α─9
翌日、水曜日。
これが一時的なのか、この後も続いて加速度を増すのか、とにかくポカポカ陽気は春を超えて初夏というべき気候にホップステップという感じにジャンプアップを遂(げていた。そういや去年もこんなんだったような。どうやら地球はどんどんヌクくなりつつあるようで、それが人類のせいなんだとしたら早いとこなんとかしないと、シロクマや皇(帝(ペンギンから連名の抗(議(文が全国各地の火力発電所気付で届くに違(いない。字の書き方を教えに行ってやりたい気分だ。
そんなわけでこの朝、登校ナチュラルハイキングに甘んじる俺のシャツは早くも汗(で張り付くようになってきた。隣(の芝(は青々と茂(って俺の目にうすら目(映(く、それにつけても冷(暖(房(完備の学校が憎(くてたまらん。今度会ったら生徒会長に注進してみたい。実際的な予算の有(無(はともかく、喜緑さんの宇宙的事務能力ならエアコンの二十や三十、たちどころに設置完(了(となるかもしれない。
ところで古泉は会長氏に喜緑さんの正体を教えてやっているんだろうな。あの会長のことだから身近にいる書記職の女子が人間以外だろうとそんなに気にしないようにも思えるが。
俺は軽い通学鞄(を肩(にかけ、そぞろに坂道を上っている北高生たちの後ろ姿を眺(めつつ、異常なまでに爽(快(な気分で歩を刻みながら────ハテ?
首を傾(げて立ち止まる。我ながら意味なき無(駄(なパフォーマンスであり、どうしてこんな気になったのか解(らない。
春真っ盛(りな調子のいい陽気、梅雨前線はまだ遥(か南方の彼方(にあって湿(度(の具合も申し分がなく、一年に二度の春と秋の一定期間しかない過ごしやすい季節が今であり、ハルヒじゃなくても朗(らかになって疑問を覚えることなどなかろうに、どうも気にかかる。
俺は自分の意識を暗(中(模(索(し、坂を上り終える間に解答のようなものを見つけ出したように感じた。
「平和すぎるのか」
どうしてそんな呟(きを漏(らさねばならんのか、自分が解らないな。
ハルヒが新入部員(仮)を相手にして良性の上(機(嫌(で振(る舞(い、朝比奈さんは各種お茶くみの鍛(錬(に放課後を捧(げ、長門は文芸部部長としての職責をゴミ箱にしまい込んで読書に没(頭(して、古泉は日夜変わりなくヘラヘラしてやがる。
佐々木やら九曜やら橘京子やらがひょっこり出てきた時には、すわ、また奇(怪(なる非日常イベント攻(撃(の幕開けかと身構えたものの、あれっきり音(沙(汰(なしだ。そういや名無しの未来人ともご無(沙(汰(で、これはいつになったら解明される伏(線(なのかね。早いほうがいいような、後回しのほうが有り難(いような、いっそいつまでも待機なり膠(着(状態しててくれると俺的感謝状ものだが、そこは誰(に期待すればいいんだか。長門か、それとも我が親愛なる親友未満の佐々木か。
俺は中学時代のクラスメイトの言動を思い出す。あいつとの会話は、ほとんど受験や有益な人生を送る上で何の役にも立たないような情報ばかりだった。逆にそれが故(に、あいつなら未来人や宇宙人を煙(に巻くくらいのことは出来るだろう。そろそろそれとなく電話でもして様子をうかがったほうがいいな。特に未来人が気になる。
ぼうっとしていたらうっかり一年の校舎に行ってしまいそうだったのは新学期が始まって数日のみで、俺は機械的に上(履(きに履き替(えると二年五組の教室にふらりと入って席に着く。下(敷(きで顔を仰(ぐ日課の終了には秋の到(来(を待たねばなるまい。
しばらくそうしていると、ハルヒがチャイムギリギリの時間に担任岡部とゴール前で叩(き合う競走馬のような勢いで教室に入ってきた。体育教師より二馬身リードの先着ってところか。
「ずいぶんゆっくりだったな。入団テストの下準備がまだあったのか?」
ホームルーム終了後、一限が始まるまでのわずかの時間を利用し話しかけてみたところ、
「んー」
なにやら煮(え切らない返答がハルヒの唇(から転がり出た。
「お弁当作ってたのよ。なんだか今日は早く目が覚めちゃって、ヒマだからたまにはいいかなと思ってさ」
へぇ。どういう風の吹(き回しなんだかな。ハルヒにしてはごく普(通(の女子高生らしい振る舞いだ。
「ずいぶん時間をかけてたようだが、重箱にでも詰(めてたのか」
「栄養のバランスとか色々考えて献(立(に凝(ってるうちに熱中しちゃって、それで家を出る時間が遅(れたの。おいしいわよ。昼休みに食べるのが楽しみだわ」
ハルヒはアヒル未満フクロウ以上のような口を形作り、
「うーん。変な感じなんだけど、どうしてなのかしら。料理をしないといけないような気分になったわけ。そんな夢でも見たのかもしれないわね。覚えてないけど、誰かのためにご飯を作ってあげる──って、念のために言っとくけど、余分になんか作ってないわよ。あたしが自分で全部食べるんだからね」
いちいち断らなくていいさ。お前の手弁当などをもらったとして、いったいこの校舎のどこで食えと言うんだ。教室にいられないことは確かだが。
「そういやお前は滅(多(に弁当を持ってこないな。理由でもあんのか。オカンが味オンチだとか」
ハルヒは沈(黙(することしばし、
「何で解ったの? そうね……言いにくいし、あんまり言いたかないけど……その通りよ。あたしのおかあ──えほん、母親はちょっと舌の感覚が常人と違(ってて」
それすなわち味オンチと呼ぶ。
「あたしがまだチビの頃(はどこの家庭もこんなもんなんだと思ってたわ。たまに家族でレストランとか行くじゃない? それが涙(が出るほどおいしかったんだけど、お店だからそうなんだってね。でも小学校に入って給食食べるようになってから、ちょっとおかしいなって感じるようになったの。メニューにもよるけど、クラスの子たちがあんまりおいしくなさそうな時もあったからね。あたしは全然パクパクよ。友達が残したぶんまで食べてあげたわよ」
懐(かしむような遠い目を窓の外に向け、
「でね、試(しに自分で適当に作ってみたわけ。見よう見まねで、確か肉じゃがだったわ。記念すべき人生初のマイ料理。どんな味がしたと思う? これがもうレストランの味だったの。あたしの目から一枚目の鱗(が落ちた瞬(間(よ。ポロっと落ちてコロっと転がったわよ」
でかい鱗だな。
「アロワナかピラルクーのやつくらいはあったわね。でもそれ以来、家ではあんまり料理をしないことにしてんの」
「ほー」
なんだか妙(な感覚がする。ハルヒのセリフに何か引っかかるものがある。
弁当……じゃないな。レストランのメニューに肉じゃがなんてあるのか? アマゾン川に生息する淡(水(魚(の鱗……?
