綿業会館
オフィスマーケット 2000年9月号掲載
※ 記事は過去の取材時のものであり、現在とは内容が異なる場合があります。
社団法人日本綿業倶楽部 綿業会館
総務課長
中邊敏郎(なかべ・としお)
「綿業会館」は社団法人日本綿業倶楽部の集会施設として1931年に竣工した。シンプルな外観とは対照的に内装は各室で様式を変え、贅を尽くした華やかな造りになっている。家具や内装など戦前の姿を残す文化財だが、今も現役のオフィスビルとして収益があり、独立した運営がなされている。
様式美の競演――内装に贅を尽くした商都の象徴
綿業会館は昭和6年12月に社団法人日本綿業倶楽部の集会施設として竣工、翌7年1月1日に開館した。
後に大阪府建築士会会長となった渡辺節が設計を担当し、若き日の村野藤吾がヘッドドラフトマンとして腕を振るった同会館の外観は「コロニアル・スタイルを加味した近世復興式」と呼ばれる様式のもとに成る。
折しも大阪がイギリスのランカシャーを凌駕して綿製品輸出世界一(昭和8年)の都市となり、輝かしく「東洋のマンチェスター」の名を冠せられた時期の記念碑ともいうべき名建築であるが、シンプルな中にイタリア・ルネサンス期のパラッツオを彷彿とさせる繊細な装飾が施されているほかは、むしろ努めて虚飾を排したという印象の外観である。
そうした外観といかにも対照的であり、同時にこの建物の最大の特色となっているのは、各室ごとに様式の異なる内装と贅を尽くした調度品の数々であろう。談話室は英国ルネサンス初期のジャコビアン・スタイル(ルネサンス様式を基調に直線的構成をとる)、貴賓室はクイーン・アン・スタイル(ゴシック折衷様式とコロニアル様式を融合。重厚な直線構成に曲線を加味する)、会議室はアンピール・スタイル(十代に流行)、大会場は近代アダム・スタイル(十八世紀英国の建築家アダム兄弟が、古典的モチーフに創意を加えて確立した様式)、食堂の天井は当時の米国風ミューラル・デコレーション(壁や天井梁型を覆う装飾)......まさに百花繚乱、美の競演という趣を呈し、訪れる者たちの嘆美の声を誘わずにはおかない。また、建物に内蔵した換気・暖房用ダクトを通じて、開館当初より井戸水を利用した冷房を実験的に行うなど、設備面での先駆的な工夫が随所に試みられている点も見逃せない。
あえて複数の様式を混在させた理由については、設計者の渡辺が「会員の好みに応じて好きな部屋で楽しんでもらいたかったから」である――とする文章を残しているが、内外からの賓客訪問も多い同会館の性格に配慮した結果でもあったろう。
実際、綿業会館の歴史をひもとくなら、そこに海外・国内を問わず多くの重要な訪問者たちの名を見ることができる。開館直後の3月に国際連盟より派遣されたリットン調査団(満州事変の実態調査のために組織された)が訪れて大阪実業団体と会談したのをはじめ、英米を中心とする各国の経済・産業視察団、また日本の皇族、政治家、外交官などが多数来館しており、戦火の中を生き残った同館は、激動の昭和史を語り継ぐ空間という意味からも、長く保存すべき貴重な存在と認められる。建築自体としての価値はもとより、そうした視点からも綿業会館の文化財的意義は、今後いっそう重要性を増してゆくに違いない。
着工前後から竣工まで ―― 歴史と世相
昭和3年(1928) |
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昭和4年(1929) |
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昭和5年(1930) |
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昭和6年(1931) |
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社団法人日本綿業倶楽部 綿業会館
総務課長
中邊敏郎(なかべ・としお)
公益と収益の共存――"自立した文化財"という在り方
昭和3年に創立協議会を開催した日本綿業倶楽部は、その前年に故人となった岡常夫(東洋紡専務)より贈られた百万円に関係業界からの拠出金五十万円を加えて基金とし、綿業会館の建設を決定した。
「建物と内装すべて合わせて百四十七万円かけたと聞いています。エリート中のエリートである大学卒でも初任給四十円という時代ですからね......感覚的には現在の数十億にも換算されましょうか」
こう語るのは、戦後、昭和27年の綿業会館再開以来、この建物と共に歩んできた同館の総務課長・中邊敏郎氏である。
奇しくも綿業会館の竣工と同年に"初の鉄筋コンクリート天守閣"として復興された大阪城天守閣の建設費は四十七万円、広大な大阪城公園の整備・建設費用は二十三万九千円だったという。
延床面積にして1813坪(本館部分)に過ぎない綿業会館の建設に五十八万六千円(建物のみ)、内装・調度品にさらにそれを上回る六十万円以上もの金額がかけられたというのは、極めて稀有な事例というほかはない。
戦時中は軍部による強制的な徴用を受け、その際に金属類や皮革製品をはじめ多くの什器類が失われた。また、昭和20年の大阪大空襲も経験した綿業会館であるが、周辺一帯がまさに"焼け野原"と化したにもかかわらず、この建物は不死鳥の如く聳え立っていた。
窓の開口部にフランス製の耐火ワイヤーガラスを使用していたおかげで、二階中会場のカーテンに軽微な焦げ跡を残しただけで済んだのだという。
戦前の姿を今に残す貴重な空間だけに、映画やテレビドラマなどの撮影に使用したいという申し出も多い。会員の私的利用を旨とする建物の性格上、本来、そうした依頼は受け入れにくいが、文化的な意義が強く認められるものであればその限りではない――と中邊氏はいう。最近の例では、戦争責任者として裁かれる東条英樹の内面を描いた映画『プライド』や、NHKの連続ドラマの舞台にもなった。
「綿業会館の維持・保存は、倶楽部の会費だけでは当然成り立ちません。その点では、現在もテナント入居者があり、この建物自体が収益を上げていることが大きな意味を持っていますね。この建物はいわば"自立した文化財"として経営されているわけです」
公益と収益のバランス。行政に依存することなく"経営"可能な文化財――しかし、建物自体の老朽化が進む中、所有者サイドのこうした自助努力にも自ずと限界がある。行政による保存体制強化、また名建築に対する国民の意識改革がさらに必要とされるところだろう。
文:歴史作家 吉田茂
写真:小野吉彦