お馴染みの茶店、壁際(の席に三人の先客が三様の人待ち顔で座っていた。
たとえ噓(っぱちでも愛想のいい印象を与(えるのは橘京子のみで、藤原は変わらず皮肉屋めいた薄(い仏(頂(面(、九曜などは睫(毛(一本目線一つも動かさない。昨日、朝倉と喜緑さん相手に大立ち回りしておきながら、何事もなかったかのように鉱物めいたストップモーションでチョンと座っているのはよほどの大したタマなのか、そんなものを感じる神経すらないのか。
「ふん」
俺は鼻息を一つ漏(らし、シートに座る前にすかさず店内にエプロン姿の先(輩(がいないかどうか目玉を動かす全筋力を駆(使(して探したが、どうやら有視界内の範(疇(にはおられないようだった。透(明(化しているのでなければ、バイトのシフトから外れているらしい。ってそんなわけないな。どこかにいる。こうしてまた俺たちが不(揃(いなる勢揃いをしてるのだ。観察していないはずがない。
それでもいいさ。朝倉が出張ってくるよりは喜緑さんが場をわきまえない笑(みで立っているほうがまだマシである。TOWと閃(光(手(榴(弾(くらいの違(いだが、むやみに殺傷兵器を持ち出して俺に突(きつけたりしないぶん、あの穏(やかな先輩はかつてのクラスメイトより思(慮(深いと言える。そう何度も異星人間のバトルフィールドに紛(れ込みたくはないもんな。
「こっちです。こっち」
橘京子が気安く手を振(り、向かいの席を指差した。
「そこに座って。よく来てくれました。感謝するわ」
そして佐々木にも、
「ありがとう佐々木さん。彼を引っ張ってきてくれて。お礼を言います」
「いらないよ」
佐々木は奥の席に腰(を落ち着けながら、
「遠(慮(する、と言うよりは辞退すると言うべきだろうね。僕が電話しなくとも、いずれキョンとは複数回の会合を持たなければならなかったんじゃないかな。そうでもしないと永遠に僕たちは平行線のまま存続しなければならないことになる。違うかい?」
最後の疑問形は藤原に向けられているようだった。しかして未来からの使者は、
「ふん」
まるで俺を真似(たように笑みもなく鼻で笑い飛ばし、
「かもしれない。だが、お前もあんたも」
と俺の顔面を撫(でるような一(瞥(をくれ、
「あまり自分たちを過大評価しないほうがいい。これは忠告ではなく──、ハ。警告だ。面(突き合わせての話し合いなど、僕にしてみればつまらない作業だ。こっちとは保有している知識も認(識(力にも大きな差があるんだからな」
俺は腹を立てる前に訝(しんだ。どうしてこいつは、いちいち俺の怒(気(をあおり立てるようなことばかり言うんだ。何のメリットがある? 俺をこっち陣(営(に引き込もうとするなら、もっと違う手を講じてもいいだろうに、藤原の物言いはあまりに正直で、素(直(すぎた。この裏表のなさは朝比奈さんに通じるものがある。ひょっとして未来人はみんなこうなのか。
しかしそんな俺の胸に生じた一(欠片(の躊躇(いも、
「さて、あんたがこれからどうしたいのか聞かせてもらおうじゃないか。強力な後ろ盾(を失った気分はどうだ? 何かにつけてあんたの言いなりだったエイリアン端(末(は今は動けない。さあ、どうやって自分たちを守る。僕が望む答えはその一点だよ。防(波(堤(を失った脆(弱(な港が嵐(の夜にどうなるのか、見せてもらいたいものだ」
その藤原のセリフと神経を逆なでする口調のおかげで水(泡(に帰した。野(郎(、どこまでもケンカを売るつもりか。小銭の範(囲(内で収まるなら今すぐ言い値でテーブルに叩(きつけてやろうじゃないか。俺がありもしない手(袋(を投げつけようと反射的に手をさすっていると、
「まあ、キョン。まずは座りたまえ。実にキミらしい正義感の発(露(だが、乱暴狼(藉(は看過できないね。もちろんキミだけでなくここにいる全員もだよ。これでも僕は気の長いほうで、実際二年に一回くらいしか怒(ることはないが、そうなったらちょっと自分でも恐(いくらいになるんだよ。ちょうど最後に憤(激(を覚えたのが二年ほど前だね。今の僕はその記録の更(新(に挑(戦(しているのだから、今日でリセットさせないで欲しいものだと切に願う」
いつもと同じ柔(和(な音階だったが、俺は佐々木の言葉に従った。
佐々木の怒ったところなど、泣いたり悲しんだりしているところと同じくらい見たことがなく、これからも見たくはなかった。笑顔が一番の似合いの顔だと思うのは、何もハルヒや朝比奈さんだけに限った話ではない。古泉はもう少し笑みを押さえ気味にして、長門は反対に表情を緩(和(させるべきだが、古泉はともかく長門をそうさせるには、確かにここで藤原と格(闘(しても何の解決策にもならず、どうしてもせざるを得ないのだとしたら相手は未来人ではなく宇宙人のほうだ。
そのように考えて睨(みつけてやるのだが。
「──────」
九曜はぼうっとした顔つきで俺の背後五メートルくらいの中空を瞬(きせずに黙(視(しているだけであり、まるで張り合いというものがなかった。自分の視神経を疑わざるを得ない。周防九曜がSOS団にとって無害であるわけがない。しっかりしろよな、俺よ。
こいつのせいなんだ。
俺はフライングダッチマンのような九曜を注意してなるべく凝(視(する。面積の大きすぎる髪(量と夕方の喫(茶(店(では目立ちがちな女子校の制服姿。というか、どこにいたってこいつの姿は人目を引くこと疑いなしだ。
なのに、ここにいるのは実体ではなく3Dホログラムなのではないかと思えるくらいの、まるで深夜に流れる動かないローカルテレビCMのような存在感希(薄(モスキートぶりが忌(々(しいぜ。長門が寝(込んでて、対するこいつがピンピンしているのは、俺的に不条理以外の単語が思いつかないほどなのだ。共々に倒(れていたなら、ちっとは考えてやってもいいのに、こういった配(慮(のなさ加減がまさに未知のエイリアンだ。情報統合思念体のヒューマノイドインターフェイスなんてもんがどういった意味を持つのか未(だに知らんが、長門や朝倉や喜緑さんはそれぞれに人間的な感じが───まだ、した。
長門に関しては今さら解説するまでもないだろう。朝倉だって事あるごとにナイフを持ち出す以外はそこらに溢(れている市(井(的な高校生以上に委員長として相応(しかったし、喜緑さんは不確かながらも高校生的日常生活に溶(け込んでいる。二人とも、せめてもの心(遣(いか人間のフリを忠実に演じてた。
九曜にはその意気がない。ホモサピエンスがどういう生命体なのか理解していない気配すらある。透(明(人間よりも存在感を主張していない。こいつのまとっている女子校の制服の中身は、まったくのがらんどうなんじゃないだろうか。服を着ているってより服から首と手足が生えているような感覚を覚える。覚えているのは俺だけのようだが、そんなん知るかっていう話だ。
要するに薄(気(味(悪(い印象しか受けない。これがまだ人類の常識範囲に留(まる反応をしてくれたら俺だってそれなりのアクションを起こすのだが、何しろ相手は長門ですらディスコミュニケーションを表明する人(智(を超(えた人外的パペットであり、そして挙動の読めないヤツほど対処に困るものはないのだ。ことここに及(んで言えば、ハルヒ以上の行動予想不可能状態だからな。
俺の精(一(杯(な敵意オーラを感知したのかどうか、
「────────」
九曜は冷(凍(寸前のナウマンゾウよりも緩(慢(な動きで両眼の焦(点(を俺に合わせると、化石のような唇(をわずかに開き、
「──昨日は────ありがとう───」
甲(虫(のサナギが発するような声で、
「───これは…………感謝の挨(拶(……」
付け加えるようにそう言った。
まさか礼を言われるとは思わなかった俺は返答に窮(する他(はなく、ガン無視を決め込む藤原と、不思議そうな顔つきを作る橘京子、面(白(そうに微笑(む佐々木の三人も何ら言葉を発しなかったため、気(詰(まりな沈(黙(が俺たちの一角に固形となって凝(固(した。聞こえるのは喫茶店のスピーカーが奏(でるクラシック音楽と、他の客たちによるしわぶきのような喧(噪(のみ……。
どうしたものだろうか。
俺が悩(むまでもなく、このままではどうしようもないと判断したのだろう、
「ええっと」
橘京子が進行役を買って出た。
「九曜さん、昨日に何かあったの? んん……、まあ、いいです。それは後で聞くとして」
