β─11
金曜日。
俺の威勢(の良さは眠(りにつく、その瞬(間(までのようだった。
朝、妹による必殺フライングボディプレスによっての目覚めは至って最悪の部類に勘(定(できるだろう。目的地が解(っているというのに全然辿(り着けずあちこち走り回っている夢を見ている最中に強制覚(醒(を強(いられたおかげで、たっぷりの睡(眠(時間を経たにもかかわらず、起き抜(けたばかりなのに、すでに身体(が疲(労(困(憊(しているとはな。ほとんど眠って休んだという気分がしない。余計に疲(れただけのような気がするほどだ。
せめてオチまで見終えてから技(をかけて欲しかったぜ、我が妹よ。
「……あー……」
俺が半ボケした眼(のままベッドで上体を起こしたとき、かたわらにいたシャミセンは我関せずとばかりに枕(に頭を載(せてくうくうイビキを立てていた。布(団(の中か上に乗っていたら俺と同様に妹の餌(食(になってくれただろうが、猫(にすら後(れをとる人間様の不明を恥(じている場合でもなく、俺はパジャマ姿のままベッドを下りた。
やっと週末が来てくれたのはありがたいが、今日の放課後には今後の俺およびSOS団の命運を左右する出来事が待ち受けているはずなのである。寝(ぼけ気味から覚醒途(上(の脳(味(噌(でだって、そのくらいは覚えているさ。
ただ、本格的にシリアスな心境へと達するには肉体的精神的に、もっと明確な覚醒が必要だろうな。そう考えたら北高までの長い坂道は、格好の早朝ラジオ体操に匹(敵(する運動になるのかと思いつつ、いや小学生時代の夏休みにラジオ体操のスタンプをもらった途(端(即(座(に帰宅して昼まで二度寝の続きを貪(っていたことを考えると、長期休みに入っていないぶん、健康的と言えるのかもしれなかった。何で俺はあんな高校に願書を提出しちまったんだろうね。近場にそこそこマシな市立高校があったにもかかわらず、まったく中三時代の担任教師を今(更(ながら問いつめたい。大学進学率がどうのとかいうお題目にすっかり騙(されたぜ。
「キョンくーんー」
早寝早起きを習慣としている妹は、とにかく朝から元気だった。誰に似たのか朝が弱くてぐんにゃりと寝ているシャミセンを重そうに抱(き上げつつ、
「今日は大事な用事があるんでしょお? 昨日の夜、早めに起こしてねって言ったよ。起こさないと二度とゲームで対戦しないって言ったもん。そんなのヤダ」
まったく記(憶(にないが、今日が俺にとって特別な日になりそうなのは確かなことだった。学校でもなく、SOS団の活動でもなく、放課後になって高校を去り、佐々木とその他のうさんくさい連中との会合が待ち受けている。
「ああ……」
妹のこいつ本当に小学六年生かと疑うほどの幼い顔と、不器用に抱かれているシャミセンのあくびを見ているうちに、徐(々(に意識が鮮(明(になってきた。昨夜の佐々木との電話会談の概(要(が、眠っている間に整理整(頓(された頭にふわりと蘇(ってくる。
藤原との決着。
あの未来人は何のために過去に来て、九曜や橘京子とつるんでいるのか。
周防九曜との決着。
あの地球外生命体は、何のために長門を寝込ませているのか。
橘京子との決着。
朝比奈さんを誘(拐(したと思ったら、古泉を尊敬の念で想(う無害そうな似非(超(能力者は佐々木を本当の神にしたてあげたいのか。
俺のちっぽけな脳(髄(を悩(ます問題はまだある。
喜緑さんはただ観察しているだけで、たとえ天(蓋(領域が情報統合思念体に取って代わろうとしても、傍(観(者(である立場を貫(き続けるのか。
一時的に復活した朝倉涼(子(は、そんな事態の推移をただ座して動かないつもりなのか。
これまで何度も俺を過去へと誘(ってきた朝比奈さん(大)とは、もう二度と会うことがないのか?
古泉の勢力は? 多(丸(兄弟や、森(さん、新(川(さんたちはどうなるんだ?
