第六章 1

α─9


 翌日、水曜日。

 これが一時的なのか、この後も続いて加速度を増すのか、とにかくポカポカ陽気は春をえて初夏というべき気候にホップステップという感じにジャンプアップをげていた。そういや去年もこんなんだったような。どうやら地球はどんどんヌクくなりつつあるようで、それが人類のせいなんだとしたら早いとこなんとかしないと、シロクマやこうていペンギンから連名のこう文が全国各地の火力発電所気付で届くにちがいない。字の書き方を教えに行ってやりたい気分だ。

 そんなわけでこの朝、登校ナチュラルハイキングに甘んじる俺のシャツは早くもあせで張り付くようになってきた。となりしばは青々としげって俺の目にうすらばゆく、それにつけてもれいだんぼう完備の学校がにくくてたまらん。今度会ったら生徒会長に注進してみたい。実際的な予算のはともかく、喜緑さんの宇宙的事務能力ならエアコンの二十や三十、たちどころに設置かんりようとなるかもしれない。

 ところで古泉は会長氏に喜緑さんの正体を教えてやっているんだろうな。あの会長のことだから身近にいる書記職の女子が人間以外だろうとそんなに気にしないようにも思えるが。

 俺は軽い通学かばんかたにかけ、そぞろに坂道を上っている北高生たちの後ろ姿をながめつつ、異常なまでにそうかいな気分で歩を刻みながら────ハテ?

 首をかしげて立ち止まる。我ながら意味なきなパフォーマンスであり、どうしてこんな気になったのかわからない。

 春真っさかりな調子のいい陽気、梅雨前線はまだはるか南方の彼方かなたにあって湿しつの具合も申し分がなく、一年に二度の春と秋の一定期間しかない過ごしやすい季節が今であり、ハルヒじゃなくてもほがらかになって疑問を覚えることなどなかろうに、どうも気にかかる。

 俺は自分の意識をあんちゆうさくし、坂を上り終える間に解答のようなものを見つけ出したように感じた。

「平和すぎるのか」

 どうしてそんなつぶやきをらさねばならんのか、自分が解らないな。

 ハルヒが新入部員(仮)を相手にして良性のじようげんい、朝比奈さんは各種お茶くみのたんれんに放課後をささげ、長門は文芸部部長としての職責をゴミ箱にしまい込んで読書にぼつとうして、古泉は日夜変わりなくヘラヘラしてやがる。

 佐々木やら九曜やら橘京子やらがひょっこり出てきた時には、すわ、またかいなる非日常イベントこうげきの幕開けかと身構えたものの、あれっきりおとなしだ。そういや名無しの未来人ともごで、これはいつになったら解明されるふくせんなのかね。早いほうがいいような、後回しのほうが有りがたいような、いっそいつまでも待機なりこうちやく状態しててくれると俺的感謝状ものだが、そこはだれに期待すればいいんだか。長門か、それとも我が親愛なる親友未満の佐々木か。

 俺は中学時代のクラスメイトの言動を思い出す。あいつとの会話は、ほとんど受験や有益な人生を送る上で何の役にも立たないような情報ばかりだった。逆にそれがゆえに、あいつなら未来人や宇宙人をけむに巻くくらいのことは出来るだろう。そろそろそれとなく電話でもして様子をうかがったほうがいいな。特に未来人が気になる。

 ぼうっとしていたらうっかり一年の校舎に行ってしまいそうだったのは新学期が始まって数日のみで、俺は機械的にうわきに履きえると二年五組の教室にふらりと入って席に着く。したきで顔をあおぐ日課の終了には秋のとうらいを待たねばなるまい。

 しばらくそうしていると、ハルヒがチャイムギリギリの時間に担任岡部とゴール前でたたき合う競走馬のような勢いで教室に入ってきた。体育教師より二馬身リードの先着ってところか。

「ずいぶんゆっくりだったな。入団テストの下準備がまだあったのか?」

 ホームルーム終了後、一限が始まるまでのわずかの時間を利用し話しかけてみたところ、

「んー」

 なにやらえ切らない返答がハルヒのくちびるから転がり出た。

「お弁当作ってたのよ。なんだか今日は早く目が覚めちゃって、ヒマだからたまにはいいかなと思ってさ」

 へぇ。どういう風のき回しなんだかな。ハルヒにしてはごくつうの女子高生らしい振る舞いだ。

「ずいぶん時間をかけてたようだが、重箱にでもめてたのか」

「栄養のバランスとか色々考えてこんだてってるうちに熱中しちゃって、それで家を出る時間がおくれたの。おいしいわよ。昼休みに食べるのが楽しみだわ」

 ハルヒはアヒル未満フクロウ以上のような口を形作り、

「うーん。変な感じなんだけど、どうしてなのかしら。料理をしないといけないような気分になったわけ。そんな夢でも見たのかもしれないわね。覚えてないけど、誰かのためにご飯を作ってあげる──って、念のために言っとくけど、余分になんか作ってないわよ。あたしが自分で全部食べるんだからね」

 いちいち断らなくていいさ。お前の手弁当などをもらったとして、いったいこの校舎のどこで食えと言うんだ。教室にいられないことは確かだが。

「そういやお前はめつに弁当を持ってこないな。理由でもあんのか。オカンが味オンチだとか」

 ハルヒはちんもくすることしばし、

「何で解ったの? そうね……言いにくいし、あんまり言いたかないけど……その通りよ。あたしのおかあ──えほん、母親はちょっと舌の感覚が常人とちがってて」

 それすなわち味オンチと呼ぶ。

「あたしがまだチビのころはどこの家庭もこんなもんなんだと思ってたわ。たまに家族でレストランとか行くじゃない? それがなみだが出るほどおいしかったんだけど、お店だからそうなんだってね。でも小学校に入って給食食べるようになってから、ちょっとおかしいなって感じるようになったの。メニューにもよるけど、クラスの子たちがあんまりおいしくなさそうな時もあったからね。あたしは全然パクパクよ。友達が残したぶんまで食べてあげたわよ」

 なつかしむような遠い目を窓の外に向け、

「でね、ためしに自分で適当に作ってみたわけ。見よう見まねで、確か肉じゃがだったわ。記念すべき人生初のマイ料理。どんな味がしたと思う? これがもうレストランの味だったの。あたしの目から一枚目のうろこが落ちたしゆんかんよ。ポロっと落ちてコロっと転がったわよ」

 でかい鱗だな。

「アロワナかピラルクーのやつくらいはあったわね。でもそれ以来、家ではあんまり料理をしないことにしてんの」

「ほー」

 なんだかみような感覚がする。ハルヒのセリフに何か引っかかるものがある。

 弁当……じゃないな。レストランのメニューに肉じゃがなんてあるのか? アマゾン川に生息するたんすいぎよの鱗……?