身を乗り出した橘京子は、お嬢(さま然とした顔を敢(然(と俺に向け、
「今日は来てくれてありがとう。たびたびゴメンナサイね。でも、これは必要なことなのです。放(っておくことのできない、大切な会合です」
俺の言い出したことだ。お前に言われるまでもない。
「そうなのですけど」と橘京子は真(剣(さを隠(そうともせず、「遅(かれ早かれ、こうなることは明白だったの。そうね、あたしたちには遅すぎたくらい。もっと早くにこうできたらと思ってました。でも、あたしたちには古泉さんたちに対(抗(できる勢力の加護がなかったから」
言いつつ、九曜と藤原を眺(め、その小(娘(は得たりとばかりに首(肯(した。
「やっと揃(いました。世界を動かせる大きな力。仲間というには心(許(ないのですが、それでも共(闘(はできるはずですよね。ねえ。……ね?」
藤原は答えず、九曜も静かの海に没(したままだ。橘京子は溜(息(をつき、ちょうど俺と佐々木のぶんのお冷やを運んできたウェイトレスが現れたこともあって口をつぐんだ。
「ブレンド二つ。ホットで」
佐々木が俺の意思を確(認(することなく短く告げ、俺は学生バイトらしきウェイトレスをじろじろ眺めて喜緑さんではないことを確認した。変に思われたかもしれない。そそくさとカウンターに戻(るウェイトレスさんの足取りは心なしか速かった。ふと気になって対面三人組の前を見ると、橘京子と九曜は揃ってパフェなんぞを頼(んでいやがる。どうだっていいような光景なのに、なぜか間(違(い探しの最後一つみたいな異質感があると思ったら、橘京子のグラスの中身は半分ほど消費されてアイスがすでに液状化しかかっているというのに、九曜のものはまるで手つかず、しかもまったく溶けていない。何かの宇宙的なパフォーマンスなんだとしても意味不明だ。藤原が指でこづいている空のカップがどんな液体で満たされていたかなんて疑問と同じで、考える気にもならんね。
橘京子が仕切り直すように、
「ええっと。整理させて。本日、あたしたちがこうして集まったのは、」
ちろりと俺に微笑みかけ、
「あなたの提案を佐々木さんを通じて聞いたからです。あたしたちに言いたいことがあるんでしょ? そこから始めましょう。では、どうぞ」
マイクを渡(すように手を向けてくるが、手のひらには何も載(っていない。俺はありもしない品物を受け取る動作をいちいち返したりはしなかった。
「長門のことだ」
俺は九曜を見ながら、
「お前のしているのがどういうもんだかは知らん。教えてくれなくてもいい。俺の希望は、その何だか解(らん仕(業(を即(刻(中止しろってことだ。長門へのアホみたいな攻(撃(をやめろ。いいか、何回も言わないぞ。宇宙人同士の抗(争(なら銀河の果てでやってくれ」
「──銀河」
九曜は琥(珀(の中に閉じこめられた古代の虫のような唇を動かし、
「──の──果て……それは───ここ───この星の位置は──とても疎(ら……」
開けた冷蔵庫から流れ出す靄(のような声で言った。こいつは俺をバカにしてるのか。陽気にあてられてシャミセンの冬毛がどんどん抜(けていくこの季節が嫌(なら、太陽の真ん中にでもダイブしろ。
「──してもいい────用が済んだら」
じゃあ済ませてくれ。今すぐにだ。
「───────」
九曜は微(かに首を傾(げ、ぱちくりと瞬(きをした。
それが合図であったかのように、
「ふ」
藤原が虫(酸(の走る笑いを漏(らし、露(悪(色に染まった目を俺によこして、
「では、そうしようじゃないか。他ならぬ、あんたの提案だ。いや、九曜への言い方を聞くと最(早(命令だな。地球外情報知性相手に喧(嘩(腰(とは、いかにも無知ゆえの勇(敢(にして野(蛮(な行(為(と褒(め称(えるべきだろう。ふん、そこまで長門有希とかいう有機探査プローブに肩(入(れする理由があんたの意識のどこから発生しているのか研究材料にしてみたいものだが、個人的興味は後回しにしておくさ」
俺と佐々木がおとなしくしているのをいいことに、藤原は言葉を続けた。
「とまれ、あんたはその少女人形が機能不全になっているのが許せないってわけだ。そう来るなら話は簡単だな。よく聞け。情報統合思念体の端(末(への天(蓋(領域の干(渉(を止めてみせよう。この僕がね」
もし鏡を覗(き込めば、俺はそこに詐(欺(の指名手配犯を見つけた時のような表情を見ることができただろう。
「信用できないか? ところがこれは事実なんだ。僕にはとっくに自明の理さ。天蓋領域とかいう連中は情報統合思念体より律しやすい存在でね。僕の提言を素(直(に受け入れてくれた。ついでに教えてやろう。これには橘京子の賛同も取り付けてある。だから僕がこれから言うことは、ここにいる三人の共通認識だ。手っ取り早く、あんたたちへのオーダーを言語にて伝達しよう」
半秒ほど九曜を見て、片(端(を歪(ませた藤原の口が、次のようなセリフを生んだ。
「涼宮ハルヒの能力をそこの佐々木に完全移(譲(する。これに同意しろ。あんたにできるのは、イエスと答えることだけだ」
そうそう、と言いたげに首を上下させるのは橘京子だけである。九曜は石化したまま抹(茶(パフェに刺(さったウエハースを凝(視(しており、俺と佐々木は肩を並べて藤原の腹立たしくもある愚(弄(面(を眺(めていた。しばらくして、
「ふうん」
と、佐々木が人差し指で頰(をかきつつ、
「藤原くん。それは先日、橘さんから呈(された意見でもあるね。あの時、キミは力の所有者などどちらでもいいと言っていなかったかい? 心変わりの理由を知りたいものだ」
「どちらでもよいというのは今でも変わらない」
藤原は細めた目を横に向け、
「状(況(は過去も現在も同一だ。ただし状況を認識する個人の価値観の違(いによって、結末への道のりも異なるのさ。ゴール地点が同じでもルートが違えば自(ずと展開も変化する。1×1も1÷1も答えは1だ。しかし算出方法はまったくの逆順なんだ」
「詭(弁(だね」
佐々木は一刀に断じて、
「僕には言いわけにしか聞こえない。そうでなければ、キミは演技しているようにしか感じられないな。キミはやっぱり、涼宮さんが能力を持ち続けていたら不都合なんじゃないか? うん。ああ……。誰(でもいいというのは噓(だね」
ほっそりした指を顎(に移動させ、思考を言葉に乗せるように、
「そうか、僕じゃなくてもいいのか。それは誰にあってもよかった。でも、涼宮さんではダメだったんだ。藤原くん、キミは涼宮さんから不思議な力を引き離(したいんだろう。彼女にあっては困る理由がどこかにある。僕がここにいるのはたまたまだが……」
キラリと輝(く瞳(を冴(えさせる佐々木は、
「でもたまたまでは終わらないものもあるね。僕がキョンの友人であったという過去だよ。未来人くん、これはどこまでが既(定(事(項(と言えるんだい?」
頭の回転のよさに舌を巻く。未来人を相手に丁々発止のやり取りができるのは、俺の交友録全ページをサーチしても佐々木くらいだった。ましてや佐々木は古泉のように組織に属したりしていないのだ。
藤原は一(瞬(、能面のような無表情になったが、再び冷(笑(を取り戻(した。
「それで僕をやりこめたつもりか? 無(駄(に回る舌の持ち主だな。僕は噓を言ってはいない。円(滑(にことを進めようとしているだけだ。だろう? 橘京子」
「えっ。ええ」
名指しされた娘(は慌(てた素(振(りで、
「そうなの。あたしが要(請(したのです。協力態勢を整えたほうがいいと思って。必死にお願いしました」
寡(黙(な宇宙人と悪(辣(な未来人に振り回されているらしき超(能力者の生(真面(目(な顔を見ていてもしょうがない。俺は藤原に向き直り、
「待てよって話だぜ。長門がくたびれてるのは、そこの九曜に原因があるんだよな。まるでお前がそうするようにそそのかしたみたいじゃないか」
藤原は古典的な戯(曲(に出てくる悪役のような目をして、
「それもどちらでもいいことだ。僕が作り出した舞(台(なのか、好機に乗じているだけなのか、同一にして不変の事態なんだ。その機が訪(れるのは僕の作(為(があってもなくても解(っていた。あれば放置していたし、なければこの手で起こしていた。固定された過去など未来から見れば考古学的価値しかない」
いったいこいつは何を言いたいんだ? 黒幕はどっちなんだ。朝比奈さんの敵対未来人か、天(蓋(領域か、それともすべてのテグスは橘京子の手に繫(がっているのか?
