第四章

α─7


 月曜日という平日の第一日目に節目も何もあったものではなく、たいな休日を過ごしていた日曜のかんした状態が身体からだに残っているためか、学校から自宅へと至る道がやけに長く、歩行時間もまた永いように感じる。

 ハルヒたちと歩いていた下校のちゆうまではまだ気がまぎれてよかったが、別れて一人になるとたんにうらさびしいような心持ちになるのは、どうやらSOS団の面々といつしよにいるのが俺にとってオーソドックスモードになってしまっているからのようだ。とりたてて気を付けていたわけではないものの、すっかりしゆに交わってしまった現在の自分を何と表現すべきだろう。やぶをつついていたつもりが自分が棒だったとでも言うべきか。

「まあ」

 俺は足を止め、意味もなくり返ってみた。春の登下校路がいつもより明るく見える。それは放課後にやってきた入団希望者の一年生たちがやけにういういしく目にえていたからかもしれないし、単に日照的な気象条件のせいであったからかもしれない。

「どうだっていいことさ」

 この独り言もまったく無意味だ。たまに思うのだが、独り言ってのはだれかに聞かせてなんぼのものじゃないのかね。誰にも伝わらなかった言葉は発声練習以上のものではないだろうからな。そして俺には独り言をつぶやくクセなどないつもりだ。だから、今のセリフは自分に言い聞かせているものなのである。

 実際、ハルヒが朱色なんだとしたら俺はとっくの昔に赤く染まっちまっているわけで、今さら別の色のペンキを頭からかぶろうとは、たとえそんなことが可能だったとしてもゴルジ体の直径ほども思わんね。

 てなことを考えつつ、俺はそう本能のおもむくまま自宅へもどる作業を再開し、やらようやらという新年度に割り込んできたSOS団的イレギュラー因子たちのことも頭のすみに追いやって、自室にて夜をむかえ一日を終えることになるのは俺のごくナチュラルなタイムテーブルであり、当たり前だがつうにその通りになった。

 そんなわけで────。

 特筆すべき事は、今日のところはもうない。

 そのはずだ。



β─7


 がけから転がり落ちる石ころのような勢いで、というとさすがにちようだが、ハルヒが坂道を進む速度は競歩の世界選手権代表といい勝負だったと言える。

 ハルヒの後ろ姿からびる見えないつなに引っ張られるがごとく、俺といずみあささんも下校路を下り続け、ようやくの平地であるこうようえん駅前にたどり着いた時点ですっかり息が上がっていた。常にデオドラント状態の古泉でさえ、額のあせぬぐっているくらいだから程度が知れるだろう。朝比奈さんなんかひざに手を当ててふうふう言ってる。

 しかし、この女だけは放射性物質を体内で飼っているかのようなつかれ知らずで、

「なに休んでんのよ! ここまで来たんだから、後は走るわよ!」

 ながのマンションめがけて徒競走を始めた。

 これまた五輪級のスピードで、ハルヒについていけるのはげんえき生活ぜんせい期の実業団アスリートくらいだ。古泉を先行させ、俺はおくれがちな朝比奈さんのかばんを持って可能な限り全力の早足で後を追う。

「ひぃ。はふ」

 あしをもつれさせる朝比奈さんをづかいつつ、遅れてとうちやくした俺を、ハルヒはマンションのエントランスで待っていたが、全員がそろったのをかくにんしたしゆんかんにインターホンのボタンを押した。7・0・8、呼び出し。

 応答はそくだった。待っていたようなタイミングで、

『…………』

、あたし。みんなでおいに来たわ」

『…………』

 ふつっとインターホン通話が切れ、オートロックのマンションドアがゆっくりと開く。

 一階で停止していたエレベータに乗り込み、ハルヒは7Fを示すボタンを連打した。あまり広いとは言えないエレベータは四人も乗ればかなりぜまであり、朝比奈さんの息づかいがすぐ耳元で聞こえるほどだ。あとはかすかな機械の音。

 まるで人力かと思うほどノロノロとじようしようする箱の中で、ハルヒはずっと口元をひん曲げていた。げんそこねているわけではない。どんな表情をしていいのか迷ったとき、とりあえずこいつはおこったような顔を作るのだ。

 エレベータのとびらが七階で開くのを待ちかねたように、ハルヒはかたで風切り音を発生させつつ通路を進軍し、708号室のドアホンを連続プッシュした。

 室内の人物が内側で待機していたようなすみやかさでじようが外され、ゆるゆると鉄の扉が開かれていく。暖色系の室内灯を逆光にして、ひとかげげんかんさきに伸びている。

「…………」

 ドアのすきが形作ったけいの中に、ぽつねん、という感じで立っていたのはパジャマ姿の長門有希だった。

「起きてていいの?」

 ハルヒの問いに、長門はぼうようとしたひとみでうなずき、だなから人数分のスリッパを取り出そうとして、

「そんなのいいから」

 足だけでくついだハルヒに止められ、肩を押されて速やかにしんしつへと運ばれた。長門の部屋には俺や朝比奈さんだけでなく、全員が何度も来ているのでハルヒの頭にも間取りは当然入っている。俺は寝室に足を入れたことはなく、せいぜいリビングと客間の和室くらいだが、そんなこともどうでもよかった。

 本当にベッドしか置いてない寝室におじやした俺はとうの地に足をみ入れた感動を味わう前に、ハルヒにかしつけられている長門の様子をひたすらうかがった。

「…………」

 てんじようぎようする白い顔はるぎなく無表情で、熱を帯びているようには見えない。いつもとちがうところを探せば、かみぐせにまみれているくらいだ。常態より二ミリほどぶたが閉じていると俺の観察眼が告げていたが、少なくとも苦しげではなさそうである。しかし色気のないパジャマだな。

 俺は少しばかり平静を取りもどし、そうして初めて冷静さを欠いていたことに気づいた。

 ハルヒは長門の額に手を置いて、

「有希、ご飯食べた? 頭痛い?」

 長門の頭がまくらの上でさいに左右に動く。

「食べなきゃダメよ。一人暮らしなんだし、そんなことだと思ったわ。んー」

 余っている手を自分の額にも当て、

「ちょっと熱あるわね。こおりまくら、あったっけ?」

 長門の回答は否定の仕草だった。

「まあいいわ。後でれいきやくシート買ってきてあげる。それよりご飯ね。有希、冷蔵庫の中身と台所借りるわよ」

 ハルヒは長門の許可を待たず、立ち上がるのと歩き出すのと朝比奈さんのうでをつかむこうを同時におこない、

「あたし特製おかゆを作ってあげるわ。それともスペシャルなべきうどんがいい? どっちを食べても風邪かぜなんか一発よ。みくるちゃん、手伝って」

「はい……はいっ」

 心配そうに長門を見ていた朝比奈さんは何を動転したのか大量のスリッパをきしめていたが、何度もうなずきながらハルヒにともなわれ、しかしハルヒは部屋を出る寸前で立ち止まってバカみたいに立ちつくしている俺と古泉に、

「二人とも寝室から出てなさい。女の子が寝てるところをながめてていいもんじゃないわ」

「それでしたら」と古泉が、「僕が買い物を担当しましょう。冷却シートと風邪薬でいいでしょうか」

「ちょい待って。晩ご飯の用意もあるから、冷蔵庫の中身だいね。ネギあるかしらネギ。うん、お買い物メモ作るわ。来てちょうだい、古泉くん」

「かしこまりました」

 ぎわに古泉は俺の肩をたたくスレスレの仕草でれ、みような目配せとともに退室した。

 何をすることもなくっ立つ俺と、ベッドでれいあおけ体勢を作っている長門が残される。

 キッチンの方からハルヒが朝比奈さんと古泉に何やら指示を飛ばしている声が切れ切れに聞こえていた。「かんづめばっかじゃないの。これじゃ栄養がかたよるわ。おいしい野菜をどっさり食べないから体調がおかしくなるのよ。みくるちゃん、お米をといですいはん、ついでにそっちの土鍋用意して、それから古泉くん、卵とほうれん草と長ネギと……」

 こういう時のハルヒは役に立つ。団長だからと言いつつ、SOS団とはかかわりのない作業になるとあいつは一級品なんだ。料理の腕前が確かなのは俺の舌がよく知らされている。