喉(元(まで出てきかけているのにもう一押し足りない、クロスワードパズルの最後の設問を思い出そうとしてるように、俺が沈(思(黙(考(しかけたとき、
「ところでキョン」
ハルヒが唐(突(に話題を変えた。やや下目使いの角度で、
「第一回新入生団員試験のことなんだけどさ」
ん? ああ、そうだな。目下のところそれが一番の懸(案(項(目(なんだった。
ハルヒは家庭の料理事情とはうってかわった、というか今までの会話を急いで流そうとしているかのように、
「日数をかけるのも手間だし、ぱぱっとまとめて実(施(しようと思ってるんだけど、どう思う?」
しがないヒラ団員に意見を求めるとは少々驚(きだね。すべての審(査(権は最高責任者が自らに一任していたもんだと思っていたんだが。それも勝手極(まりない一存でさ。
「そうだな……試験の内容にもよるだろうが」
とっさに思いつきを口にする。
「百一匹(ハムスター早つかみ大会とかじゃないだろうな」
ハルヒは一瞬、メデューサの裸(眼(を直視してしまったかのように固まった後、うかつな手がかりを口走った犯人を見る目で俺を見た。
「……何で解ったのよ、しかも数字まで」
だんだんこいつの思考に俺まで毒されているのではないだろうか。まさか単勝一点張りで当てちまうとはね。俺は自分の思いつきに戦(慄(しつつ、またそれ以上に呆(れながら、
「どっから持ってくる気だったんだ、そのハム公どもを」
「じゃあシャミセンのノミ取り大会」
家(猫(になってずいぶん経(つし、妹がたまに風(呂(にも入れている。そんなもんいねえよ。それにしても簡単に試験項(目(を変節するやつだな。
「校内に生えてる雑草だけの料理大会は?」
審査員がお前だけなんだったらいいぜ。
「交番の前で小麦粉入ったビニール片手にフラフラして誰(が一番最初に職務質問されるか大会なんてのは?」
お巡(りさんが迷(惑(するからやめろ。悪戯(ですまなくなるかもしれん。
ハルヒはむくれたとき特有の、ワニ目アヒル口となって、
「だったら何大会ならいいのよ?」
俺に聞くことじゃねえだろう。だいたい、どうしてそんなに大会が好きなんだお前は。入団試験なんだろ。わざわざ大がかりな行事にすることはない。ちなみにたこ焼き大会だったら俺は喜ぶ。どっかの道具屋筋に行けば安くで売っているだろう。
ハルヒは俺の軽口を小川のせせらぎのように軽く流し、
「キョン、入団試験は今年だけじゃないのよ。もちろん来年にだってやるわ。毎年恒(例(なんだから、それはもう行事と言えるでしょ」
因習的な神事でもなければ古風なお祭りでもないんだ、少しはオリンピックやワールドカップを見習うといい。毎年やってても白けるだけだ。
「よく考えろよ、ハルヒ」俺は諭(しにかかる。「長門や朝比奈さんが試験を受けたか? 古泉なんぞ転校生ってことだけで合格じゃねえか。去年のどこにも試験なんざなかったぜ」
言うならば俺のSOS団所属理由が最も意味不明なのだが、そこには言(及(せずにおく。
ハルヒは唇(を引き結んでとがらせるという器用な真似(をしてから、
「もうっ。あんた、ホントに新入団員を入れる気あるの?」
本当の気のことを言うと、実はもうなくなっていた。おそらく新入生の中に異世界人あたりが混ざっていたら、ハルヒの眼鏡(によってとっくに新入ならぬ侵(入(団員となっているだろう。未(だその兆候なしってことは、つまりあの一年生たちの中にその手のはいないってことだ。一(般(人(から一般性を失わせる悲劇は俺が身をもって証明している最中であり、ファッションの流行じゃあるまいし、悲劇は繰(り返さないのが一番である。有史以来二千年以上も経つんだ、ちったあ人類も歴史を学ぶべきであり、その人類の端(くれである俺はそれはそれは深く心に刻む次(第(だ。
ハルヒはまだ○○大会の○○に入る部分をブツブツ言いつつ考えているようだが、放課後までにハムスターを百一匹揃(えるような事態にならないよう、ネズミの神様にでも祈(っておこう。
大黒さんでいいのだろうか?
そしてまた放課後が「よお」てな感じでやってきて、俺はここ数日恒例となった涼宮師(範(によるテスト勉強講座を受講するのだった。言うまでもないが決して好んでのことじゃないぜ。ま、言うまでもないのなら言う必要もないだろうと言われたら返す言葉がないが。
「テストなんてくだらないわ。だって、どんだけスゴイ解答を書いたって結局、上限は百点ぽっちって決まってるわけでしょ? あたしは何だってそうだけど、枠(に捕(らわれるのが大(嫌(いなの。狭(い枠組みの中から出られないなんて、まっぴらゴメンさよなら。キョン、考えても御(覧(なさいよ。もし解答者が出題者の思(惑(を超(えて、出された一つの問題からもっと飛(躍(して大きな解答を考え出したとしても、別の問題をケアレスミスしただけで満点にはならないのよ。おかしいと思わない? あたしなら素(晴(らしくてエレガントな解答には二百点だって千点だってつけるわね。それが気に入らないの」
ハルヒは教科書をぞんざいにパラパラめくり、
「それに試験なんてこれに書いてあることをそのまま丸暗記すればいいんだもの。全然つまんない。機械的な作業ほど人間性を失わせることなんてないわ。堕(落(よ、堕落」
ためになるんだかならないんだか、少なくともその理念がとりあえず俺の英語のテスト結果に反映されることはないだろう。ハルヒが日本の支配者になって教育改革を成し遂(げない限りな。
「丸暗記より理解力よ!」
いきなり試験勉強必勝法を否定したかと思うと、
「ストーリーで覚えるの。誰が何故(、こんなことを考え出したのか、そこにさえ頭が回ったら、あとは芋(づる式にすべてが繫(がっていくのが解(るから。キョン、いい? 基本さえ押さえておいて、次にすることは出題者の心理を洞(察(することなの。昔の人の考えなんてさっぱー解んないけど、同じ時代に生きてる人間の考えることなんて推測するに造作もないわ。テスト問題に何が書いてあるかじゃないの。出題者が何を思ってそんな問題を書いたのかさえ解ってしまえば、いくらでも裏のかきようはあるのよ」
試験作成者からしたら裏をかかれるよりまっとうな正答を書いてくれたほうが○印をつけるに躊躇(いもないんじゃないかと思うが。なぜいちいち意表を突(くような真似(をせんといかんのかね。
「そのほうが精神的に優位に立てるでしょ。あたしたちの身分は学生に過ぎないけど、そんなのただの年(齢(的問題よ。馬(齢(を重ねているだけのルーチンワーク教師を啓(蒙(するのも、やっぱりあたしたち学生の特権なの。若さは武器にしないとね。当然だけど、若いってことが武器になるのは今のうちだけなんだからね。期間限定のこのリーサルウェポンを最大限に活用できる最大のバトルフィールドハイスクールは、もう何年も残っていないわよ」
解るようなどうでもいいような気がするが、今のところリアル高校生活を送るだけでヒィヒィいっている俺にはもう一つ含(蓄(のある言葉には聞こえなかった。ハヤブサの持つ哲(学(をスズメが理解するにはDNAレベルで不可能と言えるだろう。のどかに電線にとまって谷口スズメなんかとピイチク囀(ってんのが俺にはお似合いなのさ。生き馬の目を抜(くごとき補食生活はハルヒとかもっと向上心に燃えたぎる『赤と黒』のジュリアン的な人間に任せたい。どうも最近、俺には睡(眠(欲(以外の欲望がないんじゃないかと思われて仕方がないところだ。
「ずいぶん情けない決意表明ねえ」
ハルヒは呆(れたような表情で首を振(り、真(剣(を腰(に差していながら決して抜こうとしないビビリ侍(を見るような目線を一(瞬(俺に送って、唇の両端をくいっと吊(り上げた。
そして俺が驚(嘆(するくらいの穏(やかな声(色(で、
「ま。あんたの人生哲学に口出すつもりはないわ。でもね、」
と、すかさず強調の声。
「学校でも授業でもテストでも、あんたはそれでいいけど、SOS団の中ではそうはいかないからね。あそこではあたしが絶対で、あらゆる意味での治外法権なの。日本の法律も常識も慣習も言い伝えも大統領令も最高裁の判例でも、全然通用しない場所だってことを覚えておきなさい。異論ある?」
