β─8
翌日、火曜日。
頭の仕組みとはよくできているもので、寝付(きが壮(絶(に悪かったくせに悠(長(に眠(っている場合かと気がかりばかりが先行しているせいだろう、定時より早く醒(めた目のおかげで、俺は学校前の心臓破り坂をのんびりと歩くことだってできたのだが、心情的にそんな気になるわけもなく、生(真面(目(に坂を上っている一年生たちに交じりながら目新しくもない登校風景に溶(け込みつつ、常態よりも早足で学校の正門を通り抜(けた。
このままでは気が重すぎる。最善策は、さっさと荷を降ろすことにあり、その初手としてまずハルヒにあまり愉(快(ではないことを告げねばならない。
教室に着くとハルヒの机は空で、どうも早く来すぎたようだ。言いたいことは無数にあるが、発することのできるセリフがこうも少ないとはボキャブラリー以前の問題だな。朝比奈さんの気持ちが解りすぎるほど解る。言葉で表現できないものをどうやって説明しろってんだ。ボディランゲージか? 絵でも描(くか?
どちらもノーだ。そんなものは説明しなくてもいいようにすればいい。つまりは長門が俺たちの日常生活に復帰すれば丸く収まるんだ。その日は早ければ早いほうがよく、あたりまえであろう、長門の熱が長引けばそのぶん、ハルヒの中で疑念が積み重なり、そのうち解決策を求めて次なるハルヒ的な事態を引き起こさないとも限らない。
たとえばすべてをリセットして高校一年の入学式からやり直すくらいのことをしても不思議に思わない俺がいた。山登りの最中でいきなりスタート地点に引き戻されるのは勘(弁(だぜ。上手(く立ち回ることができるかどうか自信がないし、俺は全部ひっくるめて現在の俺たちが気に入っている。ようやくここまで来たんだ。一年間をなかったことにしてたまるか。ゴールのテープは全員で切ってやる。
「ああ、そういうことか」
固い椅(子(に座った拍(子(に俺の脳みそが感づいた。我ながら妙に焦(った気分になっていると思っていて、ついでにそう思っているということを自己分(析(できている自分にも感心するが、要するに俺は身近にいる親しい誰(かが欠けていなくなるのを恐(れているらしい。振(り返れば思い当たることばかりだ。ハルヒが消えて慌(てふためいたのは世界そのものがひっくり返っていたから大目に見るとして、朝比奈さんが目の前で誘(拐(されたり、長門が学校に来なかったり、その度(に俺の心臓が大(忙(しになる。この一点だけでも状(況(証(拠(で限りなくブラックだ。
それと同じ理(屈(だろうよ。仮に一年時間が巻き戻ってでもみろ。俺はハルヒの珍(奇(なる自己紹(介(を聞くところから始めなければならず、その時分の俺が若さ故(の気まぐれを発(症(させてハルヒに話しかける気になるかどうかは五分五分で、実行に移したかどうかに至ってはまさに偶(然(の産物であり、それにともないスットコ涼宮ハルヒさんなる谷口の腐(れ縁(者と接点なく一年五組で過ごしていたら、首根っこをつかまれて文芸部室に運び去られたり長門と接(触(したり長門の顔から眼鏡(が消えたり、朝比奈さんが拉(致(されてきたりせず、古泉も転校してこず、孤(島(の擬(装(殺人やバカ映画撮(影(とも無縁のまま、悠(久(なる時間に流れに身を任せつつ何を為(すこともなく何に巻き込まれることもなく、静(謐(かつ怠(惰(を欲しいままにして、普(通(に二年になっていた可能性もあったんだ。
でもそりゃ、あくまで可能性で、結果が出ちまった今では何の意味も持たない確率ゼロパーセントでしかない。なさざる事実は、どう翻(って観測しようとしても「ない」から「あり」に変化したりしやしなかったのさ。
今さらどっちがよかったなどと訊(くなよ。あまりにも明白な回答で逡(巡(するヒマもなかったね。
ならば責任は取らんとな。俺にしかできないことは他(の誰にも任せられず、俺にできないことは他にできる誰かに任せる。今までそうやってきたのだから、これからだってそうしてやるさ。古泉の能弁な解説に頼(らずとも、この程度の計算はできるんだ。
去年の鶴屋家スキー場で長門は倒(れ、古泉が大いに頭脳を活(躍(させた。今度は古泉も他で手(一(杯(だろう。姿を現したイレギュラーな地球外生命、九曜を掣(肘(するだけの能力があるならとっくにやってるはずだ。
そして長門は未(だ情報統合思念体の勅(命(で俺やハルヒの不興を買うような事態に陥(っている。打破することができるのはハルヒを除外すれば俺だけだ。