 しかし、今は雑音に気を取られている場合ではなかった。

 まず、問おうか。

「長門」

「…………」

「具合はどうだ。俺の見たまんま、感じたまんまで合ってるか?」

「…………」

「声が出ないのか?」

「出る」

 長門はばくぜんと天井を眺め続けていたが、ゆるゆるととんごと上半身を起こした。起き上がりこぼしでもこれよりは左右に動くだろうと感じさせる、まるでアンダーテイカー。

「お前がそんなことになってるのは、九曜とやらのせいか」

「そうとは言い切れない」

 長門の石英をけんしたような目が、静かに俺をえる。

「でも、そうとも言える」

「九曜ってやつがやってんじゃないのか? その──」

 冬の一件、まぼろしやかたで長門がたおれたとき、あれはどういう仕組みだった? 吹雪ふぶきの山中を何時間も彷徨さまよい、ようやく見つけたあかりの元はだつしゆつ不能の洋館で、そこで長門はいつものえを失っていた。あれは……。

 長門がささやくようにつぶやき、ぼんやりした目を布団に落とした。

 こいつ、こんなに小さな身体からだをしていたっけ。一日目をはなしていただけなのに、ずいぶんとうすっぺらくなっているような印象を受ける。

 てんけいが走りけ、俺は気づく。

「いつからだ」

 俺は昨日の出来事を思い出しつつ、

「お前が熱でてなきゃならなかったのは、いつが始まりだ」

「土曜の夜」

 新年度第一回不思議たんさくパトロールのあった日だ。あの日中の長門は平熱にちがいなかった。

 まさか、俺が佐々木から中に電話を受けとったあたりじゃないだろうな。

「…………」

 長門は答えず、黄砂のようなばくとした目で俺の胸あたりを見つめている。

 考えてみればおかしかったんだ。昨日、日曜。俺は佐々木に呼ばれてたちばなきよう周防すおう九曜、ふじわらと会席したわけだが、そこに意外なちんにゆうしやがいた。

 みどりさん。俺たちの一コ上で、長門ともあさくらとも違う情報統合思念体のインターフェイス。これまで長門や生徒会長のかげかくれ、表に出てこなかった宇宙人作製による有機ヒューマノイド。あの日に限ってきつてんでアルバイトしていたなどという、そんなぐうぜんがあるわけはなかったんだ。喜緑さんは九曜のかんけ負っていたに違いない。何のために? 九曜が俺に何か宇宙的なイタズラをけないようにだろう。だが、本来ならそれは長門の役目だったはずだ。そして長門はあの場にいなかった。

 とつぱつ的ないかりがうずき、俺は自分のテンプルを一人クロスカウンターでち抜きたくなった。

 とんだボンクラだ。あん時にわかっておけよな、俺よ。

 長門が動けなくなっていたから、喜緑さんが出てきたんだ。長門のバックアップ、朝倉りようはもういない。ゆいいつ、俺たちの周りに存在するのはばつは違えど喜緑さんだけじゃないか。だから喫茶店に喜緑さんがいたんだ。つかず離れず、ウェイトレスにふんそうしてまで。

 長門の目は今までになくにぶい色をしていた。古い地層からり出したどうかいちんみたいなかがやきで、まるでしんせんさを欠いている。けずったばかりのえんぴつのようだった、あのこうたくのある黒いひとみが失われていた。

 エアコンのないこのしんしつはほとんど常温だ。なのに俺は精神的はだざむさを感じる。俺の身体ではなく、心が寒さを主張していた。

「どうすればお前を治してやれる」

 はん風邪かぜぐすりやハルヒ特製料理で収まるほど、ひとすじなわでいくものじゃない。いわば宇宙病原体だ。そんなもののワクチンや特効薬を精製できるのは長門くらいで、そして倒れているのは長門有希本人だった。

「…………」

 色の薄くなったくちびるざして十数秒、長門はようやく唇を動かし、

「わたしの状態回復はわたしの意思では決定されない。情報統合思念体が判断する」

 あの薄らバカげたお前の親玉か。一度俺の前に出てきやがれ。腹蔵なく話し合おうじゃないか。

「不可能。情報統合思念体は、」

 長門はぶたをさらに一ミリほど下げ、

「有機生命体と直接的にせつしよくできない……だから、わたしを作り出した……」

 くらり、とれたぐせ頭がぽすんとまくらもどった。

「おい」

「平気」

 改めて確信する。これはただの熱じゃない。長門をおそっているのは、地球上のどんな名医がドリームチームを結成してもかいせきすることができないたぐいのものなのだ。

 てんがい領域なるコズミックホラーどもからの情報こうげき。長門に負荷をかけることでばんのうの宇宙パワーをふうじている。

「九曜に話をつけたら何とかなるのか」

 それ以外に考えられない。長門が統合思念体の代表者なら、九曜は天蓋領域とやらのエージェントだ。長門ほどではないが言葉が通じる相手であるのは佐々木や橘京子たちから教わった。かなりの低次元だが、それでもあいつは日本語をしやべっていた。だったら、俺の話す言葉だって理解しやがるだろう。

「言葉は……」

 長門がうすっぺらいセリフのようないきのようなものをらし、

「言語は難しい。今のわたしは対有機生命体インターフェイスとの対話に向いていない。わたしには言語的コミュニケーション能力がけつじよしている」

 それは最初から解ってた。だがお前の無口さは今やなくてはならないものだぜ。俺にもハルヒにも。

「わたしは…………」

 しかし長門自身はとうめいじゆうみしめるような無表情で、

「わたしという個体に社交性機能がされていたら、」

 はくせきの表情はどこを切り取っても無限小に限りなく近い無でしかなかった。

「朝倉涼子のようなツールを持ち得た可能性はゼロではなかった。そのように作られなかった。確定されたインデックスにはあらがえない。わたしは活動を停止するまで……このままで……いる……」

 三ミリほど閉じられたそうぼうが無機質なてんじようを見つめていた。

 俺はかける言葉をなくす。

 もし長門と朝倉の立場と中身が入れわっていたらどうだっただろうか。無口ではい的な読書好きの委員長。かたや、人好きのするがおで世話焼きな唯一の文芸部員。

 あきらかなミスマッチだ。いや、その前に想像できない。俺は長門からナイフでされたり、そのじようきようで朝倉に助けられたかったりしなかった。あっちのが朝倉で、こっちにいたのが長門で心底よかったと信じて疑わない。すまんな朝倉。もう二度とカナダとやらから帰ってこなくていいぞ。俺には長門でじゆうぶんだ。長門とハルヒと朝比奈さん、この三人だけで幸せぶくろはいっぱいではち切れそうなんだ。

「教えてくれ、長門」

 ザンバラとしたまえがみの長門の顔に、かがみ込んで口を近づけた。

「俺はどうしたらいい。いや、どうしたらお前は元に戻るんだ」

「…………」

 答えはなかなかおとずれなかった。

 時間をかけて長門は俺に視線を向け、ようやく放った言葉ははなはだ短く、

「何も」

「何もって、お前……」

 俺が身を乗り出しかけたとき、

「こらぁっ! キョン、有希に何しようとしてんのよっ!」

 セーラーの上にエプロンをひっかけたハルヒがシャモジ片手におうちし、二等辺三角形のようになった目をいからせていた。

「さっさと手伝いなさいよ。古泉くんなんか、もう買い出しに行ってくれたわよ。あんたも役に立ちなさい。むしろあんたが一番働かないといけないんだからね。だってあんたはあたしたちの雑用係で、肉体労働といったらあんたでしょっ。お皿用意したりはしを洗ったり、色々することが目白押しよ! さあ来なさいったらっ」

 俺はハルヒに首根っこをつかまれ、水害時に使うのうのようにズルズルとキッチンまで引きずって連れて行かれた。

 いいとも。何だって手伝うさ。長門が回復するんであれば、どんな料理だって作ってやる。そうだな、可能性があるなら、ここ、今だ。ハルヒの作るようきようそうゲテモノ料理をもってすれば地球外生命体も青くなって裸足はだしげ出すかもしれない。それもよほどマズければの話だ。

