最終章 2

 飛び降り自殺と変わらない自由落下は、そうとうすら間に合わない距離のはずだった。接近してくる地面など見たくもない俺はきつく目を閉じ、母なる大地が俺たちのクッションとしての仕事意識に目覚めてくれるようにいのるしかなかった。

 た。の、だが。

 かくを決めかけたしゆんかん、俺のぶたの裏が、青白い光で染まった。

「!?」

 かんいつぱつ、地面にたたきつけられる寸前で、俺はなんたい性の物体にめり込むのを感じた。

 目を開ける。

 俺とハルヒの周囲に青い光がじゆうまんしていた。とっさに視線を前後左右に動かしてみると、石畳数センチ上に俺たちはいている。青く光る何かがクッションの役割を果たしてくれたようだった。

 目を上げると、そこにはきよだいかべが、くるったような文様をえがく天空にまで届いていた。

「これは──!」

 いや、ちがう。これは……《神人》だ。

 中庭に《神人》が立っている。りんかくあいまいあわく青い光をまとい、その腕であらゆる建物をかいする灰色の空間のどくな主。

「バカな!」

 藤原の声が遠くから聞こえた。

「なぜここにアレが……」

《神人》の巨大な手のひらが、俺とハルヒを受け止めていた。

 校舎よりも高く、おぼろかがやく巨人。かつてハルヒのへい空間で大暴れしていた姿は忘れようもない。ハルヒのフラストレーションが形をとって出現するという閉鎖空間のきよおう

 そいつのしようちゆうに、俺とハルヒは並んで乗っているのだった。

《神人》の意図、それは俺たちをついから救おうとした以外のこうであるはずがない。

 でも何故なぜ、《神人》がこの場に登場できる? 発生源たるハルヒは意識を失っていて、おまけにここはハルヒと佐々木の閉鎖空間が二種類混合された世界だ。仮に登場できたとしても、ハルヒですらコントロールできない巨人が、まるで忠実な下僕のようにかしずき、ハルヒを助けるなんて、この状況とはどう考えても結びつかない。

 ふわふわした《神人》の手の上から部室を見上げると、ちょうどオレンジ色のばくはつほんりゆうとなってまどわくごとき飛ばしたところだった。古泉がついにキレちまったらしい。藤原はいいが、朝比奈さん(大)と橘京子は無事だといいが。

「ん……」

 腕の中のハルヒが身じろぎをして、うすく開いたくちびるから小さなうめきがれた。

 呼応するように、《神人》がもう片方のうでを上げ、にぎこぶしを作った。そのまま強烈なパンチを部室に叩きつける──。

 たん、時間ていたい現象が俺をおそった。すべてがスローになって見える。

 上空をあおぎ見た俺は、部室とうの屋上に小さなひとかげがあることに気づいた。

 ぶかぶかの制服を着て、ややパーマがかったかみをした女子生徒のシルエットは──、渡橋ヤスミだ。

 俺二人が瞬間ゆうごうしたと同時に消えちまった新入団員一号は、手すりもない屋上のはしに立ち、俺とハルヒを見下ろしている。ぼやけた光源しかないこの空間では表情まではわからないが、微笑ほほえんでいるのだろうとの確信が俺をつらぬく。

 ヤスミは下手な敬礼をすませると、顔を上げて正面へと視線を向けた。

 俺もつられて部室棟とは反対側、なか校舎へ視覚を転じた──が、そこまでが限界だったようだ。

 俺の視界がぐにゃりとゆがんだ。しかしその直前、目の先にある校舎の屋上に三つの人影がいたことだけは見て取れた。一つはショートヘアの、一つはロングヘア、一つはその中間くらいの髪をした、北高セーラー服姿……。

 来ていたのか。やっぱりな……。喜緑さんに朝倉、そして──。

 びようしようせったりせず、いつものように静かにピンピンしていた、もう片方の長門有希。この三人が時間じくぶんに気づいていなかったとは思えない。情報統合思念体は知っていたはずだ……。あのり返す八月のように、世界の外側で。

