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「不登校は不幸じゃない」(視点・論点)

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作家・起業家 小幡 和輝

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こんにちは。小幡和輝と申します。
僕は不登校でした。約10年間、学校にほとんど行ってない期間があるんですけど、大学にも通い、自分の会社も立ち上げ、いま幸せに生きています。今日は不登校は不幸じゃないという話をしたいと思います。

みなさんが考える不登校と僕の不登校はちょっと違うなと思っていて、僕は不登校になってからの方が友達が多いし、不登校になってからの方が性格も明るくなったと思います。
むしろ学校にこだわっていたときの方が毎日辛かったです。

これは学校が無駄という話じゃなくて、学校でやる勉強や友達を作るみたいなことは学校以外でもできるということなんです。

だから僕は不登校は不幸じゃないという言葉を作って、無理に行かなくても他のところで頑張ったらいいんだよというメッセージを届けています。

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毎年、夏休みあけに子どもの自殺が増えると言われています。

死ぬくらいなら行かなくていい。この言葉はメディアでもよく使われるようになってきましたが、僕はもう一歩先の話も必要だと考えています。

確かに命より大切なものはないので、もちろん死ぬくらいなら行かなくていいのですが、じゃあ不登校になったあとどうするの?という現実的な話も考えていかなければなりません。

不登校になると周りからの圧力を感じるようになります。僕もそうでした。
学校に行くのが当たり前、行けない人はおかしい。

まるで不登校を病気かのように扱う感覚をずっと感じてきました。

そのような圧力がずっとあると、どんどん自己肯定感が下がっていって、自分はダメなやつなんだと思ってしまうんです。

だから僕は不登校のイメージを変えたいと思っています。

僕の著書では、学校は行かなくてもいいというメッセージと、正しい不登校のやり方を書いています。
僕だけではなく15人分の不登校体験談を紹介しながら、不登校になったあとの選択肢を伝えています。

僕がみなさんに伝えたいのは居場所の重要性です。

僕は不登校になったあと、ゲームのおかげでたくさんの友達ができました。僕はゲームでしたが、みんな好きなことがあると思います。絵を書くことでもいいし、好きなタレントさんの話でもなんでもいいです。自分の好きなことを通じて友達の輪を広げて欲しい。好きという居場所を作って欲しいと思っています。

また、不登校になったあとの居場所として一般的にはフリースクールというものがあります。

僕も通っていました。フリースクールは日本中にありますが、まだ十分な数があるとは言い切れません。

文部科学省の統計によると、不登校の生徒は14万人以上と言われていますが、うちフリースクールに通っている生徒は約3%です。

地域によってはフリースクールが都道府県内に1つしかないところもあります。もっと増やした方がいいことは間違いないのですが、運営はボランティアで行われていることも多いため、なかなか数を増やすことができないんですね。

そこで始めたのが、不登校は不幸じゃないという活動です。

不登校の経験者や親御さんと一緒に日本中でイベントを開催しています。
もともと不登校の経験をした人と、いま悩んでいる人が繋がれる居場所です。

毎年、47都道府県すべて、合計100箇所でイベントを開催しています。
また、当事者に向けての居場所作りだけではなく、社会の不登校に対する偏見をなくしていく活動でもあります。

TwitterなどのSNSを通じて不登校は不幸じゃないというメッセージをたくさんの人が発信しています。
2018年からスタートして現在までに3万件以上のメッセージが集まっています。いまこの瞬間もどんどんメッセージが集まっています。

この活動は誰でも参加ができます。
一人一人の力は小さいですが、みんなの力を合わせれば大きな力になります。

ぜひこの放送を見ている方にも参加していただきたいです。
詳しくは不登校は不幸じゃないで検索してみてください。
この活動を通じて、僕はたくさんの人と会いました。

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今年は日本を一周して、すべての都道府県で不登校の子どもや親御さんたちとの座談会を行ったんですが、改めて不登校の課題を肌で感じています。

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その多くは学校に戻りたいというよりも、先生やご近所の方、そして親戚からの圧力で戻るしかないように追い込まれているというものでした。