 しかして俺はハルヒが作った料理にうっかりかんるいしそうになっても舌がきよぜつしたことはなかった。確実に言える。すまない、我を育てたまいし母よ、ハルヒの手料理は貴女あなたが作る晩飯よりうまい。

 こいつが子育てしているところなど想像もできないが、ハルヒの最もダイレクトな子孫が味覚障害におちいることだけはないだろう。



 システムキッチンに立つハルヒは、ぐつぐつえているなべの火加減を朝比奈さんに一任し、一息つくようにじやぐちに直接口をつけて水を飲んだ後、

「少し安心したわ。有希が学校休むなんて考えたこともなかったから、もっとタチの悪い風邪かぜかと思って不安だったのよ。熱もそんなにないし、消化のいいものを食べててたらだいじようそうね」

「病院に行くまでもなさそうですね」

 古泉がさりげなく口火を切った。長門に人間の医者が役立ちそうにないのはハルヒ以外全員が知っていることだが、言われてみれば話題に出さないのも不自然か。

「僕の知り合いにいい医師がいますから、いざとなれば良く効く薬を処方してもらいますよ」

 ハルヒはくちびるそでぬぐいながら、

「薬なんか気休めみたいなものよ。だから逆に気合いで治すわけ」

 高説を垂れ始めた。

「薬が苦いのはね、風邪のさいきんとかウイルスとかを『こんなマズいものが身体からだに入るんなら出ていこう』ってだまくらかすためなのよ」

「そ、そうだったんですかぁ?」

「そうよ」

 そんな自信満々な顔で朝比奈さんにうそくな。信じたらどうする。

 というツッコミを入れる気にもならず、俺は古泉とともにリビングの電気のついていないコタツに入ってまんぜんたる時間を過ごしていた。

 買い物から帰ってきた古泉はそくにお役ごめんを言いわたされ、最初から何の任務にもいていなかった俺はたなから食器を出して水洗いした程度のざつえきで許されて、朝比奈さんを助手にしたハルヒがテキパキと調理している姿をながめているのみである。

 それにしてもハルヒのぎわのよさは、わかってはいたが専業主婦顔負けだ。野菜を刻む包丁さばきも、ダシの取り方一つを見ても、よくぞここまで難なくこなすものだと感心するぜ。

「こんなの慣れたらだれだってできるわよ」

 ハルヒは言った。小皿で鍋汁を味見しつつ、

「あたしは小学生のときから料理してるんだもの。家族の誰よりもうまいわよ。あ、みくるちゃん、しようとって」

「はぁい」

 そういやハルヒが弁当を持ってくることはまれだが、オカンは作ってくれないのか?

「言えば作るでしょうし、たまに作りたがるけど、あたしが断ってんの。お弁当がいるときは自分でやるわ」

 ハルヒはじやつかん複雑な表情となり、

「こんなこと言うのもなんだけど、うちのおか……母親はね、ちょっと味オンチなのよ。舌がおかしいの。おまけに調味料を目分量で入れたり魚の焼き加減も適当なもんだから、同じ料理でも毎回味付けがちがうわけ。子供のころはそれがつうなのかと思ってて、おかげで学校の給食が一番おいしいものだと思ってたわ。けど、ためしに自分で作ってみたら、それがものすごくおいしかったのよね。あ、みくるちゃん、りんとって」

「はぁい」

「今は晩ご飯の半分はあたしが作ってるわ。母親は働きに出てるから、おたがい助かってるって寸法よ。実体験にまさる練習はないって本当ね。料理でも何でも、やっぱり日々のしようじんが必要なわけ。別に精進に精を出すことはないけど、やっているうちに自然とコツが飲み込めるものよ。みくるちゃん、これ味見してみて。どう?」

「はぁい。……あ、おいしい……!」

「でしょ? あたし特製オリジナル野菜スープよ。ビタミンはAからZまでたっぷり、スタミナばつぐんけんたい感や頭のモヤモヤなんてこれで土星の輪までひとっ飛び」

 適当なキャッチコピーを述べながら、ハルヒは深皿にスープの中身を移し始め、ついでに土鍋の火を止めてふたを開けた。たんに俺の腹が鳴る。しよくよくを増進させるいいかおりだ。

「こっちが有希専用のおかゆ。キョン、何よその物欲しそうな顔。あんたにはあげないわよ。それより有希の部屋まで運ぶの手伝いなさい。そのくらいしてもバチは当たらないでしょ」

 言われなくても今ならどんなめつほうこうでもする。できるのがこれくらいってのが情けなくてしかたがないだけだ。

 俺はハルヒのよそったぞうすいと野菜スープをぼんせ、しんちように長門のしんしつへ運んだ。朝比奈さんはきゆうと湯飲みを持って同行する。古泉はハルヒ指定の漢方薬と水の入ったコップを持って後に続き、ハルヒがまっ先に寝室のとびらを開いた。

「有希、できたわよ。おまたせ」

「…………」

 長門はゆっくり身を起こし、俺たち四人に物言わぬひとみを向けた。

「先に薬飲んじゃって。これ、食前用だから。あたしの経験から一番よく効く薬を選んできたわ。ご飯はその後ね。まだお代わりはあるから、どんどん食べなさい。お昼きなんでしょ?」

 ハルヒのポジティブなかいがいしさがひたすらまぶしい。このパワーのへんりんあたえられたなら、確かにちょこざいなかんぼうウイルスふぜいなどくつかずに家から出て行くだろう。まともな生存本能を持つ病原体なら必ずそうする。

「…………」

 長門はベッドから降りようとして、またもやハルヒに止められた。古泉が紙に包まれた薬とコップを渡し、長門は効果のほどを疑念視したように見つめてから、義務的にそれを飲む。

 ハルヒ的には手ずから長門の口元に料理を運びたかったようだが、長門はきよぜつして、ちやわんとレンゲを受け取った。一口すくって、食べる。

「…………」

 ろくにしやくせず、つるりと滋養強壮粥を飲み込む長門を、ハルヒは頭をき出すようにして見つめていた。ハルヒだけではなく、俺と朝比奈さんと古泉もだ。

「…………」

 長門は手にした茶碗をヨウ素液を垂らしたデンプンの変色を観察するような目で見ていたが、

「おいしい」

 小さな声でつぶやいた。

「そ。よかった。もっと食べなさい。じゃんじゃん食べなさい。これが野菜スープよ。本当はもっと込めばよかったんだけど、これでもじゆうぶん味がみ出ているはずよ」

 勢い込んでハルヒの突き出した皿を取り、長門はこくりと飲んで、

「おいしい」

「でしょ?」

 ハルヒはほうもなくうれしそうに、長門の食事風景を見守っていた。

 長門はちまちまと一定のリズムで食べ続けている。ハルヒの手料理に感動しているかどうかは定かではないが、大盛りのレトルトカレーを食べていたときに比べたら味わっているようにも見えたものの、本当は食欲のなさを無理矢理おさえ込んでいるのかもしれなかった。長門は出されたものは何でも食べる。食べる必要がなくてもそうする。

 何かいたたまれなかった。

 それは長門がベッドの上でパジャマ姿でいるからか、ハルヒの作った養生食をもくもくと食べているからか、それともこうして手をばせばれられるきよにいるというのに長門の存在感がいつもよりはくに見えるからなのか。

「すまん」

 俺はだれにともなく断りを入れ、

「ちょっと手洗いを借りる」

 誰の返答も待たずに寝室を出てトイレに入った。何ももよおしてなどいないが、これ以上長門の姿をながめていたら対象の定まらないものに対して意味なくいかりにかられそうだった。

 れいな便座カバーにこしを下ろし、俺はくちびるの内側をやわくむ。そして考える。

 当面、俺が大急ぎで問いつめなければならないヤツの最優先が誰かわかって大助かりだ。何をすりゃいいのかは不明だが、何をいても捨てては置けない。

 あの九曜とかいう女をどうにかしてやらんといかん。長門がたおれててあっちがピンピンしてるなんざ、まるっきり不公平だろう。どこかしらバランスがくずれている。許しがたい。まずは佐々木にれんらくをとって──。