 彼女たちは俺たちを、自分をふくめたすべてを観測していたに違いない……。

「……!」

 視界が急激に暗くなり、ゆう感が俺の神経を狂わせ始める。これはあれだ。かつてきるほど味わった時間移動の前段階、あの眩暈めまい感が、ここできた。

 完全に意識がブラックアウトする寸前、ヤスミの影がひらひらと手をった。さよならを告げる行為としてはじゆうぶんすぎる。それは俺に向けてのものなのか、三人のヒューマノイドインターフェイスにささげたものなのかは、たぶん二度とく機会はないだろう。そんな気がする……。

 いいさ。俺はハルヒをきしめる。どこに落ちるとしても、必ず二人でいるように。

 暗転。

 浮遊感の後、自由落下がおとずれた。ハルヒだけははなすまいとさらに腕に力をめた。

 どこか遠くで朝比奈さん(小)のほう、の声を聞いたように思った。



 どんっ。

てっ!」

 しようげきてい骨から来やがった。しりから落ちるとはいささか不格好だなと思いつつ、目を開けた俺はまばゆさのあまり、急いでもう一度目を閉じた。

 薄暗さに慣れていたせいで光受容器の調節がしゆんにはできない。にしても、ここはどこだ? 視覚以外の情報によると、俺がしりもちと手をついているこのかんしよくは、何やらしばっぽいし、ちようかくにんしきするのは若い男女複数の声が入り交じるざつとうのようである。

 おそる恐る細目を開けると、やはり広い芝生の一角に俺は座り込んでいて、周囲には学生にしか見えない私服の男女があちこちにいた。あるグループは連れ立って歩いているようであり、あるカップルは緑々とした芝生上で寄りっていたりする。

「なんだ? ここはどこだ。俺はどこに飛ばされたんだ?」

 芝生の向こうに時計台のような建物が見えた。北高とはかくするのもアホらしくなる現代風の校舎もだ。そして歩いている学生風の集団は、高校生以上にあかけてもいた。ここはどこかの大学の風景だ。風が暖かい。春だろうか……。

 とっさのじようきよう判断にしては上出来だろう。でも、なぜ? 俺はこんなところに?

 さっそくなやみ始めた俺に、

「どうしたの? キョン」

 覚えがありすぎて人物特定に困ることなど一生ない女の声が降ってきた。

 へたり込んだまま顔を上げた俺は、

「ハル……」

 と言ったきり絶句する。俺は目をこすることさえ忘れていた。

 どこか大人びたハルヒがそこにいた。俺のおくより髪がややびていて、身につけているのは春物っぽく、やわらかな色合いの服装だ。肩にひっかけているカーディガンがとてもマッチしている。いや、大人びているどころではなかった。俺の知っているハルヒはまだ高二になったばかりのはずなんだ。

 なのに、このハルヒはそれから数年後としか思えないほど、ええと、なんだ。うまく言えないが……そう、何から何まで成長している。

「何やってんのよ。ねえ……」

 そのハルヒはじようだんにつき合うような微笑みを見せた。くらっときた。

「そんな昔の制服なんて着ちゃって、いったいどういうつもり? キョン……。あれ、あんた、何かちょっと若……えっ?」

 言いかけて、そのハルヒはだれかに呼ばれたように振り返り、

「えっ?」

 再び、俺の視界が暗くなり始めた。

 そのハルヒに誰かが声をかけている。ハルヒはおどろいた仕草でそいつに「なんで? あんたがそこにも……」とかなんとか言うような応対をし、また俺を振り返り、

「えっ?」

 驚きの表情であったと思う。

 が、俺の意識は急速にうすれようとしていた。芝生に立つそのハルヒの姿がとくしゆなカメラワーク演出のように遠ざかっていった。俺は動かず、ハルヒも動かず、ただきよだけが開いていく。両サイドからくらやみせまってきた。これはとびらだ。本来の場所に俺を連れもどそうとする、時間の意志だ。

