α─7
月曜日という平日の第一日目に節目も何もあったものではなく、怠惰(な休日を過ごしていた日曜の弛(緩(した状態が身体(に残っているためか、学校から自宅へと至る道がやけに長く、歩行時間もまた永いように感じる。
ハルヒたちと歩いていた下校の途(中(まではまだ気が紛(れてよかったが、別れて一人になると途(端(にうら寂(しいような心持ちになるのは、どうやらSOS団の面々と一(緒(にいるのが俺にとってオーソドックスモードになってしまっているからのようだ。とりたてて気を付けていたわけではないものの、すっかり朱(に交わってしまった現在の自分を何と表現すべきだろう。藪(をつついていたつもりが自分が棒だったとでも言うべきか。
「まあ」
俺は足を止め、意味もなく振(り返ってみた。春の登下校路がいつもより明るく見える。それは放課後にやってきた入団希望者の一年生たちがやけに初(々(しく目に映(えていたからかもしれないし、単に日照的な気象条件のせいであったからかもしれない。
「どうだっていいことさ」
この独り言もまったく無意味だ。たまに思うのだが、独り言ってのは誰(かに聞かせてなんぼのものじゃないのかね。誰にも伝わらなかった言葉は発声練習以上のものではないだろうからな。そして俺には独り言を呟(くクセなどないつもりだ。だから、今のセリフは自分に言い聞かせているものなのである。
実際、ハルヒが朱色なんだとしたら俺はとっくの昔に赤く染まっちまっているわけで、今さら別の色のペンキを頭からかぶろうとは、たとえそんなことが可能だったとしてもゴルジ体の直径ほども思わんね。
てなことを考えつつ、俺は帰(巣(本能のおもむくまま自宅へ戻(る作業を再開し、佐(々(木(やら九(曜(やらという新年度に割り込んできたSOS団的イレギュラー因子たちのことも頭の隅(に追いやって、自室にて夜を迎(え一日を終えることになるのは俺のごくナチュラルなタイムテーブルであり、当たり前だが普(通(にその通りになった。
そんなわけで────。
特筆すべき事は、今日のところはもうない。
そのはずだ。
β─7
崖(から転がり落ちる石ころのような勢いで、というとさすがに誇(張(だが、ハルヒが坂道を進む速度は競歩の世界選手権代表といい勝負だったと言える。
ハルヒの後ろ姿から伸(びる見えない綱(に引っ張られるがごとく、俺と古(泉(、朝(比(奈(さんも下校路を下り続け、ようやくの平地である光(陽(園(駅前にたどり着いた時点ですっかり息が上がっていた。常にデオドラント状態の古泉でさえ、額の汗(を拭(っているくらいだから程度が知れるだろう。朝比奈さんなんか膝(に手を当ててふうふう言ってる。
しかし、この女だけは放射性物質を体内で飼っているかのような疲(れ知らずで、
「なに休んでんのよ! ここまで来たんだから、後は走るわよ!」
長(門(のマンションめがけて徒競走を始めた。
これまた五輪級のスピードで、ハルヒについていけるのは現(役(生活全(盛(期の実業団アスリートくらいだ。古泉を先行させ、俺は遅(れがちな朝比奈さんの鞄(を持って可能な限り全力の早足で後を追う。
「ひぃ。はふ」
脚(をもつれさせる朝比奈さんを気(遣(いつつ、遅れて到(着(した俺を、ハルヒはマンションのエントランスで待っていたが、全員が揃(ったのを確(認(した瞬(間(にインターホンのボタンを押した。7・0・8、呼び出し。
応答は即(だった。待っていたようなタイミングで、
『…………』
「有(希(、あたし。みんなでお見(舞(いに来たわ」
『…………』
ふつっとインターホン通話が切れ、オートロックのマンションドアがゆっくりと開く。
一階で停止していたエレベータに乗り込み、ハルヒは7Fを示すボタンを連打した。あまり広いとは言えないエレベータは四人も乗ればかなり手(狭(であり、朝比奈さんの息づかいがすぐ耳元で聞こえるほどだ。あとはかすかな機械の音。
まるで人力かと思うほどノロノロと上(昇(する箱の中で、ハルヒはずっと口元をひん曲げていた。機(嫌(を損(ねているわけではない。どんな表情をしていいのか迷ったとき、とりあえずこいつは怒(ったような顔を作るのだ。
エレベータの扉(が七階で開くのを待ちかねたように、ハルヒは肩(で風切り音を発生させつつ通路を進軍し、708号室のドアホンを連続プッシュした。
室内の人物が内側で待機していたような速(やかさで施(錠(が外され、ゆるゆると鉄の扉が開かれていく。暖色系の室内灯を逆光にして、人(影(が玄(関(先(に伸びている。
「…………」
ドアの隙(間(が形作った矩(形(の中に、ぽつねん、という感じで立っていたのはパジャマ姿の長門有希だった。
「起きてていいの?」
ハルヒの問いに、長門は茫(洋(とした瞳(でうなずき、戸(棚(から人数分のスリッパを取り出そうとして、
「そんなのいいから」
足だけで靴(を脱(いだハルヒに止められ、肩を押されて速やかに寝(室(へと運ばれた。長門の部屋には俺や朝比奈さんだけでなく、全員が何度も来ているのでハルヒの頭にも間取りは当然入っている。俺は寝室に足を入れたことはなく、せいぜいリビングと客間の和室くらいだが、そんなこともどうでもよかった。
本当にベッドしか置いてない寝室にお邪(魔(した俺は未(踏(の地に足を踏(み入れた感動を味わう前に、ハルヒに寝(かしつけられている長門の様子をひたすらうかがった。
「…………」
天(井(を凝(視(する白い顔は揺(るぎなく無表情で、熱を帯びているようには見えない。いつもと違(うところを探せば、髪(が寝(癖(にまみれているくらいだ。常態より二ミリほど目(蓋(が閉じていると俺の観察眼が告げていたが、少なくとも苦しげではなさそうである。しかし色気のないパジャマだな。
俺は少しばかり平静を取り戻(し、そうして初めて冷静さを欠いていたことに気づいた。
ハルヒは長門の額に手を置いて、
「有希、ご飯食べた? 頭痛い?」
長門の頭が枕(の上で微(細(に左右に動く。
「食べなきゃダメよ。一人暮らしなんだし、そんなことだと思ったわ。んー」
余っている手を自分の額にも当て、
「ちょっと熱あるわね。氷(枕(、あったっけ?」
長門の回答は否定の仕草だった。
「まあいいわ。後で冷(却(シート買ってきてあげる。それよりご飯ね。有希、冷蔵庫の中身と台所借りるわよ」
ハルヒは長門の許可を待たず、立ち上がるのと歩き出すのと朝比奈さんの腕(をつかむ行(為(を同時におこない、
「あたし特製おかゆを作ってあげるわ。それともスペシャル鍋(焼(きうどんがいい? どっちを食べても風邪(なんか一発よ。みくるちゃん、手伝って」
「はい……はいっ」
心配そうに長門を見ていた朝比奈さんは何を動転したのか大量のスリッパを抱(きしめていたが、何度もうなずきながらハルヒに伴(われ、しかしハルヒは部屋を出る寸前で立ち止まってバカみたいに立ちつくしている俺と古泉に、
「二人とも寝室から出てなさい。女の子が寝てるところを眺(めてていいもんじゃないわ」
「それでしたら」と古泉が、「僕が買い物を担当しましょう。冷却シートと風邪薬でいいでしょうか」
「ちょい待って。晩ご飯の用意もあるから、冷蔵庫の中身次(第(ね。ネギあるかしらネギ。うん、お買い物メモ作るわ。来てちょうだい、古泉くん」
「かしこまりました」
出(際(に古泉は俺の肩を叩(くスレスレの仕草で触(れ、妙(な目配せとともに退室した。
何をすることもなく突(っ立つ俺と、ベッドで綺(麗(に仰(向(け体勢を作っている長門が残される。
キッチンの方からハルヒが朝比奈さんと古泉に何やら指示を飛ばしている声が切れ切れに聞こえていた。「缶(詰(ばっかじゃないの。これじゃ栄養が偏(るわ。おいしい野菜をどっさり食べないから体調がおかしくなるのよ。みくるちゃん、お米をといで炊(飯(器(、ついでにそっちの土鍋用意して、それから古泉くん、卵とほうれん草と長ネギと……」
こういう時のハルヒは役に立つ。団長だからと言いつつ、SOS団とは関(わりのない作業になるとあいつは一級品なんだ。料理の腕前が確かなのは俺の舌がよく知らされている。