いままで長門にはさんざん借りを作り続けてきた。ここらで返しておかないと、地球人類としてのメンツが立たない。凶(刃(を携(帯(した朝倉や、神(出(鬼(没(な喜緑さんの手など借りてたまるものか。それに俺には中学以来の親しき友人、変わってはいるが関係者の誰よりも常識的な佐々木がいた。どんな甘い言葉にも佐々木なら動じることはない。信(頼(に足りるだけの時間を俺はあいつと過ごしたのだ。ハルヒをして変わってると言わしめ、俺も薄(々(そう思っていた中学以来の自(称(俺の親友だ。男だの女だの性差から来る区分などまったくもってくだらない。俺はあいつに生物学的な格差を感じたことがないし、佐々木もそうであるかのような言動を終始貫(いていた。
年賀状を出しておいてよかったぜ。佐々木、今度の同窓会ではお互(い笑(顔(でいたいものだな。まあ佐々木ならあらゆる問題を無にして中学生時代の付き合いに戻(るだけの演技力はある。その点だけは誰よりも信頼できた。
今にして実感するよ。佐々木、お前は間(違(いなく俺の親友だ。十年後に顔を合わせても「やぁキョン」などの手軽な挨(拶(から話を切り出すくらいの、希少価値ある人間さ。橘京子や藤原の誘(惑(に拐(かされることのない、ちゃんと足を地球につけた常識人だ。
橘京子は古泉の敵。藤原は朝比奈さんの敵。九曜は長門の敵。だが、佐々木は俺の敵じゃない。あいつは俺の旧知であり、中学校の同級生、それ以外の何ものでもないんだ。橘京子と藤原に九曜、選んだ相手が悪かったな。俺の知る佐々木はそう簡単に甘(言(によって籠(絡(される素(直(な地球人じゃないぜ。俺以上にへそ曲がりで、ハルヒを超(える常識論の信者なのだ。
そうと決まれば、俺は精神の安(寧(を取り戻し準備万(端(、後はハルヒを待つだけである。
始業の予(鈴(が鳴ってもまだ来ない、珍(しく遅(刻(間(際(である涼宮ハルヒの空席をただ気配のみで感じながら、俺は黙(々(とした視線を黒板に突(き刺(していた。
ベッドで目を覚ましたときからではなく、始まりは今から到(来(する。平日の習慣、ハルヒが俺の後ろの席に来て俺が振り返った瞬(間(、それが一日のすべての始まりを告げる様式美となって久しい。
そして今日は、俺のスケジュール帳によると今までになく長い一日になりそうだった。
待ってろ長門。お前の病気は俺たちがなんとかしてやる。徹(底(的に叩(くべきは、天(蓋(領域とやらのさらにプラットフォームとやら、周防九曜に他ならなかった。未来人はそのついででいいさ。
俺がらしくもなく決意を腹に溜(めていると、ホームルームの始まりを教えるチャイムが鳴り始め、ハルヒが教室に姿を現したのは鳴り終わるギリギリ、担任岡部とほぼ同時だった。教師と違うのは教室の後ろのドアからのっそり入ってきたこと、あまり快活とはいえない表情をしていたことくらいである。
ハルヒは自分の席に着く間際、俺の視線に気づいて、目配せを返してきた。制服のポケットから鍵(を出してちゃらりと振り、すぐに仕(舞(う。それだけでも充(分(だったが、
「有希の様子を見に行ってたのよ」
ホームルームが終わり、一限目の授業が始まる前の間(隙(でハルヒは解説した。
「朝ご飯作ってあげようと思って、勝手に上がらせてもらったわ」
「どうだった」
「有希? 寝(てた。あたしが部屋を覗(いたら目を開けて、しばらく見つめ合ってて、安心したのかしらね、また二度寝したみたい。起こすのもなんだから、ご飯だけ作って出てきたわ。うーん、熱はそんなにひどくなさそうね。でも、たまにはゆっくり休むことも必要だわ」
「そうだな」
ほう、とハルヒは小さな息を吹(き、
「有希の寝姿を見てると、なんだか無(性(に……こう、」
躊(躇(するような間を開けて、ハルヒは声のトーンを一段落とし、
「変な意味にとらないでよ。うっかり抱(きしめそうになっちゃったわ。だってそうでもしないと消えて無くなりそうに見えたから。そんなわけないのにね、なんでかしら」
ハルヒは頰(杖(をついて横を向く。不安そうではなく、どこか怒(っているような顔であるが、なぜか俺までむず痒(くなったのは、どういうわけかハルヒの心中を見通せたような気になったからだ。気のせいに違いないが。万が一にもハルヒを抱きしめそうになったからではまったくないのも言うまでもないのだが。
