第六章 2

β─9


 翌日、水曜日。

 特に何もなく、ただ考え込むだけの一日がおとずれた。

 シャミセンとともにベッドに転がっていたところを妹に強制かくせいに導かれた俺が朝一番に想起したのは、ああ、また何やら思いなやまねばならない時間がやってきたということだけだ。まったく考えることが多すぎて、何からどうやって手をつけていいのやらほうに暮れざるをえない。

 当然、こんな目覚めが快活なものになるはずはなく、俺はしようしたしゆんかんからゆううつである。意識を失っている時間ってのがなかなかに幸せなんだと気づかされる事例でもあるな。すいみんとうにはもってこいだ。ただの事態の先延ばし、時間のづかいとも言えるが。

 朝っぱらからシャミセンを背後からネックハンギングしてり回している妹のじやさに微笑ほほえましさを通りしてしつする俺は兄として何か重大なけつかんかかえているのかもしれないな。俺も数年前は似たような童心を持っていたはずなのだが、とんと記憶に残っていない。むしろ忘れたい思い出ばかりだ。ほとんど同じDNA保持者のくせに、俺と妹、どこで道をたがえてしまったのだ。性別的時代的な区別がそうさせているのだろうか。それとも血液型が違うせいかね。俺はABO式の血液型性格診断と星座うらないをまったく信じていないから、めいしんなどどこふくハリケーンなのだが、人格形成には周囲の人間、特に友人にえいきようされやすいということなのであろうか。

 俺はひねくれ者として成長し、妹は直情径行一直線ななおさをして、この調子では数年後でも変化なしだろう。中学入学以降にかんきようが変わり、周囲に毒されてはんこう全開にならないよう、兄としてはひそかに願ってやまない。妹にはいつまでも鶴屋さんのような脳天気人間でいて欲しかった。いっそ鶴屋家に臨時の養子として送り込んでおくというのはどうだろう。鶴屋さんならケラケラ笑いながら、自然に妹の教育係を大いに楽しみつつ、そしてかんぺきしゆ混じりの仕事を全うしてくれるだろう。鶴屋二号が新たに誕生するのはちょっと不安でもあるが。

 ちなみに鶴屋さんは俺の知っているいつぱん人類でもっともたよりになるせんぱいだ。そのうち俺に代わってハルヒや朝比奈さんにまつわるSOS団に関するすべてのもめ事を、かいとうらん的に一刀両断するのは、ひょっとして彼女なのではないだろうかとすら思える。どうも鶴屋さんにはそんな気はないらしいが、好むと好まざるとに関係なく、まるで部外者ってわけでもないんだぜ、先輩。

 彼女に預けたままになっている、なぞのオーパーツ。鶴屋山からはつくつした鶴屋一族の祖先からの時代をえたオブジェクトとメッセージがある。あれはいずれ、ここぞというときに必要になるはずだ。ただの文化せきではありえない。俺の持っているもう一つの切り札だ。あれが未来人へのカウンターアイテムになるのか、異星人へのとどめの武器になるのか、それは不明だがるべき日が必ず来るに違いない。むろん、何の役にも立たないげんろく時代のガラクタだったというオチだとしても、そのかくはできている。

 しかし、ジョーカーは多いに越したことはないよな。それが競技麻雀マージヤンにおける赤5や裏ドラやオープンリーチじみたものなんだったとしてもさ。



 いつものように、ルーチンワークの登山登校をしなければならないのは朝のてんびよう的日常にすぎない。

 俺の足取りもいつものペースだが、多少早歩き気味なのは無情な校門がざされてしまう時間ギリギリであるせいである。いつものことなんだが、ゆうを持っての登校をついぞ実行できていないのは、家を出発する時間がおおむね決まっており、さかのぼれば起床の時間も一年から二年になっても変化をしていないという事実をもってその答えとしたい。一回間に合いさえすれば、次からも同じ時間での発走となるのは、実は人間が持つ経験値ちくせきの結果と言うべきだろう。用もないのに早朝の学校に行きたがる生徒なんざ、ボロ校舎にとうさく的な趣味を持つフェティシズムの持ち主だけさ。

 特に本日、いんうつたる通学路の途中、毎度のことながらひいひい言いつつ坂道を上っていると、背後から意外な人物の声がかかった。

「キョン」

 国木田だった。俺の後を急いで追ってきたんだろう、国木田はあらい息をきつつ、それ以上に、今まで見たことのない、どこか途方に暮れているような顔を見せて、

「キミは僕が昔から知ってるとおりの人間だね。今も変わってない」

 とつじよ、朝方のあいさつとはややおもむきの変わった第一声を放った。

 何だ、改まって。今こんなところで俺への感想を述べる必然性がわからんぞ。

 国木田は俺の横に並び、俺は心ばかりに歩調をゆるめた。じやつかん呼吸をやわらげた国木田は、俺のしん気な表情を無視して、

「佐々木さんもそうだね。中学時代と同じだ。今でも僕の彼女に対する印象は変わらない」

 それが何だ。どうして佐々木の名がお前の口から出てくるんだ、このタイミングで。

「つまりさ、僕もキョンも佐々木さんも同じような高校生だってことだよ。でもね、九曜さんに最初に会ったとき、僕は何か違うなって思ったよ。谷口には悪いけど、かかわり合いにならないほうがよいと直感したんだ。この直感が今も働いている」

 するどい──。とも言えないか。あの九曜を見てうさんくささを感じないまともな人間がいるとも思えんからな。国木田の感想はごくまっとうなノーマル人間のそれだろう。

つうで、へん的で、へいぼんな人間ではない。いいのか悪いのかは判断できないよ。でも僕なら彼女と付き合ったりはしないね。谷口くらいのものさ。でさ、実はね──」

 声をひそめた国木田の顔が接近した。

「ちょっと言いにくいんだけどさ。僕は似たようなことを朝比奈さんと長門さんにも感じるんだ。気のせいだとは思ってるんだけど、どこかがちがう。けれどあの鶴屋さんがあししげくキョンたちの輪に入っていることを考えると、それはけいかいするものでもないだろうとも考えるんだけどね。いや、ごめんよキョン。気にしないでくれよ。一度言っておきたかったんだ。SOS団でまた僕の活動が必要なときはいつでも声をかけて欲しいね。できたら鶴屋さんといつしよがいいな」

 その後、教室まで、俺と国木田はどうでもいいような日常的会話に終始した。国木田は言うだけ言ってそれっきりすべての興味をなくしたように、中間試験の心配や、体育の授業でする二万メートル走へのを語っていたが、なかなか見事な日常話題への切りえだった。

 こいつはこいつで俺にライトなアドバイスをしてくれているつもりなのか。特に鶴屋さんへのげんきゆうは、ばくぜんとしながらもなかなかかくしんをついたどうさつ力だと言わざるをえないだろう。

 ここにも俺たちをよく解らないまでも心配の種としている同級生がいるわけだ。何しろ国木田は俺と佐々木を知っているほぼゆいいつのクラスメイトだしな。俺たちの間に何かみようかつゆがんだ関係性めいたものがあると感づいていてもおかしくない。さとく、親身になってくれる友人を持って俺はなんと幸せ者か。テスト前のヤマ張りでもお世話になっているし、中学時代からのつき合いでもあることだし、そろそろハルヒにかけあって単なるクラスメイトその一以上のにんしきあたえるべきだろう。ただし谷口は除かせてもらうがな。やつには永遠の一人まんざいがお似合いだぜ。

 きっと国木田もそう思っているのだろう。だから、先ほどのようなセリフを俺たち二人しかいない、このタイミングで俺にしたんだ。

 どうも俺の周辺のいつぱんじんほど、なんだか妙にかんがさえてくるみたいだな。だれえいきようだろう。



 午前午後の学業時間はこれということもなく進行し、俺が授業の半分くらいをうつらうつらしている間にいつのまにか終業のチャイムが鳴っていた。

 放課後、以前宣言したとおり、ハルヒと朝比奈さんは長門の看病に直行し、文芸部室には俺と古泉の男子二人組が取り残されている。レギュラー三人むすめが来ないと解っている部室のなんと殺風景なことだろう。ついでに仮入団を希望する一年生だって人っ子一人現れない。まあ、そっちは現れなくてもかまわないし、新入生からオールシカトを受けている事態は、俺個人的にはむしろ有りがたい。今こんなじようきようでやって来られても店長が休み中に面接に来たバイト希望者に対するあつかいなみに対処に困る。