 黒いかべが完全にざされる瞬間、ハルヒの口元が言葉をつむいだのだけが見えた。

 ──キョン。またね。

 涼宮ハルヒのやさしげなしようが、そう言っていた。



 再び足元がくずれたような落下、上下の感覚がせたゆうが俺のへいこう感覚をくるわせる。

 さっきのは夢かげんかくだったのか? 正直、これがいわゆる時間いなのはわかっていた。七夕にまつわる事件で俺は何度も現在と過去を往復しただけのことはあり、百聞は一見にかずなる故事成語は真実だと身体からだと精神にたたき込まれているのだ。まあ、何回やっても慣れないんだが、そのたびに俺の三半規管はけっこう弱いと思い知らされて、しかし、誰だって曲がりくねった山道をロクなサスペンションもない車に乗せられワインディングされたらこんな感じにはなるさ。もうすでに、俺の胃のはでんぐり返り寸前だ。

 いつまで続く? この暗闇の中のついらくは……。

 だが、次の転移先にとうちやくするまで、さほどの時間はかからなかった。短い落下の終着点、直後にふわりとした重力とは反する逆制動がかかったような、つんのめるブレーキングを体感したかと思うと、今度はみようだんりよくのあるものに全身がぶつかって、その衝撃で目が覚めた。

「ぬぐあ?」

 覚めたというのは的にも現実的にもちがいじゃない。それまでみやくらくのない夢の中にいたような非現実感をぬぐい去れていなかったのだが、今では完全にかくせいして、適度なすいみん時間を過ごした朝のようにさわやか、くっきりはっきりと覚醒している。見たばかりの夢もすぐに思い出せるくらいにな。まあ、それはいいのだが。

 そんな俺のめいびんなる思考能力でも、現状のあくには三秒ほどかかった。

「……? どこだ、ここ」

 俺がいたのは、暗い部屋の、ベッドの上だ。ただし自分の部屋ではないとしゆんさとる。他人の家特有の、慣れないかおりがこうげきしている。それも、やたら甘ったるい香りだ。妹の部屋のにおいに似ているが、違う。俺の人生史上、決して見たことも入ったこともない部屋で間違いなかった。

 では、どこか。俺はどこに落ちてきたんだ?

「……なに、してんの?」

 押し殺した声が、真下から聞こえた。

 不自然なまでに小さく、いささかとうすら感じるものではあったが、聞き覚えのある声なのは当然で、俺はほぼ毎日、この声を聞いている。

 なるべくゆっくりと下を向く。

 ハルヒの顔が、俺のど真ん前にあった。薄暗さなどなんのその、ハルヒが見たこともないほどのきようがくの表情をかべているのは、薄く開いたカーテンからこぼれる街灯の光でもじゆうぶんに見て取れる。

 おまけに俺は四つんばいの体勢でいて、ベッドの上であおむけに寝転がっているハルヒを、とんの上から両手と両足で押さえつけているような状態でいる……らしかった。ここにばいしんいん的な第三者がいたら、そくの有罪判決のまんじよういつを決して躊躇ためらわないだろう。言いのがれの余地などりんぷんひとつぶしかなさそうな、そんなシチュエーション……。

「……ここは……」

 やっと気づいた。不覚にも俺はハルヒの自宅にも自室にも入れてもらったことがなかったし、そりゃ知らない場所だと言うのは簡単だ。とっさに気付けというほうが無理かもしれないが、現にここにハルヒがいる。消去法的に答えは一つしかない。

 ハルヒの部屋で、ハルヒのベッドだった。それも真夜中らしい。ハルヒはパジャマ姿で、驚きを通りしたと言わんばかりに目を見開いている。

「キョン、あんた、いくら何でも……」

 じようきようが理解できないのは俺もなのだよハルヒさん。いやはや、確かにいくらなんでも落ちてきた先がハルヒの家の部屋でベッドの上だとは想像をちようえつした出来事だぜ。

「ちょっと!」

 ハルヒは上ずった声で、

「ちょっとでいいから目を閉じ……布団をかぶってじっとしてなさい!」

 ハルヒはやおら身を起こして俺をはねのけると、俺の頭から掛け布団をかぶせて視界をさえぎった。ごそごそと何かやってる気配がしている。

 そのすきに、俺はせられた掛け布団にすきを作り、部屋の調度品を物色した。スケベ心からじゃないぜ。切実に、かくにんしなければならないことがあったのだ。

 俺の目当てのブツは、ベッドサイドに置かれていた。

 たいていどこのだれしんしつにもあるであろう、デジタル式目覚まし時計だ。ハルヒだって時代の人間ではなかろうから、ニワトリの代わりに時計くらいまくらもとに置いているだろうという俺の予想は当たった。

