第七章 1

α─10


 翌、木曜日。

 朝から夕方までつうにルーティーンな授業を受け続ける時間が、ひねもすが地をうごときにだらりんと続き、ホームルームしゆうりようの合図でようやく俺とハルヒは五組の教室から自由の身となった。

 ハルヒの俺に対する個人授業も昨日までだったらしく、そう当番たちの何とも言えないかい現象をながめるごときのアットホームな視線を浴びつつの特別講座も打ち止めとなり、そのようなわけで俺とハルヒは一目散に教室を飛び出した。言っておくが俺はあくまで団長殿どのうでを引っ張られての強制連行に近いのだぜ。そこだけかんちがいしないでいただきたい。もちろんハルヒ講師の居残り補習を受けなくてよくなったという喜びには満ちあふれてはいたが。

 そうしてハルヒとかたを並べて文芸部室まで行く道のりもいつも通りなら、学内の春的ふんも普段通りである。四月も半ばとなるとすっかり春という季節に飼い慣らされちまう。さすがは四季、たのみもしないのにりちに毎年現れて、ゆうきゆうの歴史で地球上の生物をコントロールし続けるのも伊達だてではないと言ったところか。

 だが、無常におとずれ続ける月日の流れには逆らえない。一年前の春からごういんそのままの勢いで続くSOS団にだって、無視することのできない変化が訪れているのも確かだ。

 そんな現象を裁判所に提出しても何の差しさわりもなくしよう物件化できるような存在が俺たちを待っていた。

 俺とハルヒがとびらを開けるかどうかのタイミングでパイプからすたっと立ち上がり、

「お待ちしていましたっ! せんぱい

 巣にもどってきた親鳥にこたえるツバメのひなのような音階でさけんだのは、ハルヒのり出すじんで難関全開の入団試験をただ一人クリアした新一年生の元気少女である。パーマに失敗したような自由気ままな方向性を持つかみにスマイルマークのかざりをらし、クリスマスイルミネーションのようにかがやひとみらんらんとさせて俺たちを待っていたむすめは、

「今日からわたしはSOS団の一員です! よろしくお願いします!」

 深々と一礼した。

 わたはしヤスミ。どこか舌っ足らずながらも、コーラス部にでも入ったほうがいいのではないかと思えるほどの声量であり、その表情は夜明け付近の金星のようにきらびやかだった。少なくとも元気体力だけはハルヒと並んでいつまでも走れるくらいのエネルギーを内在させていると断言していいだろう。

「まあ……なんというか、そこそこよろしくやってくれ」

 気のけた俺の返答にもヤスミはまるで意にかいさなかったようで、ぴょこんと頭を上げ、

「はいっ! それはもうがんばります! 大そこそこで!」

 その直情的な視線にでんりゆうほうのようなエネルギーが見て取れ、このまま生命力に満ちあふれたがおを見続けていたら両眼のすいしようたいがキャパオーバーでれつしそうだったため、さりげなく目をそらして部室内に助けを求めた。

 いつものメンツは全員がそろっている。ヤカンを火にかけているあささんはとっくにメイド服姿だし、いずみは長テーブルの上にしようともとも違うけったいなばんを置いて丸いこまをいじくっている。ながはと言えば定位置でまた何かのハードカバーのページに目を落としてしんばんしようにシカトを決め込んでいる体勢だった。

 ハルヒは意味もなく満足そうな顔で団長席にどっしり座ってから、

「では」

 カノッサ城において神聖ローマていこくハインリヒ四世と面会した教皇グレゴリウス七世のようなげんたっぷりな満足笑顔と口調で、

「みんな知ってると思うけど、あらためてしようかいしておくわ。この子が厳正かつ公平なしんで選びに選び抜かれた新入団員、渡橋ヤスミちゃんよ。みんな、あたしたちSOS団がこの一年で得たすべての教訓と実績をみっちりたたき込んであげなさい。時には厳しく、時には子供に綿わたをあげるような感じでね。次代のSOS団を支えるいしずえとなるように、バシバシきたえるのよ!」

「バシバシ……ですかぁ?」

 朝比奈さんはヤスミに目をやって、次に自分のかんかつ区域であるお茶くみセットの在処ありかわたし、はて田舎いなか武将にどこから茶の湯のしんずいを教えたらいいのかと考え込むせんそうえきのような表情になった。どう部じゃあるまいし、番茶やせんちやれる手順にそれほどこう的なものが必要とは思えないが、ハルヒが適当に淹れる出がらし茶より朝比奈さんのによるもののほうがかんであることを考えると、次代に残すべきテクニックとして朝比奈流お茶くみ術のごくをこの新入団員に教えてやってもらいたいところでもある。

 ついでにハルヒにも指南してやってくれないかな。あいつの出す茶は味もわからないくらいの色の付いた熱湯でしかないのだ。

「はい! お茶、お茶淹れます! くみます、朝比奈先輩、この浅学なるわたくしめに、渡橋ヤスミめにお茶くみ係の極意の伝授を! ぜひぜひっ」

 ヤスミは朝比奈さんをしようそくだんしたようで、あっさり朝比奈さんのテリトリーにしんにゆうを果たした。少しまどった様子の朝比奈さんだったが、ヤスミの決意は本物だと感じたのか、

「ええと、これがすずみやさんの湯飲みで、これがキョンくんの。あ、後、みんな好みの熱さが違うから気をつけてね。そこのだなにあるのがお茶の葉。その日の気温や湿しつによって選んだりするの。今あたしが研究しているのがこの葉で──」

 いちいちふむふむとうなずくヤスミのキラキラした瞳は朝比奈さんの一挙手一投足を一秒たりとものがすまいとする望遠カメラのレンズのごときそれであった。

「それから、あたしもメイド服着たいです! あ、ナースも! やらせてくださいやりますぜひぜひぜひっ!」

 十万馬力のロボットもかくやと思える、ヤスミのエネルギー源はなんなのかね。かくゆうごうか太陽エネルギー、まさか光合成でもしているんじゃないだろうな、この後輩は。おまけにそんな新入団員に最初に教えることがお茶くみとは、どこのぎよういつぱん職だよ。

 だが口出しは無用だろう。実際、ほかに教えることなんてこの団にほとんどないしな。

 俺はかばんゆかに置き、古泉の向かいに座った。

「どうです? 一局」

 ヤスミをおもしろそうに目で追っていた古泉が、ふと視線を切ってテーブル上の盤を俺のほうに寄せてくる。

「なんだ、これは」

 一風変わった盤上に丸い石。刻まれている漢字は『すい』とか『象』とか『ほう』などの、動かし方の見当もつかないチャイニーズミステリアスな様相をていする駒だった。オセロでも囲碁でも軍人将棋でも連戦連敗の古泉め、今度こそ勝てそうなボードゲームをはんにゆうしてきたということか。