「ん?」

 そこでハタと気づくのだ。つまるところ、やはりハルヒあってのSOS団なのである。あいつが不在ではまったく運営が成り立たず、説明会だって出来ない。機関車なしの客車にどう力は存在せず、ただ線路上にて漠然とした不安をかかえつつ立ち往生するだけだ。

 むっつりとしたちんもくに身を任せていたら、

「どうでしょう。ボードゲームのあてもきてきたことですし、たまには身体からだを動かしてみませんか」

 古泉が不自然さ丸出しの朗々たるこわいろで呼びかけてきた。

「いいだろう」

 なんとなく一暴れしたい心境ではあったのだ。

 古泉はだなの上に積まれていた段ボールを降ろし、その中身を俺に見せつけた。

 へこみだらけの金属バットにボロいグラブは、以前、市がしゆさいした草野球大会に出たときのものだ。野球部からせしめてきたセコハンの野球道具をハルヒは処分しようとせず、かたくなに保存し続けているのである。どうでもいいものを巣にしまい込むハムスターかあいつは。よもや今年も野球大会に出るつもりなんじゃないだろうな。出るくらいならいいがホーミングバットと俺のマジカル投球でのイカサマを二年連続でろうしたんじゃさすがにひんしゅくを買うだろうし、俺としても二度とピッチャーマウンドに立つつもりはないぜ。まだ草サッカーのほうがマシだ。

 段ボールの中をのぞくと、こうなんどちらの野球ボールもなかった。代わりにハルヒがどっかから拾ってきたテニスボールが転がっている。中庭でするんだったら野球のものよりこっちのほうが安全だろう。

 俺と古泉はあちこちささくれだらけの野球グラブとけいこうイエローの毛羽立ったテニスボールを手に、客人などおとずれそうにない部室を後にした。



 中庭はかんぺきに無人だった。帰宅部はとっくに任務を果たして校内には残っておらず、文化部もそれぞれの部室で何かそれっぽい活動に従事していると見える。聞こえるのはすいそうがくの下手なラッパの音ばかりだが、それもグラウンドからひびく運動部部員たちのやけっぱちのようなかけ声にかき消され気味である。

 おかげで昼休みには弁当を広げて囲んでいる生徒たちの姿も見えず、俺たちのキャッチボールをがいするのはところどころに植えられた桜の木だけだった。もう花びらはほとんど残っておらず、みのむしが喜びそうな新緑が勢力をばしているころいだ。

「では、まず僕から」

 とことんさわやかな古泉が山なりボールを俺に投げた。

 受け止めた俺のグラブにはほとんどしようげきも音もない。手加減しているのが見え見えだ。

 俺はテニスボールをにぎりしめ、サイドスローで投げ返した。

「ナイス、ピッチ」

 受け止めた古泉がいつものおためごかしをのたまい、ボテボテのゴロを内野手がファーストに投げるようなゆうさでこっちにボールをよこしてきた。

 しばらくの間、古泉相手にひまつぶしとしか言いようのないキャッチボールを続けているうちに、俺は忘れかけていたような、むしろ忘れたかったような橘の言葉をいやおうなしに思い出した。

 ──尊敬しちゃう。

 SOS団の形式的な副団長をそんすうの対象とする人間などそうは多くない。ツラと人当たりだけはいいから同級の女子どもに人気があるというのを差し置くとして、

「古泉」

「何でしょう」

「いや……」

 俺は口ごもり、口ごもった自分に舌打ちをしたくなった。古泉こそがちよう能力集団のしゆかいで、もりさんもあらかわさんもまる兄弟もその手下であったなど、すぐさま信じ込むほど俺はなおではない。

「なんでもねえ」

 不自然に言葉を切った俺に対しても、古泉はさっぱりしんげな顔色を見せず、むしろ何もかもお見通しのような口調で、

「では、僕からも一ついいですか」

 逆質問を返してきた。

「グノーシス主義という言葉に聞き覚えはありませんか」

「まったくないな。政治ぜんぱんにはうとくてね。共産主義と社会主義のちがいもよくわからん」

「それは解っておいたほうがいいと思いますよ。後学のためにね」

 古泉はしようし、グノーシスですが、と言葉を続けた。

「どちらかと言えば思想的、または宗教的な主義の一つです。異国の宗教行事を都合よく無節操に取り入れる、我々の住む多神教ライクな国にはみにくいがいねんかもしれません。たんてきに言うと、ゆいいつ絶対神をしんこうする方々の中でも異端と呼ばれる一派の主張です。その成立時期は相当古くまで歴史をさかのぼらねばならないでしょう。今でこそ完全に異端にんていされていますが、キリスト教が確立したころにはすでにあった考え方ですよ」

 あいにく公民の授業はほとんどすいみん時間についやしているのでね。お前が何を言わんとしているのか、ちと見当がつかんよ。

「では、グノーシスについて一くさり述べさせてもらいます。ダイジェスト風味になりますが、どうかごようしやを」

 小学生にも解るくらい簡潔にまとめてくれるんだったら、俺に反対意見はない。

「この世界はあまりにも悪徳に満ちている。と、昔の人は考えたんです。もし全知全能にしてびゆうの名をほしいままにする神が世界を創造したのだとしたら、これほどまでにじんな苦しみを人間にあたえるものになるはずがない。もっと完全なるユートピアになっていてもおかしくはない。にもかかわらず、世界は社会的じゆんによる不条理によってまんえんし、時として悪が栄えて弱者はしいたげられる。なぜ神は、このようにひどい有り様の世界を作り、ただ放置しているのか」

 バッドエンドルートに入ったことに気づいてやる気をなくしたんだろう。

「そうかもしれません」

 古泉は手元のボールをほうり上げ、ひったくるように空中でつかんだ。

「ですが、こうは考えられないでしょうか。ごくごくシンプルな回答です。すなわち、世界は善なる神によって創造されたのではなく、悪意ある神的な何者かによって設計されたのである、と」

 どっちでも似たようなもんだろうな。間違った設計図にもとづいて家を建てちまった大工に悪意があったのかどうか、それは司法の判断に任せるさ。

「で、あるならば、神がしばしば悪逆非道をのがすのは当然のことです。その本質は悪なのですからね。しかし、人間は何も悪人ばかりではない。ちゃんと善なる性を持っているのです。悪を悪として認識できるということは、対比としての善を知っているというしようでもあります。もし世界が一分のすきもないほど悪で満たされていたならば、そもそも善などという概念すら生まれないでしょう」

 指先でボールを自転させながら、

「そこで昔の人々は、世界は神のにせものが作り上げたのだという考えに至ったあげく、かつ自分たちがその認識にとうたつできたのは、どこかに真なる神が存在していて、人間たちにわずかながらの光を差し伸べているにほかならないと確信したわけです。つまり神は世界に内在されていないものの、外界から人々を見守っているのだと」

 そうとでも思わないとやりきれなかったんだろうな。

「まさしく。もっとも、世界の創造主をあく呼ばわりしているわけですから、通常の信仰を持つ多数派の信者からは当然ながらだんあつの対象になりました。アルビジョワ十字軍はもう世界史でやりましたか?」

 どうだったかな。あとでハルヒに聞いておくよ。

「ちなみにこのグノーシス主義ですが、割と現代にもがつする教義を持つと言ってもいいでしょう。というのも、有史以前より、人類の精神は言うほどには変化していないんです。我々が考えられるようなことは、昔の人にも可能だったんですね。いくら科学技術や観測精度が進歩しても、生物学的な思考レベルが劇的に向上することはありません。我々が進化のふくろ小路こうじにさまよい込んでいる現状は、何も今に始まったことではないのです。人類史における永遠の命題ですよ」

