α─11
もう金曜日か。
この一週間はやたらといそがしかった気がするな。ハルヒの新入団員試験から始まり、ヤスミがたった一人の後輩(に決定しただけだというのに、なんだか二週間分の人生を過ごしたような気がしている。やはり例の未来人男や橘京子と九曜とかいう天(蓋(領域製の宇宙端(末(、そして佐々木と偶(然(のように出くわしてから、どうも気がそぞろになっていかん。
むしろ不思議なんだ。あれだけ物語チックな出会いを果たしたというのに、ここまで何の接(触(もないってのは逆に変なんだよな。普(通(ならそこからまたいつものバタバタが始まってもいい頃(なのに、なしのつぶてってのはどうにも解(せん。
ひょっとして、俺の知らないところで長門や古泉、朝比奈さんたちが暗(闘(しているのかもしれない。ハルヒに平(穏(な生活を送らせたいと考えているのは三派ともに共有する目的にして手段だから不思議ではないが、ううむ、俺に一言もないというのはどういうこった。ここに来て俺は部外者扱(いになっちまったのか? まあ俺がのこのこ出て行っても役に立たないどころか人(質(になっちまうかもしれんから、連中が配(慮(するのもしょうがないとは言え……。
てなことを考えつつ、汗(を拭(き拭きやっとの思いで北高昇(降(口(に到(着(した俺は、機械的かつ習慣的な動作で自分の下(駄(箱(を開けた。
「ぬう?」
ずいぶんと久しぶりな物体が、揃(えた上(履(きの上に載(っていた。
何かのマスコット的なキャラがプリントされたカラフルな封(筒(。宛(先(の名は俺。そして、裏に書いてある差出人に違(いない文字は、
『渡橋ヤスミ』
と、読めた。
ここで記憶を呼びさまそう。こんなことは今まで幾(度(もあった。最初は朝倉で、やつの目的は俺の殺害処分だった。次が朝比奈さん。しかし朝比奈さんでも大人バージョンのほうで、重大なヒントをくれてすぐにいなくなった。その次も朝比奈さん(大)だ。わけもわからず指示に従っているうちに別種の未来人からイヤミを言われただけで終わった。
散々経験してきたものだから、下駄箱のアナログなメッセージが俺への桃(源(郷(の入場パスでないことは熟知している。
ただ、今度ばかりは事情が異なっているように思えた。なんせ相手は入団したての一年生で、どっからどうみても無害そうで明るく能動的な女の子、それも高一とは思えないほどの背(丈(と体格に合っていない無(邪(気(そうな少女なのだ。昨日の自宅訪問といい、ずいぶん積極的なヤツである。
「こいつは……」
積年の夢が叶(うときが来たのかもしれないぞ。後輩の女子から舞(い込んだ、本気のラブレター。俺にもとうとう春が来ようとしているのだろうか。
──初めてあなたを見たときからあたしはあなたに一(目(惚(れをしちゃいましてだからSOS団になんとか入ろうと懸(命(にがんばったんですよぉ──。
「バカか俺は」
とりあえずつぶやいてみたものの、何をどう考えてもあの元気な後輩が俺にモーションをかけてくる理由が思い当たらない。
おまけに、この手の呼び出しにひょこひょこ乗っちまうと、たいてい日常とはほど遠い展開が待ち受けていると相場が決まっている。蘇(る顔は二つ。さて、今度はどっちだろう。迫(り来る危機か、特上の微(笑(か。
「さて」
いつまでも下駄箱前で突(っ立っていたら誰(に目(撃(されるか解(らない。ハルヒや谷口に見られたらややこしいことになりそうだ。
俺は素(早(くトイレに駆(け込み、封(を切った。出てきたのはトランプカードみたいな紙(片(に、急いで書いたような走り書きが一行だけ、
『午後六時、部室で会いましょう。来てください。ねっ!』
と、あった。
何ともコメントし辛(い。一言で表現すると、まあ、怪(しいよな。
もはや懐(かしい朝倉の一件が脳(裏(に浮(かばざるをえないではないか。しかし、俺の本能はまるで危機意識を発生させることもなく、警(鐘(の一つも鳴らしていない。朝っぱらから山登りを強(いられたことで特に研(ぎ澄(まされてもいない感覚が告げるところによると、これはどちらかと言えば朝比奈さん(大)寄りの呼び出し文だ。基本的に俺は自分自身をまったく信用していないが、たまにはマイ勘(を信じてやってもいいんじゃないか?