しかし、今は雑音に気を取られている場合ではなかった。
まず、問おうか。
「長門」
「…………」
「具合はどうだ。俺の見たまんま、感じたまんまで合ってるか?」
「…………」
「声が出ないのか?」
「出る」
長門は漠(然(と天井を眺め続けていたが、ゆるゆると掛(け布(団(ごと上半身を起こした。起き上がりこぼしでもこれよりは左右に動くだろうと感じさせる、まるでアンダーテイカー。
「お前がそんなことになってるのは、九曜とやらのせいか」
「そうとは言い切れない」
長門の石英を研(磨(したような目が、静かに俺を見(据(える。
「でも、そうとも言える」
「九曜ってやつがやってんじゃないのか? その──」
冬の一件、幻(の館(で長門が倒(れたとき、あれはどういう仕組みだった? 吹雪(の山中を何時間も彷徨(い、ようやく見つけた灯(りの元は脱(出(不能の洋館で、そこで長門はいつもの冴(えを失っていた。あれは……。
「負(荷(」
長門が囁(くように呟(き、ぼんやりした目を布団に落とした。
こいつ、こんなに小さな身体(をしていたっけ。一日目を離(していただけなのに、ずいぶんと薄(っぺらくなっているような印象を受ける。
天(啓(が走り抜(け、俺は気づく。
「いつからだ」
俺は昨日の出来事を思い出しつつ、
「お前が熱で寝(てなきゃならなかったのは、いつが始まりだ」
「土曜の夜」
新年度第一回不思議探(索(パトロールのあった日だ。あの日中の長門は平熱に違(いなかった。
まさか、俺が佐々木から風(呂(中に電話を受けとったあたりじゃないだろうな。
「…………」
長門は答えず、黄砂のような漠(とした目で俺の胸あたりを見つめている。
考えてみればおかしかったんだ。昨日、日曜。俺は佐々木に呼ばれて橘(京(子(、周防(九曜、藤(原(と会席したわけだが、そこに意外な闖(入(者(がいた。
喜(緑(江(美(里(さん。俺たちの一コ上で、長門とも朝(倉(とも違う情報統合思念体のインターフェイス。これまで長門や生徒会長の陰(に隠(れ、表に出てこなかった宇宙人作製による有機ヒューマノイド。あの日に限って喫(茶(店(でアルバイトしていたなどという、そんな偶(然(があるわけはなかったんだ。喜緑さんは九曜の監(視(を請(け負っていたに違いない。何のために? 九曜が俺に何か宇宙的なイタズラを仕(掛(けないようにだろう。だが、本来ならそれは長門の役目だったはずだ。そして長門はあの場にいなかった。
突(発(的な怒(りが渦(巻(き、俺は自分のテンプルを一人クロスカウンターで撃(ち抜きたくなった。
とんだボンクラだ。あん時に解(っておけよな、俺よ。
長門が動けなくなっていたから、喜緑さんが出てきたんだ。長門のバックアップ、朝倉涼(子(はもういない。唯(一(、俺たちの周りに存在するのは派(閥(は違えど喜緑さんだけじゃないか。だから喫茶店に喜緑さんがいたんだ。つかず離れず、ウェイトレスに扮(装(してまで。
長門の目は今までになく鈍(い色をしていた。古い地層から掘(り出した和(同(開(珎(みたいな輝(きで、まるで新(鮮(さを欠いている。削(ったばかりの鉛(筆(のようだった、あの光(沢(のある黒い瞳(が失われていた。
エアコンのないこの寝(室(はほとんど常温だ。なのに俺は精神的肌(寒(さを感じる。俺の身体ではなく、心が寒さを主張していた。
「どうすればお前を治してやれる」
市(販(の風邪(薬(やハルヒ特製料理で収まるほど、一(筋(縄(でいくものじゃない。いわば宇宙病原体だ。そんなもののワクチンや特効薬を精製できるのは長門くらいで、そして倒れているのは長門有希本人だった。
「…………」
色の薄くなった唇(を閉(ざして十数秒、長門はようやく唇を動かし、
「わたしの状態回復はわたしの意思では決定されない。情報統合思念体が判断する」
あの薄らバカげたお前の親玉か。一度俺の前に出てきやがれ。腹蔵なく話し合おうじゃないか。
「不可能。情報統合思念体は、」
長門は目(蓋(をさらに一ミリほど下げ、
「有機生命体と直接的に接(触(できない……だから、わたしを作り出した……」
くらり、と揺(れた寝(癖(頭がぽすんと枕(に舞(い戻(った。
「おい」
「平気」
改めて確信する。これはただの熱じゃない。長門を襲(っているのは、地球上のどんな名医がドリームチームを結成しても解(析(することができないたぐいのものなのだ。
天(蓋(領域なるコズミックホラーどもからの情報攻(撃(。長門に負荷をかけることで万(能(の宇宙パワーを封(じている。
「九曜に話をつけたら何とかなるのか」
それ以外に考えられない。長門が統合思念体の代表者なら、九曜は天蓋領域とやらのエージェントだ。長門ほどではないが言葉が通じる相手であるのは佐々木や橘京子たちから教わった。かなりの低次元だが、それでもあいつは日本語を喋(っていた。だったら、俺の話す言葉だって理解しやがるだろう。
「言葉は……」
長門が薄(っぺらいセリフのような吐(息(のようなものを漏(らし、
「言語は難しい。今のわたしは対有機生命体インターフェイスとの対話に向いていない。わたしには言語的コミュニケーション能力が欠(如(している」
それは最初から解ってた。だがお前の無口さは今やなくてはならないものだぜ。俺にもハルヒにも。
「わたしは…………」
しかし長門自身は透(明(な苦(渋(を嚙(みしめるような無表情で、
「わたしという個体に社交性機能が付(与(されていたら、」
白(皙(の表情はどこを切り取っても無限小に限りなく近い無でしかなかった。
「朝倉涼子のようなツールを持ち得た可能性はゼロではなかった。そのように作られなかった。確定されたインデックスには抗(えない。わたしは活動を停止するまで……このままで……いる……」
三ミリほど閉じられた双(眸(が無機質な天(井(を見つめていた。
俺はかける言葉をなくす。
もし長門と朝倉の立場と中身が入れ替(わっていたらどうだっただろうか。無口で排(他(的な読書好きの委員長。かたや、人好きのする笑(顔(で世話焼きな唯一の文芸部員。
あきらかなミスマッチだ。いや、その前に想像できない。俺は長門からナイフで刺(されたり、その状(況(下(で朝倉に助けられたかったりしなかった。あっちのが朝倉で、こっちにいたのが長門で心底よかったと信じて疑わない。すまんな朝倉。もう二度とカナダとやらから帰ってこなくていいぞ。俺には長門で充(分(だ。長門とハルヒと朝比奈さん、この三人だけで幸せ袋(はいっぱいではち切れそうなんだ。
「教えてくれ、長門」
ザンバラとした前(髪(の長門の顔に、屈(み込んで口を近づけた。
「俺はどうしたらいい。いや、どうしたらお前は元に戻るんだ」
「…………」
答えはなかなか訪(れなかった。
時間をかけて長門は俺に視線を向け、ようやく放った言葉ははなはだ短く、
「何も」
「何もって、お前……」
俺が身を乗り出しかけたとき、
「こらぁっ! キョン、有希に何しようとしてんのよっ!」
セーラーの上にエプロンをひっかけたハルヒがシャモジ片手に仁(王(立(ちし、二等辺三角形のようになった目を怒(らせていた。
「さっさと手伝いなさいよ。古泉くんなんか、もう買い出しに行ってくれたわよ。あんたも役に立ちなさい。むしろあんたが一番働かないといけないんだからね。だってあんたはあたしたちの雑用係で、肉体労働といったらあんたでしょっ。お皿用意したり箸(を洗ったり、色々することが目白押しよ! さあ来なさいったらっ」
俺はハルヒに首根っこをつかまれ、水害時に使う土(囊(のようにズルズルとキッチンまで引きずって連れて行かれた。
いいとも。何だって手伝うさ。長門が回復するんであれば、どんな料理だって作ってやる。そうだな、可能性があるなら、ここ、今だ。ハルヒの作る滋(養(強(壮(ゲテモノ料理をもってすれば地球外生命体も青くなって裸足(で逃(げ出すかもしれない。それもよほどマズければの話だ。