 論理のやくがあったような気がするが、学術的なツッコミを不得手とする俺はざかしくちんもくを守っていた。下手なちゆうしやくのおかげで会話のだつせん事故を起こすのは俺の主義じゃない。

「と、まあ。そういうわけで、今の我々を取り巻く現状を整理しますと──」

 長々とした説明セリフは前りだったわけか。いつも通り、古泉らしい回りくどさだ。

「橘さんの一派は、涼宮さんをいつわりの神だと考えているのですよ。彼女はこの世界を構築した創造主ではあるのかもしれない。しかし、彼女はあまりに無自覚であり、その無自覚さによる、まさにその一点の事実によって、真の神たりえない。だとするならば、どこかに彼女たちのしんぽうに足る真実の神がいるはずなのだ、と。そして彼女たちは発見しました。発見したと思いこんだだけかもしれませんがね」

 それが佐々木か。俺の中学時代のクラスメイトにして、しよう親友の風変わりな女。

へい空間のこともありますしね」

 古泉は世間話のような口調で続ける。

「涼宮さんの閉鎖空間はかいしようどうに満たされています。創造主にしては建設的ではありません。まさかあの空間で公共事業をさかんにゆうしているわけでもないでしょうし」

 クソつまらないジョークを織り交ぜつつ、

「一方の佐々木さん、彼女の閉鎖空間は非常に安定していると聞いています。まるで定常宇宙論のようにね。そこにはどうやら永遠のせいひつがありそうです。人によったら、そちらの世界を望む者も多いでしょうか。《神人》も何もない。静かで安心感のある非現実空間というものを」

 俺は思い出す。あわい光に包まれただれもいない街角。無人にしては、なんとなくやわらかい気配を感じる、どこかやさしさをかいせる空間。ゆっくり受験勉強でもするなら自習室に困っている学生がわんさと入場許可を求めてきそうではある。

「さらに言えば──」と古泉。「佐々木さんのように常に発生させ続けているほうが問題は少ないのですよ。とはいえ涼宮さんはまともな精神の持ち主ですから、意にわないことがあったとしてもすぐにばくはつするわけではなく、ちゃんとこらえることを知っています。これが導火線に火のついた状態ですね。ちゆうで消火できれば何事も起こりませんが、積み重なれば火薬庫にまで火が届くのです」

 あいつは二十世紀初頭のバルカン半島情勢かよ。

「どかん」

 と、口で言いつつ古泉は両手をひろげ、

「かくして閉鎖空間が発生し、《神人》が拡大をそくしんする」

 古泉はアゴをでつつ、とっておきの推理をかいちんするめいたんていのようなしばで言った。

「その逆で、佐々木さんは常時、定量の閉鎖空間を展開させつづけることによって、暴走を食い止めている。そういうくつでしょう」

 で、どっちがマシなんだ? ため込んだ物を不定期に発散させるのと、常にダラダラと垂れ流すのとでは、どちらがばんにんにとって好ましい?

「さあ、そこまでは」

 あっさり古泉は回答をほうして、ボールを親指ではじいた。

「僕は涼宮さんの側ですから、判断がかたよらないとは言えません。誰が客観的に判断するのだとしても、僕ではないことは確かですよ。僕は僕の役割をひたすらこなすだけです。職分をえる事態には不加入をつらぬき通すだけの自信はありますよ。それが得意分野ならまだしも、僕の目は涼宮さんに関する限りややくもり気味でしてね。誰か涼宮さんと佐々木さん両方をよく知る何者かに任務をがんしたいところです」

 はてはて、いったい誰のことやらだな。

「もう一つだけいいでしょうか」

 古泉の口調は春先のヒバリのようにかろやかで、

「今この時点で、我らSOS団はいまだかつてないレベルで団結しています。外宇宙生命体だの地球土着の未来人だの、涼宮さんシンパの限定ちよう能力者だの、そんなかきは完全に無きに等しいんです。僕たちは完全に一つの目的に向かっておもわくいつさせている。中心人物はもちろん、涼宮ハルヒさんと、そして──」

 たいかんとくから演出の指示でもあったようなタメを作り、大げさな身振りでささやいた。

「あなたなんですよ」

 しらばっくれるのもどうかという気がしたので、俺は手にしてたミットを意味もなくたたいた。おらばっちこい。古泉のセリフを待つ。

「これはSOS団全員に関係する問題です。誰もがかかわっているのですよ。長門さんと九曜さん、朝比奈さんと藤原なる未来人、僕たちの『機関』と橘京子一派。あなたと佐々木さん。これらすべて、一本の糸でつながり、からみ合って、ただ一つの中心点へ向かっているはずです。その中心で、何かが起こる。何が発生するのかはともかくとして、必ずアクションの結果としての結論が出るはずです。これはもう、あなただけの問題ではなくなるかもしれませんね」

「じゃあ、俺は何をすればいいんだ? どうか? ぼうかんしやか? 後世の歴史家のために記録係にてつすればいいのかよ」

「どれでもいいではありませんか」

 古泉はツーシームかフォーシームか選ぶようなピッチャーのようにボールのい目に指をはわせながら、

「その時が来たらすべきことなどすぐに理解できるでしょう。またはそうせざるを得ないじようきようになっているかもしれない。あなたは自分の意志に従って実行すればいいんです。考える必要などないかもしれません。人間、決断力さえおとろえていなければ、とっさに最適な行動を取るものです。あなたの行動は今までずっと正しかった。次もそうなるであろうと、僕は確信半ば、期待半ばでいるのですがね」

 それだけ言って、すべてを言い終えたのだろう。古泉は再び俺にボールを投げ込んできた。なかなかびのあるストレートだった。グラブに収まったボールをにぎりしめながら、俺もまた聞くべきことは聞き終えたようだなと判断していた。

 確かに──。

 古泉でも朝比奈さんでも長門でもない。当然ハルヒなんかではあるはずがない。

 ケリをつけなければならない役割は俺にパスされたのだ。最初からそうだったんだよな。いつもなら「やれやれ」とでもうそぶくところだが、ふういんしたセリフを開封するまでもない。

 俺は最初からその気だったんだ。ずっと気づいていた。むろん、何をすりゃいいのかまでは知らん。だが、やってやるさ。長門がひっくり返り、ハルヒと朝比奈さんの心配顔が脳みそのどっかでちらつきやがる。あげくに古泉とキャッチボールだと?

 こんなの俺のすることじゃねえ。SOS団の業務にこんなくだらない作業はないはずだぜ。これまでもこれからもな。

「ふん」

 俺は大きくりかぶり、ワインドアップモーションで古泉のグラブめがけてこんしんの一球を放った。

「ナイス、カーブ」

 たたえてくれたが、俺はストレートのつもりだったんだがね。

「まあ、いいか」

 俺らしいといえばいやいやながらもなつとくするような結果だ。さぞかし打者もげんわくされてくれることだろう。

 では、投げに行くとするか。だれになるかはわからんが、そのバッターに。

 俺の渾身の変化球を。

 投じた俺のボールが古泉の手元で小気味いいかわいた音を立てた。

「もし俺がスーパーマンみたいなアメコミのヒーローに変身して──」

 あり得ないはずの展望とは解りつつ口にしてみた。

「それで、この世のいつさいがつさいをバンバン解決するだけの能力があればな。この際だ、正義の味方になるなんてのはきよして、ただ気に入らないやつをかたぱしからボコっちまうんだがよ」

 返球しようとしていた古泉はモーションを止め、ジャングル奥地のめずらしい希少動物を発見したような生物学者の目で俺を見つめた。ふふふと、特有のうすい笑いの後、

「不可能ではないんですよ。涼宮さんがそう願えばいいのです。あなたにかくされた力が存在し、日夜こんとんとした何者かととうり広げている──、そんな設定だけでも彼女に信じ込ませることができれば、あなたは思い通りのスーパーヒーローになれるでしょう。なんでしたら協力をしみませんが、どうでしょう。パンチ一発でエイリアンをっ飛ばし、れつぱくの気合い一つで未来人のおもわくを粉々にさいする、そういう武闘派をお好みですか? 繰り返しますが、涼宮さんだいでそれは決して不可能ではないのですよ」

 考える時間はまったく必要でなかった。それは俺の役割じゃない。とつじよとしてちようじよう能力に目覚めて目下の敵をバッタバッタとなぎたおす? それも武力でだと?

