最終章 1

「うわっ!?」

 その言葉がどちらの俺から出たものかすらわからなかった。おそらく両方で、かつ同時だっただろう。ただ、耳に聞こえたのはユニゾンでもデュオでもなく、ただ一個体の人間が放つ声でしかなかった。

 直後、頭の中に、すさまじいおくほんりゆうしんにゆうしてくる。味わったことのない、異物としか言いようのない誰かの記憶だった。俺は目を閉じ、うずくまった。反射的に耳をふさいだのは、これ以上の情報を外部から取り入れることをきよせよと本能がさけんでいたからだろう。

「ううっ……」

 朝比奈さんたちとの時間移動どころでない混乱が、俺ののうずいをかき回していた。

 知らない情景、知らない行動、知らないじようきよう、知らない歴史……。それらが知っている情景、行動、状況、歴史におそいかかってくる。太極図のようにうずを巻き、俺をぐるぐると回転する渦のただ中にほうり込んでくる。

 様々なフラッシュバックがきつく閉じたまぶたの裏で加速装置発動後のそうとうのように流れていった。


 ───長門がたおれて団員全員で看病に来たSOS団───いかり心頭に発した俺が九曜とかいこうして朝倉の復活と喜緑さんの仲裁を受けた───佐々木たち橘や藤原、九曜たちと何度も会合したりしていた自分───橘に連れて行かれたうすかりの佐々木式へい空間───放課後ハルヒによる課外授業を受けていた俺───ハルヒが入団試験にまいしんしてかたはしから失格にしていた団員候補たち───唯一残された渡橋ヤスミ───そのヤスミが部室でお茶くみ指南を朝比奈さんから受けていたりサイトをいじったり───MIKURUフォルダ発見と書かれた紙飛行機───彼女が持ってきたいちりんし───謎の花


 どちらもちがいなく俺だ。何一つじゆんもない俺の記憶だった。

 なんなんだこれは。

 新学期になって春の調子にあてられたハルヒの部員集め。誰も来やしなかった部室。新入団員であふれていた部室。に入っていた俺にかかってきた電話。その相手──。

 ここからが違っている。

 今は渡橋ヤスミだと解っているが、当時は聞き覚えのない声の主。

 佐々木からの電話は俺とSOS団にとって深刻なものだった。

 あの時だ。

 まさにあの時から、世界が二つにぶんれつしていた。

 脳天気な団員試験と、シリアスな世界談義とに。後者の時系列は俺を散々になやませてくれやがった。佐々木の明るい閉鎖空間や周防九曜のコズミックホラー的リアクション。ついでに朝倉復活に喜緑さんの本気モード……。

 たった一人の合格者、新団員渡橋ヤスミの謎なポジティヴ行動と、長門のノーリアクションに古泉の歯切れの悪い発言……。

 ここ一週間ばかり記憶が、俺の中に二種類同居していた。

 なんてことなんだ。どちらが真でどちらかがにせという話じゃない。どちらも本当の、実際にあった記憶なのだ。まったく同じ時系列を、俺自身が分裂して過ごしていたとしか考えられない。

 二つの記憶のどっちもまるで感がないのだからな。自分の記憶力に絶大な信用を寄せているわけではないが、経験したことなら話は別だ。

 共通しているのは入浴中にかかってきた電話の主がヤスミか佐々木かの違いでしかなく、そこからがまったく異なっていた。

 その時から今まで、俺は同時に二種類の人生を送っていた。そうとしか思えない。

 そしてその二つの記憶が現在、りゆうの移動速度なみのじんそくさでゆうごうしようとしている。神経シナプスがパチパチと音を立てているようなさつかくに襲われ、俺は頭をかかえた。

「ぐ……ぐ……」

 頭痛やき気もめいてい感もなく、ただ記憶がもうスピードで回転している感覚を、こんなもの説明できようはずはないが、まるで太極図にあるような白と黒のまがたまが高速回転して、灰色にしか見えなくなるような一体感と言えばいいのだろうか? 異質だった二つの違う色の模様が一つの色へと結実していく。回転は止まらず、それは灰色としてあり続ける……。

「……む……ふ……う」

 ヤドカリのように身を固めていた俺だったが、ようやく脳内タイフーンは過ぎ去ったようだ。いまだに混乱しているものの、目と耳を開けるくらいには回復している。かたわらの団長机に手を借りつつ、小刻みにふるえるりようあしをなだめすかしながら立ち上がれるくらいには。

 もうろうとしながらも、部室内に目を向けるくらいの気力はかろうじて残っている。

 そして気づいた。

 俺が一人になっていた。さっきまでいたはずのもう一人の俺はどこかに消えせている。だが、なぜかそれを不思議だと思えない。なぜかだって? それは実に簡単なくつだ。1+1は確かに2である。しかし、そうでない場合もあることを俺は知っていた。例えば一つの砂山と別の砂山を混ぜたとしたら、誕生するのは大きな一つの砂山だ。

 足し算とは違う計算方法、今ふさわしいのは乗算にほかならなかった。1×2、その答えは小学生でも出すことが出来る。すなわち、2だ。

 別の俺は消えた。その代わり、俺の中に二人分のおくがある。

 一つは長門がピンピンしていてハルヒが入団試験にかれつつヤスミが登場した数日間の記録であり、もう一つは長門がびようしようしていて佐々木たちと会談したり九曜におそわれたり朝倉が復活した数日間の思い出だった。

 その二つが完全に並立して俺の頭の中に残っている。しかも、まったく違和感なく存在しているのだ。わかりすぎて逆にワケが解らない。異なる二つの記憶が同居していればつうは混乱するもんじゃないのか?

 ──そうでもありません。

 ヤスミの声がほがらかに答えた。声だけが。

 ──どちらもせんぱいなんです。片方が正しくてもう片方がにせものというわけじゃないですよ。ただちょっとちがう歴史を持っているだけで、それは同じ時間、同じ世界なんです。

 声がした方に目を向ける。


 いない。


 渡橋ヤスミが消えていた。もう一人いたはずの《俺》と同様に、燃えきたせんこう花火のけむりのように、最初からいなかったように、完全に消失していた。

 どこに消えたのか? 《俺》に関してはすぐに理解することが出来る。

 融合だ。

 ヤスミによって俺と《俺》の手が重ねられたしゆんかん、俺と《俺》はこの時系列上で同一人物として合体したのだ。簡単な話だろう。俺たちは元から同じパーソナリティーを持つ、一人の人間だったのだから。それが何かの事情で、あるいはだれかのおもわくで、一時的に分裂していたに過ぎない。

 ゆえに元にもどっただけのことだ。

 だが、ヤスミは? なぜヤスミにそんなことが出来たんだ? で、どこに行った? 窓もドアも閉め切ったままである。密室からしゆうじんかんの前で消え失せるとは、テレポート使いだったのか、それともげんえいだったのか?

