飛び降り自殺と変わらない自由落下は、走馬(燈(すら間に合わない距離のはずだった。接近してくる地面など見たくもない俺はきつく目を閉じ、母なる大地が俺たちのクッションとしての仕事意識に目覚めてくれるように祈(るしかなかった。
た。の、だが。
覚(悟(を決めかけた瞬(間(、俺の目(蓋(の裏が、青白い光で染まった。
「!?」
間(一(髪(、地面に叩(きつけられる寸前で、俺は軟(体(性の物体にめり込むのを感じた。
目を開ける。
俺とハルヒの周囲に青い光が充(満(していた。とっさに視線を前後左右に動かしてみると、石畳数センチ上に俺たちは浮(いている。青く光る何かがクッションの役割を果たしてくれたようだった。
目を上げると、そこには巨(大(な壁(が、狂(ったような文様を描(く天空にまで届いていた。
「これは──!」
いや、違(う。これは……《神人》だ。
中庭に《神人》が立っている。輪(郭(の曖(昧(な淡(く青い光をまとい、その腕であらゆる建物を破(壊(する灰色の空間の孤(独(な主。
「バカな!」
藤原の声が遠くから聞こえた。
「なぜここにアレが……」
《神人》の巨大な手のひらが、俺とハルヒを受け止めていた。
校舎よりも高く、朧(に輝(く巨人。かつてハルヒの閉(鎖(空間で大暴れしていた姿は忘れようもない。ハルヒのフラストレーションが形をとって出現するという閉鎖空間の虚(王(。
そいつの掌(中(に、俺とハルヒは並んで乗っているのだった。
《神人》の意図、それは俺たちを墜(死(から救おうとした以外の行(為(であるはずがない。
でも何故(、《神人》がこの場に登場できる? 発生源たるハルヒは意識を失っていて、おまけにここはハルヒと佐々木の閉鎖空間が二種類混合された世界だ。仮に登場できたとしても、ハルヒですらコントロールできない巨人が、まるで忠実な下僕のようにかしずき、ハルヒを助けるなんて、この状況とはどう考えても結びつかない。
ふわふわした《神人》の手の上から部室を見上げると、ちょうどオレンジ色の爆(発(が奔(流(となって窓(枠(ごと吹(き飛ばしたところだった。古泉がついにキレちまったらしい。藤原はいいが、朝比奈さん(大)と橘京子は無事だといいが。
「ん……」
腕の中のハルヒが身じろぎをして、薄(く開いた唇(から小さな呻(きが漏(れた。
呼応するように、《神人》がもう片方の腕(を上げ、握(り拳(を作った。そのまま強烈なパンチを部室に叩きつける──。
途(端(、時間停(滞(現象が俺を襲(った。すべてがスローになって見える。
上空を仰(ぎ見た俺は、部室棟(の屋上に小さな人(影(があることに気づいた。
ぶかぶかの制服を着て、ややパーマがかった髪(をした女子生徒のシルエットは──、渡橋ヤスミだ。
俺二人が瞬間融(合(したと同時に消えちまった新入団員一号は、手すりもない屋上の端(に立ち、俺とハルヒを見下ろしている。ぼやけた光源しかないこの空間では表情までは解(らないが、微笑(んでいるのだろうとの確信が俺を貫(く。
ヤスミは下手な敬礼をすませると、顔を上げて正面へと視線を向けた。
俺もつられて部室棟とは反対側、中(校舎へ視覚を転じた──が、そこまでが限界だったようだ。
俺の視界がぐにゃりと歪(んだ。しかしその直前、目の先にある校舎の屋上に三つの人影がいたことだけは見て取れた。一つはショートヘアの、一つはロングヘア、一つはその中間くらいの髪をした、北高セーラー服姿……。
来ていたのか。やっぱりな……。喜緑さんに朝倉、そして──。
病(床(に伏(せったりせず、いつものように静かにピンピンしていた、もう片方の長門有希。この三人が時間軸(の分(岐(に気づいていなかったとは思えない。情報統合思念体は知っていたはずだ……。あの繰(り返す八月のように、世界の外側で。
彼女たちは俺たちを、自分を含(めたすべてを観測していたに違いない……。
「……!」
視界が急激に暗くなり、浮(遊(感が俺の神経を狂わせ始める。これはあれだ。かつて飽(きるほど味わった時間移動の前段階、あの眩暈(感が、ここできた。
完全に意識がブラックアウトする寸前、ヤスミの影がひらひらと手を振(った。さよならを告げる行為としては充(分(すぎる。それは俺に向けてのものなのか、三人のヒューマノイドインターフェイスに捧(げたものなのかは、たぶん二度と訊(く機会はないだろう。そんな気がする……。
