第七章 2

β─10


 木曜日。

 考えることが多すぎる割には、何を考えていいものやら見当がつかない。

 俺に出来ることは、と指折り数えてみても、折ることの出来る指など右手の人差し指一本きりで、結局のところだん通りに登校して、普段通りに上の空状態で授業を受ける、ただそれだけだ。

 そしてどうやら、ハルヒもまた俺と同じ心境を共有しているらしく、始業時にはすでに心あらずと言った具合に、意識のほとんどを長門の部屋に残してきているようだった。

「ねえ、キョン」

 一時限目が終わって休み時間になるやいなや、ハルヒはシャーペンの先で俺の背中をつついた。

のことなんだけど、やっぱり無理矢理にでも病院に連れて行ったほうがいいかしら」

 長年いつしよに暮らしていた家族同然の小型犬が散歩をきよしたかのような、深刻な顔つきだ。

はる風邪かぜだろ。そこまでいくと過保護としか言いようがないな」

 合いの手を入れる俺の心もやや痛み気味である。こうせい物質や栄養てんてきで何とかなるじようきようでないのは俺にはよく知れたことだからな。

「でもねえ。なんだか気になるのよ」

 と、ハルヒはシャーペンのしりをカコカコと押していた。無意識の行動だろう。俺は無意味に押し出され長くびていくしんの先をながめながら、

「古泉が言ってたろ? いざとなりゃ、ごういんにでもかつぎ込めばいいさ。でもな、」

 俺は息を吸い込み、次のセリフのための準備時間をかせいだ。

「当の長門ご自身が平気だとおっしゃっているんだぜ。あいつがたいばんを押したことで、今まで違っていたものなんざあったか?」

「それは……そうなんだけどさ」

 しかしまだ、ハルヒの顔に差す疑念の色は金星の見えないうすぐもりの明け方のように晴れない。

「何だがむなさわぎがするの。有希のことだけじゃなくて……んー、うまく言えないんだけど、もっとスケールの大きいことで、変な事件が起きそうな、そんな気分」

 なぞの病原体が地球全土に広がって古いSFみたいなパニック映画の世界になるとでもいいたいのか? 俺がガキのころに観たテレビ映画ではそんなのがやたら多かったが。

「そこまで大げさじゃないわよ。あんな古くさい世界観は今の世の中じゃ流行しやしないわ。火星人がめてきたり、生物兵器がれて人類めつぼうの危機なんて、そんなの今の人生にいやが差したカタストロフ願望のある自殺志願者の弱気がそう思わせているだけよ。そういう連中は自殺する勇気もないもんだから、全人類まるごと死んじゃえばいいと思っているにすぎないの。甘えよ、甘え」

 SFの大家が聞いたら苦笑いしそうなコメントを発したハルヒは、つんと鼻先を反らして、

「あんたに相談したのが失敗だったわね。どうせそんな的はずれなじようだんモドキしか言わないと知ってたのに、あたしももうろくしたものだわ。いいわ、キョン。忘れてちょうだい。いえ、忘れなさい。あたしの考えはあたしだけのもので、誰かと共有しようとしたのがちがいだったってわけよ。それだけは認めざるを得ないようね」

 そっすか。ま、俺には独創性のあるうそストーリーを構築する能力がけつじよしてるってのは自覚してるから、いまさらハルヒにてきされたところで何らつうようを感じんさ。アホであることをじゆうぶん認識している人間に、おまえはアホだと言ったとしてもしつしようを返されるだけなのだ。つまり、今の俺がそうだ。

 そんな会話の後も、ハルヒはどこか上の空で、午後の授業が終わるまで、まるで肉体はただのがらと言わんばかりに精神を教室から遠くはなれた場所に飛ばしているような無反応さをぜんそうめいそう修行のように続けていたが、終業のチャイムが格好の目覚まし時計になったようで、すみやかに幽体と合体したらしい。