 しかし、それでは説明できないのは、藤原や橘京子もヤスミをもくげきしたらしいことだ。完全なイレギュラーとして、あのおどろきの表情は決してフェイクではない。ついでに、部室にいた俺を見た感想からして、これもまた予定外の事象だったのだろう。

 かくして、藤原はめずらしく感情をあらわに、

ていこうを外れた……? バカな……。僕より先に禁則を外した者がいただと……? これは、いったい誰の………?」

 いかりととうわくしようそうの入り交じった声で、

「スケジュールにない規格外の異分子だって? 聞いていないぞ。誰のけだ。誰がヤツをここに呼んだ?」

 いらたしげにゆかり、

「くそっ、こんなことは僕の予定にない。九曜、どこだ。どうなっている」

 らいめいとどろいた。

 部室のちっぽけな窓がフラッシュしたように光り、ここにいる全員にかげを落とす。天空からちたとうとついなずまは、しかし名状しがたきしきさいともなっている。反射的に外へ目を向けた俺は、さらに信じがたい風景をの当たりにし、うめき声を上げた。

「……何だ、この空は……?」

 天上がうずいていた。うすかがやくクリーム色の空に、せいかい色の暗い光が混在し、まるで銀河団のしようとつのような、かいな情景をえがき出している。そこかしこであわく明るい光とぼんやりと暗い灰色のしよくしゆが入り乱れ、たがいに勢力はんうばい合うようにうごめいていた。絵の具をかした容器にぼくじゆうを垂らしたような、はつきようした画家が筆を自由に働かせたような色使いだ。

 空だけではなく、けいの窓に切り取られた世界のすべてが、二種類の色彩でめ尽くされている。中庭のしばも、そびえ立つ校舎も、わたろうも、葉ばかりの桜の木も、何もかもが。

 たんしよく系の色合いの世界はまだ解る。俺は佐々木が無意識に発生させているへい空間内にいるのだから。

 その空間にたいこうするかのようにしゆんどうしている別の色、当然これにも見覚えがあった。

 ハルヒの生み出す閉鎖空間。

 佐々木とハルヒのものが、今、ここでせめぎ合っているのだ。

 なぜだ? さっきまでいつしよにいた佐々木の世界があるのはわかる。橘京子がわざわざ北高まで来たのは、俺をその内部に取り込むためだろう。

 でも、何故なぜ、ハルヒの閉鎖空間まで発生しているんだ? ハルヒはいまごろ、長門のマンションにいて……いや違う、普通に下校のちゆうなのか……くそ、解らん。

 もっと解らんのは、目に見える範囲の世界のところどころでがく模様のような線がめいめつしていることだ。これにだって見覚えがある。朝倉が発生させた情報操作空間のそれによく似ている。

 いったい俺のいるこの世界はどうなっちまったんだ? すべてのかい現象が混在しているじゃないか。何だこれは。何なんだよ。

「───これが始まり。あらゆる可能性へのぶん点…………」

 いんうつな声が耳を打った。顔を上げた俺の目の先に、異様なまでにしつこくかみひざまで垂らした黒衣のブレザー姿があった。

 ローマ時代のせつこう像よりも無表情な周防九曜が、藤原と橘京子の間に立っていた。その目には何の感情もなかったが、薄い色のくちびるが、わずかに動いて空気をしんどうさせる。

「───過去も未来も、現在でさえも、ここには存在しない。物質、量子、波動、そして意志。現実へのにんしき。未来は過去に、過去は今に………」

 九曜が突然現れたことなどに今さら驚いてなどやる義理はねえ。そんくらい息をくくらいにするだろうよ、こいつは。

 だが、俺が何かをうつたえかける前に、

「お前は僕を裏切ったのか?」

 藤原がそう言いつつ、九曜へ向けた視線はにくしよくじゆうが天敵を見る目そのものだ。

 九曜はしようをひらめかせた。何もかもが唐突な、この地球外生命きんせいエージェントの感情変化にも、もはやだれも反応しない。

「いいえ。わたしはここに来た。それが答え」

「ならば、これは何だ。まるで世界が──」

 言葉を句切った藤原は、直後、何かからてんけいを受けたようにこうちよくし、しぼるような声で、

「──そうか。なんてことだ。すでに分岐していたのか。いったい誰が……」

 藤原のセリフに読点をつけさせる余地を許さないようなタイミングで、

 がちゃり。

 出しけに部室のドアが開いた。

「やあ、どうも」

 まるでいつもの放課後のように、ひようひようとした微笑ほほえみとともに片手であいさつして、ついでのように俺にウインクして見せたその姿に、俺が真っ先に反応したのも当然だろう。

「古泉!?」

「ええ、おっしゃる通り古泉いつうそいつわりなく本人です。本当はもう少しドラマチックな登場の仕方をやってみたかったのですがね。例えば窓をぶち破って入室するとか。しかし、検討している時間がありませんでしたので」

 もう『驚』という漢字が使いたくない第一候補におどり出たしゆんかんである。第二が『愕』だな。さりとて、では、どんな表現を使えばいいのか、もはや俺には解らない。

 おおまたで入ってきた古泉一樹その人は、俺と藤原、九曜を確認するようにいちべつすると、最後に橘京子へ妹を見るような目を向けた。

 古泉に直視された橘京子のきようがくは俺以上だったようで、

「まさか」と上ずった声をふるわせ、「ここは佐々木さんの閉鎖空間よ。古泉さん、あなたが入ってこられるはず、ありません!」

 正答したはずの答案用紙に大きく×マークをつけられていた優等生のような反応だったが、

「残念ながら」

 と古泉はたい役者のようなおおぎような一礼をし、

「今のこの学校に限っては、あなたがたの閉じた世界だけ、というわけではないのですよ。どうぞ外をご覧ください」

 見るまでもない。灰色とセピア色の混じり合った風景がそこにあることにさっき気づいたばかりだ。ハルヒの閉鎖空間と佐々木のものが混合した世界──としか言い様のない世界がそこに広がっていることを俺は視認していたからだ。