「中国の将棋です。象棋シヤンチーとも呼ばれていますね。ルールさえ覚えたら、気軽にだれでも楽しめますよ。たいして難しくはありません。少なくとも大将棋よりは手短に終わるでしょう」

 そのルールさえ、という部分が問題なのさ。そいつを覚えるまで俺は連戦連敗のじゆうめ続けるに決まっているじゃないか。花札にしないか? オイチョカブでもコイコイでも母方の田舎ではちょいと鳴らした経験がある。

「花札はもうてんでしたね。いずれ持参しますよ。それでこの象棋ですが、チェスやしようと同じでゼロサムゲームだと解っていれば、それでじゆうぶんです。あなたならたちまちのうちにルールを飲み込めます。差しけの囲碁のばんめんを見て、あっさり勝敗を看破できる実力があれば鉄板ですよ。これもボードゲームとしては運の要素があまりありませんから、あなた向きだと思いますよ」

 ゆうみをかべ、

「では、最初は練習ということで、初戦は勝敗度外視でいきましょう。まずこの『兵』というこまの動かし方ですが──」

 気軽に説明し始めやがる。こいつはヤスミに対して何か思うところはないのか? なんたってハルヒいわちよう難関である入団試験をかく的苦もなくとつしてきたさいえんなんだぞ。世代交代だいで彼女が次期部長になるかもしれんのだぞ。ハルヒの目が節穴レベルでないのはちがいないとして、では古泉、お前はどうなんだ? 顔にくっついている二つの目玉はラピスラズリでできてるんじゃないだろうな。

 古泉は駒を並べながら、ニヤリとした笑みを浮かべた。ええい、気味の悪い。まるでかげの首領にこき使われるちゆうけんのレギュラー幹部みたいな余裕があるんだかないんだかのしようだ。

 俺側の駒をそろえるふりをして、古泉はこちらに頭を寄せてきた。小声でのささやき。

「僕は何も心配していないのですよ。それどころか、あんに包まれてもいます。これから何が起きるとしても、それが我々にとって悪いことにはまずなりません。あなたもそのつもりで、ゆうゆうとした態度を取っていてはいかがですか?」

 確信がない、ってのが俺の反骨精神を形成する理由なのだ。今まで新たなる登場人物が出て来て、そのまま何もせず退場した例などあったか? それでなくともたちばなよう、匿名希望の未来人といった規格外部隊が思わせぶりに飛び出てきたんだ。あいつらはあいつらで現在何もやってないようだが、それはそれで不可思議で、だったら何で出て来たんだって話になる。ふくせんの仕込みにしてはさんすぎるだろ。なんたって、あいつらあいさつだけでどっか行っちまったからな。

 そんなんがミステリ小説の伏線だったとしたなら、俺はどくりよう後どころかたんていが推理を開始した時点で本をかべに投げつけるぜ。

おだやかではありませんね。読書はもっとおうような心持ちで楽しむべきです。たとえどんなさくでも、きっと後のかてとなりますよ。すぐれた教師は反面教師、という格言もあることですし」

 初耳だ。

「でしょうね。今僕がとっさに思い浮かべた格言ですから。でも、そんなに間違ったことを言ったとは思いませんよ」

「……ヘーゲルはだいだな」

 俺のつぶやきに、古泉はニッとした笑みをよこした。

「その通りです。人間が社会生活を送る上で、もっとも有益なアドバイスを残したてつがくしやでしょう。どんな人間でもじつせん可能なのですからね」

 もっともヘーゲル的な弁証法がこのちゆう風将棋の勝敗になんら関係するとは思えないけどな。

 俺は古泉に教えられるまま、駒を並べ、それぞれの動きのあくにかかった。将棋に近いが細かい部分はけっこう違う。まあチェスやオセロにもきていたことだし、新しいボードゲームに親しむのも悪くはないかな。

 古泉と象棋に集中している間も、俺は他の団員の様子をちらちらとうかがっていた。

 長門は本を読んでいる。もくもくと読んでいる。新しい団員が増えたところでしよせんそれは文芸部の新戦力ではないと達観しているのか、一年前からこの部室での態度はアイスランドの永久とうのように不変だった。ひざに置いている単行本がややうすちやけているが、古本屋からり出し物を入手したこうぼんなのかもしれない。こいつの行動はんも市立図書館から広がりつつあるのか。さびれた古書店をめぐってふらふらした足取りでほんだなから本棚へと移動している長門を想像し、俺の精神はどことなく落ち着いた。

 俺と古泉が盤上のとうそうをぼちぼち始めようかという、その時、

「お待たせしましたーっ」

 ピッコロの調べのように明るいこわいろとともに、おぼんに湯飲みをせたヤスミが視界の横からちんにゆうしてきた。彼女の背後で、メイドな朝比奈さんがハラハラした表情をかくさず俺たちに目を泳がせている。

「ルイボス茶ってやつです! カフェインゼロ、お通じもよくなり、栄養価も申し分ありません。ぜひご賞味をっ!」

 メイド服の予備はなかったっけ。ヤスミはだぼだぼの制服のまま、湯気の立つ湯飲みを俺と古泉の前のテーブルに注意深く置いた。

 ハルヒのぼつこんりんたる筆によってそれぞれ『キョン』『古泉くん』と書かれている湯飲みである。せいひんごくぶとマジックで印されているだけでちっともワビもサビも感じない茶器だが、茶の湯の心得のない俺にとってはどうだっていいことだ。

 ヤスミのキラキラしているひとみをなるべく見ないようにして、俺は赤茶けた液体を一口すすり、同様の行動をとった古泉と数秒後に目があった。

「……風変わりな味ですね」

 しようとともに感想を述べた古泉とまるごと完全に同感である。決して不味まずくはない。かといってかつもくするほどの美味うまさでもない。むしろ口には合わない、みような風味がする。これならせんちやや麦茶のほうがたんなくがぶ飲みできるだろうが、正直に舌の具合を報告するには俺はちと小心者すぎた。

「まあ……なんというか……今までにないお茶だな。ええと、身体からだに良さそうなのは非常によくわかる。健康になりそうな感じだ」

「わぁお」とヤスミはうれしそうに一声上げ、かろやかな仕草でさっと移動すると、長門の前にも専用の湯飲みを差し出した。

「…………」

 長門は、ちら、と『有希』としたためられたハルヒが勝手に決めつけた自分の湯飲みにれいてついちべつをくれ、

「…………」

 まるで水でもどす前のかんそうワカメを見たかのような無反応ぶりで読書の続きに戻った。

 これはいつものことだったので俺たちは何ら気にするところではなかったのだが、さてヤスミはどうかとながめていると、こいつもまったく動じた様子もなく、ねるような足取りで朝比奈さんの元へと戻っていった。