 幸い、年月日まで表示するタイプをハルヒは愛用してくれており、まさにそろそろ太陽がひょっこり顔を出そうかというころいの数字を表示してくれている。

 そして日付は、五月ぼうじつとなっている。

 ええと? するとどうなるんだ? つまり、《神人》の手のひらで青い光に包まれたのは四月のちゆうじゆんの夕方なのだから、このハルヒ時計が思い切りくるっているのではない限り、なんてこった、今はさっきまでいた時間より一ヶ月近くの、未来だ。

 過去にばされて現在にもどってきた経験は何度もあるが、未来にジャンプしたのは初めてということになる。未来への時間旅行を俺にいたのは誰だ? 朝比奈さん(大)か? それとも《神人》のまだ見ぬなぞの力なのか?

 ハルヒはまだごそごそやってる。きぬれの音から、えをしているのだと推察するが、俺の興味はまた別のところにあった。

 ハルヒの部屋のかべにぶら下がっていた素っ気ないデザインのカレンダーに目がとまったのである。ちょうどこの日、今日、現在の日付だ。夜も明けかかろうとしている本日を示す黒い数字に、あきらかにハルヒが付け加えたであろう、赤マジックによる花丸マークが囲われている。二重丸の上に花びらでふちるという、まるでようえんの絵画をめるがごとき大げさで派手なマーキング。

 この日が何の記念日なのか、俺はよく知っている。

 なぜなら、俺もまた、カレンダーの四月ページのある日付に、これと似たような真似まねをしていたからだ。

 やっぱり覚えていたか。俺が覚えていたんだから当然だろう。一年前のその日は、俺たちにとって一年時の入学式と同じくらい、終生忘れ得ぬ日であることはちがいなかった。

 なぜなら、この日は───。

 その時、窓にこつんと小さいものがぶつかる音がした。

 俺とハルヒが同時にぴくんとこしを浮かせる。ハルヒはだんに変身を終えており、俺が布団を頭からずり落としても文句は言わなかった。それより窓を鳴らした人物に興味が深まったらしく、つかつかとまどぎわに歩み寄る。俺もその横に並んで立った。

 ここで初めて、俺はハルヒ宅がいつけんであることとハルヒの部屋が二階にあることを知った。なぜ今まで知らなかったのか不可思議と思うほかねえな。

 カーテンを開けて下を見ると、街灯に照らされたハルヒ宅の前に、三つのひとかげがある。

 間違えるもんか。それは朝比奈さん(小)・古泉・長門の姿だ。

 俺たちが反応したことで、古泉はやれやれとばかりに手を広げ、朝比奈さんは両手を胸の前で組みめる。長門は普段通りの棒立ちだが、俺は心からホッとした。

 ハルヒがそっと窓を開ける。外はせいじやくに包まれていて先ほどまでいたへい空間をほう彿ふつとさせる。こんな住宅地でさわがしく走りまくっているのは新聞配達員くらいのものだろう。

 示し合わせたわけでもないのに息をひそめて並んでいる俺とハルヒに、古泉がかろやかに手をった。

 もう片手に古泉が小包みたいなものを持っているなと見えたのもいつしゆんで、我らが副団長は手にしていた包みをこちらに向けワインドアップモーションでとうてきした。ゆるやかな放物線をえがいたそのブツは、長門のおかげだろうか、見事に俺の手元にストライクを決める。

 れいに包装された小振りの箱のリボンにえられたカードの文字は、うすかりの中でも、次のようにはっきり読み取れた。


『SOS団結成一周年記念日。団員一同より団長閣下へ、一年分の感謝をめて』


 団員全員がワンセンテンスごとに書いたようなぞろいな文字で、その中には書いた覚えのない俺のひつせきまで混じっている。いや、そんなことより。

 ……そう、日付が変わって本日この日は、ハルヒがSOS団の結成を宣言してちょうど一年目に当たるのだ。一年前、授業中にとつじよとしててんけいひらめかせたハルヒは俺の後頭部を机にたたきつけ、休み時間になるや階段おどり場にまで連行したと思ったら、昼休みに文芸部室に直行し、その放課後にはもう文芸部の乗っ取りを宣言し、さらに翌日、気の毒な朝比奈さんをして来た。

 ──これからこの部屋が我々の部室よ!

