α─1
『もしもし』
山びこのように返ってきたその声は、まるで聞き覚えのない女の声だった。
ハルヒでも長門でも、どの時間帯の朝比奈さんでもない。森さんでも阪中でも、ましてや周防九曜や橘京子、まだ可能性のあった佐々木ですらなかった。一言聞いただけで解る。既(知(の誰でもなく、これは未(だかつて俺の鼓(膜(を震(わせたことのない声だ。
『あっ。お風呂でした? ゴメンナサイです。失礼しちゃった。かけ直しましょうか?』
それには及(ばない、と答える前に、
『でもでも、何度もかけるのはアレですよね。重ねてゴメンナサイ』
行く川の水のような声が受話器から迸(る。それを遮(って、
「誰だ。まず名を名乗ってくれないか」
『あたしです。あたしは、わたぁしです』
いや、ハルヒじゃあるまいし、そんなのは自己紹(介(とは言えないぞ。
『そんなぁ』
と、その声。女のもので、電話越(しなので完全に明(瞭(とは言えないが、声の主はどこか朗(らかに高(揚(しているような節回しで、
『でもいいです。ご挨(拶(と思ってかけたの。フフ、妹さん、可愛(らしいですね。あたしもこんな妹が欲しかった。算数ドリル~、フフ。可愛い』
はて、と思う。聞き覚えはさらさらないが、イントネーションが誰かに似ている。普(段(は絶対こんな声を出さないであろう人間が、この声を演じているような感覚だ。だが、いくら俺の音声レコーダーを探(っても出てこない。ただ、どことなく妹に通じる幼い口調だ、とだけ。
『先(輩(の声が聞きたかったんです』
その声の持ち主は、
『それだけでした。なんとなくです。これからお世話になるようでしたら、よろしくです。長くおつき合いできたらいいなぁ、なんて』
ちょい待て。俺を先輩と呼ぶのかこいつは。すると年下か。にしても、記(憶(にないのは確実で、せめてフルネームを教えろ、と言いかけた俺に先んじて、
『もう切ります。それではまた。会う機会があれば。フフ』
プツッ。
失礼な感じで切れた。
何なんだ、一体。久々に会った佐々木や橘京子、九曜だけで俺はもう限界だぞ。当分、新キャラなんぞに出て来て欲しくはない。
ふと気づいて電話機の履(歴(を見てみる。番号非通知でかけてやがる。
風(呂(から上がり、寝(間(着(を着ている最中も、俺はこの電話娘(の心当たりを自分に尋(ね続けて、時間をふいにするという結果を得た。
「いったい、今日はどうなってんだ……?」
考えていてもしかたないな。なるようになるさ。ならないようなら、どんな理(屈(をつけてでもしてやる。いざというときには難度の低い順に古泉、朝比奈さん、長門、それから無限大の距(離(を経てハルヒ──に相談してやるからな。どうなっても知らねーぞ。
「やれやれだ」
明日はせっかくのフル休日、ハルヒがこれから俺の寝(る前に何かを思いつかない限り、日曜だけはゆっくりできる。
俺は湯冷めしないようにシャミセンを湯たんぽのように抱(えながら、妹の待ちかまえる部屋に向かった。
β─1
『もしもし』
山びこのように返ってきたその声は、今朝聞いたばかりの女の声だった。
まだハルヒか長門か朝比奈さん(大)だったほうがよかったかもしれない。ハルヒなら無(邪(気(な計画を明日にもするとか言い出すくらいだろうし、長門とは九曜についてブリーフィングを設ける必要がある。朝比奈さん(大)なら問いつめることがたくさんある。
『ああ、入浴中だったかい? なら妹さんもそう言えばいいのに。かけ直そうか? でも電話に出たということは、比(較(的もうそろそろ出ようとしていたところかと推測するが』
思い浮(かべた誰でもなかった。俺は聞き覚えのある声の主の名を言う。
「佐々木か」
『そう、僕だ。今朝のことだけど、本当はもう少し長話になるつもりだったんだ。涼宮さんたちが来るのが早すぎたね。これは誤算と言うべきだろう』
佐々木の声がくっくっと笑う。
『それにしてもキミのところの妹さんも変わらないね。ちゃんと名前を告げたんだが、聞き取れなかったか、僕のことなど忘れてしまったのか、無理はないがね。顔を合わせたのは二度、いや、三度だけだったか』
「妹の算数家庭教師なら間に合ってるぜ」
そいつは俺の数少ない家庭貢(献(の一つだ。
『わかってる。可愛いキミの妹を横取りしようとはしないよ。赤の他人は何十億もいるが、血を分けた家族はわずかしかいないのだから、その比率に反比例して希少価値も跳(ね上がる。この世で最も注意深く大事に取り扱(わねばならない関係性だよ。血を薄(めることはできない』
「で、何の用だ」
『単刀直入に言う。明日、駅前の例の場所に午前九時、ぜひとも来てもらいたい。場所は解(るね。いつものところと言えば充(分(だろう。用件は────うん、これは僕じゃなくて、橘さんたちに直接聞いたほうがいいな。僕の考えでは、僕よりもキミのほうがよく理解できるだろう』
「あいつらも来るのか」
九曜とかいう女の静的な不気味さを思い出しつつ、俺がウンザリしていると、
『彼も来るはずだ。何と言ったかな、ほら、自(称(未来人の』
ますますウンザリだ。朝比奈さんについて、あの野(郎(が胡(乱(なセリフを口走ったりしたら今度こそ自信がない。俺があいつを殴(りそうになったらとめてくれよ。
『じゃあ来てくれるんだね。キョン、安心してくれたまえ。三人とも平和的な話し合いを望んでいる。言葉での意見交(換(でなんとかなるのであれば、誰にとっても望ましいことさ』
宇宙人に地球語が通用してくれたらいいんだがな。それはそうと、
「佐々木、お前、今日、連中とどこに行っていた」
『アリバイ証明かい? 電車に乗って適当に辿(り着いた繁(華(街(をぶらついていた。橘さんはなかなか気のいいお嬢(さんだったよ。彼女の高校のことを色々話してくれた』
佐々木は事も無げに付け加えた。
『それから、四年前のこともね』
四年前。
俺が聞いたのは去年だから、それは三年前だった。誰も彼もが口にして、深くツッコムと首を横に振(ることになったキーワード。ハルヒが変態超(人(パワーで何かをしたらしい時点から、今までに至った年月。オリンピックが開けるな。
「なんつってた」
『それも直(に尋ねてくれないか。僕もまだ混乱している。ああ、キョン。実際、僕はけっこう動(揺(しているんだよ。プールの授業を明日に控(えた、カナヅチの小学生のようにね』
俺は中学校のプールサイドに佇(む佐々木の水着姿を思い出した。確かに女だったよな、こいつは。クラスの他(の女子に交じっている限りでは普(通(の女子生徒にしか見えなかった。平均以上のところは愛想のよさと、喋(っている最中の輝(くような瞳(くらいだ。そう、男相手に話している間以外はどこにでもいるありふれた中学生で、今は高校生。
にもかかわらず、なぜ佐々木は俺とこんなケッタイな会話を電話をかけてきてまでしているんだ? まったくありふれてなどいない。どこでズレた。誰のせいだ?