 あわただしく通学かばんかたにかけると、

「あたしはみくるちゃんと一緒に有希のとこに行くから。ああ、あんたは別にいいわ。部室にいてちょうだい」

 個人的にも長門や朝比奈さん不在の部室に何の用もありはしないが。

 ハルヒはわずかに目をつり上げ、

「新・入・団・員!」

 げんな水鳥そっくりの口の形をして、

「来るかもしれないでしょ。そっちのフォローをお願いね。古泉くんならともかく、あんたなんかが有希のおいに行っても役に立たないし……」

 少し言いよどんだハルヒは、だが言わずばなるまいと思い返したか、

「むしろ有希の病状が悪化しそうな気がするの。まるでやくびようがみね、キョン。女の子の部屋に男がズカズカ入り込むなんて、それも病気で弱ってる時なんて、何だかきようだわ。だから、あんたも古泉くんも来なくてよろしい。部室の番をしておいて。それもれつきとしたSOS団の仕事のうちよ」

 こうして団長じきじきていよく留守番を命じられた俺に、ほかに出来ることなどあるだろうか。

 考えてもみよう。これから俺が立ち向かわねばならないのは、まずは九曜だ。あいつとその親玉が長門を不調にしている原因なのだから、その根本的要因を取り除かない限り事態はいつまでたっても好転しない。

 もう一つは、ふじわらの存在だ。これまでけむに巻くような皮肉しか耳にしていない気がするが、あのしよう未来人と九曜がなんらかのつながり、あるいは同盟関係にあるのは疑いの余地がない。橘京子は察するにそうほうに利用されているだけだろう。こちとら、だてに古泉と長々と顔をつきあわせてはいない。橘京子は宇宙人と未来人の向こうを張って立ち回るには、相当に役者不足だった。朝比奈さんゆうかい事件でのめの甘さでもそれがわかる。気の毒だが彼女は古泉の敵にもならない。ただの雑魚ざこキャラだろう。ただし、何らかの役割を本人にも気づかぬままあたえられているこまなのだ。軽視は禁物だが、橘京子その人にはきようはないと言っていい。

「……やっぱ、佐々木なんだな」

 小声でつぶやいたつもりだったが、

「何か言った?」

 デビルイヤーのハルヒがさとくも俺の独り言を聞きつけた。

 不機嫌そうな表情は長門を心配してのものだろうと判断し、俺は気軽に両手を広げた。

おおせの通り、今日は部室で待機しておくさ。入団希望の一年が来たら適当に相手をしておくから心配すんな。たぶんお前がいないほうがかんゆうには効果的だと思うぜ」

 ふん、とハルヒは鼻を鳴らし、

たのむわよ。何かあったられんらくしなさい。こっちからも連絡するわ。気が向いたら。じゃっ!」

 何事もばやい行動をモットーとするハルヒは、強力なそうに吸い込まれるねこの毛のような勢いで教室を出て行った。

 あいつはあいつで長門が心配でたまらないのだろう。俺もだ。

 ただし俺とハルヒでは心配の手段と目的が異なるというだけのことである。俺は俺なりに、ハルヒはハルヒなりに、長門をおもんぱかっている。どちらが正しいというわけではない。正答などありはしないのさ。

 しかし、ハルヒも俺も答えを見つけようとしている。そして今、どちらがかくしんに近いと言うならば俺のほうだ。

 俺だってとっくに走り出してしまいたかったんだ。でも、その役目はとりあえずハルヒが肩代わりしてくれた。では、俺がなすべきことは何なのか。

 待つことだ。それはいずれやってくる。決して遠い未来ではない。九曜のしゆうげきあさくらの復活、みどりさんの横やり……。

 すべてはふくせんちがいない。時間のがいねんがよく解っていないような宇宙人三人組が同時に現れたのは絶対にぐうぜんではない。あれらは予兆だ。俺だけに解るへんなメッセージなのだろう。

 まもなく動き始めるはずだ。だれがそうしなくても俺が動いてやるさ。そして動かしてやる。

 きっと佐々木も同じことを考えている。その予感はあいまいな思いつきをえて実感として俺の中にあった。

 長門は何も出来ないかもしれない。

 だが、俺にはハルヒがいて、佐々木もいた。

 未確定で内実不明とはいえ神レベルだと関係者どもが言い張る現代人が二人。この人類そうへきがあれば、異星人たんまつも不良未来人もへっぽこちよう能力者も、そうそう手出しはできまい。もっともいつさいがつさいがどれかの勢力がしゆうとうに用意したトラップの可能性もある。だが、どんなに高い可能性だろうと笑い飛ばして無しにするのがハルヒであり、どんなに低い可能性だろうとつきつめて思案にふけるのが佐々木だ。