「うわっ」

 ブレザーポケットのけいたい電話がいきなりしんどうし、俺は便座からずり落ちそうになった。

 この不意をつくグッドタイミング、相手は誰かとディスプレイを見ると、電話ではなくメールの着信だ。

「何だ?」

 送信者のアドレスが完全に文字化けしていた。誰だいったい。受信ボックスを開く。

「ああ?」

 いきなり画面がブラックアウトした。まさかウイルスか? やべ。入力していたデータがオシャカになってたら困るぞ。

 あわてていると、真っ暗な小型えきしようひだりうえすみで白いカーソルがまたたいているのを発見し、俺は目眩めまいに似たなつかしさを覚えた。いつだったか、こんな挙動をするモニタを俺は見たことがある。

 数秒も待たず、カーソルがすっと横に移動、無機質な文字を映しだす。このへんかん作業を無視して流れる出力方法にも、俺は見覚えがあった。


 yuki.n〉心配はいらない


 長門……。長門か。

 俺とハルヒがへい空間に閉じこめられたあの時と同じだ。ならば、こちらからも発信できるはずである。俺はボタンを乱雑にたたいた。心配すんなだと? そういうわけにいくか。返信だ返信。俺はまどろっこしくメールを打つ。

『おまえが熱を出したのはテンガイ領域とやらのしわざなんだろ』

 送信後、そくに着信があった。


 yuki.n〉そう


 どう考えても油断していたとしか言えず、俺は自分の頭をちつれいきやくした後バットでふんさいしたい気分だった。あれだアレ。橘京子と並んで座っていた着せえ人形チックな九曜が、あまりに無害に見えたせいだ。おまけに変な思いこみをしていたのも悪かった。あいつらが用のあるのは俺やハルヒだろう、と。

 ハルヒの力をどうにかしたいために俺にせつしよくしてきた、そうとだけ考えていた。俺は救いがたい軽はずみな思考の持ち主だ。古泉の言ったとおり、SOS団中で最もきよだいいしがきとなってくれそうなのが長門だったってのに、敵がまずき崩すとなればそこからだってのは事前的しゆんかん的に解りそうなもんじゃないか。


 yuki.n〉あなたとすずみやハルヒには手出しをさせない


 俺はイライラとボタンをプッシュしまくる。

 俺やハルヒのことはいいんだ。自分たちでなんとかするし、現に今もピンピンしてる。手出しされて倒れてんのはお前じゃないか。やめさせろ。

 送信。即、返信。


 yuki.n〉これはわたしの役目の一つ□□□□情報□□思念体は□□□域との交信□試


 文字列がふつっとれた。


『どうした』

 長門のしんしつと生活感あふれるトイレ、何メートルもはなれていない空間が果てしなく遠く、数秒というかんかくがとてつもなく長く感じる。


 yuki.n〉わたしの稼働???????僥儉儕?乕??偆?戝?暘??奧??偲???偵???偰???


 携帯がこわれたのかと思った。というか故障であって欲しい。


 yuki.n〉???????働乕????抜???偵??側?崋??側??偰??????????側??



 冷やあせき出してきた。長門が本物の電波を送ってくるなど前代未聞だ。それほど参っているのか? もしや治らないなんてことになれば……。

 目の前が暗くなりかけた。すべった手が携帯電話をトイレに落っことしても不思議ではなく、俺もまたそんな手を責めたりはしないだろう。

 だが、俺が電話を使い物にできなくする前に、モニタ上の文字列が回復した。


 yuki.n〉少しねむ


 またたく短い文章がぽつんとかび上がり、けるようにフェードアウトする。実に長門らしい、簡素なメッセージだった。

 もう一度言ってやる。なにが心配するなだ。できっか、そんなん。すまないが長門、俺はそれほど人間ができていないんだ。あまり俺を買いかぶってくれるな。

 トイレを飛び出た俺は、そのままの勢いで寝室にけ込んだ。

「長門!」

 俺の変調をきたした血相を見て、ハルヒは一瞬ぎょっとしてから、

「ちょっとキョン! 静かにしなさい。有希、今たところだから」

 しかめつらで俺をにらみ、

「ご飯食べたらころんと横になって、すぐに寝ちゃったわ」

 その言葉通り、長門は目を閉じてじっとしていた。こおりけにされたひめぎみのように、呼吸の気配すら感じさせずに。

「きっと安心したのよ。一人暮らしってこういうときはよくないわ。やっぱり人の気配がしないと、自分は一人で寝ててもほかの部屋にだれかがいて起きて何かしてるって感覚が大切なのよ。それってなんとなく微笑ほほえましいでしょ。誰でもいいから近くにいたほうが──」

 ハルヒのもっともなセリフに俺は背を向けた。聞いていたかったが、今はそんな気分ではなかった。頭ではなく身体からだが動く。

「キョン、どこに、」

 寝室をダッシュで出た俺はさらに加速してげんかんからもねて出た。一階に下りていたエレベータを待つ気にならず、階段を駆け下りる。エントランスをけて、マンションからおどり出た俺は、ただひたすらに走り出した。

 この時間、九曜がどこにいるのかは知らん。しかしあいつは光陽園女子の制服を着ていた。長門が北高に通っているように、あいつも真面まじに登校しているんだとしたら、そこにいるかもしれない。警備員がどんな制止をしようがかまわん。ホップステップジャンプで何とかする。職員室に駆け込んでいてもめい簿に住所がっているかどうかもわからん。それはそれで何とかしてやろうじゃないか。

 ともかく、じっとしていることだけは俺の身体が許さなかった。

 がみからあたえられた羽根を持つくついたのごとき足どりがゆるやかになったのは、うすのろな心肺機能しか持たない俺の息が切れてきたからに他ならず、そこはちょうどふみきりの前だった。

 一年近く前。ちょうどこの辺りで、俺はハルヒから長々とした独白を聞いた。

 呼吸を整えるべく、俺はしばらく深呼吸にぼつとうし、何気なく線路の向こうに視線をやって、そこで目と手足が固まる。

 周防九曜。

 長門と俺の外なる敵が、踏切をまたいだ対面に立っていた。最初からそこにいたように。

「──────」

 黒い制服、はばびろで長いかみ。そして異次元レベルの無表情。

 しやだんの警告灯がてんめつを開始する。同時に電車の接近を告げるかねの音がかぶさり、ものぐさそうにバーが下りてきた。

 なぜ、ここにいる。まるで…………俺を待っていたみたいじゃないか……。

 九曜は動かない。俺と踏切の幅ぶんのきよ感を保ち続け、足に根が生えたように立つ姿は段ボールでできた手製のロボットよりも人間味がなく見えた。

 カン、カン、カン──。

 遮断機が完全に下り、電車の接近を教える線路のしんどうと風切り音が大きくなる。俺は九曜をぎようして、九曜はどこを見ているのか知れたものではない。あり得ないタイミング。ぐうぜんじゃない。こいつは……

 こいつは俺を待っていたんだ。

 とつぷうき散らしてやって来た電車の車列が九曜の姿をおおかくした。駆け抜けていく車両はそれほど多くないにもかかわらず、ほとんど時間が止まったようにも思える。窓からのぞく乗客の顔の一つ一つが判別できるほどのきようれつさつかくは、次に強い予感へとつながる。

 電車が通り過ぎたとき、線路の向こうに九曜がいないのではないかという未来視のような予感だ。そしていつの間にか俺の背後に立っていて、ゆうれいじみた白い手をばしてくる……。

 まさしく錯覚だ。

 電車が去り、赤色警告灯が役目を果たして点滅を終えたとき、九曜の黒い姿は相変わらずバーの向こう側にあった。意外とりちなのか、演出効果をねらったりしないのか。そんな人間的な思考すらないのか。

 黒黄色の長い棒がきしみながら上がりきるのを待って、九曜は水の中を歩いているような調子で動き出した。こっちへ来る。髪やスカートをまったくらがせず歩く仕組みが知りたい。

 実体のないホログラムじみたひとかげは、俺と数メートルの地点で静止した。

 俺は垂らした手のこぶしにぎり、

「長門に何をしやがった」

 九曜のきよだいなビー玉のような目が俺をえている。本能が目を合わせるなと警告していた。これはたましいを吸い取る装置だ。そう思える。

 九曜のいろあざやかなくちびるが動いた。

「人間のことを知りたかった……いいえ」

 はなれていながら、まるで耳元でささやかれているような声が、

「そう、ちがった……知りたかったのは」

 首をかしげる。あまりにも人間くさい仕草にきよをつかれた。

「あなたのことだったわね……」

 なんだと?