 ──SOS団! 世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団。

 北高内に宇宙規模でめいわくき散らすことになるミステリアス部員が構成員を占める秘密組織的なアジトが発生した瞬間である。

 そうかよ、古泉。長門、朝比奈さん。

 俺がここにいるのは、このためだということにすべきなんだな?

「ハルヒ」

 俺はプレゼント様式の包みを手に、ハルヒへ身体からだを向けた。

「ん……な、なによ」

 とか知らないふうをよそおっているが、ハルヒはとっくにじようきよういているようだった。俺の顔と箱の包みをチラチラ見つつ、しきりに目を泳がせている。くれると解っているお宝をどう受け取っていいのか迷っているトレジャーハンターの助手のように。

 こういう時は直球でめるに限るね。俺はカード付きの玉手箱をハルヒに差し出し、

「この一年、団長ご苦労様。これからもご贔屓ひいきたのむぜ」

「バカ」

 言いつつ、ハルヒはなおに受け取った。カードの文字に目を走らせ終えると、目を閉じ、ぎゅっと箱をきしめる。何やらウェットな空気が流れ出したなと思ったのもつかの間、

「キョン、あんた、どっから入ってきたの?」

 いやぁ……。げんかんからとは言えんな。

「そりゃ、窓からだよ。あまどいをつたって上ってきたのさ。まりには気を付けた方がいいぜ。かぎがあきっぱなしだったのは都合がよかったが」

 よくもまあ、とっさにベラベラとうそはつぴやくが並べ立てられるものだと自分でも感心する。

「もう、いくらなんでもやりすぎよ。ヘタすりゃよじ登ってる時に通報されてたわよ」

 ハルヒは泣き笑いのような表情をしていたが、ふと俺の足元に目をとめ、

「なんで学校のうわきはいてんのよ。すぐぎなさい、たった今。ゆかよごれるでしょ」

 失念していたよ。俺はちょっと前まで北高にいたもんでな。で、お前もいたんだぜ。でもまあいいか。どうやらタイムスリップのじきになったのは俺だけだったようだから。

 さっそくくつを脱ぎ出した俺をながめていたハルヒは、窓に寄って私道に立っている三人組を見下ろし、ふうっと聞こえよがしに息をいた。

「サプライズイベントをするにしても、もうちょっと時間を選んで欲しかったわ。本当は、ちょっと期待してたのよ。何かしてくれるんじゃないかって。でもね、こんな深夜にたたき起こされるなんて、いくらあたしでも想像外よ」

「でないと、サプライズにゃならねえだろ。お前をおどろかすにはこれくらいしないとな」

 付け焼きだが俺のアドリブにもなかなか説得力があるじゃないか。これもハルヒが今まで無茶をやってくれていたおかげだ。俺たちがちょっとやそっとのことをしでかしてもサプライズイベントで済むんだから楽でいいやな。

 ハルヒは、さらなる泣き笑い顔をしてうつむいた。本当に窓に鍵をかけていたかどうかなどどうでもよくなっているにちがいない。現に俺はここにいるのだ。

「キョン」

 ハルヒが顔を寄せてきた。くちびるが耳元でささやく。

「玄関まで案内するから、音を立てないようについてきて」

 そのいきのくすぐったさに声を出してしまいそうだったのだが、何とかえた。

 家人に気取られないようにだろう、ハルヒは抜き足差し足で階段を下り、熟練の金庫破りのような手つきで自分の玄関とびらを開けた。

 ここでようやく、俺は外で待っていた団員たちと対面する。深夜の住宅街ということで全員無言だが、表情を見りゃわかる。今の俺にはまだ理解不能だが、ようはすべてうまくいったのだということを。

