今すぐだと浮かばれないので、色々書き残しておこうと思います。
数年前に脳梗塞を起こして大変なめにあいました。
幸い軽くて済みましたけど、重症だったらと思うと恐ろしい。
一応漫画家です。漫画家は辞めていません。書かせていただけるところがありましたら書きます。
詩を書いたり絵を書いたりしてましたが、こんな奴がいたんだという記録を残しておこうと思います。
森沢としおはペンネームです。魔法の天使クリーミーマミの主人公森沢優と彼女の大好きなお兄さん大友俊夫をくっつけた名前です。
★生い立ち
1959年2月4日生まれの、チャキチャキの江戸っ子だったらいいんだけど、埼玉生まれです。
生まれた町には日蓮宗系の大学、立正大学があり、終戦の最後の日に空襲があって町が焼け野原になったというところです。歌舞伎の「熊谷陣屋物語」の主人公、蓮生坊、熊谷次郎直実の本拠地です。
幼稚園の頃、おばあさんに「なかよし」を買ってもらったのがきっかけで少女漫画に目覚めました。
その雑誌には、手塚治虫の「りぼんの騎士」が載っていました。手塚治虫は宝塚出身なので、宝塚の影響で出来た漫画です。
心は生まれた時からずっと女だと思って来ました。なのになぜか男の身体で生まれてきてしまった。
小さい頃から女の子と一緒に遊びたかったのですが、見た目は男だから仲間はずれにされました。
それもあってずっと少女漫画にのめり込んだのだと思います。
私には2つ上の兄がいて、兄がラジオのキットを買って作ったのがきっかけで、自分も1石レックスラジオのキットを買って、ラジオを作り始めたのがきっかけで電子工作に目覚めました。
町には丸山電気商会という修理業者向けの部品屋さんがありましたから、最初はそこでラジオの部品を買っていましたがすぐに秋葉原通いが始まりました。
あの頃の秋葉原は、輸出向けのラジオやレコードプレーヤーのジャンクが一杯店頭に並んでいました。
★中学生
中学生になり、ちょうどテレビでは「巨人の星」と「アタックナンバーワン」が流行り、女子はバレー部に押しかけ、男子は野球部に押しかけました。小学生の頃は、田舎だから、田んぼでの草野球に兄と一緒に混ざるんですけどずっと玉ひろいだったから、それが悔しくて野球部に入りました。
それが失敗の元。3年間補欠でした。オマケにイジメられてのけものにされてました。何しろ近視で夕方になると玉がよく見えなかったから玉が取れない。ついたあだ名が西熊。市内には、西熊谷病院という精神科の病院があって、頭がオカシイやつというで、馬鹿よりも人い言葉でした。
散々イジメられたのだから、さっさと野球部を辞めて兄がいる電気部に入れば良かった。
でも、一番入りたかったのは音楽部です。小さいころからピアノが習いたかった。でも親は音楽じゃあ飯は食えないと考えてましたから習わせてもらえません。なのに、習う気が無かった妹にエレクトーンを習わせました。だから妹は中学校に上がったらエレクトーンをやめてしまったので、せっかくの高価なヤマハのエレクトーンが無駄になりました。せめて自分が弾きたかったのだけど楽譜を見ても何が書いてあるのかさっぱりわからない。しかもエレクトーンは妹の部屋に置いてあるので、妹が居たら勝手に引くことも出来ませんでした。
しかも、小学校、中学校と、学校に音楽部がありませんでした。
小学校にはクラブ活動が無く、中学校ではほとんど体育系のクラブしかなく、文化系のクラブは電気部と科学部以外、ろくなクラブがありませんでした。卒業アルバムには色々な文化部がさもあったかのように写真が載っているのですが、美術部は不登校の人達の写真ばかりでした。音楽部だっていつ活動してたの?一度も発表会なんてなかったじゃない。
お陰で、中学校3年間は暗黒の日々。目が悪くてすれ違った先輩の顔がわからずシカトしたなとイジメられ、野球部では延々と玉拾い。試合に出たのは代打でわずか3回。守備で出たことがありません。これでうまくなるでしょうか?オマケに野球部の顧問は3年生の時の担任でした。その先生はあたしが勉強できると一生懸命褒めてくれるのですが、すみません、野球ができないからって勉強ができないとは限らないじゃないですか?バカだと思われていました。
中学の思い出といえば、少女漫画とアイドルブームとムードミュージックにはまったことです。
妹のお陰で、幼いころから少女漫画を読んでいましたが、中学生の時に、週刊マーガレットで「ベルサイユのばら」と「エースを狙え!」が連載開始しました。
後にも先にも、この作品は少女漫画の中の金字塔です。雑誌も、週刊マーガレット、月刊マーガレット、りぼん、月刊フレンド、月刊コミックを皮切りに、花とゆめ、ララ、ぶ~けと一時期はすべての少女漫画を読んでいました。
兄が電気部だったお陰で、ラジオを作って音楽を聞いていました。
お小遣い200円ぐらいの子供だからお年玉を集めてラジオを作ったんですよ。
今ならいくらでも安いラジオが手に入りますが。
一番好きだったのはポール・モーリアですが、その他に、レーモン・ルフェーヴル、フランク・プールセル、バート・バカラック、パーシーフェース。フランク・チャックスフィールドを聴きまくりました。と言ってもお金がないから、ラジカセが当時流行ったので、ラジカセを買ってもらい。テープに録音して何度も聴きました。60分のテープが一本。1500円ぐらいしたと思います。
同時に、テレビで歌謡番組全盛時代だったので、歌番組を見ました。
アイドルは、天地真理、南沙織、麻丘めぐみときて、花の中3トリオ。桜田淳子、山口百恵、森昌子がデビューしました。高校に行ったらピンクレディー、キャンディーズが流行りました。