「佐々木。お前があいつらの連(絡(係になっているのは解った。だが、なぜお前がそんなことをしているのかが解らん」
電話口で佐々木はしばし黙(ってから、含(み笑いを漏(らした。
『それは僕がキミの友人だからさ。他の誰よりも適任だろう? 僕じゃない誰かに呼ばれて、そうですかと出てくるほど、キミは騙(されやすくはないからね。言い負かしやすくはあったが』
お前に言葉で勝とうとは思わねえよ。
『キミは聞き手として優(秀(だよ。適度に利口で、適度にものを知らない。怒(るなよ。褒(めてるのさ。こちらが話す内容を理解してもらえないのは話し手にとって面白くないが、最初から知っている相手に既(存(の情報を伝えても意味がない。その点、キョンならば安心だ。キミはそんな気配を持っているんだよ。話しかけやすい体質をしている』
どうも褒められている気がしないが、佐々木に言われると納(得(しかけてしまう。思えば、いつもこうだった。
『そろそろ切るよ。妹さんの勉強の邪(魔(をするのは気が引ける。キミの兄としての尊厳を誇(示(する時間を失わせるのもね。明日、ちゃんと時間に間に合うように起きてくれよ。でないと、僕が昔の学生名(簿(を探して押し入れをひっくり返した時間が無(駄(になってしまう。年賀状に番号が書いてあれば手間も省けたんだが』
行くさ。行くとも。
一度話をつけようと思っていたところだ。IFFを確(認(するまでもなく、エネミー判定に充分な前歴のある宇宙人と未来人と超能力者どもだからな。バラじゃなくまとめて来やがったのは俺としても面(倒(がなくて助かるさ。
『湯冷めしないようにね。では、ご家族によろしく』
ゆっくりとした感じで電話が切れた。
俺は大急ぎで風(呂(から出ると、寝(間(着(を着て部屋へとダッシュした。
β─2
ベッドの上でシャミセンが枕(にしていた携(帯(電話を取り上げてダイヤルする。ワンコールで出た。
『古泉です』
正座して待っていたような迅(速(ぶりに感心するぜ。
『そろそろ連絡があるのでは、と思っていましたからね。遅(すぎたくらいですよ。てっきり解散後すぐに来るものかと』
佐々木から電話があって即(座(にしたんだ。これで遅いんなら電話線にタキオン粒(子(を通すしかない。
『ああ、話が嚙(み合っていないようですね。なるほど、あちらから連絡があったんですか。いえいえ、僕は佐々木さんの電話の有無とは関係なく、あなたが僕にかけてくることを予想していたんです。尋(ねたいことがあるのではありませんか?』
「橘京子ってやつと、お前は顔見知りか」
『もちろん知っています。どこまで行っても我々とは意見が平行線の、いわば敵対勢力の幹部ですから』
どんな敵対の仕方をしてるのか知りたいもんだ。陰(でドンパチをやってるわけではなさそうだが、まさか閉(鎖(空間でサイキックバトルか?
『それができたら楽しそうですね。残念ながらそうは解りやすくいきません。涼宮さんの作り上げた閉鎖空間に彼女たちは出入りできませんから。……ただ、橘京子の一派も僕の属する「機関」も、実体はそう違(わないんです。似たような思想の元で動いていますが、解(釈(が違うといいましょうか』
ハルヒが三……じゃない、四年前に世界を創造したとかいう涼宮ハルヒ神様論か。
『証明しようがないので仮説の段階に留(まっていますが、ありていに言えばそういうことです。「機関」の中でも信(奉(者(は多い。我々が涼宮さんに能力を与(えられたという事実に関すれば、まず百パーセントですね。これは理(屈(抜(きで、僕も含めた全員の確固たる認識です』
橘京子は?
『ですから、彼女は涼宮さんに与えられなかった者たちの代表なんですよ。そのくせ、と言うべきですね。彼女たちは自分が本来あるべきだった姿なのだと信(仰(している。我々のように、涼宮さんを主とした従であると考えられない人々なんです。おとなしく傍(観(していればいいものを、なまじ解ってしまうがゆえに表(舞(台(に出ようとしている。気持ちは解(りますけどね』
古泉の解説口調には憐(憫(の情が点々としている。
『それで、佐々木さんからは何と?』
「明日、連中と会う」
俺は佐々木から伝えられた内容のまとめを伝えた。
「なんか知らんが、俺に話があるようだ。ちなみに俺にだってある。一発ガツンと喰(らわしたいほどだぜ」
古泉は短く笑い声をあげて、
『申し添(えておきますが、橘京子があなたや涼宮さんに暴力行(為(を働くことはありません。あの誘(拐(事件にも彼女は否定的だったはずですよ。未来人の甘(言(に乗せられた一部を制(御(できなかったのは失着でしたね。それに彼女たちにとってもあなたがた二人は重要人物なんです。危険なのは長門さんのお相手のほうでしょう。情報統合思念体以上に何を考えているのか解読できません』
くれぐれも御(自重願います、と最後に付けたし、古泉との緊(急(ホットラインは終わった。くだくだと長話にしなかったのは、これだけ言っとけば古泉なら我が意を得るだろうと思ったからだ。俺が誘拐されかかったらよろしく頼(むぜ。
「さてと──」
次は長門だな。
携帯電話のメモリに記録する必要もないくらいに俺はこの番号を明(晰(に記(憶(している。
こちらはスリーコール待たされた。
『…………』
「長門、俺だ」
『…………』
「明日なんだがな──」
応答はロクになかったが、沈(黙(の気配でそれが誰かくらいすぐ解る。俺は一方的に喋(り続け、「というわけで明日、今日会ったあの宇宙人にもう一度会ってくる」と言ったところで、ようやく、
『そう』
長門の素っ気なさそうなセリフが聞けた。
「佐々木を信じれば連中はあくまで平和主義なんだそうだ。古泉も多分そう思っている。で、お前はどうかと思ってさ」
『…………』
辞書で単語を調べているような無言があり、
『現時点における危険性は低い。無視できるレベル』
長門の言うことだけに説得力がある。急に身体(が緩(むのを感じた。
『情報統合思念体は彼等の解(析(に全力を尽(くしている』
「少しは正体がつかめたか」
『まだ。宇宙に拡散する広域情報意識であるところまで』
「お前は、あの九曜とかとはあいさつできたのか?」
『概(念(が共有できなかった。思考プロセスは依(然(、不明』
謎(の宇宙人はまだ謎のままか。