はいはい。ないない。そんな今(更(言われなくてもすでに解っているようなことを改めて言わずともいい。お前が銀河を統(括(するミステリアスな地球外生命体から一目置かれている事実は俺が一番よく知っている。だからさ、任すよ、ハルヒ。SOS団内での決めごとのすべては、お前にな。
だが、こっそりと長門や古泉、朝比奈さん(大)なんかにも、俺は同じようなことを思っている、それだけは許しておいてくれよな。
俺の溜(息(をどうとったのか、ハルヒは満足そうに教科書を閉じ、ノートを鞄(に放(り込み始めた。本日の課外授業兼(、部室にわざわざ遅(れていくための時間稼(ぎが終(了(したという合図である。
たった十数分のこの時間が、なぜか俺にはやたら貴重な安息のハーフタイムイベントのように感じられているのだが、これはどういう心理から来る安(堵(感なのだろうか。部室での集合にタイムラグを発生させるだけの、わずかな時間にすぎないのに、ましてや朝比奈さんのお茶にありつける時間までも遅れるというのに、俺はどこか今の部室を避(けている自覚があった。
それはいったい何なのだろうか。入団希望者のキラキラ一年生に合わす顔がないからかもしれないし、非科学的な胸(騒(ぎ、根(拠(のない嫌(な予感があるという錯(覚(に陥(っているからかもしれないが、まあなんと言っても部室にはハルヒ消失以来ちゃんと自我を守っている長門もいるし、難題の推理に喜びを見いだす古泉とともに、愛(しきうるわしの朝比奈さんまでもが後光とともにおわしておられる。
俺たちが全員揃(っている限り、この高校では無敵に等しいと自我賞賛しているわけだが、胸の隙(間(に入り込んだ薄(ぼんやりとしたヘリウムガスみたいなものが俺を妙(に浮(つかせる気分にしていた。
なんなのだろうか、これは。
この前偶(然(出くわした佐々木や橘京子や九曜などが気にかかっているのは間(違(いないものの、それからあいつらは特に何かをしでかしている感じでもない。佐々木があっち側にいるということは、おそらく佐々木はハルヒ以上にあの連中を煙(に巻いていて、そこそこ困らせているだろうなということは、俺の些(少(な推理力をもってしたところですら想像に難(くない。俺は佐々木をよく知っていた。あいつはハルヒと同じくらい、他人の意見に左右されることのない人間だ。むろんベクトルは違うがな。ハルヒは最初から聞く耳を持たず、佐々木はじっくり耳を傾(けた上で、自分の意見を滔(々(と述べ出すのだ。彼女のアイデンティティはとてつもなく強固であって、仮にゼウスやクロノスが神(託(を携(えて出張ってきたとしても変節することはないだろう。プロメテウスかカサンドラの言葉なら少しは耳を傾けるかもしれないがな。
まあ、仮にそいつらが専属家庭教師として俺の元に現れたとしても、ハルヒのように解(りやすく講義をしてくれるとは思えないな。結果論から導き出される客観的分(析(こそが、つまるところ歴史の理解に最も有益な情報なのだ。ありえない話だが、俺の名が後世まで残っていたとして、その時代の歴史家が何をどう分析しようとクレームをつける気はさらさらない。とっくに俺は鬼(籍(に入っているだろうし、死人に口なしではあるし、すでに死して朽(ちた人間に言(及(する権利を持つのは未来人だけさ。
そして俺は、身近な人間の死に接してそいつの思い出記録なんて書くつもりは猫(のノミの卵の大きさほどもない。だから誰(も死ぬんじゃねえぞ。行方(不明もダウトだ。俺とハルヒがいる限り、SOS団に絡(んでいる人間はどこにもいくことは許さん。増えるのはいい。だが減るのはダメだ。現状を維(持(し、維持し抜く。それが目下のところのSOS団の最重要団則その一であるのは、明文化していないとは言え、誰もが持っている共通認(識(なのだから。
てなことを、つらりつらーりと考えているうちに、ハルヒの特別講義は終了し、教室を出る際には掃(除(当番たちの含(み笑いを背に受けつつ、古びた校舎の廊(下(をヒトラーユーゲント全国大会に出席した若手ナチス党員のような勢いで進んでいた。
ハルヒによる俺専用授業復習講義がやっとの思いで以下明日となり、やれやれと安(堵(の気持ちでいたのもつかの間、肩(を並べて部室へと至る薄暗い廊下の最終目的地には、ちょっとした問題が残っていることを忘れるわけにはいかない。それはそれで俺の頭を大いにぐらつかせる問題でもあるわけだが、ハルヒはまったく意に介(していないらしい。
俺にテストで合格点を取らせることと団員試験のどっちが大事なんだという風(情(のハルヒだったが、部室に向かう足取りはまるでタップを踏(むようで、やっぱり色々と楽しんでいる様子がうかがえる。さしずめ新入団員候補の一年生たちがこいつには百一匹(のハムスターに見えているのかもしれなかった。
できれば新人団員たちには齧(歯(類(的な素(早(さより、猫科の動物的な鷹(揚(な精神構造を期待したいところだ。ハルヒの実験動物として役にも立たない心理学の道具にされるより、ぼんやりウロウロしたり突(然(丸くなったりしておいたほうが、身の施(し方として将来性のある人物に育つだろう。ハルヒに尻尾(を振(って忠誠を誓(うような素直な犬タイプは古泉だけで間に合っているからな。何考えてんだか解らない陸イグアナみたいなのがいれば、そこそこ部室にとけ込めそうだが、俺の見た限りでは望(み薄だ。
やはりハルヒも似たようなことを考えているのかもしれない。このままグダグダと入団試験を二次三次と続けていくよりも、一発で白黒をつけるほうがSOS団のためにも、また前(途(有望な新一年生のためにもなるんじゃないか、とね。
そして想像通りと言うか、ハルヒ的ハムスターであるところの仮入部員は、やはりと言うか少々目減りしていた。部室にいた一年生は男三人と女二人の計五人でフルハウス。昨日から一人脱(落(だが、俺の観点からしたらこれでもまだ残っているほうだと言える。いったい彼らのどこにSOS団に対する執(着(があるのか個人面談を実(施(したいところだが、あいにくそれはハルヒの役目であり、すべてを統(括(、決定する権利を有する我が団の最高権力者は、部室に入るなり、声高らかに宣言した。
「これからSOS団入団最終試験を開始します!」
すでに部室にいた朝比奈さんはそば茶の入った急(須(を持つ手をとめて目をパチくり、一人で動物将(棋(の盤(面(を吟(味(していた古泉は笑(みとともに両手を広げ、長門は隅(っこで古書のページを追いながら無反応を貫(き、十秒未満の沈(黙(の後、やっと俺が発言した。
「もう終わりなのかよ」
「ええ」
ハルヒは居(丈(高(に、
「あんまり時間をかけちゃみんなにも迷(惑(だからね。それに充(分(なデータは出そろったわ。あと見せて貰(うのは根(性(だけなの。友情も努力も勝利なんてものも全然いらない。だいたいあたしたちの間に友情が育つほどの時間はなかったし、努力なんて結果を出せない人間の言い訳でしかないし、勝利っていっても何に勝ったかじゃなくて誰に勝ったかが最上級要件なんだしね。この場合だと、あたしに勝たなきゃ何の功績にもなんないわけよ」
ハルヒは五人の新一年生たちに睥(睨(の視線を送って一(巡(し、うなずいた。
「みんなえらいわ。ちゃんと言いつけ通り、体操着を持ってきてるわね。じゃ、さっそく着(替(えてちょうだい」
人数分のパイプ椅(子(にきちんと座っていた一年坊(どもは、お互(いうかがうように視線を巡(らしていた。そりゃそうだろう。いきなり着替えろったって、どこでだという話だ。それにしてもいつの間に持参物のお知らせを回覧させていたのか、全員が体操着入れの袋(を持っていたのには感心する。この時期だ。どれも真新しいことだろう。ついでに運動部とはもっとも遠そうなこの部活にどうしてそんなものが必要なのか多少は悩(んだに違(いないが、ともかく今年の一年生たちは暴(虐(な団長の言葉に律(儀(に従っていたようで、
「あ、はいっ」「了(解(っす」
などと呟(きつつ、体操服を手にして立ち上がった。
が、立ち上がっただけだ。男女共同のこの部屋で、男女平等に着替えるには彼らの羞(恥(心(は格段に健全なる状態を維(持(しているものと見える。