私は、麻丘めぐみさんに憧れました。髪が長くスラっとしていたからです。普通の男の子だったら恋人にしたいといかそう思うのでしょうけど、私の場合は、麻丘めぐみさんになりたかったのです。女に生まれてきたら、きっと歌手を目指したでしょう。山口百恵さんと同年代なので、彼女たちの活躍が羨ましくてしかたがなかった。
★高校生
高校生になってやっと音楽に触れることができました。
ブラスバンドに入ったのです。
最初、サックスがやりたかったのですが、人手が足りないからホルンに回され、トランペットやりたい一年生がいないからとトランペットに回されました。
これが失敗の元。私は楽器を習得して、音楽学校に行くつもりでした。
吹奏楽部は、朝練、昼練、夜練と一日3回練習をしています。夏休みも返上して練習三昧。そういう過酷なクラブにいながら、残念な事に上はファまでしか音が出なかったので、ファースト、セカンドトランペットの楽譜が吹けませんでした。
運良く後輩に経験者が入ってきたので、彼にファーストを任せて私がセカンドを吹いてました。でも、先輩のクラリネットの女性に囲まれて、なんであんたは先輩なのに後輩にばかりファーストをやらせてるのよって文句を言われました。音がでないのにどうやってファーストやるんでしょう?と切り返したら、根性で吹くのよ!って。どうやったら根性でトランペットが吹けるんでしょうか?教えて欲しい。
同時に、女って怖いということをしみじみ知りました。
少女漫画によくイジメのシーンだとか出てきますけど、演出じゃなくて本当のことだったのだと気が付きました。
私は、超ハイトーンをだす方法を教えているカールトンマクベスという人が来日した時、楽器を持ってデモンストレーションに参加しました。彼は、アメリカのジャズ・バンドで高音専門のハイトーンヒッターを教えている人です。その人の教え子に、メイナード・ファーガソンもいます。確かに瞬間的にハイトーンを出すことができるコツを掴みましたが、常用でハイトーンを出すことができませんでした。
歯並びや顎の噛み合わせで吹けない人が出てしまうのがトランペットの悲しいところ。だいたい3人新人が入っても、二人辞めていくようなセクションですから。何度フォークソング部に行こう思ったことでしょう。
当時、フォークソング全盛だったので、さっさとブラスバンドは辞めれば良かった。結局、トランペットが吹けるようにならなかったので、音楽学校に行くという道が閉ざされました。
それじゃあ、音楽がダメなら美術で身を立てようと思いましたが、当然高校生の時には美術部にはいっていませんでしたからろくに絵がかけません。専門学校に行きたかったのですが、ここで運命のいたずらがありました。
兄は、小学生の頃は学校で1・2位を争うほどの頭の良かった子なのですが、中学生に入ってから引きこもりになってしまって、どんどん勉強ができなくなり、工業高校にはいったのですが、ろくに学校に行かずクラブ活動だけには出ていたと聞きます。それを、私が知ったのは10年後でした。
兄は高校を卒業して、音楽学校に行きました。普通、高校の時にトロンボーンをやっていたら、そのままトロンボーンで進学するものですが、なぜかホルンのほうが好きだからとホルンを買ってもらったのですが、こともあろうに学校に馴染めないからと学校に行ってないことがバレました。
さっさと就職すればいいのに、就職のほうが難しいから親は学校に行かせてやる気をださせようとしたらしい。
兄は次の年に美術学校に入ったのですが、精神的に弱い兄が、コンパで酒を飲まされて急性アルコール中毒になり、救急車で病院に運ばれてこれもまた不登校になりました。
父親は呆れて兄を退学させて強制的に家に連れ戻しました。
困ったのは私、音楽学校に行きたかったけど行けず、美術学校に行きたくても、兄がそんなめにあって、とても美術学校に行かせてくれということができませんでした。
それで仕方なく大学進学ということになったのですが、なにしろ音楽学校に行くつもりでしたから、あまり勉強をしていません。おまけに私が行った高校は、先生はやる気が全くなく、高校3年で教科書の途中で授業が終ってしまった。そんなんでどうやって受験しろと?
いとこは青山大学に行きましたが、彼が行った学校では高校3年の勉強は2年で終わらせて、3年は受験勉強だったと後で聞きました。地方で2番めに頭のいい学校に行ったはずなのに、なんで?
★浪人
それで浪人になったわけですが、一日中机に向かって勉強していたら、すぐに目が真っ赤に腫れて寝込んでしまった。しかも、頭の中がドクンドクンと脈打っている。
目が腫れたのは勉強のしすぎとコンタクトが合わなかったせいでしょうけれども、あれは脳梗塞だったと、再び脳梗塞になってみて、症状が似ているので間違いがないと思います。しかも、その後3年ぐらい頭の中がドクンドクンと脈打ってました。
原因はわかりませんが、実家は職人のうちだから、野菜は少なく、味付けはなんでも辛いモノばかり。
トランペットを力んで吹いていたからきっと頭の血管が弱くなっていたのでしょう。
目が真っ赤に腫れて見えないものだから、勉強ができない。しかも医者に行くことすらできない。
普通の親だったら病院に連れて行って、治るまで心配すると思うのですが、医者に連れて行けって言わないから放っておいたって。
目が痛くて本を1ページも読めない人間がどうやって勉強したらいいのでしょう。
★大学
結局、目が痛くてろくに受験勉強すらできず、とにかく引っかかった大学、大東文化大学の英米文学科に進みました。
入ってみて失敗したことにすぐに気が付きました。
英米文学科にはいったはずなのに、外人の先生が一人しかいません。
それでどうやって英語が喋れるようになるでしょうか?