 いつの時代のジュブナイルだよ、そんなの。三十年も前にすたれたはずじゃなかったか? 今時そんなのやろうってのは、レトロブーム以前に人間の文化的精神がとんと進化していないという明白なしようじゃないか。俺はもっと新時代の物語に接したい。

 なんせ、あいにく俺はひねくれ者なんでね。王道やマンネリなどくみ取り式トイレのわきに置かれている紙くらいの価値としか思えないのさ。

 俺は古泉の投げ返してきた超スローカーブともとれる山なりボールを受けとり、さてこのテニスボールにどんな回転をあたえれば打者の意表をつくきゆうを投げることができるだろうかと考え始めたものの、下手な考え休みに似たりという格言を思い出したにすぎなかった。



 キャッチボールにもきたので、俺と古泉は部室にかんげた。当然、誰もいない。入団希望の一年生などかげも形もれいたいもいやしない始末であり、多少は意外に感じるところでもある。あんだけ新入生がいるんだから、一人くらいは頭のギアが風変わりなのがいてもいいと思うんだが、こんなことを考えるのは俺ののうにハルヒ色のテイストが加わりつつあるからかね。

 ハルヒと朝比奈さんからは何のれんらくもなく、たぶん長門の部屋でわいわい楽しくやっているんだろう。便りの無いのは無事の証拠だ。きっとハルヒは長門のしようじようをこじらせた風邪かぜ程度に考えていて、独自の民間たいしようりようほうで意地でも直すつもりだ。いろいろ手伝わされているだろう朝比奈さんは、長門を苦手としているはずだが、弱っている仲間をの当たりにしてイデオロギー的対立などすっかり忘れていることだろう。大人の朝比奈さんはともかく、今の朝比奈さんはそこけにいい方だ。ナース朝比奈、まさか本当にナース服ではいないだろうが。

 部室にもどってきたものの、ほかにすることは、プロ野球でわずか1イニングも持たずに降板したルーキーの先発ピッチャー並みになかった。

 というわけで古泉とのキャッチボールの後、たらたらと後かたづけをして、パソコンの電源が最初からついていなかったこともかくにんし、じようした上で、俺たちは学校を後にした。いい機会だ、とっとと帰宅してかくを再確認するためのめいそうでもしとくか。



 愛用の自転車をげんかんさきにつっこみ、かぎのかかっていないとびらを開いた俺の目に映ったのは、ぎ散らかされた妹の小さなカラフルシューズと、見慣れない黒いローファーだった。大きさからして女の子のものだろう。またミヨキチが上がり込んでいるのかと、特に考えることもなく階段を上って自室に入った俺は、すんでのところで出来もしないバク宙をしてしまいそうなくらい、のけぞった。

 ちょこんと座ってニコニコしている妹が無断で俺の部屋に出入りしているのはいまさらおどろきはしないが、その相手をしている女の姿には田舎いなかの山道でオニヤンマが額にぶつかってきたくらいのしようげきを受けざるを得ない。

 シャミセンをひざに乗せ、いとおしそうにあごでてやってるそいつは、俺を見上げると目を細くして微笑ほほえんだ。

「やあ。いいねこだ。知っているかい? 誰かのエッセイで読んだんだけど、種類や血筋とは関係なく猫にはアタリとハズレがあるそうだ。明確な基準は飼い主の自主性に任されているらしいのだけどね。僕の見る限り、このシャミセンくんは大当たりだよ。いや、オス三毛猫という福々しさだけじゃない。何というか、適度にさとく、適度にじゆうせいを残している彼は、ひょっとしたら人間の子供よりも人間のことをわかっているんじゃないかな」

「こいつは自分を猫だと思ってないんじゃないかって気がしている。人間よりえらそうな時があるからな」

「キョン、それは逆だね。猫は人間のことを仲間だと思っているが、それはあくまで猫としてだよ。猫たちは人間をちょっとばかりずうたいの大きい猫だと考えているんだ。だからえんりよなんかないのさ。だって彼らからしたら、人間は自分たちよりしゆんびんでもなくエサの取り方も知らない、のろまで座ってじっとしているばかりのにぶい生物なのだからね。そこが犬たちとちがうところさ。犬と人間は古代から同じ社会性を身につけなければならなかった。群れで生活するのは人間も犬も同じだからさ、なじみやすかったんだ。きっと犬たちは自分たちも人間の一種だと考えているのだろうね。だから彼らは飼い主やリーダーには忠実なのさ」

「佐々木」

 俺はかばんを下ろすことも忘れてかすれ声を出すばかり。

 それからやっと、妹へ向き、

「オカンは?」

「晩ご飯のお買いものー」

 我が妹ながら脳天気な返答だった。

「そうか。まあいい。とりあえず早く出て行け」

「えー」

 ふくれつらを作った妹は、

「せっかくお姉さんと遊んでたのにー。キョンくんいじわる?」

 せいいつぱいあいきようりまいて小首をかしげるが、

「じゃねえ。俺は佐々木と大事な話がある。というか、佐々木を家に入れたのはお前か。あれほど一人の時は知らんやつを家に入れるなと」

「知らない人じゃないもーん。佐々木お姉さん、キョンくんが前によくつれてきてたよねー。玄関までだったけど、自転車でいつしよに出かけるとこ、しょっちゅう見たもんねー。ねー?」

 こまっしゃくれた顔で妹は佐々木に同意を求め、佐々木はしよう混じりにうなずいた。

「覚えていてくれたようでこうじんだ。いやあ、子供の成長って早いね。見違えたよ。うん、もう子供というのは失礼かな。立派な少女と言うべきだろう」

 そうか? 俺にはあのころから見た目も中身も全然成長しているようには思えないが。

兄妹きようだいなんて、そんなものだよ。幼い時分から一緒にいるものだから身近な風景の一部になっているのさ。日々の成長をリアルタイムで見ているせいで、その結果をアナログ的にしか判断できないんだろう。一方、僕はデジタル的に観察する他ないので、逆に成長いちじるしく思えるというわけだ」

 もっともな話だが、俺んちの妹についての感想を述べに来たわけではないだろ?

「まあね。とつぱつ的に行動するほど僕は情動に支配されていないよ」

 俺は佐々木の膝上でゴロゴロのどを鳴らしていたシャミセンをごういんに引きはがし、妹に押しつけてその背を押した。

「にゃあ」

 こう的鳴き声をたてるシャミセンを無視し、

「ちょっとでいいから下で遊んでいろ。俺はこれから二人で話すことがあるんだ。お前らが聞いてもおもしろい話じゃないし、遊ぶわけでもない。リビングの猫箱にマタタビスプレーがあるからつめぎ板にふりかけとけ。ついでにトイレの砂のこうかんとブラッシングしてやれば喜ぶぞ」

「ええー? あたしもお姉さんとお話ししたいーっ。キョンくんの話聞きたいのー」

 シャミセンをき上げたまま抗議の意を全身で示す妹を、俺は強引にたたき出した。扉の外でぶうぶう文句を垂れていたチビ小学生と猫一ぴきは、しばらくわあわあニャゴニャゴ言っていたようだが、やがて階下に下りる音がして、おかげで俺の冷静さもようやく雲の上からもどってきた。