しかし根源的な要因はどうあれ、俺とハルヒの見解が一(致(しているのは確定事(項(のようだ。朝比奈さんと古泉もそうだろう。
元気な長門……という表現もおかしいが、ベッドで弱々しく寝込んでいる長門なんてものはそう長く見ていたいものではなかった。あいつの居場所は文芸部室がふさわしい。部室で寝(泊(まりしていてくれてもいいくらいだ。あそこにはそれができるだけの設備が整っているからな。長門の欠けた文芸部室など、キリストのいない最(後(の晩(餐(会場みたいなものだ。
ところで、俺はハルヒに言わなければならないことがあった。ひょっとしたらハルヒのヒョットコ顔が拝めるかもしれない、その告白をしようとしたところで、生物の教師が到来し俺の邪(魔(をしてくれた。
次の休み時間までの数十分は、けっこう長い主観時間を伴(ってくれそうだ。セリフ一つ発するのがこれほど重く思えるのは、言葉の持つ重みと相関関係があるからである。
まるで気の乗らない上に頭にも残らない授業が終わったそうそう、俺はすぐさま振(り向いて団長に意見を打(診(した。
「話があるんだが」
「なに?」
ハルヒはくいっと眉(を上げたものの、俺の表情を見て目を少しばかり開いて、
「ここで言える話? 秘密のことなら屋上か非常階段に場所を移してもいいわよ」
「それほどでもない。お前、今日の夕方も長門のところに行くつもりだろ?」
「もちろん」
「それなんだが、俺はちょいと行けそうにないんだ。他(に用事ができちまった。長門のことは心配なんだが……」
どんな反応が返ってくるかと内心ヒヤついていたのだが、ハルヒは眉と目の大きさを元の状態に戻(して、
「ふん、そう」
顎(を指で挟(むようにしつつ、何やら考えていたが、
「どうしたわけ? またシャミセンがハゲでも作ったの?」
俺はギクリとしつつ、
「いや、そういうわけじゃない。ちょっとした所用でね。なんというか……」
突(発(的デマカセの才に欠ける俺が口ごもっていると、
「ま、いいわ。あんたがいてもいなくても似たようなもんだし、あんまり大げさに全員でひっきりなしに来られても有希も困るかもね。ご飯の用意ならあたしとみくるちゃんだけでできるしさ。最悪、あたしだけでも」
さらに考えを深めたようで、
「そうね、そっか。あっちのはあれで気がかりだし、そう。うん、そうだわねえ」
違(う回路に通じるボタンを押してしまったらしい、
「どっちも放置できないわね」
呟(き声を漏(らしていたハルヒは、自分の中で結論が出たらしい、大きくうなずくとずいっと顔を寄せてきた。
「今日はあんたはいいわ。それから古泉くんもね。有希んちにはあたしとみくるちゃんで行くことにする。お風(呂(入ってないだろうし、身体(拭(いてあげるのに男がいたら邪魔だもんね。だいじょうぶよ、軽い風邪(なんだしさ。安静が一番」
椅(子(に座り直したハルヒは、思い直したようにすぐ立ち上がり、
「古泉くんに言っておかないといけないわね。副団長に押しつけるのは気が引けるけど、考えてみれば適任だし。やっぱ、こっちはこっちで無視できないわ」
謎(のようなことを言いながら、ハルヒは何か思いついたときに浮(かべる笑(みを浮かべて教室を飛び出て行った。切り替(えの早さと発案から実行までの速度は素(粒(子(並みだな。
イワシの群れに突(撃(するバンドウイルカのような後ろ姿を見送って俺も息をつき、目を前に戻したところで谷口のニヤケ面(と視線が衝(突(した。
「ようキョン、涼宮と深刻そうに何の相談だ? いよいよ年(貢(を納めるつもりになったってわけか。この裏切り者」
何の話だか見えてこんね。とりあえず俺が払(っているのは消費税くらいだ。
俺がしっしっと追い払う手の動きをしているのが目に入っていないはずはないのだが、谷口はクケケと怪(鳥(のような声を出した。
「涼宮と一年間も付き合えるなんざ、この世のどこを探してもお前ぐらいだ。最長記録楽々更(新(ってやつだぜ。この際どこまでも続けてやれ。キョン、お前には変人とまともに付き合う才能がある。この俺が言うんだから間違いねえ」
お前の解答はいつも間違いだらけだろ。あらゆる教科の答案用紙がそれを物語っている。
「そりゃお前も同じだろ。勉強だけが才能の活(躍(手段じゃねえからな」
そんなセリフは他に取り柄(のあるヤツがいうこったろうさ。それも結果論で決まる。まだ何も成していない俺たちが吐(いても単なる現実逃(避(じゃないか?