 外履き用の俺愛用スニーカーは、長門が差し出してくれた。いつもの長門だ。熱にうなされているわけでもなく、たんたんと読書をし続けるへん的長門の感情不要の顔である。

 朝比奈さん──当然(小)──は、心配そうに俺とハルヒをうかがっていたが、俺が親指を立てて合図すると、ほうっとあんの息を吐いて、すぐがおになった。

 古泉はまるでたまたま深夜のコンビニに行った帰りのような気さくさで、

よるおそくにすみませんでした、涼宮さん。でも、どうしてもというきようこう意見を熱心に唱える方がおりましてね」

 何で俺を見ながら言うんだ。

 ま、解るさ。俺はハルヒに向けて精々ゆう口調を使い、

「お前相手のサプライズをしかけるんだ。込みをおそうくらいしねえと、驚きゃしないだろうが」

 しかしハルヒは聞いているのかどうか、朝比奈さんや長門の顔をじゆんりにわたした後、

「でも……ありがと」

 プレゼントの包みをいて、満月がかすむほどの笑顔をかべた。普段は大型こうせいのような光を放つ笑みが、まるで静かな月のそれのようで、俺はちょっと……なんというか、いや、何とも言えずにハルヒを見つめ続けることしかできない。

 どこかでカラスの鳴き声がした。やみガラスめ、お前にSEをらいした覚えはないぞ。

 それが合図だったように、ハルヒは包みから顔を上げた。

「今日はもうおそいわ。また今度、部室でね。ところでこの中身、何?」

「それは開けてのお楽しみということでよろしくお願いします。ちなみに選んだのは、ここにおられるしんしつしんにゆうしやの方ですよ」と古泉。「いや、まあなんと、全部自分ですると言い張ってくださりましてね、僕たちはただの見届け人の役割を演じたにすぎません。いっそ彼だけですべてやってもよかったのではないかと」

 古泉の口舌は俺がやつの足をんづけたことでようやく止まった。

 しかしなるほど、プレゼントの中身を決定したのは、どうやら過去の俺らしいな。その程度のくつなら解るさ。

 ハルヒはり返り振り返り、静かに玄関にもどりながら、

「気を付けて帰るのよ。特にみくるちゃんと有希は、責任もってキョンと古泉くんに送ってもらうこと。いいわね。これ、団長命令だからね」

 意外なほどの常識的な音量で言い残し、ハルヒは自宅に入っていった。

 あいつも親やきんりんの人たちにはちゃんと気をつかうんだな。なかなか可愛かわいいところがあったんじゃないか。


 ハルヒと別れた後だ。俺とほか三人は人気の絶えきった夜の道を歩いていた。

 今日が五月のちゆうじゆんだというのは解った。そして俺が部室に呼ばれて藤原や九曜と対決し、ハルヒといつしよに落下して《神人》の手の内になんちやくりくを決めたのは、俺からすればほんのちょっと前のことだが、あれから一ヶ月近く時間がんでいるっつうことも理解できるし、時間を年単位でいったり来たりしてきた俺にとってみりゃ、たいして驚きもしないが、一つしんせんな発見がある。

 つまり、俺にとってここは未来の世界ということになるわけで、さすがにそれは未体験ゾーンだぜ。

「そうなりますね」

 事も無げに言う古泉がややにくにくしい。こいつがみようじようげんでいるからだろうか。

「てぇことは、これから俺はまた時間移動しないといけないのか?」

「ええ。そうしてもらわないと困りますんで」

「あの、えーとぉ」

 朝比奈さんが小さく挙手した。さすがタイムトリップのエキスパート(見習い)、現状をとつとつと説明してくれた。

 それによると。

 あの時、《神人》に助けられた直後、俺は一ヶ月ほど未来に跳んで、それが今だった。

 ゆえにもう一度元の時間、一ヶ月ほど前にこうし直さなければならない。で、それをするのは朝比奈さんで、今これからである……。

 俺は長門を見た。クルミ割り人形のような目が俺を見返してくる。そこにはハルヒの看病を受けていたほど弱っていた様子はじんも感じられない。

「時間とうけつでその時が来るまで寝てちゃダメか?」

「だめ」

 そくとうする長門だった。

「問題の解決には不適切」

 どういうことだ、古泉。

「実は、今のこの時間にはあなたがもう一人いるんですよ。ちょうどこの時間から一ヶ月前に戻ってきた、あなたがね」

 もう一人の自分とのゆうごうはさすがにたくさんだぜ。

「あのケースとは別です。あれはもともとの一人がぶんれつして二人になっていただけですが、時間移動の場合はしようしんしようめいの同一人物なのですから。あなたがここにとどまっていると、二重存在が解消されません」