しかも、英文科にはゼミがありませんでした。外から呼んでいるアルバイトの様な先生ばかりだからゼミがないんです。
ゼミがないと困るのは一般的に、ゼミの先生について卒業論文のテーマを決めて書くのがあたりまえです。
なぜなら、専門分野だから専門書を読まないとどうしようもありません。
何しろ英語でしょう?芥川龍之介や太宰治ならば、日本のどこに生まれて、どういう学校に行ったかとか、すべてわかりますが、イギリスやアメリカの事どうやって調べたらいいのでしょう?
インターネットなんかありません。
ゼミの先生が指導してくれなかったらどうしようもありません。
私は、卒論を2転3転してオー・ヘンリーにしましたけど、その当時オー・ヘンリーは文学だと思われてませんでした。風刺の効いた小話程度の作家。作者の意図によって故意に物語が操られる。そんな風評しかありません。酷いものです。だから先人の書いた論文が無い。
小学生や中学生の読み物でクリスマスキャロルと並んで日本ではよく読まれていたのにもかかわらずです。彼の代表作は「最後の一葉」と「賢者の贈り物」です。きっとどこかで話しぐらい聞いたことがあると思います。
大学生の時に、最初、私は軽音部に入ろうと思いましたがトランペットが吹けないので、どうしようか迷ってました。
後に、クラスの仲良し連中がみんな楽器を持っていて、それぞれ、ドラムギターベースと揃っていたものですから、バンドを組みました。
当時、ギターのコピーと言ったら、私はアリスとかかぐや姫だったので、ロックバンドはド素人。
ロックときたら、どちらかというと、ヴァン・ヘイレンやQUEEN、ディープ・パープル系が好きでした。
技術が足りなくてまともな演奏は出来ませんでした。今と違って楽譜もなかったし。
クラスのみんなとロックバンドを組みましたけど、将来のことを考えて、私は漫画研究会に入りました。
(私の2年後輩に「鉄拳チミンミ」の前川たけし氏がいます。本宮ひろ志先生のところへもアシスタントが居ます。)
それが失敗の元。
漫画研究会というのは、今と全然違うと思います。
今だったらコミケとかあるので、アニメのパロディーが中心でしょうけど、(戦艦ヤマトブームがあったので当時からコミケはありましたけど)著作権に触れるような物は漫画じゃないと思われていました。
下手くそでもいいから創作だと。
でもほとんど創作するのは年1回の季刊誌だけ、後は、毎回、漫画の話をせず会合が終わると、先輩に飲み屋に連れて行かれて漫画の話をする。
私は、少女漫画ばかり読んでいたので話についていけない。オマケに酒が飲めないので烏龍茶ばかり。珈琲が飲めるところがいいんですけど!飲み屋さんに珈琲はありません。少女漫画の話をしたくて慢研に入ったはず。だから女性の中に入って少女漫画の話をしたいのですが、一人嫌な女がいて、なんで女の中に入ってくるのよという番犬のような人がいた。
ナンパが目当てなのじゃなくて、私は少女漫画の話がしたかっただけ。2年の時に、一人仲の良い子ができたんだけど、先輩は贔屓していると噂になって、それがアダになって女子からは総スカンをくらいました。もしかしたら、その子に嫌われていたのかもしれません。
当時、りぼんでは、池野恋さんや陸奥A子さんが活躍していたし、ぶ~けでは吉野朔実さんが活躍していた。だから、純粋に少女漫画を語り合いたかった。一人ぐらい仲間になってくれる人がいなかったのでしょうか?男でも少女漫画を読んでいる人はいますが、男だからこそ女が好きで少女漫画を読んでいる。そういう人とは根本的なところで感じているところが違うので話が合いません。ある意味キモかったので、女性には同じように思われているのでしょう。私は一条ゆかりの「砂の城」が大好きでした。ナタリーになりたかったのです。そういう読み方は普通の男の人はできないでしょう。ナタリーになってフランシスのような可愛い男の子が欲しかった。
さっさと辞めて、バンド活動をしていればよかったのに、バンド活動をしてもプロにはなれないことがわかっていたので漫画に打ち込みました。
そんなわけで、せっかく親は大学に行かせたのに、私は漫画を書いてました。
少女漫画家になるのが夢だったのですが、1年掛って書いた漫画は選外。
それで、就職するわけですが、せめてどこかの雑誌社に入ろうとしましたが、就職課に出版社の求人の棚が無い。就職課に聞いたら、うちの大学は出版社から一軒も求人が来ていないとのこと。
その時、私の中で4年間、何しにここへ来たのだろうと後悔しました。
せめて出版社にはいって、本を作る仕事に尽きたかった。
そもそも文学部に入ってしまったので、ろくな就職口がない。
同級生は、信用金庫だとか、デパートだとか、スーパーだとか、食品問屋の営業とか、そんなんばっかり。英語を4年間勉強したことがまったくの無駄になります。
だから、うちの大学の卒業生は、一旦就職しますが、勉強しなおして先生になる人が多いのです。
私は、先生になろうと思ったのですが、教育学言論の先生との相性が悪く 2年続けて落とされました。
何しろその先生ったら、授業の大半を学生の悪口を延々と話していて、聞くに耐えなくてとうとう先生!授業をしてください!って言いましたから。きっとそれが気に入らなくてて2年続けて落とされたのかもしれません。とうとう教員免許がもらえませんでした。
それで車のセールスマンになるしかありませんでした。
ところが、田舎の車のセールスってほとんど、地方の小さな修理工場の紹介に頼っていて、飛び込みのお客さんは殆どつかまりません。
しかも、日曜営業を始めたものだから、私は日曜日市民バンドに入ってトランペットから別の楽器へ転向しようと思っていたのにできなくなりました。
★漫画家のアシスタント
1年我慢して、2月にたまたま、あだち充さんのアシスタント募集を目にして漫画家のアシスタントになることを決意。
ただ、面接に当たって見せる作品がありませんでしたので、急遽、イラストを書いて持って行く事にしました。ところが仕事をしていたわけですから、作品が出来上がってみたら1ヶ月過ぎていました。それでちょうど金井たつお先生が募集をしていたので、作品を出したら運良く引っかかりました。
本当は、少女漫画家志望なので、少女漫画家のアシスタントになりたかったのですが、少女漫画家さんのところは女性ばかりなので、仕方が有りません。
それで、漫画家を目指すために西部新宿線の中井に引っ越しました。
ところが、このプロダクションの漫画は本宮ひろ志さんのアシさんから出た人だからスピード線が雲形定規ではなくてフリーハンド。しかも画用紙を使うので、ほとんど下書きなし。下書きをしていると紙が傷んで線がにじみます。しかも、その先生は上空からみた俯瞰の絵が大好きな先生だから、今まで地方にいたため高いビルから下を見たことがありません。なのにどうやって絵を書けと?