なんせ古泉や朝比奈さんと長門もまったく出て行くそぶりを見せず、どうぞお気軽にとでもいいたげな態度で、古泉はニヤニヤ(意外とムッツリなのかこいつ)、朝比奈さんは展開の流れについていきそこねて人数分の湯飲みを探しているし、長門は部屋の隅っこで生徒会議事録に目を通すばかりで顔も上げない。
うろんな顔をしている一年生たちに救いの手を伸(べる役割は、どうやら俺しかないようだと深呼吸とともに腹をくくりかけたとき、
「さ、現団員はみんな部室から出て行って。有希も! 本なら外でも読めるでしょ」
ハルヒが思わぬ段取りの良さを見せた。
「まず女からね。男子は廊(下(で待機して、女子が終わったら着替えるの。あたしは男女間のすべての価値観は平等だと信じているけど、身体的な区別はちゃんとつけなければならないと考えているんだからね。さ、早く出た出た」
そこにはかつて一年五組の教室で男の目を気にせず着替えを始めようとした女子高生一年の面(影(はなかった。ま、俺の錯(覚(かもしれないし、ハルヒの笑(顔(に気を取られていてその分頭が回らなかったからかもしれないんだがね。
が、一応尋(ねておかねばならない。
「いったい、こいつらに何をさせようってんだ?」
運動系の試験だというのは見当が付くが。
「言ってなかったっけ? マラソン大会よ」
ハルヒは腕(を組み、もっともそうな表情を浮(かべて、
「やっぱりぐだぐだと試験を続けるのはあたしの性(に合わないわ。こういうのはすっぱり決めちゃった方がいい結果が生まれることだってあるのよ。それに仮入部期間だってそろそろ終わりだし、第二希望の他(のクラブに行くつもりの落選者のことも考(慮(してあげないと。そこであたしは考えたの。こういうのは最終的には体力勝負なのよ、元気一番なのよ。それには持久走が一番ぴったりくるわ」
今までSOS団の活動に持久力が試(されたことがあったかと考えつつ、
「おいおいちょっと待てよ」
言わずもがなだと思いながらも、こういうハルヒの暴走に異議申し立てをするのは狭(い部室の中に俺しかいないようなので、
「今までやってきたことはなんだったんだ。ええと何か、結局はマラソンで全部決めようってのか。だったら最初からそうしてりゃよかっただろ」
「ちっちっちちち」
ハルヒは予期していた質問をくらった試験官のような余(裕(さで舌を打ちつつ指を振(った。耳学問の門前の小(僧(に高僧が諭(すような態度で、
「考えが足りないわね、キョン。いいこと、今までの試験、面談は決して無(駄(なことじゃないのよ。あたしはちゃんと人を見る目があるからね。オオタカが地上の岩場の陰(に隠(れている子ネズミを発見するくらいの視力と注意深さは持っているつもりだわ」
まあお前に発見された哀(れなネズミは直後に巣で晩(餐(会(の皿に載(って出てくるんだろうが。
「あたしが試験試験と過(剰(に言い立ててたのは、いわばええと、あれよ、ミステリでいうところのマクガフィンってやつなんだわ」
「それを言うならレッドヘリングでしょう」
冷静に突(っ込んだのは古泉だったが、俺にはパウンドケーキと赤い鰊(がどう関連するのかサッパリ解(らなかったので黙(っておいた。はたしてハルヒもよく解っていなかったらしく、
「どっちでもいいわ。ようするに試験という名の適性試験を、んんん、簡単に言えば人間観察をしていたわけだから。つまり試していたってこと。試験の内容なんてどうでもよかったのよ。この問題の解答は、脱(落(せずにここまでついてきてくれる新人を選別する過程にすぎないの。ということで」
ハルヒは総勢五人の新一年生の鼻先で人差し指でさっと弧(を描(き、
「あなたたちは見事、関門を突(破(したわ。おめでと。こうして最終試験に挑(む権利を獲(得(したんだからね。大いに喜びなさい。いまのうちにね。でも本番はこれからなの。いっとくけど最後のは今まで以上に厳しいわよ。必要なものは体力、根(性(、精神力、勇気、そしてなによりも決して諦(めないという、人間が最も必要としている最重要スキルと、試練の先で待ちぼうけしている最終的な勝利なんだからねっ!」
一(般(論(的にいいことを言ってるような気もしたが、どうもこの場にそぐうセリフとはお世辞にも言えない。涼宮ハルヒはいつだって行き当たりばったりなんだ。今回もそうではないと、いったいこの世のどこの誰(に言うことが出来るのであろうか。
俺は思わず微(苦(笑(し、ハルヒがこういう奴(だから俺は、こいつを時たま…………
と何か思いかけたところでかろうじて踏(みとどまった。あぶないあぶない。自分の言葉がただ脳内でしか言語化されないものなのだとしても、その言葉は自分のみには聞こえてしまうわけで、そうなったからには聞こえなかったことには出来ないものだ。
言葉は認(識(だ。そんな認識をしてしまったら、俺は今後も長く続いて欲しい人生における何か致(命(的な判断を明確に自覚しなければならなかったかもしれず、そして俺は今のところあらゆるイデオロギーやポリシーから自由でいたいと小(賢(しくも決意しているところだ。
結果、俺は考えることを緊(急(停止し、もっと別の愉(快(なことを夢想することにした。鶴屋邸(での八重桜花見とか、やりこんだゲームの新作発表に対する期待とか……。
「…………」
俺の心中がなにやらごまかし作業に入っているのを見て取ったのか、長門はするりっと顔をあげ、こちらをしばらくじっと見つめてから、また読書に戻(った。
「あー……」
いいさ。誰にバレようと、ハルヒにさえ知られなければすべからく平和だ。ま、ちょっとだけ知らせてやってもいいか……とか一(瞬(ひらめいてしまったものの、すまない、ただの気の迷いだった。いや、だから、マジでマジで。
はあ……。誰に対してより、自分に言い訳を言い聞かせなければならないってのは、どうも何年かして思い出しては悶(絶(する経験にしかならないんだよな。忘れたいものに限って突(発(的に思い出したりするから人間の脳みそはタチが悪い。人類猫(化(計画を誰か実(践(に移してくれないものだろうか。猫は大それた野望も未来への不安もまるっきり持っていないだろうからな。
更(衣(室(に行く手間ひまかける時間など考(慮(に入れるだけ無駄と判断したのだろう。
ハルヒは部室で男女入れ替(え制で着替えるように強制し、当然の配(慮(として俺と古泉と朝比奈さんは退出の上、廊(下(で手持ちぶさた状態になったわけなのだが、男子一年生が体操服への衣(替(えを果たす時間になってもハルヒは当然のような顔で、出ろと言われたにもかかわらず長門は本に顔を伏(せたままその場を動こうとは結局せず、いやいや、少しは初(々(しい高校生男子が先(輩(女子の目の前で半(裸(をさらさねばならない心境について考えてやれよと意見しようと思ったものの、まああの二人なら今(更(何を見ようがまるで気にしないだろうし、もしかしたらこれもハルヒ的入団試験の一つのハードルなのかもしれず、だったら女子のターンで俺が部室内にいても問題なかったんじゃないかと気づいたのは、一年全員が着替えを終えてグラウンドに向かっている最中のことであった。
まあ特に残念ではないさ、と言っておく。どっちみち俺の信条的にも性格的にもできそうにないことだしな。朝比奈さんの目もあるし。
このような回りくどさを経て、さて、やっとのことで到(来(したハルヒ謹(製(SOS団最終入団試験の運びになったのは全然いいのだが、という割にはいささか解(せないことに新一年生のみならずハルヒまでもが体操着姿なのが気になった。その精神世界を大いに躍(動(させてはばかるところのない女の、ストリートなヒップホップサウンドを即(興(で作詞作曲しかねない弾(んだ足取りももっと気になるが、最大の懸(案(は、今俺たちが向かっているのが運動場だってとこだ。
解説の必要もなく放課後のグラウンドが運動部たちの熾(烈(な陣(地(争いであるのは、スポーツに別段力を入れる方針でない一(介(の県立高校では毎日のように目(撃(できる光景である。今も陸上部サッカー部野球部などのメジャーな部活や、それよりはややマイナーなスポーツに邁(進(する生徒たちによって、互(いに領有権を主張している小国の豪(族(が国境付近地帯で無言のせめぎ合いを続けるがごとき陣取り合戦が繰(り広げられている。