「ちょっとちょっと」

 声をあらげたのはこの空間における絶対にして根元的な究極支配者である。

「あたしのお茶は?」

 ハルヒはディスプレイの横から不満顔を出すようにして、

「こういうの、まず団長に提供するもんじゃないの? あたしが後回しってどういうことよ。みくるちゃん、ちゃんと教育を行き届かせないとダメじゃない」

「あ……ごめんなさいっ」

 あわてて両手をバタバタさせてあせる朝比奈さんの横で、ヤスミはくすっと笑った。

「すみません。忘れてました。きんちようしていたのかもしれません。今、とっておきのれ方をしますので、お待ちください」

 ハルヒのワニ目にもう動じた気配はない。ヤスミははねの生えたようせいのように軽やかに立ち回り、熱々のお茶を団長机にささっと提供した。例のごとく、ハルヒは熱湯に近いはずのお茶を一気飲みし、しばらく目を白黒させ、舌をフーフーさせる犬のような呼気を発してから、

「ちゃんと覚えていってよね。ここんとこ、かなり重要な決まりだから。みくるちゃんは教育係なんだからこうはいに厳しくしないとダメよ」

 いつ朝比奈さんがヤスミの教育係になったというのか。

「まあ、お茶はお茶でこれくらいでいいわ」

 ハルヒの切りえも早かった。茶を味わうひまもなかっただろうしな。

「渡橋ヤスミちゃんだったわね。あなた、パソコンくわしい?」

「ちょっとちょっとですけど、できますできます!」

「そう? じゃあ」

 団長机にちんするコンピ研印のパソコンディスプレイには、例のSOS団ウェブサイトが、かつて俺が作った状態のまま表示されている。もちろんショボいレイアウトにチャチなコンテンツと、意味のある文字列などメールアドレスしかないという、今時日進月歩で進化し続けるネットの世界において、ほとほと時代おくれなホームページであると言わざるをえない。ブログ? 何それ? って感じのデジタルデバイドっぷりである。

 そのうちリニューアルすべし、とハルヒの意気だけは高かったが、もっぱらその役目は俺に任じられており、そしてそんなもんまったくする気のなかった俺はなんやかんやと理由をつけて先延ばしにし続けていたわけで、実際、SOS団の名がネットワークに流出してだれ一人幸福な結果になりそうにないというのは、去年のコンピ研部長の件でも明らかだったため、ハルヒには適当に忘れていて欲しかったのだが、アクセスががんがん増えてネット内知名度を高める野望を未だ捨てきっていなかったらしい。もちろんハルヒは長門がロゴマークに細工したことを知らないし、気づいてもいない。

「サイトをもっと人目を呼ぶようなのにしたいんだけど、できるかしら?」

 と、ハルヒは付けっぱなしのパソコンモニタを指さし、

「SOS団のメインサイト。キョンが作ったきりのまるで殺風景な役立たずなしろものなのよ。なにより美しくないわ。世界にはもっとスタイリッシュで情報まんさいなサイトがたくさんあるっていうのに、これじゃワールドワイドウェブの名が泣くというものよ」

 悪かったな。

「そんなわけでヤスミちゃん、パソコンをちゃちゃっといじくって、ううんとえのいいものにしてくれないかしら。あ、これは新人研修のいつかんなわけなのよね。入団試験があれで終わったと思ったらおおちがいよ。正団員への道は厳しいものなの」

「はぁい! やりますやります。やらせてください」

 ハルヒの言葉の重みを理解しているのかいなか、とにかくヤスミはそくとうした。

「やってみたいです。やってみます。やるならやります是非是非っ!」

 打てばひびくごとき返答で、この明確なまでのポジティヴリアクションには俺もちょいとおどろいた。それで、つい、

「おい、お前。サイトとか今まで作ったりしたことあんのか?」

「ありませんけどっ」

 そんな動物しようをもらった俺の妹のようながおを向けられても。

「でもでもっ! できる気がするんです! あたしはみなさんのお役に立ちたいのです! そのためにはコンピュータの一台くらい、さっぱりと調教して見せます!」

 パソコンなんてのはただの計算できる箱であって、いくら調教しようがしゆりよう犬のように言うことを聞いてくれるばんのうツールではないのだが……。

 しかし俺が止めるまもなく、ヤスミは座っていたハルヒを押しのけ、キーボードを引き寄せてワイヤレスマウスをにぎり、さっそくカチカチカタカタと事務職のおつぼね女子社員のように作業を開始した。タイピングのぎわはなかなか良いようだ。

 一通りハードディスク内のデータを参照した後、

「あ、ツールはひとそろもうされてますね。でも、あれ? こんなアプリがあるんだったら最初からもっとハデなサイトが作れたと思うんですけどぉ。このなタグだらけのサイト、えっと、誰が作ったんですか? ひゃ、なつかしのテキストサイトですねこれ。テーブルの指定もひどいし……。ほい、ソース表示……っと、あらら、うわ、酷い。このフォントタグの群れにいったい何の意味が……。ひゃあ、スタイルシートすら使ってないじゃないですか。こんなの、今時ネットにちょっと詳しい中学生ならもっとマシなのできそうですよ、先輩」

 さっきハルヒが俺作成と明らかにしたばかりだろ。なかなか失礼な感想を述べる後輩じゃないか。渡橋ヤスミとやら。名は覚えたぞ。

「では、ちょっといじらせてもらいまぁす!」

 明るく楽しげに宣言し、ヤスミは軽快にパソコンを操作し始めた。まさに鼻歌交じりのような気楽さだが、本当に鼻歌をぎんじていて、どこかでいた曲だと思ったら去年の文化祭でハルヒが急造ボーカルとして参加した軽音楽部のナンバーだった。新一年生であるところのヤスミはそのころ当然ちゆうぼうだったろうから、たまたま見にきていた模様だ。

 ま、あんときのハルヒがかがやいて見えたことは、さすがの俺でも否定しきれないね。もっともその後、バンド活動に目覚めたハルヒによって俺たちがしないでもいい苦労と思わぬ事態を招き入れたのは誤算だったが。