いいさ。俺はハルヒを抱(きしめる。どこに落ちるとしても、必ず二人でいるように。
暗転。
浮遊感の後、自由落下が訪(れた。ハルヒだけは離(すまいとさらに腕に力を込(めた。
どこか遠くで朝比奈さん(小)のほう、の声を聞いたように思った。
どんっ。
「痛(てっ!」
衝(撃(は尾(てい骨から来やがった。尻(から落ちるとはいささか不格好だなと思いつつ、目を開けた俺はまばゆさのあまり、急いでもう一度目を閉じた。
薄暗さに慣れていたせいで光受容器の調節が瞬(時(にはできない。にしても、ここはどこだ? 視覚以外の情報によると、俺が尻(餅(と手をついているこの感(触(は、何やら芝(生(っぽいし、聴(覚(が認(識(するのは若い男女複数の声が入り交じる雑(踏(のようである。
恐(る恐る細目を開けると、やはり広い芝生の一角に俺は座り込んでいて、周囲には学生にしか見えない私服の男女があちこちにいた。あるグループは連れ立って歩いているようであり、あるカップルは緑々とした芝生上で寄り添(っていたりする。
「なんだ? ここはどこだ。俺はどこに飛ばされたんだ?」
芝生の向こうに時計台のような建物が見えた。北高とは比(較(するのもアホらしくなる現代風の校舎もだ。そして歩いている学生風の集団は、高校生以上にあか抜(けてもいた。ここはどこかの大学の風景だ。風が暖かい。春だろうか……。
とっさの状(況(判断にしては上出来だろう。でも、なぜ? 俺はこんなところに?
さっそく悩(み始めた俺に、
「どうしたの? キョン」
覚えがありすぎて人物特定に困ることなど一生ない女の声が降ってきた。
へたり込んだまま顔を上げた俺は、
「ハル……」
と言ったきり絶句する。俺は目を擦(ることさえ忘れていた。
どこか大人びたハルヒがそこにいた。俺の記(憶(より髪がやや伸(びていて、身につけているのは春物っぽく、やわらかな色合いの服装だ。肩にひっかけているカーディガンがとてもマッチしている。いや、大人びているどころではなかった。俺の知っているハルヒはまだ高二になったばかりのはずなんだ。
なのに、このハルヒはそれから数年後としか思えないほど、ええと、なんだ。うまく言えないが……そう、何から何まで成長している。
「何やってんのよ。ねえ……」
そのハルヒは冗(談(につき合うような微笑みを見せた。くらっときた。
「そんな昔の制服なんて着ちゃって、いったいどういうつもり? キョン……。あれ、あんた、何かちょっと若……えっ?」
言いかけて、そのハルヒは誰(かに呼ばれたように振り返り、
「えっ?」
再び、俺の視界が暗くなり始めた。
そのハルヒに誰かが声をかけている。ハルヒは驚(いた仕草でそいつに「なんで? あんたがそこにも……」とかなんとか言うような応対をし、また俺を振り返り、
「えっ?」
驚きの表情であったと思う。
が、俺の意識は急速に薄(れようとしていた。芝生に立つそのハルヒの姿が特(殊(なカメラワーク演出のように遠ざかっていった。俺は動かず、ハルヒも動かず、ただ距(離(だけが開いていく。両サイドから暗(闇(が迫(ってきた。これは扉(だ。本来の場所に俺を連れ戻(そうとする、時間の意志だ。
黒い壁(が完全に閉(ざされる瞬間、ハルヒの口元が言葉を紡(いだのだけが見えた。
──キョン。またね。
涼宮ハルヒの優(しげな微(笑(が、そう言っていた。
再び足元が崩(れたような落下、上下の感覚が失(せた浮(遊(が俺の平(衡(感覚を狂(わせる。
さっきのは夢か幻(覚(だったのか? 正直、これがいわゆる時間酔(いなのは解(っていた。七夕にまつわる事件で俺は何度も現在と過去を往復しただけのことはあり、百聞は一見に如(かずなる故事成語は真実だと身体(と精神に叩(き込まれているのだ。まあ、何回やっても慣れないんだが、その度(に俺の三半規管はけっこう弱いと思い知らされて、しかし、誰だって曲がりくねった山道をロクなサスペンションもない車に乗せられワインディングされたらこんな感じにはなるさ。もうすでに、俺の胃の腑(はでんぐり返り寸前だ。
いつまで続く? この暗闇の中の墜(落(は……。