しかして俺はハルヒが作った料理にうっかり感(涙(しそうになっても舌が拒(絶(したことはなかった。確実に言える。すまない、我を育てたまいし母よ、ハルヒの手料理は貴女(が作る晩飯よりうまい。
こいつが子育てしているところなど想像もできないが、ハルヒの最もダイレクトな子孫が味覚障害に陥(ることだけはないだろう。
システムキッチンに立つハルヒは、ぐつぐつ煮(えている土(鍋(の火加減を朝比奈さんに一任し、一息つくように蛇(口(に直接口をつけて水を飲んだ後、
「少し安心したわ。有希が学校休むなんて考えたこともなかったから、もっとタチの悪い風邪(かと思って不安だったのよ。熱もそんなにないし、消化のいいものを食べて寝(てたら大(丈(夫(そうね」
「病院に行くまでもなさそうですね」
古泉がさりげなく口火を切った。長門に人間の医者が役立ちそうにないのはハルヒ以外全員が知っていることだが、言われてみれば話題に出さないのも不自然か。
「僕の知り合いにいい医師がいますから、いざとなれば良く効く薬を処方してもらいますよ」
ハルヒは唇(を袖(で拭(いながら、
「薬なんか気休めみたいなものよ。だから逆に気合いで治すわけ」
高説を垂れ始めた。
「薬が苦いのはね、風邪の細(菌(とかウイルスとかを『こんなマズいものが身体(に入るんなら出ていこう』って騙(くらかすためなのよ」
「そ、そうだったんですかぁ?」
「そうよ」
そんな自信満々な顔で朝比奈さんに噓(を吐(くな。信じたらどうする。
というツッコミを入れる気にもならず、俺は古泉とともにリビングの電気のついていないコタツに入って漫(然(たる時間を過ごしていた。
買い物から帰ってきた古泉は即(座(にお役ご免(を言い渡(され、最初から何の任務にも就(いていなかった俺は棚(から食器を出して水洗いした程度の雑(役(で許されて、朝比奈さんを助手にしたハルヒがテキパキと調理している姿を眺(めているのみである。
それにしてもハルヒの手(際(のよさは、解(ってはいたが専業主婦顔負けだ。野菜を刻む包丁さばきも、ダシの取り方一つを見ても、よくぞここまで難なくこなすものだと感心するぜ。
「こんなの慣れたら誰(だってできるわよ」
ハルヒは言った。小皿で鍋汁を味見しつつ、
「あたしは小学生のときから料理してるんだもの。家族の誰よりもうまいわよ。あ、みくるちゃん、醬(油(とって」
「はぁい」
そういやハルヒが弁当を持ってくることは稀(だが、オカンは作ってくれないのか?
「言えば作るでしょうし、たまに作りたがるけど、あたしが断ってんの。お弁当がいるときは自分でやるわ」
ハルヒは若(干(複雑な表情となり、
「こんなこと言うのもなんだけど、うちのおか……母親はね、ちょっと味オンチなのよ。舌がおかしいの。おまけに調味料を目分量で入れたり魚の焼き加減も適当なもんだから、同じ料理でも毎回味付けが違(うわけ。子供のころはそれが普(通(なのかと思ってて、おかげで学校の給食が一番おいしいものだと思ってたわ。けど、ためしに自分で作ってみたら、それが物(凄(くおいしかったのよね。あ、みくるちゃん、味(醂(とって」
「はぁい」
「今は晩ご飯の半分はあたしが作ってるわ。母親は働きに出てるから、お互(い助かってるって寸法よ。実体験に勝(る練習はないって本当ね。料理でも何でも、やっぱり日々の精(進(が必要なわけ。別に精進に精を出すことはないけど、やっているうちに自然とコツが飲み込めるものよ。みくるちゃん、これ味見してみて。どう?」
「はぁい。……あ、おいしい……!」
「でしょ? あたし特製オリジナル野菜スープよ。ビタミンはAからZまでたっぷり、スタミナ抜(群(。倦(怠(感や頭のモヤモヤなんてこれで土星の輪までひとっ飛び」
適当なキャッチコピーを述べながら、ハルヒは深皿にスープの中身を移し始め、ついでに土鍋の火を止めて蓋(を開けた。途(端(に俺の腹が鳴る。食(欲(を増進させるいい香(りだ。
「こっちが有希専用のおかゆ。キョン、何よその物欲しそうな顔。あんたにはあげないわよ。それより有希の部屋まで運ぶの手伝いなさい。そのくらいしてもバチは当たらないでしょ」
言われなくても今ならどんな滅(私(奉(公(でもする。できるのがこれくらいってのが情けなくてしかたがないだけだ。
俺はハルヒのよそった雑(炊(と野菜スープを盆(に載(せ、慎(重(に長門の寝(室(へ運んだ。朝比奈さんは急(須(と湯飲みを持って同行する。古泉はハルヒ指定の漢方薬と水の入ったコップを持って後に続き、ハルヒがまっ先に寝室の扉(を開いた。
「有希、できたわよ。おまたせ」
「…………」
長門はゆっくり身を起こし、俺たち四人に物言わぬ瞳(を向けた。
「先に薬飲んじゃって。これ、食前用だから。あたしの経験から一番よく効く薬を選んできたわ。ご飯はその後ね。まだお代わりはあるから、どんどん食べなさい。お昼抜(きなんでしょ?」
ハルヒのポジティブなかいがいしさがひたすらまぶしい。このパワーの片(鱗(を与(えられたなら、確かにちょこざいな感(冒(ウイルスふぜいなど靴(を履(かずに家から出て行くだろう。まともな生存本能を持つ病原体なら必ずそうする。
「…………」
長門はベッドから降りようとして、またもやハルヒに止められた。古泉が紙に包まれた薬とコップを渡し、長門は効果のほどを疑念視したように見つめてから、義務的にそれを飲む。
ハルヒ的には手ずから長門の口元に料理を運びたかったようだが、長門は拒(絶(して、茶(碗(とレンゲを受け取った。一口すくって、食べる。
「…………」
ろくに咀(嚼(せず、つるりと滋養強壮粥を飲み込む長門を、ハルヒは頭を突(き出すようにして見つめていた。ハルヒだけではなく、俺と朝比奈さんと古泉もだ。
「…………」
長門は手にした茶碗をヨウ素液を垂らしたデンプンの変色を観察するような目で見ていたが、
「おいしい」
小さな声で呟(いた。
「そ。よかった。もっと食べなさい。じゃんじゃん食べなさい。これが野菜スープよ。本当はもっと煮(込めばよかったんだけど、これでも充(分(味が染(み出ているはずよ」
勢い込んでハルヒの突き出した皿を取り、長門はこくりと飲んで、
「おいしい」
「でしょ?」
ハルヒは途(方(もなく嬉(しそうに、長門の食事風景を見守っていた。
長門はちまちまと一定のリズムで食べ続けている。ハルヒの手料理に感動しているかどうかは定かではないが、大盛りのレトルトカレーを食べていたときに比べたら味わっているようにも見えたものの、本当は食欲のなさを無理矢理抑(え込んでいるのかもしれなかった。長門は出されたものは何でも食べる。食べる必要がなくてもそうする。
何かいたたまれなかった。
それは長門がベッドの上でパジャマ姿でいるからか、ハルヒの作った養生食を黙(々(と食べているからか、それともこうして手を伸(ばせば触(れられる距(離(にいるというのに長門の存在感がいつもより希(薄(に見えるからなのか。
「すまん」
俺は誰(にともなく断りを入れ、
「ちょっと手洗いを借りる」
誰の返答も待たずに寝室を出てトイレに入った。何も催(してなどいないが、これ以上長門の姿を眺(めていたら対象の定まらないものに対して意味なく怒(りにかられそうだった。
小(綺(麗(な便座カバーに腰(を下ろし、俺は唇(の内側をやわく嚙(む。そして考える。
当面、俺が大急ぎで問いつめなければならないヤツの最優先が誰か解(って大助かりだ。何をすりゃいいのかは不明だが、何を措(いても捨てては置けない。
あの九曜とかいう女をどうにかしてやらんといかん。長門が倒(れててあっちがピンピンしてるなんざ、まるっきり不公平だろう。どこかしらバランスが崩(れている。許し難(い。まずは佐々木に連(絡(をとって──。
「うわっ」
ブレザーポケットの携(帯(電話がいきなり振(動(し、俺は便座からずり落ちそうになった。
この不意をつくグッドタイミング、相手は誰かとディスプレイを見ると、電話ではなくメールの着信だ。
「何だ?」
送信者のアドレスが完全に文字化けしていた。誰だいったい。受信ボックスを開く。