「わからねー」
俺はガラガラ声でやくたいもないセリフを漏(らした。
今日、確実に何かが起こる。それも、今までにない巨(大(なイベントが放課後に待ち受けているのは間(違(いない。そのほとんどの問題が、今日で解決されりゃいい。夜になって風(呂(にでも入りながらうろ覚えの洋楽ソングを機(嫌(よく唄(っていたい。いや、そうならなきゃ噓(だ。
これで終わりにしないと、俺は延々と気に病んだり、部室でひとりぼっちの待ちぼうけを食らい続ける新二年生生活を送らなくてはならないような、そんな気がするのだ。
俺の居場所を奪(われてたまるものか。
一年生だったあの授業中、背後からハルヒの頭(突(きを決められたあの日から、俺の中にあった歪(んだ歯車はぴったりあいつに合(致(してしまった。運命? そんな単語は中性子星にでも放(り込んじまえ。ハルヒが望み、俺も望んだ、その結果が今という時間なんだ。
過去も未来も知ったことか。何よりも守らないといけないのは、現在の現実であって、仮定の未来や宇宙人の考える常識などではない。文句のあるヤツは直接俺に言いに来るか、メールか手紙でも寄(越(すんだな。もし俺より優(れた意見がそこにあれば、大いに参考にしてもいいさ。
だが、これだけは忘れるな。すべてを決定するのは俺だ。どんなに頭のいいヤツの論文だろうが、聡(明(なる天才の意見だろうが、俺が却(下(といえば却下なのだ。
うまいこと俺を納(得(させるには古泉クラスの根回しか、長門レベルの信(頼(性か、ハルヒ並みの問答無用さが必要だぜ。
この世で自分こそナンバー1だと信じる者、重々たる覚(悟(をもって現れるがいい。
しかし、これだけは言っておきたい。もしキミにそんな自信と覚悟があるのなら、自分の物語について考えるのが先だ。なぜなら、キミの周りに宇宙人や未来人や超能力者、ついでに異世界人がいないとは限らないのだからな。
人の心配をするより、まずは自分の周囲に気を配ったほうがいいぜ。これは俺からのささやかにして無責任な忠告にすぎないから、あくまで自己責任で頼(むぜ。
学校に行き、ちゃんと始業チャイムまでに教室の自机に着いているのは普(段(と変わらない、ひねもすのたり的な日常の範(疇(だった。
長門が欠席続きのせいで、真後ろの席の住人が始終そわそわしているのを除いてな。
ハルヒにとって長門の体調不良以上に気がかりなことなど、再放送アニメの予告編ほどもないようで、授業中もシャーペンの尻(をガジガジ嚙(んだり、教師から当てられた問題にまるで誰(かロゼッタ石を持ってこいと言いたくなるような謎(の文字列を板書したりと、アストラル界に精神を飛ばしっぱなしのような非集中ぶりであったが、そこはハルヒのいつもの奇(行(ということでクラスメイトたちは冷静にスルーしていた模様だ。ハルヒが完全にハルヒ的であることもたまには役にたつものなんだな。いいやら悪いやらだが、成績のよさが物をいうのかね。
放課後になるや、ハルヒはもはや俺におざなりな言葉を投げかけただけで、すぐさま教室を飛び出していった。おおかた朝比奈さんをとっつかまえて長門マンションまでクロスカントリーの下り坂訓練じみた勢いで走るつもりなのだろう。
長門の不在はそこまでのものなのだ。いつ行っても部室の隅(っこにちょこんと座り、静かに読書にいそしむ小(柄(な団員の姿がないというのは、それはもうSOS団の部活とは言えない。誰が欠けても成立しない、そんな間(柄(に俺たちはなっちまった。この一年を思い起こせばいい。俺や朝比奈さんや長門が複雑怪(奇(な事件に搦(め捕(られていたのは、そりゃそれでまあいいさ。そうではなく、むしろ蚊帳(の外であったハルヒにとっても、やっぱり仲間意識はすっかり強固になってしまっている。何故(か? それは解(らん。
あるいは野球大会だったのかもしれんし、孤(島(への旅行か、遊びほうけた夏休みだったか、コンピ研とのゲーム対決とか、しょうもない映画撮(影(で連帯感を感じた可能性、軽音楽部の助っ人やクリスマス以前の俺にまつわる入院事件であったり、冬休みの雪山で遭(難(したこととか、文芸部vs生徒会や───。