特に多かったのは自分は無理に行かなくていいと思っているが、自分の親、つまり子どものおじいちゃんやおばあちゃんからの圧力を強く感じたという話です。

確かに昔は学校は行った方が良かったし、頑張ってでもいくべきところだったと思います。

でもいまはそうとも限らないと思うんです。

学校の役割である、勉強と友達を作ることは学校以外でもできるようになってきました。

インターネットが広がったおかげで、学校に行かなくても勉強ができるようになりました。

僕の周りでも不登校から自宅学習で難関大学に進学している人がたくさんいます。

これまでは学校に行かなければ友達を作ることも難しかったですが、いまはインターネットで多くの人とつながりを持つことができるようになりました。

僕らがやっている不登校は不幸じゃないの取り組みでは全国各地に1000人以上の実行委員メンバーがいますが、ほとんどはインターネットで繋がった人たちです。

このように学校の役割である、勉強と友達を作ることは学校以外でもできるようになってきました。
そして、この流れはどんどん加速していくと思います。

子どもたちを苦しめているのは周りからの圧力なのです。

学校にいくべきという固定概念を一旦忘れて、その子にとってどのような形が最適なのかをぜひ一緒に考えてみてほしいです。

最後にもう一つだけ言わせてください。

学校で我慢を学ぶことも大事という意見があります。
我慢ができないようでは社会に出たときやっていけないよって僕も言われてことがあります。

確かに我慢は大切です。でもちょっと考えてみてください。

社会に出てからの我慢は希望とセットなんです。

人は希望があるから我慢ができます。例えば仕事が嫌なときでも我慢できるのは給料がもらえるという希望があるからではないでしょうか。
子どもたちにとっての学校は希望に繋がっていないんです。

この勉強がどんな役に立つの?いい大学に行けるよ、いい仕事につけるよ。
確かにそうかもしれないけれど、そんな先の希望で5年も10年も我慢できますか?

社会人でいまはつらい仕事でも5年、10年経ったらもっといい思いができるからいまは無給で働いてね。
これでつらい仕事を我慢できるでしょうか。

我慢ができないと社会に出てから苦労するというのは確かにそうなのですが、学校での我慢というのは社会以上につらいものだと思います。
ここに合わなかったからといって我慢ができない人間になるとは僕は思いません。

学校に行くべきというのであれば行った方がいい理由。我慢できる希望となるものを子どもに教えてあげてください。

学校以外の選択肢が広がってきたからこそ、学校に行かなければならない理由を考えることが必要だと思います。

これまでの常識を一旦忘れて、令和の時代にあった教育方法をみんなで考えていきましょう。

学校に合わないことはおかしなことではありません。不登校は問題行動ではない。これは文部科学省の教育方針にも明確に記されています。

不登校は不幸じゃない。

引き続きメッセージを発信していきたいと思います。

ありがとうございました。

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「原爆資料館 あの日を伝え続ける」(視点・論点)

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広島平和記念資料館 前館長 志賀 賢治

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 1945年8月6日午前8時15分、一発の原子爆弾が広島市の上空、約600メートルで炸裂いたしました。人類史上初めて、都市とそこに暮らす人々を標的に、この恐るべき兵器が用いられた瞬間です。
 原子爆弾から放たれた数千度の熱線は、一瞬にして街を火の海と化し、熱線を浴びた人々は黒焦げとなって死んで行きました。即死を免れた人々も、焼け焦げた自らの皮膚を体からぶら下げて逃げ惑いました。

猛烈な爆風は、家々をなぎ倒し、人々を押し潰しました。
そして、大量の放射線は人々の体内深く入り込み、辛うじて生き残った人々を未だに苛み続けています。

 広島平和記念資料館、いわゆる原爆資料館は、その10年後の1955年に開館致しました。以来、あの日、きのこ雲の下で何が起こったのか、その記憶を伝え続けてきました。
 資料館は今年4月に、十数年に亘る検討作業を経て、展示を全面的に見直してリニューアルオープンしました。本日は、新しい展示の概要、そして資料館が、ひいては被爆地ヒロシマが直面する課題について、お話を致します。

 まず、資料館の原点ともいうべき出来事についてお話をいたします。それは被爆の翌日、8月7日に遡ります。出張先から勤め先の広島文理科大学に向かっていた一人の地質学者が、熱線に溶かされた石の表面の異常に気づき、通常の爆撃によるものではないと確信します。後に初代館長となる長岡省吾氏です。彼は、直ちに瓦礫を拾い集め始めます。爆心地の周辺です。体調を崩しながらも焦土を歩いて集められた資料は、その後広島市の公民館の一室で展示されます。
 当初は、「拾い屋」と嘲笑っていた市民の中からも、次第に協力者も現れ、また、集められた資料の価値に気付いた広島市によって小さな「原爆記念館」が作られるなど、被爆資料の収集が理解されるようになってきました。
 彼の執念は、やがて「平和記念公園」の中心施設となる、資料館の建設へと引き継がれることになる訳です。
 今回の全面的な展示の見直しは、収蔵資料の劣化、施設の老朽化、海外からの来館者の急増など、さまざまな課題が背景にありましたが、大きなポイントは、二つの建物で構成される展示施設の位置付けと来館者の動線でした。

 本館は被爆した資料と遺品という実物資料の展示、東館は被爆に至る歴史的経緯、核兵器の現状など学術情報の展示という位置付けでした。展示の動線が東館から始まっていたため、後半の本館の見学時間が極めて短いことが分かりました。
 時間をかけて見て頂きたいのは本館の展示です。
 そこで動線の変更、さらに展示そのものを検討することにしました。
 その結果、感性を研ぎ澄まして遺品と向き合う本館にまず入り、次に東館で医学、物理学、歴史学などの学術的情報を知るという、動線の変更と二つの館の性格づけをしました。