 さすがに橘京子も気づいていたらしく、

「そんなはずないわ。だってここには涼宮さんは……」

 言いかけて、橘京子はくうに目を向けた。天敵であるハンターの足音を感知した鹿じかのように身体からだをビクつかせたのち、

「さっきのあの子……そういうことなのですか……?」

 何やらさとった感じの語調だが、どういうことなんだ。何でこいつらに解ってることが俺には解らんのだ? 俺はと言えば混乱する両手で頭をかかえないようにするのにせいいつぱいの精神力を発揮しなければならないというのに。

 おまけに、俺の精神力がさらなる試練におそわれる事態が待っていたことが直後に明らかになるなんて。

 不意の訪問客は古泉だけではなかったのである。

 長身の副団長の背後から、すっと姿をあらわにした人物をもくげきして、俺はこしを抜かしそうになる。よくもまあひっくり返らなかったものだ。なんとかしりもちをつかずにすんだのは、毎日エブリディな坂道登校できようじんあしこしが自然に出来上がっていたと思うしかなかった。入学以来にして初めて俺はあのこくな登下校の道のりに感謝した、と言いたいところだが、ええい、重ねて言うがその時の俺は周囲数メートルのはんの視覚映像を処理するので精一杯で、のうばくはつスレスレだったのだ。

 だから、その人の登場にも、とっさに頭と口が回らなくなったのも当然であろう。

「こんにちは、キョンくん」

 白ブラウスとタイトスカートではかくしようもないちようグラマラスボディ、俺が何度も色々と数々のお世話になったみようれいの美女、女教師のテンプレートなコスプレをしているかのような彼女は、何度も見たことのあるあいに満ちたみを俺に向けていた。

「……朝比奈さん、あなたがどうしてここに……!」

 精々振り絞って出せたセリフはその程度であり、いよいよ俺の首から上がせっぱまっていることを表す実にしょうもない問いかけでもある。

 朝比奈さん大人バージョン。朝比奈さん(大)にして俺の朝比奈さんの成長した姿。しようしんしようめいの未来人が、ひょいと古泉のかげから歩を進めてきた。

「古泉くんにつれてきてもらいました。へい空間へのしんにゆうには彼の能力がいるもの。あなたも知っているでしょう?」

 古泉に手を引かれて街中の閉鎖空間に入った思い出がよぎる。寒天のようなざわりの閉鎖空間外周なら古泉と一度、ハルヒとも一度ならず体験した。

「本当はそう用具入れから登場したかったんだけど……。時空間移動ではここには侵入できなかったの」

 おちゃめなことを言いながら朝比奈さん(大)は小さく舌を出す。相変わらずメロメロになりそうなくらいのわく的な仕草だ。四年前の七夕に何度も出会ったときと変わらない愛らしく美しい妙齢の身体、あちこち主張している豊満ボディ……。

 瞬間そうとうげんしている俺をよそに、ハイスクール少年エスパー戦隊副団長は実に満足そうに横にいる人物に話しかけた。

「やっと会うことができて光栄です、朝比奈さんの本来のお姿にね。過去にも増してお元気そうで何よりです。今のあなたは禁則処理がさほど厳重でもないでしょうから、できれば長話などしたいところなのですがね」

「そうでもないわ。わたしも初めて知らされました。最大級の特秘禁則だったの。この件に関しては、わたしもこまの一つだったんだわ」

 そのセリフをにんしきするには少々、そして理解するにはどうやら無限大の時間が必要のようだ。何が何だか、俺にはさっぱり解らない。

 朝比奈さん(小)をあやつる朝比奈さん(大)を、さらに駒のように動かしているだれかがいるってのか? どんなヤツだ。朝比奈さんにはさらに上があるのか。朝比奈さん(特上)か? いやこんなことを考えている場合ではないんじゃないか?

「おい、古泉」と俺はようよう言った。「お前はどっちの古泉だ」

 古泉は見慣れた仕草で両手を広げた。すべてを受け入れんばかりのオーバーアクトなそぶりは、こいつの得意とするところである。

「両方です。僕もさきほど自分とゆうごうしたんですよ。いて言えば、αアルフアーのほうでしょうか」

 α? 何の暗号だそりゃ。

「失礼しました。便べんじようのコードですよ。あなたもそうでしょうが、今、SOS団である僕たちには二種類のおくがあるはずです。一つは新入団員試験にかまけた脳天気な歴史、もう一つは長門さんが込んでからのSOS団が実質機能不全におちいっていた歴史、その二つです。区別が必要かと思いまして、前者をα、後者をβベータと呼ぶことにさせていただいたんですが、異論がおありですか?」

 ねえ、ねえよ。AでもBでもNでも好きにしろ。どのみち今は一つになったらしいからな。

 古泉は藤原、橘、九曜を順番にながめてから、くくっとのどを鳴らし、

「どうやら、そこの方々のおもわくとは大きくずれてしまったようですね。それはそうでしょう。僕たちを甘く見てもらっては困ります。あなたたちはまだまだ、涼宮ハルヒさんをわかっていない。もちろんじゆうぶんけんさんを重ね、対策もしておられたのでしょう。でなければ、ここまでだいたんな作戦を決行するはずがありませんからね。でも、涼宮さんは──僕たちのすべき団長閣下は、はんな未来人やおそまつな超能力組織や、地球に来て時代の浅いエイリアンなどには裏をかかれたりはしないんです。彼女は神ではないかもしれません。しかし彼女は、ひょっとしたら神のような力を持っている存在ですら、かいせきすることのできない反則的な人間なのです」

 古泉は制服のポケットをまさぐり、ファンシーな便びんせんを取り出した。

「今朝、僕のばこに入っていたものです。お読みになりますか?」

 その場の全員を代表して俺が受け取った。読む。たったの一行。

『午後六時に校門に来てください』

 差出人の名は────渡橋泰水。

 ヤスミは俺以外にも手紙を残していたのか。しかしなぜ、古泉にまで?