 ハルヒはヤスミの後ろにじんって、二はい目のお茶を手に満足げなふんかもし出している。ようやく見つけた有能な部下の活躍にご満悦な管理職のようなじようげんさだ。これから雑事やコマい作業はすべてヤスミに押しつけてしまおうとしている決意が、表情からきんるいほうのようにりまかれている。

 俺もやっとで雑用係を解任されるかなと甘い未来を夢想しかけたものの、ごうじようじんな決定にかけては人後に落ちないハルヒのことだ。ヤスミ以下のたいぐうが待ち受けているのが関の山だろう。こうはいにたった一日で上を行かれるとは、俺の存在意義はますますはくになりそうだ。別に悲しんじゃいないけどさ。

 差し向かいで打っていた俺と古泉の中国将棋が決着をむかえたとき、ちょうどヤスミの持ってきた湯飲みの中も空になった。当然のように俺が勝利を収めたが、あまり勝った気がしない上に慣れないゲームだったせいか、ちとつかれた。

「もう一戦どうです?」

 リベンジのさそいを向けてくる古泉を無視して、大きくびをしたとき、何気なく向いた俺の目の先に段ボール箱が映った。それまでのSOS団戦利品がぶち込まれ、たなの上に放置され続けていた一応は団の備品とも言うべき物体。

 その箱からはみ出しているのは昨年の草野球で使用したバットとグラブである。

 多少、まりなものを感じていたのは初の後輩ができたという異物感と、新入団員渡橋ヤスミにあわけいかいしん──なんせあの電話の件がある──をいだいていたせいだろうか。気づいたら俺は、

「よ、古泉。たまにはキャッチボールでもしてみないか」

 我ながら不可解な提言を発していた。

「ほう?」

 古泉は一秒ほど俺の目を見つめると、すぐに破顔し、

「いいですね。身体からだを動かさなければどうしたってにぶりますし、適度な運動は健康と創造的思考の一助でもありますから」

 そうと決まれば古泉の行動は早く、たいして背伸びすることもなく段ボールを棚上から下ろすと、ボロボロのグラブ二つとテニスボールを取り出していた。中にはなんきゆうこうきゆうもあったはずだが、さすがは古泉、しっかり俺の意を先読みしてやがる。

 これまでSOS団は一年近く五人で通してきた。俺たちが進級して空きの出た一年生わくすべり込んできた初の後輩、ヤスミに対して何らふくむところはないとは言え、さんざん五人一組で様々なオカルティックでサイエンティフィックな出来事にけずり回っていたせいか、ペンタグラムがヘキサグラムになったおかげでみような不安定感が、俺の心根の中に生じているらしいと自己ぶんせきできる。

 簡単に言えば俺はヤスミをこの安定していた部室内にとつじよとして現れた異物的な存在だと、なんとなく思うでもなく感じているのだろう。今後、ヤスミがSOS団内でどんな役割を果たすことになるのか、ハルヒはこれでいいと考えているのか、どうもすっぱりとは完全になつとくすることができにくい。

 俺の中にヤスミからかかってきた電話もひっかかる。あれが入団希望の先走り的勇み足なんだったとしても、なぜ俺にわざわざ? まあ長門や朝比奈さんや古泉にかけても意味はなかったかもしれない。あの三人は特別な背景事情を背負っているからな。しかし、相手が俺だったとしても特に意味など発生しないはずだ。現にあの時、ヤスミはロクな自己しようかいもせずに切っちまった。まったく、ハルヒ並みに意図の読めない後輩がいたもんだ。

 つまり、俺は何となくヤスミのいるこの部室から消極的にげ出したく思っていて、その格好の口実が、すなわちキャッチボールだったということなのさ。こればっかりは室内ではできないからな。

「つーわけで」

 と、俺はヤスミのパソコン作業を見守るハルヒと、新茶について研究を始めている朝比奈さん、読書に専念している長門に、

「ちょいと外に出てくる。俺と古泉がいても教えられることはないしな。逆にじやだろ。新入団員の初期教育は任せる」

 古泉はすでに二人分の野球グラブをたずさえてだれに向かうともなくしようをたゆたえ、

「そうですね。こういう時は女性じんのみのほうが、えんかつたんのない活動が進むでしょう。邪魔者たる我々男性陣はしばし退席しておきますよ」

 フォローだけは天下一品の副団長だった。

 ハルヒはちらりと俺に待ち針のような視線を向けたが、

「いいんじゃない? そうね、キョンの今までの団員活動もヤスミちゃんに教えておきたいしさ。いい? ヤスミちゃん。この男が団でゆいいつの平団員であるゆえんを話してあげるわ。まったく、ほんとどうしようもないったらないのよ。反面教師にするといいわ。我が団は完全こうけん主義だから、キョンなんてあっという間にき去ってしまえるわよ」

 そうかいそうかい。ま、おまえがそのにんしきでいてくれている間は、俺も安心だよ。ぜひこのままけったいな役職をおしつけられることなくへいおんに卒業を迎えたいものだ。

 俺は古泉に目配せする。古泉も正確に俺のアイズオンリーコミュニケートを受け取ったと見えて、ボロいグラブを投げてよこすと、

「それでは一時失礼します。きたころもどってきますよ」

 パチリ、と音がしないのが不思議なほどの厚いウインクをかまし、俺の背に手をかけた。

「我々は我々で、久しぶりに男二人での時間を楽しませていただきましょう」

 部室を出る前にり返ると、長門はいつも通りのぼつとう読書術をけいぞくし、朝比奈さんは「このお茶、ちがうのとブレンドしたほうがいいかなあ?」などとお茶くみ考察にしんけんおもち、ハルヒはパソコンをぎわよくいじるヤスミの後ろで、わかってるような実はまったく解っていないであろう微妙に複雑な表情で、モニタを半口開けて見守っていた。

 新入団員の一年が加わるだけで、ずいぶんとふんが変わるもんだな、この部室も。



 部室とうから出た俺と古泉は、中庭にてキャッチボールを開始した。

 どっからどう見てもひまをもてあました男子学生二人の暇つぶし以上の光景には見えるまい。

 ちょうど校舎と部室棟の間にあるしばきの中庭であり、三階にある文芸部室の開け放たれた窓から容易に見下ろせる位置にある。こちらからも見上げられるので、部室から誰かが顔を出していたら一発で解るきよだ。

「女性が一人増えるだけではなやかになるものですね」

 言いつつ古泉が投げたボールはゆるやかな山なりだった。

「何だ、男のほうがよかったのか?」

 オーバースローで返したテニスボールを受け取った古泉は、

「バランスですよ。男子は我々二人だけ、なのに女子が四人になると、どうにもれつせいじようきようになると思いませんか? ただでさえ僕たちの発言権はそれほど大きくないというのに」