 作業を進める際、私達スタッフの脳裏を常に過ぎったのは、冒頭述べた初代館長の執念と共に、地元新聞の論説委員、金井利博氏が残した次の言葉です。
 「原爆は威力として知られたか 人間的悲惨として知られたか」
 確かに、海外からの来館者は、上空から撮影されたキノコ雲の写真はよくご存知でしたが、そのキノコ雲の下でどんなことが起きていたのかは、殆どご存知ありませんでした。
 本館の展示では、この人間的悲惨を表現することに力を尽くしました。

 本館は、二つのゾーンで構成されています。1つは「8月6日の惨状」です。被爆者の視点であの日を再現することを目指しています。実物資料を中心とした展示は、あの日、あの場所に確かに存在した資料によって、声なき声で事実を伝えているはずです。
 もう1つの「被爆者」のゾーンでは、一つ一つの遺品と、亡くなった方と向き合って頂けるよう工夫しております。ここでは、原爆が広島から何を奪っていったのか、についても思いを馳せていただけるかも知れません。そしてあの瞬間まで、一人一人の暮らしがあったこと、それぞれの遺品に、犠牲者の苦しみや遺族の悲しみ、さまざまな思いが託されていることを感じとって頂けることでしょう。

 また、今回新たに設置された多数の朝鮮人、中国人、アメリカ兵捕虜など外国人被爆者の被害を伝えるコーナーでは、原爆による殺戮の無差別さを改めて感じていただけるのではないでしょうか。

 本館の展示は、かろうじて死を免れつつも、あの日の記憶を引き摺りながら生きてきた様々な被爆者の苦しみの物語で終わります。
 本館の展示には、最低限の説明しか用意されていません。展示された資料と静かに向き合っていただくためです。そこで感じるのは、無言の問い掛けかも知れません。
 来館者は、その問いかけを反芻しながら、東館へ導かれます。

 展示の更新に当たって、私自身が常に念頭に置いていたのは、次の言葉でした。
私がある大学で講義をした際の学生の感想です。6日の夕方、18歳の被爆した女性の出産時に使用された道具を紹介しました。


(メモを手に取り朗読) 
『確かにあの日、私達と同じ人間が生きていて、確かにあの時出産し、生まれた「個人」というものが存在し、そして遺品がたくさん残っている。
 今までどうしても、「過去のこと」「過去に起きたこと」という、まるで歴史の勉強のようにしかとらえられていなかったが、遺品の写真を見て、細かい話を聞いて、ものすごく心が痛かったし、自分が恥ずかしくなった。
 驚いたことに、私はうんざりしていた平和資料館に改めてもう一度行きたい。
確かにそこにある遺品を見て、確かに感じたい。多くの人が、もっともっとそう考えるようになって欲しい。』
(朗読おわり)

 この学生の言葉によって、次世代の人々に記憶をつなぐために、遺品がどれほど大きな力を持つのか、改めて教えられました。

 当初、被爆した石や瓦が中心だった収蔵資料は、被爆者や遺族からの寄贈によって種類も点数も増え、現在は約2万点に上ります。
 しかし、数千度の熱線ととてつもない爆風に襲われ、膨大な放射線にさらされた被爆資料は、通常の経年劣化より遥かにその度合いが進んでいます。現在資料館が直面する最大の課題です。

 それ以上の課題が、被爆者がいなくなってしまう時代を迎えることです。資料館は、ある意味被爆者の支援をいただきながら運営されてきたわけですが、間も無くそれは期待できなくなります。
 その後は、学術機関や研究者の支援、内外の博物館との連携という形での運営をするほかなくなります。歴史的事実を直視する博物館としての評価を、今後とも維持していくための仕組み作りが求められます。
 このことは、被爆地ヒロシマそのものについても言えるかも知れません。当事者がいなくなった時代の広島、むしろそのことが最大の課題かも知れません。

 広島は、74回目の8月6日を迎えようとしています。
私は資料館の館長として、何年もこの日を、早朝から夕刻まで平和公園の中で過ごしてきました。館長を退任した今年は、公園の外を、広島の街がどのように8月6日を迎えているのか、改めて見てみようと思っています。

 あの日を、あの瞬間を体験した人々が繰り返し語るのは、あの瞬間、何も聞こえない、全く音のない世界が訪れたことです。
 恐ろしいほどの静寂。爆発時刻は8時15分です。
 どうか、74年前広島で何が起きたのか、お一人お一人、キノコ雲の下の出来事に思いを馳せて頂くようお願い申し上げて、私の話を終えさせていただきます。

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