「ああ?」
いきなり画面がブラックアウトした。まさかウイルスか? やべ。入力していたデータがオシャカになってたら困るぞ。
慌(てていると、真っ暗な小型液(晶(の左(上(隅(で白いカーソルが瞬(いているのを発見し、俺は目眩(に似た懐(かしさを覚えた。いつだったか、こんな挙動をするモニタを俺は見たことがある。
数秒も待たず、カーソルがすっと横に移動、無機質な文字を映しだす。この変(換(作業を無視して流れる出力方法にも、俺は見覚えがあった。
yuki.n〉心配はいらない
長門……。長門か。
俺とハルヒが閉(鎖(空間に閉じこめられたあの時と同じだ。ならば、こちらからも発信できるはずである。俺はボタンを乱雑に叩(いた。心配すんなだと? そういうわけにいくか。返信だ返信。俺はまどろっこしくメールを打つ。
『おまえが熱を出したのはテンガイ領域とやらのしわざなんだろ』
送信後、即(座(に着信があった。
yuki.n〉そう
どう考えても油断していたとしか言えず、俺は自分の頭を窒(素(冷(却(した後バットで粉(砕(したい気分だった。あれだアレ。橘京子と並んで座っていた着せ替(え人形チックな九曜が、あまりに無害に見えたせいだ。おまけに変な思いこみをしていたのも悪かった。あいつらが用のあるのは俺やハルヒだろう、と。
ハルヒの力をどうにかしたいために俺に接(触(してきた、そうとだけ考えていた。俺は救いがたい軽はずみな思考の持ち主だ。古泉の言ったとおり、SOS団中で最も巨(大(な石(垣(となってくれそうなのが長門だったってのに、敵がまず突(き崩すとなればそこからだってのは事前的瞬(間(的に解りそうなもんじゃないか。
yuki.n〉あなたと涼(宮(ハルヒには手出しをさせない
俺はイライラとボタンをプッシュしまくる。
俺やハルヒのことはいいんだ。自分たちでなんとかするし、現に今もピンピンしてる。手出しされて倒れてんのはお前じゃないか。やめさせろ。
送信。即、返信。
yuki.n〉これはわたしの役目の一つ□□□□情報□□思念体は□□□域との交信□試
文字列がふつっと途(切(れた。
『どうした』
長門の寝(室(と生活感溢(れるトイレ、何メートルも離(れていない空間が果てしなく遠く、数秒という間(隔(がとてつもなく長く感じる。
yuki.n〉わたしの稼働???????僥儉儕?乕??偆?戝?暘??奧??偲???偵???偰???
携帯が壊(れたのかと思った。というか故障であって欲しい。
yuki.n〉???????働乕????抜???偵??側?崋??側??偰??????????側??
冷や汗(が噴(き出してきた。長門が本物の電波を送ってくるなど前代未聞だ。それほど参っているのか? もしや治らないなんてことになれば……。
目の前が暗くなりかけた。滑(った手が携帯電話をトイレに落っことしても不思議ではなく、俺もまたそんな手を責めたりはしないだろう。
だが、俺が電話を使い物にできなくする前に、モニタ上の文字列が回復した。
yuki.n〉少し眠(る
瞬(く短い文章がぽつんと浮(かび上がり、溶(けるようにフェードアウトする。実に長門らしい、簡素なメッセージだった。
もう一度言ってやる。なにが心配するなだ。できっか、そんなん。すまないが長門、俺はそれほど人間ができていないんだ。あまり俺を買いかぶってくれるな。
トイレを飛び出た俺は、そのままの勢いで寝室に駆(け込んだ。
「長門!」
俺の変調をきたした血相を見て、ハルヒは一瞬ぎょっとしてから、
「ちょっとキョン! 静かにしなさい。有希、今寝(たところだから」
しかめ面(で俺を睨(み、
「ご飯食べたらころんと横になって、すぐに寝ちゃったわ」
その言葉通り、長門は目を閉じてじっとしていた。氷(漬(けにされた姫(君(のように、呼吸の気配すら感じさせずに。
「きっと安心したのよ。一人暮らしってこういうときはよくないわ。やっぱり人の気配がしないと、自分は一人で寝てても他(の部屋に誰(かがいて起きて何かしてるって感覚が大切なのよ。それってなんとなく微笑(ましいでしょ。誰でもいいから近くにいたほうが──」
ハルヒのもっともなセリフに俺は背を向けた。聞いていたかったが、今はそんな気分ではなかった。頭ではなく身体(が動く。
「キョン、どこに、」
寝室をダッシュで出た俺はさらに加速して玄(関(からも跳(ねて出た。一階に下りていたエレベータを待つ気にならず、階段を駆け下りる。エントランスを抜(けて、マンションから躍(り出た俺は、ただひたすらに走り出した。
この時間、九曜がどこにいるのかは知らん。しかしあいつは光陽園女子の制服を着ていた。長門が北高に通っているように、あいつも真面(目(に登校しているんだとしたら、そこにいるかもしれない。警備員がどんな制止をしようがかまわん。ホップステップジャンプで何とかする。職員室に駆け込んで訊(いても名(簿(に住所が載(っているかどうかも解(らん。それはそれで何とかしてやろうじゃないか。
ともかく、じっとしていることだけは俺の身体が許さなかった。
女(神(から与(えられた羽根を持つ靴(を履(いたのごとき足どりが緩(やかになったのは、うすのろな心肺機能しか持たない俺の息が切れてきたからに他ならず、そこはちょうど踏(切(の前だった。
一年近く前。ちょうどこの辺りで、俺はハルヒから長々とした独白を聞いた。
呼吸を整えるべく、俺はしばらく深呼吸に没(頭(し、何気なく線路の向こうに視線をやって、そこで目と手足が固まる。
周防九曜。
長門と俺の外なる敵が、踏切をまたいだ対面に立っていた。最初からそこにいたように。
「──────」
黒い制服、幅(広(で長い髪(。そして異次元レベルの無表情。
遮(断(機(の警告灯が点(滅(を開始する。同時に電車の接近を告げる鐘(の音が被(さり、ものぐさそうにバーが下りてきた。
なぜ、ここにいる。まるで…………俺を待っていたみたいじゃないか……。
九曜は動かない。俺と踏切の幅ぶんの距(離(感を保ち続け、足に根が生えたように立つ姿は段ボールでできた手製のロボットよりも人間味がなく見えた。
カン、カン、カン──。
遮断機が完全に下り、電車の接近を教える線路の振(動(と風切り音が大きくなる。俺は九曜を凝(視(して、九曜はどこを見ているのか知れたものではない。あり得ないタイミング。偶(然(じゃない。こいつは……
こいつは俺を待っていたんだ。
突(風(を撒(き散らしてやって来た電車の車列が九曜の姿を覆(い隠(した。駆け抜けていく車両はそれほど多くないにもかかわらず、ほとんど時間が止まったようにも思える。窓からのぞく乗客の顔の一つ一つが判別できるほどの強(烈(な錯(覚(は、次に強い予感へと繫(がる。
電車が通り過ぎたとき、線路の向こうに九曜がいないのではないかという未来視のような予感だ。そしていつの間にか俺の背後に立っていて、幽(霊(じみた白い手を伸(ばしてくる……。
まさしく錯覚だ。
電車が去り、赤色警告灯が役目を果たして点滅を終えたとき、九曜の黒い姿は相変わらずバーの向こう側にあった。意外と律(儀(なのか、演出効果を狙(ったりしないのか。そんな人間的な思考すらないのか。
黒黄色の長い棒が軋(みながら上がりきるのを待って、九曜は水の中を歩いているような調子で動き出した。こっちへ来る。髪やスカートをまったく揺(らがせず歩く仕組みが知りたい。
実体のないホログラムじみた人(影(は、俺と数メートルの地点で静止した。
俺は垂らした手の拳(を握(り、
「長門に何をしやがった」
九曜の巨(大(なビー玉のような目が俺を見(据(えている。本能が目を合わせるなと警告していた。これは魂(を吸い取る装置だ。そう思える。
九曜の色(鮮(やかな唇(が動いた。
「人間のことを知りたかった……いいえ」
離(れていながら、まるで耳元で囁(かれているような声が、
「そう、違(った……知りたかったのは」
首を傾(げる。あまりにも人間くさい仕草に虚(をつかれた。
「あなたのことだったわね……」
なんだと?