「わたしと付き合う……?」

 何を言ってる?

「いいわよ……」

 手を伸ばしてくる。

 宇宙人。

 カン、カン、カン──

 ふみきりの信号が鳴り始めた。赤い光が二つ、こうに点滅を開始する。電車の接近を告げる警報……だが、俺にはまるで、それが暴走電車と正面から激突するよりも、もっとおそろしいモノへのけいしように感じられる。きんきゆう事態。これは何だ。どうなっているんだ。みやくらくがなさすぎた。なまりの人形にじよが命をき込んだような、この突然のへんぼうは何なんだ。

 九曜の手はなおも接近中だ。近づいてくる。人のカタチをした人でないものが。

 人類とわかり合えるはずもない、人知をちようえつした銀河の外からきた、見える正体不明だ、それは。はためくつばさのような髪を持つ女……。

 新月のように黒いひとみ。だめだ、見るな。視界が暗くなる。

 よせ──、と言いたい俺の口が動かない。情けなさすぎるぜ。ここまで来て……。

「よしなさい」

 九曜の手を止めたのは、俺以外の声だった。

 またしてもがくぜんとする。

 俺の真後ろから聞こえた声は、りんとした自信に満ち、そこはかとない明るさを持っていた。久しぶりに聞く声であり、もう一度聞きたかったとはお世辞にも言えない女の声が、

「それ以上の接近は許さないわ。だってね、」

 俺のうなじあたりで、そいつはとうめい感のある笑い声を短くあげ、

「この人間はわたしのものよ。あなたたちの手にわたすくらいなら、いっそこうするわ」

 俺のかたぐちから頭の横を通り、うでが伸びてきた。北高のながそでセーラー服に包まれた、その先にある手が見覚えのある物を握りしめている。きようあくな光を反射させる、えい

 逆手に握られたコンバットナイフのせんたんが、俺ののどもとを正確に狙っていた。

「わたしはどちらでもいいのよ」

 くすくすとしたみが、俺の後頭部を総毛立たせる。やくかと思えるような甘いかおりが大気に乗ってこうに届いた。こいつは、

「お前……」

 俺はようやく声をしぼり出す。

「…………朝倉か」

「ええ、そうよ。ほかだれかいる?」

 間違えようのない旧一年五組の同級生、朝倉涼子の声が背後からひびく。

「今の長門さんはお休みしているでしょ。だからわたしが出てきたの。何か気にすることがあるかしら」

 俺はり向けなかった。もし後ろにいる朝倉涼子の姿をかくにんしてしまったら、とんでもないことになるような気がしてならなかったからである。長門の影役にして情報統合思念体の急進派、かつて俺を二度殺そうとはかり、二度目は本格的に死にかけた。どちらも助かったのは長門のおかげで、ここに長門はいない。代わりに九曜がいる。バカげた話だ。とらおおかみ、どちらも俺の味方とはいいがたい。こんな二たく問題があってたまるか。

「エマージェンシーを受け取ったわ。だからわたしが現れたの。不思議なことじゃないでしょう?」

 甘い声が言う。

「だってわたしは長門さんのバックアップ。彼女が動けないなら、次はわたし。そのはずじゃなかった?」

 長門が動けない────。

 これはよほどのことなのだ。消された朝倉が復活するくらいに。さつじんに助力をあおがねばならないほどの。

「失礼ね。わたしは殺人鬼なんかじゃないわよ。だって、ほら。まだ、誰も、殺してないもの」

 じゃあナイフの切っ先をどけてくれ。うっかりつばも飲み込めない。

「それは無理ね。あちらの人がそこにいる限り、わたしは任務を忠実に守るわ」

 ナイフのつかにぎっていた人差し指がピンと立ち、棒立ちの九曜を示した。

しようてんがい領域の人型ターミナルさんだったかしら。興味があるわ。ここであなたが死んだら、あの人、どんな反応をするんでしょうね」

 ぞっとすることを世間話のように言いやがる。委員長だった時代と変わっていない。朝倉涼子以外の他にこんなヤツがいてたまるか。

 俺はばくに置き去りにされたもののように動けなかった。暑いのか寒いのかさえあいまいだ。ただ刃物のにぶかがやきは宇宙空間のように冷たく、九曜の瞳は地下四階のように静かだった。

 静かすぎだ。

 だしぬけに気づいた。てんめつしていた踏切の信号はどうなった? みみざわりなかねの音が消えているのはどうしたことだ。電車が来ないのは何故なぜだ。

 俺は目を見開いた。赤い信号が点灯したままになっている。しやだんのバーがななめにかしいだまま、はんに止まっていた。風がまったく吹いていない。線路に面した道路には誰一人、車一台通らないのは……これは……。


 世界が静止していた。


 彼方かなたの空で雲が身じろぎ一つせず、あろうことか飛行中のカラスが宙に固定されているのを見て、まっことおくればせながらに俺はさとった。

 空間がとうけつされている。

「どうなってるんだ、ここは……」

 ふふ、と朝倉が微笑ほほえむ声を出した。

じやが入って欲しくはないわ。これなら誰にも見られることはないじゃない? 空間の情報せいぎよはわたしの得意よ。誰もだつしゆつできない」

 わなか。しかし誰にとってのだ。

「さあ九曜さん」

 朝倉は楽しげに続けた。

「お話を始めましょうか。それとも戦う? いいのよ。わたしはあなたたちの手の内が見たいから。それもお仕事の一つ」

 九曜は表情なく立ちつくしていたが、

「……その人間を解放して。危険性が高い……あなたの殺意は本物……」

 ゆっくりとまばたきをした後、九曜の黒い目に初めて見る光がともった。

「あなたではない。わたしはあなたに興味を持たない。あなたは重要でない」

 わずかに感情のまじった九曜の声に、朝倉は、

「気分を害する答えね。いいわ、そっちがその気なら」

 ナイフを持っている手が残像をにじませて動いた。あまりにしゆんのことだったため俺の目に入らなかったのも当然だ。以前、一年五組の教室でおこなわれた長門との異次元バトルのちゆうにあった俺はすでに知ってる。見て取れたのは朝倉が手首のヒネリだけでナイフを投じ、そのきようがほとんど光速で九曜をおそったことくらいで、しかしながら見たものを脳が認識したのはさらに数秒後だった。

「……危険性が二段階じようしよう

 つぶやくように言った九曜は、顔面の直前でナイフの柄を握り止めていた。鼻先ギリギリにせまったナイフにおびえるようでもなく、俺から見ればまるで自分で顔面をそうとしているようにも思えるが、逆だ。

「……なおも上昇中」

 ナイフとそれを握る九曜のうでが細かくしんどうしている。なんてこった。朝倉が投げたナイフは止められてもなお九曜にき立とうとしている。ちよう高速の投げナイフに超高速で対応した九曜もバケモノだが、朝倉はさらにおそろしい。いったいどれだけの運動エネルギーがあのナイフにめられているんだろう。考えたくもない。

「やるわね」

 朝倉が感心したように、

「ほんの小手調べだったけど、算出した予想能力数値を上回る力を込めたのに。おもしろくなりそうだわ」

 背後の空気が何やらざわめく。り返ったら朝倉のかみへびのように持ち上がっているような気がして、俺は決して後ろを見ない。だが耳をふさぐことはできなかった。

「情報制御レンジ拡大。こうせい情報展開。ターミネートモードへシフト。とうがい対象のかいせきを目的とした限定空間内での局地的せんとう許可をしんせい

 朝倉の早口が、たぶんそのようなことを告げた、と思ったたん、周囲の光景が粉々にくだけ散った。風景画をモチーフにしたジグソーパズルをバラバラにしたように、すべてが一変し、その外側にあったものが姿を現した。うねったがく模様でめられた朝倉の情報制御空間、俺の前に二度目の登場だ。