3年半いましたがずっと仕上げばかり。悔しくて悔しくて、そこを辞めて二度と手伝いに行きませんでした。(後で単行本が出た時持って行ったら、〇〇くんてこんなに絵が書けたっけと言ってました。それっきり二度と会っていません。全くアシスタントを育てようという気持ちの無い人だったんです。使えるか使えないかそれだけ。あだち充さんのところへ応募すれば良かった。彼は少女漫画も書いているから。
私は、漫画家のアシさんを辞めてから、途方に暮れました。
少女漫画家さんのアシスタントになりたくても、絵がすっかり少年漫画になってしまっているからどこにも行けません。
アルバイトも見つからず、田舎に一旦帰りました。
その時、兄はずっと自室に引きこもっていたので、兄の事が心配だったからです。
半年、引きこもっていました。仕事を探しに行っても、当時は、第2新卒までしか取ってもらえない時代。
それ以外だったら、きっと建築業とか仕事はあったのかもしれませんが、何しろ心は女の子。
少女漫画をこよなく愛する乙女ちっくな男だから、建築業に入る勇気がありません。
兄とはよくケンカをしました。何しろもうすでに引きこもりになっていて、延々と真空管の話をしているばかりですから。だからどうしたいのか聞くと、怒りだして黙って聞けと。延々と話を聞くのですが、例えば目の前にすでに出来上がったアンプやスピーカーがあったなら、音を聞いていいとか悪いとは言えるけど、働いてないんだからお金がない。現物がありません。
本だけの知識で、目の前に無いアンプやスピーカーの話を延々と聞かされても、なんだかさっぱりわかりません。
今思えば、兄は、もうその頃から人として壊れていました。
とにかく仕事をしないと親に心配を掛けるわけにもいきません。
★漫画家
ふと、コンビニで美少女漫画を見つけたんです。美少女漫画と当時言っていましたが、今で言えばやおい本。簡単に言えばエロ漫画です。
当時、官能漫画と呼ばれていて劇画系の漫画が主流でしたが、同人誌から流れてきた人を集めた雑誌、ロリポップとかペンギンくらぶとかが出てきた頃です。
すぐに飛びつきました。とにかく漫画を書いて、東京に再び行きたかったからです。
ところが現実は甘くなかった。
美少女漫画は、男が読むもの。だから可愛いアニメ系の絵柄が主流だからと相手にしてもらえませんでした。
松文館に行ったら、書いているのはみんな童貞なんですよ。童貞が妄想で書くから面白いんだと。大人が書いた絵は全員エロくないから面白くないんだと追い返されました。すみません。私も童貞でした。
泣く泣く絵柄を男が好むアニメ系に変えました。
アニメと言ったらクリミーミーマミが好きでした。キャラクターデザインの高田明美さんと、ウインダリアのいのまたむつみさんの絵を真似ました。よく、きまぐれオレンジロードのまつもと泉を真似ているのかと言われましたが違います、まつもと泉がいのまたむつみさんを真似てるんです。しかも、私はジャンプではデビュー出来ませんでしたが同年代です。
必死になって漫画を書いて上京するはずでしたが、運悪く1999年の、青少年まんが条例に引っかかり、単行本がでなくなりました。それをきっかけに、連載を打ち切られ、こともあろうに痔瘻と坐骨神経痛になって漫画を長時間座っていることができなくなりました。
その頃、漫画の仕事がなくなったので人の紹介で、ひかわきょうこさんや、高階良子さんのところへお手伝いに行ってました。まさか美少女漫画家さんの紹介で、少女漫画家さんのお手伝いが出来るようになるとは思わなかたのですが、痔瘻と坐骨神経痛になってしまってアシスタントにいけなくなりました。
またもや失業した私は、家で毎日ゴロゴロしていました。何しろ急におしりが痛くなって歩けなくなってしまうからです。その頃、私はMSXという8ビットのパソコンを手に入れ、パソコン業界に転身しようと考えていました。でもどこも断られました。年齢が高かったからでしょう。その頃から、ずっとパソコンをイジってました。MSXでRPGツクールダンテというのがあってドラゴンクエスト型のRPGた作れたからです。
私は、どちらかというとアセンブラで直にゲームを作ることを目指しました。当時、MSXの雑誌にはマシン語のプログラムが本に載っていました。ディスクではなくて数字が何ページにも渡って書いてある。それをモニターを使って延々と打ち込んでいく。一発でプログラムが動くことはありません。そういうことをしてゲームを作ろうとしてました。その頃から有明のビッグサイトで行われているコミケに再び通うようになりました。
病気が少し良くなったのでアルバイトに行きました。当時東松山市にコピーの三田工場があったのでそこに行きました。
★不幸の科学との出会い
工場に通うバスは駅から出ています。駅に小さな本屋がありました。
本屋で何気なく手にとった本。それは「太陽の法」でした。そういえば「坂本龍馬の霊言」って読んだことあるなって。太陽の法には著者がお釈迦様の生まれ変わりだということが書かれてあって、あの世の霊界の構造が詳しく書かれてあり、仏教の真髄が書かれている。
その本に出会ってから不思議なことが次々に起こりました。工場に行けば中庭には菩提樹が植えてあって、お釈迦様が瞑想しているような風景が広がっている。仕事中ミスをして怒られました。その時に相手の女性の顔が悪魔の顔になっていて憑依されてることがわかりました。テレビで不幸の科学の幹部が出ていて、島田裕巳と対談していたのですが、島田裕巳の顔に悪魔がダブって見えたんです。