 のどもとまで出てきかけているのにもう一押し足りない、クロスワードパズルの最後の設問を思い出そうとしてるように、俺がちんもつこうしかけたとき、

「ところでキョン」

 ハルヒがとうとつに話題を変えた。やや下目使いの角度で、

「第一回新入生団員試験のことなんだけどさ」

 ん? ああ、そうだな。目下のところそれが一番のけんあんこうもくなんだった。

 ハルヒは家庭の料理事情とはうってかわった、というか今までの会話を急いで流そうとしているかのように、

「日数をかけるのも手間だし、ぱぱっとまとめてじつしようと思ってるんだけど、どう思う?」

 しがないヒラ団員に意見を求めるとは少々おどろきだね。すべてのしん権は最高責任者が自らに一任していたもんだと思っていたんだが。それも勝手きわまりない一存でさ。

「そうだな……試験の内容にもよるだろうが」

 とっさに思いつきを口にする。

「百一ぴきハムスター早つかみ大会とかじゃないだろうな」

 ハルヒは一瞬、メデューサのがんを直視してしまったかのように固まった後、うかつな手がかりを口走った犯人を見る目で俺を見た。

「……何で解ったのよ、しかも数字まで」

 だんだんこいつの思考に俺まで毒されているのではないだろうか。まさか単勝一点張りで当てちまうとはね。俺は自分の思いつきにせんりつしつつ、またそれ以上にあきれながら、

「どっから持ってくる気だったんだ、そのハム公どもを」

「じゃあシャミセンのノミ取り大会」

 いえねこになってずいぶんつし、妹がたまににも入れている。そんなもんいねえよ。それにしても簡単に試験こうもくを変節するやつだな。

「校内に生えてる雑草だけの料理大会は?」

 審査員がお前だけなんだったらいいぜ。

「交番の前で小麦粉入ったビニール片手にフラフラしてだれが一番最初に職務質問されるか大会なんてのは?」

 おまわりさんがめいわくするからやめろ。悪戯いたずらですまなくなるかもしれん。

 ハルヒはむくれたとき特有の、ワニ目アヒル口となって、

「だったら何大会ならいいのよ?」

 俺に聞くことじゃねえだろう。だいたい、どうしてそんなに大会が好きなんだお前は。入団試験なんだろ。わざわざ大がかりな行事にすることはない。ちなみにたこ焼き大会だったら俺は喜ぶ。どっかの道具屋筋に行けば安くで売っているだろう。

 ハルヒは俺の軽口を小川のせせらぎのように軽く流し、

「キョン、入団試験は今年だけじゃないのよ。もちろん来年にだってやるわ。毎年こうれいなんだから、それはもう行事と言えるでしょ」

 因習的な神事でもなければ古風なお祭りでもないんだ、少しはオリンピックやワールドカップを見習うといい。毎年やってても白けるだけだ。

「よく考えろよ、ハルヒ」俺はさとしにかかる。「長門や朝比奈さんが試験を受けたか? 古泉なんぞ転校生ってことだけで合格じゃねえか。去年のどこにも試験なんざなかったぜ」

 言うならば俺のSOS団所属理由が最も意味不明なのだが、そこにはげんきゆうせずにおく。

 ハルヒはくちびるを引き結んでとがらせるという器用な真似まねをしてから、

「もうっ。あんた、ホントに新入団員を入れる気あるの?」

 本当の気のことを言うと、実はもうなくなっていた。おそらく新入生の中に異世界人あたりが混ざっていたら、ハルヒの眼鏡めがねによってとっくに新入ならぬしんにゆう団員となっているだろう。いまだその兆候なしってことは、つまりあの一年生たちの中にその手のはいないってことだ。いつぱんじんから一般性を失わせる悲劇は俺が身をもって証明している最中であり、ファッションの流行じゃあるまいし、悲劇はり返さないのが一番である。有史以来二千年以上も経つんだ、ちったあ人類も歴史を学ぶべきであり、その人類のはしくれである俺はそれはそれは深く心に刻むだいだ。

 ハルヒはまだ○○大会の○○に入る部分をブツブツ言いつつ考えているようだが、放課後までにハムスターを百一匹そろえるような事態にならないよう、ネズミの神様にでもいのっておこう。

 大黒さんでいいのだろうか?



 そしてまた放課後が「よお」てな感じでやってきて、俺はここ数日恒例となった涼宮はんによるテスト勉強講座を受講するのだった。言うまでもないが決して好んでのことじゃないぜ。ま、言うまでもないのなら言う必要もないだろうと言われたら返す言葉がないが。

「テストなんてくだらないわ。だって、どんだけスゴイ解答を書いたって結局、上限は百点ぽっちって決まってるわけでしょ? あたしは何だってそうだけど、わくらわれるのがだいきらいなの。せまい枠組みの中から出られないなんて、まっぴらゴメンさよなら。キョン、考えてもらんなさいよ。もし解答者が出題者のおもわくえて、出された一つの問題からもっとやくして大きな解答を考え出したとしても、別の問題をケアレスミスしただけで満点にはならないのよ。おかしいと思わない? あたしなららしくてエレガントな解答には二百点だって千点だってつけるわね。それが気に入らないの」

 ハルヒは教科書をぞんざいにパラパラめくり、

「それに試験なんてこれに書いてあることをそのまま丸暗記すればいいんだもの。全然つまんない。機械的な作業ほど人間性を失わせることなんてないわ。らくよ、堕落」

 ためになるんだかならないんだか、少なくともその理念がとりあえず俺の英語のテスト結果に反映されることはないだろう。ハルヒが日本の支配者になって教育改革を成しげない限りな。

「丸暗記より理解力よ!」

 いきなり試験勉強必勝法を否定したかと思うと、

「ストーリーで覚えるの。誰が何故なぜ、こんなことを考え出したのか、そこにさえ頭が回ったら、あとはいもづる式にすべてがつながっていくのがわかるから。キョン、いい? 基本さえ押さえておいて、次にすることは出題者の心理をどうさつすることなの。昔の人の考えなんてさっぱー解んないけど、同じ時代に生きてる人間の考えることなんて推測するに造作もないわ。テスト問題に何が書いてあるかじゃないの。出題者が何を思ってそんな問題を書いたのかさえ解ってしまえば、いくらでも裏のかきようはあるのよ」

 試験作成者からしたら裏をかかれるよりまっとうな正答を書いてくれたほうが○印をつけるに躊躇ためらいもないんじゃないかと思うが。なぜいちいち意表をくような真似まねをせんといかんのかね。

「そのほうが精神的に優位に立てるでしょ。あたしたちの身分は学生に過ぎないけど、そんなのただのねんれい的問題よ。れいを重ねているだけのルーチンワーク教師をけいもうするのも、やっぱりあたしたち学生の特権なの。若さは武器にしないとね。当然だけど、若いってことが武器になるのは今のうちだけなんだからね。期間限定のこのリーサルウェポンを最大限に活用できる最大のバトルフィールドハイスクールは、もう何年も残っていないわよ」

 解るようなどうでもいいような気がするが、今のところリアル高校生活を送るだけでヒィヒィいっている俺にはもう一つがんちくのある言葉には聞こえなかった。ハヤブサの持つてつがくをスズメが理解するにはDNAレベルで不可能と言えるだろう。のどかに電線にとまって谷口スズメなんかとピイチクさえずってんのが俺にはお似合いなのさ。生き馬の目をくごとき補食生活はハルヒとかもっと向上心に燃えたぎる『赤と黒』のジュリアン的な人間に任せたい。どうも最近、俺にはすいみんよく以外の欲望がないんじゃないかと思われて仕方がないところだ。

「ずいぶん情けない決意表明ねえ」

 ハルヒはあきれたような表情で首をり、しんけんこしに差していながら決して抜こうとしないビビリざむらいを見るような目線をいつしゆん俺に送って、唇の両端をくいっとり上げた。

 そして俺がきようたんするくらいのおだやかなこわいろで、

「ま。あんたの人生哲学に口出すつもりはないわ。でもね、」

 と、すかさず強調の声。

「学校でも授業でもテストでも、あんたはそれでいいけど、SOS団の中ではそうはいかないからね。あそこではあたしが絶対で、あらゆる意味での治外法権なの。日本の法律も常識も慣習も言い伝えも大統領令も最高裁の判例でも、全然通用しない場所だってことを覚えておきなさい。異論ある?」

 はいはい。ないない。そんないまさら言われなくてもすでに解っているようなことを改めて言わずともいい。お前が銀河をとうかつするミステリアスな地球外生命体から一目置かれている事実は俺が一番よく知っている。だからさ、任すよ、ハルヒ。SOS団内での決めごとのすべては、お前にな。

 だが、こっそりと長門や古泉、朝比奈さん(大)なんかにも、俺は同じようなことを思っている、それだけは許しておいてくれよな。

 俺のためいきをどうとったのか、ハルヒは満足そうに教科書を閉じ、ノートをかばんほうり込み始めた。本日の課外授業けん、部室にわざわざおくれていくための時間かせぎがしゆうりようしたという合図である。