だが、次の転移先に到(着(するまで、さほどの時間はかからなかった。短い落下の終着点、直後にふわりとした重力とは反する逆制動がかかったような、つんのめるブレーキングを体感したかと思うと、今度は妙(に弾(力(のあるものに全身がぶつかって、その衝撃で目が覚めた。
「ぬぐあ?」
覚めたというのは比(喩(的にも現実的にも間(違(いじゃない。それまで脈(絡(のない夢の中にいたような非現実感をぬぐい去れていなかったのだが、今では完全に覚(醒(して、適度な睡(眠(時間を過ごした朝のように寝(覚(め爽(やか、くっきりはっきりと覚醒している。見たばかりの夢もすぐに思い出せるくらいにな。まあ、それはいいのだが。
そんな俺の明(敏(なる思考能力でも、現状の把(握(には三秒ほどかかった。
「……? どこだ、ここ」
俺がいたのは、暗い部屋の、ベッドの上だ。ただし自分の部屋ではないと瞬(時(に悟(る。他人の家特有の、慣れない香(りが鼻(孔(を刺(激(している。それも、やたら甘ったるい香りだ。妹の部屋の匂(いに似ているが、違う。俺の人生史上、決して見たことも入ったこともない部屋で間違いなかった。
では、どこか。俺はどこに落ちてきたんだ?
「……なに、してんの?」
押し殺した声が、真下から聞こえた。
不自然なまでに小さく、いささか闘(気(すら感じるものではあったが、聞き覚えのある声なのは当然で、俺はほぼ毎日、この声を聞いている。
なるべくゆっくりと下を向く。
ハルヒの顔が、俺のど真ん前にあった。薄暗さなどなんのその、ハルヒが見たこともないほどの驚(愕(の表情を浮(かべているのは、薄く開いたカーテンからこぼれる街灯の光でも充(分(に見て取れる。
おまけに俺は四つんばいの体勢でいて、ベッドの上であおむけに寝転がっているハルヒを、掛(け布(団(の上から両手と両足で押さえつけているような状態でいる……らしかった。ここに陪(審(員(的な第三者がいたら、即(時(の有罪判決の満(場(一(致(を決して躊躇(わないだろう。言い逃(れの余地など蛾(の鱗(粉(一(粒(しかなさそうな、そんなシチュエーション……。
「……ここは……」
やっと気づいた。不覚にも俺はハルヒの自宅にも自室にも入れてもらったことがなかったし、そりゃ知らない場所だと言うのは簡単だ。とっさに気付けというほうが無理かもしれないが、現にここにハルヒがいる。消去法的に答えは一つしかない。
ハルヒの部屋で、ハルヒのベッドだった。それも真夜中らしい。ハルヒはパジャマ姿で、驚きを通り越(したと言わんばかりに目を見開いている。
「キョン、あんた、いくら何でも……」
状(況(が理解できないのは俺もなのだよハルヒさん。いやはや、確かにいくらなんでも落ちてきた先がハルヒの家の部屋でベッドの上だとは想像を超(越(した出来事だぜ。
「ちょっと!」
ハルヒは上ずった声で、
「ちょっとでいいから目を閉じ……布団を被(ってじっとしてなさい!」
ハルヒはやおら身を起こして俺をはねのけると、俺の頭から掛け布団をかぶせて視界を遮(った。ごそごそと何かやってる気配がしている。
その隙(に、俺は載(せられた掛け布団に隙(間(を作り、部屋の調度品を物色した。スケベ心からじゃないぜ。切実に、確(認(しなければならないことがあったのだ。
俺の目当てのブツは、ベッドサイドに置かれていた。
たいていどこの誰(の寝(室(にもあるであろう、デジタル式目覚まし時計だ。ハルヒだって江(戸(時代の人間ではなかろうから、ニワトリの代わりに時計くらい枕(元(に置いているだろうという俺の予想は当たった。
幸い、年月日まで表示するタイプをハルヒは愛用してくれており、まさにそろそろ太陽がひょっこり顔を出そうかという頃(合(いの数字を表示してくれている。
そして日付は、五月某(日(となっている。
ええと? するとどうなるんだ? つまり、《神人》の手のひらで青い光に包まれたのは四月の中(旬(の夕方なのだから、このハルヒ時計が思い切り狂(っているのではない限り、なんてこった、今はさっきまでいた時間より一ヶ月近くの、未来だ。
過去に跳(ばされて現在に戻(ってきた経験は何度もあるが、未来にジャンプしたのは初めてということになる。未来への時間旅行を俺に強(いたのは誰だ? 朝比奈さん(大)か? それとも《神人》のまだ見ぬ謎(の力なのか?