 くくく、という佐々木の楽しそうなふくみ笑いも俺を平常に戻す効果があったと言える。

「実に、実に、かわいいね。少し話しただけで解ったよ。あの子はまぎれもなくキョンの妹さ。成育かんきようがよかったんだろうね。なんだかんだと、兄が好きなんだなと知らされたよ。彼女にとってキョン、キミはまるでほうのように何かをしてくれる一番近い肉親なのさ。猫が欲しいと思っていたちょうどそのときにあの三毛猫をつれてきたりとかね。ずいぶん尊敬しているようだったよ」

 尊敬の念のへんりんすら感じたことがないのだが。二、三年前までの妹は本当に手のつけられない泣き人形だった。何回さるぐつわをませてやろうかと思ったか。だが家族構成に妹が存在しない連中は妹という言葉に勝手なイメージをつけたがるものだと経験則的にわかっていたから、外的に見るとまあそんなものなのかもしれない。が、んなもんどうでもいい話だ。

 と思っているところに、佐々木が追い打ちをかけた。

「ところで全然関係ないのだが、猫というものはどうしてしんせんな水よりもに入った後の残り湯みたいなものを飲みたがるんだろう」

 何の話だ。

 佐々木はくくっと含み笑いをし、

「だから最初に言ったじゃないか。全然関係ないと」

「そいで?」

 俺はまだかたにかけていたかばんをベッドにほうり出し、佐々木の前に胡座あぐらをかいて、微笑ほほえましい表情をくずさない同窓生の顔を見た。

「これからどんな話を聞かせてくれるんだ? できれば関係のある話を聞きたいんだがな」

「いろいろだよ」

 佐々木から向けられた視線は八分きのそめよしのようにやわらかだった。

「そろそろキミも限界に達しているんじゃないかと思ってね。前回の会合は様々な意味で横やりが入りすぎたよ。僕としては、こっそりキミと水入らずで話す機会をねらっていたのさ。てっきりキミの方から提案があるんじゃないかと昨夜中ないで待ち続けていたんだが、さっぱり音無しだったのは軽くショックだったぞ」

 そんな大げさなもんでもないだろう。こっちはこっちでほうに暮れていたんだ。異星人相手にどんな手を打てばいいのかとか、銀河パトロールの受付センターはどこのタウンページにっているのかとかさ。

 佐々木は自分のけたわな在処ありかをすべて知っている悪戯いたずらぞうのような顔で、

はくじようだなあ。いいさ。僕はキミの対応には慣れているからね。かんようの精神で受け入れるにあたってちゆうちよはない。ではそつちよくに、本題に入ろう」

 俺には本題とやらが何なのかあいまいとしていたが、とりあえずうなずいておいた。そこまで言ってくれるからには、ここはだまって佐々木的意見をはいちようしようじゃないか。わざわざ自宅訪問までしてくれたんだ。何か耳よりな情報をお聞かせいただけるにちがいない。

「まずは周防九曜さんについて僕なりに試行さくした上で、まとめた見解を述べよう」

 確かにそれは俺の耳が聞きたがっている情報の一つだ。ダックスフントの耳なみにかたむける価値が大いにある。

 佐々木はひざに付着していたシャミセンのけ毛をふとつまみ上げ、見つめながら、

「僕は子供のころから、地球外生命体がいるのなら、いったいどんな姿形をしているのかと想像していた。小説やマンガでは、光学的ににんできる形状のものが多かったし、ある程度の意思つうも可能であることが前提条件だった。たとえば素数のがいねんを理解してくれたりね。ほんやく機という便利なアイテムが登場することもまれではなかったな」

 そこから始まる宇宙的対話がキモであるSFは枚挙にいとまがない。これでも俺は長門のえいきようで最近の小難しい海外SFを多少はたしなんでいる。フィクションから学ぶことだって多いのさ。

「ま、それはそれで置いておくとして、」

 と、佐々木は摘んでいたシャミセンの毛をふらふらとらし、

「長門さんの情報統合思念体や、九曜さんのてんがい領域については、どうやら人間のつむぐ解りやすい物語上の異星人とは根本的なズレがあるように思える」

 火星や水星にヒューマノイドタイプの宇宙人がいたと書いていた前時代のSF作家たちに聞かせてやりたい言葉だ。たぶん当時よりもっと面白い物語活劇を書いてくれただろうにな。

「そうだね。SFに限定することもなく、例えばJ・D・カーがこの時代に生きていたら、現代技術を取り込んだばつしんじくな密室トリック小説を大量に生み出して、僕を読書のとりこにしてくれたものなのにね。いっそカーを時間移動で現在に連れてこられないものだろうか。キミの朝比奈さんにたのんでみてくれないかな。しんけんにそう思うよ」

 残念だが俺だって過去に連れて行かれたことがせいぜいで、未来には行けてない。きっと禁則こうやら何やらで、進んだ時間の世界には行けないことになってるんだろう。

「それは余談だけどね」

 佐々木の細い指先から三色の細い毛がゆらりと落ちた。

 すずやかなひとみが俺の顔をとらえる。雑談はしゆうりよう、というサインだ。

「思うに、彼女たちは僕たち人間の価値観とくつが理解できないんじゃないかな。高次元の存在が無理矢理、人間のレベルまで降りてきているわけだから、何を話しているのかは解っても何故なぜそんなことを話しているのか解らない。あるいは、どうしてそんな話をする必要があるのか解らない、みたいにね。5W1Hのうち、だれとどこは判断できても残りが全然ダメだとしたら、そんな存在とまともな対話ができると思うかい?」

 思わないね。長門の言っていることすらなつとく不能に近いのに、九曜に至ってはフーダニットの部分でも問題があったようだったからな。

 しかし佐々木は、

「この手のコミュニケーション不全は特に難しい問題ではない。たとえばキミはミジンコやゾウリムシの価値観を理解できるかい? ひやくにちぜきバクテリアやマイコプラズマといつしよだんしようできると想像できるかな?」

 俺の知能ではちと難しいことは確かだな。

たんさいぼう生物やバクテリアが人間レベルの知能をかくとくしたとしても、きっと同じ感想をいだくと思うよ。この二本足で歩くにゆう類はいったい何を考えて行動しているのかな、とね。人間はいったい何がしたくて生きているんだろう。人類はこのわくせいと世界をどうしたいのか、と疑問以前にあきれるかもしれないな」

 俺自身、何がしたくて生きているのかなんて考えても解らんからな。全人類的に考えてあつとう的多数派であるとは信じているが。

「たとえばキョン、キミにとって一番大切なものは何だい?」

 とつぜん言われても、とっさに出てこない。

「僕もだよ。高度に情報のさくそうする現代社会において、価値観が定量化されることはまずないといっていい」

 佐々木の表情と口調は変化しない。

「たとえば、ある人にとっては金銭かもしれないし、情報だと言う人もいるだろう。別の人はきずなこそが最も大切だと主張するかもしれない。それぞれ全然別の価値基準を持っているものだから、自分の価値観のみでこの世のすべてを判断することはできない──と、僕もキミも知っているだけの話さ。だからこそ、問われてすぐさま回答を出すことができないわけだ」

 そうかもしれない。

「でも昔の人はそんな問いかけにそれほどなやまなかったと思うよ」

 そうかもしれない。

 今でこそ情報は好きなときに好きなだけごまんと手に入る。しかしほんの百年、いや十年前でさえ入ってくる情報は限られていた。これが戦国時代、平安時代ともなるとどうだ。何かを選ぶことに対し現代人より躊躇ためらいは深いものだっただろうか。当時、選びようにもせんたくは限られていたにちがいない。

 多様性を増して選ぶ自由が増えたと言っても、逆に何を選べばいいのか悩むのであれば、むしろそれは多様化による選択のへいがいになるんじゃないか? どれを選ぶべきなのか何の情報もないとき、人はより多くの人間が選ぶものを手に取るだろう。それだとほんまつてんとうだ。多様化どころか、実は一極集中が進んでいることになる。価値観の均一化だ。