 たった十数分のこの時間が、なぜか俺にはやたら貴重な安息のハーフタイムイベントのように感じられているのだが、これはどういう心理から来るあん感なのだろうか。部室での集合にタイムラグを発生させるだけの、わずかな時間にすぎないのに、ましてや朝比奈さんのお茶にありつける時間までも遅れるというのに、俺はどこか今の部室をけている自覚があった。

 それはいったい何なのだろうか。入団希望者のキラキラ一年生に合わす顔がないからかもしれないし、非科学的なむなさわぎ、こんきよのないいやな予感があるというさつかくおちいっているからかもしれないが、まあなんと言っても部室にはハルヒ消失以来ちゃんと自我を守っている長門もいるし、難題の推理に喜びを見いだす古泉とともに、いとしきうるわしの朝比奈さんまでもが後光とともにおわしておられる。

 俺たちが全員そろっている限り、この高校では無敵に等しいと自我賞賛しているわけだが、胸のすきに入り込んだうすぼんやりとしたヘリウムガスみたいなものが俺をみよううわつかせる気分にしていた。

 なんなのだろうか、これは。

 この前ぐうぜん出くわした佐々木や橘京子や九曜などが気にかかっているのはちがいないものの、それからあいつらは特に何かをしでかしている感じでもない。佐々木があっち側にいるということは、おそらく佐々木はハルヒ以上にあの連中をけむに巻いていて、そこそこ困らせているだろうなということは、俺のしような推理力をもってしたところですら想像にかたくない。俺は佐々木をよく知っていた。あいつはハルヒと同じくらい、他人の意見に左右されることのない人間だ。むろんベクトルは違うがな。ハルヒは最初から聞く耳を持たず、佐々木はじっくり耳をかたむけた上で、自分の意見をとうとうと述べ出すのだ。彼女のアイデンティティはとてつもなく強固であって、仮にゼウスやクロノスがしんたくたずさえて出張ってきたとしても変節することはないだろう。プロメテウスかカサンドラの言葉なら少しは耳を傾けるかもしれないがな。

 まあ、仮にそいつらが専属家庭教師として俺の元に現れたとしても、ハルヒのようにわかりやすく講義をしてくれるとは思えないな。結果論から導き出される客観的ぶんせきこそが、つまるところ歴史の理解に最も有益な情報なのだ。ありえない話だが、俺の名が後世まで残っていたとして、その時代の歴史家が何をどう分析しようとクレームをつける気はさらさらない。とっくに俺はせきに入っているだろうし、死人に口なしではあるし、すでに死してちた人間にげんきゆうする権利を持つのは未来人だけさ。

 そして俺は、身近な人間の死に接してそいつの思い出記録なんて書くつもりはねこのノミの卵の大きさほどもない。だからだれも死ぬんじゃねえぞ。行方ゆくえ不明もダウトだ。俺とハルヒがいる限り、SOS団にからんでいる人間はどこにもいくことは許さん。増えるのはいい。だが減るのはダメだ。現状をし、維持し抜く。それが目下のところのSOS団の最重要団則その一であるのは、明文化していないとは言え、誰もが持っている共通にんしきなのだから。



 てなことを、つらりつらーりと考えているうちに、ハルヒの特別講義は終了し、教室を出る際にはそう当番たちのふくみ笑いを背に受けつつ、古びた校舎のろうをヒトラーユーゲント全国大会に出席した若手ナチス党員のような勢いで進んでいた。

 ハルヒによる俺専用授業復習講義がやっとの思いで以下明日となり、やれやれとあんの気持ちでいたのもつかの間、かたを並べて部室へと至る薄暗い廊下の最終目的地には、ちょっとした問題が残っていることを忘れるわけにはいかない。それはそれで俺の頭を大いにぐらつかせる問題でもあるわけだが、ハルヒはまったく意にかいしていないらしい。

 俺にテストで合格点を取らせることと団員試験のどっちが大事なんだというぜいのハルヒだったが、部室に向かう足取りはまるでタップをむようで、やっぱり色々と楽しんでいる様子がうかがえる。さしずめ新入団員候補の一年生たちがこいつには百一ぴきのハムスターに見えているのかもしれなかった。

 できれば新人団員たちにはげつるい的なばやさより、猫科の動物的なおうような精神構造を期待したいところだ。ハルヒの実験動物として役にも立たない心理学の道具にされるより、ぼんやりウロウロしたりとつぜん丸くなったりしておいたほうが、身のほどこし方として将来性のある人物に育つだろう。ハルヒに尻尾しつぽって忠誠をちかうような素直な犬タイプは古泉だけで間に合っているからな。何考えてんだか解らない陸イグアナみたいなのがいれば、そこそこ部室にとけ込めそうだが、俺の見た限りではのぞみ薄だ。

 やはりハルヒも似たようなことを考えているのかもしれない。このままグダグダと入団試験を二次三次と続けていくよりも、一発で白黒をつけるほうがSOS団のためにも、またぜん有望な新一年生のためにもなるんじゃないか、とね。



 そして想像通りと言うか、ハルヒ的ハムスターであるところの仮入部員は、やはりと言うか少々目減りしていた。部室にいた一年生は男三人と女二人の計五人でフルハウス。昨日から一人だつらくだが、俺の観点からしたらこれでもまだ残っているほうだと言える。いったい彼らのどこにSOS団に対するしゆうちやくがあるのか個人面談をじつしたいところだが、あいにくそれはハルヒの役目であり、すべてをとうかつ、決定する権利を有する我が団の最高権力者は、部室に入るなり、声高らかに宣言した。

「これからSOS団入団最終試験を開始します!」

 すでに部室にいた朝比奈さんはそば茶の入ったきゆうを持つ手をとめて目をパチくり、一人で動物しようばんめんぎんしていた古泉はみとともに両手を広げ、長門はすみっこで古書のページを追いながら無反応をつらぬき、十秒未満のちんもくの後、やっと俺が発言した。

「もう終わりなのかよ」

「ええ」

 ハルヒはたけだかに、

「あんまり時間をかけちゃみんなにもめいわくだからね。それにじゆうぶんなデータは出そろったわ。あと見せてもらうのはこんじようだけなの。友情も努力も勝利なんてものも全然いらない。だいたいあたしたちの間に友情が育つほどの時間はなかったし、努力なんて結果を出せない人間の言い訳でしかないし、勝利っていっても何に勝ったかじゃなくて誰に勝ったかが最上級要件なんだしね。この場合だと、あたしに勝たなきゃ何の功績にもなんないわけよ」

 ハルヒは五人の新一年生たちにへいげいの視線を送っていちじゆんし、うなずいた。

「みんなえらいわ。ちゃんと言いつけ通り、体操着を持ってきてるわね。じゃ、さっそくえてちょうだい」

 人数分のパイプにきちんと座っていた一年ぼうどもは、おたがいうかがうように視線をめぐらしていた。そりゃそうだろう。いきなり着替えろったって、どこでだという話だ。それにしてもいつの間に持参物のお知らせを回覧させていたのか、全員が体操着入れのふくろを持っていたのには感心する。この時期だ。どれも真新しいことだろう。ついでに運動部とはもっとも遠そうなこの部活にどうしてそんなものが必要なのか多少はなやんだにちがいないが、ともかく今年の一年生たちはぼうぎやくな団長の言葉にりちに従っていたようで、

「あ、はいっ」「りようかいっす」

 などとつぶやきつつ、体操服を手にして立ち上がった。

 が、立ち上がっただけだ。男女共同のこの部屋で、男女平等に着替えるには彼らのしゆうしんは格段に健全なる状態をしているものと見える。

 なんせ古泉や朝比奈さんと長門もまったく出て行くそぶりを見せず、どうぞお気軽にとでもいいたげな態度で、古泉はニヤニヤ(意外とムッツリなのかこいつ)、朝比奈さんは展開の流れについていきそこねて人数分の湯飲みを探しているし、長門は部屋の隅っこで生徒会議事録に目を通すばかりで顔も上げない。