「かもな」
谷口はいつもの調子で馴(れ馴れしく俺の肩(に手を置き、
「ま、俺にでもスパっと解(る問題だってあるってこった。お前には涼宮が似合ってる。朝比奈さんとはさっぱりだ。そういうことでいいじゃねえか。な?」
何が「な?」だ。
俺は谷口の手の甲(をつねり上げ、
「それよりお前はどうなんだ。新しくコナをかける目当ての女はできたのか」
「そいつはおいおい考えるさ。なに、夏まではまだたっぷり時間がある。まずはゴールデンウイークだな。どっかの短期バイトに潜(り込んで出会いを求めるつもりだ。さらば与(えられん」
谷口はいかにもアホっぽく片手を天に伸(ばした。
「アホか」
俺の返しはこの上なく妥(当(なものだったであろう。他に形容詞がないくらいだ。お前、去年も同じこと言ってなかったか? その結果はどうだったよ。俺の記(憶(には果てしなく0が並んでいるような気がするんだがな。
まあいいさ、谷口。また同じクラスメイトになれてよかったと、機械化歩兵連隊の包囲戦に塹(壕(掘(り用のシャベルしか持ち合わせがない前線指揮官のような気分を追(認(しなくてすんだからな。谷口とのこんなバカな会話が、今の俺にはどれほど安らぐものだったか、ちょっと言葉では説明できないね。持つべきものは自分と同レベルの友人だ。もっとも、互(いにこいつほど愚(か者ではないと思っているだろうが、それでいいのさ。過去の自分がどれだけアホだったかは自分が一番よく知っているものだからだ。
もし知らない奴(がいたらそいつは空前の天才か、虚(栄(心で精神をよろう人の形をした象(亀(レベルの装(甲(を持つ生命体でしかないね。
ハルヒが古泉に何を告げに行ったのかは、昼休みに判明した。
弁当食った後にトイレに出向いた俺に、待ち伏(せでもしていたかのように壁(にもたれて立っていたSOS団副団長は、顔を合わせるや否(や、
「ご報告することが二つあります」
組んだ腕(の間から、指を二本出した古泉の顔は降水確率ゼロパーセントを確信した気象予報士のように澄(んでいた。
「一つはどちらかと言えば良いニュース、一つはどちらかと言うまでもなく良くも悪くもないニュースです」
そのどっちでもよさそうなほうから聞かせろ。
「涼宮さんから、部室待機の任を命じられました」
さて、ハルヒがお前に謹(慎(を申し渡(す理(屈(が見えないのだが。俺の知らないどこかの殿(中(で刃(傷(沙(汰(にでも及(んだのか。
古泉はさらりと受け流し、
「簡単に言うと留守番役です。放課後、ある程度の時間を部室で過ごすようにとの仰(せでした。あの部屋を無人にしておくわけにはいかないそうです」
なんでだ。本来の住人である長門がおらず、団長のハルヒもメイドな朝比奈さんもいない部室だぞ。利用価値などアブラゼミの脱(け殻(ほどもないはずだろう。
「おや、お忘れですか。部員募(集(の張り紙はいまだ健在にして、まだ撤(去(されていませんよ」
……それがあったか。
「新入生の中から目ざとくも物好きな生徒がSOS団を志向しないとも限りません。むしろ涼宮さんはそれこそを望んでいたようですからね。来なかったら来ないで、さぞ力をお落としになるでしょう。ただ、今はそれどころではなく、そちらの優先順位は下位に置かれているようですが」
長門がああなっていて、ハルヒは今朝もマンションまで勝手に上がり込むほど熱意を傾(けているんだ、新入団員どころじゃないだろ。
「まさしくそうです。しかし入団を希望する一年生が皆(無(でないという可能性を放(棄(してもいないんですね。団長らしい心配りではないですか。あなたと比べて、よほど冷静ですよ」
皮肉なんだとしたら、もっと偽(悪(的に言えよ。
「率(直(な感想を述べたまでですが、そうですね、あなたはあなたで正しいんです。正しすぎるが故(の、直情径行と申しますか。残念ながら、あなたの信条を否定する者は悪の手先か敵の間者との烙(印(を押されることになるでしょう。それほど、あなたは正当です」
褒(められている気がしないのは、日常がマイルドスマイル野(郎(の口が吐(く言葉だからなのかね。
俺の飢(えたメガネカイマンのような目を気にせず、古泉はチェロを奏(でるような声で、