「どうも異星人たちは拡散よりも均一化を正常な進化と考えていたようなんだ」

 佐々木の声は常にたんたんとしている。

「でも、どうやらちがう側面もあると気づいた気配があって、それはたぶん、涼宮ハルヒさんやキミと出会ったことがきっかけになっていると僕は推理するのだがね」

 ハルヒはいい。あいつなら火星人に大統領制をしようにんさせるくらいのことならやってのけるさ。しかし俺にそんなバイタリティはないぜ。

「いやいや、実際、キミもたいしたやつだ。話のほとんど通じない地球外生命体とのいざこざを話し合いで何とかしようとしているのだからね。なかなか真似まねのできることじゃないよ。つうなら思いつきもしない。これはキミの経験則によるものだと推察する。うらやましいよ、キョン。話を聞く限り、長門さんはとてもりよく的な存在だ。一度好きな本についてじっくり話し合いをしてみたいと心から思うよ。九曜さんは僕の前ではほとんどしやべってくれないからねえ」

 じようだんめかしてはいるが、俺には佐々木が半分以上本気であることが理解できた。

「俺はいったいどうすればいいんだ?」

「では考えてみようじゃないか。幸いにして、藤原くんも橘さんも、そして九曜さんにだって言葉が通じる。これが僕たちの最大の武器なんだよ、キョン。考えて、導き出した言葉によって彼らをねじせればいい。簡単にとは言わないが、キミにはできるはずだよ。僕にもね。考えること、その考えを相手に伝えること、これは地球人類が生まれながらに持っているへん的な能力であるのだからね」

 高校二年生初期レベルの学力と知識でいったい何ができるってんだよ。それこそノーベル賞クラスの物理学者を総動員すべき問題じゃないのか? 俺はガニメデとトリトンのどっちが大きいのかも知らないんだぜ。俺に学力でおとっていると確信できるのは谷口くらいのもんだ。

「その程度の問題は問題にもならないと僕は考える。なぜなら、これは涼宮ハルヒさんを中心に動いている物語だからだ。すべての基準は彼女の認識にあるんだ。あらゆる勢力はあくまで彼女の行動と知識を基本原則にしている。そこに僕らのつけいるすきもあるというわけさ」

 佐々木は一気に十歳ほど年を経たような、大人びたみを見せた。

「かえって大人たちはじやにしかならないだろう。ぶんせき、解析、対処方法、時間をにするだけの会合……。すべて無駄なことさ。いいかいキョン。これは僕とキミの物語でもあるんだよ。だったら、僕たちでなんとかするというのが筋と言えるのではないかな」

 お前を巻き込んじまったのはすまないと思ってるさ。

「謝罪することはない。僕は今までになく楽しんでいるからね。お礼の言葉では足りないほどだから、キョンの望みであるならなんでも言うことをきくつもりでいるよ」

 本気とも冗談とも判断できない口調で佐々木は、

「ゆえにだよ、僕とキミにも勝算は十分にあるんだ。ここはしがない星系の一わくせいで、大宇宙の辺境に位置する小さな星をたいとしている以上、魔法のような力を持つ宇宙生命体だって地球の尺度で行動するしかない。きっと情報統合思念体とてんがい領域の間でもそんな制約、それか不文律があるはずだよ。でなければ二つの勢力ともこれほどまでにおんみつ作戦をけいぞくする必要などないからね。未来人にも同様のことが言える。よくはわからないが彼らは何らかの規制にしばられているようだ。そのあたりに、原状回帰のとつこうがあるのでは、と僕は推測しているのさ」

 だが佐々木の考えや打つ手が正着手だったとして、どうやって証明する。

 佐々木は、くくん、ととくちようある笑みをらした。ゆうしやくしやくそうでもあり、クリスマスの晩にサンタモドキが望みのプレゼントをまくらもとに置いてくれるのを確信しているような、少女らしい笑みだった。

「近いうちにどうにでもなるよ。きっとね。今のじようきようをキミは望んではいまい。たぶん涼宮さんもね。当然ながら僕もだよ。これほど関係者のおもわくいつしているのに、違った方向へ進む状態があるとは考えられないね」

 制服姿の佐々木はどこか楽しげであり、なんかデジャブを感じると思ったら、SOS団結成当日のハルヒの笑顔に重なった。あの時のハルヒが真夏のヒマワリならば今の佐々木はアサガオのようなという印象的そうはあったが。

「それで──」

 それで、お前は何を伝えに来たんだ。

「直接会って話したかった。それだけだよ。ほかの人物がいない、ただ二人きりでね。もちろん電話でもメールでもなくね。かべに耳あり障子に目ありというだろう?」

 いつしゆん妹がとびらに耳を押し当てているところを想像したが、ふと気づいた。佐々木はとうちようけいかいしているのか。電話の盗聴など、多少組織力のあるグループなら容易にやってのけるだろう。古泉はともかく、森さんや新川さん……あるいは橘京子と藤原の一派。そのことをそれとなく伝えるためなんだとしたら、この不意打ちのような訪問にもくつがつけられる。

「それともう一つ。どうやら藤原くんは早めに片を付けたがっているらしい。そんな感じがするんだ。橘さんはのんで九曜さんは正体不明だが、未来人の彼は実に功利的で目的意識がはっきりしている。タイプ的に後でも先でもいいことなら早めに終わらせたがる人間のようだね。だから、きっと明日にでもアクションを起こしてくるんじゃないかな」

 もし俺がたいこくの時代にトラベルしたらあちこちほっつき歩いて、ちん寿じゆの記述がどのくらい正しかったのかかくにんして回るぞ。藤原もゆっくり過去見物でもしてりゃいいのに、せっかちなろうだ。それともこの時代には考古学的な価値などないと言うのか?

「でも、その方がキミもいいだろう?」

 このあやふやな状態をどうにかしたい、長門の熱を下げてやりたいのは本心だ。

「これはまったくの想像だが」

 と、佐々木は前置きして、

「僕たちが直面している問題は、単純なる存在意義の証明なのかもしれない。だれも彼もが、おのれのレーゾンデートル、存在証明を確固たる事実にしようと努力しているのかもしれないのさ。宇宙人も未来人もちよう能力者も関係ない。ただおのおのが、自分たちが確かに存在しており、他の誰かもまた自分自身の存在を認識してくれている、というゆいいつにしてシンプルな行動理念によって動いているんじゃないかな。だって、キョン。キミはもう九曜さんや藤原くん、橘さんが今ここにいるということを認識しているだろう? 仮に彼らがこれっきりで姿を消してしまったとしても、決して忘れることがない程度にはね。この時、この場所に、彼らは疑いようもなくこの世界にいたんだ。彼・彼女たちの望みはただ一つ、我々を忘れないでくれ、という簡潔で悲痛なメッセージなのかもね」

 よく解らん。そんなの何もこの時代でしかも俺の前でしなくてもいいじゃないか。俺がやつらの姿形と言動を死ぬまで忘れないだろうことには疑いを持たないが、だからそれが何なんだ。俺は記録へきのある宮仕えの文官でも歴史書へんさん担当者でもないんだぜ。タキトゥスやヘロドトスが生きている時代でおおさわぎをすりゃいいだろう。そうじゃなくても今の世にだって似たようなしゆの人間はいるはずだ。

 などと、俺が佐々木の言葉をはんすうしている間、元同級生で元じゆく仲間の女は、なぜか両手のにぎこぶしを自分のほおに押し当てて目を細め、マッサージをするようにぐりぐりやっていた。なんだ? 美顔効果でもあるのか?