俺が九曜なる女を捕(縛(してどこかの宇宙開発機構に譲(り渡(せないかと考えていると、長門が不意に言葉を継(いだ。
『彼等に対する呼(称(が便(宜(的に仮決定された』
「ほう。いちおう、聞かせてくれ」
『天(蓋(領域』
芝(居(っ気を考(慮(しない長門は、淡(々(と述べた。
『それは我々から見て天頂方向より来た』
α─2
宿題作成に付き合った後、妹の部屋にシャミセンを置き去りにして自室に戻(った俺は、ベッドの上に転がしていた携(帯(電話を取り上げてダイヤルする。ワンコールで出た。
『古泉です』
正座して待っていたような迅(速(ぶりに感心するぜ。
『そろそろ連(絡(があるのでは、と思っていましたからね。遅(すぎたくらいですよ。てっきり解散後すぐに来るものかと』
俺はそれほどせっかちではないんだよ。考えをまとめる時間が要(ったというのは本当のところだが。
「今日のあいつら、ありゃ何だ?」
『僕があなたに訊(きたい質問でもありますが、橘京子に関しては特にこれと言ってありませんね。彼女たちの一派がしびれを切らす頃(合(いだと予想はしていました。あの誘拐事件はその前(哨(戦(ですよ。もっとも、あれは橘京子が意図して起こしたとは必ずしも言えませんが』
お前が弁護側に回るとはな。
『僕としても無用の争いは避(けたいんですよ。丁々発止のやり取りはどうも性(に合わなくてね。幸いにも橘京子はまだ話の通じるほうです。理性的な敵軍は愚(昧(な友軍より賞賛に値(するというのは至言ですね。どちらにしても、おとなしく傍(観(していてくれたらよかったんですが、これも頃合いということになるのでしょう。冬来たりなば春遠からじといった具合です。冷戦のごとき氷河期が続くよりまだよいと思いませんか?』
俺が神経をすり減らすんじゃなければな。
『あるいは可能性として、また未来人に余計な知(恵(を吹(き込まれたのかもしれません。加えて長門さんのお相手が出てきたからには、彼女たちも動かざるを得ないでしょう』
何がしたいんだ? あの連中は。
『正直なところ、橘京子の一派も僕の属する「機関」も、実体はそう違(わないんです。似たような思想のもとで動いていますが、涼宮さんを巡(る解(釈(が違うといいましょうか。ただ、自分たちが間違っている可能性をできる限り排(除(したいんですよ。気持ちは解ります。それは僕にも言えることですので。我々が超(能力じみた力を行使できるのは、涼宮さんが与(えてくれたからです。この確信が揺(らぐことはありえません』
ハルヒが三……じゃない、四年前に世界を創造したとかいう涼宮ハルヒ神様論か。
『信じるかどうかの問題でもないんです。神うんぬんは置いておくとしても、涼宮さんが閉(鎖(空間と《神人》の発生源であり、その鎮(静(のために我々が存在するのは疑いようもない真実です。なぜなら、僕はそうであることが最初から解(っていたからです。いまさら間違いだったと言われても困りますね。それだけは譲れません』
ディベートで解決できたらいいのですが、と古泉は諦(観(したような口調で言い、
『橘京子と佐々木さんはまだよしとしましょう。彼女たちは少なくとも僕たちと同時代を生きる人間ですから、価値観も共有できるし監(視(もしやすい。まったく動きが読めないのは情報統合思念体製ではないTFEIのほうです。周防九曜という個体以外を発見できていないことから見て、おそらくは地球上に彼女単体しか存在しない。手段も不可解なら、目的も解りません。それに比べたら未来人などまだ可愛(いものだと評せます』
朝比奈さんが可愛いのは自明の理だが、未来人全(般(がそうだとは思わん。
『同意見ですよ。僕たちと行動を同じくする朝比奈さんは保護対象に入っています。見事なまでに愛らしい先(輩(ですからね。我々としても放(ってはおけません。ただし、未来の争い事を過去に持ってきて欲しくはなかった。まあ、未来人が関係する事件は未来人同士で何とかしてくれるでしょう』
でないとあまりに無責任ですから、と古泉は言った。
『それ以外のことなら、僕と長門さんで片づけてしまえます。あなたもですね。涼宮さんに迫(る魔(の手を、座視して許したりはしないでしょう?』
まあな。あんなのでも俺たちの団長だ。
『相手がアクションを起こしてくるまで待っていればいいんですよ。必要以上に懸(念(することはない。何と言っても、僕たちの側には涼宮さんがいるのですからね』
β─3
長門との通話を終えるとほぼ同時に、待ちきれなくなったか、妹が教材一式を抱(えてやって来た。
とは言え、すぐさま筆記用具やドリル帳を床(に散らかし、シャミセンと戯(れ始めたため、それが一段落ついて妹の宿題が終わったのは一時間ほど後のことになる。我が血を分けただけあって、学力においてはそう期待できないようだ。妹は単純な四則演算はせっせと解くが、ちょいとヒネられると手も足も出ないらしい。
代わりに解いてやった応用問題集やノートやらを手(渡(しながら、
「終わったら出て行けよ。できればシャミセンも持ってけ。布(団(に乗られて重くてかなわん」
「シャミー、一(緒(に寝(るー?」
三毛猫は胡(散(臭(そうに妹を見上げ、のそのそと俺の布団に潜(り込んだ。
「いやだって」
妹はなぜか嬉(しそうに宿題を抱(くと、踊(るような足取りで部屋を出て行った。俺の妹にしては、素(直(でよろしい。その部分には長所と書いた折り紙を付けてやろう。
俺は何の気なしにテレビをつけ、見るところもなく適当にザッピングをしながら明日のことを考えた。備えはあったほうがいいな。
今日は早めに寝ておくか。
α─3
古泉との通話を終えた後、長門にも電話しようかと悩(んだものの、夜分に電話して訊くことでもないと結論を下し、携(帯(電話を枕(元(に置いた。
もし九曜が長門にとって危急存亡を告げる死神か何かなのだとしたら、さしもの長門も黙(ってじっとしているわけはない。それに明日は日曜だ。慈(悲(深き我が団長が俺たちにくれたまともな週末、思う存分身体(を休めるとしよう。
月曜になればイヤでも教室で、または部室で顔を合わすことになる。長門の宇宙人談義は昼休みに部室に行けば聞けるだろう。