「……危険性は

 九曜の白いだけだった顔色が、じよじよに血の通った色になり始めていた。その口調も、

「その人間からはなれて」

 顔の前でナイフをつかんだまま、それにしてはきんちよう感のない声だったが、

「あなたでは話にならない……」

 だんちがいにまともなセリフだった。九曜は暴れ馬のようなナイフをじりじりとした動きで顔の横に持っていく。が髪にれないだけのきよを保ち、首をかたむけて手を離した。

 朝倉の投げたナイフは、投じられた本来のせきを忠実に再現してミサイルのようにすっ飛んで行き──、

「──!」

 俺はたび、もうこうなったらしつこいまでにきようがくする。

 九曜の背後に第三のひとかげがちらりと小さく見えた──と脳がにんしきしたのもつかの間、朝倉印のナイフはその人物の顔面へ超マッハな音速えの速度で直進し、九曜がそうしたのをそっくりコピーしたかのように、顔面さつ直前ギリギリでにぎり止められていたのである。その曲芸師のような投げナイフつかみ取りを可能とした腕の持ち主は、

「喜緑さん」

 と、朝倉がてきした。

「こんなところまで、何の用?」

 セーラー服姿の喜緑さんは、幾何学空間の中でみようきあがっていた。たおやかなしようは生徒会長の横にいる状態のままだ。これだけおかしな世界で、まともな表情をしているのはいいが、それがかえっておかしかった。すまん、今の俺はまともな日本語が考えつかん。

 喜緑さんはナイフを握った手を返し、刃を朝倉に向けながら、

いつだつこうを停止させるために来ました。あなたの行動は統合思念体の総意に基づいていません」

「へえ? そうだった?」

「はい。許可できません」

「そう? いいわ」

 異常なまでに朝倉はあっさり同意し、

「それ、返してくれる?」

 喜緑さんが手を開き、ナイフが……今度は俺の動体視力でもついせき可能な速度でゆっくり空を飛んでもどってきた、と思えたのもわずかな間で、朝倉が短い早口で何かを唱えた。

 急加速したナイフが真っぐ九曜の後頭部を襲う。けられるスピードではなかった。まるでレーザーだ。

「?」

 俺は目を疑う。

 九曜の姿がいきなり平面になったかと思った次のしゆんかん、目の前からしようめつしたのだ。

 そうだな、そこに立っていたのは九曜の厚さ一ミリくらいの立て看板で、そいつを瞬間的に横向きにしたような消え方だった。そっちに目を引かれていたおかげで、俺がナイフの行き先に思い当たったのは、朝倉の手が順手でナイフを握って元通りの位置、俺の首にあたかも今からしましょうと言わんばかりのところにあるのを発見した段階でのことである。

 それを認識した直後、頭のてっぺんからあせき出した。

 朝倉が止めていなければ、飛来したこのぶつそうな刃物は間違いなく俺の息の根を止めていただろう。もはやこしけない。

 しんげな朝倉の声が、

「脱出した?」

 おいおい、俺に対してはノーコメントか。

「いいえ」

 喜緑さんがかぶりをり、のどさらすように上空を見た。

「居ます」

 九曜が目の前に降ってきた。

 たいてんじようからつるされたような直立不動の姿勢で着地した九曜は、片手で朝倉のナイフを握った手首をつかみ、もう片方で抜き手を作り、ノーモーションで放った。どこへ?

 俺の顔面に。

「!?」

 じようきようが変調しすぎてほとほとつかれる。しかし、この時の俺にゆうなど欠片かけらもなかった。何が起きていたのか理解したのはたいていが事後で、それが今だ。

 固体のような風が俺のまえがみはじき、とっさに目を閉じてしまう。不覚だ。あわてて目を見開いた俺は、次のような光景を目にした。

 九曜の指先が俺のけん数ミリ前で止まっているのは、朝倉が黒い制服の手首をつかんで固定しているおかげでしかない。一方はきようを持つ手を止め、もう片方で手刀を止めているという両すくみである。そして俺は、見た目は人間そのままだが中身はじんとも言うべき二人にはさまれてバカのようにっ立っているっていうわけだ。再び言う。情けない。

 俺は二度も朝倉に命を救われたことになるじゃないか? 待てよ? なんか話がおかしくなってないか?

「九曜さん」

 朝倉の声はからかうようだ。

「あなた、この人間をどうしたいの? 殺したいの? 生かしておきたいの?」

 九曜は俺をのうを見るような目のやいばで突き刺していたが、目を俺の頭の横……朝倉の顔があるであろう方向へ転じ、

「──設問の意味が不明。人間とは何か。殺すとは何か。生かすとは何か」

 声帯ではなくどこかにけられたスピーカーから聞こえるような声で、

「──情報統合思念体とは何か。答えよ」

 独り言のように言い、表情を──劇的にと言ってもいい──変化させた。

 微笑ほほえんだのだ。

 とんでもなくれいろうで美しいみだった。

 感情のはつというよりは高度なプログラムがかんぺきほうしたような笑顔だったが、こんな笑みを向けられた男はどんなぼくねんじんでも一瞬にしてひとれ病にかんする。えられたのは俺でこそだ。もし事情を知らないたにぐちあたりならそくついらくだ。俺は発すべき言葉のすべてを失い、朝倉は白々しく、

「いい顔するわね。九曜さん。でもここまでにしようよ。この人間の生死をふくめて、指一本だってあなたたちてんがい領域にゆずったりはしないわ」

 両手をたがいにこうそくしあったまま、九曜と朝倉が会話している。

 ──イッタイコイツラ、ナンノハナシヲシテイヤガルンダ。

 だんだん腹が立ってきた。

 ちなみに言っておくと、俺は本質的に温厚だ。どのくらいかというとだな、うちの妹が俺の大切にしていたマフラーをおもしろがってシャミセンの身体からだに巻き付けて遊んでいるとイヤがったシャミセンが本能のおもむくまま歯とつめでそのマフラーを単なる羊毛せん集合体に変えやがってくれた時にだ、そうほうにデコピン一発で許してやるくらいに低温性の性質なんだよ。

 その俺が頭に来るくらいだから相当だぞ。

 ああ。わかった。

 こんなとうへんぼくなシチュエーションでニコニコしているヤツは全員おかしい。そのしように、ここにいる三人は全員が地球産じゃない。

 まともなのは俺だけだ。だからこうしてビビっているんだ。悪いか。

「──天蓋領域とは何か」

 人工無能のような、それでいてごくじようの美を表現した笑顔が言うことには耳を貸さず、朝倉は宣言した。

こうせい情報によるしんしよくを開始」

 足元があわち始めた。ボコボコとつような音とあわせてまるで毒のぬまだ。次いで、朝倉のナイフがけつしよう化した砂のようにくずれる。さらに朝倉のつかむ九曜の手首が青白いモザイクに包まれた。細かい無数のヘックスがうでを伝ってすさまじい速度で広がっていく、と見えたのもいつしゆんで、九曜の姿が再び平面化したかと思うやいなや、ついには一本の線と化す。

 ゴワァァァァァン──

「く!?」

 耳元で特大のおんたたき合ったような金属音がひびき、俺は反射的に目を閉じた。しかし、そのおんきようも長くは続かず、あたかもきよじんの手が空中におんき消したようにちんもくする。

「…………」

 俺がおそる恐るぶたを開いたとき、九曜はどこにもいなかった。俺の前には喜緑さんしかいない。そして背後には恐るべき女の気配がいまだにする。

 目に痛いがく模様はいつそうされ、風景はもとの道路、線路沿いの道に常態回帰をげていたが、そんなことにいちいちおどろいたりはしなかった。

「今度こそげた?」

 後ろの朝倉の声に、前方の喜緑さんが答えた。

「あなたの構築した情報防護もうは未知の集束データによりとつされました。現在、マークのついせきおよび現空間の修復にかかっています」

「身体情報の物理的次元変動……。わたしたちとはちがたんまつ形態ね。しんせいが必要ないんだわ」

「彼女は対人類を専門としたコミュニケータではないようです。むしろ、わたしたちと対話するために作り出されたインタープリタプラットフォームである確率が高いと目されます。涼宮ハルヒさんに目をつけたのも、情報統合思念体の動きを探知、推測してのことでしょう」