 俺は自分の思いつきにきようした。ハルヒと佐々木。この二人が真面まじに手を組めば、本当に宇宙を支配できるのではないかという発想がけ出したメタンハイドレートのように胸の内にいて出る。でも、そんな事態は永遠に来ないだろう。きっとハルヒが望まない。そして佐々木はいつしように付して説教を開始する。そんな彼女たちの表情を、俺はまざまざとげんすることができたんでね。

「よっと」

 部室に向かうべく、最低限の荷物しか入っていない学生かばんかたに引っかけ立ち上がったところで、同じくさっさと帰宅のこうとしていた万年帰宅部のたにぐちの姿が目に入った。

 現在の俺のおうのうに役に立つ人員ではないが、降ってわいたぼくな疑問が口を開かせ、

「おい、谷口」

「ああー?」

 谷口はめんどうくさそうにり返る。そっとして置いて欲しい的なオーラを発散させてはいたし、俺もそうしてやりたいところだったが、こいつはこいつで重要なサンプルなんだ。当人は知るまい。自分が地球外生命の人型有機生体と誰よりも長い時間を過ごしていただろうことを。

「九曜について、きたいことがあるんだ」

 言った途端、谷口のツラからあらゆる表情が消え、リビングデッドでももう少しは元気だぜと言いたくなるほどのけんたい感を思わせるオーラを全身にまとわせつつ、

「……キョンよお。そいつに関しては忘れて欲しいし、俺も思い出したくないんだ。あの一時期の俺はどうかしていたんだ。思い出すと死にたくなる。と言ってもほとんど覚えていないんだが、きっと自分の鹿さ加減におくえ切れねえんだろうな。だから、そいつの名前を俺の前で出すんじゃねえ。明日の朝一で教室の窓から飛び降り自殺をはかっていたら、お前のせいだと思ってくれ」

 そう感と徒労感をミキサーでかき混ぜたような谷口の暗い顔には同情するにあまりあるが、それでも俺は問いつめざるを得なかった。情報のためには心をおににしなければならない時だってある。そしてへこむのは谷口であり、こいつの精神が一時的にげんすいしたところであっさり元の脳天気的悪友にもどってくるのはアカシックレコードを参照しなくても明白な事実だと俺は確信していた。

「クリスマス以降、お前は九曜とどんな過ごし方をしていたんだ。デートくらいはしたんだろ?」

「まあな」

 谷口の目は過去の歴史を彷徨さまようように、どこにもしようてんが合っていない。

「向こうから声かけてきてつきあうようになったってのは話したな。クリスマスのちょい前だ。あの通り、あんまりしやべらないし無表情丸出しで、どういうやつだか最初はわからなかったが、ほらよ、なんせ美人だったしなあ」

 思い起こせば確かにそうか。俺は不気味なオーラを感じるあまり容姿にはとんと注目していなかったが。

「で、だ」と谷口は続ける。「年末から年始にかけて、二人で色んなところに行ったさ。健全な高校生カップルが行きそうなところにはたいていな。俺からさそう場合がほとんどだったが、あっちから行き先を指定することもあったぜ」

 地球外生命体の人造人間が求める場所とはどこなのであろう。長門の場合はぐうぜん連れて行った図書館がお気にしたようだが、別種の宇宙人の興味はいかなるものなのか。

 俺のアカデミックな疑問など知りもしない谷口は、

「定番だったさ。映画に行ったり、飯いに行ったりとかだな。周防すおう……ま、あいつはちょっと変わってたな。ファストフード店にやたらと行きたがった。こっちだって金ねーから好都合だったが、変なしゆだとは思ったもんだ」

 クリスマス前からバレンタインの間には二ヶ月はあったろう。どんな会話をしてたんだ。もっとも九曜がそつせん的に話題を振ってくるとは思えないが。

「そうでもなかったぜ」

 意外な答えを谷口はよこした。

「無口は無口だったが、たまにスイッチが入ったみたいに話し出すことだってあったぞ。それも、あっちからな」

 九曜が自発的に話し出すだと?