「いや」

 佐々木は手をはなして、

「どうもキミと話しているときは何だか笑っているような顔に固定されているようでね、顔面の筋肉がどうもこわばっていけない。今はちょっとしんけんな話をしているわけだし、こうすれば少しは表情も変わるかと思ったんだが、どうかな」

 ナナホシテントウとニジュウヤホシテントウのちがいを見分ける程度のレベルで観察してみてたが、どうやっても特に変わりはないと言うしかない。ニヤリというかニコリというか……、そういや佐々木がしよう以外の感情表現を表す顔など中学時代から見たことがないな。

 そうして佐々木の顔をながめているうちに、ふと気になった。

「お前の存在意義は何なんだ」

 このとうとつな質問を予測していたように、そくに答えが返ってきた。

「人類の一員としては言うならば、当然、自分の遺伝子を残すことにきるだろう。子をなして自らの構成要素を後の世に伝える。これは生命体の本質だよ。少なくともこの地球上のあらゆる生物はそういうことになっている」

 そんな進化論的なことを聞いているんじゃないんだよ。だいたい俺たちからすりゃ、遺伝子の残し方は知っていても、だからどうしたという話なんだ。当分関係ないつもりだからな。

「やれやれ。人は何故なぜ生きるのかとか、何のために生きているのか、なんて設問はぜんもんどうはんちゆうでしかないよ。観念的な意味があるように見えて、その実何の意味もない。でも、それを承知の上であえて言うのならば、僕の存在意義は第一に『思考すること』であり、第二に『思考をけいぞくすること』と答えるしかないな。考えることをやめる時は僕が死んだ時だけであり、逆説的に、考えることをやめたらそれは死んだも同然と言える。僕という個は消えせ、ただ動物的な生が残るだけだろう」

 くくっくと佐々木は低く笑い、

「僕は考え続けたいね。この世界のしんばんしようについて。死ぬその時まで」

 思考の行き着く先に何が残るというんだ? いや、子作り以外でだ。

しゆういつな質問だよ、キョン。実に実に人間らしい問題だ。遺伝子以外に自分がこの時代に生きていた証明が後世に残るのであれば、何もアミノ酸でできた二重せんにこだわる必要はないんだ。有史以来、我々人類は様々なものを地球上に残してきた。とも思える大がかりなせきから、小さくても画期的な道具の発明、当時はさいせんたんだったであろう先進技術、文化的な国家的芸術作品、全く新しい技術体系や未来へ続く理論……」

 佐々木の表情を見ると、彼女の思考は時代をちようえつした脳内時間旅行に出かけているようだ。

「世界史で習うような歴史上のじんたちは、偉人的なこう、それをもってして歴史に名を刻んだんだ。僕の身体からだや心はわいしようで非力なものでしかない。しかし僕の思考をとば口にして、未来まで続く新しいがいねんが生まれないとも限らない。いや、正直言うと僕が産出し、育てた何かを後の世に残したい。DNA以外でね」

 そうだいな野望だな。

「残すのは言葉でも概念でもいいんだけどね。野望と言えば、それが僕のゆいいつの野望だ。ただし僕は独力でやりとげようと志すね。異星人や未来人や超能力者なんかの力は借りない。僕の思考はただ僕だけのものであり、ほかだれにもかいにゆうして欲しくないのさ。結論は僕自身の手で導き出したい。僕は自分の存在意義を、そのようなものとして定義しているんだ。誰のかんしようえいきようも受けず、僕の中からわき上がってくるオリジナルの言葉や概念を作り出したいんだよ。だからじゃまなのさ。九曜さんも藤原くんもね。橘さんは……まあ、あの子とは気の置けない良い友達になれるだろうな。彼女が唯一の救いだよ」

 ここまで佐々木と根をめて話したのは初めてのような気がする。本音らしきものを聞いたこともだ。だったら、俺も腹を割った言葉の一つでも放つべきだろう。

「佐々木。もしお前がハルヒのような力を自在にあやつれるようになれば、望みがかなうかもしれないんだぞ」

「ああ、キョン。そりゃあ僕だっていつぱん的な人間だからね。様々なよくぼうや感情を持ち合わせてもいる。ふとしたひようにこいつ死んじゃわないかなとか思ったりもするわけだ。でも、もし願っただけでその誰かが死ぬようなことがあれば、僕はとてつもないしようげきを受けるだろうね。そして、えられなくなるだろうね。ほんの少しだけでも思うことを自らに禁じなければならない。僕は涼宮さんのようにはなれないよ。彼女が本当に全能神のような願望実現能力を持っているのだとしたら、この世が平常心を保ち続けているのはせきに近い。それはすなわち、涼宮さんが奇跡的な存在であるというのとイコールだ」

 佐々木はいつもの皮肉な形にくちびるをつり上げ、俺をまっすぐに見つめてきた。

「もっとも、僕は神的な存在について否定の立場なんだけどね。たとえいるのだとしてもこの世にはいないさ。ましてや無自覚だなんてことがあるはずがないよ。考えてみたまえ。キミは好きこのんできんぎよばちの中に入りたいと思うかい? 水族館のガラスの向こうに、動物園のおりの中に、わざわざ外から入り込んで熱帯魚や飼い慣らされた野生動物たちの一員になることをよしとするかい?」

 何かはぐらかされている気がするな。これだから頭のいいやつとはマンツーマンで話したくないんだ。せめて古泉のえんぐんを期待したいところだぜ。

「つまりはそういうことさ。高次元の存在がレベルのおとる世界に降りてくることはない。人も神も変わりはしないさ。僕はそう思っているよ」

 佐々木は大げさなりをして、半ばじようだんめかすようにこう言った。

「涼宮さんは神のような存在らしい。そしてどうやら、僕もそう思われているようだ。彼女と僕、神モドキな二人から好意を寄せられているキミに、何も出来ないなんてことはない。そう、するとしたらキミがするんだよ。物語の幕を引き、次のステージの幕を上げるのはキミの役割だ。いい加減に自覚したまえ、キョン。とびらを開けるかぎはキミ自身なんだ。キミがすべてのマスターキーを持っているんだよ」

 ハルヒ消失時のキーパーソンにはふくまれていたようだが、今回ばかりは自信がねえな。

「この事件はキミが解決することになる。現時点で僕の言える、これがささやかな予言だよ」

 佐々木は朝方のはとのような笑い声を立て、

「僕はぜんぷくしんらいをキミにいだいている。なぜなら、キョン、キミは僕のたった一人の愛すべき親友なのだからね」

 その表情はいくら顔面を物理的操作したとしても、やっぱり微笑ほほえんでいるようにしか見えない。

「キミにならやれるさ。むしろ、キミにしかできないと僕は考えている。だったら、やはりキミがするべきだよ。神様みたいな涼宮さんにも、地球外生命たる長門さんにも、超能力持ちの古泉さんにも不可能だというのなら、一般人代表のキミしか残っていない。それがキミの特性であり、利点なんだ。キョン、キミは理由なく彼女たちや僕たちに出会ったわけではないんだよ。キミにはあるべき役割が必ずあるはずだ。僕が子供のころから手放せずにいるねこのぬいぐるみをけてもいい」

 それがしゆうりようの合図だったのか、俺の部屋をくるりと一度ながめ回した後、佐々木は立ち上がって「おいとまするよ」と俺に微笑みかけた。ついでのように、

「送ってくれなくていい。キミももうじゆうぶん、僕にかいな時間をあたえてくれた。なおな妹さんと素敵な猫さんによろしく。次来たときには、もっと可愛かわいがってあげたいね」

 そこからみような間が生じた。

 佐々木は立ったまま、動こうとせず俺のつらをじっと見ている。俺はどうしていいのかわからずリアクションのしようがなくただ棒立ちだったが、佐々木は今までになくためらいがちな口調で、

「実はね、キョン。僕が今日来たのは他にもう一つ、別の理由があったんだ。そんなに深刻なものではないよ。藤原くんとも橘さんとも九曜さんとも関係ない。ただ僕の学生生活についてね。ついてはその相談を持ちかけようかと思っていたんだが……」

 佐々木の学校の相談事にのれるほど俺がよくできた学生であることはありえんな、だいたい佐々木がなやむ問題に俺が解答を出せるわけはないだろう、と思っていると、やはり佐々木も同感だったのか、

「やっぱりやめておくよ。こうしてキミと話ができてよかった。それだけで気が晴れた気分さ。よく解ったよ。しよせん自分の問題は自分で答えを出すのが筋なんだ。ああ、やはり言うべきではなかったな。これが僕の弱さなんだろうな。誰に相談してもしかたのないことを、ましてやキョンに相談しようなんて、虫がよすぎたようだ。謝罪しておくよ」