「βのほうの僕はあなたの後をつけていたんです。佐々木さんと橘京子、そしてその未来人氏とつれだってここに向かうあなたをね。一方、αの僕は呼び出しに従って校門に来ました。そこで二種類の僕が見たものは同一です。おみの閉鎖空間ですよ。まるで前兆を感じていなかったのでおどろきました。おまけにβのほうの僕は、こちらにおられる朝比奈さんに声をかけられたんです。それから彼女をともなって閉鎖空間に入る直前、βの僕は、単身でそこにいたαの僕と顔を合わせました。後は解りますね。れあったたんに僕は一人になっていた。そしてすべてを理解したんです」

「それがあなたの難点だわ、古泉くん」と朝比奈さん(大)。「あなたが必要な存在だったのは確かだけど」

「ふざけるな!」

 藤原のげきこうしたセリフがだいおんじようで室内にひびわたった。

 古泉の長話にごうやしたのかと思ったのだが、ヤツのするどい視線は朝比奈さん(大)のみを手術用レーザーメスのようにつらぬいている。

 身体からだふるわせ、内なるいかりのあまり顔をゆがめている藤原、それはいつも人を鹿にしていた上から目線のものとはまるでちがっている。俺が初めて見た、こいつの生の感情だ。

「あなたは……、あなたはこうまでして僕のじやをするのか! 世界を二つに割ってまで、あんな未来を固定させようとするのか!」

「すでに決定した時間平面をかいざんしても、わたしたちの未来は変わらないわ。いいえ、変えてはならないんです」

 朝比奈さん(大)はじゆうに満ちた表情で言う。

「変わるさ。あなたには無理だろう。僕にも、ここにいる誰にも、それはできない。だが、涼宮ハルヒの持つ力ならできる。あの女の力を使えば、僕は僕の生きてきたすべての時空間情報を新たなものにできるんだ」

 藤原は語る。

「この時点から未来への時空連続体を完全に、かんぺきに書きえることができる。時間平面へのちく修正程度じゃなく、無限に続く時間平面の全部を修正できるんだよ!」

 さけび終えた藤原は、き出すものを終えたかのように下を向き、つぶやくように、


「僕は……。僕は、あなたを失いたくないんだ。……姉さん」


 きようがくのセリフだった。は? なんだって? 姉さん? 朝比奈さんが? この藤原の? ということは藤原は朝比奈さんの弟で……しかし、俺の知る朝比奈さんにはそんなそぶりなど一かけらも、またそんなことを臭わすような言動も一つとしてなかったぞ? これは藤原一世一代のギャグなのか?

 朝比奈さん(大)は首を横にった。くりいろかみが悲しげにれる。

「……わたしには弟は……いません。同様に、あなたの姉であるわたしは存在しないんです。失われた過去は……人は……二度ともどってこないのよ」

 混乱にはくしやがかかるだけの朝比奈さん(大)の返答だった。だが、藤原の表情はしんけんさをいや増すだけで、

「だから僕はここまで来たんだ。この時間平面、人類がれつなおこないを見せびらかす、僕たちが忘れたくても忘れられない浅はかな過去まで。僕はあなたを取り戻す。地球外知性と手を組んだのもそのためなんだ。そうでなければ、だれがあんな連中と」

「わたしのことは忘れて。そんなことのためにTPDDを使ってはいけないわ。わたしたちは本来ここにいていい存在じゃないの。あなたにはこの時間平面が、涼宮さんがどれだけ貴重な人なのかわかっているはずよ。もし彼女がいなければ、わたしたちの未来は……」

「解っている。だから、僕は第二の可能性にけた。未来が必要とするのは涼宮ハルヒではなく、その力だ。他の誰かに移せるなら、せんたくは広がる。うってつけの人物をこちら側の協力者、橘京子が見つけてくれた」

 橘京子のかたが再びねる。目を向けるとうつむき、ややなみだになった顔と俺の目が合った。

 少しずつ理解が可能になってきた。

 そうか、それが、佐々木だったのか。

「あの女なら涼宮ハルヒよりうまくせいぎよできる。僕たちには好都合だ。無限の可能性を得ることができるんだ。ていこうらわれることはない。既定事項をなかったことにもできる。僕たちは未来を選択できる。僕はそうしたいんだよ、姉さん。僕はあなたのいる世界を選択したいんだ」

 勝手なことをまくし立てやがる。バカめと言ってやりたい。朝比奈さん(小)がどれだけ善良か、ここに来て深く解った。あの人は何も知らされていない。未来のおもわくも、ハルヒや佐々木の利用価値も。

 それががたい特性だったんだ。役立たずなんてとんでもない。朝比奈さん(小)は最大レベルで愛すべき未来人だ。彼女だけが俺たちのいる時間帯の味方なんだ。過去を変えようとも、ハルヒをあやつろうともしていないのだから。

 そうさ。考えてもみろ。もし俺がいつでもいいから過去に時間移動して、自由に動き回れるとしたなら、きっと自分の知りうる知識を利用して歴史にかいにゆうしていただろう。十年前、百年前、ロングレンジになればなるほど、そのよつきゆうあらがえなかったに違いない。

 だが朝比奈さんは何もしない。未来から来て、ただハルヒにいいように遊ばれているだけだ。これがどれほどすごいことなのか、俺は初めてさとった。朝比奈さん以外にこんな役は務まらないんだ。藤原が朝比奈さんの立場になっていれば、SOS団なんて成立していないだろう。

「だめだ」

 藤原は再び、

「たとえ世界がどうなろうと、姉さん、僕はあなたを失ったままにしておくことはできない」

「あなたの時間線上にいたその人はわたしとは違います。わたしに弟はいません」

「同じことだ。僕の時間線にいたあなたが失われたということは、未来におとずれる交差ポイントであなたも必ず失われる」

「未来は変えることができるでしょう。そうならないようにすることだって」

 あやうく聞きのがさなかった自分の耳と脳みそをめてやりたい。

 なんだって? 朝比奈さんは今、何と言ったのだ?