俺は誰も何も信用できなくなりそうな胸中を抱(え始め、せめて考えをめぐらせる時間を数秒ほどもらいたかったのだが、藤原はそれすら許さなかった。
「どこまでも理解の及(ばないヤツだな。あんたが言い出したんだ。長門有希の常態回帰を望むとな。僕はそれができると言っている。この九曜にあんたの大事なお人形さんへの干(渉(停止を命じ、履(行(させることができるんだ」
ずいぶん本題をズバズバストレートに言い放ってくれるものだ。SOS団を代表して、相手をしてやるぜ。古泉も訊(きたがるだろう質問だ。
「なぜお前がそんな主導権を握(っているんだ? 相手はコミュニケート不能のナントカ生命体だぞ」
「禁則事項とでも言っておくさ」などと、藤原ははぐらかす。
「ざけんな」
「悪ふざけと取るならそれでもいい。僕は好意で言ってやっている」
信じられるか。
その時、九曜が水(晶(石のような唇(を震(わせた。
「────わたしは実行する」
剝(製(が口を利(いたような唐(突(さだった。
「──干渉を中断し別の道を探査する…………それも分(岐(選(択(の一つ」
ダークマターのような瞳が俺の眉(間(に向けられていた。
「──直接の対話は不可能。端(末(を間接した音声接(触(は雑音。概(念(の相(互(伝達は過(負(荷(。熱量の無駄。一瞬で終(了(しないことは無限と同じ」
おおい、誰か通訳してくれ。
「つまり」
佐々木が指先を目の横にあてながら、
「長門さんの不調は九曜さんのせいであり、けど九曜さんもその行(為(にあまり有効性を感じていないんだね。藤原くんが言えば、彼女はすぐにでもそれをやめると。そして藤原くんは、涼宮さんの持つ神様みたいな力を僕に移すことを交(換(条件にしている。橘さんも同意見なんだね?」
「ええ」と橘京子は肩(を細くして、「藤原さんとはニュアンスがちょっと違うんだけど。でも、あたしたちは損得勘(定(でそんなこと──」
「お前は黙(っていろ」
藤原の冷え切った言葉に、橘京子はぴくっとして口を半開きのまま硬(化(させた。
「そういうことだ」と藤原がセリフを奪(い取り、「ここにいる誰(にとっても都合のいい現状を発生させてやろうとしているんだ。橘は佐々木、あんたを神として崇(めたいらしいしな」
「いやあの、そうじゃなくて、別にあたしたちは──」
橘京子の反論を藤原は完全シカトし、
「九曜の本体は涼宮ハルヒを解(析(したがっている。情報統合思念体の手の中にあるうちは無理だろう。ガード防(壁(が二重三重に張り巡(らせてある。だが打開策はあるのさ。肝(心(なのは正体不明の力にあるのだからな。その力を第三者に移してしまえばいい」
この世の誰にそんなことができるんだ。
「九曜がする」
あっさり答えを出した藤原は、まるで俺を哀(れむように、
「おいおい、あんたは忘れているんじゃないだろうな。涼宮ハルヒなどどうにでもできる。かつてその力を第三者が利用したじゃないか。涼宮ハルヒから能力を奪い取り、世界の改変をおこなったことを、あんたは覚えていないのか? あんただけは覚えていなければならない極(短期の過去だというのにか」
長門───。
思い出したのは一年五組から消えたハルヒと校舎から失(せた古泉含(む九組。鶴屋さんにひねられた手首と朝比奈さんに猫(パンチをもらった頰(の痛み。そして変わり果てた部室で一人で寂(しげに佇(む長門有希の眼鏡(のかかった白い顔。袖(を引く指先。
去年のジングルベルの季節、俺はとてつもなくヒドい目にあった。おかげで二度と失いたくないものをたくさん発見し、それ以上に一度だって失いたくないものを見つけたのだ。
このヤロウども。
俺は藤原と九曜を順序立てて交(互(に睨(んだ。
そう──。長門にできたことだ。俺のような凡(人(から見ればどっちも似たような情報生命にできないとは断言できない。情報統合思念体も天蓋領域も、人類と比べたらダンチで高レベルな何か頭脳だか特(殊(技能だかを持っているに違(いない。俺の勘(が告げている。長門とは違う意味で、九曜は噓(を言いそうになかった。
「長門の身が人(質(ってわけか」
俺の声は正(真(正(銘(、純度百二十パーセント怒(りの調べを奏(でていた。
「長門を助けたければ、ハルヒの力を寄(越(せってことか」
そんなことを許すとでも思ってんのか、ちゃちい脅(しをかけやがって。卑(怯(とか以前の問題だぜ。長門の身体(を盾(にすりゃ俺がほいほいと何でも言うことを鵜(吞(みにするとでも思ったわけだこいつらは。いや無論、長門の健康状態はすぐさま心身ともにオールグリーンにしてもらう。だが、それとこれとは話が別だ。
そして佐々木は、やはり俺の友人たるべき人間だった。
「嫌(だなあ」
やれやれと首を二度振(り、
「僕だってそんな力は欲しくはない。少しは当事者にされている僕の意見も参考にしていただきたいものだね」
歓(迎(すべき援(護(弾(だったが、怒(気(に覆(われた俺の脳(髄(にほんのわずかな疑念が灯(った。いや、疑念は言い過ぎだな。単純にして端的な疑問だ。
俺は佐々木の軽くしか困っていないような横顔へ、
「世界を変えちまうような超(強力パワーだぜ。一(瞬(たりとも血迷おうとも思わねえか?」
佐々木は俺にキラキラとした目を正面から向けてきた。淡(い笑(みの唇が、
「キョン、世界を変えるのは別にいいさ。ところがね、使い勝手が悪いのは、世界を変えてしまえば僕自身も変わってしまうってことなんだよ。そして自分自身の変化に僕は気づけないんだ。いいかい? 僕は世界の内部にいて、この世界を構成している一つの要素なんだ。世界そのものが変化してしまえば僕自身も否(も応(もなく変化する。この場合だと、自らの意志で世界を変えたっていうのに、変化後の世界の僕は、自分がこの世界を変化させた結果だということに気づくことはない。そんな記(憶(はなくなってしまう。なぜなら世界とともに僕も変化してしまったのだからね。そこにジレンマが発生するんだ。それだけの力を持ちながら、決して自分の能力の帰結を認(識(できないというジレンマさ」
どうにも理解しにくいが。
「人はね、理解できないものに出会ったとき反応が二分する。排(斥(しようとするか、理解しようと努力するか。どちらが正しいともいえない。人間は個人個人でそれまでに培(った異なる価値観を持っているのだから、それをねじ曲げてまで理解する必要はないが、価値観を生(涯(不変のものにもできない。理解できないのは何故(かを自分に尋(ねて自分が納(得(できる回答さえ用意できればいいんだ。自分の世界を持っていさえすれば、奇(妙(な理(屈(や解説なんていらないんだよ」
佐々木は向かい席の三人に顔を向け、
「僕はキミたちが理解できない。理由は言いたくない。答えは僕の内部だけにあって、他言をするつもりはないからさ。言うと失言になる。それはとても恥(ずかしいことだからね」
「あんたの心中など、僕の知ったことではない」と藤原は苦々しげに言う。「黙ってうなずいていればいいものを」
「まあ結局」と佐々木は黙(らない。「人は自分の能力を超(越(したものなど作れないのさ。超越したかのように見せかけることはできてもね。しょせん、それは張りぼてさ」
三段ロケットの二番エンジンに点火って感じだ。俺の背中は桁(違(いに軽くなった。
「佐々木もこう言っている。俺だってそんな不平等修好条約みたいな条件を吞むつもりはないぜ」