 うろんな顔をしている一年生たちに救いの手をべる役割は、どうやら俺しかないようだと深呼吸とともに腹をくくりかけたとき、

「さ、現団員はみんな部室から出て行って。有希も! 本なら外でも読めるでしょ」

 ハルヒが思わぬ段取りの良さを見せた。

「まず女からね。男子はろうで待機して、女子が終わったら着替えるの。あたしは男女間のすべての価値観は平等だと信じているけど、身体的な区別はちゃんとつけなければならないと考えているんだからね。さ、早く出た出た」

 そこにはかつて一年五組の教室で男の目を気にせず着替えを始めようとした女子高生一年のおもかげはなかった。ま、俺のさつかくかもしれないし、ハルヒのがおに気を取られていてその分頭が回らなかったからかもしれないんだがね。

 が、一応たずねておかねばならない。

「いったい、こいつらに何をさせようってんだ?」

 運動系の試験だというのは見当が付くが。

「言ってなかったっけ? マラソン大会よ」

 ハルヒはうでを組み、もっともそうな表情をかべて、

「やっぱりぐだぐだと試験を続けるのはあたしのしように合わないわ。こういうのはすっぱり決めちゃった方がいい結果が生まれることだってあるのよ。それに仮入部期間だってそろそろ終わりだし、第二希望のほかのクラブに行くつもりの落選者のこともこうりよしてあげないと。そこであたしは考えたの。こういうのは最終的には体力勝負なのよ、元気一番なのよ。それには持久走が一番ぴったりくるわ」

 今までSOS団の活動に持久力がためされたことがあったかと考えつつ、

「おいおいちょっと待てよ」

 言わずもがなだと思いながらも、こういうハルヒの暴走に異議申し立てをするのはせまい部室の中に俺しかいないようなので、

「今までやってきたことはなんだったんだ。ええと何か、結局はマラソンで全部決めようってのか。だったら最初からそうしてりゃよかっただろ」

「ちっちっちちち」

 ハルヒは予期していた質問をくらった試験官のようなゆうさで舌を打ちつつ指をった。耳学問の門前のぞうに高僧がさとすような態度で、

「考えが足りないわね、キョン。いいこと、今までの試験、面談は決してなことじゃないのよ。あたしはちゃんと人を見る目があるからね。オオタカが地上の岩場のかげかくれている子ネズミを発見するくらいの視力と注意深さは持っているつもりだわ」

 まあお前に発見されたあわれなネズミは直後に巣でばんさんかいの皿にって出てくるんだろうが。

「あたしが試験試験とじように言い立ててたのは、いわばええと、あれよ、ミステリでいうところのマクガフィンってやつなんだわ」

「それを言うならレッドヘリングでしょう」

 冷静にっ込んだのは古泉だったが、俺にはパウンドケーキと赤いにしんがどう関連するのかサッパリわからなかったのでだまっておいた。はたしてハルヒもよく解っていなかったらしく、

「どっちでもいいわ。ようするに試験という名の適性試験を、んんん、簡単に言えば人間観察をしていたわけだから。つまり試していたってこと。試験の内容なんてどうでもよかったのよ。この問題の解答は、だつらくせずにここまでついてきてくれる新人を選別する過程にすぎないの。ということで」

 ハルヒは総勢五人の新一年生の鼻先で人差し指でさっとえがき、

「あなたたちは見事、関門をとつしたわ。おめでと。こうして最終試験にいどむ権利をかくとくしたんだからね。大いに喜びなさい。いまのうちにね。でも本番はこれからなの。いっとくけど最後のは今まで以上に厳しいわよ。必要なものは体力、こんじよう、精神力、勇気、そしてなによりも決してあきらめないという、人間が最も必要としている最重要スキルと、試練の先で待ちぼうけしている最終的な勝利なんだからねっ!」

 いつぱんろん的にいいことを言ってるような気もしたが、どうもこの場にそぐうセリフとはお世辞にも言えない。涼宮ハルヒはいつだって行き当たりばったりなんだ。今回もそうではないと、いったいこの世のどこのだれに言うことが出来るのであろうか。

 俺は思わずしようし、ハルヒがこういうやつだから俺は、こいつを時たま…………

 と何か思いかけたところでかろうじてみとどまった。あぶないあぶない。自分の言葉がただ脳内でしか言語化されないものなのだとしても、その言葉は自分のみには聞こえてしまうわけで、そうなったからには聞こえなかったことには出来ないものだ。

 言葉はにんしきだ。そんな認識をしてしまったら、俺は今後も長く続いて欲しい人生における何かめい的な判断を明確に自覚しなければならなかったかもしれず、そして俺は今のところあらゆるイデオロギーやポリシーから自由でいたいとざかしくも決意しているところだ。

 結果、俺は考えることをきんきゆう停止し、もっと別のかいなことを夢想することにした。鶴屋ていでの八重桜花見とか、やりこんだゲームの新作発表に対する期待とか……。

「…………」

 俺の心中がなにやらごまかし作業に入っているのを見て取ったのか、長門はするりっと顔をあげ、こちらをしばらくじっと見つめてから、また読書にもどった。

「あー……」

 いいさ。誰にバレようと、ハルヒにさえ知られなければすべからく平和だ。ま、ちょっとだけ知らせてやってもいいか……とかいつしゆんひらめいてしまったものの、すまない、ただの気の迷いだった。いや、だから、マジでマジで。

 はあ……。誰に対してより、自分に言い訳を言い聞かせなければならないってのは、どうも何年かして思い出してはもんぜつする経験にしかならないんだよな。忘れたいものに限ってとつぱつ的に思い出したりするから人間の脳みそはタチが悪い。人類ねこ計画を誰かじつせんに移してくれないものだろうか。猫は大それた野望も未来への不安もまるっきり持っていないだろうからな。



 こうしつに行く手間ひまかける時間などこうりよに入れるだけ無駄と判断したのだろう。

 ハルヒは部室で男女入れえ制で着替えるように強制し、当然のはいりよとして俺と古泉と朝比奈さんは退出の上、ろうで手持ちぶさた状態になったわけなのだが、男子一年生が体操服へのころもえを果たす時間になってもハルヒは当然のような顔で、出ろと言われたにもかかわらず長門は本に顔をせたままその場を動こうとは結局せず、いやいや、少しはういういしい高校生男子がせんぱい女子の目の前ではんをさらさねばならない心境について考えてやれよと意見しようと思ったものの、まああの二人ならいまさら何を見ようがまるで気にしないだろうし、もしかしたらこれもハルヒ的入団試験の一つのハードルなのかもしれず、だったら女子のターンで俺が部室内にいても問題なかったんじゃないかと気づいたのは、一年全員が着替えを終えてグラウンドに向かっている最中のことであった。

 まあ特に残念ではないさ、と言っておく。どっちみち俺の信条的にも性格的にもできそうにないことだしな。朝比奈さんの目もあるし。



 このような回りくどさを経て、さて、やっとのことでとうらいしたハルヒきんせいSOS団最終入団試験の運びになったのは全然いいのだが、という割にはいささかせないことに新一年生のみならずハルヒまでもが体操着姿なのが気になった。その精神世界を大いにやくどうさせてはばかるところのない女の、ストリートなヒップホップサウンドをそつきようで作詞作曲しかねないはずんだ足取りももっと気になるが、最大のけんあんは、今俺たちが向かっているのが運動場だってとこだ。

 解説の必要もなく放課後のグラウンドが運動部たちのれつじん争いであるのは、スポーツに別段力を入れる方針でないいつかいの県立高校では毎日のようにもくげきできる光景である。今も陸上部サッカー部野球部などのメジャーな部活や、それよりはややマイナーなスポーツにまいしんする生徒たちによって、たがいに領有権を主張している小国のごうぞくが国境付近地帯で無言のせめぎ合いを続けるがごとき陣取り合戦がり広げられている。