とは言うものの、石橋は叩(いておくに越(したことはない──か。
ホームルーム前の一コマである。
「ところでハルヒ」
「何?」
「ここに自分ではどう判断すればいいのか解らない問題があったとする」
「へぇ、勉強の話?」
「そのようなもんだと思ってくれ」
「少しは向学心が芽生えてきたみたいね、キョン。団員のやる気をアップできたかと思うと団長として嬉(しいわ。んで、その問題、まず自分で考えてみようとしてみたんでしょうね」
「もちろんだとも」
「調べたら解ることなら、さっさと調べなさい」
「資料があるような問題じゃないんだ」
「はぁん? 数学なの? だったら、その問題の解き方を知らないといけないわね。何の公式?」
「いや、数学じゃない。ついでに言うと、俺が知りたいのは解き方じゃなくて答えだけなんだよ」
「夏休みの宿題を丸写しする小学生じゃあるまいし、それじゃ学んだことにならないわよ」
「別にいいんだ。出題者の考えが解ればそれですむ話なんでな」
「なんだ、現国なの。それを先に言いなさいよ。この文章を書いた時の作者は何を思っていたのでしょうか、とかそういうやつでしょ」
「それが一番近いかな」
「くだらない問題だわ。小説でも評論でもそうだけど、文章なんて何が書いてあるかが問題なんであって、筆者が何を思って書いたのかなんて出題者が本人じゃない限り解るわけないじゃない。正解があるんだとしても、そんなの答案に○×をつける人間の気まぐれか思いこみでしかないもの。その手の問題はこう改めるべきね、この文章を読んだときの私は何を思ったのでしょうか、それならまだ問題として納(得(がいくってものよ」
「いや、そこまで踏(み込まなくていいんだ。この場合、書いたヤツと出題者は同じなんだ」
「なら簡単よ。すぐに解けるわ」
「是(非(教えて欲しいね」
「それはね、」
ハルヒは鼻先を俺にぐっと近づけ、輻(射(熱(を放っているとしか思えない圧力笑(顔(で、シンプルなコメントを発した。
「書いた人間本人に直接訊(けばいいのよ!」
そして昼休み、俺は谷口と国木田と弁当箱を置き去りにして行動に移した。
ハルヒの言うとおりだ。解らないのならアレコレ悩(む前に解っているヤツに教えてもらえばいい。そいつしか真意を知らないのならなおさらだろう。本人に問いただせばあっさり片づく。口を割らせる必要はあるが、大立ち回りをしなくとも、そうそうややこしいことにはならんであろう。なんせ相手は一学年後(輩(の素直そうな少女だからな。
というわけで、俺はヤスミの姿を求めて一年のクラスが密集している校舎をうろうろしていた。
六時に会おうと言っている手紙を無視して乗り込むのはマナー違(反(かもしれないが、とにかく気になるんだからしかたがないと思ってもらうしかないな。万が一にでもナイフの餌(食(になるかもしれない可能性がある限り、俺は自分の勘などいくらでもトイレに流して捨てる所存である。
と、意(気(揚(々(としていた俺の足がふと止まった。
「あいつ、何組だったっけ?」
入団試験の解答用紙に書いてあったはずだが記(憶(にない。あんときゃ風変わりな回答と名前のほうに気を取られていたからな。
「昼休みに来たのは失敗だったか」
昨年度まで慣れ親しんだ廊(下(や教室の風景も、新入生たちが群れているとまるで別世界に来たようだ。上(履(きに入っている色が違(うだけなのに、異なる学年の教室を覗(き込むのはやはりというか緊(張(する。おまけに下級生だって見慣れぬ二年がいちいち室内を見て回っているところを眺(めて気分のいいものではないらしく、何だか希少動物を見る目をしているような感じさえ受ける。
ヤスミを発見したらすぐに声をかけて人気のないところに連れ出そう。多少誤解を受けるかもしれないが、一応は同じ部活じみたものの先輩後輩なんだし大(丈(夫(だろ。しかし──、