「わたしと付き合う……?」
何を言ってる?
「いいわよ……」
手を伸ばしてくる。
宇宙人。
カン、カン、カン──
踏(切(の信号が鳴り始めた。赤い光が二つ、交(互(に点滅を開始する。電車の接近を告げる警報……だが、俺にはまるで、それが暴走電車と正面から激突するよりも、もっと恐(ろしいモノへの警(鐘(に感じられる。緊(急(事態。これは何だ。どうなっているんだ。脈(絡(がなさすぎた。鉛(の人形に魔(女(が命を吹(き込んだような、この突然の変(貌(は何なんだ。
九曜の手はなおも接近中だ。近づいてくる。人のカタチをした人でないものが。
人類と解(り合えるはずもない、人知を超(越(した銀河の外からきた、見える正体不明だ、それは。はためく翼(のような髪を持つ女……。
新月のように黒い瞳(。だめだ、見るな。視界が暗くなる。
よせ──、と言いたい俺の口が動かない。情けなさすぎるぜ。ここまで来て……。
「よしなさい」
九曜の手を止めたのは、俺以外の声だった。
またしても愕(然(とする。
俺の真後ろから聞こえた声は、凜(とした自信に満ち、そこはかとない明るさを持っていた。久しぶりに聞く声であり、もう一度聞きたかったとはお世辞にも言えない女の声が、
「それ以上の接近は許さないわ。だってね、」
俺のうなじあたりで、そいつは透(明(感のある笑い声を短くあげ、
「この人間はわたしの獲(物(よ。あなたたちの手に渡(すくらいなら、いっそこうするわ」
俺の肩(口(から頭の横を通り、腕(が伸びてきた。北高の長(袖(セーラー服に包まれた、その先にある手が見覚えのある物を握りしめている。凶(悪(な光を反射させる、鋭(利(な刃(。
逆手に握られたコンバットナイフの先(端(が、俺の喉(元(を正確に狙っていた。
「わたしはどちらでもいいのよ」
くすくすとした笑(みが、俺の後頭部を総毛立たせる。麻(薬(かと思えるような甘い香(りが大気に乗って鼻(腔(に届いた。こいつは、
「お前……」
俺はようやく声を絞(り出す。
「…………朝倉か」
「ええ、そうよ。他(に誰(かいる?」
間違えようのない旧一年五組の同級生、朝倉涼子の声が背後から響(く。
「今の長門さんはお休みしているでしょ。だからわたしが出てきたの。何か気にすることがあるかしら」
俺は振(り向けなかった。もし後ろにいる朝倉涼子の姿を確(認(してしまったら、とんでもないことになるような気がしてならなかったからである。長門の影役にして情報統合思念体の急進派、かつて俺を二度殺そうと図(り、二度目は本格的に死にかけた。どちらも助かったのは長門のおかげで、ここに長門はいない。代わりに九曜がいる。バカげた話だ。虎(と狼(、どちらも俺の味方とはいいがたい。こんな二択(問題があってたまるか。
「エマージェンシーを受け取ったわ。だからわたしが現れたの。不思議なことじゃないでしょう?」
甘い声が言う。
「だってわたしは長門さんのバックアップ。彼女が動けないなら、次はわたし。そのはずじゃなかった?」
長門が動けない────。
これはよほどのことなのだ。消された朝倉が復活するくらいに。殺(人(鬼(に助力を仰(がねばならないほどの。
「失礼ね。わたしは殺人鬼なんかじゃないわよ。だって、ほら。まだ、誰も、殺してないもの」
じゃあナイフの切っ先をどけてくれ。うっかり唾(も飲み込めない。
「それは無理ね。あちらの人がそこにいる限り、わたしは任務を忠実に守るわ」
ナイフの柄(を握(っていた人差し指がピンと立ち、棒立ちの九曜を示した。
「仮(称(、天(蓋(領域の人型ターミナルさんだったかしら。興味があるわ。ここであなたが死んだら、あの人、どんな反応をするんでしょうね」
ぞっとすることを世間話のように言いやがる。委員長だった時代と変わっていない。朝倉涼子以外の他にこんなヤツがいてたまるか。
俺は砂(漠(に置き去りにされた干(物(のように動けなかった。暑いのか寒いのかさえ曖(昧(だ。ただ刃物の鈍(い輝(きは宇宙空間のように冷たく、九曜の瞳は地下四階のように静かだった。
静かすぎだ。
だしぬけに気づいた。点(滅(していた踏切の信号はどうなった? 耳(障(りな鐘(の音が消えているのはどうしたことだ。電車が来ないのは何故(だ。
俺は目を見開いた。赤い信号が点灯したままになっている。遮(断(機(のバーが斜(めに傾(いだまま、半(端(に止まっていた。風がまったく吹いていない。線路に面した道路には誰一人、車一台通らないのは……これは……。
世界が静止していた。
彼方(の空で雲が身じろぎ一つせず、あろうことか飛行中のカラスが宙に固定されているのを見て、まっこと遅(ればせながらに俺は悟(った。
空間が凍(結(されている。
「どうなってるんだ、ここは……」
ふふ、と朝倉が微笑(む声を出した。
「邪(魔(が入って欲しくはないわ。これなら誰にも見られることはないじゃない? 空間の情報制(御(はわたしの得意よ。誰も脱(出(できない」
罠(か。しかし誰にとってのだ。
「さあ九曜さん」
朝倉は楽しげに続けた。
「お話を始めましょうか。それとも戦う? いいのよ。わたしはあなたたちの手の内が見たいから。それもお仕事の一つ」
九曜は表情なく立ちつくしていたが、
「……その人間を解放して。危険性が高い……あなたの殺意は本物……」
ゆっくりと瞬(きをした後、九曜の黒い目に初めて見る光が灯(った。
「あなたではない。わたしはあなたに興味を持たない。あなたは重要でない」
わずかに感情のまじった九曜の声に、朝倉は、
「気分を害する答えね。いいわ、そっちがその気なら」
ナイフを持っている手が残像を滲(ませて動いた。あまりに瞬(時(のことだったため俺の目に入らなかったのも当然だ。以前、一年五組の教室でおこなわれた長門との異次元バトルの渦(中(にあった俺はすでに知ってる。見て取れたのは朝倉が手首のヒネリだけでナイフを投じ、その凶(器(がほとんど光速で九曜を襲(ったことくらいで、しかしながら見たものを脳が認識したのはさらに数秒後だった。
「……危険性が二段階上(昇(」
呟(くように言った九曜は、顔面の直前でナイフの柄を握り止めていた。鼻先ギリギリに迫(ったナイフに怯(えるようでもなく、俺から見ればまるで自分で顔面を刺(そうとしているようにも思えるが、逆だ。
「……なおも上昇中」
ナイフとそれを握る九曜の腕(が細かく震(動(している。なんてこった。朝倉が投げたナイフは止められてもなお九曜に突(き立とうとしている。超(高速の投げナイフに超高速で対応した九曜もバケモノだが、朝倉はさらに恐(ろしい。いったいどれだけの運動エネルギーがあのナイフに込(められているんだろう。考えたくもない。
「やるわね」
朝倉が感心したように、
「ほんの小手調べだったけど、算出した予想能力数値を上回る力を込めたのに。面(白(くなりそうだわ」
背後の空気が何やらざわめく。振(り返ったら朝倉の髪(が蛇(のように持ち上がっているような気がして、俺は決して後ろを見ない。だが耳を塞(ぐことはできなかった。
「情報制御レンジ拡大。攻(性(情報展開。ターミネートモードへシフト。当(該(対象の解(析(を目的とした限定空間内での局地的疑(似(戦(闘(許可を申(請(」
朝倉の早口が、たぶんそのようなことを告げた、と思った途(端(、周囲の光景が粉々に砕(け散った。風景画をモチーフにしたジグソーパズルをバラバラにしたように、すべてが一変し、その外側にあったものが姿を現した。うねった幾(何(学(模様で占(められた朝倉の情報制御空間、俺の前に二度目の登場だ。
「……危険性は維(持(」
九曜の白いだけだった顔色が、徐(々(に血の通った色になり始めていた。その口調も、
「その人間から離(れて」
顔の前でナイフをつかんだまま、それにしては緊(張(感のない声だったが、
「あなたでは話にならない……」
段(違(いにまともなセリフだった。九曜は暴れ馬のようなナイフをじりじりとした動きで顔の横に持っていく。刃(が髪に触(れないだけの距(離(を保ち、首を傾(けて手を離した。