マシなのは400メートルトラックをほぼ独(占(できる陸上部くらいだが、そしてハルヒは五人の一年生たちを意(気(揚(々(と引き連れながら、着実な歩調でずかずかとそちらへ向かっていく。その遠(慮(のなさときたら小魚の群れに突撃するカジキマグロを彷(彿(とさせる。
行きがかり上、ここまで付き合ったものの、毎日の登下校と体育の授業以外に運動をする気のない俺は、グラウンドへ下りる階段の上で待機させてもらうことにした。古泉と朝比奈さんも同様である。二人ともつきあいが長いせいで、ハルヒが何をするつもりなのかは重々承知しているものと見える。長門は最初から立会人になる気がなかったらしく、今も部室でのどかに読書を楽しんでいることだろう。賢(明(な判断だと言わざるを得ない。
つまり、長門を除く現職SOS団員であるところの俺たち三人は、ただの野次馬と化する道を選んだわけである。下手に何か言って参加させられては堪(らんもんな。
見ていると、ハルヒはまず陸上部の誰(かに居(丈(高(な難(癖(をつけ始め、迷(惑(色のオーラを立ち上らせる部員たちの目の色を一(顧(だにせず、スタートラインに入団希望者たちを整列させた。
「走るくらいいいでしょうが。だいたい陸上部は走るしか能がないけど、あたしたちはもっと崇(高(な目的のために走るのよ。今日一日だけなんだし、そんなに邪(魔(はしないし、それに運動場はあたしたち北高生の共同区域のはずだし、あたしたちが走って文句がある?」
矢(継(ぎ早(にまくし立てた後、0.1秒の猶(予(を与(え、
「ないわよね。じゃ、そういうことだから」
集まってきた陸上部員に有(無(をいわせる時間さえ与えず、ハルヒは配下の者どもに号令をかけた。実にシンプルに、
「よーい、ドン!」
と言いつつハルヒはフライング気味に走り出し、何をするのか聞かされていなかったのだろう、一年坊(たちは一瞬あっけにとられたように立ちつくした後、
「何してんの! あたしについてきなさぁいっ!」
ハルヒの大(音(声(に硬(化(を解かれ、さっさとトラックを周回し始める体操服の後を追って駆(けだした。先頭を行くハルヒのペースからして、おそらく短(距(離(ではなく───ああ、なるほどマラソン大会ね。
だがいったい何千メートル走らせる気なんだか。あいつ、ストップウォッチすら持ってないんだぜ。
とは言え、最後の試験が単純なマラソンで助かった。
「ハムスターを百一匹(も集めることがなくなってよかったよ」
俺は階段最上部に腰(をかけ、眼下の運動場を見下ろしながら呟(く。ハルヒは遅(れがちな一年生たちにハッパをかけつつ、先頭で跳(ねるように走っている。まるで牧羊犬だ。
目を細めて眺(めていた古泉が、俺にリアクションをよこした。
「不可能ではありませんが、涼宮さんの意識的には、特に意味のないアイテムだったのでしょうね」
「もしハルヒが本当に言い出していたら、お前どうした?」
古泉は手のひらを上に向け、何かの重さを量るような仕草をしながら、
「もちろん手を尽(くしてかき集めていたところです。知り合いが営業しているペットショップチェーンの全店にかけあってね。見ているぶんには可愛らしい小動物ですよ、ハムスターは」
百一匹もが箱(詰(めにされてるんじゃなけりゃな。蟲(毒(じゃあるまいし。
「ところで古泉」
「何でしょうか」
「あの無(謀(マラソンに参加している一年だが、本当に全員の素(性(は明らかなんだろうな?」
「それはもちろん。調査の限り、何も心配はありません。あの中に宇宙人や未来人などの現世人類とカテゴリーの異なる存在は紛(れ込んではいませんよ」
古泉は顎(を一(撫(でし、
「ただ──」
「何だ」
「一人気になる生徒がいると言えば、います。一(般(人(であることは間(違(いないのですが、これは僕の単なる勘(でしかありません。むしろ予感というべきでしょう。全員脱(落(はさすがに面(白(くない──一人くらいは団員合格者を出してもいいんじゃないか……と、涼宮さんが考えて不思議ではない。だとしたら誰が残るのか。その人間に、なんとなく予想がつくのですよ。何一つ理由付けのできない、僕のささやかな予感でしかないのですが……」
俺の思っている生徒と同じ奴(──それも女子──であるような気がした。
「そいつの出自は確かなんだろうな」
「はい。調べましたからね。若(干(特(殊(なケースではあるでしょうが……」
なんだそれは。それこそ言えよ。今。すぐ。
古泉はふふっと愉(快(そうな微(笑(で答え、
「それはまだ、内(緒(にしておきましょう。どうということのない、些(末(な秘密です。我々に害をなすものでは決してないと断言させていただきますよ。逆にメリットですらあるかもしれません」
含(みのある回答が少しは気にかかるが、古泉が言うのなら信用してもよかろう。ことハルヒ絡(みの事態には俺より神経質になる男だからな、こいつは。
「ただ──」
またか。
「そうですね、ただ、僕は現在、相当に浅(薄(ではあるのですが、非常に説明しにくい違(和(感を抱(いています。いえ、新入生がらみの疑念ではありません。純(粋(に自分自身に対してですよ」
恋(愛(関係以外の人生相談なら聞いてやってもいいぜ。
「相談してどうにかなるというものでもなさそうです」
古泉は階段脇(に咲(き誇(る春(紫(苑(を眺めながら、
「実は、自分が薄(くなっているような気がするんです。どう説明したものでしょうか」
見た感じ、お前の面(の皮はいつも通りの半笑い鉄仮面だ。
「外見的な意味ではありません。僕が今考えていることは本当に僕の意思なのか、それとも違う僕が夢で考えている非現実世界での疑(似(意識なのか……なんてことをね。まあ、ちょっと気になる程度に考えてしまうわけですよ」
ハルヒの精神状態を気にしすぎて盗(掘(者がミイラ捕(りになっちまったか。メンタルクリニックにでも行ってみたらどうだ? セロトニンくらいなら処方してくれるかもしれんぞ。
「真面(目(に考えてみますよ。これが僕一人の問題ならいいのですがね。いや、きっとそうなんでしょう。涼宮さんはあの通り楽しそうですし、しばらくは『機関』の出る幕もないでしょうから」
古泉の言葉を受けて、俺はグラウンドに目を戻(した。
「走った後ってのど渇(きますよね。お茶の準備をしておこうかなあ」
と、相変わらずの気配りをみせるメイド姿のままの朝比奈さんの声を耳にとめつつ。
驚(いたことに、ハルヒの疾(走(ペースは長(距(離(マラソンにしては異常なほどのハイペースであり、また単純にもトラックをぐるぐる回るだけのシロモノだった。時間さえ計っていないということは、時間限定ですらないということであり、おそらく何周したら終わりを迎(えるという明確なゴールが設定されているものでもなさそうだ。
ここにきて、ようやく俺はハルヒの真意を理解し、一年生たちに深々と同情した。
ハルヒめ、あいつ、全員が脱落するまで走り続ける気だぞ。ついてこれなかった者から片(っ端(に不合格にして、最後にへばったやつに適当ないたわりの言葉でもかけてお開きにするつもりなんだろう。
よっぽどハムスターつかみ取り選手権以上の試験内容が思いつかなかったと見える。ちゃっちゃとマラソンで片を付ける気でいるのだ。ではあのペーパーテストやらは何だったと言いたくもなるが、ハルヒらしい飽(きっぽさが存分に発揮された結果がこれなんだろう。あるいは、本当に長々とハルヒの戯(れに付き合わされる一年生たちのことをおもんぱかったのかもしれない。
しかし、一番もっともらしいのは最初から新入団員なんぞ欲(していなかったのかもな。
最終試験、時間無制限耐(久(マラソン。
ハルヒが立ち止まったとき、その背後に立っている一年生など皆(無(に違いない。この世の誰(にも追(随(を許さない、超(高(速(彗(星(のような女なんだからな、ハルヒはさ。
俺の思いを裏付けるように、一年生たちは数周もいかないうちに後(れを取り始めた。快調に飛ばすハルヒの快足に付いていける人間など、陸上部全員を集めてもそうはいないから完全に予測できた光景ではあるが、それでも何人かは全身全(霊(をこめて先行する第一グループ──つまりハルヒのみ──に追従する第二グループを形成している。