借りっぱなしになっていた本でも読むかと考えていると、部屋のドアをカリカリとかく合図の音がした。開けてやると、シャミセンが喉(をゴロゴロ鳴らしながら眠(そうな顔で入ってきて、ドアボーイをしてやった俺に感謝の言葉も述べずにベッドによじ登り、丸くなって目を閉じた。
まるで世界と猫族の寿(命(は永遠なのだといわんばかりの顔をして。
α─4
翌、日曜日。
特に何をすることもなく、本を読んだりゲームしたりして、ひたすら孤(独(を満(喫(してダラダラするうちに日が暮れていた。たまにはあっていいだろう。ハルヒたちが関(わらない、こういう怠(惰(な休日があったってさ。
また明日だ。憂(鬱(感が促(進(される日曜の夜が終わり、週末を待ちわび続けるための週明け、リセットされた一週間の新たなる初日。
月曜日が始まる。
β─4
翌、日曜日。
午前七時に目を覚ました俺が完全に身(支(度(を整え、自宅を出発する態勢に入ったのは時計のアラームが鳴って三十分後のことだった。
習慣になってる早飯早着替えがこれほど無(駄(に感じたことはない。もうちょっとゆっくりしてりゃよかったが、二度寝すると二時間近くは起きれそうにないからな。
しかたなしに台所で朝刊を読んでいると、寝起きのよさでは家族随(一(を誇(る妹がパジャマのままやってきて、信じられないものを見る目を俺に向けた。
「わ。キョンくんが二日続けて先に起きてる。なんでー?」
なんでも何もあるか。俺はこれでも小学六年生よりはいそがしい人生を送ってるところの高校生である。お前もそのうち、今の自分を思い返して懐(かしむ時が来るんだ。後(悔(しないように小学生時代を満喫しておくんだな。卒業文章にウケ狙(いなことは書かないほうがいいぞ。
「ふうん。今日はどこ行くの? ハルにゃんもいっしょ?」
うっかり答えるとついて来かねない。佐々木は寛(容(に笑(みを広げるだろうが、未来人野(郎(は露(骨(にイヤな顔をするに違(いない。いや、いっそ妹を同(伴(してやろうか。効果的な嫌(がらせになりそうだ。
「今日のは中学んときのツレだ」
だが、俺は適当に妹を追い払(うだけに留(めた。佐々木なら今後いくらでも機会があるし、せっかく未(だにサンタを信じているらしき無(垢(なる純(粋(培(養(で育ってきた妹に現実を突(きつけたくはない。宇宙人は異質そのもので未来人がイヤミ野郎だなんて、夢が壊(れるにもほどがある。
シャミセンとともに家にいろ。それとハルヒから家に電話があったら、なんとか誤(魔(化(しとけ。誤魔化し方は任せる。ただし佐々木のサの字も言うんじゃないぞ。
「はぁい」
とっとっとっと妹は顔を洗いに行く。
今のうちだ。かなり早いが、もう出立するとしよう。妹にあれこれ詮(索(されて藪(から蛇(を出してしまう恐(れがある。家にいるとどうも落ち着かん。さっさと今日のイベントを終(了(させたい気分が胸のうちにわだかまってしょうがない。
しかし、玄(関(を出た途(端(、俺はたまの早起きが功を奏したのを知る。
俺が扉(を開けるのを待ちかまえていたように──。
「雨か」
取り出しかけた自転車の鍵(を元あった場所に戻(し、俺はカサに手を伸(ばしながら定型句を呟(いた。
水(滴(の数をカウントできそうなほどだった小雨が、五月雨(となり、土(砂(降(りになるまで三十秒とかからない。
まるで誰かが俺の行く手を阻(もうとしているような、あるいは警告を発しているかのような暗雲が、降水確率十パーセントだったはずの天を支配していた。
雷(はなかったが。
雨に祟(られながら駅前まで赴(いた俺を、昨日と同じ三人が待っていた。
佐々木は紺(の折りたたみ式、橘京子はフェンなんとかと書いてあるブランド物、長門のデッドコピーみたいな周防九曜は女子校の制服姿でコンビニで買ったような透(明(の傘(を持ち、降りしきる雨の中に三様なる姿を晒(していた。
九曜の異様に幅(広(い波打つ髪(はコンビニ傘の守備範(囲(からはみ出ているが、どう目をこらしても濡(れているように見えず、また無関係な通行人にとってはほとんど透明人間の域に達している。完全に透明化しているわけではない証(拠(に、一(般(人(たちは自分の差している傘が九曜のものに触(れそうになるとひょいと避(けていた。便利なものだ。
ところで、未来野郎の顔がどこにもないのは、あいつはあいつでカメレオンシートでも被(っているからか?
「いや、喫(茶(店(にいる」
佐々木が答えた。
「こんな雨の中を立ちぼうけで待っていられるか、ましてやキミをや──と言ってね。雨宿りをかねて先に席を確保してもらっている」
勝手な野郎だ。二ヶ月経(ってもまったく性格変化していないようだな。あいつにとってあれから何日が経過したのかは知らんが。
「キミと彼とはすっかり親(睦(を深めているみたいだな。何があったのかは聞いていないが、無関心同士よりは上等な間(柄(のようだ。まだ好ましいよ」
佐々木はくっくっと笑い、
「安心した。彼に本当に悪意があるなら、こうも判然とした態度は取らないだろうからね。キョンだけじゃない。彼は僕にも似たような振(る舞(いをする」
なおさら許せん。この時代が嫌(いなら来なけりゃいいんだ。少しは朝比奈さんを見習え。あんな懸(命(にお茶くみ仕事に献(身(する人間など、現在にもそうはいない。
佐々木は低く笑い続けつつ、
「その朝比奈さんのお茶を僕も飲んでみたいものだ。北高を訪問すればいいのかい? しまったな、去年の文化祭にでも行けばよかった。今年は必ず寄せてもらう」
さすがに来なくていいとは言えなかった。
「来るのは別にいいが、うちの文化祭は見るもんなんかほとんどないような──」
「お二人さん」
橘京子の頭が、ひょっこり俺と佐々木の間に飛び込んできた。傘が当たらないよう目(一(杯(手を上にあげて、
「四(方(山(話(は二人の時にでもしてくれない? 今日あなたを呼んだのはね、」
えへんと咳(払(いして、橘京子は俺と佐々木に計二回のウインクを飛ばし、
「積もる話があるからです。とっても重要なのよ、これって。佐々木さんも、ちゃんと話したはずです」
「ごめん」と佐々木は橘京子に微(笑(みかけ、「忘れていたわけじゃない。そのフリをしていただけ。正直言って、あまり気の進む話ではないから」
この間、九曜は1/1フィギュアのように静かに黙(って立っているだけだった。やはり言語に馴(染(みがないのか?