「……いねえな」
肝(心(のヤスミがどこにも見えない。チビっこい姿形が逆に目立つはずなのに、まるで目に留まらないのはどういうことだ。もしや学食派かと思い食堂まで出向いてみたが、こちらも空(振(りに終わり、そうこうしているうちに俺の空腹が限界に近づいてきた。こうなりゃ根比べだとばかりに一人気を吐(きつつ、学校中を彷徨(ってみたもののまったくの無(駄(足(で、ついに俺は天を仰(いだ。所はまさに中庭であり、目の先にたまたま文芸部の窓があったのは偶(然(だろう。
まさかな。
俺は矛(先(を部室に向ける。わざわざあんなところで弁当を食うヤツがいるとは思いがたいが、ひょっとしてということもある。しまった、ならば俺も弁当持参で出発すべきだったか。
放課後、ハルヒとともに開けることになるであろう扉(を開いた先には、長門がいた。そして長門だけだった。この当たり前すぎる結果を目(の当たりにした俺は、長門に片手で挨(拶(するとすぐさま置きっぱなしの弁当箱の元へトンボ返りしようと身を翻(しかけ、直後に停止した。
解(らないことを尋(ねるにはうってつけの人材がここにいるじゃないか。
「…………」
いつもの隅(っこ椅(子(で本を膝(に載(せ、読書に励(んでいる長門は俺の闖(入(にもマツゲ一本すら不動状態であり、確たる日常がこの空間で停(滞(していることを教えてくれた。昼休みの部室で黙(々(と本を読みふける少女に静(謐(で平(穏(なアトモスフィアを感じるのは、そいつが地球外生命体の有機生命体だと知っていなければ、ごく普(通(の光景でもあろう。
そうではないことを知っている俺は、一(旦(弁当箱の中身のことを忘れることにして、長門に話しかけた。
「長門」
「なに」
まずは水を向ける。
「あいつは何者だ」
「何者でもない」
さすが長門、俺が問題文の主語にしている人物を一(瞬(で把(握(したらしい。だが、それにしたって、
「そいつは言い過ぎだろう。渡橋ヤスミという、一(般(生徒じゃないのか」
「そのような名前の生徒はこの学内に存在しない」
この返答には瞬間たじろいでしまった。物理的にではなく精神的に半歩ほど。
存在しない? ってことは、えーと……。俺の頭がマルチタスクで回転する。
あ、そうか。
「偽(名(だな。どこかの誰(かが北高生に成りすまして放課後だけ侵(入(してるってことなのか」
「その認(識(で合っている」
やれやれ。やっぱり渡橋ヤスミは一(筋(縄(ではいかない出自をお持ちのようだ。いや、だいたい解ってはいたさ。明らかに変だったもんな。ご都合主義な展開には必ず人(為(が働いているのはどんなに荒(唐(無(稽(な小説でも当然のプロットだ。
で、どの勢力の手先なんだ? 第一候補に挙がるのは……。
宇宙人か。
「違う」
未来人?
「違う」
超(能力者……でもなさそうだな。その感じだと。
「そう。違う。そして異世界人でもない」
丁(寧(な念押しは長門らしくない物言いだ。そこに引っかかるより先に俺の未知なるものに対する探求心が口を開かせていた。
「じゃあ、ヤスミはちょっと行動がかっとんでいるだけの変な女なのか。モグリの北高生ってだけの」
長門は文字の詰(まった見開きのページから顔を上げ、初めて俺に目を向けた。黒(飴(に金(箔(を散らしたような、思わず吸い込まれそうな瞳(だった。
腹式呼吸とは縁(遠(そうな細い声が、
「何とも言えない。今は」
なぜ。長門が保留の条件を出してくるなんて初めてではなかろうか。さらに、
「そのほうがよいと判断した」
「何だって?」
反射的に返してしまい、ツッコミ失格だと反省しきりだ。でも、俺だってTPOくらいはわきまえているつもりで、別に俺は長門と面(白(フリートークをしに来たのではない。驚(いたのはただ一つの事象に関してである。
長門が主張した? 俺に?