だから、お釈迦様がお生まれになって、今、集められているのだと本気で信じてしまいました。
今にして思えば本屋で悪霊に憑依されたんだと思います。
本物のお釈迦様だったら、悟りを開かれて欲から離れているはずなので、愛人が何人もいるはずがいませんから。愛人に溺れているってことは、それは仏教で言えば欲界でしょう?愛人が何人も居たらそれは色情地獄でしょう?まさか教えを説いているご本人が教えを実践していないとは思いませんから。
でも当時は、そんな本部で起こっている内情なんてわかりません。田舎に居たら素晴らしい宗教としか思えませんから。
★上京
こうしちゃいられないと思いました。
お釈迦様が再誕されて新しい法を説き始めたと本気で信じたからです。
ノストラダムスの予言に1999年7の月に地球は滅びる。その時に、アンゴルモアの大王が復活してマーズが治める。その時に太陽の法が説かれるだろう。
アンゴルモアというのはモンゴルの王様だからお釈迦様と。それを本気で信じたんです。
すぐに入会しました1991年のことです。まだ熊谷のほうには支部は無く埼玉南部支部のある大宮と同居していました。もう毎日のように通いました。その時、さとうふみやさんに会いました。ちょうど「金田一少年の事件簿」の連載が始まって漫画が売れ始めた頃です。
彼女は漫画が売れたのは信仰のおかげだと信じています。確かにおかしなこともありましたけど、発展的な成功話も有るのは事実です。
そして、1992年。1993年。1994年。東京ドームに信者を集めてご生誕祭という説法の場があったのですがその前座で舞踊団がお芝居をしたり舞踊を披露したりしていました。
ちょうど中野富士見町に稽古場があり、舞踊の練習をしていました。
病気でのため実家いたのですが、こうしちゃいられないととりあえず就職し、毎日大宮の支部に行って電話がけをしたり仲間と熱く語り合うということを繰り返していました。
私は熱心に兄に信仰を勧めました。当時兄が心の病に掛かり引きも持っていましたから、きっと兄には悪い霊が取り付いていて憑依されている、教えを読んで自力で悪霊をはねのけられるようになれば病気は治るものと思いました。
けれど、事実は逆で私が入会して本を勧めた途端、兄の病気はひどくなり自室の天井を頭で突き破ったり、部屋中私の趣味のプラモデルのラッカーを塗りたぐりました。
私が、その宗教から悪霊を拾ってきてしまったのでしょう。
★転身
その後増々宗教にのめり込みました。1999年には大地震が起きて、大変なことが起きる。
その大災害を止めるにはこの教えを広めるしかないと本気で信じたからです。
私は漫画家を辞め出家者になってこの教えを広めようと思いました。
ですが何度も何度も履歴書を送りましたが、全然お声が掛かりませんでした。
田舎で就職口を探しましたけど、漫画家をしていたというだけでどこも採用されません。
やっと採用されたと思ったら商品管理。高卒の方に混じって商品の品出しと問屋ですからお店への商品の袋詰と出荷を手伝いました。これではいつまでたっても収入が増えないので上京することにしました。
当時、東京ドームの前座で踊っていた時、俳優の故南原宏治さんが劇団を作るというので入れていただきました。漫画家をやめて台本作家に転身しようと考えました。
お芝居には1本出させていただきました。でも上京したのはいいけど仕事が見つかりません。
ハローワークに行ってもアルバイト雑誌で応募しても、延々と断られてしまいます。漫画家をしていたというだけで。
まだ坐骨神経痛もよくなかったし、うっかりするとぎっくり腰になる恐れがあり
運送屋さんの仕事なら雇ってもらえると思いますが、腰が悪くて続きません、持病を抱えてましたから。
しかたなく劇団にはアルバイトが見つかるまで休団届けをだそうとしましたが、座長の女性が休団は認められないから辞めてくれと言います。それでしぶしぶ退団しました。
その時、私はこれが本当に宗教をやっている人なのかなと感じました。普通だったら大切な仲間なんですから仕事を仲間と共に探してくれるとか、待ってるからくじけないでねと励ましてくれる物たと思ってましたけど、なんだろう、最初から教えと実際に中にいる人は別物なんだろうか?という疑問が出てきました。
最初田舎で入会した時は、支部もなく公共の施設を借りて会合をしていました。その時は、クリスチャンのように人の不幸を哀れんでくれる人もいましたけど、徐々にいなくなり、私の身に起こったこれまでの不幸を打ち明けてようとすると、それまでの失敗を口にしてはいけない。教えにあるようにプラスの思いを描き、良い種を巻き続けなさいみたいな事を言う人ばかりになって、人の話をまともに聞いてくれる人はいなくなりました。教えには「同悲同苦の心」という、相手の苦しみを我が苦しみとして生きるという教えもあったのですが、それは最初だけでした。
それで、私は宗教なんだから貧しい人や病んでいる人が来て、そんなこと言っていたら誰も来なくなってしまうんじゃないかと心配しました。事実最初は、車いすに乗った人や、どうみても心の病を抱えた人が来て、仏陀に巡り会えたことはこのうえない喜びだみたいなことを言ってますけど、しばらくすると姿が見えなくなってしまいます。