はたして、橘京子が、
「早く行きましょうよ。未来から来た使者さんが店に居づらくなってる予感がします。そろそろそんな時間」
と言って歩き出したとき、九曜はうなずきもせずに動き出し、米(俵(を背負って雪道を進む傘地蔵より少しだけ素(早(い歩調で最(後(尾(をついてくる。血の気のない白(皙(の顔にあるのは、半分寝(ているのかと思えるほどの寝ぼけ眼(だった。こっちの宇宙人は低血圧気味か、湿(気(に弱いのか、日によってテンションが違(うらしい。長門がダイアモンドダストだとしたら、九曜は牡(丹(雪(のイメージだ。
佐々木も橘京子も九曜が存在しないように振る舞っているが、放置していても自動的に追(尾(してくると知っているからだろう。このあたり、ハルヒにおける長門の認(識(に近い。
九曜は想像通りの行動様式を見せ、歩(幅(の割りにはしっかり遅(れずに等(距(離(を保っている。そして俺は、歩いているうちに気がついた。
俺たちの向かっている先は、いつのまにかSOS団の朝の景気づけの場であり、確率九十九パーセントで特定の団員一人──つまり俺──に支(払(い義務が課せられる、いつもの喫茶店だ。
予想は裏切られることがなく、女二人は透(明(ガラスの自動ドア前で足を止め、その向こうにふてくされたような表情でカップを傾(ける男が見える。
そいつは顔を上げて俺たちを認めると、面(白(くもなさそうに唇(を歪(めた。
あの時、花(壇(の植込み付近で出会った頃(と同じ、ダークサイドに堕(ちた古泉のような笑みだった。
ここまでSOS団の真似(事(をせんでもいいだろうに、おかげで座りが悪い悪い。おまけに今俺が座っている椅(子(は昨日と同じで、隣(に佐々木、向かいに異能三人衆というセッティング。
ウェイトレスが四つのお冷やを配り終えて去ってからも、俺を含(めて五つの口はなかなか開こうとしなかった。
俺は未(だ名を知らない未来人野(郎(を睨(むのにいそがしかったし、佐々木と橘京子は表情を緩(めたまま、九曜はビスクドールのように固まったまま、しわぶき一つ漏(らさない。まるで大軍に包囲された落城間近の殿(中(における最後の軍議のような雰(囲(気(……。
司会役を買って出たのは、橘京子だった。
「色々ありましたが」
そう口火を切って、
「欣(喜(雀(躍(の思いだわ。この時が来るのをあたしがどれだけ待ったか解(る? やっとスタート地点に立てました。機会を作ってくれてありがとう」
と、俺に頭を下げ、
「佐々木さんにも。突(然(、無理言ってごめんなさいね」
「うん」
佐々木は短く言って、俺を見上げた。
「キョン、そう恐(い顔をせずにさ、聞くだけ聞いて上げてくれないか。僕はキミの判断を仰(ぎたい。この手のことにはキミのほうが経験豊かだろうからね。僕はそれほど直感と解(析(力に優(れていないので、もっぱら判例や経験則を重んじる人間なんだ。だからこそ、キミがいてくれて心強い。なんせ僕には何一つ基準とするものがないからね」
俺は朝比奈さんとは対極に位置する未来人、眺(めていても目に潤(いをもたらすこと皆(無(な顔から目を離(し、
「手短に願おう」
せいぜい重々しく響(くような声を作ったのだが、反応したのは未来人の声なき失(笑(だけであった。頭に来た。
「まずは名乗りを上げてもらおうか」
いつまでも名無しの未来人野郎じゃ、俺の心証は悪くなる一方だぜ。
俺の再度にわたる熱視線攻(撃(に、皮肉面(の持ち主は二ヶ月ぶりとなる声を発した。
「名前などただの識別信号だ」
嘲(弄(するような声(色(は記(憶(のままだ。窮(屈(そうに身じろぎし、
「どう呼ばれようが僕はどうだっていい。意味がない。それはあんたが朝比奈みくるを朝比奈みくると呼ぶくらい無意味なことなんだ。くだらない」
やたらと否定語の多いヤツだ。やはり妹に委任状を託(して来させればよかった。わずか二言三言でも、こいつと話していると気が滅(入(る。それから朝比奈さんのどこが無意味だ。
「そうは言ってもね」と佐々木がそいつに、「この時代では本名でなくても何かしら呼び名があったほうが便利に事が進むんだ。官職や地位でもいい。肥(後(守(とか国対委員長とか、その手のものでいいからキョンに教えてやってくれないか」
「藤(原(」
案外あっさりと未来人は応じた。
「とでも呼ぶがいいだろう」
「だってさ」
偽(名(でないほうが不思議なそいつの自(称(を聞いて、佐々木は俺に向かって肩(をすくめ、
「これで全員の自己紹(介(はすんだね」
一応の名前だけはな。だが、そんなもんを知るために俺はここに来たんじゃねえぞ。俺なら未来人(男)、朝比奈誘(拐(犯(、天(蓋(領域宇宙人でもいっこうに呼び名に困ったりしないんでね。
「ええ」と橘京子。「これからが本題です」
こほん、とわざとらしい咳(払(いを落とし、宇宙人と未来人を両(脇(に従えたおそらく超(能力者である娘(は、訪問販(売(のセールスレディのような笑(みを俺に向けて、
「あたしたちは涼宮ハルヒさんではなく、この佐々木さんこそが本当の神的存在なのだと考えています」
いきなり爆(弾(を落とした。
俺は冷水をゆっくり口に含み、吹(き出してやろうかと一(瞬(思いついて即(座(に放(棄(し、グラスをテーブルに戻(す間に飲み込んで、それから言った。
「何だって?」
「いえ。言葉通りの意味ですけど。解りづらいところがあった?」
橘京子はひたすら晴れやかに、安(堵(の息を吐(いた。
「ふう、やっと言えた。ずっと伝えたかったのです。なかなか機会がなくて、長い間悶(々(としてたわ。古泉さんさえいなければね、よかったんですけど。いっそこの春に転入するのもいいかなぁって計画もあったのです。でもあの人たち、恐いもの。この前のことで再(確(認(しました。森さんとは二度と会いたくないな」
くすり、と笑う満足げな顔は、普(通(に女子高生のものだった。
「そうなのです。古泉さんが涼宮さんを気にすることを運命づけられているように、あたしたちは佐々木さんを仰(がざるをえないの。でも、宇宙人も未来人も、みんな涼宮さんのほうに行っちゃうものだから、もう不安で不安で。たまりませんでした」
両隣(を交(互(に見てから、
「アイデンティティの崩(壊(を食い止めるには、こうするしかなかったの。古泉さんには朝比奈みくるさんや長門有希さんがいますけど、あたしたちにはいないので違(う人たちが必要だったの。やっと、揃(ったのです」
闇(雲(に信じられるもんではない。ハルヒが古泉言うところの神様モドキでなければ、俺がこの一年間にやってきたことは何なんだっていう話になる。朝倉に刺(されかけたり、実際に刺されたり、夏休みをループしたり、時間遡(行(したり、して来られたり、未来通信の指令に従い続けたり、なによりハルヒの思いつきに振(り回され続けたり、長門が暴走したり…………ハルヒがミステリアスゾーンプレスの使い手でなければ起こりえないことばかりじゃないか。
「それは一つのものの見方。一つの現実。でも現実は何も一つとは限らない。表に噓(があって、裏に真相が隠(されていることなんて推理小説の常(套(手(段(でしょ?」
ミステリ談義なら古泉と、小説論については長門とやってくれ。
「佐々木」と俺。「お前、こんな話を信じたのか」