「ああ。実はあんまり覚えてはいないが、ねこを飼いたいとは言っていたな。猫は人類よりすぐれた生き物だとよく主張していた。そっから人間に対する猫の有効性だかなんかを延々二時間くらい聞かされたが、途中でそうになった。あとは小難しい話題が好きだったみたいだな。人類の進化についてどう思うか、とか訊かれて、お前ならどう答えるよ? それも一億年単位でだぞ。知るかっつー話だぜ」

 九曜がじようぜつに喋っているところを想像してみる。無理だった。てんがい領域のたんまつは気まぐれなのか、それとも会うたびに中身が入れわっているのかどちらかだろう。

「でも、それでもお前はしようりもなくつき合ってたんだろ?」

「おおよ。逆ナンしてきた女なんて生まれて初めてだったしな。それに……まあ……美人だったし……」

 結局それか。顔がいいってのは男でも女でも得だな。多少は電波さんでも許される余地がある。こと若者のれんあいで最も重要なのは見てくれなのかよ、と俺が絶望しかけたとき、

「そんなつき合いもいつしゆんで終わった」

 たいで悲しみの演技をことさらおおぎようにする男役のように、谷口は天をあおいだ。

「約束の時間に走っていった俺に、待っていたあいつの第一声が『ちがえた』だ。何を、とか言い返すヒマもなかったぜ。気づいたら姿が消えていた。それっきりさ。こっちのれんらくは完全無視、あっちからはかんぺきゼロ。しばらくもんもんとしていた時間がバカみてえだ。俺は振られちまったんだよ。さすがにそんくらいは解るさ」

 それがバレンタイン前か。今年の二月。俺と古泉が必死になって山をり返したり、近未来からきた朝比奈さん(みちる)たちとすったもんだし、藤原や橘京子とはつかいこうげていた、あの冬の事件。知らないところで谷口と九曜のどうでもよさそうな物語が進行していたとはな。

 しかし谷口談話を聞くところによると、ずいぶんとけなやつらしいぞ、周防九曜。

 もし九曜がハルヒのクリパ計画より前に俺にせつしよくしていたら、あの散々苦労したハルヒ消失と長門のあれこれに、さらにめんどうな一件が加わっていたかもしれない。九曜が俺と谷口を間違えてくれて幸いだった。四年前の七夕に時間移動して事件を解決するまでで俺はこれまでの人生のほとんどすべての勤労よくを使い切ったと言っていい。その間、九曜の相手をしてくれたことに関しては、谷口に感謝しなくてはならないな。

「もう話は終わったか」

 俺が考え込んでいるふうだったので、谷口は通学かばんかたにかけ、そくてつ退たいの構えだ。

「ああ」

 俺は晴れやかな顔で応じた。

「谷口」

「何だ、その気色悪いツラは」

「お前、自分では解ってないかもしれんが、実はスゲェ奴なんだぜ。俺が保証してやる」

「はあ?」

 俺の精神状態を心配してくれたのかもしれない。谷口は気の毒そうに、

「おめーにんなこと言われてもうれしかねーな。涼宮に浴びせりでもくらって脳天がイカレタか? それともついにやっちまったか、ああ?」

 しかし谷口は、一瞬そっぽを向かせた顔をすぐにもどし、悪友らしいがおかべた。

「だがよ、そいつはおたがい様だぜ。キョン、お前だってただ者じゃねえさ。あんなイカれた部を一年も続けてんだからな。涼宮のおり、卒業までちゃんとこなしてくれよな。なんたって、あいつにはお前しかいねーんだからよ」