1999年7月になりました。
ポールシフトが起こって、東京は海の中に沈んでしまう?はずが何も起こりませんでした。
それまでも、色々な予言がありましたけど、実際には阪神淡路大震災がありましたけど、予言は全て外れました。でも会のほうでは、この教えが広まったから予言が外れたんだ。仏陀が下生してるから霊界で押しとどめているんだという話になりました。
後で知ったのですが、当時、総裁は宇都宮のほうに地震を恐れて引っ越していたことを、だいぶ後にアンチの情報サイトで知って驚きました。
★転身
2000年に私は41歳になりました。本部から来た新しい支部長は人事課にいた人です。
その人から、いくら職員になりたくてもなれません。一流の大学を出た人か一流の企業にいた人しか採用していないことを告げられてショックを受けました。素晴らしい教えなので出家したいという人が多いのでしょう。
入会した当時、「仏法は王法」にまさると教えられていました。だから、今まで務めていた会社を辞めて、アルバイトに身をやつし日々伝道活動に参加していた人がいましたし、最初の頃は、サラリーマンを辞めて昼間、道路工事のバイトをしながら、夜、伝道活動をしていた人が会の雑誌に紹介されていました。
私も、漫画家を辞めて、本屋のバイトをしながら伝道活動をしてました。
本屋のアルバイトですけど、上京して2年仕事が見つかりませんでした、今にして思えば2年も無職でいるならテレビドラマのエキストラをやっていればよかったと思います。
アルバイト雑誌でも仕事がみつからないので、町を歩き回りました、ある日本屋に行ったらアルバイトの広告を見つけたので、本屋さんに申し入れたら、書店組合を紹介してくれました。そこは図書館に本を卸す仕事です。だけどアルバイトですから給料は安く、お金がたまりません。これじゃあいつまでたっても結婚も再就職もできません。
ですが、私はきっとこの教えを広めるために、神仏から暇な時間を頂いたんだと思い、毎日のように杉並支部に通って伝道活動を手伝っていました。
先程も書きましたが、2000年になって、本部から来た人から、いつまで待っても職員に採用されないことを告げられてから、役者に転向することを考えました。
それで、劇団東俳に通うようになりました。もう若くなくてどこの劇団にも入れなかったのです。
実はプロになろうなんて考えなければ素人劇団は山ほどあったので、そっちに行ったほうが楽しかったのかもしれませんが、将来自分で劇団を作った時に人に教えられるようにと思って、養成所に入りました。充実した日々でした。毎週1回は日舞かダンスのレッスンがあります。講師も現役のドラマの監督、役者さん、プロのダンサーさんから直に教えを学ぶことができるんですから、一番感激したのは元劇団四季にいた方のレッスン。キャッツの一シーンのダンスを教えていただきました。
ですが、実際は東俳にいてもある仕事はほとんどテレビドラマのエキストラばかり。日舞を習っているので時代劇にも出たかったのですが。
私は役者になる決心をしました。オペラ「トスカ」や「椿姫」の助演としてでる事をきっかけに、お世話になった書店組合をやめて参加しました。やめて後悔したのはやっぱり仕事がないってこと。
色んなプロダクションを回りましたけど、エキストラをやっている人はうちではいらないからとどこも取り合ってもらえません。それでやむなく自分で劇団を作り公演を2本うちました。
本当に奇跡的でした。どこかの小劇団で長くお世話になっていたわけでもないのに、台本から演出からすべて自分でこなしました。というか東俳の知り合いにも全部断られて一人でやるしかなかったのですが。
★出会い
劇団の公演を2本うちましたけど、3本目のに向けて人を集めましたけど、今度ばかりは人が集まりませんでした。それじゃあと朗読劇を作って公演をしました。
だけど残っていたのは若い劇団員一人と私の2人だけ。オー・ヘンリーを朗読用に書きなおして上演しようとしましたら、女の声をやるのは女性のほうがいいんじゃないかと反対にあいました。新しい台本のネタを探すのも大変だったのでどうしようかと考えていた時、ネットである女性に出会いました。その女性は夫が夜逃げをしてしまって子供を抱え悲しんでいたので私もかわいそうに思い急速に親しくなりました。
誰か女性の朗読者がみつからないので、その人にお願いしました。彼女は本当は嫌だったようですけど、私のことが好きだったので頑張ってくれました。
朗読劇は成功したものの、結局、人が集まらず次の公演を打つには最低半年が必要です。諦めざるを得ず、抑えていた公演の日もキャンセルしました。キャンセルと言っても払い戻しができないので15万円の借金が残りました。
★結婚の夢
私は、その人と結婚することにしました。
何しろ私ももう47歳。50歳が目の前になっていました。
兄は心の病気、妹も結婚してませんから、実家は私達の代で断絶です。
誰か結婚してせめて子供を残すのが最後の親孝行かなと思いました。
最初、SANYOの修理課が荻窪にあったので、そこに応募したらアルバイトとして採用されました。
SANYOのIH電子釜は当時有名でした。パン焼き器もヒット商品でした。Xactiというハンディーガンタイプのビデオカメラも斬新でした。