まあ全部かもな。いつの間にか、ハルヒは一年前のハルヒから大きく様変わりしている。身体的成長がどうかはかたくなに口を閉(ざしているが、精神面はあの頃(の勢いを残しつつ、だが少しずつ、確実に一歩一歩階段を上っているのは、いくら洞(察(力がガラパゴスゾウガメの全力疾(走(より鈍(重(だと自覚している俺にだって解るぜ。
俺の手やネクタイをつかんで引っ張り回すエネルギーはまだ有り余っているようだが、全身ハリネズミの針をロケットのように発射しまくるような無差別攻(撃(はすでに縁(遠(い。
少し寂(しくはあるがね。
しかし、それも長門の回復までの期間限定なのかもしれぬ。
ならば──。
と、俺は思うのだ。
早く片を付け、長門をアホな任務から解放してやろう。それが俺に調合できる、ハルヒと長門に対する何よりの特効薬になるはずだ。
「やあ」
自転車を不法駐(輪(し、いつもの駅前公園にやって来た俺を、佐々木が片手を振(って迎(えてくれた。先日同様の落ち着いた笑(み、皮肉を我(慢(して堪(えているような表情は、何年も前から変わらない佐々木オリジナルのものだが、黙(って微(笑(さえ浮(かべていればいいのに系の顔立ちは確かにハルヒと同種の匂(いがする。
ハルヒにしろ佐々木にしろ、もう少し男の付け入る隙(のような雰(囲(気(を醸(し出していればな──と思っていたのも今は昔の話で、両者に性別を超(越(した何とも上手(く言えないし言いたくもない奇(怪(な吸引力を感じるのは、俺が誘(蛾(灯(に吸い寄せられる虫みたいな習性を獲(得(してしまったからかもしれない。
どうもハルヒに出会って長門しかいない文芸部室に連れ込まれたあの日から、俺の目は他人とは違(う風景を映し出しているようだ。趣(味(が変わったわけではないと思いたいところだが、自分のことなどさっぱり解らないのでね。この手の分(析(は古泉か国木田にでも任せるさ。後でな。
今は、目の前にいる佐々木と両(脇(に付き従うように立っているそのお仲間について考えることが先だ。
二人の男女は、橘京子の小柄で控(えめな姿と、長身のくせに視線を低くして無表情でいる藤原の形をとっていた。自(称(超能力者の橘京子、未来人藤原。それと佐々木を合わせた三名が、待たせちまっていた全員らしい。
「九曜がいないな」
長門の件もあって一番用があるのはあいつなのだ。それとも目に見えないだけですぐそばに突(っ立ってでもいるのか? 俺の不(審(あからさまな表情を見て取ったか、佐々木が答えた。
「九曜さんとは連(絡(がとれなかった。目下のところ行方(不明中さ。もともとそういうところがあったからね、待ち続けてもいつ登場するか解らない。でもどうせ、必要なときには現れるよ。僕が保証する」
「そうなのか?」
俺は藤原に水を向けた。
「……ああ」
いつもは人をとことんバカにしているような藤原の顔だったが、なぜか硬(い表情に見える。真面(目(な──じゃないな。緊(張(しているような、思い詰(めているような、そんな面(構(えで、人を小(馬(鹿(にする例の冷笑が口元から霧(散(している。
「来るさ。あいつは」
藤原は固形物を吐(くような声で、
「必要な状(況(になれば必ず、どこにでも出現する。誰(が望もうと望むまいとお構いなしにな。ふん、異星人は余(裕(があって羨(ましいことさ。僕だって出来ればあいつとはこれっきりにしたいと思っているくらいなんだ。地球は異星人のものでも過去人、お前たちのものでもない。お前たちは僕たちの時間にとって、ありふれた生物の化石程度の価値しかない。廃(棄(場所に困るくらいのな」
……いつにも増してムカつくセリフで安心するね。おかげで気(兼(ねなくこいつを憎(たらしく思うことができるってもんだ。
「あの、あのー」
脇(から顔を出した橘京子が、俺と藤原の視線上にある殺意光線の間に入ってきた。
「タクシーを手配してます。すぐに出発しましょう。あ、あと、今日は来てくれてありがとう」
ぴょこんと頭を下げた、橘京子のつむじを眺(めていると、こちらはどうも憎めそうにない。彼女の組織にはよほど渉(外(担当者が不足しているようだな。いや、ある意味うってつけなのか?
