19.マリウスとリーシャ【マリウス視点】
物心ついたときから、期待に満ちた目にとり囲まれていた。
王太子殿下、王太子殿下、と誰もが本名よりも長い敬称を呼ぶ。その肩書が自分の呼び名だった。本当の名を呼んでくれるのはそれをくれた両親と、二つ下の弟だけ。
だからリーシャに出会ったときの衝撃は、マリウスにとって一生忘れられないものとなった。
「はじめまして、マリウス様!」
瑞々しい黒髪をなびかせ、屈託のない笑顔でそう言われた瞬間、マリウスは恋に落ちていた。
我ながら単純だと自嘲した。これでは近ごろ流行りの小説のようだ。
その小説……『聖なる乙女は夜空に星を降らせる』では、権威にあぐらをかいていたポンコツ王太子が純粋無垢な男爵令嬢に惹かれ真人間へと立ちなおるべく努力する。
マリウスは王太子という立場を笠に着た言動などしない。しかしポンコツ王太子と呼ばれるにはふさわしい気がした。
人前に立つことが恥ずかしくて仕方がない王太子など、ポンコツと言われるしかないではないか。
周囲の期待を一身に背負ったマリウスは、常に追いたてられていた。完璧にこなさねばならない、ミスがあってはならないという強迫観念は些細なことで彼をひどく憂鬱な気分にさせた。
たとえば、マリウスの味方であると主張するアクトー侯爵が。彼の口ぐせである「王位は当然、王太子殿下が継がねばなりません」という台詞が。蛇のような視線が。「王太子殿下のためを思ってです」と強要されるふるまいが。そういったものがマリウスに絡みつき、繊細な心を苛んでいた。
未来への不安を抱えつづけ、いつしか拒否反応を起こした身体は赤面という抵抗をするようになってしまった。おまけに感情を表に出さないようにすれば不興を買ったと勘違いされ、冷酷王子と呼ばれる始末。
対人恐怖症を治そうと努力はしているものの、その努力にたいしてまで暗澹たる苦痛がぬぐえなかった。
それらのすべてが、リーシャのきらきらと輝く黒い瞳の前でははるか彼方へ消え去った。具合の悪さも吹き飛んだ。……いや、異常という点では、激しすぎる鼓動はそうだ。
かあぁっと熱を持つ頬が、そのときだけは不快ではなかった。なぜならリーシャもまた顔を赤らめ、興奮を隠しきれない様子だったからだ。
「こんなところでお会いできるなんて驚きました。私、園遊会で一度マリウス様をお見かけしたことがあるんです。物語から抜け出てきたように素敵な方だと思って……あっ、申し訳ありません!」
身振り手振りをまじえながら語るリーシャがハッと我に返りひざまずく。
「無礼な口を利きました……! 罰はいかようにもしていただいてかまいませんので、どうか両親や兄弟はお許しください! みな真面目に領地経営に励んでおりまして、ついこのあいだもかぼちゃが豊作で――」
無礼を詫びながらも勢いのやまないおしゃべりに、マリウスは思わず吹きだした。
リーシャの心にはひとかけらの偽りもない。表面上は王太子を称えながら裏で肩をすくめるようなこともない。
それはひどく心地のよい感情だった。
「よい。そう畏まってもらわなければならない人間でもないからな、わたしは」
言ってしまってから、身についた口調にうんざりとした。ろくに人前に立てないくせに、こういうところだけはしっかりと根付いている。
しかしリーシャはそんなことは気にしなかった。
ほっとした表情で息をつく。
「マリウス殿下はやさしい方なのですね」
「やさしい……? わたしが?」
「はい、すぐにご無礼を許してくださいましたもの」
やはりその言葉に嘘は見えなかった。何か不思議なことでもありますか? と言わんばかりの瞳で見つめられ、落ち着きつつあった顔の火照りが戻ってくる。
物語の王太子の気持ちがわかってしまった。
彼はこうして恋をしたのだ。
自分をありのままに見つめる瞳に囚われて。
それからもマリウスとリーシャの交友は続いた。
王族と男爵令嬢の身分で本来会うことは難しいはずだが、弟のレオハルトがうまくとり計らって機会をつくってくれたのだ。
レオハルトはいつもマリウスに味方し、ふがいない兄を応援してくれる天使のような弟だった。今回もいつの間に調べたのかリーシャのことを知っていて、「彼女はマリウス
そんな弟の話をするとリーシャはとても喜んだ。
そして自分の家族のことを教えてくれた。
末端貴族ではあるが領地経営に真摯にとりくみ、領民からも慕われている父。多くの子を育て、いつも明るく元気な母。四人の兄と二人の姉。
「私は一番の末っ子で、お恥ずかしながら勉強よりも畑をつくったり森で木の実をとったりするのが好きでした。父母もやかましく言うだけの気力もないようで、礼儀作法も中途半端なままで……」
「けれども君はすばらしい心を持っている。上辺だけとりつくろっても心根のやさしい者には敵わない」
「あら、それならマリウス様もですわ。マリウス様の心もお美しいのです」
卑下する言葉を、リーシャは事もなげに否定した。そんなことはないと口に出かかった言葉を押し殺し、マリウスは礼を言った。
より添うとリーシャは土と緑の匂いがして、心が落ち着いた。
彼女にふさわしい男になりたいとマリウスは願った。
リーシャは『乙星』を好んでいた。
身分をわきまえた彼女は小説を自分たちの間柄にたとえたりはしなかったけれど、心の奥にある切ない気持ちはマリウスにも伝わった。
「物語の中でくらい、幸せいっぱいでいたいじゃないですか」
ほほえむ彼女に、諦めなくていいと言ってやりたかった。
あの王太子のように、成長した自分がほがらかに笑ってリーシャを迎えに行くところを、想いを告げるところを夢想した。
しかし現実は物語のようにうまくはいかなかった。
相かわらず赤面症は治らないし、自分に自信もつかない。リーシャにふさわしくありたいと思ったくせにこのていたらくかと自責の念に駆られつづける。
レオハルトを王太子としてはどうかという声まで聞こえてきた。それに憤るでもなく、そうなればよいと考えてしまうのだから情けない。
王太子という立場を捨て、弟の臣下となれば、リーシャの身分だってそれほど気にすることはない。
そんな弱気な人生設計を夢見ていたおりのことだった。
レオハルトがリーシャを連れ、隣国へ留学したと聞いたのは。
『王太子妃にふさわしい人間になるため、修行してまいります』
レオハルトの手紙には、リーシャからの伝言が書かれていた。