私はそこで、電気釜とドライヤーと掃除機の修理をするはずでした。ところが研修中にはろくに仕事が回ってこないで、延々と人の修理を見学しています。結局、私が仕事をするということは人の仕事を取るということなので、いつまでたっても仕事が回ってこず、いいから見ていろ。そんな感じでした、入った当初はまだ劇団を続けようと思っていたので、夜は台本を書き日曜日は稽古の日々が続きました。
私は酷い猫背でまぶたが垂れ下がり眠くなくても眠い目をしていたので、良く疲れてるの?って言われます。しかも、以前建築現場にアルバイトに行ってたので、昼休みは机に寄りかかって居眠りしていました。
それが支店長の目に止まり、あいつは居眠りしているやる気がない!とある日いきなり首を切らてしまいました。
あたしは漫画を描いていたおかげで、ひどい猫背で、しかもまぶたが垂れ下がっていつも眠い目をしてますから、睡眠が十分取れていても、疲れてるんですねってよく言われます。
前にもドラマのエキストラで参加していた時に、同僚から居眠りしていたから監督が怒ってましたよと言われました。いつかきっとお金を貯めて目を整形しよう!とその時決心しましたけど未だに実現していません。
それですぐに、ディズニーのキャストの仕事の面接に行きました。付き合い始めた彼女がディズニー大好きだったので、彼女と行ったディズニーが楽しくてキャストになったら喜んでもらえると思ったからです。始めてのディズニーは大学を卒業してすぐ男同士でしたけど。
最初ディズニーシーのトランジットスチーマーラインに採用されました。でも私はヴェネチアンゴンドラのゴンドリエになりたかったのです。それを断ってゴンドリエにしてもらいました。
今にしてみれば奇跡です。
10年後、再びアルバイトに行こうと思って5回面接に行きましたけど落ちました。
★試練
ディスニーシーのゴンドラは実際にゴンドリエが漕いでいる人力のアトラクションです。
海底にレールがあって自動的に動いていません。ゴンドラをこぐ研修は普通2週刊ですが、私は研修に4週間掛ってしまいました。私の担当になった人が厳しくて、前に声楽をやっていた年配の人がいたけど歌だけではゴンドリエになれない。結局ゴンドラが漕げなくてやめていただいたけどねなんて言ってましたから、歌いたくて来たような私を疎ましく思ったんでしょう。教えられたようにいくら漕いでも漕げるようになりません。どう見ても他の人は全然違うフォームで漕いでいますから、その人は自分の教え方が下手だなんだってこと気がついてないと思います。教えを無視して他のキャストさんたちの漕ぎ方を真似るようになってなんとか漕げるようになりました。
一年ディズニーシーでアルバイトをしていました。ところがある日、先輩のキャストに辞めてくれと言われました。私は40歳の時にレーシックの手術を受けてメガネが要らなくなりましたけど、だんだん視力が悪くなり夕方になるとよく見えなくなりました。それでメガネをするようになったのですが、人の名前がなかなか覚えられません。浪人中に脳梗塞になった後遺症だと思います。ましてや着ているユニフォームが一緒で、ゴンドラは総勢80人以上いる大所帯ですから、誰それと交代してと言われても、分からないことがあって、それで交代する人を間違えてたまに迷惑を掛けたので、とうとう怒らせてしまったのでしょう。
潮時だと思って泣く泣く身を引きました。
そのちょっと前に、もうひとつやめる決心がついた事件が怒りました。
ちょうど支部に不幸の科学の総裁が訪問されるということがありました。会の勢力を立て直すために、今までドーム公演しかしてなく近くで顔を拝見することができなかったのに近くで拝見するチャンスです。
ある日、ディズニーシーに通う途中で、彼女から連絡がきました。会社には体調不良だから休ませてくれと嘘の電話を入れてすぐに杉並支部に行きました。
総裁を直に拝見することができる。これこそ天使に導かれているんだって思いました。
質疑応答で、私は手を上げて指されました。普通だったら質問者は空気を読んで、伝道のために気をつけることはとか、役に立つことを質問しますが、私は出家して主のお役に立ちたいんだってことを伝えました。私は故南原宏治さんの霊に祈って行きましたのできっと南原宏治さんが助けてくれると思っていました。でも霊が見えるはずの総裁は何も言わないのでおかしいなと感じました。でも、後で人事課のほうに呼び出されてやっと面接が叶いました。
★夢破れる
本部は五反田にあります。五反田の人事課に私はドキドキしてお伺いしました。
最初応対してくれた職員はとても丁寧な人でした。これまでの職歴をひと通り聞いてくださいました。
ところがその後出てきた人が、良くなかった。
かったるそうな顔で入ってきました。そして履歴書を見てふーんという顔をしました。
え?これが人事課の偉い人?私は驚きました。でもここで諦めるわけにはいきません。
私は、幼稚園が仏教系なので、お釈迦様が再誕されたらすぐ出家して仏陀のお役に立ちたかったんですと気持ちを伝えました。どっちかというとイエス様のほうが好きでしたけど。
そしたらその職員は、困ったような顔をして「そういう人ここには一杯いるんだよね」と言いました。私は耳を疑いました。
例えばアイドルのファンクラブに入って出会った人に、そのアイドルがいかに大好きなことを伝えようとしたら、ここにはそんな人いっぱいいるんだよね、貴方だけ特別じゃないからって言うでしょうか?