ま、疑い始めていては二年はかかる。佐々木もいることだし、エネミーマーカーは藤原一人に付けておいてやろう。九曜の不在は俺の精神に有効だ。朝倉再々復活の心配がないからな。いや再々再だったか?
「では、こちらにどうぞ」
橘京子が新米バスガイドみたいな不器用さで先頭を歩く。
彼女のほうがよほど緊張していたようで、タクシー乗り場に停留していた車のドアを叩(く手も相当にぎこちない。驚(くべきことに、それは本当に客待ちをしていた民営タクシーだったらしく、運転手は開いたスポーツ紙を顔に載(せて夕(寝(をしていた。何度目かのノックでようやく目を覚ましたオッサンタクシードライバーが後部扉(を開き、佐々木、俺、藤原の順に後部座席に乗り込む。橘京子は助手席だ。
運転手があくびを嚙(み殺すような声で、
「どちらまで?」
「県立北高校までお願いします」
橘京子の言葉に、俺は初めて本日の目的地を知った。
「とんぼ返りかよ」
俺が胸中を漏(らすと同時にタクシーが出発し、俺たちは旅を道連れとする四人の同乗者となっていた。あらかじめ言っておいてくれれば北高で待っててもよかったんだぜ。
「僕もそう思ったさ」
藤原のセリフだ。
「何もこんな煩(雑(な手順を踏(まなくてもよかったかもしれない。だが、ふん。これもまた既(定(事(項(だったんだ。こんな些(事(でわざわざ冒(険(することもない」
「ふうん」と、佐々木が顎(を撫(でた。「既定事項か。つまり僕たち四人がタクシーに乗って北高に向かう、というのは未来から見て当然なくてはならない過去の歴史的事実なんだね」
「ああ」
藤原の返答は素っ気ない。それ以上は訊(くな、いや訊かれたくないという顔だ。
そこに橘京子が助手席から身を乗り出し、
「もう終わりにしたいでしょ? これは既定事項なんですから従うのがスジなのです」
俺を見て、
「ふふっ、あなたは未来人の既定事項にはいろいろ振(り回されてきたんじゃないですか。だったらこれもその一つですよ」
言い返そうと口を開きかけた俺の先手を取ったのは、意外にも藤原だった。
「黙(れ」
低いトーンの静かな一言だったが、妙(に腹に響(いた。特に橘京子には効果がてきめんだったようで、血の気の引いた顔で助手席に収まり、うつむく。
どんよりした空気を内包したままタクシーは走り続けていたが、どうも運転手は細かい機(微(などには無(頓(着(らしく、
「あんたら、高校生かい? 若いねえー」
などと訊かれてもいないのに話しだし、
「いやあ、うちの小せがれもこの春小学六年になったんだけどね。こいつがまた俺の子供とは思えないほど勉強熱心でいるのよ」
「はあ」
助手席という位置関係上、話し相手を務めざるを得ない橘京子が適当に相づちを打つのも構わず、話し好きとみえる運転手は格好の相方を見つけたとばかりに運転中、話し続けだった。
──小学六年生の息(子(が科学だかバケ学にハマってしまって難しいことばっかり言ってる。塾(にも通わせてみたが、程度が低いとか言ってすぐに行かなくなって困る。今は近くの高校生に個人家庭教師をしてもらっているが学校の成績はまったく伸(びない。でも、本人は勉強するのが楽しくてたまらないみたいで、時間があればノートに何かの数式や文字やら書き込んでいるが、ただの落書きなんじゃないかねえ。家庭教師は放任主義だし、まったく困ったもんだよ──
橘京子は「はい」とか「へぇ」とか「うーん」とか「なるほどー」とか気のない返答を繰(り返している。しゃべり好きの運ちゃんに当たったらこうなるのも運のよしあしだと思うしかなかろう。橘京子が手配するくらいなら自前のハイヤーだろうと考えていたおかげで意表をつかれるだけはつかれたものの、古泉機関と違(って財政状(況(が芳(しくないのかもしれない。喫(茶(店(でも領収書貰(ってたしな。それにしても、なんとなくどっかで聞いたような声と話しぶりをする運転手だなと一(瞬(思ったが、思い出すのも面(倒(なので、俺は両(脇(を挟(む二人の人間に集中力を傾(注(した。