「できるものか。あなたから見た未来は、その時間の先にいる他の観測者にとっての過去なんだ。固定された事実は常に不変状態を保たねばならないと、あなたも知っているじゃないか」

「そのためのわたしたちですから」

「だが、もはやここから四年前より先にはさかのぼれない。時間平面修正の機会はないんだよ。必ずどこかでたんを生む。なら、今ここでそうさせてもいいはずだ」

「許せないことです。あなたは自分の言っていることが解っているの?」

「誰よりも解っているさ。きたるべき未来を固定させるために、ずっと時間平面をいじり続けてきたのはあなたたちだけじゃないからね。そう、TPDDだ」

 藤原は続ける。俺や古泉、橘京子どころか周防九曜の存在すら忘れたかのように、

もろつるぎとはよくいったものだ。時間平面を正常値に保つにはTPDDを使っての時間こうが不可欠だ。なのに遡行のたびに時間平面をかいしてしまう。TPDDで空いた時間の穴をめるのは簡単じゃなかったよ。だが従事しているうちにいくつかの現象を発見した。僕たちは過去を変えられない。未来もだ」

「じゃあ、あなたはなぜ、ここにいるの?」

「今、この時のためさ。いつしゆんの今、せつの時の積み重ねによって時間は構築される。だったら『現在』の構成要素を我々の未来まで永続して変え続けていけばいい。時間平面を断層ごとに修正し続ければいい」

「不可能だわ。既定事項のしようめつにいったいどれだけのエネルギーが必要だと思うの?」

「できるとも。何度でも言う。涼宮ハルヒの力を使えば。それができる」

 橘京子は展開についていけないのか、

「あ……え……? これ、いったい何の……」

 ぼうぜんの顔つきからだつし切れていない。

 藤原はそんなあわれな少女を完全に無視して、言葉を続けた。

「この時間平面から未来へと時空連続体を一気に書きえるんだ。ちゆうの歴史などどうなっても構わない。時空間が僕たちの未来で確定したならば、あとで過去をかえりみるゆうもできるさ」

 さらに、藤原はやや青ざめた顔でつばを飲み込み、

「そして、涼宮ハルヒはとっくに〝それ〟をやっていたんだ。僕たちがここに来る、はるか前に……」

「許しがたい暴挙だわ。あなたは……あなたの時間線は重大な時間犯罪をおかそうとしています」

 あいに満ちた朝比奈さん(大)の表情は、まごうことなきせきりようの成分がめていた。

 そんな未来人同士の問答の最中に、ふと、古泉が空気を読まないようなおどけた口調で、

「激論の途中のようですが、やっとお会いできたところで朝比奈さん。初めまして、というのは変なあいさつになるのでしょうが、今のうちに言っておいたほうがいいと思いまして」

「古泉くん……」

 朝比奈さん(大)は、せがちな目を無理に上げるようにして古泉を見つめる。

「朝比奈さん、あなたにとっては僕とのかいこうは、久しぶりなのではないですか?」

「そうかもしれません」

 朝比奈さん(大)は古泉にも負けないペルソナ的しようはなかせた。ゆうどうじんもんに気づいた検察側の証人のように。

「古泉くん、あなたには何も言えません。過去の人間の中であなたは上級要注意人物なんです。今のわたしでさえ禁則がかかるわ。でもそうね、言えたとしてもわたしは自分の判断で言うことはないでしょう。あなたはさとすぎます。わたしのたわいのない一言からでも、十の情報を得てしまいます。本当は昔話をしたいんですよ。これはわたしの本心です」

わかっています。あなたのそのセリフだけで僕はじゆうぶんですよ。僕が何者なのか、未来からどう思われているのか、あなたは教えてくれた。仮にフェイクなのだとしても同じことです。情報のぶんせきはこちらでさせていただきますよ。何より感謝をすべきでしょう、朝比奈さん。あなたがここに来てくれたおかげで、僕は自分のすべきことを理解できるのですからね。あなたが僕の前に姿を現すなどよほどのことです。つまり僕はそのよほどのことに立ち向かわねばならない。これから起こることは、あなた一人ではどうしようもなく、僕の力が必要なのでしょう。いえ、僕だけではありませんね。涼宮さんの力がどうしてもるんです。違いますか?」

「もう解っているのに質問するのはいいしゆではないわ。前から感じていたことだけど、古泉くん。あなたはやっぱり、STCデータの中でも代わりの見つからない人間なんだわ。だから、SOS団にさそわれた。涼宮さんに選ばれたのよ」

「今は自覚していますよ。最初は半信半疑、ぐうぜんの産物で説明がつきましたが、いまや疑いようはないですね。僕とSOS団は一心同体です。そして長門さんも、あなたの若き姿である朝比奈さんもね。ではあなたはどうなのでしょう。成長した朝比奈さん。未来にもどって、あなたは何を知ったのですか? 何をするためにこの過去や、かつての自分にかんしようしているのですか? 立場を教えて欲しいですね」

「禁則こうです。……と言ったら?」

「なるほど、と思うだけです。僕が過去にタイムスリップして、現地人からたずねられたら同じことを言うでしょうから。ただし、」

 するどひとみが二つばかり、朝比奈さん(大)と藤原に均等に向けられた。

「過去に生きる人間をなめないでいただきたいものですね。僕たちはそれほどおろかではないつもりです。全人類がそうだとは僕も言い切れません。しかし、ちゃんと未来をゆうりよする現代人はちがいなく存在するのです」

 古泉のそうぼうには、俺が見たこともないこうげき的な光がまとわれている。

「少しずつですが、僕にも解ってきましたよ。エイリアンな方々がこれほどおおさわぎしてくれているおかげでね。涼宮さんの持つ能力……現実を改変する力は、こうきゆう的なものではないんですね? 使えば減るというわけではないが、永遠に彼女が持ち続けるものでもない。それは、いつか消えてしまう。違いますか?」

「さあ……」

 朝比奈さんのはぐらかしなど通用しないと言わんばかりに、

「あなたがせんたくせまられているわけではないんです。彼はやろうと思えば、いくらでもあなたをあやつって、その結果、涼宮さんをも操れる。彼女の持つ能力を他者に移動することすらできる。かつて長門さんが実行したくらいですから、こちらの宇宙人な方にもできるでしょう」