 マシなのは400メートルトラックをほぼどくせんできる陸上部くらいだが、そしてハルヒは五人の一年生たちをようようと引き連れながら、着実な歩調でずかずかとそちらへ向かっていく。そのえんりよのなさときたら小魚の群れに突撃するカジキマグロをほう彿ふつとさせる。

 行きがかり上、ここまで付き合ったものの、毎日の登下校と体育の授業以外に運動をする気のない俺は、グラウンドへ下りる階段の上で待機させてもらうことにした。古泉と朝比奈さんも同様である。二人ともつきあいが長いせいで、ハルヒが何をするつもりなのかは重々承知しているものと見える。長門は最初から立会人になる気がなかったらしく、今も部室でのどかに読書を楽しんでいることだろう。けんめいな判断だと言わざるを得ない。

 つまり、長門を除く現職SOS団員であるところの俺たち三人は、ただの野次馬と化する道を選んだわけである。下手に何か言って参加させられてはたまらんもんな。

 見ていると、ハルヒはまず陸上部のだれかにたけだかなんくせをつけ始め、めいわく色のオーラを立ち上らせる部員たちの目の色をいつだにせず、スタートラインに入団希望者たちを整列させた。

「走るくらいいいでしょうが。だいたい陸上部は走るしか能がないけど、あたしたちはもっとすうこうな目的のために走るのよ。今日一日だけなんだし、そんなにじやはしないし、それに運動場はあたしたち北高生の共同区域のはずだし、あたしたちが走って文句がある?」

 ばやにまくし立てた後、0.1秒のゆうあたえ、

「ないわよね。じゃ、そういうことだから」

 集まってきた陸上部員にをいわせる時間さえ与えず、ハルヒは配下の者どもに号令をかけた。実にシンプルに、

「よーい、ドン!」

 と言いつつハルヒはフライング気味に走り出し、何をするのか聞かされていなかったのだろう、一年ぼうたちは一瞬あっけにとられたように立ちつくした後、

「何してんの! あたしについてきなさぁいっ!」

 ハルヒのだいおんじようこうを解かれ、さっさとトラックを周回し始める体操服の後を追ってけだした。先頭を行くハルヒのペースからして、おそらくたんきよではなく───ああ、なるほどマラソン大会ね。

 だがいったい何千メートル走らせる気なんだか。あいつ、ストップウォッチすら持ってないんだぜ。

 とは言え、最後の試験が単純なマラソンで助かった。

「ハムスターを百一ぴきも集めることがなくなってよかったよ」

 俺は階段最上部にこしをかけ、眼下の運動場を見下ろしながらつぶやく。ハルヒはおくれがちな一年生たちにハッパをかけつつ、先頭でねるように走っている。まるで牧羊犬だ。

 目を細めてながめていた古泉が、俺にリアクションをよこした。

「不可能ではありませんが、涼宮さんの意識的には、特に意味のないアイテムだったのでしょうね」

「もしハルヒが本当に言い出していたら、お前どうした?」

 古泉は手のひらを上に向け、何かの重さを量るような仕草をしながら、

「もちろん手をくしてかき集めていたところです。知り合いが営業しているペットショップチェーンの全店にかけあってね。見ているぶんには可愛らしい小動物ですよ、ハムスターは」

 百一匹もがはこめにされてるんじゃなけりゃな。どくじゃあるまいし。

「ところで古泉」

「何でしょうか」

「あのぼうマラソンに参加している一年だが、本当に全員のじようは明らかなんだろうな?」

「それはもちろん。調査の限り、何も心配はありません。あの中に宇宙人や未来人などの現世人類とカテゴリーの異なる存在はまぎれ込んではいませんよ」

 古泉はあごひとでし、

「ただ──」

「何だ」

「一人気になる生徒がいると言えば、います。いつぱんじんであることはちがいないのですが、これは僕の単なるかんでしかありません。むしろ予感というべきでしょう。全員だつらくはさすがにおもしろくない──一人くらいは団員合格者を出してもいいんじゃないか……と、涼宮さんが考えて不思議ではない。だとしたら誰が残るのか。その人間に、なんとなく予想がつくのですよ。何一つ理由付けのできない、僕のささやかな予感でしかないのですが……」

 俺の思っている生徒と同じやつ──それも女子──であるような気がした。

「そいつの出自は確かなんだろうな」

「はい。調べましたからね。じやつかんとくしゆなケースではあるでしょうが……」

 なんだそれは。それこそ言えよ。今。すぐ。

 古泉はふふっとかいそうなしようで答え、

「それはまだ、ないしよにしておきましょう。どうということのない、まつな秘密です。我々に害をなすものでは決してないと断言させていただきますよ。逆にメリットですらあるかもしれません」

 ふくみのある回答が少しは気にかかるが、古泉が言うのなら信用してもよかろう。ことハルヒがらみの事態には俺より神経質になる男だからな、こいつは。

「ただ──」

 またか。

「そうですね、ただ、僕は現在、相当にせんぱくではあるのですが、非常に説明しにくい感をいだいています。いえ、新入生がらみの疑念ではありません。じゆんすいに自分自身に対してですよ」

 れんあい関係以外の人生相談なら聞いてやってもいいぜ。

「相談してどうにかなるというものでもなさそうです」

 古泉は階段わきほこはるおんを眺めながら、

「実は、自分がうすくなっているような気がするんです。どう説明したものでしょうか」

 見た感じ、お前のつらの皮はいつも通りの半笑い鉄仮面だ。

「外見的な意味ではありません。僕が今考えていることは本当に僕の意思なのか、それとも違う僕が夢で考えている非現実世界での意識なのか……なんてことをね。まあ、ちょっと気になる程度に考えてしまうわけですよ」

 ハルヒの精神状態を気にしすぎてとうくつ者がミイラりになっちまったか。メンタルクリニックにでも行ってみたらどうだ? セロトニンくらいなら処方してくれるかもしれんぞ。

真面まじに考えてみますよ。これが僕一人の問題ならいいのですがね。いや、きっとそうなんでしょう。涼宮さんはあの通り楽しそうですし、しばらくは『機関』の出る幕もないでしょうから」

 古泉の言葉を受けて、俺はグラウンドに目をもどした。

「走った後ってのどかわきますよね。お茶の準備をしておこうかなあ」

 と、相変わらずの気配りをみせるメイド姿のままの朝比奈さんの声を耳にとめつつ。



 おどろいたことに、ハルヒのしつそうペースはちようきよマラソンにしては異常なほどのハイペースであり、また単純にもトラックをぐるぐる回るだけのシロモノだった。時間さえ計っていないということは、時間限定ですらないということであり、おそらく何周したら終わりをむかえるという明確なゴールが設定されているものでもなさそうだ。

 ここにきて、ようやく俺はハルヒの真意を理解し、一年生たちに深々と同情した。

 ハルヒめ、あいつ、全員が脱落するまで走り続ける気だぞ。ついてこれなかった者からかたぱしに不合格にして、最後にへばったやつに適当ないたわりの言葉でもかけてお開きにするつもりなんだろう。

 よっぽどハムスターつかみ取り選手権以上の試験内容が思いつかなかったと見える。ちゃっちゃとマラソンで片を付ける気でいるのだ。ではあのペーパーテストやらは何だったと言いたくもなるが、ハルヒらしいきっぽさが存分に発揮された結果がこれなんだろう。あるいは、本当に長々とハルヒのたわむれに付き合わされる一年生たちのことをおもんぱかったのかもしれない。

 しかし、一番もっともらしいのは最初から新入団員なんぞほつしていなかったのかもな。

 最終試験、時間無制限たいきゆうマラソン。

 ハルヒが立ち止まったとき、その背後に立っている一年生などかいに違いない。この世のだれにもついずいを許さない、ちようこうそくすいせいのような女なんだからな、ハルヒはさ。