一昨日(来やがれ、と言いかけて、こいつらなら本当に二日前に来たことを思い出した。未来人相手には通用しない口上だな。
「それにさ。仮に僕に世界をどうこうできるような力があったとしても、行使する機会なんかほとんどないように思うね」
佐々木は俺の肩(をポンとはたき、
「するとしても自動販(売(機(に前の人が取り忘れた釣(り銭が残っていたり、とかかな。さしずめその程度だろうね。僕がこの世に異議を唱えるような不満はあまりないんだ。率(直(に言って、僕はあきらめている。不条理な矛(盾(に満ちたこの世界が作り上がったのは人類発(祥(以来の歴々とした時の積み重ねだ。ちっぽけな誰(かが策を弄(したとしてどうにか出来るものだとは到(底(実感できないね。よしんば僕にその力があったとしても、今より上等な世界を構築するという保証も自信も二バイト以上ない。これは謙(遜(ではないが、僕以外の誰にも不可能だと思うよ。人類はまだそこまで精神活動を到(達(させてはいない。地球は僕たちの乗り込む巨(大(な一つの宇宙船だ。しかし宇宙船に自意識があったら、この内部分(裂(ばかりしている不可思議な霊(長(類など真空にまるごと放(り出したほうがすべてうまく行くと考えるかもしれないね。人間は人間として生を受けた以上、どう転んだって神にはなれないんだ。だって神とは、人間の観念が生み出したものだからだ。有史以来、この惑(星(のどこにだって神様は不在だよ。最初からいない。僕はそんな非在の概(念(でしかない偶(像(になりたいなど、これっぽっちも思わないね。神は死ぬ以前に生まれてもいないんだ。だから神の墓はどこにもない。ゼロの概念、それこそが神の資質と言えるだろう」
佐々木の長いセリフが終わる時刻にぴったり合わせたように、
「──は──はは────ははは─────あは……」
九曜が脈(絡(もなく爆(笑(した。哄(笑(のようにも憫(笑(のようにも、高音のようにも低音のようにも聞こえる、耳がおかしくなったように思える声が、
「───ばかみたいだわ…………はは──」
なんだと、この。俺はともかく、佐々木を嗤(うのは腹が煮(える。
「説明してやろう」
笑い続ける九曜に代わり、藤原が嘲(弄(を孕(んだ表情と口調で、
「なぜ、あんたに選ぶ権利があると信じ込んでいるんだ? こうしてあんたの意見を聞いてやっているのは、僕たちが教示を願っているからじゃない。勘(違(いするなよ、過去人」
俺の中に芽生えかけていた、わずかな余(裕(が消し飛んだ。
「九曜じゃないが、僕だって笑えるな。あんたは自分を買いかぶりすぎてるんじゃないか? 己(にすべての決定権があると? 世界の行く先を選(択(できる権利を持っていると? はっ、何様のつもりだ。くだらんゲームのプレイヤーをやってでもいるつもりか。くく。喜劇以前の問題だ。笑いを通り越(して憐(れみを感じる。いいか。あんたは全権を託(されたりはしていないんだ。ただの操(り人形だ。よく動くことは認めてやってもいいだろう。だが、それだけなんだよ。動きがいいだけの操りやすい人形に過ぎない。あんたの行動のどこにも、あんた自身の意思なんてないんだ」
言葉の意味を理解するにつれて、ぞっとした感覚が背筋を上ってきた。
九曜はまだ笑っている。
改めて思い知らされた。いかにハルヒ消失んときの長門が人間味溢(れていたかを。
こいつらは──。
俺たちのことなど、人間のことなどどうとも思っていないのだ。
九曜も、きっと朝倉と喜緑さんも。
だからこそ、おのおの俺の意見なんぞを聞こうとしているわけだ。どんな意見だろうがかまやしない、その気になれば気軽にヒネリ潰(すことができる────その程度のものだと思っていやがるからだ。九曜のあからさまな笑(顔(は目新しいオモチャを与(えられた幼児のそれに近かった。ただそこにいるからという理由で足元の蟻(を踏(みつぶす、目(映(いばかりに子供じみた無(垢(なる輝(き……。
そして頼(りになる我が友人、佐々木はますます眉(を曇(らせた。
「そんな話を聞いて、僕がすんなり首(肯(するとでも思うのかい? はっきり言って逆効果にしかならないよ。僕はキミたちよりキョンとのほうが付き合いが長いのだからね」
「お前の意思など知ったことではないと、何度言わせるつもりだ」
藤原がせせら笑い、
「あー……」
橘京子はよりいっそう縮こまった。
「ぶち壊(しだわ。最悪です」
ふうー、と息を吐(いた橘京子だが、それでも意(気(消(沈(しない様子でいるのは褒(めてやる部分かもしれないな。果たして彼女は、俺に教えを垂れる宣教師のような表情を向けてきた。
「ねえ、考えてみて。あなたが涼宮さんとSOS団を大切に想(っているのは解(ります。それならこう考えることもできない? 涼宮さんに変な力があるから、長門さんも変になったり、あなたが変なことに巻き込まれたりしてるんだって」
何が言いたいんだ。
「涼宮さんが力をなくして、ただの人になってもSOS団が解散するわけじゃないでしょ? 今までと何も変わりません。古泉さんは『機関』の代表さんで、長門さんは宇宙人で、朝比奈さんは未来から来た人だけど、ただそれだけ。もう涼宮さんの行動に気を遣(わなくていいのです。みんな仲よく今まで通り、団長さんと一(緒(に楽しく活動できるわ」
それじゃ本当にただの同好会未満団体だ。
「ええ。あたしの言いたいのはそれ。そうなったらいいと思いませんか。もし、あなたがこれまであったような常識外れな事件に関(わりたいというなら、あたしたちがいます。九曜さんは宇宙人で、藤原さんは未来人、あたしは自分で自分を超(能力者とは言いたくないけど、まあそんなものだしね。佐々木さんと二人で校外活動だと思ってつきあってくれたらいいのです。きっと色々あるはずだもの」
二の句が継(げんとはこのことだ。第二のSOS団を結成しようという誘(いなのである。ハルヒ率いる俺たちのSOS団は形(骸(化し、ここに佐々木を盟主とした新生SOS団が産(声(を上げる……べき、という……。
「それにですね、」と、橘京子は俺の思考を追い抜(きにきた。「あたしは古泉さんの肩(にかかってる重たい荷物を下ろしてあげたいと思っているの」
「あん?」
なぜ古泉の肩(凝(りを心配する必要がこいつにあるのだ。
「彼はきっと感謝してくれるはずです。だって」
橘京子は当然のことを言うように、そして何やら夢見る少女のような表情で、
「知らなかったの? 『機関』は、古泉さんが一から作り上げて運営してる組織なのです。最初からリーダーは古泉さん。一番偉(い人です。あたしとは解り合えないけど、でも、ちょっと尊敬しちゃう」
「────」
そのセリフはマイ脳(髄(にけっこうなウエイトでのしかかってきたが、俺は無機物のように無反応かつ黙(ったままでいた。なぜか何も言いたくはない気分に瞬(時(になったのである。こいつがどこまで真実を語っているのか解ったものではないし、単にそれが真実と思いこんでいるだけかもしれない。これまで散々聞かされた古泉の解説口調にどこまで真実が潜(んでいたのかだって知れたもんではなく、それは橘京子だって同じだ。どっちを信用するかなんて、考えるのもオモシロおかしい。しかし橘京子があえてこんなデマゴギーを流す理由などないはずで、いや、あるのか。俺の思考を混乱させようとしているとすれば、確かにストレートなやり口だ。それにしてはこいつの顔は素(直(に感(嘆(しているような表情に彩(られているが。