普(通(、マラソンなんてあらかじめ走る距離が決まっているか、時間打ち切りでやるもんだが、ハルヒに至ってはそのどちらも考えていない。ただ、走る。そして気の済むまで走り続けるだけだ。ゴールが空間的にも時間的にも見えないんだから、こいつは後続の一年生にとっちゃ、ちょっとした肉体的・精神的な拷(問(だぜ。
おまけにハルヒは放置していたら明日の夜明けまで機(嫌(良く走り続けるくらいのエネルギー源不明な体力保持者だ。あいつの身体(の中にいるミトコンドリアは本当に地球産なのか? 未知のATPを発生させる謎(の細(胞(を持っていたとしても、今やいちいち驚いていられないほどの全開ぶりには呆(れを通り越(して感(嘆(すらする思いだ。
こうして海兵隊に入門したばかりの一年生がハードワークを強(いられているのを、ひたすら眺(めている時間がどれだけ経過したことだろうか。
朝比奈さんは合否はともかく入団希望者たちを慰(労(すべく、新メニューそば茶の準備に部室に戻り、眺めているのは俺と古泉だけになっていた。いや、他(にもいるな。グラウンドでそれぞれ練習に打ち込んでいた運動部員のほとんどが、この奇(妙(なトラック周回マラソンに注目し始めている。それほどハルヒのランニングフォームは美しく軽(やかで、よくは知らんが、まるで草原を疾(駆(するカモシカのごとき躍(動(を思わせるものだった。
ま、ハルヒはそれでいいんだ。いつものことだ。
が。
その後まもなく、グラウンドでの風景画はまさに「死(屍(累(々(」としか表現しようのない絵図となって土のカンバスに描(かれることになった。
いつ終わるともないハルヒの時間無制限マラソンから脱(落(していった一年生たちが、トラックのそこかしこでぶっ倒(れているという、いまどきこんな精神論全開な練習をする運動部がスポーツ競技にそれほど熱心でない北高にあるはずもなく、俺はしみじみ実感する。もしハルヒが一年前にもこんな入団試験を課していたなら、俺と朝比奈さんは間(違(いなく不合格だったであろう。どっちがよかったかと今(更(考えるまでもないが、そればかりはハルヒの気まぐれに感謝の意をお届けするに一(切(の躊躇(いはなかった。
当然、こんな無茶なマラソン試験に合格する一年などいるわけないと達観していたのだが、いつ果てるともないハルヒの脱落強制マラソンが終わりを遂(げたとき、つまりさしものハルヒが荒(い呼吸で砂(埃(だらけの大気を吹(き乱しつつ、立ち止まったときのことだ。
俺はこれまで蓄(積(してきた自分史における自信を失いかけるほどの衝(撃(シーンを目(の当たりにすることになった。
団員志願者たちはトラックのそこかしこでぶっ倒れ、邪(魔(だと言わんばかりの陸上部員たちに引きずられて運動場の端(に行っている。半ばゾンビ化した彼らアンド彼女たちが最も欲するものは、何より新(鮮(な酸素とヤカンからぶっかけられる水道水に他ならないだろう。
しかし───
ただ一人、ハルヒがマラソン終(了(を宣言した時、その後ろにぴったりくっついて、ハルヒに遅(れることわずか数秒というタイムラグでゴールを駆(け抜(けた一年生がいた。
さすがにひぃふぅと荒い息をつき、汗(まみれになっていたが、それでも彼女はやり遂げたのだ。そう、彼女と言うからにはそいつは女子の一年生。
小(柄(な身体に合っていないブカブカの体操着をまとい、汗で乱れた髪(を子供っぽい手つきで直そうと努力して、ますます鳥の巣のような髪型になっている。だが、その紅潮しつつも整った顔つきにあるのは心からの嬉(しそうな笑(みであり、特に印象に残ったのはスマイルマークみたいな髪留めのデザインだった。
「あなた……」
ハルヒが微(妙(に驚(いた声で、
「なかなかやるわね。あたしに付いてこれるなんて、陸上、やってたの?」
ハルヒの息(遣(いもさすがに荒い。
「いいえっ」
少女は間(髪(入れず答えた。
「あらゆる部活動に関して、あたしはフリーダムでした。あたしが目指していたのは、ふはぁっ、SOS団だけなんです。がんばりましたっ。何としてでも入れてもらおうと思って、この日を迎(えたのです!」
何キロ走り終えたのか解(らないにもかかわらず、やたらハイテンションな回答だった。汗まみれの顔に笑顔を形作るところから余(裕(さえ見て取れる。
その答えはハルヒのお気に召(したのか、まだ呼吸を整えながら、
「合格者はあなた一人ね。まあ、これはまだ第一次適性試験みたいなものだから、もうちょっと試験は続くかもしれないけど、覚(悟(はいい?」
「やれと言われれば何だってやります! それが水面にうつった月をすくい取れというご要望でも、あたし、やります!」
二人のやり取りを、俺と古泉は安全地帯から大口を開けて呆(然(と眺めていた。
ハルヒ並みの脚(力(と肺活量の持ち主で、しかも新一年生だ。これは陸上部あたりが放(ってはおくまい。見ろ、トラックを占(拠(されて迷(惑(顔(だった陸上部員たちの目の色が攻(撃(色(に変わっている。なんとかしてあの有望そうな新入生をかっさらえないかと激(烈(なる思案に暮れている目だぞあれは。
ハルヒに関してはもう諦(めるしかないが、入学して間がない新人ならどうにか宗(旨(替(えさせられるんじゃないかと、ポルトガル宣教師が仏教勢力から距(離(を置く戦国武将を狙(う目をしている。こうもまざまざと長距離走の実力を見せつけられたら無理もない欲(求(と言えるね。俺もまったく同感だ。
その少女は満足げに額の汗を腕(で拭(い、ふと顔を上げて俺と目線を合わせた。目を細め唇(を緩(ませる抑(えめな笑顔が、俺に底知れない既(視(感を覚えさせる。
こいつは『知っている』側の人間なのか。長門や古泉ですらスルーしてしまう超(常(ステルス能力持ちの、謎(の第四勢力の一員…………と考えてしまうわけだが、それにしては佐々木はともかく九曜や橘京子、謎未来人関連の人物という匂(いはまるでしない。
まさか第五の勢力か──。
おいおいやめてくれよ、いったいどれだけの人種を俺は相手にしないといけないんだよ。と、面(倒(くささに襲(われたところで、しかしながら俺は彼女に本能的な危険性をまるっきり感じることができなかった。風変わりな一年生。ハルヒが一人くらいは欲しいと考えただろう、新入団員候補。それ以上の意味はないのかもしれない。未来人や超能力者、宇宙人を欲(すると宣言したハルヒの有名なセリフも今は昔、すでに一年前のものだ。その間、色々と突(飛(なことが発生した一年でハルヒの望みは本人の自覚なしとはいえ、すべて成(就(している。
直近で望んでいるのは、とにかく有望な新入団員であって、そいつは別段、特(殊(な人間あるいはホモサピエンスもどきである必要はないだろうから、ハルヒは第二の便利な平団員、つまり俺二号を所(望(していただけなのかもしれず、だとしたらハルヒの行き当たりばったりな入団試験に合格した少女もまた、NPCに近い人数あわせと小間使い、またはいずれ卒業してしまう朝比奈さんから衣(鉢(を継(がせるためのニューマスコットキャラなのかもしれなかった。
仮に目(論(見(通りの人間でなかったとしても、だったら遠からず俺にアプローチをかけてくるだろうし、考えるのはその時からでも遅(くはない。奇(人(変人の相手は慣れている。
膝(に手をついて呼吸を調整している一年生の姿には、人間を超(越(した何かも、未来人らしい過去の情報不足も、異星人的な非常識さもまったく全然皆(無(であるのは間違いなかった。
彼女は人間だ。誰(のアドバイスも忠告もいらない。これは俺のつまびらかなる確信だ。現世人類が不定型な原生動物から何だかよく解らない経歴をたどって進化した、と同じくらい事実にして真実であるという、揺(るぎのない確たる真相なのである。
俺だってたまには正しい推測をするのさ。
こうして突発的に訪(れたSOS団入団最終試験は、有(無(を言わせない団長の突発的な思いつきによって終(了(した。