ハルヒはまだごそごそやってる。衣(擦(れの音から、着(替(えをしているのだと推察するが、俺の興味はまた別のところにあった。
ハルヒの部屋の壁(にぶら下がっていた素っ気ないデザインのカレンダーに目がとまったのである。ちょうどこの日、今日、現在の日付だ。夜も明けかかろうとしている本日を示す黒い数字に、あきらかにハルヒが付け加えたであろう、赤マジックによる花丸マークが囲われている。二重丸の上に花びらで縁(取(るという、まるで幼(稚(園(児(の絵画を褒(めるがごとき大げさで派手なマーキング。
この日が何の記念日なのか、俺はよく知っている。
なぜなら、俺もまた、カレンダーの四月ページのある日付に、これと似たような真似(をしていたからだ。
やっぱり覚えていたか。俺が覚えていたんだから当然だろう。一年前のその日は、俺たちにとって一年時の入学式と同じくらい、終生忘れ得ぬ日であることは間(違(いなかった。
なぜなら、この日は───。
その時、窓にこつんと小さいものがぶつかる音がした。
俺とハルヒが同時にぴくんと腰(を浮かせる。ハルヒは普(段(着(に変身を終えており、俺が布団を頭からずり落としても文句は言わなかった。それより窓を鳴らした人物に興味が深まったらしく、つかつかと窓(際(に歩み寄る。俺もその横に並んで立った。
ここで初めて、俺はハルヒ宅が一(軒(家(であることとハルヒの部屋が二階にあることを知った。なぜ今まで知らなかったのか不可思議と思うほかねえな。
カーテンを開けて下を見ると、街灯に照らされたハルヒ宅の前に、三つの人(影(がある。
間違えるもんか。それは朝比奈さん(小)・古泉・長門の姿だ。
俺たちが反応したことで、古泉はやれやれとばかりに手を広げ、朝比奈さんは両手を胸の前で組み締(める。長門は普段通りの棒立ちだが、俺は心からホッとした。
ハルヒがそっと窓を開ける。外は静(寂(に包まれていて先ほどまでいた閉(鎖(空間を彷(彿(とさせる。こんな住宅地で騒(がしく走りまくっているのは新聞配達員くらいのものだろう。
示し合わせたわけでもないのに息をひそめて並んでいる俺とハルヒに、古泉が軽(やかに手を振(った。
もう片手に古泉が小包みたいなものを持っているなと見えたのも一(瞬(で、我らが副団長は手にしていた包みをこちらに向けワインドアップモーションで投(擲(した。緩(やかな放物線を描(いたそのブツは、長門のおかげだろうか、見事に俺の手元にストライクを決める。
綺(麗(に包装された小振りの箱のリボンに添(えられたカードの文字は、薄(明(かりの中でも、次のようにはっきり読み取れた。
『SOS団結成一周年記念日。団員一同より団長閣下へ、一年分の感謝を込(めて』
団員全員がワンセンテンスごとに書いたような不(揃(いな文字で、その中には書いた覚えのない俺の筆(跡(まで混じっている。いや、そんなことより。
……そう、日付が変わって本日この日は、ハルヒがSOS団の結成を宣言してちょうど一年目に当たるのだ。一年前、授業中に突(如(として天(啓(を閃(かせたハルヒは俺の後頭部を机に叩(きつけ、休み時間になるや階段踊(り場にまで連行したと思ったら、昼休みに文芸部室に直行し、その放課後にはもう文芸部の乗っ取りを宣言し、さらに翌日、気の毒な朝比奈さんを拉(致(して来た。
──これからこの部屋が我々の部室よ!