 横から朝比奈さんが顔を出した。

「それに、ていこうに反してしまいますから……戻ってもらわないと困るんです。あなたが過去に戻ることは、あたしたちにとってすでに存在した事実なんですよー」

 なるほど。俺がちゃんと元の時間に戻ったしように、実はこの時間にもちゃんと俺がもう一人いるわけだ。この時間から過去に戻ってきた《俺》、それは、今から俺がそうなるべき《俺》である。それにしても一ヶ月か。三年に比べりゃさいなもんだ。

「この時間帯におられるあなたにも来てもらって良かったのですが、自分と対面するのはいやだと言い張りましてね。しかたなく僕たちだけで来ただいです」

 ま、俺だってそうするだろうな。

「ついでに涼宮さんへのプレゼントの中身は内緒にしておけと伝言されました。それは元の時間にもどってからあなたが考えてください」

 古泉はいたずらっぽく言う。

「それから一ヶ月前の僕たちにこの日のことを伝えるのを忘れないでくださいよ。まあ、あり得ないことですが」

「…………」

 長門はすっかりいつもの無口無表情むすめに戻っていて、一安心だ。

くわしい説明は過去の僕がしてくれますよ。実際、しましたからね」

「ああ、真っ先にたずねるさ。部室でいいか」

「いえ、実は別の場所で会合を持ちました。それがどこかは、そうですね、お任せしますが、特に難しく考える必要もないでしょう」

 俺は長門に目を向けた。

「…………」

 無言をつらぬくサイレント少女は何も言わない。あの時、最後に見た屋上の三つのひとかげ。うち一つが長門であったことはちがえようがない。そして古泉が言っていたαルートの長門はいつもと変化無しだった。ましてや、ヤスミの呼び出しにもむしろ行けというようなことすら言っていた。

 お前はすべて知っていたのか? ヤスミとは何かとか、あそこに《神人》が出現した理由も……。

 だが、長門はもくしたまま背を向けた。そのまま手をる古泉とともに歩いて去っていく。

 古泉を信じるか。あいつによれば、俺にはもう説明したそうだからな。一ヶ月前の俺に。

 俺はただ二人残された片割れである、朝比奈さんに、

「行きますか」

「はいっ」

 朝比奈さんは役に立つことができるのがうれしそうだった。そうかもしれない。いつもはわけもわからず上司とやらの指令に従っていたばかりの朝比奈さんが、初めて主体的に時間移動の主導権を取ろうとしているんだからな。

 だが、その前に。

「朝比奈さん」

「何です?」

「朝比奈さんには兄弟がいるんですか。特に弟がいたかどうか、きたいんですが」

「うふ?」

 朝比奈さんはくちびるに指を当て、かんぺきなウインクとともに言った。

「あたしの家族構成については、特級の禁則事項です」

 で、しょうね。



 こうも何度もやってりゃいやでも慣れつつある時間移動の無重力的、眩暈めまい感的な時間は、すぐに終わった。一ヶ月というタイムスパンは三年より短く、移動時間も短くすんだからだろうか。

 とにかく、次に目を開けたとき、俺は自分の部屋のベッドの上にいた。

 とつぜん現れたことにおどろいたか、俺のまくらていたシャミセンが飛び起きて転がり落ち、尻尾しつぽを逆立てて俺をにらみつけるのを見ながら、俺は頭を一振りした。当然ながら、朝比奈さんの姿はない。

 まずは時計をかくにんする。

 四月ぼうじつ金曜日の午後八時前後、俺、自室にかんせり。

 このたった二時間前、文芸部室で世界だか未来だかの命運をけた一大事に巻き込まれていたことを、真面まじに話しても信じてくれるのはその場に居合わせた連中を除けば、佐々木くらいだろうな。別にだれかにふいちようしたい話でもないから別にいいんだけどさ。

 俺は大きくびをして、日常に回帰したことを祝うセリフをつぶやいた。

「さて、入って寝るか」

 週末の一日くらい、ゆっくり頭を休めるとしよう。

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