もちろん俺には多少の気がかりが残されている。合格を果たしたあの一年生娘(、どうも何かどこかで見たようなことがある上、初顔合わせの時点でなぜか俺の目に奇(妙(にひっかかった人物が、つまり彼女なのだ。古泉は特にあやしいものではないと断言していたが、ハルヒの入団試験をくぐり抜(け、お眼鏡(に適(ったということは、ほぼ確実にその娘がタダ者ではないことを示している。
どっちの意味でのタダ者でなさだ? 鶴屋さん的なものならば、まだこっちの世界の住人で安心だが、これが宇宙や未来や超能力絡(みだとしたら、また俺には新しい問題集から応用問題が与(えられたも同じことになっちまう。
「ううむ」
思わず呻(る俺の背をポンと叩(いたのは古泉で、
「心配することはありませんよ。彼女は問題ありません。体力的に涼宮さんと同等の女子高生なら、探せばいくらでもいるでしょう。むしろ、可愛(らしい後(輩(が増えてよかったじゃないですか。なかなかに小間使いの素質はありそうですし」
本心からそう思っているらしい。古泉の表情は柔(らかな余裕の笑(みに彩(られていた。
だが俺には何やら得体の知れない既視感というか、あの少女とどこかで会っていたのではないかという錯(覚(を完全には捨てきれていないんだが。
まったく記(憶(になく、それでいて明らかに初見の顔合わせにもかかわらず気になっていたのはそのせいだが、逆に言うと全然接点がないのは明白なのに、どうして前から知っていたような気になっているのか、そんな自分の中の鰯(雲(のようにたなびく夕方の焚(き火(から立ち上るモヤっとした煙(みたいなものが気がかりでしょうがないのだ。
「待てよ」
ってことはこれはあの娘の問題じゃなくて、ただ俺の心の問題なのか。ここまで心配性(な性格をしていたとは我ながら信じられん。たった一人の一年生女子に、しかも一見したのみでは単に愛らしく、健康問題も皆無そうで、いかにも人好きのしそうな華(奢(な女の子相手に、俺はなにを動(揺(しているんだろう?
さて、ハルヒと今や唯(一(の新人団員となった一年生は一足先に部室に戻(り、着(替(えを終えた模様だ。扉(が内側から開いたとき、飛び出してきた少女とオフセット衝(突(しかけたところを、相手はひらりと春風に吹(かれるモンシロチョウのように身をかわし、
「今日はこれで帰ります! 明日から、よろしくお願いしますねっ」
夏の日中に咲(く花のような笑顔を見せた。採寸なんかしていないようなだぶだぶの制服、変な髪(飾(り、ただし健康的な顔に浮(かばせているのは二重連星の片一方のような陽気さで、そして、どこか幼い笑み。
俺の隣(には古泉もモデル調のポージングで突(っ立っていたんだが、そっちには目をくれず、少女は俺だけを剛(速(球(ストレートの視線でしばし見つめ続け、フフッと小さい笑い声を立ててから、
「それじゃっ!」
唐(突(に行き先を思い出したコマドリのように、さっと階段の方へと向かって、消えた。
しばらく啞(然(としていると、
「ずいぶん気に入られたようですね」
ニヤニヤという擬(音(が最適だろう、古泉のもの静かな声がなにか囁(いている。
「いやぁ、可愛いもんですね。一年生、それも同じ部活の後輩となればなおさらです。なかなか気だての良さそうな娘じゃないですか。いかが思われます?」
いかがも何もねえ。俺はハルヒが本当に新入団員を入れるとは思ってもみなかったから少々虚(を突かれているだけだ。ハルヒの無茶なマラソンレースは明らかに全員不合格を狙(ったものだったから、その思(惑(を飛び越(えちまったあの娘の根性を称(えるか、でなければ自分の運動神経に疑問を抱(く作業に忙(しいだけさ。
「長(距(離(走は運動神経とはそれほど密接な関係にはありませんけどね。どちらかと言えば遺伝形質の影(響(が大きいことが解(っています。ま、いいでしょう。今はそういうことにしておきますか」
妙(に余(裕(だな、古泉。お前、何か知ってるんじゃないだろうな。
古泉は微(苦(笑(と肩(をすくめることでごまかし、ちょうどその時、部室内から声がかかったので俺の取り調べ的な追(及(もここまでだった。
「もう入っていいわよ! 着替えすんだから!」
どことなく上(機(嫌(な、ハルヒの声だ。
ハルヒはいつもの団長席につき、自分用の湯飲みで熱々のそば茶をずるずると啜(っていた。床(に脱(ぎ散らかしてある体操着を、朝比奈さんがちょこまかと拾っては畳(んでいる。その姿は、もはや涼宮家専属メイド隊筆頭のような風格さえ漂(っていた。わがままなお嬢(様(が自前のメイドを学校にまで連れてきた、と設定を変(更(すべきではなかろうか。
「いいのかハルヒ」
「何が」
「新しく団員入れちまってよ」
「そりゃあ、まあ、ねえ」
ハルヒは湯飲みの中身を飲み干し、たんっと音高く団長机において、
「正直言って、あたしだって一人も残らないと思ってたわ。だから最終試験をマラソンにしたんだしね。でも、まさかあたしに最後までついてこられる一年がいたなんて、ビックリマークとハテナマーク二つよ。『!!??』って感じね」
なるほどな。やはり最初から誰(も入れるつもりはなかったんだな。今までの入団試験の数々は単なるハルヒのお遊びだったわけだ。
「でも、びっくりしたわ。このあたしと同等の体力を持つ一年が存在していたって事実にね。これはもう尋(常(な事態じゃないわね。相当な逸(材(よ。陸上部に入れば中長距離走のエースとしてインターハイも夢じゃないんじゃない?」
だったら、そのまま熨斗(つけて陸上部に斡(旋(すべきじゃねえだろうか。
「もったいないじゃない。陸上部はそりゃ喜ぶでしょうよ。ここんとこ大会でもからっきしだしねウチの陸上部。でもね、他(の部がのどから手を出すほど欲しがる人材、そんなのをむざむざ渡(してあげるわけにはいかないの。あの子はSOS団の門を叩(いたのよ。本人の意思を尊重しないで、何が健全な学園教育よ。民主主義の風上にも置けないわ」
健全な学園教育やこの世のあらゆるイデオロギーにも何の興味もないくせに、ハルヒは機嫌良く言った。
他のクラブから羨(望(の目を注がれることに意(気(揚(々(としているとしか思えない。群(雄(が割(拠(する中国魏(晋(南北朝時代の昔ではあるまいし、そこまで曹(操(みたいな人材収集マニアにならなくてもいいんじゃねえか。
「それだけじゃないわよ」
ハルヒは団長机の引き出しをごそごそとまさぐり、いつぞやのコピー用紙を一枚、取り出した。
「まず、これを見てちょうだい」
受け取って眺(めると、それはハルヒが入団希望者を集めて書かせた、入団試験問題用紙だった。いやアンケートと言うべきか。
「他のは焼(却(処理に回したけど、その子のだけは残してるの。新団員の心意気だもの。あんたにも知る権利はあると思ってさ」
さすがに興味はあった。ハルヒの気まぐれで実行された入団試験に完全パスした新入生の貴重なデータだ。さっそく目を通す。俺も読んだいくつかの質問条(項(の下の空白欄(に、鉛(筆(書きの文字がかしこまった感じで踊(っていた。
以下が、その文面だ。
・Q1「SOS団入団を志望する動機を教えなさい」
・A「思い立ったが吉(日(です。もはや愛してます」
・Q2「あなたが入団した場合、どのような貢(献(ができますか?」
・A「自由の限りを尽(くします」
・Q3「宇宙人、未来人、異世界人、超(能力者のどれが一番だと思うか」
・A「一番喋(ってみたいのが宇宙人。一番仲よくしたいのが未来人。一番儲(かりそうなのが超能力者。一番何でも有りだと思うのが異世界人です」
・Q4「その理由は?」
・A「先の回答で一(緒(に書いてしまいました。ゴメンナサイ」
・Q5「今までにした不思議体験を教えなさい」
・A「してません。ゴメンナサイ」
・Q6「好きな四文字熟語は?」
・A「空前絶後」
・Q7「何でもできるとしたら、何をする?」
・A「火星に都市を築いて自分の名前をつけたいです。ワシントンD.C.みたい。フフフ」
・Q8「最後の質問。あなたの意気込みを聞かせなさい」
・A「どうしてもと言われたらわざと視力を落として眼鏡をかけます」
・追記「何かすっごく面白そうなものを持ってきてくれたら加点します。探しといてください」
・A「わかりました。すぐ持ってきます」
……別に初代ワシントン大統領が作って自分でつけた町ではないと思うが。ところでD.C.って何の略だ?