 情けない話だが真実だな。正確にはハルヒの発言力がベース用ラウドスピーカーなみにやかましすぎるのが問題なのだが。

「あの少女もひとすじなわではいきそうにないですよ」

 古泉の投球はやや勢いを増した。

「ヤスミにも何かかいな背後関係があるのか?」

 俺のグラブにパスンと音を立ててけいこう色のボールが収まる。

「いえ」

 と、古泉はなぞふくみ笑い。

「それはご安心を。彼女にはどんな組織のバックもありません。じゆんすいな個人ですよ。何にも属さず、誰にも指図されることのない、ただ一つの意識を持った存在でしかない。それゆえに興味深いんですよ」

 俺はボールをにぎり、それがまるでもぎたてのレモンであるようににらみながら、

「回りくどいな、古泉。知っていることがあるんだったらさっさと言え。渡橋ヤスミは何のためにSOS団にもぐり込んできた?」

「目的は解りません」

 古泉はお手上げのポーズをして、

「僕が知っている、あるいは推測していることはただ一つですから」

 ワインドアップモーションで投げ返したボールを、古泉は事もなげにキャッチした。聞いてやろうじゃないか、そのただ一つの推測とやらを。

「涼宮さんが望んだんです」

 またそんな理由かよ。

「渡橋ヤスミの存在をSOS団の一員にすべきだという決定。それを涼宮さんが望み、選んだのです。必要な人材だと確信しての新入団員採用でしょう。おそらく無意識による現実操作でしょうね」

 それよりも──と、古泉は俺に目線を投げかけ、

「なぜ、いきなりキャッチボールという発想が出てきたんですか? あなたが僕をさそうなんて、さて、今まで何度あったでしょう」

 俺だって知るか。なぜかこのタイミングで野球道具を使用しなければならない予感がしたんだよ。あまりったらかしにしておいてグラブやボールがつくがみに化けちまうのはぞっとしないからな。

「そうですか」

 古泉はそくなつとくしたようで、

「部室の器物が意志を持つようになっては、いよいよ異空間化にはくしやがかかりますからね。ですが、あなたの心情には賛同できます。なぜなら、僕もなぜだかキャッチボールをしたい、いや違いますね。しなければならない、というみようきようはく観念にらわれていたからです」

 古泉が投げ込んできたボールは手元で変化し、くいっと落ちた。それをすくい上げて、

「どういうこったよ」

「解りません。しかし、必然的なこうである可能性があります。僕たちはここでキャッチボールをすることが義務づけられてきたんじゃないかとね。未来人が言うところの、ようするにていこうというやつですよ」

 解らんな。だったら朝比奈さんなり朝比奈さん(大)なりが回りくどくメッセージを送ってくるはずだが、そんなものはなかったぞ。第一、お前と野球ごっこをすることが、未来のどんなふくせんになるってんだ。

「朝比奈さんにいてみてもいいのですが……」

 古泉は三階にある部室の窓をながめて、軽く息をついた。

「あの調子では何もご存じないでしょうし、おまけにこれは僕たちの自発的行為です。どうもしんあんに捕らわれているだけである可能性のほうが高いでしょうね。こんなことまで疑っていたら、ますます未来人の思うがままですよ。過去人として、未来人のおもわくには負けたくありません。ちよう能力も『機関』も関係ない。現代を生きるものとしての個人的なプライドというやつです」

 こいつにしては本音くさい語調だった。俺が意外なものを感じていると、

「見下されるのは結構です。あいては我々より組織も力も強大だ。でもね、僕は見下されるままていかんするのは個人的に気に入りません。敵が強ければ強いほど、どんな手を使ってでもギャフンと言わせる逆転の展開は古今東西、王道と呼べるのではありませんか?」

 週刊まんのバトルヒーローみたいだな。インスタント修行とか、めたる能力のかくせいで九曜あたりをいちもうじんにしてくれたら俺の出る幕はなくなるんだが。

「その役回りは」

 と、古泉はチェンジアップを投げてきた。

「あなたが適任でしょう。あなたの背後には涼宮さんが、涼宮さんの背後にはあなたがいる。あなたがた二人にできないことなどこの宇宙に存在しませんよ」

 そしてニヤリと、

「前にも言ったことですが、いっそアダムとイブから始めてしまえばいいのです。日本的にイザナギ、イザナミといったほうがいいでしょうか。産んで増やすを続けていけば、そのうち地球はあなたと涼宮さんのような人間であふれかえることでしょう。なかなかシュールにしてかいげな光景ではありませんか」

 そこまでいったら不条理ギャグの領域だな。俺はこのツッコミ体質をわざわざ子孫に残すつもりはない。ましてや、相方がすべてハルヒ起源の人類なんぞになると、ノアの箱船まで歴史が続いていそうな気がしない。まともな判断を持っている船長なら乗船きよかくしないといけない。

 考古歴史学会のためにも、その手の提案はきやつだ却下。せいぜいアララト山をとうの底までり返していろ。木造宇宙船が出てくるかもしれん。

「残念ではありますが」

 古泉はボールをにぎった手を風車のようにり回す。

「ほっとしています。僕はあなたたちをもうしばらく見ていたい。長門さんや朝比奈さんたちもね。地球上の生物でゆいいつ、想像力と知的こうしんを持って誕生した人間の一人として、最後まで見届けたいというのも本音なんです」

 ここで古泉はいきなり話題を変えた。

「涼宮さんとの放課後学習ははかどっていますか?」

 知ってやがったか。俺はあえて平静を保ちつつ、

「おかげさんで、まあまあだ。教えられているというより、あいつが教える楽しみをまんきつしているだけのようにも思うがな」

「いいけいこうです。あなたも涼宮さんも進学コースでしょう。できれば同じ大学にそのままうわすべりしてくれると、こちらとしても助かりますよ。大学入試までごじんりよくのほどをよろしくお願いします」

 いいって。俺の進路にヤキモキしているのはオフクロだけでじゆうぶんだぜ。幸い時間はまだ二年近くあるんだし、今からあわてて問題集を座右の書としなくてもいいはずだ。俺にはもっとこう、やらねばならないことがある。

「ほう。何でしょう」

 ……たとえば買いそびれている新作ゲームとか、やり残して積んだままで評判のいいとよく聞くゲームとか。

 古泉はかすかに笑っただけだった。ゆうをかましている同級生のあきれたようなしようってな、なんでこんなに神経にさわるんだろうね。くそったれ。俺もこんな笑い方をしてたまには周囲をけむに巻いたりしたいもんだ。