これは──天変地異の前(触(れかもしれないな。
「今、俺に言わないほうがいいってな、誰の判断だ。統合思念体か?」
「良い結果を生む公算が高いとした推論はわたしのもの。時と場合、限定された空間においては、無知であることが有効に作用する可能性がある」
なぜだろう、褒(められてるような気がしない。なんとなくいつかの意(趣(返しをされているんじゃないかと俺の居(心(地(悪さがリミットに達しようとしたとき、救いの手がポケットに入りっぱなしだったことを思い出した。
そのブツはもちろん、渡橋ヤスミからのラブレター未満の呼び出しメッセージである。
「で、この手紙なんだが……」
ヤスミに断りもなく見せるのは気が引けたが、そこまでの義理はあいつにはまだない。
長門は興味もなさそうにチラリと一(瞥(したのち、あっさり告げた。
「行ってかまわない」
本当か? そりゃ。
「彼女はあなたに害意はない。むしろ──あなたの役に立ちたいと考えていると推測できる」
思わず唸(ってしまった。実を言うと俺もそんな気がしているのだ。
ハルヒの理(不(尽(な入団試験をことごとくパスし、めちゃめちゃ陽気に跳(ねるように歩く一年生。だぶついた制服をもてあましたように身にまとい、部室の雑用からハルヒのサイト改造注文まで楽しげにこなす、ちょこまかとした癖(毛(でどこか幼げな少女には、愛らしさ以外の他(の感想を抱(くことはなかった。こんな後(輩(がいたらいいなという、まるで理想像だ。怪(しさを覚える俺の脳(髄(が間(違(っているとしか言いようがない。
ただ一つ、下(駄(箱(に入っていた封(筒(の件を除けば、という条件付きで。
その後、何を聞いても「そう」か「違う」としか言わなくなった長門に別れを告げ、俺は教室に戻(った。直後に休み時間終(了(を告げるチャイムがなり、まったくやれやれ、結局、昼飯は喰いそびれちまったさ。放課後に部室で喰(うか。
幸いなことに、ホームルーム後のハルヒ教授による勉強会は、新入団員が決定したおかげで免(除(となっていた。俺とハルヒは肩(突(きあわせて、とうの昔に形(骸(化した文芸部の部室にハエ取り紙に付着する羽虫のような勢いで赴(くものである。そろそろ飽(きが来てもいいほどのルーティーンな行動だが、新参者が加わったとなったら俺の心も多少は揺(らめくというものさ。
だが、相変わらずの蹴(飛(ばすような勢いでハルヒが開いた扉(の中にいたのは、旧式部員であるメイド姿の朝比奈さんと、昼休みから一ミリも動いていないんじゃないかとさえ思われる長門の読書姿だけだった。女子二名で俺の唯(一(のよりどころたる数少ない男子古泉がまだ未(到(着(なのは、特にそれほど気にならない。どうせクラス委員とかにされちまって同じクラス委員の女子とピロートークでもやってんだろ。SOS団なんぞにいなければもっとモテまくっていいヤサ男だし、俺たちに気取られないように学園恋(愛(ゲームを楽しんでいるのだとしても、あいつなら尻尾(の一つも出さないだろう。要領のよさではSOS団随(一(と言ってもいいほど頭のキレる男だからな。
っと、思考がズレかけたところで、気づいた。
「新人はまだか?」
ヤスミの小さな姿も見あたらなかった。自分の学校からこちらに向かっている最中なのだとしたらやむを得ないが、この手の本人責任による行軍遅(参(には人一倍厳しいのが涼宮ハルヒ団長閣下なのでござるぜ。
「あ……」
朝比奈さんが自分の不(手(際(を詫(びるように、両手を合わせて、
「今日はお休みなんだそうです。自分の人生にとって一か八かの賭(をしないといけない大切な用事があるんだって、放課後すぐに来て、帰っちゃいました」
俺の眉(がぴくりと動いたのをどう取ったか、朝比奈さんは弁護人にしては感情過多な口調と身(振(りで、
「本当に急いでいるみたいでした。何度も何度もお辞(儀(して、とっても申し訳なさそうにしてたんですよ。早退に続いて二日目も欠席なんて人類失格ですよね! って言いながら、うるうるした目であたしを見つめて……ああ……もう……」
頰(を染めた朝比奈さんは、また自分の身体(を抱(きしめてくねくねを始めた。よほどその時のヤスミの様子が可愛(くてたまらなかったと思われる。
「小動物みたいな瞳(があたしを見るんです……! か、可愛かったあ……」
朝比奈さんの臨場感溢(れる一人芝(居(を見つつ、俺はどういうことかと考えていた。
ヤスミの用は本日午後六時、この場所での会合に違いない。俺を相手に、あいつは何をするつもりなんだ。だいたい、それまでどこにいるつもりなんだ。校舎のどこかで身を潜(めているところなのか? 適当にでも部活に参加して時間つぶしするわけにはいかなかったのだろうか? 謎(の少女であるヤスミがすることは、なるほど本当に謎だらけだ。
これがハルヒの勘(気(を被(らなければいいがと思っていたら、
「あたしは昼休みに聞いたわ。食堂に行く途(中(で」
ハルヒは団長専用椅(子(にどっしり腰(を下ろし、鞄(を乱雑に床(に置いた。
聞いたって、何をだ?
