キラー通りには古くからの名店が二店ある。一つは南サイドの「SARA」と北サイドの、ここ「福蘭」だ。かれこれ35年以上は経つだろうが両店ともいまだに異彩を放っている。真似る事の出来ない個性を今だプンプンさせている。
私にとってこの二店と今は無いスーパー「UNION」は青山夜の徘徊ルートの定番となっていた。
年に隔月の如く来てしまう、健康イメージに最悪の餃子の店・・・・・・でも大好きなんです。
今年の何月かに「福蘭」を紹介したが、今回はキッチン内と料理法に関してちょっとだけ分析?をしてしまうのだ。
前回は「餃子以外を食べてはいけない」と言ってしまったが、相方が好きな焼売は良いのかなと思ってきた優柔不断な今日この頃。この右側の蒸篭が焼売の蒸し器。年輪を重ねた痕が目で分かるが、35年は経っていない。その左側が筍というかメンマの鍋となっている。アルミの鍋になっているということは先代の亡くなった王さんがビックリするかもしれない。・・・・・何故か、中華でアルミ鍋を厨房に置いてあるということは、プロのフレンチのシェフがテフロンのパンでオムレツを作るようなもの。であるからだ・・・・しかし近頃は良いのかも、優柔不断な私。
どうしてこのような餃子が出来上がったのか、時たま考えるが、東京餃子の中でも秀逸で東京餃子三店の一つと推薦している。改めて、その三店を再度紹介するが作り方の分析だ。
左側のジャーレンに揚げたての餃子が盛られているが、すでに中華鍋に移されてスープで絡められている。ヘラで掘り起こすようにスープと粉が絡んでネットリとした粘状が作られる。それが不思議なこの店の餃子。
餃子は冷凍されず冷蔵庫で落ち着かせてタップリの粉を振りまいて湿気と乾燥から餃子を守る。注文ごとにラードたっぷりの鍋に平均一人前10個生餃子を放り込んで揚げるのだ。それをジャーレンで掬いラード&油鍋から上げる。油を取り除いた鍋にスープを一玉入れてジャーレンの餃子を入れる。ここで上記のヘラで絡めながら捏ね掬って餡のようなネットり感をつけてできあがり。
たっぷりニンニクの欠片と醤油&酢で作られた餃子の付けダレ。
これが不思議で女性には評判がいいのです。特にファッションが似合う、カッコいい女性が好んで食べている。美容にも良いのかもしれないがこの店の食法が各人の食のヒントになれば幸いだろう。
口の中はニンニクの甘さとネットり感。さらには、ラードで作られた甘さと、餃子の中身の、野菜と肉の美味さが、動物性スープで出来たトロミと一緒になり、絶妙の味を作ってしまっている。油で揚げられた粉がスープで戻され、独特のトロ味となり、餃子から噴出した野菜や肉とあいまって旨味を構成している。
これが作品・・・・・・・・・・・・・「福蘭餃子」
いつもの常連や餃子好きが訪れるがどの顔もかって知ったるがごとく、食べさせていただいているという雰囲気。それでも、いいのだろうこの店の味。
何百回食べただろうか、この店の美味さと、安さと、ユニークさには表敬をするしだいである。そのユニークさが何だろうと思って眠れぬ日もあったかなと思うくらいに考える。
それは意図して出来たものか、
偶然の産物なのかである。
色々な料理があるが、どれも、このどちらかではないかと思う。特に意図して作られた物ばかりの最近には、この亜流といえなくもない、不思議な産物があまりに少ないような気がする。料理店でも家庭の台所でもである。
店の味や、家庭の味はその様な繰り返しが、一つの逸品を作り出すことがある。しかし、そのせっかくの逸品も料理人が未熟だったり、食べてがスットコドッコイであれば逸品が一品になってしまう。
料理人を育てるのも、家庭の料理の作り手を育てるのも、食卓という真摯に食を大事にする環境を創れるかという点にある。
どうだろう、夫々の食卓を考え直すところからいきませんか。
名シェフは夫々の近くにいるのです。