「良い情報のほうもお伝えしましょう。涼宮さんがこれまで毎夜のように発生させていた閉(鎖(空間と《神人》ですが、これがパッタリと鳴りを潜(めました。予測数値から逆算した結果、当分の間の沈(静(化は保証されたと言っていいでしょう。僕も肩(の荷が一つ降ろせましたよ。特別勤務手当を貰(い続けていても寝(不(足(は解消されませんので、これは経過傾(向(として喜ぶべき事態です。あくまで私見にすぎませんが」
ハルヒが閉鎖空間を出しまくったのは佐々木と会ったあの日からなんだったよな。それがいきなり減少したってのは、佐々木以上に気がかりなことがハルヒ的にあったということだろう。
「言うまでもなく」と古泉は事務的に、「長門さんの一件です。長門さんが学校に登校できないという異常事態に、涼宮さんの意識はかかり切りになっているんですよ」
より以上に《神人》を暴れさせてもいいくらいだ。ハルヒが長門より佐々木に重きを置いているとは思えん。
古泉は得たりと言いたげに首(肯(して、
「こと個人に関してみるなら、涼宮さんは長門さんを心配してはいますが、苛(立(ってはいないからです。あなたが佐々木さんと必要以上にバイパスしない限り、かの少女はあくまであなたの過去の知人というだけのことですからね。比べて、長門さんはこれまでも今もこれからも、SOS団の大事な仲間なのですから、優先順位など比(較(にならないほどのレベルですよ」
そんなものとうに解(ってるさ。ハルヒは長門をけっこう気にしていた。それは冬、スキー場の一件でまざまざと教わっている。
俺は懐(古(的な記(憶(を呼び覚まし、吹雪(の夢(幻(館へ思いをはせた。あの時、誰(よりも倒(れた長門を気(遣(う行動に出ていたのはハルヒだった。団長としての使命? バカげている。ハルヒはそういうヤツなのだ。弱っている人間の横を決して素(通(りできやしない。ましてやそれが長い時をともに過ごした仲間ともなれば──。
俺をレトロメモリーズから呼び覚ましたのは、やはり感傷の念とは無(縁(そうな古泉の声だった。
「予定にありませんでしたが、個人的に第三の報告をしてよろしいでしょうか。率直に言わせてもらって、あなたは長門さんに思い入れを注ぎすぎです。冬以降、それが特に顕(著(ですね」
何か文句があるのか。ええ?
「いいえ。長門さんはそれだけ信(頼(に値(するかたですからね。あなたにとっては彼女が機能不全に陥(っている現状は受け入れがたいものでしょう。しかし、長門さんを気にするあまり周囲が見えなくなっては本(末(転(倒(です」
長門が枝葉末節だとでも言いたいんじゃないだろうな。
「それも、いいえです。考えてみてください。長門さんがあのような状態になっているのは、地球外生命体同士の不可解な都合によるものです。未来人と超(能力者グループは関(与(していないし、そもそもできません。しかし、その対立構造を第三者が利用することはできるでしょう」
トイレの前で話すような会話じゃないが、古泉は素知らぬ顔で、
「普(通(に考えて、未来人ならば過去の出来事を知っているはずです。ですから朝比奈さんは普通の未来人ではないんですよ。彼女の特(殊(性はまさにその一点にあります。その無知という属性にどんな意味が隠(されているのかは不明ですが、解らなくもありません。朝比奈さんよりさらに未来にいる者からすれば、過去人たる我々へのデコイとして使えますから」
そんなことを前にも言っていたな。
「いいですか。長門さんの不(可(抗(力(的な活動制(御(が、既(定(の事実だとあらかじめ解っていたとしたら、まさにそのタイミングで動くことができるのですよ。SOS団で最大の能力を誇(り、またあなたの信頼を勝ち得ており、あなたも長門さんの信頼を得ている。そして、あなたは朝比奈さんの敵対者を自分の敵だと認(識(するでしょうから、あなたが、ということは、つまり長門さんもです。未来人が最も介(入(してきてもらいたくないのは情報統合思念体のTFEI、中でも僕たちの愛すべき仲間である長門さん以外にありません」
長門が動けない今が、未来人野(郎(──藤原某(のチャンスだというわけか。
だが、何を企(んでいる?
