ブルーブルーブルー


『人生とはギャンブルである』

 そう誰かが、言っていた。
会社の飲み会の席だったか、それとも友人と結婚の話をしていたときだったかまでは覚えていない。ただ、確かにそうだと思った。だって生きている限りは選択の連続で、何気ない選択の一つで簡単に谷底へと堕ちてしまう。

 残業を終えて帰ってきた名前は、通勤用のカバンを肩にかけたまま玄関前の廊下で立ち尽くしている。恐らく自分の場合は選択の場面ではなく、賭け事で言う負けの意味だろうと、かつての記憶を思い出しながらぼんやりと立ち尽くしていた。

「本当にごめん」

そう言われた時、怒りや悲しみよりも先に出たのは目の前に手を合わせて謝る男がいるなあ。と他人をみるような冷めた感情だった。普通、恋人に別れを切り出されれば、涙を流して激情に身を任せるのが彼女というものだ。いや、涙を流さなくとも少なからず傷ついた顔ひとつくらいするだろう。

「どうして、こんな間際になってなの」

おそらく、ここまで冷静な口で聞けるのは私ぐらいではないだろうか。目の前で頭を下げていた男は顔を上げると、少しの間の後に目を逸らしながら答える。

「好きな人ができた」

 こちらから質問したのは間違いないが、こいつは帰ってきていきなり、なんて酷いカミングアウトをしてくれるのだろう。言葉を失い黙っていると、男は頭を下げて謝ってくる。

「本当にごめん」

 必死に謝る自分の彼氏を冷たい表情で見下ろし、殴ってしまいたい衝動に駆られる。握られた拳は力を入れすぎて血を失っていた。いつもなら目を瞑ってきた。けれど今回は結婚前で、両方の家族を巻き込んでいる。もはや二人だけの問題では終わらせられないのに。

「また、いつもの浮気なら大目に見て目を瞑るから。だから」
「いや。もう、別れて欲しいんだ」
「は?」
「子供ができてさ」

は?と、頭の中が思考停止して開いた口が塞がらない。この目の前の男はさっきからなにを言っているのだろうか。

好きな人ができた。だからお前とは結婚できない。極め付けには子供までいるなんて言われたら、もう言葉すら失う。

「いつから」

 怒りに身を任せて殴りかかるよりも事実が気になった。結婚を控えた彼女がいておきながら、平気で浮気相手を作っていた男がどうしようもないほどダメ男に見える。いや、気づかなかった自分も相当バカなのかもしれないが。

 投げかけた問いになかなか答えず黙りこむ相手に、遂に簡単な受け答えすらできなくなったのかと、苛立ちが募る。催促を込めてまた同じ質問を繰り返した。

「いつからなの?」
「半年より、前かな」
「それって……」

私にプロポーズする前じゃない。
なのに求婚したわけ?

「本当にごめん」

 状況を理解すればするほど怒りを通り越して、いっそ清々しさすら感じる。今まで彼に言いたかった事が山程ある。そのだらしない女グセ然り、日頃から感じていた生活態度諸々を。いっそのこと、ここで全部ぶちまけてしまおうかとも思ったが、終わった事を今更吐き出したところで起きてしまった事はかわらないのだ。お互いの時間が勿体ないだけ。

開いていた口をキュッと結び、すうっと深呼吸を一つつく。さっきまできつく握り締めていた拳を緩め、腕からおちそうになっていた鞄を肩にかけ直す。

「わかった、お望み通り別れてあげる。仕事で必要な物は後日連絡するから送って。それ以外の荷物は処分していいから」
「あ、あのさ……名前
「なに?あなたの部屋に置いてたもの、もう使いたくないの」
「ちょっと!待って名前!なにもそんなすぐに出て行かなくても」

 もうすでに男の方へ背を向け、部屋に戻る玄関で靴を履き始めていたところだった。靴の踵部分に指を入れてすくりと立ち上がると、相手の言葉を遮るように名前は言い放つ。

「ね、私の気持ちわかんない?あなたと同じ空気吸いたくないの」
「でも、今日は」
「さよなら。二度と私にその顔みせないで」

引き留めようとする彼に、自分でも驚くほど静かに冷たく言い放つ。貴重品と携帯が入った通勤用の鞄を持って外に飛び出したはいいものの。行く宛なんて、勿論ない。大した思い出も残っていない二人のマンション。歩道から今まで住んでいた建物を見上げると、オレンジ色のライトが名前の顔にかかった。

軽く二年近くここに住んでいたが、特に何も思い浮かばない。所詮、彼との過ごした時間など、取るに足らない思い出しかなかったというわけだ。

 「私だって、こんな時間に外に出たくなかったわよ……」

 確かに、急に飛び出す必要はなかったと思う。だが半年もの間、なにも知らずに他の女と寝ていた男の世話を甲斐甲斐しく焼いていたのかと思った途端、何もかもがどうでもよくなった。それにすぐに出て行かなければ、相手の顔をまともに見れる自信がなかった。きっと今の冷静さを忘れて、みっともなく喚き散らしてしていたに違いない。

一見儚げで大人しそうな名前だが、実は負けん気は人一倍つよい。自分を無下に扱った男に涙を見せるくらいなら、一発殴って鼻血を吹かせてやろうとおもうくらいには。

 沢山の人が行き交う交差点を、名前はフラフラとした足取りで歩く。上京してきた身の故、実家に帰るとしても新幹線で二時間はかかる距離だ。それに、今勤務している仕事をほっぽり出してしまうわけにもいかない。幸い都内なら財布と携帯さえあればなんとかなる。泊まれる場所なんて探せばいくらでもあるし、明日は休みだから不動産に駆け込めばいい。

「今日、どこに泊まろっかな」

今まで信じてきた。信じようとしてきた。
けれど、彼への信じていた最後の気持ちが見事に霧散してしまった。

こうして私は、本日。この日を持って、結婚を控えいた方とあまりに酷過ぎる別れ方をしたのだった。

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