 俺の思いを裏付けるように、一年生たちは数周もいかないうちにおくれを取り始めた。快調に飛ばすハルヒの快足に付いていける人間など、陸上部全員を集めてもそうはいないから完全に予測できた光景ではあるが、それでも何人かは全身ぜんれいをこめて先行する第一グループ──つまりハルヒのみ──に追従する第二グループを形成している。

 つう、マラソンなんてあらかじめ走る距離が決まっているか、時間打ち切りでやるもんだが、ハルヒに至ってはそのどちらも考えていない。ただ、走る。そして気の済むまで走り続けるだけだ。ゴールが空間的にも時間的にも見えないんだから、こいつは後続の一年生にとっちゃ、ちょっとした肉体的・精神的なごうもんだぜ。

 おまけにハルヒは放置していたら明日の夜明けまでげん良く走り続けるくらいのエネルギー源不明な体力保持者だ。あいつの身体からだの中にいるミトコンドリアは本当に地球産なのか? 未知のATPを発生させるなぞさいぼうを持っていたとしても、今やいちいち驚いていられないほどの全開ぶりにはあきれを通りしてかんたんすらする思いだ。

 こうして海兵隊に入門したばかりの一年生がハードワークをいられているのを、ひたすらながめている時間がどれだけ経過したことだろうか。

 朝比奈さんは合否はともかく入団希望者たちをろうすべく、新メニューそば茶の準備に部室に戻り、眺めているのは俺と古泉だけになっていた。いや、ほかにもいるな。グラウンドでそれぞれ練習に打ち込んでいた運動部員のほとんどが、このみようなトラック周回マラソンに注目し始めている。それほどハルヒのランニングフォームは美しくかろやかで、よくは知らんが、まるで草原をしつするカモシカのごときやくどうを思わせるものだった。

 ま、ハルヒはそれでいいんだ。いつものことだ。

 が。

 その後まもなく、グラウンドでの風景画はまさに「るいるい」としか表現しようのない絵図となって土のカンバスにえがかれることになった。

 いつ終わるともないハルヒの時間無制限マラソンからだつらくしていった一年生たちが、トラックのそこかしこでぶったおれているという、いまどきこんな精神論全開な練習をする運動部がスポーツ競技にそれほど熱心でない北高にあるはずもなく、俺はしみじみ実感する。もしハルヒが一年前にもこんな入団試験を課していたなら、俺と朝比奈さんはちがいなく不合格だったであろう。どっちがよかったかといまさら考えるまでもないが、そればかりはハルヒの気まぐれに感謝の意をお届けするにいつさい躊躇ためらいはなかった。



 当然、こんな無茶なマラソン試験に合格する一年などいるわけないと達観していたのだが、いつ果てるともないハルヒの脱落強制マラソンが終わりをげたとき、つまりさしものハルヒがあらい呼吸ですなぼこりだらけの大気をき乱しつつ、立ち止まったときのことだ。

 俺はこれまでちくせきしてきた自分史における自信を失いかけるほどのしようげきシーンをの当たりにすることになった。

 団員志願者たちはトラックのそこかしこでぶっ倒れ、じやだと言わんばかりの陸上部員たちに引きずられて運動場のはしに行っている。半ばゾンビ化した彼らアンド彼女たちが最も欲するものは、何よりしんせんな酸素とヤカンからぶっかけられる水道水に他ならないだろう。

 しかし───

 ただ一人、ハルヒがマラソンしゆうりようを宣言した時、その後ろにぴったりくっついて、ハルヒにおくれることわずか数秒というタイムラグでゴールをけた一年生がいた。

 さすがにひぃふぅと荒い息をつき、あせまみれになっていたが、それでも彼女はやり遂げたのだ。そう、彼女と言うからにはそいつは女子の一年生。

 がらな身体に合っていないブカブカの体操着をまとい、汗で乱れたかみを子供っぽい手つきで直そうと努力して、ますます鳥の巣のような髪型になっている。だが、その紅潮しつつも整った顔つきにあるのは心からのうれしそうなみであり、特に印象に残ったのはスマイルマークみたいな髪留めのデザインだった。

「あなた……」

 ハルヒがみようおどろいた声で、

「なかなかやるわね。あたしに付いてこれるなんて、陸上、やってたの?」

 ハルヒのいきづかいもさすがに荒い。

「いいえっ」

 少女はかんはつ入れず答えた。

「あらゆる部活動に関して、あたしはフリーダムでした。あたしが目指していたのは、ふはぁっ、SOS団だけなんです。がんばりましたっ。何としてでも入れてもらおうと思って、この日をむかえたのです!」

 何キロ走り終えたのかわからないにもかかわらず、やたらハイテンションな回答だった。汗まみれの顔に笑顔を形作るところからゆうさえ見て取れる。

 その答えはハルヒのお気にしたのか、まだ呼吸を整えながら、

「合格者はあなた一人ね。まあ、これはまだ第一次適性試験みたいなものだから、もうちょっと試験は続くかもしれないけど、かくはいい?」

「やれと言われれば何だってやります! それが水面にうつった月をすくい取れというご要望でも、あたし、やります!」

 二人のやり取りを、俺と古泉は安全地帯から大口を開けてぼうぜんと眺めていた。

 ハルヒ並みのきやくりよくと肺活量の持ち主で、しかも新一年生だ。これは陸上部あたりがほうってはおくまい。見ろ、トラックをせんきよされてめいわくがおだった陸上部員たちの目の色がこうげきしよくに変わっている。なんとかしてあの有望そうな新入生をかっさらえないかとげきれつなる思案に暮れている目だぞあれは。

 ハルヒに関してはもうあきらめるしかないが、入学して間がない新人ならどうにかしゆうえさせられるんじゃないかと、ポルトガル宣教師が仏教勢力からきよを置く戦国武将をねらう目をしている。こうもまざまざと長距離走の実力を見せつけられたら無理もないよつきゆうと言えるね。俺もまったく同感だ。

 その少女は満足げに額の汗をうでぬぐい、ふと顔を上げて俺と目線を合わせた。目を細めくちびるゆるませるおさえめな笑顔が、俺に底知れない感を覚えさせる。

 こいつは『知っている』側の人間なのか。長門や古泉ですらスルーしてしまうちようじようステルス能力持ちの、なぞの第四勢力の一員…………と考えてしまうわけだが、それにしては佐々木はともかく九曜や橘京子、謎未来人関連の人物というにおいはまるでしない。

 まさか第五の勢力か──。

 おいおいやめてくれよ、いったいどれだけの人種を俺は相手にしないといけないんだよ。と、めんどうくささにおそわれたところで、しかしながら俺は彼女に本能的な危険性をまるっきり感じることができなかった。風変わりな一年生。ハルヒが一人くらいは欲しいと考えただろう、新入団員候補。それ以上の意味はないのかもしれない。未来人や超能力者、宇宙人をほつすると宣言したハルヒの有名なセリフも今は昔、すでに一年前のものだ。その間、色々ととつなことが発生した一年でハルヒの望みは本人の自覚なしとはいえ、すべてじようじゆしている。

 直近で望んでいるのは、とにかく有望な新入団員であって、そいつは別段、とくしゆな人間あるいはホモサピエンスもどきである必要はないだろうから、ハルヒは第二の便利な平団員、つまり俺二号をしよもうしていただけなのかもしれず、だとしたらハルヒの行き当たりばったりな入団試験に合格した少女もまた、NPCに近い人数あわせと小間使い、またはいずれ卒業してしまう朝比奈さんからはつがせるためのニューマスコットキャラなのかもしれなかった。