 勝手に何やら相談を持ちかけようとしてあっさりてつかいされた俺にしてみりゃ、白紙の問題用紙を出された直後に回収されたようなものである。佐々木が持ちかける相談事に俺がまともなアドバイスをそつきようで返せるわけもないから、おのれのプライド的にも助かったと思っておいたほうがよさそうだ。

「でも」

 と、佐々木はかたほおゆがめるとくちよう的なみを見せ、

「キミに会えて、話ができてよかった。ん切りがついたよ」

 げんかんまで見送りに出た俺に、シャミセンをいた妹がついてきた。抱き方が変なせいで、シャミセンはまるでチョークスリーパーをめられているレスラーのようなめいわくがおをしている。

「また来てねーっ」と妹が喜色満面でさけぶ。

 佐々木は二人と一ぴきに笑顔で手を振り、後は振り返りもせずに姿勢よく歩いて、去っていく。

 俺はその姿が角を曲がって消えるまで玄関先で眺めていたが、結局、佐々木は一度も振り返ることはなかった。俺へのもう一つの相談ごとが何だったのかは知らないが───。

 実に佐々木らしい、すがすがしいまでにかんぺきな退去のポーズだった。



 本当は何しに来たんだろう、と俺が考え始めたのは、夜、に入っている最中のことだ。

 妹が持ち込んだタッコングのビニールオモチャがプカプカいている光景を眺めながら頭をめぐらせたものの、長風呂のせいで十分血行が良くなっているだろうに、答えなんかそう都合よくがいの外側に飛び出てくれはしない。結局言わなかったもう一つの相談事がメインではないのは明らかだが、そいつをたなげしてもどうも収まりが悪い。

 あと、佐々木との会話の中でうっかりスルーしてそのまま忘れてしまったワードがあったような気もしたんだが、なんだっけな? コマンド入力に失敗してディスクフォーマットしちまったHDDの中身なみに消えせちまってる。どうも俺ののうずいメモリはそろそろオーバードライブのきざしがあるようで、まともな思考をするには高性能ヒートシンクを追加装備してクールダウンさせる必要があるらしい。と言いつつ、風呂に入ってたら血流を良くするばかりで何一つ冷えそうにないが、毎日の入浴とみがきだけは欠かすことのない俺の習慣であり、こればかりはたがえる気は毛頭なく、とりたててきれい好きというわけではないものの、一日でも飛ばすと気持ち悪くなり、まあそういう人間は俺ばかりではないと思うぜ。そういうもんだろ?

 それはともかく今日、佐々木がやって来てくれたおかげで、どこかホッとした気分でいると正直に告白しなくてはならないだろう。しやべってみて改めて理解できた。あいつはしんらいに足りるやつだ。話し口調と思考形態が少々風変わりなだけの、つうの女子高校生なのだ。中学時代から変わっちゃいない。もし佐々木が進学校ではなく、北高に入学していればどうなっていたかな。古泉と橘が同時に転校してきたかもしれず、そうだったら俺の高校一年生活もずいぶんこんとんとしたものになっていただろうが、そんなIF物語を夢想していても仕方がない。今考えることはほかにあるはずだ。

「しかし──」たんそく入りの独り言。「とは言ってもな」

 俺の発した声が浴室のかべでエコーする。正直、何も思いつかない自分に情けない思いをかみしめつつ、

「こうなったらもう、さっさとて見る夢に天からのけいがあることを期待するしかないか」

 単なる願望で終わりそうな希望的観測をつぶやきながら、俺はよくそうから立ち上がった。じやばらのドアを開けると、足ふきマットの上で待機していたシャミセンが待ちかねたように飛び込んできて洗面器の水を飲み始め、しばらくてちてちと舌を鳴らしていたが、ふと顔をあげて、

「ぴにゃ」

 という感じで鳴いた。それはまるで、俺の思いちがいをてきするかのようなねこ的警告の言葉のようだったが、問いただす前にシャミセンはカツカツとつめゆかに当たる音を立てながら、さっさと階段を上っていった。行き先はどうせ俺の部屋のベッドの上だろう。

 今度、九曜と会うときはあいつを連れて行ってもいいかもしれんな。シャミセンの頭の中にふうじられているナントカカントカ生命体が役に立ってくれるかもという、わずかな望みがなきにしもあらずだ───

 が。

「やめておこう」

 俺は他力本願という教義をほうしたんだ。ならば、どこまでも独力でやってやるさ。何ができるんだ俺に、なんていう疑問はちょっと考えないでおくことにして、それでも、やってやろうじゃねえか。佐々木の進言もあったし、何かの間違いで地球にやってきて犬に取りくアホな精神生命体に期待すること自体が間違ってるしな。アンドロメダ病原体のような宇宙ウイルスもどきより、太陽系人のほうが地の利があると証明してやらないとな。

 よし、九曜や藤原に現代地球人も捨てたものではないというところを、一つ見せてやろうじゃないか。本来なら地位もめいもIQも俺より数ランク上のおえらい人にたくすべきなのかもしれないが、涼宮ハルヒをめぐる非常識なアレコレをいまさらになって赤の他人に丸投げするなんてことはできそうにない。だれもありがたがらないだろうし、なにより俺自身がそうしたくないのだ。これはSOS団に落ちてきたき打ち試験なのだから、それを解くのも俺たちじゃないといけない。

 そしてどうやら、今は俺が中心人物として右往左往すべき役回りにいつの間にかなってしまっているようだ。びようしようしている長門の本音を聞かされたのは俺だけだ。本人が意識しているかどうかはともかく、長門は俺をたよったのだ。いまだ少数れいさい組織のSOS団、その仲間を救えずしていったい何が救えるって言うんだ? せいぜい妹の宿題手伝いとシャミセンの毛をってまるぼうにしたがっている母親の制止くらいだぜ。このままぼうっと流されるくらいなら、たまには故郷の川にもどってきたあゆ程度には流れに逆らってやろうじゃないか。

 究極的な俺の目標は、長門を普段の状態に戻すという至ってシンプルなものでもあるし……。

 おお、なんかノってきたような気がするぜ。

 俺のこつ心は絶賛うなぎのぼり現在進行形である。この熱意が勉学に向いたならば母親は泣いて喜ぶだろうが、それとこれとは無関係だ、すまないオフクロ。とにかく、この決意を止められる知的生命体は地球の内外を問わず存在しない。おお。俺にも少しはヒーロー的主人公の素養が芽生えてきてるんじゃないか? 今が上がりのぱだかでなければ右手を天高くき出して、意味なく気勢の一つも上げていたところだ。

 現時点における俺の勢いを止めることなど、何人たりとも不可能と言っていささかのもない。きっと佐々木は、むっつりうじうじしていること梅雨つゆ真っさかりなカタツムリにも笑われるレベルになってる俺にハッパをかけに来たんだろう。まるで関係なさそうな話をたんたんとしながら、聞き手の思考をゆうどうする、なかなか見事な高等心理術じゃないか。すえおそろしいやつだぜ、まったく。

「いっちょやってやるか。未来人と宇宙人とちよう能力者をまとめて俺の可視はん内からたたき出してやる」

 言うまでもなく朝比奈さん(小)と長門、ついでに古泉は除いてだ。森さんと喜緑さんはどうすっかなー……。

 とかなんとかと、実にらしくない夢想にう俺だったが、景気のいいことを言いつつ心のすみっこではいやなまでに冷静なる別の俺が皮肉なちようかべてもいた。どっちかと言えばそっちの俺のほうが本来の俺自身かもしれない。かんじんな時に水を差す超自我的な内面の存在を、自分自身、否定できなかった。

 そっちの俺はこう言っている。

 俺でなくても超絶ヒーローの役割を果たせるやつがいるんじゃないか?

 ほかでもない、ただ一人、あいつが。

 いや、あいつこそが──か。

 とかな。



──『涼宮ハルヒのきようがく(後)』につづく

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