もうひとつ、本部で面接を待っている時、かったるそうに職員が歩いていたのでびっくりしたんです。
ここがお寺だったら、お坊さんはかったるそうに歩いてなんかいないでしょう?仏に仕える身だから。そんな人はさっさと辞めさせられるでしょう。
結局、面接は落ちました。
そして、結婚に向けてハイヤーの会社に就職し、彼女との交際は7年続きました。
その頃が一番、将来の夢に支えられた会社とデートの繰り返しで忙しかったけど、充実した日々でした。
でも、7年も付き合っていたら結婚まで辿り着けそうなものですが、何でしょう。それがとても難しことに感じました。
それは、付き合い始めてから時間が経つにつれて、だんだんと口喧嘩が多くなりました。
私にしてみればなんでケンカになるのかさっぱりわかりません。
例えば、ディズニーシーでデートしている時、急に昔の事を言い出します。最初出会った時は、私は他の人ともお付き合いをしていました。付き合っていたというか出会い系で出会ったので、恥ずかしながら普通の出会いじゃありませんでした。
彼女の話を聞いているうちに同情してしまったんです。夫がある日蒸発してしまって、世の中が白黒に見えるほどショックだったと。小さな子供を抱え、色が見えなくなるほどのショックと聞いてなんとかしてあげたいと思ったんです。
だけど男女のことはとても私は下手だった。出会い系を辞めて彼女とだけ付き合うようになったのに、いつまでたっても前の彼女の陰であたしは苦しんだと延々と私を責めます。悪かったと思いますが、昔のことを水にながしてくれなかったら一緒になることはできません。他の女を見るなとそこまで束縛するようになってましたから。最後には、実家と縁を切って私の姓を名乗れとまで言うようになりました。
夫に夜逃げされたショックで、男性に対する不信感が拭えなかったのでしょう。
ある日、私は性同一性障害のことを打ち明けました。
そしたら、私は女と付き合っているつもりはないから、二度とその話をするなと言われました。
大きな服を仕入れてネットで販売していたので、一緒に御徒町の「える座」に大きい服を買いに行ったこともあるので、女装用の服が急に欲しくなったのですが、それっきりその話はしませんでした。
結婚するつもりでした、兄妹だれも結婚していないから後継ぎの子供もいません。
最後の親孝行のつもりでした。
だけど、だんだん彼女とのケンカが増えるにしたがって、だんだん難しくなってきました。
彼女には息子が一人いたのですけど、なかなか仲良くなれません。
ゲーム機やゲームソフトを沢山プレゼントしました。太鼓の達人のゲームソフトと機械をプレゼントしたこともありましたけど、最後まで仲良くなれませんでした。
★別れ
それでも結婚して幸せな家庭を作ろうと、2012年の秋に引っ越して彼女の近くに住み始めました。
彼女と別れる決定的な事件が起こりました。
私が脳梗塞で入院したことです。
川崎で彼女とデート中でした、激しいめまいに見まわれ視野が急に狭くなりました。
立っていられず彼女に救急車を呼んでもらいました。
救急医病院では原因が分からず、点滴を受けただけで帰されました。
でもひどいめまいは治りません。
次の日、良くなるどころか増々悪くなりました。
3日めに彼女が危険を感じて、五反田の病院を探してくれて緊急入院しました。
もしそのまま放っておいたら、もしかしたら目が見えなくなったり、手足が不自由になっていたことでしょう。
五反田の病院には3週間入院してきました。彼女がお見舞いに来るのですが決まって彼女の気分を害する事件が起こり、延々と愚痴をこぼしています。私は病室に帰れず彼女が帰るまでずっと彼女の批判を受け止めています。でも後になって思い出そうとしても、なんで怒っていたのかさっぱりわかりません。
今にして思えば、彼女の父親が人工透析で45才でハイヤーの運転手を辞めています。母親の苦労を見ているので、もしかしたら私の介護をするようになるんじゃないかって不安を与えたのかもしれません。
彼女の心を引き止めるために私は毎日のようにメールを送り、夜にはスカイプを使ってお話をしていましたけど、最後はほとんどケンカでした。でもなんでケンカになってしまうのかさっぱりわかりません。
これではいけないからしばらく会わないほうがいいと私のほうから切り出しました。
最初は、ついたり離れたりしていましたけど。
あることが起こって、もう彼女の心は私にないことがないことを悟りました。
例えば化粧一つにしても、最初は私に合わせてアイラインを引いていましたけど、別れる前からお友達がアイラインよりまつげのエクステを勧めるようになり、私の好みのヘアスタイルも辞めてしまいました。
別れた後、半年は時々思い出しては泣いていました。彼女は私と思い出のものをすべて処分してしまったと思いますけど、私のパソコンには彼女と一緒に行ったディズニーランドのビデオが山のように残っています。
まだDVDにしてない動画もたくさんあったので、分かれてからも動画を捨てられずに、せっせと動画を編集してDVDを作り終えました。今でもその動画を見ると幸せだった日が蘇ります。その沢山の映像もまだ捨てられません。
そんな幸せだった日々が夢幻だったとは思えませんが、いつかきっと忘れる日が来ることを信じて生きてきました。
★岐路
私は、不幸の科学に行かなくなりまいた。原因は彼女が不幸の科学と合わなかったことも理由の一つです。
一緒に入会してくれたのですけど、不幸の科学は沢山本を読まされるし、頻繁に行われる講演会のチケットを手に入れるにもお金が掛かります。しかも会の仕事がどんどん回ってきて、さも当然のように仕事が回ってきますから、彼女にとってみたら母子家庭でお金もなく忙しい時間を割いているのに、遠慮なくこき使おうとする女支部長に腹を立てたようです。私もそれは感じていました。時々出て行くぐらいならとてもいい宗教なんですけど、活動会員になったとたん忙しくなりますしお金も出費が増えます。
増えるどころかお誘いも忙しくなるので、仕事どころじゃなく成るから彼女が腹を立てるのももっともです。
教えは素晴らしいのに活動にのめりこめばのめり込むほど幸福感がなくなっていくので、私はしまいに会に顔を出さなくなりました。
病気になって彼女と分かれて、私は行くあてがなくなったので、近所の教会に行ってみました。
そしたら賛美歌を歌っています。そしたら賛美歌を歌うのがとても楽しくなりました。
さっさと不幸の科学を辞めて教会に行けば、牧師になることもできますし、賛美歌を歌うこともできます。私が不幸の科学で出来なかったこと聖職者になることも、歌うことも出来る夢が叶うのです。
彼女の別れがきっかけで、私の教会通いが始まりました。
続く