 仮にもく通りの人間でなかったとしても、だったら遠からず俺にアプローチをかけてくるだろうし、考えるのはその時からでもおそくはない。じん変人の相手は慣れている。

 ひざに手をついて呼吸を調整している一年生の姿には、人間をちようえつした何かも、未来人らしい過去の情報不足も、異星人的な非常識さもまったく全然かいであるのは間違いなかった。

 彼女は人間だ。だれのアドバイスも忠告もいらない。これは俺のつまびらかなる確信だ。現世人類が不定型な原生動物から何だかよく解らない経歴をたどって進化した、と同じくらい事実にして真実であるという、るぎのない確たる真相なのである。

 俺だってたまには正しい推測をするのさ。



 こうして突発的におとずれたSOS団入団最終試験は、を言わせない団長の突発的な思いつきによってしゆうりようした。

 もちろん俺には多少の気がかりが残されている。合格を果たしたあの一年生むすめ、どうも何かどこかで見たようなことがある上、初顔合わせの時点でなぜか俺の目にみようにひっかかった人物が、つまり彼女なのだ。古泉は特にあやしいものではないと断言していたが、ハルヒの入団試験をくぐりけ、お眼鏡めがねかなったということは、ほぼ確実にその娘がタダ者ではないことを示している。

 どっちの意味でのタダ者でなさだ? 鶴屋さん的なものならば、まだこっちの世界の住人で安心だが、これが宇宙や未来や超能力がらみだとしたら、また俺には新しい問題集から応用問題があたえられたも同じことになっちまう。

「ううむ」

 思わずうなる俺の背をポンとたたいたのは古泉で、

「心配することはありませんよ。彼女は問題ありません。体力的に涼宮さんと同等の女子高生なら、探せばいくらでもいるでしょう。むしろ、可愛かわいらしいこうはいが増えてよかったじゃないですか。なかなかに小間使いの素質はありそうですし」

 本心からそう思っているらしい。古泉の表情はやわらかな余裕のみにいろどられていた。

 だが俺には何やら得体の知れない既視感というか、あの少女とどこかで会っていたのではないかというさつかくを完全には捨てきれていないんだが。

 まったくおくになく、それでいて明らかに初見の顔合わせにもかかわらず気になっていたのはそのせいだが、逆に言うと全然接点がないのは明白なのに、どうして前から知っていたような気になっているのか、そんな自分の中のいわしぐものようにたなびく夕方のから立ち上るモヤっとしたけむりみたいなものが気がかりでしょうがないのだ。

「待てよ」

 ってことはこれはあの娘の問題じゃなくて、ただ俺の心の問題なのか。ここまで心配しような性格をしていたとは我ながら信じられん。たった一人の一年生女子に、しかも一見したのみでは単に愛らしく、健康問題も皆無そうで、いかにも人好きのしそうなきやしやな女の子相手に、俺はなにをどうようしているんだろう?



 さて、ハルヒと今やゆいいつの新人団員となった一年生は一足先に部室にもどり、えを終えた模様だ。とびらが内側から開いたとき、飛び出してきた少女とオフセットしようとつしかけたところを、相手はひらりと春風にかれるモンシロチョウのように身をかわし、

「今日はこれで帰ります! 明日から、よろしくお願いしますねっ」

 夏の日中にく花のような笑顔を見せた。採寸なんかしていないようなだぶだぶの制服、変なかみかざり、ただし健康的な顔にかばせているのは二重連星の片一方のような陽気さで、そして、どこか幼い笑み。

 俺のとなりには古泉もモデル調のポージングでっ立っていたんだが、そっちには目をくれず、少女は俺だけをごうそつきゆうストレートの視線でしばし見つめ続け、フフッと小さい笑い声を立ててから、

「それじゃっ!」

 とうとつに行き先を思い出したコマドリのように、さっと階段の方へと向かって、消えた。

 しばらくぜんとしていると、

「ずいぶん気に入られたようですね」

 ニヤニヤというおんが最適だろう、古泉のもの静かな声がなにかささやいている。

「いやぁ、可愛いもんですね。一年生、それも同じ部活の後輩となればなおさらです。なかなか気だての良さそうな娘じゃないですか。いかが思われます?」

 いかがも何もねえ。俺はハルヒが本当に新入団員を入れるとは思ってもみなかったから少々きよを突かれているだけだ。ハルヒの無茶なマラソンレースは明らかに全員不合格をねらったものだったから、そのおもわくを飛びえちまったあの娘の根性をたたえるか、でなければ自分の運動神経に疑問をいだく作業にいそがしいだけさ。

ちようきよ走は運動神経とはそれほど密接な関係にはありませんけどね。どちらかと言えば遺伝形質のえいきようが大きいことがわかっています。ま、いいでしょう。今はそういうことにしておきますか」

 みようゆうだな、古泉。お前、何か知ってるんじゃないだろうな。

 古泉はしようかたをすくめることでごまかし、ちょうどその時、部室内から声がかかったので俺の取り調べ的なついきゆうもここまでだった。

「もう入っていいわよ! 着替えすんだから!」

 どことなくじようげんな、ハルヒの声だ。

 ハルヒはいつもの団長席につき、自分用の湯飲みで熱々のそば茶をずるずるとすすっていた。ゆかぎ散らかしてある体操着を、朝比奈さんがちょこまかと拾ってはたたんでいる。その姿は、もはや涼宮家専属メイド隊筆頭のような風格さえただよっていた。わがままなおじようさまが自前のメイドを学校にまで連れてきた、と設定をへんこうすべきではなかろうか。

「いいのかハルヒ」

「何が」

「新しく団員入れちまってよ」

「そりゃあ、まあ、ねえ」

 ハルヒは湯飲みの中身を飲み干し、たんっと音高く団長机において、

「正直言って、あたしだって一人も残らないと思ってたわ。だから最終試験をマラソンにしたんだしね。でも、まさかあたしに最後までついてこられる一年がいたなんて、ビックリマークとハテナマーク二つよ。『!!??』って感じね」

 なるほどな。やはり最初からだれも入れるつもりはなかったんだな。今までの入団試験の数々は単なるハルヒのお遊びだったわけだ。

「でも、びっくりしたわ。このあたしと同等の体力を持つ一年が存在していたって事実にね。これはもうじんじような事態じゃないわね。相当ないつざいよ。陸上部に入れば中長距離走のエースとしてインターハイも夢じゃないんじゃない?」

 だったら、そのまま熨斗のしつけて陸上部にあつせんすべきじゃねえだろうか。

「もったいないじゃない。陸上部はそりゃ喜ぶでしょうよ。ここんとこ大会でもからっきしだしねウチの陸上部。でもね、ほかの部がのどから手を出すほど欲しがる人材、そんなのをむざむざわたしてあげるわけにはいかないの。あの子はSOS団の門をたたいたのよ。本人の意思を尊重しないで、何が健全な学園教育よ。民主主義の風上にも置けないわ」

 健全な学園教育やこの世のあらゆるイデオロギーにも何の興味もないくせに、ハルヒは機嫌良く言った。

 他のクラブからせんぼうの目を注がれることにようようとしているとしか思えない。ぐんゆうかつきよする中国しん南北朝時代の昔ではあるまいし、そこまでそうそうみたいな人材収集マニアにならなくてもいいんじゃねえか。

「それだけじゃないわよ」

 ハルヒは団長机の引き出しをごそごそとまさぐり、いつぞやのコピー用紙を一枚、取り出した。

「まず、これを見てちょうだい」

 受け取ってながめると、それはハルヒが入団希望者を集めて書かせた、入団試験問題用紙だった。いやアンケートと言うべきか。

「他のはしようきやく処理に回したけど、その子のだけは残してるの。新団員の心意気だもの。あんたにも知る権利はあると思ってさ」

 さすがに興味はあった。ハルヒの気まぐれで実行された入団試験に完全パスした新入生の貴重なデータだ。さっそく目を通す。俺も読んだいくつかの質問じようこうの下の空白らんに、えんぴつ書きの文字がかしこまった感じでおどっていた。