「さて、次の球種は何がいいですか? カット、ナックル、まっスラと、各種取りそろえておりますが」

 俺がキャッチできるはんのボールでたのむ。あいにくしゆの経験がないもんでね。永遠のセカンドプレイヤーと呼んでくれ。

 次に古泉が投じたのはど真ん中直球のストレートだった。何かの意思表示だったのかもしれない。それくらいだんの古泉のうでからは想像できないきゆうである。これだけの投球術があれば、去年の草野球大会はお前がリリーフのマウンドに立つべきだったな。ほかかくし持っているたかつめがあるならそろそろさらけ出しておいてくれよ。

 しばらく古泉相手の無言のキャッチボールが続いた。取り立てて野球に興味もないんだし、そろそろきてきたなと思っていると、

「おや?」

 最初に古泉が顔を上げ、つられて俺もやつの視線の先を追う。

 紙ヒコーキ。

 適当に折ってみましたという感じのシンプルでせつな紙飛行機が、中庭の上空をせんかいしている。ろくに風もないせいでふんわり落ちてきた飛行機は、着地に失敗したたかび選手のようなどうえがいて、俺のあしもとさった。見ると、部室にあったコピー用紙が製作材料らしい。

 拾ってみる。

 羽の上にサインペンで急いで書いたような文字がおどっていた。いわく、

『OPEN!』

 古泉が近寄る前にばやく、俺は紙飛行機を折り目の付いたタダの紙にもどし、じやつかんの時間、固まっちまった。同じサインペン、ひつで黒々と書いてある文字はごく短いものの、いささかしようげきを受けるに充分だ。

『MIKURUフォルダ発見!』

 反射的に見上げる方向は、部室窓に決まっている。

 まどぎわに立つ人物いかんによっては、これから始まるだんがい裁判を覚悟しなければならないな、と内心ビクビクしていたのだが───。

 開け放した三階の窓からこちらを見下ろしているのは、渡橋ヤスミのがらな姿でちがいなかった。ヤスミは俺が原始的飛行便のメッセージをかくにんしたと確信したのだろう、立てた人差し指をくちびるに当ててから、たいそでにはける女優のような身軽さで窓際から姿を消した。

 どうやらヤスミとやら、あなどれないITスキルの所有者らしい。機械オンチの朝比奈さんや精密機械だろうと乱雑にしかあつかわないハルヒに慣れててすっかり油断していたというべきだろう。長門にはバレてるかもしれないが、あいつの口のかたさは鉄鉱石レベルだし問題ない。

 しかしよく、あのパスワード付き隠しフォルダの中身を開けたな。これはセキュリティ強化の必要性がありそうだ。そのうちコンピ研の部長にでも相談してみるか。

「どうかなさいました? それにいったいどんな言葉が──」

 古泉が物欲しげな顔を俺の手にした元・紙飛行機に向けてきたが、

「気にするな。俺と朝比奈さんのささやかな秘密ってやつだ。お前の人生に何のえいきようおよぼさない無益な情報さ」

 微笑をかべた古泉は返答せずにかたをすくめ、訳知り顔を向けてきたが俺は無視した。

 そしてもう一度、部室を見上げる。わきに寄せられたカーテンが春風にたなびいているせいで、内部の様子は見て取ることができない。

 少し前から思っていたが、改めてヤスミへの感想をつぶやくことにする。

「変な女だ」



 それからしばらくして部室に戻ると、ハルヒがパソコンの前で大喜びしていた。

「見なさい、キョン! このれいれいな画面を!」

 俺は野球道具を古泉に任せ、ねこれるひもにじゃれつくようにマウスをり回しているハルヒの横へ移動する。

「おお?」

 モニタに映っているものを見た俺の口からなぞかんたんれた。

「こりゃ、SOS団のサイトか?」

「見ればわかるでしょ。どじゃーんとでっかく書いてあるじゃない」

 確かにロゴマークはそうなってるな。しかし、かつて俺が適当にでっち上げたホームページモドキのおもかげがまったく残っていない。かべがみからフォントからインデックスから何からすべてが一新され、おまけに文字の一部がピカピカ光りながら動いているし、画面の色使いがやたらとハデだ。俺の作った初期サイトがアダムスキー型だとしたら今のはまるでシャンデリア型UFOである。しかしちょっとそうしよくじようすぎやしないか?

「こういうのは人目をひいてナンボなのよ」

 ハルヒは自分のがらのようにけんこうと、

「それにね、ネットの世界はドッグイヤーなわけ。せっかくの技術を使わないでどうするのよ。ヤスミちゃんにはとにかくありったけの素材を使ってもらったわ。ほら、ここをクリックすると──」

 フリー素材丸出しないかにもな音楽が鳴りだした。正直、やかましい。

 俺はやってはいけないサイト作りの典型例のような画面をにらみつつ、

「コンテンツは何があるんだ?」

「メールフォーム」

 それだけか。

「しょうがないでしょ」

 ハルヒはぷうと唇をとがらせ、

「活動報告のとこにいっぱい写真をせたかったんだけど、あんたが反対したんじゃないの」

 ああ、朝比奈さんの件か。よく覚えていたな、こいつ。

「でも、こんなのならあるわよ」

 マウスカーソルがするすると動き、ゲームと表示されている部分で停止した。クリック音とともに映像が切りわった。星空を背景にした、何かのゲームのメニュー画面らしい。意味なくった書体でえがかれているタイトルを読むと、

「ザ・デイ・オブ・サジタリウス……5?」

「コンピ研からもらってきたのよ」

 しれっと言うな。

「以前やったゲームのネットオンライン対応改良版らしいわ。世界のどこからでもだれかと対戦できるそうよ。よくわかんないけど、これくらいはあったほうがいいでしょ? もちろん無料でプレイできるわ」

 誰が金などはらいたがるものか。しかし、なんとバージョン5まで来るとは、連中にとってよほどこだわりのあったゲームらしいな。それだけに俺たちに敗北したことはけっこうこたえただろう。まあ、ありゃごうとくと言えるが。

「ついでにコンピ研にはさらなるゲームの開発をらいしておいたわ。これじゃああんまりSOS団っぽくないもんね。あたしはもっとちがうピコピコが欲しいから」

 命じておいたの間違いじゃないのか。SOS団っぽいゲームを作れなどと言われたコンピュータ研究部のこんわくぶりを成り代わってみしめてやっているうちに、ふと気づいた。

「で、あいつはどこだ?」

 部室に渡橋ヤスミの姿がない。いるのはかたすみで読書中の長門と、グラブとボールを片づけ終えて自分の席に着いている古泉、それから今ちょうど湯飲みにお茶を注いでいる朝比奈さんだけである。その朝比奈さんがぼんに載せた湯飲みを差し出しながら、