ピリピリと前を凝(視(している藤原に、
「これは何かの罠(か?」
躊躇(うような一瞬の沈(黙(の後、
「罠なんかじゃないさ。ただの確(認(だ。僕だって意味など知らない。こうするものだと知っていただけだ。これは予定であり、結果でもある」
なぜ北高に行く必要がある。北高のどこだ。文芸部に行っても、とうに誰(もいないぜ。
「だろうな」
佐々木が行く必要はあるのか。
「あるから、ここにいる」
九曜は? お前にとってあいつが一番役に立つ存在じゃないのか。
「いずれ来場するさ。その時が来たらな」
短い応答の後、藤原は木像のように沈黙した。命を吹(き込まなければ鳴くこともない木(鶏(のように。
代わりに佐々木が口を開いた。
「純然たる好(奇(心(で質問するんだが、藤原くん。キミは自動車が苦手なんじゃないのかな」
藤原は沈黙中。
「キミの来た未来の世界がどうなっているのかは推測するしかない。でも、原油ベースの内燃機関を利用して推進力を得るような、こんな乗り物にはなじみがないんじゃないかな」
藤原の頰(がぴくり、とした。
「だったらどうだと言うんだ」
「どうもしないよ」
佐々木はやけに明るく、
「科学技術の発展は僕の喜びとするところだからね。未来には当然未来的な希望を持っていたいんだ。この時代、世界は様々な問題を抱(えている。キミの未来でそんな過去の愚(行(が解消されていることを望みたい。人は学び、学び続けるべき生命体だ。高度に発展した科学が人類の抱える破(滅(的な思想や技術を、快(刀(乱(麻(に解決していると思いたいね。どうだろう藤原くん。その程度の願望を抱(く程度なら、過去人にも許されると思わないかな」
「好きに望め。好きに願え」
藤原は険のある目を佐々木に向けた。
「お前たちのそんな希望が、未来を作ったんだ。そして、お前たち過去人の大それた過信もな。これ以上は…………ふ、さすがに禁則か。そうでなくともお前たちに教えてやるほど僕は寛(大(ではない」
「禁則事(項(……じゃないね」
と佐々木は応(酬(した。
「キミのいう、これは既(定(事項なんだろう? だがその意味を藤原くん、キミも知っていない。キミが知っているのは今日のこの時間に北高に行かなければならない、というあらかじめ設定されていた行動計画なんだね。そこで誰と会うのか、何が起こるのか、キミは知ってなどいないんだ。ただ、それが既定されていた過去だからという理由しかキミは知らない。だから答えようがないんじゃないかな?」
藤原は、くっくっと小さく笑った。
「さすがだ。そうでなくては我々の器(にふさわしい候補とは言えない。佐々木、お前にその資格があることを改めて確信したよ。涼宮ハルヒ以上の、お前はこの宇宙でただ一人の鍵(だった。すぐに自覚するだろう。いや、そのヒマもないかもしれんな」
佐々木は眉(を寄せて藤原の横顔をにらみつけたが、未来人はどこ吹く風とばかりに無視している。俺は不(穏(当(な空気にさらされていることに気づいた。
「器って何だ。初めて聞いた言葉だぞ」
「もうじき解(るさ」
俺に対してはとことんそっけない藤原だった。
「本来、お前はもう無用の存在なんだ。しかし既定事項に逆らうのは得策ではない。僕としても最小限に留(めたいのさ。だから、お前もこうして呼んでやったんだ。過去人唯(一(の目(撃(者(として、存分に傍(観(者(の立場を満(喫(したらいい」