 木像のようにっ立っている九曜にべつじみた視線をあたえ、

「これは僕が言うのはおこがましいのですが、どうしても言いたくてしかたがありません。ですので言わせていただきましょう」

 大きく息を吸った古泉は、再度、ほんしようを現した。

「地球人をあまりなめないでいただきたいですね。僕らはそれほどまいな存在ではありませんよ。情報統合思念体や、その他の地球外知性が何と言おうと、僕たちは僕たちで頭を働かせているのです。少なくとも、そうしようとしている人間は数多く存在する」

 敵であるはずの未来人にみとちようせんをブレンドさせたような目を向け、

「あなたも同意見ではないですか? 藤原さん?」

だまるんだな。ざかしいだけのごとにはヘドが出る」

 宣言するようにき捨てた藤原は、めつ的なかくを決めたような目のわり方をしていた。

 俺の脳内に危険信号のサイレンが鳴りひびき、赤と黄色の回転灯がてんめつする。ヤバい。こいつはこわれかけている。明らかに藤原は自らのばく導火線にほのおをともした。そんな予感がマグニチュード9クラスのなみのように俺の精神に迫り来る。

 それは、ぶつぶつとつぶやくようにくらい自答を発している藤原の様子からも明らかだ。

「……僕がバカだった。最初からこうしてやればよかったよ。ふふ。いくら言葉をついやしても解らないヤツは解らないんだ。九曜、──やれ」

 全員が身構える。が、九曜はまばたき一つしない。

「どうした九曜。約定を果たせ」

 藤原がたけだかに命じる。

「涼宮ハルヒを、殺してこい」

 このじようきよう、この展開での言葉。俺にしては、そのしようげき的なセリフを冷静にしやくできていたと言うべきだろう。

 うつわ。そう、ハルヒの能力はうばい取ることができるのだ。かつて長門がしたことでもある。

 器。だとしたら、ハルヒの能力はだれにあってもいいことになる。しかし、やはりその人間にもよるだろう。

 器。今、最もハルヒに近いのは誰だ。言うまでもない。

 神的な能力を失わせる、最もちよくさい的な方法はハルヒの死だ。死体は何の意思も持たない。せっかくのちようじよう能力なんだ。そのまま失わせるのはしい……と、宇宙人も未来人も超能力者どもも思うだろう。

 そして、ちょうどいい器たりうる人間がいる。ハルヒほど気まぐれではなく、ハルヒほどエキセントリックではなく、ハルヒほど何を考えているのか解らないわけではなく、SOS団団長でもなく、ハルヒより常識的で平和主義者でどこか超然としている、俺の元同級生。

 佐々木。

 俺自身、ちらりと考えたことがあるくらいなんだ。もし、ハルヒの神もどき能力が最初から佐々木に芽生えていたなら、と。

 藤原はそうしようとしている。ハルヒを殺して、佐々木を新たな神とする。佐々木なら、ハルヒほど場をらしたりはしないだろう。もちろん佐々木が藤原たちの言うがままに操られるなどあり得ないが、藤原と九曜には出来るという確信があるに違いなかった。洗脳でも、性格改変でも、もしくは誰か……ひとじちを取ってのおどしか。その人質はこの世界すべてかもしれない。

 それとも、俺か。俺がそのこまとされるのか。

 くそったれども、このスットコアンポンゲスゴミどもが。

 佐々木に苦労させるくらいなら、俺はこの場で出来る限りのていこうを見せてやるぞ。俺だけじゃない。古泉と朝比奈さん(大)の存在がこれほどたのもしかったためしなどない。長門もいてくれたら、というのも本音だが、あいつはまだ多分動けないような状態にあるんだろう。でなけりゃ、九曜の出現とともにここに来てくれているはずだからだ。この際、朝倉や喜緑さんでもいい。

 来い。来やがれ。というか何故なぜ来ない。クソ役立たずのエイリアンめ。今度会ったらちつそくしない程度に首をめてやるからな。

 藤原はさらに九曜をうながしにかかる。

「涼宮ハルヒの生命活動を停止させるんだ。お前は出来る、と言ったはずだ」

「────────」

 九曜のぼうようとした表情は変化せず、異様にあかくちびるだけが動いた。

「───わたしの転移をがいする現象が発生している。また、この時空連続体に現在している涼宮ハルヒには、わたしへの対抗手段が三重に取り巻き、おおっている。もう一つ、このへい空間内からはだつしゆつできない。あなたの命令コードに従うのは困難である」

 舌打ちをしたのは藤原だ。

「貴様、ここまで来て、それで済ますつもりじゃないだろうな?」

「困難であるとは言った──」

 九曜の長いかみがざわりとうごめいた。次に見せたのは、紅くかがやひとみと、V字型につり上がった唇だ。悪いじよ。とっさにそんな単語が表層にかび上がる。

「──だが……対象を呼び寄せることはできる……。そう、このように───」

 ほっそりしたうでが上がり、真っぐにびた指が、部室の窓の外を指した。

 俺をふくめた全員の目がそちらに向けられ、

「ぐ……っ!」

 思わずうめき声を上げてしまったおのれの不覚をなじゆうもなかった。

 なぜなら───。

 地上三階にある部室の外、団長机背後の窓から数メートルはなれた空中に浮かんでいたのは、

「ハルヒ!」

 高校生活一年間と少しの間、毎日顔をつき合わせていた同級生にしてクラスメイトにして俺の後ろの机のせんきよしやにして、乗っ取った文芸部室の真の主、そしてSOS団団長の制服をまとった姿形以外の何ものでもなかった。

 俺はすんごうたいもなく窓にけより、窓を開け放った。その間まったく目をそらしたりまばたきすらしていなかったとけてもいい。

「ハルヒ!」

 反応はなかった。空中に浮かされているハルヒは、ねむっているような無防備な表情で目をつむり、唇をうすく開けて、ただ呼吸する物体と化しているように見える。本当に眠っているのか、強制的に意識を失わされているのかまでは判別できない。手足をだらりと垂らし、こわれた人形のような格好でいるハルヒは、俺の呼びかけにもまぶたを開いてくれはしなかった。

「───閉鎖空間外の涼宮ハルヒを強制転送した。そこにいる存在は、ここにいる全員が涼宮ハルヒとしてにんしきしている存在である。これをもって、約定を果たした」

「まだだ」

 藤原がきびすを返し、九曜をめ付ける。

「僕の望みは涼宮ハルヒの完全なる死だ。生かして連れてこいとは命じていない」

「───まもなく実現する」

 九曜は無機質な顔面に、わずかにしゆの色を上らせていた。

「この高度から地表に落下させれば、わくせいの重力加速度によって人間はめいしようを負う───。大質量物体のたいけん内では最も原始的な死をあたえられる。有機生体の生命を停止するための手段として、このやり方が最も自然現象にかなっていると判断する」