「帰っちゃいました。ついさっき」

「へぇ?」

 本格入団初日から早退か。

「どうしても外せない用事があったんですって、何度も謝りながら走っていっちゃいましたよ」

 俺に湯飲みをわたした朝比奈さんは、なぜかいつもより一回り大きながおかせていた。その理由を問いかけると、

「すごい可愛かわいいんですよー」

 と、とろけるような口調で、

「声とか、口調とか、仕草とか、表情とか、おの仕方とか、もう、どうしようもないくらい可愛いんです。本当に」

 盆をきしめてくねくねする朝比奈さんも相当のレベルだが、かくも短時間でこの愛らしいせんぱいの心を射止めるとは、渡橋ヤスミおそるべし。

「まあ、あたしにはピンとこないけど」

 ハルヒは朝比奈さんの様子を半分あきれ顔でながめていたが、

「本気で急いでいる様子はピョコピョコしててまるでヒヨコ。でも、みくるちゃんのツボにハマったみたいでよかったわ。いろいろ引き出しの多そうなだし、しばらくは退たいくつせずにすみそうね。まだ一日目だけど、才能のへんりんを感じるにはじゆうぶんな時間を過ごせたわ」

 まだ身体からだをくねらせていた朝比奈さんは、

「長門さんにもすぐになついていましたよ。あの娘には仲良しの才能がありますね」

 ここでやっと我に返ったか、それとも何もないテーブルの上をわざとらしく見つめ続けている古泉に気づいたのか、再びきゆうを手にして副団長専用湯飲みを探し始め、俺は長門に視線を移して一体こいつとしゆんしんらい関係を築く方策とはどのようなものであるのか想像することに努めた。

 長門は俺の思考を正確に判読したらしい。じわりと文字の海から顔を上げると、

「本を貸した」

 よくせいしすぎの声でぽつりとつぶやき、直後に補足の必要性を感じたようで、

「貸すように依頼された」

 とぎ足して満足したとみえる。また視線を下ろした。

「なんか、どっかの衛星かギリシャ神話のキャラみたいな名前の本だったわね」

 何気なさそうにハルヒが言う。ドライアイスを飲み込んだような冷たいあせりが俺ののどを通りける。が、長門が反応しないので俺も何とかポーカーフェイスをつらぬいた。

 ありがたいことにハルヒにとって本当にどうでもよかったことなのだろう。長門文庫へのげんきゆうはそれだけで、そのままカチカチとマウスを操作してブラウザを閉じ、パソコンをしゆうりようさせにかかった。そろそろ今日の部活もお開きという宣言に等しい。

「有望新人が来たのは新年度早々からいい前兆だわ。SOS団は次世代の育成もおこたってはいけないの。たとえこの学校が取りこわされてもSOS団だけは残るくらいのがいを見せないと。あたしたちはそのいしずえとなるのよ。いいえ、ならなきゃダメ」

 俺は立ったまま茶をすすりつつ、

「お前が言うんだったら、そうなるんだろうな」

 生返事をしながらヤスミの顔を思いかべる。俺専用朝比奈さんフォルダに口をつぐんでいてくれたことには大いなる感謝をささげるしかないが、どうにもこうにも気がかりだ。横目でうかがうと、長門は平素と変わらぬ態度でハードカバーから顔も上げないし、古泉に茶を給仕中の朝比奈さんは前述の通りである。しかし、ハルヒがせんたくしたゆいいつの新入生がまともであるはずがない。とてもそうは見えないが、それでも何かあるはずだ。

 俺の中にかかってきた電話といい、数日前からつきまとうみよう感といい、何だかもやもやしてならん。まあ、それは佐々木や九曜、名乗らない未来人や橘きようなどのけんあんこうがあいかわらず何も片づいていないからなのだとしても、ヤスミ本人に対して感覚的なむなさわぎを覚えるのはなぜだろう。それも、どちらかといえば楽観的な方向の騒ぎ方で。

 ヤスミは敵か味方か、といったちゆうはんな存在ではない。あの少女から受ける印象は、長門や朝比奈さん、九曜や橘京子たちともちがう。いて言うならば──。

 俺はハミング混じりで帰りたくをしているハルヒの横顔をチラ見した。

 宇宙人ともちよう能力者とも未来人とも違う。渡橋ヤスミから感じるふんは、そう、ハルヒか佐々木に近いのだ。

 しかし、何故なぜなのかがわからない。



 こうして、ちくわと間違えてちくわぶを口に入れてしまった直後のような正体不明な感覚、いわば明るい胸騒ぎとでも表現すべき気分をいだきつつ帰宅した俺は、自室のとびらを開けるなりぎようてんすることになる。

「キョンくん、おかえりー」

 やたら愛想のいいねこみたいながおでそう言った妹と、異常に無愛想な人間のような顔でベッドに横たわっているシャミセンが待ちかまえていたのは充分予想できた、というよりいつものことなのでおどろきもなにもない。

 あんぐりというおんを背負いたいくらいに俺の口を開けさせたのは、そいつらのほかに見たばかりの顔を持つ人間を発見したからで、そしてそいつは妹の前で正座していたかと思うとペンシルロケット打ち上げ直後かと思うほどの勢いで直立し、

「お帰りなさい、先輩! おじゃましてますっ!」

 よく通る明度の高い声でそうさけび、深々と一礼した。実にぎよう良く。

「な……」

 どういうわけかさっぱりくつが飲み込めないのだが……。

 渡橋ヤスミが俺の部屋にいた。その少女の姿が俺のげんかくだと思いこむには、とてつもなく困難な出来事だった。無理がありすぎる。

 急用で走って帰ったというヤスミが、何の用事、どんな理由でここにいるんだ?