よくもまあ下に見られているものだ。ちったあ反撃してもバチは当たるまい。
「よう、藤原。お前は自分のいた未来をどうにかして変えようとしているのか?」
沈黙。
「だとしても、そりゃ無理だろ」
俺は最初に朝比奈さんとの不思議探しデートで聞いた説明を思い返しつつ、
「時間ってのはパラパラマンガだ。いくら未来から過去に介(入(しようが、そんなものは決まった時間の一枚にイタズラ描(きするのがせいぜいで、未来には何の関係もないんじゃねーのか?」
沈(黙(。
「実際、お前が何をどうしたいのか知らんが、既定事項がどうのとか言ってるくらいだから知ってんだろうよ。だったらお前がこの時代で何をしようが──、」
「黙(れ」
鋭(い声が俺の耳に突(き刺(さった。殺意を秘(めた視線が付帯している。
「いいから黙っていろ、過去人。それ以上の妄(言(を吐(くと、僕の禁則は禁則でなくなるぞ」
ぞっとするほど冷たい声だった。藤原は本気だ。俺はやつの地(雷(を一つ踏(んじまったらしい。
情けないことに俺の凍(り付いた心臓が危機を訴(えていた。
さりげなく佐々木が俺の袖(をちょいと引き、無言の合図をしてくれなかったらそのまま藤原のペースでいくことになったかもしれない。サンキュー・フォー・テリング・ミー・佐々木。
後部座席三人組のこんな会話を運転手が聞いていたら、第三者からの面(倒(な質疑が始まるのではという危(惧(は杞(憂(のようだった。運転手は橘京子を相手にひたすら自分の子供話に熱意を傾(け、人がよくて聞き役に徹(している娘(と一方的に会話を弾(ませている。
多少は同情したものの、橘京子もSOS団とは相(容(れない敵方なんだよな。どうもそう思えなくなりつつあるのは決して籠(絡(されたからではなく、ちょっとの付き合いでも彼女の人となりが理解できたせいだろう。何より、佐々木が橘京子をまるっきり危険視していないのが大きい。佐々木は俺より聡(く、賢(く、そして人を見る目がある、と俺は信(仰(している。俺のそばに佐々木がいる限り、悪い方向に事態が変転することはありえないと考えていた。
それは正しいはずだったんだ。
タクシーが北高の校門前で停車し、後部扉が開く。橘京子が運転手に金を払(って、
「あ、レシートください」
という控(えめな声を聞いて、本日二度目の登校を果たした俺が、相変わらず開きっぱなしの鉄門の前に立つまで。
すでに空は薄(暗(く、しかし校内にはまだ部活の片付けをやっているらしい運動部たちの声がまばらに聞こえてくる。
「どうした。行くぞ」
藤原が先(陣(を切り、校内に足を踏み入れた。おっかなびっくりという感じで橘京子も他校の敷(地(に足裏を着地させる。俺はただ、なじみすぎの校舎を見上げながらごくごく自然に入門し、そして、数歩も進まないうちに立ち止まった。
「なんだ……。なんだ……これは?」
目を見開き、口も大開きにした俺は、呻(き声を上げていた。
空が───。
淡(いセピア調のクリーム色に染まっていた。
数秒前までの金星が光ろうとしていたような夕暮れ空が消え、自然現象ではありえない光に包まれている。柔(らかく、優(しい気配のする、穏(やかな淡(色(系のライティングが森(羅(万(象(を照らしていた。
俺はこの光を知っている。
かつて佐々木から喫(茶(店(に呼び出された俺が橘京子に誘(われて迷い込んだ、あの世界だ。
誰(もおらず、存在せず、ハルヒとは真逆の閉(鎖(空間……。
「!」
とっさに振(り向いた俺の条件反射も捨てたものではなかったろう。が。
無(駄(に終わった。
タクシーを降りた後、俺のすぐ背後にいたはずの佐々木がどこにもいない。タクシー自体もだ。