朝倉の投げたナイフは、投じられた本来の軌(跡(を忠実に再現してミサイルのようにすっ飛んで行き──、
「──!」
俺は三(度(、もうこうなったらしつこいまでに驚(愕(する。
九曜の背後に第三の人(影(がちらりと小さく見えた──と脳が認(識(したのもつかの間、朝倉印のナイフはその人物の顔面へ超マッハな音速超(えの速度で直進し、九曜がそうしたのをそっくりコピーしたかのように、顔面刺(殺(直前ギリギリで握(り止められていたのである。その曲芸師のような投げナイフつかみ取りを可能とした腕の持ち主は、
「喜緑さん」
と、朝倉が指(摘(した。
「こんなところまで、何の用?」
セーラー服姿の喜緑さんは、幾何学空間の中で妙(に浮(きあがっていた。たおやかな微(笑(は生徒会長の横にいる状態のままだ。これだけおかしな世界で、まともな表情をしているのはいいが、それがかえっておかしかった。すまん、今の俺はまともな日本語が考えつかん。
喜緑さんはナイフを握った手を返し、刃を朝倉に向けながら、
「逸(脱(行(為(を停止させるために来ました。あなたの行動は統合思念体の総意に基づいていません」
「へえ? そうだった?」
「はい。許可できません」
「そう? いいわ」
異常なまでに朝倉はあっさり同意し、
「それ、返してくれる?」
喜緑さんが手を開き、ナイフが……今度は俺の動体視力でも追(跡(可能な速度でゆっくり空を飛んで戻(ってきた、と思えたのもわずかな間で、朝倉が短い早口で何かを唱えた。
急加速したナイフが真っ直(ぐ九曜の後頭部を襲う。避(けられるスピードではなかった。まるでレーザーだ。
「?」
俺は目を疑う。
九曜の姿がいきなり平面になったかと思った次の瞬(間(、目の前から消(滅(したのだ。
そうだな、そこに立っていたのは九曜の厚さ一ミリくらいの立て看板で、そいつを瞬間的に横向きにしたような消え方だった。そっちに目を引かれていたおかげで、俺がナイフの行き先に思い当たったのは、朝倉の手が順手でナイフを握って元通りの位置、俺の首にあたかも今から刺(しましょうと言わんばかりのところにあるのを発見した段階でのことである。
それを認識した直後、頭のてっぺんから汗(が噴(き出した。
朝倉が止めていなければ、飛来したこの物(騒(な刃物は間違いなく俺の息の根を止めていただろう。もはや腰(も抜(けない。
不(審(げな朝倉の声が、
「脱出した?」
おいおい、俺に対してはノーコメントか。
「いいえ」
喜緑さんがかぶりを振(り、喉(を晒(すように上空を見た。
「居ます」
九曜が目の前に降ってきた。
舞(台(の天(井(からつるされたような直立不動の姿勢で着地した九曜は、片手で朝倉のナイフを握った手首をつかみ、もう片方で抜き手を作り、ノーモーションで放った。どこへ?
俺の顔面に。
「!?」
状(況(が変調しすぎてほとほと疲(れる。しかし、この時の俺に余(裕(など欠片(もなかった。何が起きていたのか理解したのはたいていが事後で、それが今だ。
固体のような風が俺の前(髪(を弾(き、とっさに目を閉じてしまう。不覚だ。あわてて目を見開いた俺は、次のような光景を目にした。
九曜の指先が俺の眉(間(数ミリ前で止まっているのは、朝倉が黒い制服の手首をつかんで固定しているおかげでしかない。一方は凶(器(を持つ手を止め、もう片方で手刀を止めているという両すくみである。そして俺は、見た目は人間そのままだが中身は魔(人(とも言うべき二人に挟(まれてバカのように突(っ立っているっていうわけだ。再び言う。情けない。
俺は二度も朝倉に命を救われたことになるじゃないか? 待てよ? なんか話がおかしくなってないか?
「九曜さん」
朝倉の声はからかうようだ。
「あなた、この人間をどうしたいの? 殺したいの? 生かしておきたいの?」
九曜は俺を土(囊(を見るような目の刃(で突き刺していたが、目を俺の頭の横……朝倉の顔があるであろう方向へ転じ、
「──設問の意味が不明。人間とは何か。殺すとは何か。生かすとは何か」
声帯ではなくどこかに仕(掛(けられたスピーカーから聞こえるような声で、
「──情報統合思念体とは何か。答えよ」
独り言のように言い、表情を──劇的にと言ってもいい──変化させた。
微笑(んだのだ。
とんでもなく玲(瓏(で美しい笑(みだった。
感情の発(露(というよりは高度なプログラムが完(璧(に模(倣(したような笑顔だったが、こんな笑みを向けられた男はどんな朴(念(仁(でも一瞬にして一(目(惚(れ病に罹(患(する。耐(えられたのは俺でこそだ。もし事情を知らない谷(口(あたりなら即(、墜(落(だ。俺は発すべき言葉のすべてを失い、朝倉は白々しく、
「いい顔するわね。九曜さん。でもここまでにしようよ。この人間の生死を含(めて、指一本だってあなたたち天(蓋(領域に譲(ったりはしないわ」
両手を互(いに拘(束(しあったまま、九曜と朝倉が会話している。
──イッタイコイツラ、ナンノハナシヲシテイヤガルンダ。
だんだん腹が立ってきた。
ちなみに言っておくと、俺は本質的に温厚だ。どのくらいかというとだな、うちの妹が俺の大切にしていたマフラーを面(白(がってシャミセンの身体(に巻き付けて遊んでいるとイヤがったシャミセンが本能の赴(くまま歯と爪(でそのマフラーを単なる羊毛繊(維(集合体に変えやがってくれた時にだ、双(方(にデコピン一発で許してやるくらいに低温性の性質なんだよ。
その俺が頭に来るくらいだから相当だぞ。
ああ。解(った。
こんな唐(変(木(なシチュエーションでニコニコしているヤツは全員おかしい。その証(拠(に、ここにいる三人は全員が地球産じゃない。
まともなのは俺だけだ。だからこうしてビビっているんだ。悪いか。
「──天蓋領域とは何か」
人工無能のような、それでいて極(上(の美を表現した笑顔が言うことには耳を貸さず、朝倉は宣言した。
「攻(性(情報による浸(食(を開始」
足元が泡(立(ち始めた。ボコボコと煮(立(つような音とあわせてまるで毒の沼(だ。次いで、朝倉のナイフが結(晶(化した砂のように溶(け崩(れる。さらに朝倉のつかむ九曜の手首が青白いモザイクに包まれた。細かい無数のヘックスが腕(を伝ってすさまじい速度で広がっていく、と見えたのも一(瞬(で、九曜の姿が再び平面化したかと思うや否(や、ついには一本の線と化す。
ゴワァァァァァン──
「く!?」
耳元で特大の音(叉(を叩(き合ったような金属音が響(き、俺は反射的に目を閉じた。しかし、その音(響(も長くは続かず、あたかも巨(人(の手が空中に舞(う音(符(を搔(き消したように沈(黙(する。
「…………」
俺が恐(る恐る目(蓋(を開いたとき、九曜はどこにもいなかった。俺の前には喜緑さんしかいない。そして背後には恐るべき女の気配がいまだにする。
目に痛い幾(何(学(模様は一(掃(され、風景はもとの道路、線路沿いの道に常態回帰を遂(げていたが、そんなことにいちいち驚(いたりはしなかった。
「今度こそ逃(げた?」
後ろの朝倉の声に、前方の喜緑さんが答えた。
「あなたの構築した情報防護網(は未知の集束データにより突(破(されました。現在、マークの追(跡(及(び現空間の修復にかかっています」
「身体情報の物理的次元変動……。わたしたちとは違(う端(末(形態ね。申(請(が必要ないんだわ」
「彼女は対人類を専門としたコミュニケータではないようです。むしろ、わたしたちと対話するために作り出されたインタープリタプラットフォームである確率が高いと目されます。涼宮ハルヒさんに目をつけたのも、情報統合思念体の動きを探知、推測してのことでしょう」
「ただのターミナルとは思えないわ。わたしの攻性情報を復号せずにブレイクしたから」
「論理基(盤(が異なっていますから、致(命(的なダメージを与(えるには彼女と連結している領域のアルゴリズムを解(析(する必要があります」