「それは、解りません」
古泉は問いかけるように微笑(み、
「あなたが明らかにしてくれるのではないかと、淡(く期待しているのですがね」
いいだろう。お前の期待に添(えるかどうかは、それは今日の俺のふんばりにかかっているようだ。古泉、お前は部室で待ち人来たらずをやっていてくれればいい。ハルヒと朝比奈さんは長門の看病に全力を注ぐという仕事がある。
ならば俺は、俺の仕事をしてくるさ。
「これは報告ではなく、蓋(然(性の低い僕の推測でもあるのですが……」
古泉は言うべきかどうか、迷った表情で逡(巡(する様子だ。そのツラに真面(目(な雰(囲(気(を感じ取った俺は、顎(をしゃくって先を促(した。
「先ほど言った、《神人》の出現消失がちょっと気になっているのですよ。涼宮さんがそっちにかまける余(裕(がない、というのは一つの解ですが、我々は大きな誤解をしているのかもしれない」
というと、どういうことだ。消えたと思わせてどっかへ修行にでも出かけているのか? あの青光りしたダイダラボッチは。
「似たようなものかもしれません。《神人》は来(るべき何かに対して、今はじっと息を潜(め、エネルギーの蓄(積(に専念しているのではないか、という疑念をぬぐい去れないのです。僕だけのいきすぎた杞(憂(だろうとは思うのですが、予感といえば、そんな予感がしないでもないのでね」
気を溜(めてる状態だってことか。まさかな。あの青光りした化け物にそこまでの知能があるとは思えんな。少年向けマンガの修行モードじゃあるまいし。
「ええ。僕の気の回しすぎでしょう。どのみち、《神人》の出番が来たら僕たちも同時に召(還(されますから、その時がくればすぐに解りますよ」
古泉は微笑み、決めたポーズで優(雅(に前(髪(を弾(いた。
トイレ入り口で男二人の立ち話なんぞ長く続けたいものではなく、俺はさっさと古泉に別れを告げ、勇(躍(、教室に戻(った。
でもって、そこで忘れていた本来の目的を思い出し、再びトイレへと向かったわけだが、それがどうした。マヌケかという誹(りを甘んじて受けてもいいとも。
いくら俺でも、昼休みにトイレに行く時間くらいの余裕はあるのさ。
なくなったのは放課後で、それも佐々木たちと合流してからだった。
校舎中のスピーカーが本日の営業終(了(を伝えるチャイムを鳴らし終えるとほぼ同時に、ハルヒは鞄(を手中に収めて教室からすっ飛んで行った。目指すは三年生のたむろする辺り、朝比奈さんの教室だろう。
長門のマンション近くまでは俺もともに下校してもよかったが、このぶんでは俺の出る幕はなさそうだ。ハルヒの頭には寝(姿(の長門しか映っていないようだからな。
こと料理に関しては疑いようのない腕(の持ち主だし、介(護(好きらしきことは俺の経験上でも明らかだし、朝比奈さんとの見(目(麗(しきコンビでもあるし、日常方面の担当はこの頼(りがいのある団長に任せておいて無問題だろう。少なくとも長門の病状に空腹からくる何かが加わることはない。そして問題はそこにはないということこそが、俺がなんとかすべき問題だった。
さて誰(を締(め上げるべきだろう。情報統合思念体も天(蓋(領域とやらも俺の手の届かないところにいやがる。こういうときはパスカルの法則だ。どこかを押せばその圧力は確実に違(うどこかに届く。
後はつつき方だな。
久しぶりに一人で坂道を下っている最中、俺は努めて冷静になるよう意志を固めようと集中していた。宇宙人には話が通じない。未来人とは真(摯(に向き合って話し合えそうもない。橘京子くらいか。佐々木を通じてどうにかなりそうなのは。
ぞろぞろと帰路を急ぐ生徒たちに交じりながら、俺は部室に心を向けた。今(頃(、古泉が守(り人よろしく一人で時間を潰(していることだろう。あるいはハルヒのチラシを見て迷い込んだ一年生の相手でもしているか……。
団員がそれぞれ別行動をしていても、一同がいつかは必ず帰っている場所だ。ちゃんと保全していてくれよ、副団長。新入団員希望者が来たら丁(重(にお帰り願ってくれ。若人(の人生をあたら狂(わせてやることはないからな。
黙(々(と歩き続ける坂道はやたら長かった。普(段(の倍くらい時間がかかったんじゃないかと思えるほどの主観時間の後、俺は止めてあった愛チャリにまたがって北口駅へと漕(ぎ出(でる。佐々木との待ち合わせ時間までには余裕だが、根が貧(乏(性(なせいか意味もなく急いじまうね。どうして時間ってのはどこかに貯(蓄(しておけないのだろう。このへんの時間を朝に回せたら一日はもっと有意義になると思ってやまないぜ。
もっとも、俺はハルヒほど時間に厳しく当たることはない。あいつは毎日を愉(快(な思い出まみれにして永久に覚えておこうとする変態であるからして、そうそうアブノーマルではないつもりの俺は、目的地の周囲をぐるぐる走り回ることで無(為(な時間を消費し、約束の四時半十分前になって駅前に降りたった。すまんが自転車はそこらに止めさせていただく。この時間なら市の嘱(託(である撤(去(作業員が来ることもないであろう。
待つことしばし、駅から流れてくる人波の中から、ここいらではあまり見かけない制服を着た元同級生の緩(やかな微(笑(がこちらに流れてきた。すいすいとした歩き方はどこか見ていて気持ちがよい。見るからに性格のよさそうな雰(囲(気(を漂(わせているからに違いなく、俺はそれが真実であることを知っている。佐々木は俺の万倍もよくできた人間だった。
親友と呼ばれるのが申しわけなくなるほどのな。
「やぁ、キョン。待ったかい?」
そうでもない。時計の長針が真下を指すまでまだ数分ある。時間前に来てんのに罰(金(を科してくる女は一人で間に合っているさ。
佐々木はくっくっと目と口が綺(麗(な曲線を描(くような笑(みを発生させ、
「実際、待たせてしまったようだね。でも、お互(い様ということで手を打とうじゃないか。キミの浪(費(した時間は僕の主観時間とも一(致(するのだからね」
どういう意味だ?