 らしくないセリフを言っちまったと思ったか、谷口はどこか照れくさそうな表情を俺に見せまいとするかのように、ダッシュで教室から出て行った。

 順当に年次が進めば、俺と谷口は共に同じ卒業式で『仰げば尊し』あたりをうたうことになる。そのころにはお互い、卒業後の進路が決まっていたらいいものだな。

 特に同じ大学に行きたいとは思わんけどさ。高校でのくさえんを最高学府にまで引っ張るのは、どうも新しい出会いをがいする要因としか考えられない。新たなるかんきようでは、やはり新たな人間関係があってしかるべきだろ。それが後の人生に良いこととなるかどうかはわからないが、俺はそう思うのだ。いつまでも同じ集団でいるメリットはあんまりなさそうでもあるしな。

 しかし、ハルヒはどう思っているのだろう。

 我らを率いる団長にして、神のごとき存在の、涼宮ハルヒは。



 谷口とのなごやか、かつ快活な会談を終えた俺は、いつもの習性で部室に向かった。

 行ったところで古泉しかいないと解っているとモチベーションもダダ下がりというものだが、団長命令であってはしかたがない。万が一にでも入団希望の新一年生がいたりしたら一大事件だからな。俺としては後々ややこしいことになりそうな新入団員などまったくほつしていないが、みすみすもののがしてしまったことをハルヒに知られた日にはややこしいを通りしてぼうりよくになりかねず、その結果、いたずらに傷が増えるのは俺の首から上にほかならないだろう。

 だれかから聞いた言葉がある。宝くじに当たる確率はたまたま乗り合わせた飛行機がついらく事故を起こす確率よりも低い。きっとSOS団に入団希望者が来る数字はもっとわいしような数値でしかないに違いない。この高校には公営カジノも飛行場もないしな。

 そんな確信を持って部室のとびらを開いた俺は、内部にいるひとかげを見て、一瞬たたらをんだ。

「え?」

 疑問形の発音を生み出したのは俺の口ではない。俺が言うより先に、そして俺がとうちやくするより先に部室にいた人間のものだ。

 まどぎわに立っていたがらな女子、ばやり返ったそのむすめは、たいに合っていないぶかぶかの制服を着て、ややパーマネントなかみにスマイルマークみたいな髪留めをつけた、見たこともない一年生だった。うわきに入っている色で年度が解る。というか、どっからどう判断しても年下で、なぜかその印象はきようれつなまでに俺の精神にくさびとなって打ち込まれた。最初に朝比奈さんと出会った時以上の、それはせんれつな確信だったが、どうして一見して俺がそう思ったのかは解らない。

「あ?」

 と、これは俺の間抜けなリアクションだ。見ず知らずの女子がだんいつものメンバーしかいない空間にいたら、そのくらいの一文字発声くらいは許されてもいいだろう。

 しばらくまりなちんもくおとずれると思いきや、その少女の反応は早かった。

「あ、せんぱいっ?」

 元気よく笑顔で言われても困る。俺には後輩とにんしきする女に心当たりがないのだ。

 しかし、その娘は、居住まいを正すように直立すると、深々とおをし、さっと顔を上げたと思ったら可愛かわいらしく舌を出して微笑ほほえんだ。

ちがえちゃったみたいです」

 何を? 何を間違えたんだ? 訪れる部活動の仮入部しゆう所か? 文芸部だったら間違いどころでなく大正解だが、あいにく長門は留守だ。

「いえ、違うんです。ここSOS団ですよね? そっちは間違ってません」

 俺が反応するより早く、その娘はミニガンのような口調で、

「もともと来るつもりだったんですけど、ズレちゃいました。あ、ここの先輩とは初めましてになるんですね! フフ、でもまあいいです。これくらいの間違いは大したことじゃないです。先輩、ここであたしと会ったこと、覚えてても忘れてもかまいません。どっちだって同じなんです。いやもう、あたし、うっかりうっかりさんでした! だいたいややっこしいんですよねえ。こんなかんちがいもありってことで許してください。どうせすぐに解りますからっ! 解らない事態になることはないですからっ! でも、もし変なじやが入っておかしなことになっても、決してあわてたり感情に流されたりしないでくださいねっ! それだけは約束してください。約束です。約束しましたからね。いいですねっ! ねっ!?」