──SOS団! 世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団。
北高内に宇宙規模で迷(惑(を撒(き散らすことになるミステリアス部員が構成員を占める秘密組織的なアジトが発生した瞬間である。
そうかよ、古泉。長門、朝比奈さん。
俺がここにいるのは、このためだということにすべきなんだな?
「ハルヒ」
俺はプレゼント様式の包みを手に、ハルヒへ身体(を向けた。
「ん……な、なによ」
とか知らないふうを装(っているが、ハルヒはとっくに状(況(を見(抜(いているようだった。俺の顔と箱の包みをチラチラ見つつ、しきりに目を泳がせている。くれると解っているお宝をどう受け取っていいのか迷っているトレジャーハンターの助手のように。
こういう時は直球で攻(めるに限るね。俺はカード付きの玉手箱をハルヒに差し出し、
「この一年、団長ご苦労様。これからもご贔屓(に頼(むぜ」
「バカ」
言いつつ、ハルヒは素(直(に受け取った。カードの文字に目を走らせ終えると、目を閉じ、ぎゅっと箱を抱(きしめる。何やらウェットな空気が流れ出したなと思ったのもつかの間、
「キョン、あんた、どっから入ってきたの?」
いやぁ……。玄(関(からとは言えんな。
「そりゃ、窓からだよ。雨(樋(をつたって上ってきたのさ。戸(締(まりには気を付けた方がいいぜ。鍵(があきっぱなしだったのは都合がよかったが」
よくもまあ、とっさにベラベラと噓(八(百(が並べ立てられるものだと自分でも感心する。
「もう、いくらなんでもやりすぎよ。ヘタすりゃよじ登ってる時に通報されてたわよ」
ハルヒは泣き笑いのような表情をしていたが、ふと俺の足元に目をとめ、
「なんで学校の上(履(きはいてんのよ。すぐ脱(ぎなさい、たった今。床(が汚(れるでしょ」
失念していたよ。俺はちょっと前まで北高にいたもんでな。で、お前もいたんだぜ。でもまあいいか。どうやらタイムスリップの餌(食(になったのは俺だけだったようだから。
さっそく靴(を脱ぎ出した俺を眺(めていたハルヒは、窓に寄って私道に立っている三人組を見下ろし、ふうっと聞こえよがしに息を吐(いた。
「サプライズイベントをするにしても、もうちょっと時間を選んで欲しかったわ。本当は、ちょっと期待してたのよ。何かしてくれるんじゃないかって。でもね、こんな深夜にたたき起こされるなんて、いくらあたしでも想像外よ」
「でないと、サプライズにゃならねえだろ。お前を驚(かすにはこれくらいしないとな」
付け焼き刃(だが俺のアドリブにもなかなか説得力があるじゃないか。これもハルヒが今まで無茶をやってくれていたおかげだ。俺たちがちょっとやそっとのことをしでかしてもサプライズイベントで済むんだから楽でいいやな。
ハルヒは、さらなる泣き笑い顔をしてうつむいた。本当に窓に鍵をかけていたかどうかなどどうでもよくなっているに違(いない。現に俺はここにいるのだ。
「キョン」
ハルヒが顔を寄せてきた。唇(が耳元で囁(く。
「玄関まで案内するから、音を立てないようについてきて」
その吐(息(のくすぐったさに声を出してしまいそうだったのだが、何とか耐(えた。
家人に気取られないようにだろう、ハルヒは抜き足差し足で階段を下り、熟練の金庫破りのような手つきで自分家(の玄関扉(を開けた。
ここでようやく、俺は外で待っていた団員たちと対面する。深夜の住宅街ということで全員無言だが、表情を見りゃ解(る。今の俺にはまだ理解不能だが、ようはすべてうまくいったのだということを。
外履き用の俺愛用スニーカーは、長門が差し出してくれた。いつもの長門だ。熱にうなされているわけでもなく、淡(々(と読書をし続ける普(遍(的長門の感情不要の顔である。
朝比奈さん──当然(小)──は、心配そうに俺とハルヒを窺(っていたが、俺が親指を立てて合図すると、ほうっと安(堵(の息を吐いて、すぐ笑(顔(になった。