「ただのターミナルとは思えないわ。わたしの攻性情報を復号せずにブレイクしたから」

「論理ばんが異なっていますから、めい的なダメージをあたえるには彼女と連結している領域のアルゴリズムをかいせきする必要があります」

「そっちはあなたに任せるわ、喜緑さん。これで少しはデータを取得できたでしょう? 思うのだけど、情報のまつしようは無理でもハード端末をかいする程度ならできそうね。欠片かけらを拾ってゆっくりプラットフォームの構造を解析するのがよさそうじゃない?」

「独断専行は許可できません」

「長門さんみたいなことを言うのね。でも、今の長門さんならわたしに賛成してくれるわ」

「わたしが中断させます。統合思念体は許可しません」

「あら」

 朝倉は、さも意外そうに、

「いつからあなたが代表者になったの?」

「インターフェイスとしてのパーソナルネーム長門有希は自律判断基準の一部をわたしにじようしました。それは彼女の提言によりおこなわれ、統合思念体中央意思によってしようにんされています。わたしの行動は統合思念体の総意に基づいています」

「総意ですって? のんびり屋で保守的な現状論者グループのこと? それともわたしが少数派だって言いたいのかしら」

「両方です」

 朝倉は持ち前の優等生ボイスをわらわせ、

「わたしの行動パターンは以前の所属のまま、まだ書きえられていないわよ」

「あなたはきんきゆうとしてのバックアップ要員です。わたしや長門有希の所属意思があなたの必要性を限定的に認めているだけです。危険性より有効性がわずかに上回ってるだけのこと」

「感謝したほうがいい? おかげでまた復活できたわ」

「情報結合解除の権限はわたしにたくされています」

「あなたと戦っても勝てないってわけね。いいわよ。わたしはわたしの意思に基づいて行動するだけだもの。長門さんが教えてくれたわ。自律進化の可能性がどこにあるのかをね。喜緑さん。あなたは知らないの? 彼女はすでに単なる端末じゃなくなっている。なら、わたしたちもそうなることができると思わない?」

 思わねーよ。俺には長門一人でじゆうぶんだ。九曜のこうげきを防いでくれたことは感謝する。だが、もう一度言うぞ。

 俺は長門でいい。朝倉、お前はらない。

「あんまりだわ」

 朝倉は明らかにおもしろがっている。

 これも言わせろ。お前ら、俺の身体からだしに何を好き勝手な意見こうかんをやってんだ。電波話を聞き続ける俺の身にもなれ。

「ですって、喜緑さん」

 それにだ、こんなところに出てきて俺にナイフをきつけるヒマがあったら長門のところに飯でも作りに行ってやれよ。前回のお前はそんなヤツだったぜ。

「悪い宇宙人のの手から助けてあげたのに、その言いぐさはどういうこと?」

 朝倉は微笑ほほえましげに、とりわけげんそこねているわけでもなさそうに言った。

「残念だけど、わたしはこの形態をけいぞく維持させることができないの。うらごとならそこのゆうしゆうなわたしたちのせんぱいさんと統合思念体主流派にお願い。長門さんにお願いしてみてくれる? 彼女がうんと言えば、わたしはカナダから帰ってくるかもしれないわよ」

 断る。どうやってもハルヒをなつとくさせられるだけの材料が見つからないからな。好きなだけ留学しててくれ。

「そう? 残念」

 ころころと朝倉は小波のような笑い声を出して、

「わたしの臨時活動はそろそろお開きね。また呼ぶといいわ。いつでも出てきてあげる。そちらのこわいお姉さんがしない限りね」

 呼んだ覚えなどなかったので俺がだまっていると、朝倉の声がさらに近くなった。

「わたしと長門さんは鏡の裏表のようなもの。あなたにはわかるかしら。喜緑さんより、わたしのほうが長門さんに近いのよ。今あなたの目の前にいるインターフェイスは何もしてくれないわ。ぼうかんするのが彼女の仕事なのだから」

 耳元に息がかかるようなポイントから、

「どうしてり向かないの? 別れのあいさつくらい、顔を見てしましょうよ」

 意地でも動いてなるものか。これで朝倉がまともな委員長スマイルでもかべていてみろ。俺はきよう心をなくしてしまうかもしれない。人好きのするがおにころりとだまされてしまうかもしれないだろう。俺から見たらお前も九曜も似たようなもんだ。

「最後まで失礼なのね。いいわ。それじゃあ、さようなら。またね」

 声が消え、気配がせても、俺はまだ動かずにいた。こうなりゃ根比べだ。

 喜緑さんも無言で俺を見つめている。その制服スカートのすそが風にはためいているな、と気づいたせつしやだんかねの音が復活して俺は五ミリほど飛び上がった。赤いてんめつと下りてくる通せん棒。はるか上空で雲は流れゆき、カラスは巣へと飛んでいく。

 かんきよう音が元にもどっていた。いつのまにか。時間が動いている。

 喜緑さんはゆるやかに歩き出し、俺との間にぜつみようかんかくを得たところで止まった。何か説明してくれるんじゃないかというほのかな期待は裏切られ、生徒会書記の笑みで形作られたくちびるはいつまで待っても動かない。

 根負けした。

「喜緑さん」

「はい」

「あいつは……あの九曜ってのは何なんです。性格がまるでつかめない。言動がいつかんしてないのは人間じゃないからですか」

てんがい領域の行動原理は理解不能です。自律意識があるのかどうか、いまだ論争の域をだつしていません。確とした生命のがいねんがいとうするのかいななのかすらも未知数なのです」

 口調のかたくるしさに、やたらとゲンナリする。

 ……はあ、そうっすか。それはお困りでしょう。俺も困ってます。でもっすね、とりあえずここで俺が言えることはですね、

「せめて長門の熱を下げてやってくれませんか」

「長門さんは特別任務にいています。天蓋領域との高次元段階におけるコミュニケーションがその任です」

「長門は込んで動けないんですよ。それのどこが任務だ」

 喜緑さんは、俺に微笑みかけつつ、その実、遠くを見るような目で、

「言語にたよらない高度な対話です。地球人類には本質的に不可能なミッションです。わたしたちは初めて彼と物理的なコンタクトをしているのです。間接的ではありますが、そう理解不全状態にあった過去のれきと比べてやく的進展です。長門さんは彼等とのちゆうけい機器の役割を果たしています。今もじつせん中です。見守ってあげてください」

「だからって、あいつ一人に押しつけることはないでしょうがっ」

 にビックリマークを付けないようにするのに大変な労苦を要する。俺は春風にそよぐ和製タンポポのようにたおやかな喜緑さんのひようぜんとしたそうぼうにガンを飛ばしつつ、

「あなたや朝倉ではダメなんですか?」

「彼等が最初にコンタクトをはかったのが長門さんです。涼宮さんと最も近接しているインターフェイス。わたしも当然のせんたくだと思います」

 その平然とした回答に、俺の頭は本格的に痛み出した。

 つまり長門のことはほうっておけというわけか。やはり情報統合思念体はくそったれろうの集まりだ。おそらく長門のような人材がけんされて、あいつと最初に出会えたのはせきみたいなものだったんだ。もし朝倉と長門の役割が逆だったら、もし文芸部にいたのが喜緑さんだったら、こんな現在はとうらいしてない。長門だったからだ。インターフェイスなどという単語は思う存分海王星どうまで飛んでいけ。ハルヒが希望したのは宇宙人ではなく、長門有希だったのだと思いたくなる。主流派だろうが急進派だろうがまとめてハルヒの前に出てくればいいんだ。そして長門とてんびんに乗ってみろ。ハルヒは長門を指差してこっちが重いと言うだろう。

「お許しください」

 喜緑さんはバカていねいなおをして、

「わたしにできることは多くありません。わたしに課せられた制限がいつだつはばむのです。それ以外のことでしたら、何なりと」

 おだやかな上級生は俺とすれちがざま、もう一度小さく頭を下げて駅方向へ歩いていった。後を追っても仕方のないことは解っている。俺の頭じゃ理解できないようなことを宇宙人同士がやってるってのも、何とか理解可能だが、これだけは言っておきたい。