 以下が、その文面だ。


・Q1「SOS団入団を志望する動機を教えなさい」

・A「思い立ったがきちじつです。もはや愛してます」

・Q2「あなたが入団した場合、どのようなこうけんができますか?」

・A「自由の限りをくします」

・Q3「宇宙人、未来人、異世界人、ちよう能力者のどれが一番だと思うか」

・A「一番しやべってみたいのが宇宙人。一番仲よくしたいのが未来人。一番もうかりそうなのが超能力者。一番何でも有りだと思うのが異世界人です」

・Q4「その理由は?」

・A「先の回答でいつしよに書いてしまいました。ゴメンナサイ」

・Q5「今までにした不思議体験を教えなさい」

・A「してません。ゴメンナサイ」

・Q6「好きな四文字熟語は?」

・A「空前絶後」

・Q7「何でもできるとしたら、何をする?」

・A「火星に都市を築いて自分の名前をつけたいです。ワシントンD.C.みたい。フフフ」

・Q8「最後の質問。あなたの意気込みを聞かせなさい」

・A「どうしてもと言われたらわざと視力を落として眼鏡をかけます」

・追記「何かすっごく面白そうなものを持ってきてくれたら加点します。探しといてください」

・A「わかりました。すぐ持ってきます」


 ……別に初代ワシントン大統領が作って自分でつけた町ではないと思うが。ところでD.C.って何の略だ?

「さあ、ダイレクトコントロールじゃないの? なんかそれっぽいし」

 ハルヒが無責任なことを言い、

「…………」

 聞こえていたのかどうか、長門はピクとまえがみらしただけでていせいの文句を発しなかった。

 正答したところで俺たち二人にとっては無益な情報だと思われたのかもしれない。自分で調べろと言わんばかりのちんもくだった。

「ふむ」と俺は意味もなくうなる。

 そういえば新入団者に内定した少女のめいしようをまだ聞いていないことを思い出した。俺は解答用紙をなにげなくひっくり返し、表にあった名前欄を見た。なぜかクラスや出席番号の部分は空白だったが──、


 渡橋泰水


 そこそこていねいなペン文字のひつで、フルネームが書いてあった。しかし、

「……なんて読むんだ? わたりばし・たいみず……いや、やすみず……か?」

 疑問をていした俺に、

「わたはし・やすみ。ですって」

 ハルヒが答える。なんでもないように。それはただの名前だと言わんばかりの無関心さで。

「…………」

 しかし、俺はそこに引っかかりを感じていた。急流にまれた小魚があみにすくいあげられたような、それもただ一ぴき、不運な俺だけがわなにかかったような気がする。り上げられたのは、この渡橋という少女なのか、それとも俺か。

「む……?」

 なんだこの感は。俺はこの名前を知っている。おぼろおくがそう言っている。そう、どこかで聞いたはずなんだ。

 渡橋。わたはし。覚えのない名前、覚えのないづらだが、この発音。

 わたはし──。

「……!」

 俺の脳内にあったびついた歯車がカチリと音を立て、かみ合った。油切れで止まっていた時計が動き出すようなさつかくおそわれたと同時に、数日前の記憶がとうめいな水の底からガラスへんを拾い上げるかのようなせんめいさでよみがえった。


『あたしは、わたぁし』


 でエコーのかかった電話しとは言え、確かに聞いた女の声。どこか舌足らずで、妹が知らないと述べた、あの声だ。

 あたしは、わたし。

 あれはただの判じ物的なイントネーションではなかったのだ。電話の主はこう言ったにちがいなかった。

 つまり──


『あたしは、わたはし


 なぞが晴れてすっきりした感覚をたんのうしたのもつかの間、さらなる疑念が俺の心中でうずいた。

 渡橋泰水……。

 ───とは、いったい何者だ? 俺に電話をかけてきたのがただのイタ電だったということで百八歩ゆずるとしても、どういうわけかSOS団に仮入部して、あまつさえハルヒによる無茶な入団試験をクリアし、明日から正式な団員となろうとしている新一年生がまともなやつであるはずがない。

 おまけに動機は不明だが、フライングで俺個人にれんらくしてくるほどの謎の行動力を持ち合わせてもいやがる。まさに正体しようおもわく不明確なそいつが、まんまとSOS団にせんにゆうせしめたってわけだ。

 彼女の正体は何なんだ。別口のちよう能力組織員か、てんがい領域とやらのエージェントか、反朝比奈組にくみする未来人か。

 しかし、それにしては古泉も長門も朝比奈さんも、渡橋が残ったことにおどろきはしていつつも、何のけいかいしんも見せていない。超能力者なら古泉が、九曜関係なら長門が、未来人モドキなら朝比奈さんが多少なりともリアクションを起こしているはずだが、三人ともそれぞれ意外な顔をしたのみで、朝比奈さんなどむしろうれしそうである。まあもっとも朝比奈さんは例によって何も知らされていない可能性はあるものの、朝比奈さん(大)からはばこ未来通信の一つでも来てよさそうなものだろう。

 この決定には何かあるのか? それともただのぐうぜんなのか? ハルヒレベルの身体能力を持つ一年生が、何の因果かSOS団などという学内イレギュラー同好会に適性があったという、単にそれだけのことなのだろうか。

 ただの偶然だろ──となつとくして思考ほうするほど俺は心清らかな人間ではない。

 だいたいだな、では、あの電話はなんだ?

 入浴中の俺に妹が持ってきた受話器、手短なコメントだけ告げてあっさり切れたあの電話連絡は、あれには何の意味があったんだ?

「やれやれ」

 しばらく平和だと思っていたが、この平和をばんぜんたるものにするため、この渡橋泰水なる一年生にちょっとばかり注目せざるをえないようだな。

 それにしても、わたはしやすみ、か──。

 ハルヒがアンケート用紙をさらにひらりと返し、備考らんに書かれている文字を読んだ。

「どうか、ヤスミと呼んでください。できればカタカナで発音されると嬉しいです……ですってさ」

 漢字でもカタカナでもどうせ発音は同じだ。

「キョン、その意見には賛同できないわ。漢字には漢字、ひらなら平仮名、カタカナにはカタカナのイントネーションと意味合いがあるものよ。やっぱりそれぞれ違うわけよ。ためしにあたしの名前を平仮名で呼んでみなさい」

 いくぶんやわらかくなるかな。春日やハルヒと比べたら。それはともかくとして──。

 ヤスミねぇ。

 考えてみた。三十秒ほどのちんもつこうの後、俺のおくがいとうする名前ではないと、改めて明確この上なしの確信を持てた。一学年下ということをこうりよにいれていても、ますます記憶の平野は積もりたての処女雪におおわれたままで、そんな名前のあしあと一つ付いていない。間違いない。

 俺はこの子を知らない。

 でも、なぜか会ったことがあるような、それも前々から知っていたような、かい感ががい内のさいぼうえきひたしていることも確かだ。

 ハルヒはまったく気がかりなど感じていないようで、

「新人にまず何をさせようかしら。不思議たんさくは去年やっちゃったし、新作映画の主役ばつてき……これはしようそうね。あ、楽器何できるかいておけばよかった」

 つうに有望そうな新入団員をゲットしたことで何やら精神活動を盛り上げさせているらしい。

 感じているのは俺だけか? 何らかの不協和音。ただでさえ不自然な日常にちんにゆうした小型ばくだんのような不安感を。

 渡橋ヤスミの秘密。

 それはいったい何だろう。調査対象にすべき議題なのか、これは。

 俺は古泉に目線を送った。

 しかしSOS団副団長は、副々団長である朝比奈さんが給仕してきた熱々のそば茶をゆうにすすっているだけで、せっかくのアイコンタクトにまばたき一つよこそうとはしなかった。

 うーむ。

 ……ま、お前が気にしないことを俺が気に病むこともなさそうだな。なあ、古泉よ。

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