「さあ、ダイレクトコントロールじゃないの? なんかそれっぽいし」
ハルヒが無責任なことを言い、
「…………」
聞こえていたのかどうか、長門はピクと前(髪(を揺(らしただけで訂(正(の文句を発しなかった。
正答したところで俺たち二人にとっては無益な情報だと思われたのかもしれない。自分で調べろと言わんばかりの沈(黙(だった。
「ふむ」と俺は意味もなく呻(る。
そういえば新入団者に内定した少女の名(称(をまだ聞いていないことを思い出した。俺は解答用紙をなにげなくひっくり返し、表にあった名前欄を見た。なぜかクラスや出席番号の部分は空白だったが──、
渡橋泰水
そこそこ丁(寧(なペン文字の筆(致(で、フルネームが書いてあった。しかし、
「……なんて読むんだ? わたりばし・たいみず……いや、やすみず……か?」
疑問を呈(した俺に、
「わたはし・やすみ。ですって」
ハルヒが答える。なんでもないように。それはただの名前だと言わんばかりの無関心さで。
「…………」
しかし、俺はそこに引っかかりを感じていた。急流に吞(まれた小魚が網(にすくいあげられたような、それもただ一匹(、不運な俺だけが罠(にかかったような気がする。釣(り上げられたのは、この渡橋という少女なのか、それとも俺か。
「む……?」
なんだこの既(視(感は。俺はこの名前を知っている。朧(な記(憶(がそう言っている。そう、どこかで聞いたはずなんだ。
渡橋。わたはし。覚えのない名前、覚えのない字(面(だが、この発音。
わたはし──。
「……!」
俺の脳内にあった錆(びついた歯車がカチリと音を立て、かみ合った。油切れで止まっていた時計が動き出すような錯(覚(に襲(われたと同時に、数日前の記憶が透(明(な水の底からガラス片(を拾い上げるかのような鮮(明(さでよみがえった。
『あたしは、わたぁし』
風(呂(場(でエコーのかかった電話越(しとは言え、確かに聞いた女の声。どこか舌足らずで、妹が知らないと述べた、あの声だ。
あたしは、わたし。
あれはただの判じ物的なイントネーションではなかったのだ。電話の主はこう言ったに違(いなかった。
つまり──
『あたしは、渡(橋(』
謎(が晴れてすっきりした感覚を堪(能(したのもつかの間、さらなる疑念が俺の心中で渦(巻(いた。
渡橋泰水……。
───とは、いったい何者だ? 俺に電話をかけてきたのがただのイタ電だったということで百八歩譲(るとしても、どういうわけかSOS団に仮入部して、あまつさえハルヒによる無茶な入団試験をクリアし、明日から正式な団員となろうとしている新一年生がまともなやつであるはずがない。
おまけに動機は不明だが、フライングで俺個人に連(絡(してくるほどの謎の行動力を持ち合わせてもいやがる。まさに正体不(詳(の思(惑(不明確なそいつが、まんまとSOS団に潜(入(せしめたってわけだ。
彼女の正体は何なんだ。別口の超(能力組織員か、天(蓋(領域とやらのエージェントか、反朝比奈組に与(する未来人か。
しかし、それにしては古泉も長門も朝比奈さんも、渡橋が残ったことに驚(きはしていつつも、何の警(戒(心(も見せていない。超能力者なら古泉が、九曜関係なら長門が、未来人モドキなら朝比奈さんが多少なりともリアクションを起こしているはずだが、三人ともそれぞれ意外な顔をしたのみで、朝比奈さんなどむしろ嬉(しそうである。まあもっとも朝比奈さんは例によって何も知らされていない可能性はあるものの、朝比奈さん(大)からは下(駄(箱(未来通信の一つでも来てよさそうなものだろう。
この決定には何かあるのか? それともただの偶(然(なのか? ハルヒレベルの身体能力を持つ一年生が、何の因果かSOS団などという学内イレギュラー同好会に適性があったという、単にそれだけのことなのだろうか。
ただの偶然だろ──と納(得(して思考放(棄(するほど俺は心清らかな人間ではない。
だいたいだな、では、あの電話はなんだ?
入浴中の俺に妹が持ってきた受話器、手短なコメントだけ告げてあっさり切れたあの電話連絡は、あれには何の意味があったんだ?
「やれやれ」
しばらく平和だと思っていたが、この平和を万(全(たるものにするため、この渡橋泰水なる一年生にちょっとばかり注目せざるをえないようだな。
それにしても、わたはしやすみ、か──。
ハルヒがアンケート用紙をさらにひらりと返し、備考欄(に書かれている文字を読んだ。
「どうか、ヤスミと呼んでください。できればカタカナで発音されると嬉しいです……ですってさ」
漢字でもカタカナでもどうせ発音は同じだ。
「キョン、その意見には賛同できないわ。漢字には漢字、平(仮(名(なら平仮名、カタカナにはカタカナのイントネーションと意味合いがあるものよ。やっぱりそれぞれ違うわけよ。試(しにあたしの名前を平仮名で呼んでみなさい」
幾(分(柔(らかくなるかな。春日やハルヒと比べたら。それはともかくとして──。
ヤスミねぇ。
考えてみた。三十秒ほどの沈(思(黙(考(の後、俺の記(憶(に該(当(する名前ではないと、改めて明確この上なしの確信を持てた。一学年下ということを考(慮(にいれていても、ますます記憶の平野は積もりたての処女雪に覆(われたままで、そんな名前の足(跡(一つ付いていない。間違いない。
俺はこの子を知らない。
でも、なぜか会ったことがあるような、それも前々から知っていたような、奇(怪(な違(和(感が頭(蓋(内の細(胞(液(を浸(していることも確かだ。
ハルヒはまったく気がかりなど感じていないようで、
「新人にまず何をさせようかしら。不思議探(索(は去年やっちゃったし、新作映画の主役抜(擢(……これは時(期(尚(早(ね。あ、楽器何できるか訊(いておけばよかった」
普(通(に有望そうな新入団員をゲットしたことで何やら精神活動を盛り上げさせているらしい。
感じているのは俺だけか? 何らかの不協和音。ただでさえ不自然な日常に闖(入(した小型爆(弾(のような不安感を。
渡橋ヤスミの秘密。
それはいったい何だろう。調査対象にすべき議題なのか、これは。
俺は古泉に目線を送った。
しかしSOS団副団長は、副々団長である朝比奈さんが給仕してきた熱々のそば茶を優(雅(にすすっているだけで、せっかくのアイコンタクトに瞬(き一つよこそうとはしなかった。
うーむ。
……ま、お前が気にしないことを俺が気に病むこともなさそうだな。なあ、古泉よ。