 いや、ねっ、と言われても俺は棒立ちでいるしか対処のしようがないのだが。

 その少女が古泉がせいてんかんして女装した姿と考えるには、まるで遠い存在だった。ハルヒでもなく、朝比奈さんでもなく、もちろん長門でもない。それ以外の北高一年女子が文芸部室にいる存在事由とはなんなのだ。おまけに一方的に意味の解らない主張をフランスにしんこうしたエドワード黒太子が率いるロングボウ隊のようにばやり出されたとしたら、なすすべもなく守勢に回るしかないではないか。しかし、この押しの強さ、なんだかどこかの誰かに似ているような──。

 と考えているうちに、少女はだぶついた制服のそでひるがえし、俺が開け放していた戸口にねるような足取りで移動していた。

 ──おい、待て。

 くらいのことは言いたかったんだがな。相手が一歩早かった。

「それでは、先輩」

 彼女は振り向きざま、海軍式の小さな敬礼をして、

「また会いましょうっ! ではっ」

 にゆうな笑みだけを残し、ふいっと部室からけ去った。不思議と足音を聞いた覚えがない。まるでろうに出たたんあさもやのように消えてしまったかのようだった。

「…………」

 俺がぼうぜんとしていたのは何秒? あるいは何分か。

 やっと気を取り直した俺は、窓際に小さな細口のびんが置いてあることを発見した。昨日まではなかった物体で、そのとう製の花瓶には、一輪のしようしやな花がしてあった。

 見たことのないれいな花である。さっきのなぞの少女が持ってきたものに違いない。朝比奈さんにもそんなゆうはないだろう。花の正体も気になるが、それよりあのはなんだったのだ?

 俺に対してやけにれ馴れしい態度と、何やらしやべり散らかしたと思ったら春一番のようにそく退散したところから考えて、ハルヒや長門、朝比奈さんがここに来ることはないと明確に理解していたのは確実だ。

 つまり、あいつは俺に用があったのか? まさか花を部室に設置するためだけにしんにゆうしたとは思えない。

 いや、待て。本当に入団希望者だったのか。見たとこ、一年生のようだったし……。

 にしてはやけにものじもせず人好きのする少女だったな。せめて古泉が来るまで足止めしておくべきだったか。

「いや……」

 そつこうで帰っちまったのは、あえて古泉と顔を合わせたくなかったからだろうか。

 だとしたら、あいつは俺に用があったのだ。


 ──また会いましょうっ! ではっ。


 でも、何の? いつどこで、俺はあの娘と会うことになるんだ?

「わからねえ」

 ただでさえてんがい領域と長門、九曜や佐々木、いけすかない藤原未来人兄さんや橘京子といった対SOS団同盟たちとのイザコザをかかえている俺である。この際他の謎人物の相手までは気が回らない。

 まったく、俺がもう一人欲しいぜ。まつな事態はそいつに任せて、俺は俺に課せられた公式を解かなければならないんだからな。いざという時に古泉に加勢をたのむとしてもだ、いくらあいつが『機関』とやらの組織力をバックボーンにしていても、宇宙人と未来人相手では荷物が重かろう。同様のくつつるさんもきやつだ。九曜はタチが悪すぎる。たいこうできるのは今や喜緑さんか朝倉しかいないが、長門と違って情報統合思念体の一派でもあの二人は信用にあたいしない。俺たちが無様に失敗してもだまってながめているか、「だからいったでしょう」なんてちようしようされるのがオチである。そんなん、俺じゃなくてもムカツクだろ。なあ?

 俺は乱雑に学生かばんを机に投げ出すと、パイプを引いてこしを下ろした。

 テーブルの上には古泉が用意していたらしいしようもどきみたいなこまばんが整然と置かれている。

 ルールがさっぱり解らない盤面を眺めているうちに、いつしか夕暮れとなり、校内のスピーカーから学内退去を命じる『シルクロード』のテーマが流れ出していた。

 本日のSOS団営業は、俺一人だったか。古泉すら欠席とはな。何かあまりいい予感がしないが、そこは学生の本分はさんくさい部活よりは学業に決まっている。古泉もそろそろ進路に向けてしんけんに考える時期になっているのかもしれない。あいつのことだから、卒業後もハルヒの後を追いかけていきそうだが、かんじんのハルヒはどこの大学に行くつもりなのか。

 いや、それ以前に、俺たちより一年先に卒業する朝比奈さんのあつかいはどうなるんだろう。愛らしいせんぱいに代わるお茶くみメイドな後輩がやってきて、それがまた未来人だったりするのか?

