3.あなたの名は【エリザベス視点】
ヴィンセント殿下から、愛を告げられた。
情けないことにわたくしは、お返事をさしあげることができなかった。そしていまでも、ヴィンセント殿下のお顔を見ることすらできない。
だって、お顔を見たら……いえ、思い出すだけで、あの日の記憶がよみがえってくるのだ。
好きだ、と言われた。
その瞬間は意味がわからなかった。何が好きなのかしら、お花かしら、お菓子かしらと思ったわたくしのお馬鹿。
けれど内心を見抜いたようにヴィンセント殿下は言ってくださった。君と恋人になりたいんだ、と。
そう言われてはじめてわたくしは、自らが殿下に寄せる感情が何なのかに気づいた。
「なんということなのかしら……」
ベッドにうつぶせて枕に顔を埋める。ふかふかの手ざわりは波立つ心を癒してくれる。心臓のドキドキという鼓動が身体中に響いている。
――わたくしもヴィンセント殿下をお慕いしております。
その一言を告げる前に、わたくしは腰を抜かし、侍女に抱えられて家へ戻った。……以来ずっと、この調子だ。
いまさら、本当にいまさらだと自分でも思うのですけれど、ヴィンセント殿下は完璧なお方だ。そのお方の隣にいて、優しさや思いやり、見る者を惹きつけずにはいられない笑顔、そういったものを間近で目にしながらわたくしが平静を保ってこられたのは、自覚してしまえば自分でも信じられないくらいの鈍感さのおかげだった。
でも、その鈍感さはほかならぬヴィンセント殿下によってうちやぶられた。
お友達にもヴィンセント殿下がどれほどすばらしい方なのかを語って聞かせたことがある。うんうんとうなずいてくださっていた皆様が、心のうちで何を思われていたのかと考えると顔から火が出そうに恥ずかしい。
「あぁ……っ、きっと皆様、わたくしの気持ちに気づかれて……!」
爪先でばたばたとベッドを打つ。
告白されてからというものヴィンセント殿下に近づけないわたくしを慮って、皆様はいつもそばにいてくださる。ゆっくりと気持ちと向きあい、言えるときになれば言えばよいと、そうおっしゃってくださる。
でも甘えてはいけない。こんなことでは王太子妃として殿下の隣に立つことすらできない。
王太子妃として、お隣に――。
「……!!」
ハロルド様とマーガレット嬢の婚約披露パーティ。あの日、正装に身をつつんでいたヴィンセント殿下のお姿が、カカッと稲妻が落ちるように脳裏によみがえる。
ともに歩みたいと告げたわたくしに、殿下は驚き、けれどやさしくほほえんでうなずいてくださった。
その場面が頭の中で再生された途端、身体中の力が抜けてわたくしはベッドにつっぷした。
本当に、本当に情けないと思うのだけれど、冗談や比喩でなく立つことすらできなくなってしまう。恥ずかしさや申し訳なさや自分に対する驚きや、いろんなものが押し寄せてきて身体への命令がゆき届かなくなってしまうのだ。
これが恋なのだとしたら、わたくしに初恋は早すぎたのではないかしら……。
でも気づいてしまったものは取り消せない。心臓はまだドキドキと鳴っている。
わたくしは打開策を練った。
ヴィンセント殿下に相対してもこれまでのような平常心を保つには、まずは慣れなければならない。
そうだわ、出入りの画家に殿下の肖像をお願いしましょう。小さくて持ち運べるサイズの……はっ! いつぞやに殿下がわたくしの肖像を懐中時計に入れているとおっしゃっていたのは、そういうことね。
さすがは秀才と誉れ高いお方、わたくしへの恋心はすでにコントロールされているのだわ。そして事前にヒントを与えてくださっていた。
……わたくしへの恋心。
自分で考えておいて、また顔が熱を持っていくのがわかる。
殿下もまたこのような想いをわたくしに対して持っていらっしゃるのだとしたら、それはなんて……甘酸っぱくて、幸せなことでしょう。
「きちんと、ヴィンセント殿下とお話がしたいわ」
声に出して名を呼べば、また鼓動が高鳴った。
まるで自分自身が心臓になってしまったみたい。痛いほどの動悸に胸が苦しくなる。けれど、これを乗り越えなければ、殿下にふさわしい女性とは言えません!
肖像がないなら記憶を使えばいい。
この鼓動が落ち着きをとりもどすまで、百時間でも千時間でも、ヴィンセント殿下を思い浮かべましょう。
わたくしは決意した。
目を閉じて、ヴィンセント殿下のお姿をまぶたの裏に描く。風になびく亜麻色の髪、やわらかく細められる目は慈しみの碧で……。
ドキドキドキドキ。
――ヵッ、ヵッ。
ドキドキドキドキ。
――ヵッ、……カツン。
「あら……?」
ドキドキの合間に不思議な音が聞こえてくることに気づき、身を起こした。
耳をすませば、窓のほうからカツンカツンとガラスを叩く音がする。風に揺れる木の枝かと思ったけれどそれにしては規則正しく、意志を感じさせるリズムだった。
そっと窓に近寄り、カーテンをめくって。
わたくしは、あっと声をあげた。
そこにいたのは、一匹のドラゴンだった。
ネコほどの大きさしかない、きっとまだ子どもの――しかし鉤爪は鋭く、口からのぞく牙もまた彼が人間にとって十分な脅威であることを示している。
わたくしを見ると、漆黒の鱗に覆われた身を震わせ、ドラゴンは嬉しそうに窓ガラスに額を擦りつけた。
本来ならば、衛兵を呼ぶべきだ。
ドラゴンとはすでに絶滅した種族。よみがえったならそれは、圧倒的な魔力で街を破壊し、森を焼き、国を滅ぼす。
けれどどうしてか、わたくしにはこの仔竜が神話のような禍々しい存在だとは思えなかった。
闇を凝結させたかのような瞳に敵意はない。むしろそこに含まれるのは思慕のような――。
「……ラース様?」
ふとよぎった名が、口を突いて出た。
窓ごしにも声は届いたようだ。ドラゴンは、「きゅい」とかわいらしい鳴き声をあげた。
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何度か読み直したはずなのに誤字いくつかあってびっくりしてます…本当にありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします…。