…………。
やめた。考えるのは緊(急(停止。今は古泉の機関内部署など、どうだっていいことさ……。
くっくと笑い声を立てたのは藤原だった。
「僕からも一ついいことを教えておいてやろう。特別限定サービスというやつさ。この場、この時間でしか得られない情報だ。それが何かと問うだろう。教えてやろうとも、つまりそれは、あんたが今までもスルーし続けてきていた物体、すなわちTPDDについての講(釈(さ」
奇(妙(な設定について訊(いてもいないことを喋(り出すヤツにロクな性格の持ち主はいない。藤原はその典型的な野(郎(で一問の間(違(いもなさそうだった。
「僕や朝比奈みくるの時間渡(航(には若(干(の問題がある。航時機の性質上、時間平面を貫(いて移動せざるをえないからだ。いわば時間に穴を穿(ちながら遡(行(するんだ。気にするな、小さなものが一つだけならそれほどの異変はない。修復も容易さ。もっとも、跳(躍(する時間的距(離(が長くなればなるほど損傷する時間平面の数も増える。また、同じ時間帯を何度も往復すれば穴の数も当然のように増える。ここまでは解るな」
耳を塞(ぎたくなってきた。俺はいい。佐々木に珍(妙(なるシークレット怪(情報を聞かせたくはなかった。面(倒(事(に腕(を引っ張られて身体(を二つに裂(かれながら伏(し倒(れるのは俺だけで充(分(なのだ。
「要するにTPDDの使用は既(存(時間を破(壊(するリスクを伴(うのさ。空いた穴は埋(めなければならない。雨(漏(りを放置しておけばそこから屋台骨が腐(り始めることにも繫(がるんだ。連続する果てにある未来が揺(らぐ。本来、時間駐(在(員(はそうやってできた時間の歪(みを修整する役割を主とする。朝比奈みくるは例外だな。自覚はしていないだろうが通常とは異なる特(殊(任務に就(いているわけだ。ふん、ご苦労なことだね。それは極(秘(であるゆえに、本人にすら知らされていないのだから」
予定のセリフをそらんじ終えたのか、藤原はようやく声をとぎらせた。
「たとえば──」
と思ったら、またしゃべり出した。
「以上の僕のセリフがだ、これが本来、あんたが知るはずのない情報だったとしたらどうだ? 僕はお前の個人史を変えたことになる。ふん、もっと面(白(いように変えてやろうか?」
これ以上面白くなったら笑い死ぬかもしれんからやめろ。
「いったん聞いてしまった以上、あんたは僕の言葉に影(響(されざるをえない。これが僕の優位性だ。お前たち過去人に対してのな」
藤原はようやく改まった口ぶりに変化して、
「ゆっくり考えたらいい。あんたの原始的な脳がどんな答えを弾(き出すのかは、その後の行動を見て判断させてもらう。既(定(から外れたことをしてくれたら僕が楽しめていいさ」
これで終わるかと思っていたら、さらなる追い打ち、
「待っておいてやるよ。今日の会談で聞いたことをよく覚えておけと言っておこう。だが、まあ別に忘れてもいいんだ。あんたが何をどうしようと、僕は勝手に自分の役割を果たすのだからな。涼宮ハルヒとともに破(滅(の街道を突(き進むのか、それともヤツを無害化するのか、どちらを選ぶのもあんたの自由だ」
俺が答えを出す日時を知っていると言わんばかりだった。未来人なら知っていて当然だ。こいつは朝比奈さんとは違う。藤原はどこまでシナリオに沿って動いているのだろう。出し抜ける余地はないのか。朝比奈さんの顔が目の奥にちらついた。メイド姿と女教師バージョン、その二つが歩行者用信号のように明(滅(する。
「なぜ、俺にそんな時間を与(える?」
俺にしては素直な疑問だろう。
「既定事(項(だからだ。と言えば納(得(するか? しなくともいいが。さあ、これで僕のサービスタイムは終わりだ」
藤原は組んでいた長い脚(を器用に崩(して立ち上がり、
「時間などに縛(られるのはバカバカしく愚(かだが、それが既定の流れならば仕方がない。しかし、流れに逆らって泳ぐくらい、深海に住む進化に取り残された古代魚類にだって可能だ」
付け足しみたいなセリフを吐(いてテーブルに背を向けた。
金も置かずに店を出て行く長身の後ろ姿を眺(めながら、藤原が残していった瘴(気(めいた雰(囲(気(を鼻(腔(で感じていると、橘京子が当然のように伝票を手ですくい取りつつ、
「あたしもこれで失礼するわ。やっぱり考える時間はいるでしょう? あんまり考えすぎないほうがいいと思うけど……」
散々毒を吐きまくった藤原の瘴気のような空気に当てられたのか、橘京子のか細い姿はどこか疲(れて見えた。そりゃあんなのに付き合っていたら心労も絶えんだろうな、と若干のシンパシーを感じざるを得ないでいると、
「佐々木さんと相談しておいてね。佐々木さん、また連(絡(します。この件とは無関係で、あなたとは友達でいたいから」
「そうありたいものだね」
佐々木は橘京子を見上げてくいっと唇(の片(端(を吊(り上げた。
「ぜひ、友達としてだけ、付き合っていきたいと思うよ」
橘京子は答えず、行(儀(良く座ったまま置物となっている九曜に心配そうな目を落とし、ふうと息を一吐きして、レジへと向かっていった。彼女が精算を終え、手を振(って喫(茶(店(から消えても、まだ九曜は動かずじっと凝(固(し続けている。
佐々木の注文したホットコーヒー二つが最後になるまで出てこなかったことに気づいたのは、精神をすっかりぐったりさせた俺がお冷やを一気飲みした後のことであった。
こうしていても進展が見込めそうにない。
やっとウェイトレス(幸いなことに喜緑さんではなかった)が運んで来たホットコーヒーに砂糖とフレッシュをたんまり入れて(にもかかわらず苦みが軽減されていない気がした)啜(り終える頃(、俺は田舎(の薄(暗(い屋根裏で発見した古い市松人形よりも不気味ポジションを不動のものとする九曜を眺めながら思った。
ところで、なんでこいつは席を立たずにじっと固まっているんだ? 藤原が消え、橘京子が去ってもじっと俺たちの向かいに居続けているのは、言い残したことがあるという宇宙人的な意思表示なのだろうか。
異質な異星人の無言のアピールを読み取るなど、俺には手に余るな。
俺が九曜を観察していると、佐々木が空のカップを置いて唇に微(笑(をくゆらせた。
「キョン、僕たちもそろそろ行こうか。藤原くんじゃないが、僕たちに必要なのは今後を検討するための時間だよ。気が乗らない上に気ぜわしい会合だったが、意味のないものだとは判断したくないね。彼の口ぶりからすると、まだ猶(予(はありそうだ」
だといいんだが、何を検討すればいいのかってのが問題だ。
「そうだね。僕たちに選(択(権はなさそうだし、どうやって彼等(をあきらめさせたらいいのかさっぱりだ。でもまあ、できることだってあるはずだよ」
まったくもって楽しい事態とは言いかねた。神様モドキをハルヒから佐々木にするだって? 傍(若(無(人(な無自覚の神か、自制心のある理知的な神か、どっちがいいかという話なのか、これは。どっちがいいのかと問われれば、佐々木のほうがそぐわしいのかもしれない。
だが、しかし。
気が進まない。