メニューの裏表を繰(り返し眺(めていた佐々木は、くいと頭を上げ、
「うん、正直言って戸(惑(うばかりだね。僕は自分自身にあまり興味がないし、もともと大(抵(の欲望が希(薄(なタチだし、御(輿(に乗ったり担(ぎ上げられたりなんてごめんこうむりたい。騎(馬(戦(だって後ろの下のほうの役が好ましい。他人に迷(惑(をかけない人生を送れたらそれが一番いいと思ってるんだ。僕が最も嫌(っているのは自己顕(示(欲(の強い人間と、そんな人を見てつい嫌ってしまう自分の心だ」
佐々木はウェイトレスの目を惹(くように手をヒラリと振って、
「ところで注文をまだしてないが、もう決まったかな?」
悪戯(っぽい微(笑(みは、中学の教室で浮(かべていたものとまったく同じだ。
やって来た私服にエプロンを付けた簡素なウェイトレスがオーダーを取る間、一同の中で発せられたセリフは、佐々木の「ホット四つ」のみだった。
未来人・藤原と宇宙人・九曜はアクションめいたものを見せず、ただ「ふん」と鼻を鳴らしたことと、永久に続きそうな無言の中に沈(滞(しているという極(端(な態度であり、俺たちが周囲からどんな目で見られているのか、やや気になるところだ。ひいき目にもまともな高校生プラス1の集まりとは思ってもらえまい。ほとほと感じる。これに比べたらSOS団は全然まともだ。
率先して口を開く役回りになった橘京子が、またしても沈(黙(を打破した。
「そういうわけです。古泉さんから聞いているよね? 四年くらい前に涼宮さんが世界を創造したかもしれないってこと。彼女には変な力があって、でも全然自覚してなくって、知らないうちに閉(鎖(空間を作ってしまうって。古泉さんたちが覚(醒(して、『機関』ができて、それが今まで続いてる。涼宮さんはどんどん願いを叶(えていって、宇宙人と未来人を呼び寄せました。けれど、あたしと仲間たちは、その能力の本来の持ち主は佐々木さんになるはずだったと考えているの」
考えるだけなら自由だろうとも。思考に枷(ははめられんからな。だが、実行に移すとなると話は別だ。ここは法治国家で、そして誘(拐(は大罪だ。
俺がそう言うと、橘京子は簡単に頭を下げた。
「あれは謝るわ。でもね、最初からうまくいかないことは明らかでした。未来から強力に干(渉(されていたわけだから。試(してみただけ。あたし的には成功させるつもりもなかったくらいよ。それでも無(駄(じゃなかったと思います。なぜって、あなたにあたしたちの存在を伝えることができたんですもの。大きな一歩でした」
俺が月だったら変な足(跡(つけやがってと思ったかもしれんな。
「四年前」
橘京子は昨日観(たドラマのあらすじを友人に語るように、
「あたしは突(然(、自分に何かの力が宿ったことに気づきました。前(触(れなんか全然。いきなり気づいたの。理由は解(らないし、なぜあたしなのかも解らない。解ったのは、こうなったのはあたし一人じゃなくて他(にも仲間がいることと、原因が一人の人間にあることです」
よく光る目が俺の隣(に向いた。
「それが佐々木さん。あなたがあたしたちに与(えたんだって、考える前から解ったの。あたしはすぐに佐々木さんを捜(して彷徨(い、その過程で仲間と巡(り会いました。みんな、あたしと同じ認(識(を持っている人ばかり」
俺はワンボックスカーから降りてきた誘拐グループを思い出す。
「佐々木さんと接(触(するかしないか、するんだとしたらどうしようかって話し合っているうちに、あたしたちはアレっ?──て思うことになったわ。なんだか、あたしたちとは違う組織が結成されていて、その人たちがあたしたちと非常によく似ていることが解ったから。それでもって、彼等は佐々木さんじゃない別人をとても気にしているみたいだった」
それが『機関』か。
「そう。涼宮さんを神聖視している人たちがいたの。あたしたちは混乱した。彼等は間(違(っていると思った。間違いは正さないとと思って、何度か会合を開きました。そしたら彼等はあたしたちが違っているんだと言って耳を貸さなかった。そんなの、とうてい受け入れられませんでした。もちろん彼等も受け入れない。あたしたちは決(裂(して……」
ふっと遠い目をした橘京子は、すぐに視点を戻(し、
「今までそれっきり」
「それで?」
俺は言う。他に言いようがあるか?
「だから、どうしたいんだ」
『機関』の敵対組織代表者は、大きめの呼吸を一つしてから、
「あたしたちは、涼宮さんが現在所持している力は、もともと佐々木さんに宿るはずのものだったと確信しています。何らかの事情で間違った人になったの。だから、それを元通りに直したい。そのほうがきっと、世界はいい方向に動きます」
そして、俺の目を直視して、
「あなたに協力して欲しいの」
「佐々木」
俺はその目から逃(れるように、
「こいつ、んなこと言ってるが、お前はどう思うんだ」
「そんな変(哲(な力はいらないね」
佐々木はハッキリした声で、
「言うのも何だが僕は内向きの性格をしている上に平均以下の凡(人(だからね。そのような想像を絶する巨(大(な、ついでに理解不能な力を持っても萎(縮(するだけだ。間違いなく僕は精神を病(む。うん、全力で遠(慮(したい」
「だとよ」と俺。「本人がこう言ってるんだ。あきらめたらどうだ」
「あなたはそれでいいの?」橘京子はひるまず、「あなたは涼宮ハルヒさんに、あんな力を持たせていたいのですか? いつまでも? それであなたは、いつまでも涼宮さんに振(り回されていたい? 解っていますか。あなただけではないの。振り回されるのは、この世界のすべてなんだってこと」
必死さを感じさせる説得の視線は佐々木にも向いた。
「佐々木さんにも言いたいわ。涼宮さんよりあなたのほうが適任なの。これも間違いのないことよ。あなたが特に思い悩(む必要はないの。あなたはそのままで、何も意識せず暮らしていたらいいだけ。あたしには解るわ。佐々木さんは世界を歪(めることはない。それができる人だって、あたしは知っているの」
佐々木の視線は俺に固定されている。「そうなのかい?」と問いたげな微(妙(な笑(みは、俺が中坊(んときに散々見たもので合っている。
頭が痛くなってきた。橘京子が真(剣(かつ真(摯(に言っているのは解る。言わんとしていることも、ああ、解りすぎるほど解るさちくしょうめ。
たとえるならハルヒはカウントダウンシステムのない時限爆(弾(で、しかもランダム設定なもんだから誰にもいつ爆(発(するか予測できない。爆発した際の威(力(もだ。そんなヤツが世界を意のままに操作可能とするマジカルパワーを持っているなんていうことなんざ、釈(迦(かキリスト並みの包容力がないと許容できないだろう。
ただし、ハルヒというヤツをよく知らなければ、だ。
俺は知ってるし、古泉も長門も朝比奈さんも知っている。で、こいつらは知らない。それだけのことだ。たったそれだけの、単純明快な話である。
俺は橘京子へと居直り、
「お前の言い分は理解できるが、今さらどうしようってんだ。どう考えたってハルヒには確率を無視して──まあ迷(惑(だけどさ、ある程度の願望を現実化する力を持ってるのは確かだ。秋に桜を満開にさせたりな。だが、この佐々木にはないんだろ? それこそ手(詰(まりじゃないか。お前がいくら佐々木が神だの何だのと唱えたところで、現実は変わらんぜ」