古泉はまるでたまたま深夜のコンビニに行った帰りのような気さくさで、
「夜(遅(くにすみませんでした、涼宮さん。でも、どうしてもという強(硬(意見を熱心に唱える方がおりましてね」
何で俺を見ながら言うんだ。
ま、解るさ。俺はハルヒに向けて精々余(裕(口調を使い、
「お前相手のサプライズをしかけるんだ。寝(込みを襲(うくらいしねえと、驚きゃしないだろうが」
しかしハルヒは聞いているのかどうか、朝比奈さんや長門の顔を順(繰(りに見(渡(した後、
「でも……ありがと」
プレゼントの包みを抱(いて、満月がかすむほどの笑顔を浮(かべた。普段は大型恒(星(のような光を放つ笑みが、まるで静かな月のそれのようで、俺はちょっと……なんというか、いや、何とも言えずにハルヒを見つめ続けることしかできない。
どこかでカラスの鳴き声がした。闇(ガラスめ、お前にSEを依(頼(した覚えはないぞ。
それが合図だったように、ハルヒは包みから顔を上げた。
「今日はもう遅(いわ。また今度、部室でね。ところでこの中身、何?」
「それは開けてのお楽しみということでよろしくお願いします。ちなみに選んだのは、ここにおられる寝(室(侵(入(者(の方ですよ」と古泉。「いや、まあなんと、全部自分ですると言い張ってくださりましてね、僕たちはただの見届け人の役割を演じたにすぎません。いっそ彼だけですべてやってもよかったのではないかと」
古泉の口舌は俺がやつの足を踏(んづけたことでようやく止まった。
しかしなるほど、プレゼントの中身を決定したのは、どうやら過去の俺らしいな。その程度の理(屈(なら解るさ。
ハルヒは振(り返り振り返り、静かに玄関に戻(りながら、
「気を付けて帰るのよ。特にみくるちゃんと有希は、責任もってキョンと古泉くんに送ってもらうこと。いいわね。これ、団長命令だからね」
意外なほどの常識的な音量で言い残し、ハルヒは自宅に入っていった。
あいつも親や近(隣(の人たちにはちゃんと気を遣(うんだな。なかなか可愛(いところがあったんじゃないか。
ハルヒと別れた後だ。俺と他(三人は人気の絶えきった夜の道を歩いていた。
今日が五月の中(旬(だというのは解った。そして俺が部室に呼ばれて藤原や九曜と対決し、ハルヒと一(緒(に落下して《神人》の手の内に軟(着(陸(を決めたのは、俺からすればほんのちょっと前のことだが、あれから一ヶ月近く時間が跳(んでいるっつうことも理解できるし、時間を年単位でいったり来たりしてきた俺にとってみりゃ、たいして驚きもしないが、一つ新(鮮(な発見がある。
つまり、俺にとってここは未来の世界ということになるわけで、さすがにそれは未体験ゾーンだぜ。
「そうなりますね」
事も無げに言う古泉がやや憎(々(しい。こいつが妙(に上(機(嫌(でいるからだろうか。
「てぇことは、これから俺はまた時間移動しないといけないのか?」
「ええ。そうしてもらわないと困りますんで」
「あの、えーとぉ」
朝比奈さんが小さく挙手した。さすがタイムトリップのエキスパート(見習い)、現状を訥(々(と説明してくれた。
それによると。
あの時、《神人》に助けられた直後、俺は一ヶ月ほど未来に跳んで、それが今だった。
ゆえにもう一度元の時間、一ヶ月ほど前に遡(行(し直さなければならない。で、それをするのは朝比奈さんで、今これからである……。
俺は長門を見た。クルミ割り人形のような目が俺を見返してくる。そこにはハルヒの看病を受けていたほど弱っていた様子は微(塵(も感じられない。
「時間凍(結(でその時が来るまで寝てちゃダメか?」
「だめ」
即(答(する長門だった。
「問題の解決には不適切」
どういうことだ、古泉。
「実は、今のこの時間にはあなたがもう一人いるんですよ。ちょうどこの時間から一ヶ月前に戻ってきた、あなたがね」
もう一人の自分との融(合(はさすがにたくさんだぜ。