「まずいな。来年のことを考えるとおにならぬ人の身では、とうてい笑えそうにねえ」

 さびしく鞄をかたにかけると、俺は無人の部室を後にした。

 一人きりでだれもいない部室が、まるではいきよとなってうち捨てられた田舎いなかの病院とうの一室のように思えるなんてな。

 これほど感傷的になったのは、たぶん高校入学以来初めてだ。俺らしくない。いつぱん的な高校生男子としてはつうのことかもしれないが、なにせ俺はSOS団の一員であることが毎夏うるさく鳴き始めるセミと同じくらいへん的な習慣になっちまってるからな。

「くそ」

 自然に舌打ちが出た。まるで、自分の精神が誰かに乗っ取られているような気分だぜ。



 その夜のことだ。佐々木から電話があった。

『明日、また駅前で集まろう。と、藤原くんが言っている』

 ついに来たか。

 佐々木の声も今までとは違い、どこか決然としている。俺が気づくくらいなのだから、佐々木にはとうの昔にお見通しだろう。

 そろそろ決戦の時が来てもいいころいだったのだ。いや、むしろおそすぎたくらいだぜ。ダラダラときつてんでだべっていたところで何一つ事態が好転しないのは、昔からよく熟知している。たとえ相手が宇宙人や未来人でもな。思えばな時間を過ごしたものだ。これでようやく、すべてのカタをつけてやれる。

『ところで、キョン』

 佐々木の口調には心から俺を案じているトーンがふくまれていた。

『どうやら藤原くんは本気だよ。カーテンコールなしの閉幕さ。これで終わらせようと考えているみたいだ。本人はいつものとうかいトークだったけどね。僕にごまかしは通用しない。これでも人心観察には自信のあるほうなのでね』

 だろうな。佐々木を出しける人間なんか今まで出会ったろうにやくなんによの中でもそうは思いつかない。自分のいつわりのなさを高速で体現する鶴屋さんくらいのものだろう。あの人は思考を読む前に行動するばやさを持っているからな。

『でもね、彼が僕をはいじよしようとするのか、利用しようとするのかどうかが未知数だ。この場合、僕は不確定な観測要素なんだよ。ただ一つ、確定しているのはキョン、キミだよ。キミとキミの判断がすべてのかぎなんだ』

 くっくく。このおよんで佐々木はとくちよう的な笑い声を電話しに寄越し、

『そんなに気張らなくてもいいよ。世界がどうなったところで、僕もキミも何も変わらないと断言できる。変わるのは未来さ。藤原くんや朝比奈さんにとっては重大な事件かもしれないが、なあに、現代人である僕たちが気に病むことはない』

 朝比奈さん(大)の意図は読めない。でも、俺は俺の朝比奈さんが泣くところは見たくないぜ。

『未来など何とでもなると思おうよ、キョン』

 電線にとまったスズメが明日の天気の話をするように、

『彼らにとって僕たちは過去の人間だ。でも僕たちにとって彼らはこの現代から地続きの未来の人間に過ぎない。そして、これが一番重要なメソッドなんだが、あくまでここ、この世界は現在であるってことさ。それが僕たちが有する未来人に対するアドバンテージなんだ。覚えておくんだね、キョン。キミならなんとかするさ。なんといっても──』

 佐々木は含み笑いをらし、

『涼宮さんと僕が選んだゆいいつの一般人、それがキミなんだからね』

 今の俺の意識は選民意識とはほど遠い地点にある。そんな自信満々に言われてもただこんわくするだけだ。選ぶだの選ばれただの、何なんだよそりゃ、と言いたい。さけびたい。長門や古泉や朝比奈さんが俺を特別視したがっているのは解ってるし、俺だってそこそこのかくを持っている。去年のクリスマスイブに腹をくくったさ。それは今でも作りたてのとうのように心のしんおうしずんでいる。でもな、ハルヒの無意識が何かをしでかした結果として俺がこんな立場に置かれているのはしぶしぶながらも認めざるを得ないとして、佐々木、お前までもが俺を選んだと言うのはどういうことだ。