この一言に尽(きるだろう。俺はこの佐々木に神(妙(な変態能力の持ち主になんかなって欲しくはなかった。普(通(の友人はやっぱり普通でいて欲しかった。ハルヒはあんなんだからまだいいさ。古代の神話に出てくる神々たちだって人間以上にわがままで理(不(尽(なことをしでかしてる。それと比べたらまだ話が通じるだけマシだよな。神社だってそうそう本尊を取り替(えたりはしないだろうし、いや待て、俺は何を考えてんだ。ハルヒの弁護人は古泉一人でいいのに、どうやら思った以上に混乱しているようだ。
そりゃそうだ。復活の朝倉、傍(観(の喜緑さん、どうやってか九曜と手を結んだ未来人は恫(喝(めいたことばかりほざき──ってのを昨日から今日にかけてつるべ打ちに喰(らって、心中を穏(やかにしてられるほど俺は釈(迦(の生まれ変わり要素を持っていない。悟(りの境地までまだまだだ。
「それにキョン、キミには僕以外に相談できる相手がいるだろう? 正直、僕は自分が何をしていいのか解(らないでいるんだ。誰(かに結論を教えてもらえるんであればそちらのほうが喜ばしいね」
真っ先に思いついたのは古泉一(樹(の偏(差(値(の高そうな顔面だった。他(にいない。ベッドに横たわる長門は論外だ。最も頼(りになりそうなのは朝比奈さん(大)だったが、この件に関しては未(だ姿を現してくれていない。まさかこれは彼女の既(定(事項から外れたイベントなのか? だとしたら例の七夕のようにはいかないってことになる。そうなりゃお手上げだ。
「九曜さんも一(緒(に出るかい? それともパフェを食べてからにする? 払(いは橘さんがもってくれたから、ゆっくりしてていいよ」
黒い影(のような敵性宇宙人の手先は、身じろぎもせずに半目となった瞳(を中空に停(滞(させるのみで答えない。
「起きてる? 九曜さん」
佐々木が鼻先で手を振って初めて、
「──眠(ってはいない」
重度の睡(魔(に襲(われているような声が返ってきた。どうでもよさそうな声に、俺は思わず苛(立(たしく問いかけた。
「最後のほう、話を聞いていたか?」
「──理解完(了(。すでに実行済」
何の話だ。長門への負(荷(をさっそく停止してくれているんなら助かるが。
俺は佐々木に促(されてテーブルを離(れた。不気味な非人類を一人で置き去りにするのは多少の心配があったが、心配して損した。意外にも九曜はするりと立ち上がり、どういうわけか俺たちの後をついてきたのだった。そのままさっさと姿を消すのかと思いきや、俺の背後の位置をキープしてつかず離れず佇(んでいる。
それは俺と佐々木が並んで喫(茶(店(を出て歩き出してもまだ続いた。これはこれで背中が不安になる。おまけに空はすでにもうそこそこ暗いのだ。
「何か言い残したことが?」
佐々木が振(り返って俺の言うべきことを代弁してくれた。しかし礼(儀(を知らない宇宙人女は何も答えず、あさっての方向に目をやっているだけだ。張り合いがない、というか根本的に人類と波長が合っていない気がしてきた。人格が読めないどころかそんなものがあるのかどうかも疑わしい。昨日、朝倉の攻(撃(を防ぎながら見せた微笑の主と、今目の前にいる九曜がどうしても繫(がらなかった。多重人格なのかこいつは。
こうして後ろばかりを気にしていたのが悪かった。
「あ、キョン」
前方からすっかり耳慣れた声が鼓(膜(に届いた時、俺は平らなアスファルトに足を取られそうになった。
佐々木が立ち止まったのにつられて俺もそうし、九曜も倣(った。
「こんなところで会うなんてね。珍(しいなあ」
制服姿に学生鞄(という学校帰り以外の何ものでもない風(情(でそこにいたのは、俺と中学を同じくするクラスメイト、国(木(田(に他ならなかった。
国木田は俺を見ていない。見ていたのは俺の真横にいる同窓生だ。
「久しぶりだね、佐々木さん」
「そうだったかな」
佐々木は喉(を鳴らすように笑い、国木田を見つめて言った。
「春休みに全国模試の会場で見た気がするんだが、あれは他人の空似かい?」
国木田も微笑(んだ。こいつのこんな笑みを見るのは初めてだったかもしれない。
「やっぱり気づいてたのか。だと思ったよ。きっと、僕が気づいていたことにも気づいていたんだね」
「そうだ。僕は他人の視線に神経過(敏(なんだ」と佐々木は事務的な口調で、「普(段(はまるで注目されないもんだから、たまに突(き刺(さる誰かの視線が頰(の痛覚を刺(激(するのさ」
「相変わらずだねぇ」
安心したようにうなずく国木田の肩(を、横から伸(びた手がポムっとつかみ、よりによってこんなところにいなくてもいいだろうと言いたくなるニヤケ面(が割り込んできた。
「おいおいキョン、喰(えねえなあ。つーか、隅(に置けねえな。ほっほーう、この娘(か。例のキョンの昔のコレのアレっていうのは」
……谷口、なんでまたお前がこんな駅前を国木田とつれだって歩いていたのか、まったく知りたくなること皆(無(だが、それはともかく頼(みがある。ダッシュで帰ってくれないか。できればロケットブースターを背中に三つほどつけたくらいの初速でな。リフト・オン! そのまま衛星軌(道(まで飛んでってくれたら天文部に掛(け合って軌道計算くらいさせてやるぜ。
「そりゃねえだろ、キョン。せっかくの出会いだ。ちっとばかし語り合おうぜ」
谷口はしまりのないニヤニヤ笑いを浮(かべ、俺と佐々木にぶしつけな視線を交(互(にぶつけつつ、
「まったくお前って野(郎(はよ。あんだけのメンツに囲まれてんのにまだ足りねーのか? あああん?」
何が言いたいのか解(りすぎるほど解る自分が嫌(になりそうだ。いっそ俺が加速装置を発動しようかとクラウチングスタイルを取りかけるのもほったらかしで、谷口はいよいよ調子よく、
「俺も紹(介(してくれよ。キョン。俺はお前の親友だぜ。何でも腹を割って言ってくれ」
「佐々木さんだよ。僕たちと同じ中学にいた」
見かねたわけでもないだろうが、国木田が肩代わりしてくれた。
「佐々木さん、こっちが谷口。一年から僕とキョンのクラスメイト」
模(範(的とも言える実に簡潔な紹介だ。
「それはどうも」佐々木はゆるりと一礼し、「よきご友人のようだ。キョンが世話になることはあまりなさそうだが」
率(直(な意見を谷口は聞き流し、追い打ちをかけるつもりか俺に白い歯を見せて、
「しかしなんだな。お前の審(美(眼(はたいしたもんだぜ。いい趣(味(してやがる。お前の人生に何か不満があったとは到(底(思えねえよ、なんか俺はお前に腹立ってくるんだがキョン……キ……キョっ!?」
いきなり何だ。南国熱帯地域の野鳥のような声を発しやがって。最近そういうからかい方が流行(ってんのか。
俺が半ばウンザリして谷口を自(慢(の目力による視線で射殺そうとしたところ、ああ? どういうわけだ? 谷口は俺を見ていなかった。ましてや佐々木を見ているのでもなく、
「……わおうっ!?」
谷口は背後に跳(びすさり、ホールドアップを途(中(で止めた──みたいな不自然な格好で硬(化(した。驚(愕(に目を見開き、恐(怖(に近い表情で一時停止をかけられている。ただでさえアホな谷口フェイスをよりいっそうアホ面にする対象とはいったいいかばかりのものだろう、と思うまでもなかった。我が親愛なるクラスメイトの視線は、俺と佐々木の間の空間を素(通(りして、周防九曜の眠(たげな猫(のような顔を捉(えている。
俺ですらたびたび存在を忘れそうになり、今まで一(般(人(からほぼ完全に無視され続けていた九曜だ。なぜ谷口に見えたんだ?