「今日の部活は休みますってさ。せっかく正団員にしてもらったのにこんなバカですみません、って、含羞(草(みたいにペコペコして、半分泣きかけだったわね」
とことん低姿勢な元気少女のヤスミの姿を想像しつつ、俺があれだけ練り歩いて見かけなかったヤスミとそんな簡単に出会えるルートもあったんだなと思いながら、
「理由は訊(いたのか」
「あのね、キョン。あたしはそこまで無(粋(な人間じゃないわよ。そこまでツッコんで根ほり葉ほりするほどのピーピングトムじゃないの。それに、SOS団に入ったことを後(悔(してフェードアウトしようとしているふうでもなかったしね。本当に、たまたま偶(然(、どうしてもしかたない用事ができちゃったんでしょ。これでもあたしは部下に寛(大(かつ寛(容(な精神で接するのがモットーなの」
その割には俺に対するそのモットーとやらが十全に発揮されているとは思えないね。
これ以上の会話が不毛であると悟(った俺は、テーブル机に鞄を置いて、いつものパイプ椅子に座ろうとして、そこで初めて、部室内の風景における違(和(感に気づいた。
団長机の後ろ、窓際に見慣れない物体が置かれていたからである。
俺の視線に気づいた朝比奈さんが、つきたての餅(のような柔(らかい口調で、
「お休みするお詫びにって、ヤスミさんが持ってきました。さっき」
さっき? よく俺たちとすれ違(わなかったな。まあ、それはいいが。
正体は陶(製(の細口の花(瓶(だ。窓(枠(にちょっと載(っているそいつには、一輪の瀟(洒(で綺(麗(な花が挿(してあった。
ハルヒも振り返って花をしげしげと眺(める。
「見たことのない花ね。これ、ヤスミちゃんが持ってきたの?」
「はい、はい」
と、朝比奈さんがこっくりうなずき、
「面(白(いと思ったので持ってきましたって、言ってました。昨日、あれから近くの山に入って採ってきたんですって。絶対珍(しいものだから部室に飾(ってくださいって、まるで宝物を渡(されるようにあたしに……」
昨日か。俺が帰宅したらすでにヤスミが先回りしていた。そこから山に入ったとしたら、かなり暗くなっていたはずである。山というのがお馴(染(みである鶴屋山なんだとしたら(というかこの近辺にはあれしかない)、街灯などの人工的な明かり一つない暗(闇(をヤスミは単身彷徨(っていたことになる。高校一年になったばかりの少女の行動としては相当に危なっかしいと思うぞ。
「……んー」
ハルヒも腕(組(みをして花を注視していたが、
「ま、いいでしょ。面白いものを持ってきなさいって出題したのはあたしなんだし、ヤスミちゃんにとってこれはとっても面白いものなのかもしれないわ。そう! こういうきめ細やかなフォローをしてこそ、SOS団新入団員の心意気ってものよ。あたしの入団試験問題はズバリ! 的確な資格選別になったみたいね。フォーマットを後世に残しておけば、たとえあたしたちが卒業してもふさわしい人材確保に困ることはないと言っても過言ではないわ」
そりゃどうかねえ。ハルヒ流SOS団試験が有効化されるのは俺たちが卒業してからなんじゃないかな。現時点での入団資格はハルヒの減点法ふるい落としに最後まで残ることが条件で、ハルヒは本心では新入りなど欲(していなかったように見える。偽(らざる胸のうちを白状すると、俺は決して、ハルヒがヤスミを心から歓(迎(しているようには思えないのだ。いろいろあって長いつき合いである。ハルヒの考えなど、ちょっとした眉(毛(の角度から視線の向きですぐ解(るようになっていた。もともと感情がそのまま顔に出るタイプだけに、その程度ならすぐ読める間(柄(なわけで、俺のハルヒ観察術が弾(き出した回答は、ただ一つ、戸(惑(いだった。
つまりハルヒは、渡橋ヤスミに対して何やら複雑な評価軸(を持っており、未(だ解答を出すことができてないらしい。朝比奈さんほど単純でない何かを感じ取っているのだと推察できる。