「ここは地球だ。エイリアンたちの遊び場じゃないんだぜ」

 俺の声はいちじんの春風にまぎれて消えゆき、喜緑さんはすでに消えた後だった。

 ただ、

 ──おもしろいじようだんだわ…………とても。

 だれのものだったのかは聞き取れなかった。九曜か、朝倉か、喜緑さんのうちのいずれかの声だったのかすらもわからない。

 しかし、確かにどこかからそんな声がしたように思ったのは、俺のまくが耳たぶをかすめる風の音を人語と聞き間違ったせいではないだろう。



 けいたい電話はいつもまえれなく鳴り出すものだ。この時もそうだった。

 長門のマンションへ重い足を引きずっていた俺の歩みを止めたのは、ハルヒからの電話だ。

『んもう! あんた、どこ行ってんのよ。じやしんの呼び声でもいたの? いきなり出て行っちゃって、みくるちゃんがびっくりするじゃないの』

「ああ……すまん。近くにいるから、すぐ戻る」

『理由を言いなさい』

「……あれだよ、いの品を忘れてたと思い当たってな。ももかんでも買ってこようかと」

『いつの時代よ。フルーツセットにしなさい。んん、そんな大げさにしなくてもいいわ、有希、入院してんじゃないんだしさ。オレンジジュース買ってきて。じゆう百二十パーセントのやつ』

 どこに売ってるのか教えてくれたらな。

『じゃあ百パーセントでいいわ。それから三分以内にもどってくること。いいわねっ? オーバー』

 一方的にブツ切りされても腹は立たない。いつものことだ。こいつの一方向なストレートで単純気ままな行動は俺の精神を少しだけ安定させる効果がある。涼宮ハルヒかくあるべしってやつさ。こうでもなければSOS団とかいうバカ組織のトップは務まらないのだ。

 俺は駅近くのスーパーに入って夢遊病者のようにたなの間をさまよい歩き、ハルヒ指定のカリフォルニア産オレンジ百パーセントジュースのボトルをかかえて精算をすませて、我ながらむっつりとした足取りで長門マンションに戻った。オートロックにつき、エントランスで部屋を呼び出すとハルヒがインターホンに出てかいじようしてくれた。

 長門の部屋に戻った時にはハルヒの指令時間を二分ばかりオーバーしていたが、団長殿どのは何も言わず、俺の差し出したジュースのボトルを受け取ると、そばにいた朝比奈さんにバケツリレーして、

「冷蔵庫に入れておいて。お願いね、みくるちゃん」

「解りましたー」

 すっかり命令され慣れしている朝比奈さんがたたっとキッチンへけていく。何て愛らしい方だろう。何があってもしてあげないといけない人物ベスト3に入る仕草だった。

「長門は?」

「さっき少しだけ目を開けたけど、またねむったわ。だからしんしつに入っちゃダメよ。がおぎようするなんてあくしゆだもんね」

 ハルヒは口元を波線にしていたが、躊躇ためらったような連続四分きゆうの後、

「前にもこんなことがあったわね。有希が熱出して、あたしたちが看病するってやつ。あれはげんかくだったけど、なぜだか今でもリアルに思い出せるの」

 そりゃ、現実だったからな。集団さいみんとかかしたのはあくまで古泉によるでっち上げなウソっぱち理論に過ぎない。おいそれとハルヒに言えることではないので、俺は口をつぐむ。

 ハルヒは何かを念じるように、

「あの時と同じよね? つるさんのべつそうで、有希はすぐによくなったわ。あのしようじようはスキー場の寒さがこたえたのよ。今は春先で季節の変わり目だし、体調をくずすことだってよくあることだわよね。ふんしようの一種なのかも」

 自分に言い聞かせているようにも聞こえた。

「ああ。大したことはないさ。三日もすれば回復するだろ」

 どの口が言うのかとツッコミたいが、いかんせんそれは俺の口だ。古泉のすべらかに回る舌がうらやましい。どんな異常事態でも、あいつならもっともらしいデマカセ解を導き出すであろうからな。ゆくゆくはえん大王の世話になるにちがいない。

 閉じた寝室のドアにまるでキープアウトのテープがられているように見え、そのままどおりしてリビングに来た。

 コタツ机の中に長いあしっ込んでいた古泉が、ちらりと俺に視線をし、

「どちらへ?」

へい空間なみにしみったれた所まで」

「そのようですね」

 古泉はコタツテーブルにりようひじをつき、

「周防九曜と喜緑さんの姿が観測できたと報告がありました」フローリングのゆかに置いてあった自分の携帯電話を差し、「それもいつしゆんだったようですが、あなたのその顔色では、ただのかいこうではなかったようですね」

「ああ」

 だれが味方で敵なのかわからなくなってきた。宇宙人どもの目的が完全に理解不能だ。九曜も朝倉も喜緑さんも、人間の姿をしているだけの、あれはバケモンだ。人間はたまにとつぴようもないことをするヤツがでてくるが、それだって何を考えていたのか推測することはできる。しかしモンスターの思念は読めない。行動パターンがデタラメすぎて、まるでショボイRPGのNPCみたいに感じるぜ。バランスを無視したパラメータを持っているからなおさらい。

「解決策はないのかよ」

「こちらとしてもじんりよくしますよ。橘京子をつつけば何かでてくるかもしれませんが、推測するに期待うすですね。彼女たちの一派と長門さんのこの症状は無関係に等しい。橘京子たちは手を組む相手を間違えました。周防九曜は話の通じる相手ではありません。統合思念体にも解らない存在を人類が理解しようというほうが暴挙です」

 では未来人ならどうだ。藤原とかいうちようイヤミ男は、少なくとも九曜におそれをいだいているようには見えなかった。くそ、あいつにたのもしさを感じてどうする。藤原の目的も不明のままなんだ。

「単なる涼宮さんの観察が目的でないことは確かですね。それはどちらの未来人にも言えることです。この場にいる朝比奈さんには知らされていないのでしょうが」

 古泉の目が平行移動し、キッチンで洗い物にいそしむ朝比奈さんをとらえた。そのとなりでハルヒもまたいそがしそうな立ちいで、スープなべの中身を容器に移しえたり、具材の余りをタッパーにめたりしていたが、

「決めた。有希がよくなるまで晩ご飯作りに来ることにするから。あたしが勝手にそうするんだからね。たとえ有希がいやだと言っても絶対来るから」

 独り言にしては声量豊か過ぎる声で言い、誰の同意も求めなかった。

 お前は銀河で一番自分勝手な女さ。その特性、変わってくれるなよ。



 どこからか合いかぎを見つけ出したハルヒが、それで長門の部屋とびらじようし、砂金のつぶをしまい込むようにスカートのポケットにすべり込ませる。長門の眠る708号室を後にした俺たちは、長門のマンション前で解散することになった。

「しばらくSOS団は活動休止にするわ」

 ハルヒはマンションを見上げ、ゆうやみに染まった空におこったような目を注ぎながら、

「有希が学校に来るようになるまで、みんな部室に来なくていいわ。来るのはここ。有希んとこ。みくるちゃん、明日も頼むわよ」

「はいっ、もちろん!」

 こくこくうなずく朝比奈さんのしんな従順さにはるいせんゆるみそうになった。ヤバい。

 ハルヒと朝比奈さんはそつせんして長門の看病にあたる心づもりのようだ。ここで団長の務めだからなんとかとくつ付けしないのがハルヒらしい。

 俺にもできることがあるはずだ。いや、俺にしかできないことだ。

 一刻も早く家に帰り、れんらくを取らねばならないヤツがいる。

 新たに登場した関係者のうち、俺が電話番号を知っているのはそいつだけだった。



『すまなかったね、キョン。返信がおくれてしまった。じゆくの最中だったものでけいたいを切っていたんだ。留守電聞いたよ。明日の夕方、学校終わりだね。明日は塾もないので、そうだな、四時半になら北口駅前に着けるだろう。もちろんあの三人にも声をかけておくよ。けてもいいが、彼は確実に来るね。キミが僕に連絡してくるのを待っていたフシがある。キョン、キミはずいぶん立腹のようだが、今日明日中で頭を冷静にしておいたほうがいいだろうと僕は考えるね。まさに今のキミの反応が彼等の計画のいつかんかもしれないからさ。いや、僕は知らないよ。でも、僕がしゆぼうしやならそうするだろうと考えた結果さ。うん、では明日。おやすみ、親友』

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