「あのケースとは別です。あれはもともとの一人が分(裂(して二人になっていただけですが、時間移動の場合は正(真(正(銘(の同一人物なのですから。あなたがここに留(まっていると、二重存在が解消されません」
横から朝比奈さんが顔を出した。
「それに、既(定(事(項(に反してしまいますから……戻って貰(わないと困るんです。あなたが過去に戻ることは、あたしたちにとって既(に存在した事実なんですよー」
なるほど。俺がちゃんと元の時間に戻った証(拠(に、実はこの時間にもちゃんと俺がもう一人いるわけだ。この時間から過去に戻ってきた《俺》、それは、今から俺がそうなるべき《俺》である。それにしても一ヶ月か。三年に比べりゃ些(細(なもんだ。
「この時間帯におられるあなたにも来てもらって良かったのですが、自分と対面するのは嫌(だと言い張りましてね。しかたなく僕たちだけで来た次(第(です」
ま、俺だってそうするだろうな。
「ついでに涼宮さんへのプレゼントの中身は内緒にしておけと伝言されました。それは元の時間に戻(ってからあなたが考えてください」
古泉はいたずらっぽく言う。
「それから一ヶ月前の僕たちにこの日のことを伝えるのを忘れないでくださいよ。まあ、あり得ないことですが」
「…………」
長門はすっかりいつもの無口無表情娘(に戻っていて、一安心だ。
「詳(しい説明は過去の僕がしてくれますよ。実際、しましたからね」
「ああ、真っ先に尋(ねるさ。部室でいいか」
「いえ、実は別の場所で会合を持ちました。それがどこかは、そうですね、お任せしますが、特に難しく考える必要もないでしょう」
俺は長門に目を向けた。
「…………」
無言を貫(くサイレント少女は何も言わない。あの時、最後に見た屋上の三つの人(影(。うち一つが長門であったことは間(違(えようがない。そして古泉が言っていたαルートの長門はいつもと変化無しだった。ましてや、ヤスミの呼び出しにもむしろ行けというようなことすら言っていた。
お前はすべて知っていたのか? ヤスミとは何かとか、あそこに《神人》が出現した理由も……。
だが、長門は黙(したまま背を向けた。そのまま手を振(る古泉とともに歩いて去っていく。
古泉を信じるか。あいつによれば、俺にはもう説明したそうだからな。一ヶ月前の俺に。
俺はただ二人残された片割れである、朝比奈さんに、
「行きますか」
「はいっ」
朝比奈さんは役に立つことができるのが嬉(しそうだった。そうかもしれない。いつもはわけもわからず上司とやらの指令に従っていたばかりの朝比奈さんが、初めて主体的に時間移動の主導権を取ろうとしているんだからな。
だが、その前に。
「朝比奈さん」
「何です?」
「朝比奈さんには兄弟がいるんですか。特に弟がいたかどうか、訊(きたいんですが」
「うふ?」
朝比奈さんは唇(に指を当て、完(璧(なウインクとともに言った。
「あたしの家族構成については、特級の禁則事項です」
で、しょうね。
こうも何度もやってりゃいやでも慣れつつある時間移動の無重力的、眩暈(感的な時間は、すぐに終わった。一ヶ月というタイムスパンは三年より短く、移動時間も短くすんだからだろうか。
とにかく、次に目を開けたとき、俺は自分の部屋のベッドの上にいた。
突(然(現れたことに驚(いたか、俺の枕(で寝(ていたシャミセンが飛び起きて転がり落ち、尻尾(を逆立てて俺をにらみつけるのを見ながら、俺は頭を一振りした。当然ながら、朝比奈さんの姿はない。
まずは時計を確(認(する。
四月某(日(金曜日の午後八時前後、俺、自室に帰(還(せり。
このたった二時間前、文芸部室で世界だか未来だかの命運を賭(けた一大事に巻き込まれていたことを、真面(目(に話しても信じてくれるのはその場に居合わせた連中を除けば、佐々木くらいだろうな。別に誰(かに吹(聴(したい話でもないから別にいいんだけどさ。
俺は大きく背(伸(びをして、日常に回帰したことを祝うセリフを呟(いた。
「さて、風(呂(入って寝るか」
週末の一日くらい、ゆっくり頭を休めるとしよう。