「そっちはあなたに任せるわ、喜緑さん。これで少しはデータを取得できたでしょう? 思うのだけど、情報の抹(消(は無理でもハード端末を破(壊(する程度ならできそうね。欠片(を拾ってゆっくりプラットフォームの構造を解析するのがよさそうじゃない?」
「独断専行は許可できません」
「長門さんみたいなことを言うのね。でも、今の長門さんならわたしに賛成してくれるわ」
「わたしが中断させます。統合思念体は許可しません」
「あら」
朝倉は、さも意外そうに、
「いつからあなたが代表者になったの?」
「インターフェイスとしてのパーソナルネーム長門有希は自律判断基準の一部をわたしに譲(渡(しました。それは彼女の提言によりおこなわれ、統合思念体中央意思によって承(認(されています。わたしの行動は統合思念体の総意に基づいています」
「総意ですって? のんびり屋で保守的な現状維(持(論者グループのこと? それともわたしが少数派だって言いたいのかしら」
「両方です」
朝倉は持ち前の優等生ボイスを嗤(わせ、
「わたしの行動パターンは以前の所属のまま、まだ書き換(えられていないわよ」
「あなたは緊(急(措(置(としてのバックアップ要員です。わたしや長門有希の所属意思があなたの必要性を限定的に認めているだけです。危険性より有効性がわずかに上回ってるだけのこと」
「感謝したほうがいい? おかげでまた復活できたわ」
「情報結合解除の権限はわたしに委(託(されています」
「あなたと戦っても勝てないってわけね。いいわよ。わたしはわたしの意思に基づいて行動するだけだもの。長門さんが教えてくれたわ。自律進化の可能性がどこにあるのかをね。喜緑さん。あなたは知らないの? 彼女は既(に単なる端末じゃなくなっている。なら、わたしたちもそうなることができると思わない?」
思わねーよ。俺には長門一人で充(分(だ。九曜の攻(撃(を防いでくれたことは感謝する。だが、もう一度言うぞ。
俺は長門でいい。朝倉、お前は要(らない。
「あんまりだわ」
朝倉は明らかに面(白(がっている。
これも言わせろ。お前ら、俺の身体(越(しに何を好き勝手な意見交(換(をやってんだ。電波話を聞き続ける俺の身にもなれ。
「ですって、喜緑さん」
それにだ、こんなところに出てきて俺にナイフを突(きつけるヒマがあったら長門のところに飯でも作りに行ってやれよ。前回のお前はそんなヤツだったぜ。
「悪い宇宙人の魔(の手から助けてあげたのに、その言いぐさはどういうこと?」
朝倉は微笑(ましげに、とりわけ機(嫌(を損(ねているわけでもなさそうに言った。
「残念だけど、わたしはこの形態を継(続(維持させることができないの。恨(み言(ならそこの優(秀(なわたしたちの先(輩(さんと統合思念体主流派にお願い。長門さんにお願いしてみてくれる? 彼女がうんと言えば、わたしはカナダから帰ってくるかもしれないわよ」
断る。どうやってもハルヒを納(得(させられるだけの材料が見つからないからな。好きなだけ留学しててくれ。
「そう? 残念」
ころころと朝倉は小波のような笑い声を出して、
「わたしの臨時活動はそろそろお開きね。また呼ぶといいわ。いつでも出てきてあげる。そちらの恐(いお姉さんが阻(止(しない限りね」
呼んだ覚えなどなかったので俺が黙(っていると、朝倉の声がさらに近くなった。
「わたしと長門さんは鏡の裏表のようなもの。あなたには解(るかしら。喜緑さんより、わたしのほうが長門さんに近いのよ。今あなたの目の前にいるインターフェイスは何もしてくれないわ。傍(観(するのが彼女の仕事なのだから」
耳元に息がかかるようなポイントから、
「どうして振(り向かないの? 別れの挨(拶(くらい、顔を見てしましょうよ」
意地でも動いてなるものか。これで朝倉がまともな委員長スマイルでも浮(かべていてみろ。俺は恐(怖(心をなくしてしまうかもしれない。人好きのする笑(顔(にころりと騙(されてしまうかもしれないだろう。俺から見たらお前も九曜も似たようなもんだ。
「最後まで失礼なのね。いいわ。それじゃあ、さようなら。またね」
声が消え、気配が失(せても、俺はまだ動かずにいた。こうなりゃ根比べだ。
喜緑さんも無言で俺を見つめている。その制服スカートの裾(が風にはためいているな、と気づいた刹(那(、遮(断(機(の鐘(の音が復活して俺は五ミリほど飛び上がった。赤い点(滅(と下りてくる通せん棒。遥(か上空で雲は流れゆき、カラスは巣へと飛んでいく。
環(境(音が元に戻(っていた。いつのまにか。時間が動いている。
喜緑さんはゆるやかに歩き出し、俺との間に絶(妙(の間(隔(を得たところで止まった。何か説明してくれるんじゃないかというほのかな期待は裏切られ、生徒会書記の笑みで形作られた唇(はいつまで待っても動かない。
根負けした。
「喜緑さん」
「はい」
「あいつは……あの九曜ってのは何なんです。性格がまるでつかめない。言動が一(貫(してないのは人間じゃないからですか」
「天(蓋(領域の行動原理は理解不能です。自律意識があるのかどうか、未(だ論争の域を脱(していません。確とした生命の概(念(に該(当(するのか否(なのかすらも未知数なのです」
口調の堅(苦(しさに、やたらとゲンナリする。
……はあ、そうっすか。それはお困りでしょう。俺も困ってます。でもっすね、とりあえずここで俺が言えることはですね、
「せめて長門の熱を下げてやってくれませんか」
「長門さんは特別任務に就(いています。天蓋領域との高次元段階におけるコミュニケーションがその任です」
「長門は寝(込んで動けないんですよ。それのどこが任務だ」
喜緑さんは、俺に微笑みかけつつ、その実、遠くを見るような目で、
「言語に頼(らない高度な対話です。地球人類には本質的に不可能なミッションです。わたしたちは初めて彼等(と物理的なコンタクトをしているのです。間接的ではありますが、相(互(理解不全状態にあった過去の履(歴(と比べて飛(躍(的進展です。長門さんは彼等との中(継(機器の役割を果たしています。今も実(践(中です。見守ってあげてください」
「だからって、あいつ一人に押しつけることはないでしょうがっ」
語(尾(にビックリマークを付けないようにするのに大変な労苦を要する。俺は春風にそよぐ和製タンポポのようにたおやかな喜緑さんの飄(然(とした相(貌(にガンを飛ばしつつ、
「あなたや朝倉ではダメなんですか?」
「彼等が最初にコンタクトを図(ったのが長門さんです。涼宮さんと最も近接しているインターフェイス。わたしも当然の選(択(だと思います」
その平然とした回答に、俺の頭は本格的に痛み出した。
つまり長門のことは放(っておけというわけか。やはり情報統合思念体はくそったれ野(郎(の集まりだ。おそらく長門のような人材が派(遣(されて、あいつと最初に出会えたのは奇(蹟(みたいなものだったんだ。もし朝倉と長門の役割が逆だったら、もし文芸部にいたのが喜緑さんだったら、こんな現在は到(来(してない。長門だったからだ。インターフェイスなどという単語は思う存分海王星軌(道(まで飛んでいけ。ハルヒが希望したのは宇宙人ではなく、長門有希だったのだと思いたくなる。主流派だろうが急進派だろうがまとめてハルヒの前に出てくればいいんだ。そして長門と天(秤(に乗ってみろ。ハルヒは長門を指差してこっちが重いと言うだろう。
「お許しください」
喜緑さんはバカ丁(寧(なお辞(儀(をして、
「わたしにできることは多くありません。わたしに課せられた制限が逸(脱(を阻(むのです。それ以外のことでしたら、何なりと」
穏(やかな上級生は俺とすれ違(い様(、もう一度小さく頭を下げて駅方向へ歩いていった。後を追っても仕方のないことは解っている。俺の頭じゃ理解できないようなことを宇宙人同士がやってるってのも、何とか理解可能だが、これだけは言っておきたい。
「ここは地球だ。エイリアンたちの遊び場じゃないんだぜ」
俺の声は一(陣(の春風に紛(れて消えゆき、喜緑さんはすでに消えた後だった。
ただ、
──おもしろい冗(談(だわ…………とても。