実は俺もなんだがな。ポケットにはヤスミの手紙が収まっている者としては、あやつがSOS団にどんな思(惑(を持って入り込んできたのか、あやふやにして怪(異(の一種と言えよう。
一方で、朝比奈さんはめったにないほどのふわふわ上(機(嫌(で、いつもより足取り軽くお茶くみに精を出している。明るく活発でとことん素(直(そうな同性の後(輩(ができたことが嬉(しくてしょうがないみたいだ。
思えば俺やハルヒ、長門や古泉は言うに及(ばず、彼女にとって決して良い後輩とは言えなかった。言えるわけなかろう。横暴なるハルヒ団長を始めとして、無口無反応の長門、堅(苦(しい慇(懃(さを常備する古泉なんぞに囲まれていたら先輩風など吹(かせる余地なんかあるまい。俺にしたって、ついつい忘れがちになるが、朝比奈さんはあれでも最高学年なんである。あまりの可愛さに未だに中学生としか思えないとは言え、ヤスミはさらに幼く見えるし、やはり二学年も下の女子生徒には格別の思いがあるんだろうな。明日からどんなお茶の淹(れ方指導をしようかと、わくわくほわほわしている朝比奈さんを見ていると俺の心の奥に積み重なった澱(みがみるみる解消されていくようだったが、そんなSOS団マスコットガールをいつまでも凝(視(し続けているわけにはいかない理由が俺にはあった。
朝比奈さんの淹れてくれた謎(の薬草茶をすすりながら、ちらりと腕(時(計(を見る。
ヤスミが指定した午後六時にはまだ時間があるな。さてと、部活終(了(後にまたここにとって返す算段を今から考えておかないと、と考えていると、
「やあ、どうも。遅(れてしまいましたね」
ニキビ治(療(薬のCMタレントのように清(々(しい笑(みを顔面に張り付かせた古泉が登場した。
「春先はどうも雑事が多くて困ります。今年度の生徒会長はやり手でしてね、教員との折(衝(も少なくない頻(度(で行われているのですよ。無視していてもいいんですが、文化部の統(廃(合(といった議題なら、出ないわけにもいきませんからね」
訊(いてもいないのに古泉はさりげなく自分の労力をアピールしながら部室に入り込み、鞄(を机に置くと、テーブル上の中国将(棋(の盤(面(を気にするわけでもなく、窓(際(に歩を進めた。
「ほう。これはこれは」
探求心に彩(られた声で覗(き込んだのは、例のヤスミ持参による一(輪(挿(しの花だった。
「この花は、誰(のプレゼントですか?」
「ヤスミちゃんですって」
ハルヒは空の湯飲みをつんつんつつきながら答える。それを見て、朝比奈さんは慌(てたようにお茶を点(て始めた。今度は普(通(の茶が飲みたいね。
古泉は顎(に手を当て、まるでトリフィドを見るような目で花と細い花瓶を観察していたが、
「ちょっと失礼」
ブレザーのポケットから携(帯(端(末(を取り出し、花を撮(影(し始めた。何枚もカシャカシャしていたが、やがて得心がいったのか、さらに携帯を操作して、どうやらどこかに送信した模様である。
「どうした古泉」と俺。「まさかそれ、トリカブトかジギタリスなんじゃねえだろうな」
「いえいえ」
ポケットに携帯を滑(り落とした古泉は、安心させるような笑みで、
「毒草ではありませんよ。見たところ蘭(の一種だとは思ったんですが、ちょっと気になったもので。いえ、僕の思い違(いでしょうけどね。念のためです」
この後、長門は上下巻からなる厚いノンフィクションを読みふけり続け、朝比奈さんはまたしてもどこかから入手してきた謎の味がするお茶を俺たちに振(る舞(い、ハルヒは新生SOS団サイトをひたすらいじくり回していた。ちなみにハルヒのネット的初仕事となったのは、BBSの半ばを埋(め尽(くすスパムのURLを残らず踏(んづけてブラウザをクラッシュさせることであった。
なんとかフリーの最新アンチウイルスソフトとアンチスパイウェアを導入し、一通り対処し終わった頃(には、すでに下校を推(奨(するメロウなイージーリスニングが校内スピーカーからなり始めていた。
約午後五時半といったところか。