「─────」
もっと驚(いた。九曜が谷口に反応したのだ。ゆっくりと左(腕(をもたげた女子校の制服姿をとる娘は、手のひらを返して袖(から伸びる白い手首を見せつけた。初めて気づいたが、妙(に洒落(た腕時計をしてやがる。それも虚(をつかれるほどファンシーでアナログな。
「───感謝している。返す気は……ない」
は?
「いいって。高いもんでもねえし、気に入らねえなら捨てちまっても質(入(れしてもいいぜ。いや、是(非(是非そうしてくれ」
谷口が九曜とまともに会話をしている。もっともそんな気候でもないのに一(瞬(にして汗(ばんだ谷口の顔は背(けられ、手足を意味なくそわそわさせているのは警(邏(中の警官が即(座(に職質したがるような挙動不(審(そのものの態度だったが、それにしたってこれはどういった奇(蹟(だ。
「クリスマスプレゼントに送ったんだってさ」
国木田の解説を聞いても俺の驚愕は去ったりしない。むしろ倍増だ。時計? 九曜が感謝? クリスマスだって? 何のことなんだ。ここは夢の中か。
顎(が取れそうなほどあんぐりしている俺をハテナマークの溜(め池に投げ出したまま、国木田はあっさり佐々木に興味を移動させ、
「一つ訊(いていいかな。なんでキョンと今さら?」
今さらとか言うなよ、変な意味に聞こえるじゃないか……いやいや、それどころじゃないぞ。俺と佐々木より、谷口と九曜を不思議がれよ。
だが、佐々木は国木田との会話に重きを置いているらしく、
「いろいろワケがあってね。説明を簡略化するのは僕の意とするところではないから、時間のあるときにキョンから聞き出してくれないか」
「それほど知りたいものでもないから別にいいよ。それにしても、ここで佐々木さんと周防さんの二人と同時に再会するなんて、世の中は狭(いね」
「彼女を知っていたのかい? へえ。国木田くん、きっとキミよりも僕の驚きのほうが大きいだろうね。九曜さんとはどこで?」
それは俺もぜひ聞きたい。
「九曜……って、周防さんのこと? あれは冬休みだったな。ここにいる……あれ、いない」
谷口か? なら川(中(島(の奇(襲(に失敗したキツツキ戦法の武(田(軍別働隊斥(候(みたいに逃(げてったぜ。感心すべき逃げ足の早さだ。
「さっきまでここにいた谷口に紹(介(されたんだ。彼女だとか言ってね。そうじゃなかったっけ、周防さん」
「──あぁ」
九曜は吐(息(とも溜(息(ともつかぬ応答をした。
「──わたしの記(憶(はあなたの正当性を支持する」
「で、一ヶ月ちょいで別れたんだよね」
「──保証できる」
ぐう。なんてこった。
去年の十二月、クリスマス前に谷口が付き合いだしたとか言ってたのは、こいつのことだったのか。そしてバレンタインデー前に破局してたってのもだ。それが九曜だったのか。いや待て。
俺は驚愕に打たれながら、
「ということは、お前は長……じゃねえ、あいつが起こしたあの事件前に、すでに地……じゃねえ、ここにいたのか!?」
「──いた。その事象のどこに問題があるのか発見することができない」
俺の感じているこれは、果たして怒(りなのか戸(惑(いなのか。
「……なぜ谷口と付き合ったりした?」
回答はあっさり返ってきた。
「──間(違(えたから」
「なんだと?」
「僕も谷口からそう聞いたよ。それが別れの言葉だったってさ」
国木田はいとも簡単にさらりと言って、
「キョンはいつ周防さんと? 前からなのかな」
いや、ついこの前だ。
うまく言葉を作れない俺を横目に見て、佐々木はくつくつ笑いを漏(らして、
「九曜さんは僕が最近知り合った人だよ。縁(があって、こうしてキョンへと繫(がった」
「それに加えて谷口の元カノでもあったのか。素(晴(らしい偶(然(だね。パーセンテージにしたらどれくらいになるかな」
首をひねる国木田に、
「確率論かい? シンクロニシティの発生が数瞬ごとにあるのだとしたら、あらゆる信じがたい偶然はすべて蓋(然(性という言葉で説明することができる。でもこの場合は、」
佐々木は悪戯(っぽい微笑(みとともに首をわずかに傾(げ、
「天空におわす全知全能なる神様の配(剤(というべきだろう」
「佐々木さんらしくないことを言うなぁ」
俺も同意見だ。神はどっか旅行中じゃなかったのか。
国木田は呆(れたように肩(をすくめ、
「キョン、佐々木さんはね、僕たちがここで出会ったのは偶然のたまものだ、ってことを回りくどく言っているだけだよ。そんなに悩(むこともないさ」
それのどこが悩まなくていいんだ。一つ二つなら偶然でかたづけてやるさ。だが三つ四つとなると誰(かが俺たちの首に綱(をつけているんじゃないかと勘(ぐりたくもなる。色々やらされてきた俺ならではの苦(悩(だ。真(剣(に悩んでも損なことも知っているが。
俺が沈(黙(という渦(にまかれて振(り回されているのをどう受け取ったか、国木田は、
「駅前の書店に注文していた本があってね。学校終わりに取りに来たんだ。谷口はヒマだって言うからさ、付き合ってもらった。ついでだし、喫(茶(店(にでも寄ろうとしてたんだけど……」
逃げ去った谷口の姿を求めるように振り返り、首を振った。
「いなくなっちゃったんじゃしょうがないね」
腰(抜(け谷口の華(麗(なる敵前逃(亡(と言うべきだろう。
「それにキミたちの邪(魔(をするのも気が引けるし、僕も帰るよ」
背を向けかけた国木田に、佐々木がすかさず、
「国木田くん、どこかで見かけたら遠(慮(なく声をかけてくれていい。共通の思い出話に興じたり旧交を温めることは人生そのものの楽しみの一つだからね」
「それは佐々木さんらしいね」
頭の回る者同士が互(いに三手先を読みながらしているような会話をされても、俺にはさっぱりついていけん。
「うん、じゃあ、また」
国木田は佐々木と一くさり会話したことで満足したのか、九曜の存在にあれ以上踏(み込むことなく、特に何を思うこともなさそうに別れを告げた。
去りゆく後ろ姿をじとりと眺(めていた俺だったが、谷口・国木田コンビに関して心配するのはやめておいた。あの二人のことだ、ハルヒに今日のことを吹(き込むこともなかろう。谷口は九曜にトラウマがあるようだし、国木田はちゃんと空気の読めるヤツだからな。
「九曜」
俺は巣穴から落ちた雛(鳥(のようにじっとしているモップ頭へ全身をもって対(峙(する。
「お前は去年の十二月にはもうやって来てたんだな。そして谷口に近づいた」
訊(きたいことは山ほどあるが、まずそこをハッキリさせておかなければならない。
「谷口に目を付けたのは、ハルヒや俺たちに接(触(するためか」
「間違えた──」
デッキブラシが喋(っているような声が短い返答を返す。
「何を間違えたんだ」
「──あなたと」
「お前……」
すると何か、九曜は俺と谷口を間違えて付き合いだしたのか。おいおいおいおい、よりにもよってあいつと間違えてくれるなよ。自分に自信がなくなるじゃねえか。
「どこかで情報の混乱があったよう。何者かによるジャミングの可能性……」
九曜はぼそぼそと、
「ありうる……」
少なくとも長門はそんなことをする余(裕(はなかったはずだ。
「長門が世界を怪(しくした時、お前はどうなってたんだ」
「わたしは変化していない」
九曜はくいっと顎(を上げた。やや血色を増した唇(がコマ送りを見ているかのような饒(舌(さで、
「あなたたちは仮(幻(宇宙にいた。それはわたしたちに新(鮮(な驚(きを感じさせた。重なった世界。かつて存在し、しかし同時に存在し得なかった世界。排(他(的な行動。局地的な改(竄(。面(白(い」
なんだそりゃ。というかいきなり口調が変わったぞ。本当に人格が切り替(わったように見える。昨日の微笑(みを思い出した。