誰(のものだったのかは聞き取れなかった。九曜か、朝倉か、喜緑さんのうちのいずれかの声だったのかすらも解(らない。
しかし、確かにどこかからそんな声がしたように思ったのは、俺の鼓(膜(が耳たぶをかすめる風の音を人語と聞き間違ったせいではないだろう。
携(帯(電話はいつも前(触(れなく鳴り出すものだ。この時もそうだった。
長門のマンションへ重い足を引きずっていた俺の歩みを止めたのは、ハルヒからの電話だ。
『んもう! あんた、どこ行ってんのよ。邪(神(の呼び声でも聴(いたの? いきなり出て行っちゃって、みくるちゃんがびっくりするじゃないの』
「ああ……すまん。近くにいるから、すぐ戻る」
『理由を言いなさい』
「……あれだよ、見(舞(いの品を忘れてたと思い当たってな。桃(缶(でも買ってこようかと」
『いつの時代よ。フルーツセットにしなさい。んん、そんな大げさにしなくてもいいわ、有希、入院してんじゃないんだしさ。オレンジジュース買ってきて。果(汁(百二十パーセントのやつ』
どこに売ってるのか教えてくれたらな。
『じゃあ百パーセントでいいわ。それから三分以内に戻(ってくること。いいわねっ? オーバー』
一方的にブツ切りされても腹は立たない。いつものことだ。こいつの一方向なストレートで単純気ままな行動は俺の精神を少しだけ安定させる効果がある。涼宮ハルヒかくあるべしってやつさ。こうでもなければSOS団とかいうバカ組織のトップは務まらないのだ。
俺は駅近くのスーパーに入って夢遊病者のように棚(の間をさまよい歩き、ハルヒ指定のカリフォルニア産オレンジ百パーセントジュースのボトルを抱(えて精算をすませて、我ながらむっつりとした足取りで長門マンションに戻った。オートロックにつき、エントランスで部屋を呼び出すとハルヒがインターホンに出て開(錠(してくれた。
長門の部屋に戻った時にはハルヒの指令時間を二分ばかりオーバーしていたが、団長殿(は何も言わず、俺の差し出したジュースのボトルを受け取ると、そばにいた朝比奈さんにバケツリレーして、
「冷蔵庫に入れておいて。お願いね、みくるちゃん」
「解りましたー」
すっかり命令され慣れしている朝比奈さんがたたっとキッチンへ駆(けていく。何て愛らしい方だろう。何があっても庇(護(してあげないといけない人物ベスト3に入る仕草だった。
「長門は?」
「さっき少しだけ目を開けたけど、また眠(ったわ。だから寝(室(に入っちゃダメよ。寝(顔(を凝(視(するなんて悪(趣(味(だもんね」
ハルヒは口元を波線にしていたが、躊躇(ったような連続四分休(符(の後、
「前にもこんなことがあったわね。有希が熱出して、あたしたちが看病するってやつ。あれは幻(覚(だったけど、なぜだか今でもリアルに思い出せるの」
そりゃ、現実だったからな。集団催(眠(とか抜(かしたのはあくまで古泉によるでっち上げなウソっぱち理論に過ぎない。おいそれとハルヒに言えることではないので、俺は口をつぐむ。
ハルヒは何かを念じるように、
「あの時と同じよね? 鶴(屋(さんの別(荘(で、有希はすぐによくなったわ。あの症(状(はスキー場の寒さがこたえたのよ。今は春先で季節の変わり目だし、体調を崩(すことだってよくあることだわよね。花(粉(症(の一種なのかも」
自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
「ああ。大したことはないさ。三日もすれば回復するだろ」
どの口が言うのかとツッコミたいが、いかんせんそれは俺の口だ。古泉のすべらかに回る舌がうらやましい。どんな異常事態でも、あいつならもっともらしいデマカセ解を導き出すであろうからな。ゆくゆくは閻(魔(大王の世話になるに違(いない。
閉じた寝室のドアにまるでキープアウトのテープが貼(られているように見え、そのまま素(通(りしてリビングに来た。
コタツ机の中に長い脚(を突(っ込んでいた古泉が、ちらりと俺に視線を寄(越(し、
「どちらへ?」
「閉(鎖(空間なみにしみったれた所まで」
「そのようですね」
古泉はコタツテーブルに両(肘(をつき、
「周防九曜と喜緑さんの姿が観測できたと報告がありました」フローリングの床(に置いてあった自分の携帯電話を差し、「それも一(瞬(だったようですが、あなたのその顔色では、ただの邂(逅(ではなかったようですね」
「ああ」
誰(が味方で敵なのか解(らなくなってきた。宇宙人どもの目的が完全に理解不能だ。九曜も朝倉も喜緑さんも、人間の姿をしているだけの、あれはバケモンだ。人間はたまに突(拍(子(もないことをするヤツがでてくるが、それだって何を考えていたのか推測することはできる。しかしモンスターの思念は読めない。行動パターンがデタラメすぎて、まるでショボイRPGのNPCみたいに感じるぜ。バランスを無視したパラメータを持っているからなおさら非(道(い。
「解決策はないのかよ」
「こちらとしても尽(力(しますよ。橘京子をつつけば何かでてくるかもしれませんが、推測するに期待薄(ですね。彼女たちの一派と長門さんのこの症状は無関係に等しい。橘京子たちは手を組む相手を間違えました。周防九曜は話の通じる相手ではありません。統合思念体にも解らない存在を人類が理解しようというほうが暴挙です」
では未来人ならどうだ。藤原とかいう超(イヤミ男は、少なくとも九曜に恐(れを抱(いているようには見えなかった。くそ、あいつに頼(もしさを感じてどうする。藤原の目的も不明のままなんだ。
「単なる涼宮さんの観察が目的でないことは確かですね。それはどちらの未来人にも言えることです。この場にいる朝比奈さんには知らされていないのでしょうが」
古泉の目が平行移動し、キッチンで洗い物にいそしむ朝比奈さんを捉(えた。その隣(でハルヒもまたいそがしそうな立ち振(る舞(いで、スープ鍋(の中身を容器に移し替(えたり、具材の余りをタッパーに詰(めたりしていたが、
「決めた。有希がよくなるまで晩ご飯作りに来ることにするから。あたしが勝手にそうするんだからね。たとえ有希が嫌(だと言っても絶対来るから」
独り言にしては声量豊か過ぎる声で言い、誰の同意も求めなかった。
お前は銀河で一番自分勝手な女さ。その特性、変わってくれるなよ。
どこからか合い鍵(を見つけ出したハルヒが、それで長門の部屋扉(を施(錠(し、砂金の粒(をしまい込むようにスカートのポケットに滑(り込ませる。長門の眠る708号室を後にした俺たちは、長門のマンション前で解散することになった。
「しばらくSOS団は活動休止にするわ」
ハルヒはマンションを見上げ、夕(闇(に染まった空に怒(ったような目を注ぎながら、
「有希が学校に来るようになるまで、みんな部室に来なくていいわ。来るのはここ。有希んとこ。みくるちゃん、明日も頼むわよ」
「はいっ、もちろん!」
こくこくうなずく朝比奈さんの真(摯(な従順さには涙(腺(が緩(みそうになった。ヤバい。
ハルヒと朝比奈さんは率(先(して長門の看病にあたる心づもりのようだ。ここで団長の務めだからなんとかと理(屈(付けしないのがハルヒらしい。
俺にもできることがあるはずだ。いや、俺にしかできないことだ。
一刻も早く家に帰り、連(絡(を取らねばならないヤツがいる。
新たに登場した関係者のうち、俺が電話番号を知っているのはそいつだけだった。
『すまなかったね、キョン。返信が遅(れてしまった。塾(の最中だったもので携(帯(を切っていたんだ。留守電聞いたよ。明日の夕方、学校終わりだね。明日は塾もないので、そうだな、四時半になら北口駅前に着けるだろう。もちろんあの三人にも声をかけておくよ。賭(けてもいいが、彼等(は確実に来るね。キミが僕に連絡してくるのを待っていたフシがある。キョン、キミはずいぶん立腹のようだが、今日明日中で頭を冷静にしておいたほうがいいだろうと僕は考えるね。まさに今のキミの反応が彼等の計画の一(環(かもしれないからさ。いや、僕は知らないよ。でも、僕が首(謀(者(ならそうするだろうと考えた結果さ。うん、では明日。おやすみ、親友』