「単純さ。実は僕も三十分近く前に着いた電車に乗っていたんだ。たまたま学校が早く終わってね。それで早めに帰ってきたのはいいが、三十分というのはどこかで潰すにしても半(端(な時間だろう。ただ待っているのも芸がないし、と考えていたら、キョン、キミが自転車で走っているのが見えた。何か考え深げな顔つきをしていたから声をかけるのは遠(慮(して、ただ眺(めさせてもらっていた。よく飽(きずに走っていられると感心したよ。そんなにサイクリングが好きなのかい?」
嫌(いになるわけなどあるものか。このチャリは長年苦楽を共にしてきた相棒だ。それに俺はじっとしているより身体(を動かしている方が頭は回るんだよ。テストの点が悪いのは机にへばり付かされているからだろうな。
「実技向きだね。意外と学者にも向いているかもしれない。うん、キミの言う通りだ。入浴や散歩中によく何かを思いつくのは、機械的な身体の動きに脳が退(屈(して他(のことを考える余地ができるからなんだ。身体を洗う作業なんて手順化されているから半分無意識でもできるだろう? 何もせず思考に熱中するよりも、よほど効率よく考えがまとまる。ルーチンワークは決して楽しいものではないが、行く先の決まった電車に乗っているからこそ風景を楽しむ精神的余(裕(も出るものさ。人によっては無為なだけな時間と感じるかもしれないが、タイムイズマネーな人生に真の幸福はないと僕は考えている」
裏付けを取る気にはならないが、もっともらしくはあった。
「似たようなことでね、キョン。僕は常にどこかに逃(げ道を用意することにしている。たとえどんなに大変な時でも、いざとなったらどうにでもできると考えるんだ。だから、ちょっとした冒(険(ができるのさ。ホラー映画やジェットコースターのようなものだよ。その時間は必ず終わるんだ。形があろうとなかろうと、この世に永遠のものはない」
今のところ、特に永遠など欲(していない俺は、佐々木のセリフを耳の半分で聞いていた。ここで長々と立ち話を続けていたら、自分が何のために長門のマンションをスルーして来たのか理由が埋(没(してしまいそうだ。
俺は周囲をうかがい、佐々木のツレたちと言うにははばかりがあるが他にどう呼んでいいのか決めきれない三人の姿がないことを確(認(し、
「あいつらはどこだ」
「もう来ている。喫(茶(店(で待っていると連(絡(があったよ。三十分も前に」
佐々木は隣(家(のおばさんに出がけの挨(拶(をするような口調で言うと、軽そうな鞄(を肩(にかけ直し、俺の顔を斜(め下から覗(き込む角度で頭を傾(け、これから高校野球のアルプススタンドまで母校の応(援(に行こうとしている女子高生のようなあっさりとした声(色(で、
「じゃ、行こうか」
もちろんだ。俺はそのためにここに来たのだからな。
それは俺自身の存在意義を賭(けた闘(いに向けての宣言でもあった。すべては世界の安(寧(のために。ハルヒの無意識ストレスを失(せさせ、古泉の寝(不(足(をともかくとした『機関』による暗(躍(の減少推進、さらに朝比奈さんの内面的懊(悩(を軽減し、そして長門の健康状態を復活させる。
すべては俺の口車にかかっていた。『機関』と対立して佐々木を神として奉(ろうとする見当違(いども。まったく行動指針の一定していない割に長門を寝込ませている何チャラ領域なる超(くだらねえ名(称(をつけられたE.T.のくそったれな元(締(め。わざわざ未来から来て仮面の下で笑っているような道(化(師(をやってる北(家(藤原氏の末(裔(みたいな歪(んだ唇(を持つ未来人。
ここが勝負の分かれ目、天(王(山(、関(ヶ(原(、赤(壁(の戦いであるのは自覚済みだ。俺は大いなる歴史の潮流の中にいるらしい。身体が二つあれば真(田(家みたいに分散配置するところだが、あいにく手持ちの肉体は一つしかない。腹をくくるべきだろう。
助(太刀(は誰(にも頼(めない。古泉は部室で留守番、ハルヒは長門部屋に直行し、朝比奈さんはここにいるはずの存在ではもともとない。朝比奈さん(大)による未来通信がとうとうなかったということは、今の朝比奈女(神(様には関(与(できない歴史的事実なのだ。もし万が一、さりげなく喜緑さんが介(入(してきたり、朝倉が再度の復活をしてきたところで、俺はそんなものを「いらん」の短くも感情のこもったセリフで排(除(する気満々だった。繰(り返す必要があるなら何度でも言ってやる。
ここは地球で、地球は俺たち地球人のものだ。
誰か一人に所有権が設定されているんじゃない。ましてやハルヒは地球連(邦(政府の最高評議会議長でもなんでもないのだ。
ハルヒに載(っかっている属性、それは県立北高の未認可組織、SOS団団長というもの以外のそれ以上でも以下でもないんだよ。
あいつの高校一年初期から変わらぬデータベースで、それが最も大きな内容証明だ。かつてハルヒは言った。
──こういうもんはやったもん勝ちなのよ!