「なるほどな」

 藤原はにくにくしげではあったが、

えんなやりかただ。それがてんがい領域の考えだというなら尊重するさ」

 言ってから俺に向き直り、

「見ての通りだ、過去人。あの女を殺すことなどたやすいんだ。さあ、どうする? お前のせんたくを聞かせてくれ。涼宮ハルヒの命をこの場で消すか、それともあんたの親愛なる佐々木を新しい神とするか。さあ、どっちなんだ?」

 安いおどしだった。おまけに何てベタな演出なんだ。

 ふつふつといかりがき上がる。未来人も異星人もとことんアホウだ。こんなことで俺──ああーんど、ハルヒがどうにかできると思っているのか。だいたい、殺すだの死ねだの簡単に言いやがって、お前はキレたガキか。未来人がこんな有様だなんて、まったくもって人類の行く末に絶望しかできん。こんなろうに未来を任せられるか、クソ野郎が。

 俺をなめるな。現代地球人をなめるな。なによりも、ハルヒをなめるな。

「やめて」

 朝比奈さん(大)が悲痛な声で、

「意味のないこうだわ。カタストロフを望むの? それは航時法の中でも最大の重罪よ」

「望みやしないさ。だが僕は僕の時間線が存続するくらいなら、新しい時間を望む。たとえ僕自身が消え去ったとしても、そっちに賭ける。姉さん、あなたは残るんだ。いや、残ってもらう。僕の望むものはそれだけなんだからね」

 くっくっ、と藤原はあく的にわらい、

「九曜、この物わかりの悪い観客たちに、もっと理解できそうなしようちようを構築してくれ」

 無言の九曜は身じろぎもせず、ただハルヒに向けた目をわずかに光らせた。

 部室とう三階の外、中庭上空に浮いていたハルヒの体位が変化を始めた。上体が起こされ、足先が下を向く。代わりに両腕が持ち上がり、真横に伸ばされたところで固定された。ハルヒの背後から黒いかげのような物体がにじみ出るように現れ、見る間にそれは、どんな世界でも共通の単語で表せるであろう、じゆうを形成してかんりようする。

 この……やろう……何の茶番だ、これは……。

 暗黒の十字架にはりつけとなったハルヒがそこにいた。

 意識なく首をぐらりとかたむけ、じゆくすい中のように目を閉じているハルヒ。どこか苦しげに見えたのは俺のさつかくかもしれないが、これがハルヒの望んだ光景でないことは確かだ。

 ましてや藤原と九曜は、ハルヒの殺害を宣言している──。

 アホなのか、こいつらは。前世紀の三流マンガでもこんなわかりやすい悪役な手段をる能なしなんぞはいやしないぞ。たつけいに処せられた少女を前にえつひたる行為も三流なら、それを俺に見せつけてちようしようかべるのは三流以下のとうへんぼくだ。解りやすすぎてもはやギャグかスラップスティックの領域に達している。サムい。寒すぎるぜ藤原。お前にはたい演出や芸人の才能がない。よーく理解させてもらった。お前は、現在この時空に存在している生命体の中でぶっちぎりにド低能だ。けいそう植物にもおとる。

 しかし、ベタなだけにストレートな効果があった。あったともさ。

「ちくしょう……!」

 俺は開けはなった窓から身を乗り出し、手をばす。届くきよではない。それでもなお、俺はハルヒをつかまえたかった。きついてでもこの部室に引っ張り込みたかった。ほおたたき、目を覚まさせてやりたかった。

 なによりも、藤原や九曜がハルヒを好き勝手にしているのが許せなかったのだ。二人ともただで済むと思うなよ。絶対必ずパーフェクトにぶっ殺してやる。

 俺のぞうくるったそうぼうを正確に読みとったのだろう、藤原はちようはつするように、

「お前の最も大事な存在をこまにされた気分はどうだ? 今までお前がどう思っていようと、僕たちにとって最重要事象は涼宮ハルヒであり、それ以外の人間に存在価値などないのさ。お前がこれからどんな一生を送るかなど、興味もなく、意味もない。涼宮ハルヒに発現した力のみが、あらゆる事象を決するんだ。彼女の意志や無意識、それも異なるうつわに移送しさえすれば、涼宮ハルヒにももう価値はない」

 ギリギリと歯をみしめたおかげで前歯が欠けた。この野郎だけは絶対に許さん。

「待って!」

 痛切な声を発したのは朝比奈さんだった。

「あの涼宮さんが本物だという確証はないわ。あれは、げんかくかもしれません。キョンくん、あなたに決断をせまるための、視覚トリックだということもありえます」

「いえ、それはありません」

 古泉が断じた。

ほかだれだまされたとしても、僕には通用しませんよ。いわば、僕は涼宮さんの無意識が具現化した存在なのですからね。あそこにおられる、ねむれるひめのごとき涼宮さんは、げんえいでもクローンでもない、百パーセント純正の涼宮さんです。僕の、僕たちの、愛すべき団長その人ですよ」

 真実だろう。古泉が俺にうそかたるわけなんかないし、ここでハッタリをかますメリットもないはずだ。では、俺のすることはなんだ……!

「─────」

 九曜はだまっている。まるで誰かからの指令を待っているかのように。

「……あ……う?……あの……」

 橘京子はうろたえている。じようきようの急展開に頭がついて行けていないかのように。

こうしようにもならんようだな」

 藤原が落ち着いた、かくを決めきった黒い声でつぶやいた。

「涼宮ハルヒをきものとする。安心しろ、残りの業務は佐々木が引きぐ。お前たち過去人にとって、世界は何も変わらないさ。ただ、涼宮ハルヒきの生活をせいぜい楽しく送り、年老いて死んでいくがいい」

 本当にそうなのか? 何も手はないのか?