ハルヒはそれほど精神をボーダーの向こう側へと達しさせていたりはしてないんだ。ある意味常識的と言ってやってもいい。せいぜい俺をアミダで四番セカンドにするくらいが関の山だ。あいつはあいつでこの世界を気に入っているようだから、もうしょうもない理由で崩(壊(させようとはしないさ。閉(鎖(空間と《神人》なら、古泉の小(遣(い稼(ぎの役に立つ程度のリスクでしかない。
「そうね」
橘京子は悲しそうな表情に取って代わり、
「そうなんだけど、やっぱりあたしには佐々木さんが相応(しいと感じられてならないのです。あなたは涼宮さんをよく知っているかもしれないけど、佐々木さんのことも同じくらい知っているでしょ? ともに過ごした期間だって、ちょうど同じくらいなんですもの」
中学三年生時代の一年間と、高校一年生時代の一年間は、そりゃ時間にしたら似たようなもんさ。しかし、密度が異なるぜ。俺と佐々木はバカげた団を作って学校外での時間つぶしにかまけたりはしなかったし、会話量で言えばハルヒの技(あり有効二本で一本勝ちだ。教室では常に真後ろ、放課後には文芸部室であれこれ俺に命じやがるのは団創設以来不変だからな。なおかつハルヒとSOS団は現在進行形で、佐々木とは一年間のタイムラグがある。いくら俺が過去の交友録を大事に保管する性質(なんだとしても、今のアジトをほいほいと捨て去ることなんてできやしない。ハルヒのみならず、長門と朝比奈さんと古泉には大いに世話になったし、逆に俺が便(宜(を図(ってやったこともあった。その三人の団員のためにも、俺はハルヒから他(の誰かに乗り換(えたりできないし、したくもないね。
思いついたが最後、自分の足で走り出すハルヒを不可思議爆弾だからと言って放(り出せるものか。俺はまだあいつに切り札を見せていないんだ。いざって時のいかにも格好のよさそうなシチュエーションじゃないか。
「それに佐々木も迷惑がってるだろ。手を引いたほうが身のためだぜ。古泉はまだしも、長門を怒(らせるような事態を引き起こしたら、連(鎖(反応でハルヒも激(怒(する。どうなっても知らねえぞ」
「だからですね。あたしは涼宮さんが改変能力を発揮したりしないようにしたいの。そうしたら、あなただってビクビクすることもなくなるのです」
橘京子は祈(るように手を合わせ、
「あたしたちは自分の利益なんか考えていません。古泉さんを見てれば解(るけど、涼宮さんのフォロー態勢を維(持(するのはとても大変。でも佐々木さんならそれもなくなるわ。あたしは心から願っているの。世界の安定を」
「そうは言われてもね」
佐々木は小さく溜(息(、そしてカウンターの方向を見ながら、
「遅(いねえ。ホットコーヒー」
グラスの氷を指でつつき、とぼけるように、
「キョン、ふと疑問に思ったのだがね。小学生、中学生、高校生、大学生というが、どうして高校生だけが高学生じゃないんだろう。これは考えるべき問題ではないかな」
「佐々木さん!」
橘京子はじれたように声を高め、すぐ恥(じたようにうつむいた。本気でへこみかけている様子を見て取り、ちょっと同情する。相手が悪かったな。俺が言うのも何だが、佐々木は俺の友人にしては良くできた人格者だ。神様にならないか、なんて言われて飛びつくほどバカじゃない。
おう、余(裕(がでてきたぞ。
佐々木が佐々木でいる限り、誰が敵に回ってもこいつはならない。橘京子は人選を間(違(えたな。こいつはそんなヤツじゃないんだ。
俺は聞き役に徹(している残りの二人、藤原と九曜を指先で示しつつ、
「こいつらはどう思ってんだ。お前が佐々木を神様に仕立て上げたいのは解るが、お仲間はどうなんだ。コンセンサスは取れてんのか?」
無論、こんな訊(き方をしたのは、異人二人の表情を見る限り橘京子の意見など耳にも届いていないんじゃないかと推測したからだ。藤原はめんどくさそうに冷え切ったカップを眺(めているだけで、九曜はどこも見ていないような顔で空中を凝(視(している。
うなだれていた橘京子は、垂れた髪(の間から覗(かせた目を動かし、無反応な未来人と宇宙人を見て、さらに深く頭(を垂れた。
「そうなのよね。これもネックの一つなのです。ちっとも協力的じゃないんですもの」
泣き言のような橘京子の声に、藤原がふっとイヤな笑い方をして、
「当たり前だ。協力だって? 過去の現地民と共(闘(するほど僕は落ちぶれちゃいないさ。利用価値がある可能性を考(慮(してここまで来てやったのに、どうやら期待するまでもなかったようだ」
橘京子が怒(り出すなら俺も同調したくなるような口調で、
「どちらでもいいことなんだ。涼宮だろうが佐々木だろうが、自然現象と考えるならば同じものだ。個々の人間にそんな価値はない。時間を歪(ませる力、時空改変能力。見るべきものはそこにしかない。力が存在するなら、それが誰にあろうと関係ないんだ」
藤原の視線は橘京子を飛び越(えて九曜に向けられた。
「お前もそう考えているんだろう?」
未来人に対して、九曜は無反応だった。モサモサの髪を空調の微(風(にすら揺(るがすことなく、桁(外(れなまでの動きのなさでボーっとしている。自分がどこにいるのかも解っていないような感じを受ける。というか、こいつは本当に俺の前にいるのか? こうして目(の当たりにしても存在感が希(薄(を超(えてゼロに近い。厚みがないというか、工事現場の立て看板でもこいつ以上の生気があるだろう。
再び沈(黙(の帳(が降りそうな雰(囲(気(の中、
「んん……! もうっ!」
勢いよく顔を上げ、橘京子はだしぬけに、
「手を出して」
俺を真面(目(な顔つきで見て、
「説明するより、体験してもらったほうが早いわ。そうすればあたしの言っていることも理解できるはずです。少しでいいから、手を貸してみて」
ささくれ一つない両手を、まるで俺の手相を見せろというふうに伸(ばしてくる。
溺(れてもいないのにその手を握(るかどうするか迷っていると、佐々木が肩(で俺をこづいてきた。
「キョン、橘さんの言うとおりにしてあげてくれないか」
俺は右手を差し出した。橘京子の湿(っぽい指が手のひらを握り、さらに注文を告げる。
「目を閉じて。すぐにすみます」
なんだかデジャヴを感じつつ、その言葉に従ってやる。軽くつむった目(蓋(越(しに間接照明を認めつつ、視界を閉ざされたおかげで鋭(敏(さを増した耳に届くのは店内の喧(噪(とも言えない物音とクラシックのイージーリスニング。これはブラームスだったかな。
しかし──。
「もう開けていいわ」
橘京子の合図と、弦(楽(器(の調べが突(然(消え失(せたのが同時だった。
俺は目を開ける。
橘京子が俺の手を握って微(笑(んでいる。橘京子だけが。
圧(倒(的な静(寂(が俺の周囲にあるすべてだった。佐々木も九曜も藤原もいない。他(の客も店員もどこかに消えていた。集団神(隠(しにあったように、マリーセレスト号のように、長めの瞬(きの間に誰もがいなくなっている。
俺と橘京子の二人が、数(瞬(前と同じテーブルに座って、そして手を繫(ぎ合っていた。
「な……」
目が勝手に泳ぐ。柔(らかい室内灯に照らされた喫(茶(店(は俺たちのみを残してもぬけの殻(だ。何だここは、と口にする前に、俺はどこかで会得した肌(触(りを感じて、それが何かを思い出した。同じようで違う場所。無人。