わずか数十センチしか離(れていない校門の内側と外側で、世界が一変していた。
俺が立っているのは、まるで無音の世界だ。さっきまで聞こえていた運動部の声も消えている。鳥のさえずりも、山から吹(き下ろす風の音も、何一つしない静(謐(なる空間がここにあった。
俺の目に映るものは、何一つ変わらない校舎と、上空から降り注いでいるセピア色をした間接照明のような光だけでしかない。
とっさに俺は校門にダッシュし、やんわりと押し返された。
「これは……!」
いつぞやハルヒと閉じこめられたときと同じ、柔らかな壁(が立ちはだかっている。それが意味するところは一つ、俺単体ではどうやってもここから脱(出(できない──。
「立場が解(ったか?」
背後から藤原の声が届いた。
「ここはもう、お前の世界ではない。今までの現実や常識とは手の離れた世界なんだ」
首をねじってみた先に、藤原の陰(鬱(な悪党顔があった。その横に橘京子の気を揉(むような姿がなければ、俺はこの未来人野(郎(の顔面に正(拳(突(きを見(舞(っていたことだろう。こいつには俺の自制心が天(井(知らずであることを感謝してもらいたいほどだ。
「礼を言えばお前は満足するのか?」
「……罠(か」
精(一(杯(の呻きを漏(らした俺に、
「それはどうかな」
藤原ははぐらかすように言って、俺に背を向けた。
「僕たちはまだ最終目的地にたどり着いていない。さあ、行こうじゃないか。すべての決着をつけるために、僕たちの未来のために」
藤原は横顔だけで歪(んだ唇(を見せつけた。
「佐々木には感謝しなければならない。ここまでお前を連れてくることに成功したのは、アレのおかげだ。もっともアレは自分がただそれだけのために動かされていたとは気づいていなかっただろうがな。ああ、そんなに怒(るなよ。彼女にはこれからも働いてもらわないといけないことがある。その用が済んだら、自由の身にしてやるさ。そうしたら好きなだけイチャつけばいいだろう」
やっぱり殴(ろう、と俺が決心しかけた時、藤原は見(越(したような口調で、
「では行くか」
どこへだ。この閉鎖空間内で、いったいどこに行こうと言うんだ。
「決まっているだろう?」
藤原は顔を上向け、
「お前たちが根城にしている、しょぼくれた小部屋にだ」
ヤツの視線の直線方向に、文芸部室があることをその目を見ないでも理解できた。
だが、なぜだ。いったい、あの部室に何があるんだ?
「知っていたと思っていたがな」
藤原の言葉が至近から聞こえる。
「あそこがすべての元(凶(なんだ。あらゆる勢力が集(い、混じり合い、互(いに影(響(し合って未来への鍵(になっている。いや、楔(と言うべきかもしれない。そこには、ありとあらゆる可能性が存在し、同時にまた、ありとあらゆる可能性への進展を妨(げている。促(進(と停(滞(のプロセスが同時に実行されている場所なのさ。まあ、旧人類には解るまいが」
ああ解らん。解ろうとも思わん。
しかし、どうして誰も彼もが俺たちの部室にこだわるんだ。廃(部(寸前だった文芸部に一人でいた長門。それに目を付けたハルヒ。クリスマス前に改変された世界で俺がたどり着いた最終目的地。ほんの隙(間(から滑(り落ちた栞(。旧式のパソコン。そろった鍵。エンターキー。過去に遡(った俺が行き着いた夏の夜。七月七日。
そして、かつて古泉が放った言葉。
──あの部室ならとっくに異空間化していますからね。何種類もの要素や力場がせめぎ合い打ち消し合って、かえって普(通(になっているくらいです。飽(和(状態と言ってもいいでしょうね──。
あれは本当だったのか。
「橘」
ようやく俺は、藤原以外にもツレがいたことを思い出した。
「あ……はい。え?」