タイミングよく、長門が本をパタンと閉じ、その読書終了を合図に俺たちは帰り支(度(にかかる。俺だけはアリバイ工作の、半ば演技だがな。まずこの部室から全員を撤(収(させなければ、ヤスミとの一件が始まらないんだ。
一同で校門を出て、学校脇(の坂道を下っている最中のことだ。俺は一世一代の大(芝(居(を打つ決心をして、いささか自分でも唐(突(なのは解(っているが他(に思いつかなかったセリフを発した。
「あ! しまった!」
何事かと先行していたハルヒと朝比奈さんが立ち止まって振り返る。長門と古泉が足を止めたタイミングが寸(分(違(わなかったのは、まあ、そりゃそうだろうか。
「教室に忘れ物をしてきちまった。急いで取ってこないとなあー」
若(干(、棒読みくさかったのは否(めない。しかしハルヒは、
「何よそれ。教科書だってろくに持って帰らないあんたに忘れ物を心配する必要なんてこれっぽっちもないと思うけど」
いつもならその通りだし、実際そうなんだが、この時はハルヒを納(得(させる理由が必要だった。
「いや実は」
一応用意していたセリフを諳(んじる。
「谷口にエロ本を借りていたのを思い出したんだ。それを机の中に置きっぱなしにしてきちまった」
「はあ?」とハルヒの眉(が急速につり上がる。
「まさかとは思うが、誰かにみつかっちまったらヤバい。今から速(攻(、取ってくる。ああ、お前らは先に帰ってていいぞ。これがまたスゴい貴重なエロ本でな、すでに発禁、絶版になってる稀(覯(本(なんだよ。もし没(収(されたりしたら俺は谷口に一日三度は五体投地礼しなければならんことになる。なんとしてでもそのエロ本を回収しないとこの先俺は谷口のパシリと化すだろう」
ハルヒの啞(然(顔、古泉のニヤケ面(、朝比奈さんのきょとんとした顔に次いで、長門と目があった。わずかにうなずいたような気がしたが、黙(視(する限りではミクロン単位だっただろう。
なんか後ろめたいな。もっと違うイイワケにすりゃよかったかな。
「そういうこったから、俺は教室に戻(る。往復にゃけっこうかかりそうだから、待ってなくていい」
それだけ言い捨て、俺はきびすを返した。ほぼ競歩の速度で坂を上り始める俺の背に、ハルヒの声が追いかけてきた。
「乙女(の前でエロ本とか言うな! バカキョン!」
誰(が乙女だって? ああ、朝比奈さんには明日にでも謝っておこう。そうしよう。
夕暮れと宵(闇(の端(境(期(にある時間帯は校舎にもグラウンドにも人(影(は少なく、俺は誰一人ともすれ違うことなく部室に直行することが出来た。ドアを開ける。
「来てくれてありがとうございます。先(輩(」
やや暗色の混じったオレンジ光の夕日に染まった部室で、ヤスミが俺を待っていた。
昼休みにあれだけ探して見つからなかった少女。この高校の生徒ではないと長門が断じた謎(の女。その可愛(さから朝比奈さんを虜(にし、しかしハルヒは妙(に扱(いづらそうにしていた新人団員一号──。
いたずらっぽい表情に焼きたてマシュマロのような柔(らかい笑(みを浮(かべ、ヤスミは嬉(しそうに、
「きっと来ると思ってました。信じていたんです。こうなることを。信じたいんです。これから起こることを」
意味不明な謎かけにはスルーが一番だ。
「俺に何の用だ?」
まずはそう言ってみる。こいつはハルヒの団員選(抜(に最後まで残った。そんなヤツが訳なし人間のはずはない、という俺の予感は正しかったに違いない。
「これから何が起こるんだって?」
ヤスミの返答は軽(やかな笑い声だった。
「あたしにも解りません」
なんだと?
「でも、もうすぐ解るはずです」
ヤスミはふんわりした髪(を揺(らした。スマイルマークの髪留めの模様が、満面の笑みを浮かべているように見えたのは角度のせいだろう。
ヤスミは俺を見つめ続け、俺もヤスミの顔から目を離(せないでいた。
そのままどれだけの時間が経過しただろう──。
誰かが部室のドアをノックする音が聞こえた。