 俺は助けを求めて朝比奈さん(大)を見た。女教師ルックの大人版朝比奈さんは、うるんだ目をそっとせていた。先ほどの藤原との問答、姉だの弟だのがどんな意味を持つのかは解らない。どちらの言うことが正しいのかなんて、もっと解るはずがない。ただ藤原の目的は理解できたように思った。なら、朝比奈さん(大)のおもわくとはそれのなのか。それだけなのか?

 疑念のうずきに飲み込まれそうになった俺を現世にもどしたのは、せいりよう感をきわめた仲間の声だった。

「できるものならやってみてください」

 希望のはんげきは思わぬ人物から始まった。古泉が藤原の前に立ちはだかる。未来人のハルヒ殺害計画にかんぜんと反論するつもりのようだが、なぜそんなにゆうおもちをしていられるんだ。

 もしかして古泉、お前には何か策でもあるのか?

 言っとくが俺は今にも三階の上空から落下しそうなハルヒを見てとうてい冷静ではいられないんだぞ。

 小細工やわなける相談をする時間もなければ、アドリブもかませそうにない。くそ、くそ、くそ、情けなくて泣けてきちまう。

 ここで暴れてなんとかなるのだったらいくらでもそうするが、俺の数々の体験れきにはさえない男子高校生が暴力にうつたえても何の解決にも至らないと刻まれていた。せめてここに佐々木がいてくれたら、あいつの口車がたよりになっただろうし、長門が平常モードでいたら、九曜におそれをいだくこともなかっただろう。

 アドバンテージはあつとう的に向こう側にある。たじろいでこしが引けている橘京子は無視できるとしても、周防九曜、情報統合思念体の人型たんまつである朝倉や喜緑さんですら手を焼く、完全異質な宇宙人が藤原ときようとうし、今のこの部室をデンジャーゾーンに変えているのだ。

 歯がみしている俺の背を押すものがいた。

いばららわれている姫君を助けるのは、いつだって王子の役割ですよ。むしろ義務ですかね」

 古泉はかたをすくめ、

「もっとも、僕はしばられてじっとしているだけのお姫様に心当たりなどありませんが。ちがいますか」

 ああ。確かにねえな。だが古泉。まだ俺には藤原をぶんなぐるという大切な用が残っているんだ。

「それは僕がやっておきます」

 古泉のみぎてのひらの上にバレーボール大の赤くかがやく玉がかんだ。

「いま、ちよう能力マンガの主人公になっているような気分なんです。せっかくなので最後に僕にもかつやくさせてください。これが僕の夢がかなうラストチャンスになるかもしれませんのでね」

 うれしそうに言っているが、相当おこっているようだった。

 そうだな、ゆずってやるよ。たまにはお前も肉体労働に従事しないと身体からだにぶるだろうからな。

 古泉はぽんっと俺の肩を叩いた後、背を押すようにして俺をくるった空が照らす中庭側へエスコートした。

 まどわくから空中のハルヒまで数メートルの空間が広がっている。とうてい手をばしても届くきよではない。どうやってこっちに引っ張り込む?

 それとも──。

「九曜!」

 藤原のさけびが耳にさわる。

「やれ!」

 たん、ハルヒがじゆうのくびきから外れた。ふわりと頭がうなだれ、たつけいいましめを解かれた聖人のように、ゆっくりと、実にゆっくりと、頭を下にした落下の体勢をとっていた。直下にあるのは、中庭のいしだたみちていく。

「ハルヒ!」

 何の考えもなかった。後先も思い出も義務感も正義感もなにもない。必要ない。ただ俺は窓枠をった。宙をぶ。まるで羽が生えてでもいるようだった。だれかの見えざるようりよくに押されるように、俺は落下寸前にあったハルヒをき留めた。そして当然、地球の重力に従って、二人してついらくする。頭頂部から。

 ハルヒの身体は思いがけずきやしやだった。そりゃいままでしんけんに抱きしめたことなどなかったから、俺の知りようはずもないわけだったが、こうしてやってみても意外なほど、ハルヒは細く──軽く感じる。

 ただ温かく、やわらかいかんしよくに俺はこいつが本物だと実感した。高校二年生になったばかり、年相応の思春期真っさかりな少女にすぎない。

 それがねむひめの正体だ。今、俺のうでの中で目をつむりゆるい呼吸をしているこの女は、俺が死んだ後でもその名を歴史に刻み続けるだろう、涼宮ハルヒに何一つ違いはなかった。

 こいつは、本物のハルヒだ。九曜が出したまぼろしでも、誰かが用意したにせものでもない。藤原は俺のおどしのために、マジにハルヒを使ったのだ。

 本気だったってわけだ……。そうまでして、藤原。お前はやりたかったのか。朝比奈さんを失いたくない、というおんな未来じようきようへんりんを俺に教えてまで、ハルヒを死亡リストに加えようとしてまで、お前には達成すべき未来の姿が見えていたのか。

 だが俺に見えるのは目の前にいるゆいいつ人の姿でしかなかった。

 古泉、朝比奈さん(大)、すまない。俺の目にはほかには何も映らない。

 涼宮ハルヒ。

 俺たちの団長にして、君臨する部室の支配者。ごうがんそんで自信満々な楽天家。誰をもり回し、何をも乗りえてゴールへとき進む、リニアカタパルトで射出されんとするボウリングボールのような勢いの、俺のたった一人の上司のがおのみだったんだ。

 ああ。

 地上がせまってくる。ハルヒの身体は意識がないせいかぐんにゃりと柔らかく、少し熱っぽく感じた。古泉の言ったとおりだ。やや華奢のくせして出るところの出ている身体や、意外なほどのかたの細さ、いだことのある独自のほうこうは、俺が誰よりも知りいているハルヒだった。

 人間は高いところから落ちたら打ち所によっては死ぬ。ましてやこのまま重力加速度に従って真っ逆さまにげきとつしたら、石畳とハードランディングしたがいがどんな有様になるか想像するまでもなかった。

 少し早まっちまったかな? せめて下にマットをくなり、パラシュートを背負っておくべきだったか────。

 もっとも、反省する時間などないんだがね。俺に思いついたのは、自分をハルヒの下にもぐり込ませ、しようげきの負担をハルヒになるべくあたえないようにしようとする、ささやかなだけだった。

 大気を切りく音がを打つ。そろそろ地表にとうたつするころだろう。

 俺は目を閉じた。固く。

 俺はハルヒを抱きしめた。これ以上なく、固く。かたく。

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