確証を得られる銃が無いことで、事の解明を困難にしている。


銃身だけは、伝来と同時代のものとして種子島時邦氏蔵(種子島開発総合センターに寄託、鹿児島県指定重要文化財)がある。


―― 天正12(1543)年、種子島時尭が、ポルトガル人から入手した初伝銃は明治10年、西南戦争で焼失している。これを聞いた旧臣の西村家が、その祖織部丞がポルトガル人から贈られた南蛮筒を種子島家に献上した。翌明治11(1878)年のことである。――


本来は(1図)のように銃身のみであるが、現地においては薩摩型の銃床を取り付けて展示し、初伝銃としている。



日本における最初の「ねじ」を調べるについては、最適と思えるこの銃身だが、


a) 伝説と史実との間で整合するのかどうか。初伝銃の数の問題である。この件は島津兼治氏発表の「徳永系図」の信憑性にも関わってくるのであるが、初伝銃は何丁あったのであろうか。

b) この県重文の銃に分解{錆による固若で到底無理であるが)の許可が下りる道はないか。

c) 同じく非破壊による透過X線検査に、許可は下りないものであろうか。X線検査によっては、解明できる部分もあるのである。


(写真はある銃身のX線透過写真例)



「火縄銃ねじ類特別調査委員会」の熱間鍛造による、雌ねじ製作について、伊藤博之氏は次のように述べている。


「しかしこの報告は文献史学の知識から一足飛ぴに型鍛造による復元実験へと飛躍している感がある。実際の火縄銃の観察による情報摂取や技術史的思考の欠落が見られる。復元実験における型鍛造法によるねじの製作と、実際の火縄銃の尾栓ねじの製作技法の解明とは別の次元の問題である。研究手法としては、先ず実際の火縄銃の尾栓の雌ねじが型鍛造法で作られていたことを証明しなけれぱならない。そこで得た情報をフィードバックし初めて復元実験を行なうべきなのである。」


もっともな論旨である。はからずも拙稿が欠落部分を埋め、証明する形になったがそれは後述する。


四、冷間切削の問題点


『中島流砲術管閲録』の二種のタップであるが、小口径の銃には、「捻錐」を用い、大口径砲(大筒・大銃)の雌ねじ製作には、「仮捻」を用いるとある。(2図)



「捻錐」は直径に対して可変する構造を有しており、粗削りから仕上げの段階まで、次第に径を大きくしていくことが可能であり、構造的には納得しうるが、鉄砲鍛冶資料のなかに見いだせずにいて、タップとして切削能力があったのかという問題の解決を難しくしている。


「仮捻」においても同様のことがいえる。原文では、


一、捻の製入れ様、小筒に同、然れ共大筒に至りては、総て手重くなるなり。大銃は仮り捻を何段にも掛けること也。何段にも掛ける時は手軽く入るより。


尤、百目筒位迄は二段に入れる積もりにても済むなり、例えば葛をの高さ三分の積ならは、ウ子の深さも三分なり、此三分を三つけ一分つつ掛かる様製するなり。



如此次第に一分つつ大くし、三度目は本捻の大きさに致也。カリ捻の葛数は三葛か四葛にて善し、但し葛の処、縦に鋼鉄を入る。


△此所に、如図斬金にて切割、鋼鉄を入れ湧し合せて、葛を摺立てる也。



扨、葛をすり立るに不鍛練の者、目分量にて摺立てれは、葛の幅広狭になりてぐ煙を吹出様になる也。故に葛の幅に紙を裁ち、糊にて張付、紙の通りに鍾フチ目を付け置を、摺立へきなり。


一、カリ捻入様は錐を入る仕掛にて、縦にても横にても蜘手を指して廻す也。


最初葛を望まする所は、少し錐にて穴を広め置き、むりに捻込なり。随分油の付け、捻を元に返しては廻すへし、


亦、切れたる金粉を節々取出すへし。


余程、力を入るもの也。故に蜘手を指す処を鍛いて善し、丈夫にせされは、子ち折れて蜘手きかさる様になる也、


心得へし。


一、右の通りに仮捻を入れ終わりて、本捻を摺立入る也。

此本捻も堅く子ち入て納まる加減に致し置くへし、数放発し、磨き洗い致す内に段々ゆるくなる也。


一、本捻掛け終りたらは、力を試して故障なくは、上仕揚げかかるなり。


一、仮捻の掛り三厘増、三百目以上は二厘増。掛り深けれは廻す骨折ると、若林の説也。


(参考)

 百目筒=口径 40.34mm   三百目筒=口径 58mm
 弾径 39.54mm 弾径 57mm
 三厘=0.909mm 二厘=0.606mm 一厘=0.303mm

 (原文の仮名はカタカナ、特別なヶ所以外はひら仮名に直した。若干の漢字は当用漢字におきかえ便宜上句読点を付した。峯田)


大口径用の仮捻は、現代のハンドタップとかわる所が無いと言って過言ではないが、果たしてこれで雌ねじが切れたであろうか。


材料選出、鋼の湧かし付け、熱処理(焼き入れ・焼き鈍し)などかなり高度な技術を必要としている。


ハンドタップで雌ねじを切った経験者なら、直径40mm、60mmなどという大タップで、鉄にねじを切ることがいかに大変なことであるか、想像できるのである。まして当時の刃先は炭素鋼の時代である。


切れるのか、切れたのか疑問であり、この大口径のタップの有無とともに多くの問題が残されている。


ただ文末に「掛かり深ければ、廻す骨折れると若林の説也」とあって、作業の実際が見えるようでもある。


製作原理、作業方法ともに現代と同じものであることには驚くばかりである。


もしその後、幾分の進歩があったとすれば、刃物、刃先部が高速度鋼や超鋼に変化したことぐらいである。このように考えるならば、仮捻式タップが鉄砲伝来当時の技術として、遡ることは難しい。


小口径(火縄銃)用タップの「ねじきり」が、実際に使用されたことは故安斎實会長が、最後の鉄砲鍛冶国友覚次郎翁より直接聞いた話として残っていて、その加工法が裏づけられている。


ただ残存する「ねじきり」で現代のタップと同水準のねじ加工が可能であったかというと疑問がある。鍛造ねじの仕上げ凌い用「ねじリイマア」ではないかとも考えられる。それは残存する「ねじきり」の形状と刃先角度に、切削能力が感じられないためである。



「ねじ錐」タップ加工であれぱ、ねじのピッチは同一であるから、同産地、同工房、同系列、同時代、同銘、同匁の銃においては、互換性のある捻があってしかるべきで、「ねじきり」タップの使用例と互換性をもっ捻を調査する上で、古銃身は重要な存在である。


しかし近年、各地の鉄砲隊設立ブームによって状況は変化した。


鉄砲隊使用銃の尾栓ねじの交換修理が行なわれ、オリジナル捻が失われている。調査の未来はかならずしも明るいものではない。これはまた別な形での大きな問題なのである。


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