改めて思ってやろう。ハルヒ、お前はスゲェよ。形を整える前に、まず形のとりようを宣言したんだからな。ましてや、その言葉通りに組織が結成されたとあっては、古泉が消極的に言ったハルヒ=神様論が信(憑(性を増して俺の心に突(き刺(さらんとするのも解(る話ではある。
信じるかどうかはまた別の話さ。
ただ信じるだけなら、教会で懺(悔(したり聖水を浴びたりしたことのない俺でさえ、いもしない神にすがりたくもなるというものだ。たまに賽(銭(を投げ込む近所のさびれた神社でもいい。盆(にお経を唱えに来る何宗何派なのかさっぱり解らん坊(さんでもいい。
拝むだけで物事がうまく進むなら、そんなに楽なことはなく、そうした結果、苦難の道がわずかでも軽減された記(憶(など、物心ついて以来皆(無(であるという経験を積み重ねている俺は、まだしも笠(子(地蔵を拝むことを推(奨(していた。他力による本願の結実など意味がない以上に、本人のためにもならない。目の前にある強固な壁(は、恩(讐(の彼方(にのごとく、自力でこつこつとでも切り崩(さなければならないのだ。
まずはその第一歩だ。長門が寝込んで九曜のみならず朝倉と喜緑さんまで出張ってきた。全員、地球という舞(台(で観客不在のバトルチックな寸劇を演じていやがる。唯(一(の客席に着いていたのが俺であり、見てしまった以上は黙(して語らずとはいかなかった。
その端(を発しているのが長門の体調不良となればなおさらで、ハルヒが我(慢(の限界に達するまでに、この手のコズミカルな事態を平和裏(に解消するのは俺の役目だ。
橘京子は言った。力を持つべき真なる人間は佐々木なのだと。
藤原は言った。力を持つ者など誰でもよかったのだと。
周防九曜は言った。興味のあるのは俺でもハルヒでもなく、情報統合思念体のインターフェイスにあると。
見事にバラバラだ。
あともう少し時間があったならな。あいつらは偽(SOS団として、越(後(のちりめんじゃこ屋を名乗りつつ諸国を漫(遊(するヒマを持つことができたのかもしれない。残念ながら今は泰(平(の江(戸(時代ではなく、高度情報化社会の現代だ。葵(の紋(所(にそうそう権力的価値があってたまるものか。
おまけに周囲の八方、どこを見(渡(してもまともな人種以外は俺のまっとうな味方とは言い難(いというシチュエーション、朝倉はナイフともども復活するし、喜緑さんは何がどう傾(いてもそれを親元に報告するだけ、九曜は俺が死んでも生きててもどっちでも面(白(いと思ってそうな機械人形で、未来人藤原はこの時間の何を知っているのか、いつも余(裕(の嘲(笑(を隠(そうとしない。少なからず必死さを覚えるのは橘京子のみで、それも察するに最小勢力だ。古泉指揮する『機関』に体(よく利用されるのが関の山だろう。
やはり、こいつしかいないのだ。
古泉にとって謎(の存在、朝比奈さん(大)にとっての時間的ジャンクション、長門にとっての進化の可能性の鍵(。
すなわち、それは俺だ。そして俺は自らが何者なのかまったく解っていない。多少特(殊(な学生生活を送ってる高校生だったってのは認めるところだが、かといって特別な人種でもないんだぜ。あの日ハルヒが俺の襟(首(をつかんで後ろの机に後頭部をぶつけるまで、俺はどこに出しても見苦しくない一(般(的普(遍(的な、一県立高校の生徒だったのだ。
何がどうなってこうなろうとしている。俺の向かう先はどこにある。ハルヒとともにどこまでも歩むか、それともどこかで宗(旨(替(えをすることになるのか。
それは俺と佐々木が向かっている馴(染(みの喫(茶(店(で決定されることになるだろう。
ここで質問だ。とっくに自らの道を切り開き、いったんはその道を邁(進(すべきだと決意したものの、実はもうちょっと楽な横道が発見されたとき、さてどちらを選(択(するか。
苦難に満ちた初志貫(徹(か、負担の少ない裏道か。
俺が突きつけられたのは、まさにそのような二(者(択(一(だった。