 ハルヒはてつてい的に無自覚のはずで、お前はそうじゃない。神もどき的存在であるという、ちゃんとした自覚があるはずだ。理解しているんだったら教えてくれ。

 なぜ、俺を選ぶ。

『ふっ、くく。キョン。キミのどんじゆうなる感性には前から気をませてもらっていたが、この期に及んでまでそんなことを言うとはね』

 ろうしているのではなく、単にあきれているだけのようだった。

『たとえ話をしよう。もしキミが、何でもいいんだが、宝くじを買ったとしようか』

 買ったことないけどな。

『宝くじのとうせん番号は厳正なる抽籤の結果、発表される。一等賞の数字と手持ちのくじの数字がいつする確率は、条件にもよるが数万分の一以下でしかない』

 つまり金で夢を買っているだけで実入りは期待できないってことか。

『確率的にはそうなる。なんにせよ博打ばくちもうかるのはどうもとだけで、ほとんどのこうにゆうしやは損しかしない。しかし、だれかには当たるんだ。事前に購入したくじの数字列と、当籤番号が一致する確率もゼロではないのさ。いいかい? この場合、涼宮さんと僕が胴元であり、キミは一枚の宝くじを持っているいつぱんじんだ』

 いったん言葉を句切った佐々木が、電話の向こうで大きく息を吸ったような気配がした。

おどろくべきことに涼宮さんと僕がランダムに決定した当籤番号はまつけた以外はまったく同じ数字だったのさ。そしてキミが持っているくじの数字もそうなんだ。ただし、キミはまだ自分の最後二桁の数字を知らない。いや、あえてかくされている。それはまだ見えないんだ』

 いったいそりゃどんな宝くじだよ。

『その数値は常に変動している。今のところはね。心配はない。すぐに確定するだろう。ただし、キミが確定した数字を知るのは、それが確定してからだ。また確定には観測の必要がある。キミがいつまでもそいつを机の奥に押し込んであらためようともせず、かんきん期限を過ぎてしまったら、ただの紙切れとなって意味を失うだろう。そうなればどちらを選ぶかという問題ですらなくなる。まったくの無に帰するんだ』

 さすがにそこまで間抜けじゃないぜ。こと大金がかかってるんだったらな。

『そうともキョン。だからなんだ。キミは数字を確定させなければならない。涼宮さんのものか、僕のものか、どちらかをね。そうすることができるのはキミだけなんだよ。藤原くんでも九曜さんでもない。彼らにもできないことなんだ。この全世界の誰にも、未来の人間にも、宇宙に存在する生命体にも不可能なんだよ。彼らがキミにしゆうちやくするのはそのせいだ。キミがすべてを決定するのさ』

「…………」

『ん、くふふ。実にイヤそうなちんもくだ。正直だね、キミは』

 わかってるんだったら代わってくれ。いま俺が置かれているこの立ち位置を。

『僕だってイヤだね、そんな立場はさ。でも僕はキミが……おっとと、というかね、あーそうだ、キミをしんらいしている、と言いたかった。キミの進むべき道は正しいルートのはずだ。それはキョン、もうとっくに自分でも解っていたことだろう?』

 まるで世間話のような佐々木のさわやかな弁舌には、俺の精神をやわらかくする効果があった。佐々木は俺に忠告しようとしているのではない。ゆうどうしようとしているのでもない。しよう中学時代の親友にしてくにから変な女判定を受けていたこの俺の同窓生は、かっきりと自分の思う正直な心根を言語化しているだけなのだ。

「解ったよ、佐々木」

 受話器をにぎる手に力をめて、言った。

「俺に任せておけ。明日、また会おう」

 佐々木はいつしゆんの沈黙の後、ふふふ笑いを漏らしていたが、

『ああ、期待しているよ。僕のキミへの信頼は進水式をむかえたばかりのせんすいかんあつかい深度より深い。思う存分、ダウントリムするといい。いささかも構わないよ。じゃあね、親友』

 電話を切ったのは、数瞬のラグもなく、まったく同時だとおくしている。

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