「お前は知ってて俺をここに連れてきたのか」
「……いいえ、あたしは……」
まともな回答が期待できそうにないのは解っていた。橘京子は俺と同じくらい、今の状(況(を飲み込めていないようだ。暑くもないのに一筋の汗(を垂らし、意味なく両手をハタハタさせているところから読みとれる。
ということは、これは藤原のシナリオだ。そしておそらく、背後に九曜がいる。
藤原は悠(然(と歩を進めた。一本道のRPGを進むように我が校の敷(地(を踏(みしめ、昇(降(口(へと向かっていく。施(錠(の確(認(すらせずガラス戸を開き、そのまま土足で侵(入(する藤原の後を追いながら、俺は理(不(尽(な怒(りに捕(らわれていた。
確かにこの高校については今まで散々悪態をついてきた。駅前から長々と続く上り坂に、決して豪(奢(とは言えない古びた校舎は創立時によほど予算を切りつめたのだろうと推測できる。エアコンも完備されていなければ壁もスカスカで、夏は暑いわ冬は寒いわで、褒(める点と言ったら山の緑に囲まれている野性的な自然と、夜になって見下ろすことのできる夜景の光源くらいだが、それでもこの北高は俺の母校なんだ。
ハルヒや朝比奈さんや長門や古泉や谷口や国木田と過ごす、俺の日常の大半を占(める空間なのである。そんな俺のテリトリーに遠(慮(なく侵入する部外者を見て、心安らかでなどいられるものか。
ましてや藤原は俺たちの敵だ。なんでそんなやつに俺が付き従わねばならない。理(屈(など知ったことか、俺のムカツキは天井知らずに高まっていた。
なにより情けないのは、こいつの言うとおりにしないといけないということだ。今の俺は何をしていいのか解らない。ここでダダをこねて問題が改善するならいくらでもそうする。しかし、もはやそんな場合ではないらしかった。
藤原が何をしようとしているのか解(らない以上、罠(だろうがなんだろうがそれに乗るしかない。
ここは佐々木の閉(鎖(空間なんだ。古泉も侵入できない。そして長門は病(床(にある。ハルヒと朝比奈さんが長門の看病を捨て置いて颯(爽(と登場することなどもっとありえないだろう。最悪なのは、当の佐々木すら俺の横にいないってこった。あいつが自分の作る閉鎖空間内にタッチできないらしいのは、以前の喫(茶(店(の出来事で明らかだった。
藤原、橘京子、俺、だけの三人が佐々木製閉鎖空間に存在する全員だ。周防九曜がいないのも安心材料にはならない。あいつは見えないだけでどこかにいるはずだ。長年超(常(現象に晒(され続けた俺の勘(がそう言っている。薄(く淡(い光に包まれた校舎のどこかに、最も的確なタイミングで登場するために待機しているに違(いない。
──つまり。
俺は周りを完全なる敵に囲まれ、反(撃(の糸口すら見いだせないでいるのだ。
藤原が首をねじり、俺を敗者を見る目で、
「さあ、行こうじゃないか。それとも、ここで目と耳をふさいでうずくまりでもするか? なんなら背負ってやってもいいぞ。無料サービスだ」
「うるせえ」
行ってやるさ。俺たちの部室、文芸部兼(SOS団の部室をそうそうなめるな。あっこは俺たちの日常空間だ。いつだって、あの場所に行きさえすればなんとかなった。
長門はいないが、鍵が隠(されているかもしれないし、思わぬ何かが発現するかもしれない──。
藤原と橘京子は、すでに校内を歩き始めている。俺がついて来ようが来まいがどうでもいいといった風(情(だった。なにくそ。無視するんじゃねえ。あの部室は俺たちのものだ。俺とハルヒと長門と朝比奈さんと古泉の帰るべき場所なんだぜ。他(の誰(にも先(陣(を切らせてたまるものか。
俺は笑いがちでカクカクする膝(を気力で奮い立たせ、二人の後を追った。