 いや待て。冷静に対処しよう。俺は今まで散々予想外のイベントに巻き込まれては、不承不承ながらもごういんに慣らされているはずだ。ハルヒが消えたり、何度もタイムスリップしたりしたことに比べると、たかが新入部員が俺の自室で帰りを待っているくらい、全然、日常のはんちゆうに収まる。犯人の犯行動機が最後まで解説されなかった本格ミステリ小説のようなものだと言えよう。よし、俺は冷静だ。事情ちようしゆにはまず身近な人間から始めるべきだろう。

 ヤスミは胸の前で両手を組み、キラキラした目を俺に向けて、

「本当は昨日来たかったんです。でも、予定より延びちゃって。やっぱり迷いがあっちゃダメですよね」

 と意味の解らないことを言った。予定? 迷い? なんだそりゃ。まあいい。それは後で考えることにしよう。俺はいつもニコニコなやみ知らずな妹の首根っこをつかみ、

「お前が家に上げたのか?」

「だってー」

 妹はくすぐったそうに身じろぎして、

「キョンくんの友達ーって」

 なおすぎるのも考えものだ。知り合いならともかく、見知らぬ人間をそうほいさっさと信用するべきでないと教育してやらねばならない。なんというか、こう、兄として。

 俺が説教のそう稿こうを組み立てるより、ヤスミの助け船のほうがすみやかだった。

げんかんで会ってすぐせんぱいの妹さんだと解りました。フフ、いい子ですね! あたしもこんな妹が欲しかったです。っこしてたいくらいです。それにその猫! 立派な三毛猫ですよね! すっごい頭良さそうで、あたし、感心しちゃいました」

 早口でまくし立てた後、ヤスミはややしょんぼりと、

「でも、ペットはもう飼えないんです。それが残念で……でも! こうして人の家のペットと遊ぶのは大好きなのですよっ」

 そのせいのいい口調にやや物理的にされるものを感じ、俺はちょっとけ反りつつ、

「お前……。用事で早めに帰ったんだよな。まさか、その用事ってのは……」

「ハイ。一度こうして来てみたかったんです。先輩の家に。フフ」

 あっけらかんと答えるヤスミの顔にも口調にもあやしいところはまったくのゼログラビティだった。とくちよう的なかみめがお辞儀とともにひょこんとれる。

「ねー、ねー」

 妹がヤスミのそでを引っ張っていた。

「さっきの話の続きー。その髪留め欲しい。もう売ってないんでしょ。ちょうだい」

「ごめんなのです」

 ヤスミはかがんで妹の目線の高さに合わせ、つぶらなひとみ同士を二つとも合わせた。

「これはあたしが小さいころからの宝物なんです。今はダメ。でも、そのうちあなたのところにめぐってくるかもしれませんね。あたしたちは世界の流れに乗っているぶねです。またいつか、ここにもどってくることもあるでしょう。このかみかざりだけでも。そのうち、いつか」

 スマイルマークにきんした髪留めは、鳥の巣のような髪をまとめるというより、ただ身分証明のようにくっついているだけのような気がしたが、そんなにいちいち気にするのはでしかない。もっと気にするべきことは何かと考えているうちに、ヤスミは俺の部屋を歩き回り、ベッドの下をのぞき込み、シャミセンの耳を引っ張って、

「当たりですよ、この猫、大当たり」

 などとコメントしたかと思うと、妹に飛びついて抱きついていたりしていたが、また俺の眼前に直立不動のすっくとした姿勢で戻ってきた。その口から飛び出したのははっきりとした意思表示、

「帰ります」

 ああそう、としか返答できなかった自分が何やらみすぼらしく感じる。もう少しマシなボキャブラリーを内蔵していたはずなんだけどな、俺。言いたいことがあるのに言葉が出てこないのはもどかしいことだ。

 ヤスミは正面やや下から俺をくような視線をむけていたが、ふと短い半生をなつかしむような表情に変化し、

「新しい学校に入ったら、きっとおもしろい部の一つはあって、あたかも吸い寄せられるようなぐうぜん的な事件があって、行きがかり的にそこに入部してしまうっ、なぁんてことを夢見てたんです。だまっていても向こうからやって来るもんだって。そうじゃないですか? 面白い物語の語り手って、みんなそんな感じな気がするんです。そこには面白い先輩がいっぱいいて、その中の一人と仲良くなったりして、あたしはそういう主人公になりたかった……」

 いつかどこかで聞いたような、いつかどこかで俺が考えていたような話だった。だが俺が長期おくをまさぐり始める前に、ヤスミはぴょこんと頭を下げ、バネけのように小さな身体からだを反らすと、

「なーんて、実はただ先輩の部屋に一人で来てみたかっただけなんです。おじゃましてすみません。でもすっかり満足しました。あたしはもう来ません」

 ヤスミが俺に向けたがおは、朝比奈さんがこしくだけになるのもわかる、小動物の子供が世話主にぜんぷくしんらいを持っているごとき、じゆんすいやわらかなりんこうに包まれていた。こんな目で見つめられて何も思わずその場を立ち去る人間など、ペットショップの客にはいないだろう。

「それでは、またお会いいたしましょう。先輩、あたしのこときらいにならないでくださいねっ」

 言うやいなや、ヤスミは妹の頭とシャミセンの額をひとでして、春一番のような勢いで出て行った。ちょっと待てというひますらない。気づけば、一年後輩の新入団員は姿形を我が家から消している。

 あくびをするシャミセンを無理矢理かかえ上げた妹が、

「あの人、だぁれ?」

 その質問の回答は、俺が今一番ほつしているものだぜ。

「あ……」

 直後、俺はき忘れていたことに気づく。いつだったかの夜、に入っている最中に電話をかけてきたのは、まぎれもなく、あのヤスミでちがいないのは確かだ。

 しかし何故なぜ、俺なんだ? ただ名前を告げるだけの短いメッセージ。あの時点でヤスミはハルヒの課す入団試験にただ一人残ることを確信していたのだろうか。まるで予知能力者だが、古泉からすればそんなけいせきもないらしい。てことは、偶然北高に入学し、偶然SOS団に混じり込んできたいつぱん学生ということになるが、あまりにも出来すぎた偶然だ。

 ──この世に偶然などありません。すべては必然です。にんすることのできなかった必然を、人は偶然と呼ぶのですよ……。

 だれかが言っていた言葉、いや長門から適当に借りた小説にあったセリフだったかな。

 ぼんやり考えつつ、俺は意味もなく妹からシャミセンを取り上げ、鼻と鼻を近づけた。いつものようにめいわくそうに顔をそらすシャミセンに、

「ヤスミをどう思う」

 独り言にしかならないと理解していたが、なんとなく誰かに胸中を分けあたえたい気分だったのさ。

「ヤスミお姉ちゃんって言うの? ハルにゃんやつるにゃんのお友達?」

 ねこよりもまん丸の目をした妹がわきから口を出してきたため、俺はうんざり顔のシャミセンをゆかに下ろした。これ幸いと部屋を立ち去るシャミセンの猫追い人となった妹も出て行って、ようやくのせいじやくが自室に立ちこめる。

 いくら考えても解らない。まるでlog記号なしでフォアフォーズの素数を永久に解き続けよと明示された数学助手のような気分だった。

 あいつは渡橋ヤスミ。そういう名を名乗る北高の一年生で、ハルヒの認めたSOS団新入団員一号である。

 だが、何者なんだ?

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