「──明日のない今日──今日のない昨日──昨日のない明日───そこにあった」
わけが解(らん。
片(眉(を上げて聞いていた佐々木が呟(く。
「ルナティックというよりはファナティックだね。そういった話は喫茶店でゆっくり聞きたかった。こんな立ち話じゃなくて、できればメモを取りながらね」
佐々木は九曜の手首に目線を向け、からかう口調で、
「それにしても、貰(った時計を今でもしているとは、先(程(の面白そうな彼に多少は未練があったのかな?」
アナログな腕(時(計((どうせバッタもんだろう)に、したたり落ちる墨(汁(のような視線を落としていた九曜は、
「──わたしが……欲しいと言った」
……驚き疲(れる日だな、今日は。
「──時間は一定方向への不可逆的事象ではない。この惑(星(表面において生体活動をするためには疑(似(客観上の時間流を固定化する必要があった」
それが時計かよ。こんなのただのゼンマイ細工みたいなもんだろ。時間を決めるのは時計じゃない。人間の連綿たる営みにおける便(宜(的数値にすぎん。
「──時間は常にランダムに発生している。連続していない」
俺は目頭を押さえた。何を言い出してくれるんだ、この宇宙人は。
佐々木は持ち前の好(奇(心(を刺(激(されたようで、
「過去や未来は? 九曜さん、キミはどういった解(釈(の仕方をしているのかな。ひょっとしてアカシックレコードが存在するとでもいうのかい?」
「──時間は有限」
「それはどういう意味でだろう。無限降下法的に。たとえば一秒と二秒の間には、どれだけの時間があるんだ?」
「ない。ただし、あると思う行(為(に危険性はない」
佐々木はこの論議に食いついたようだ。
「うーん、たとえばこういうのはどうかな。仮に並行世界があったとして、それは無限に存在するものじゃないのかい。こう、エヴェレット的に」
「──観測し得ないものは存在しない」
「本当に?」
と、佐々木は未知の現象を発見した科学者の卵のような顔をする。
「──記録はしている──問題は……皆(無(」
「そうか」
納(得(顔で顎の下に指を当てる佐々木に、さすがにツッコまざるを得なかった。
「何がそうかだよ。お前が解ったことが俺にも解るように嚙(み砕(いて教えてくれ。どんなバカにでも飲み込めるように細かくしてな」
「ああ。うん、キョン。それは無理だ。なぜなら僕が理解できたのは、九曜さんないし九曜さんの創造主は我々人類とは根本的に違(う、異質な考え方の持ち主であるということだけだ。つまりどうやっても理解できないらしいと理解できた」
それじゃどっちに転んでも同じだ。
「そうでもない。意思の疎(通(に僕たちの言語では不適切らしいという発見は大きな一歩だよ。現状、この場では彼女の言葉はほとんど雑音だ。しかし、もっと性能のいい翻(訳(機を開発できたとしたらどうだろう。人類の英知はいつかそれを可能とするかもしれない。事実、人間は不可能だと思われた悲観的な予想をいくつも覆(し、実現させてきたんだ」
いつか──。もっと未来なら。たとえば藤原の時代になれば。または船が浮(力(以外の何かで浮(かんでいるような未来ならば。
「おい、九曜──」
俺のセリフは呼びかけた名の主に届くことなく、無様に宙に拡散するだけに終わった。
周防九曜の異様なくらいに黒い姿は、神(隠(しのように消え去っていた。まるで地面に空いていた見えない隙(間(に落ちていったかのように。
俺がとりたてて感想を抱(かなかったのは、これぐらいのことなら長門や朝倉や喜緑さんでもできるだろうと知っていたからだが、どういうわけか佐々木もまた動(揺(の素(振(りも見せず、穏(やかな笑(みを九曜が消えた空間に向けていた。
「さすが宇宙人だね」と一言述べるだけで飛行機雲を見るような目をしているばかりであり──。
感想はそれだけか? おい。
「ではもう一言」
佐々木はくるりと目を動かした後、
「他(に何をしてくれるのか興(味(津(々(だ」と言った。
流(麗(な同い年生まれの顔は決して慌(てふためかない。見たことがなかった。それは俺に根(拠(不明の安心感を運んでくれる。
「キョン、あまり彼女を過大評価しないほうがいい。僕たちが九曜さんを理解できないように、彼女も僕たちを正しく理解しているとは言い難(い。僕たちは重力のくびきに捕(らわれた哀(れな原始生命体なのかもしれないが、それでも彼女を地球上に引きずり下ろすだけの価値はあったんだ。それに人類がこれ以上の精神的肉体的進化を遂(げないという保証もない。僕なら、そうだね、ブラインドウォッチメーカーに期待する」
話の内容はよく解(らないが、どうやら俺を鼓(舞(しようとしているようだった。
「また今度だね」
駅前の雑(踏(の中、佐々木は街灯の明かりを反射させる瞳(を俺に向けて言った。
「僕は僕で考えてみる。どこかに結論が転がっているかもしれない。あまり期待しないでおいて欲しいが、やるだけのことすらしないのは怠(慢(の誹(りを免(れないものだ。案ずるより産むが易(しさ。しばしの別れだよ、キョン」
ひらりと格好良く手を振る佐々木を眺(めつつ、俺はしみじみと実感していた。
憂(鬱(なるハルヒさんの思いつきに十万億土の彼方(まで引きずっていかれるほうが、今の俺が陥(没(している思考停(滞(状態より、光が銀河中心団まで行って戻(ってくるほど楽なことなのだとな。
ハルヒなら必ず帰ってこようとする。それだけは間違いなく、あいつの長所と言ってもいい帰(巣(本能的特性だ。
もちろんハルヒだけの習性じゃないぜ。今やSOS団に列席している副団長から雑用係にまで、帰るべき場所はすでに確定して、月がなかった場合の地球マントルプレートのようにカチカチに固まっているのだ。長門が待機し続け、ハルヒが押し入り、朝比奈さんと古泉が強(引(に叩(き込まれた文芸部室にしてSOS団第一本部。
それで全員揃(ってやくたいもない時間つぶしに没(頭(していたいと、俺の大脳旧皮質が神経質的な電気パルスをパチパチ送っていた。
そうだな、佐々木。やっぱ、俺はあちら側の人間で、こっちにつくことはできそうにねえや。新生SOS団だって? ちょこざいな。あんなもんがさっくりとコピーできたりできるもんか。団あっての人員じゃねえんだ。俺たちがいての団なんだよ。誰(一人(欠かすべからざる、不動のメンツでどこまでも突(き進むんだ。それは最初、ハルヒだけの望みだっただろう。だが俺や朝比奈さんや長門や古泉と共有する同一の願いになるまで、そう時間はかからなかったと俺は思っている。小型ブラックホール並みの潮(汐(力を持つ団長の周囲で回る膠(着(円(盤(のようなものさ。俺たちは吸い込まれることも離(脱(することもできず、ただそこに居続けるのだ。俺たちをつかんで離(さない、謎(の引力が途(切(れるまで──な。
その後、俺は終始上の空で帰宅することになった。よく自転車を忘れずに帰れたものだと感心するくらいだ。脳みそが情報過多でプスプス音を立てているのが解るほどの、こんだけの倦(怠(感を覚えたのはいつ以来だろう。意識を保つために全精神力を動員させなければならなかった。
そのため、まるで箸(先が進まない夕食を何とか食い終えた後、俺は妹とシャミセンの相手をする体力の一(欠片(すら失いベッドに倒(れ込むや電気も消さずに眠(ってしまうという体(たらくぶりを発揮した。精神的ボロ雑(巾(状態と表現したい。
ブラックアウトの寸前、こんな就(寝(形態では寝(起(きが悪くなりそうだなとチラリと思ったことを覚えている。さらに覚えている限り、夢は見なかった。もっとも、ビューティフルなドリーム以外はもともと目覚めた瞬(間(に忘れてしまうタチだけどな。