「閉(鎖(空間……」
「古泉さんはそう呼んでるみたいね」
橘京子は手を離(し、すっくと立ち上がった。
「案内するほどでもないのですけど、ちょっと外に出てみませんか?」
水を得た魚のように、橘京子はステップを踏(むにも似た足取りで俺を誘(う。
座っていても始まらないのは俺も賛同できた。閉鎖空間に侵(入(するのは久しぶりで、考えてみれば過去に二回しかない。一度目は古泉と、二度目はハルヒとか。三度目の今回は、どうやら古泉にタクシーに乗せられたあの時の雰囲気に近い。
俺は橘京子の横に並び、自動ドアが普(通(に開くのを見守った。これも同じだ。どういう理(屈(か、この世界には電気が来ている。
外に出てまっ先にした行(為(は、天を仰(ぐことだった。
雨が止(んでいる。いや、雲もない。空はセピア調のモノトーンで統一されていた。どうやら太陽もないらしい。光源は天空そのものだ。世界全体がぼんやりとした光に包まれている。
「少し歩きましょう」
橘京子が歩き出し、俺も糸に引かれるように後を追う。
街中が完全にノーマンズランド化していても、ゴーストタウンぶりを見せつけられても、俺はさほどの衝(撃(を受けなかった。かつて古泉が説明したまんまだ。
違(うのは──。
俺が二度ほど引きずり込まれたあの空間は、どこもかしこも灰色に彩(られていた。夜だったからかもしれないが、薄(暗(く不気味な世界の光景をまざまざと覚えている。
しかし、ここは毛色が違っていた。オックスフォードホワイト──クリーム色をとことん希(釈(したような光に満ちた世界、俺の記(憶(にある閉鎖空間よりも心なしか明るい。
さらに大きな違い。頭を三百六十度回転させても見えてこないモノがある。あれだけ巨(大(で異質な姿を見(逃(すわけはないのに。
「ふふ」橘京子が振(り返って、「ええ、そうです。ここにはアレは出ないし、最初からいないの。それが一番のお勧(めポイントなのです。いいところでしょ?」
青白い巨(人(、破(壊(衝(動(の塊(、ハルヒの無意識が具現化した存在。
《神人》がいなかった。出る気配もない。五感が俺に伝えてくる。この閉鎖空間には世界を脅(かすものは皆(無(だった。
「閉鎖空間じゃないのか?」
「閉鎖空間ですよ? あなたが知っているのと同じ種類の」
俺に教えることに喜びを感じている顔をして、橘京子は言った。
「作った人が違うだけです。ここは涼宮さんが構築した世界じゃないの」
あいつ以外にこんなもんを発生できるやつ……。
「そうです。佐々木さん。これは佐々木さんの閉鎖空間。って、あたしたちには閉鎖されてるって感じはしないけど、そうですね、違う人が作った同じ料理みたいなもの? 味に個性が出るじゃないですか」
お勧め物件を紹(介(する不動産屋の営業マンのように、
「あたしはここにいると落ち着くの。とても平(穏(で、優(しい空気がするでしょう? あなたはどう? あっちとこっち、どっちが居心地いいと思います?」
「ちょっと待て」
終(の棲(家(を選ぶんなら、両方ともお断りだが、
「佐々木が生み出しただと? 何の理由があってだ。いつだ。《神人》がいないのはなぜだ。何のためにこんな世界がいる」
「理由なんかないのです」と緩(んだ口元が、「この世界は期間限定の箱庭じゃないわ。ずっとこのまま、最初からこうしてあります。そう、四年前から。《神人》が見あたらないのは、そんなのいらないから。だって壊(す必要がないのですもの」
いくら探しても鳥一匹(飛んでいない。静けさが痛いほど耳にしみる。
「そこが大きな違い。佐々木さんは世界を作り替(えたり、破(壊(しようなんて全然考えないのです。佐々木さんの意識は表も裏も、揺(れずに固定されているの。理想的です。現実が気に入らないからって、ひっくり返さない。すべてはあるがままに」
聞こえるのは少女の素(直(そうな声だけだった。
「あらためて訊(きます。どっちがいい? うっかりすると世界をおかしくしちゃう神様と、何もしてくれないけど暴れたりもしない常識の人」
猛(烈(に弁護したくなった。ハルヒにだって常識はあるんだ。たまにネジが緩むだけで、つきつめていけば普通の女なんだよ。昔はどうだったか知らないが、現在のハルヒは現実に寄り添(うようになっている。たまに事態をややこしくするものの、UFOの雨を降らせたりはしない。
確実に言えるのは、あいつは二度と世界を作り直そうとはしないってことだ。
「自信家さんなのね。涼宮さんが無意識にすることなんて、誰にも解(らないと思います。古泉さんにだって、未来人にだってね」
手を後ろに組んで、橘京子はきびすを返し俺の顔を覗(き込む。
「あたしにも解らないから不安なの。でも佐々木さんなら大丈夫です。ここを見たら解るでしょ? 不安定要素がありません」
ニッコリとした笑(顔(には可愛(げの成分がたっぷり振りかけられていた。
「だから、あたしは佐々木さんこそが本当の力の持ち主だと思うの。そうなるべきだったと思うの。涼宮さんがああなっちゃったのは、何かの間違い、誰かの手違い」
未(だ原因不明のハルヒの変態パワー。古泉に赤玉変身能力を付(与(し、宇宙意識の興味を引き寄せ、朝比奈さんによると時間断(裂(の中心にあったとされる何か。
それが佐々木に発現していたとしたら? 現有SOS団勢力はどうなっていた?
想像できんな。
俺は考えるだけ無(駄(な発想を追いやるべく頭を振って、
「それで」ようやく声を回復、「俺にどうしろって話だ。ハルヒの力を佐々木に移植でもするのか? できっこないだろ」
しばらく橘京子は俺をしげしげと見つめ、ふふっと微(笑(んでから、
「そうでもないわ。あなたが協力してくれたらできることです。あなたと佐々木さんがうんと言ってくれたらね。あたしたちの望みはそれだけ。簡単でしょう?」
ぱっと後ろに飛び退(き、
「お店に戻(りましょ。今日のあたしの用件はおしまい。あなたも考える時間が欲しいでしょうから」
そういえば俺たちはどうなっているんだ。喫(茶(店(の椅(子(に座ってて、いきなりここに来て外に出ちまったが、残された佐々木たちからはどう見えているのだろう。
尋(ねようにも橘京子はさっさと来た道を戻っているところだった。考えてみれば無人の世界に男女二人きりでいるのはちと問題か。そんなことを気にしている場合ではないが、俺だって長居はしたくなかった。ここは静かすぎる。まだ《神人》なりがいてくれたほうが動きがあって気が紛(れるだろう。なんてこった。あんなのが懐(かしく感じるなんて、俺の頭はだいじょうぶか?
少女の姿が茶店の自動ドアに吸い込まれた数秒後、俺も店内に舞(い戻った。コーヒーの香(りもしない。
「早く、座って」
三人がけの真ん中、元の席について橘京子がテーブルに手を置いている。俺がまだ体温の残る自分の椅子に座ると、
「目を閉じて手を出してください」
目を開けていれば何が見れただろう、と思いつつ、俺はその手に自分の手を重ねて目をつむった。耳をすます。
橘京子の指にわずかな力が加わり──
すっと手が離(れた。瞬(間(、聴(覚(が回復した。いや、復活したのは世界のほうだ。
BGMのブラームス、小さく響(く雨だれの音、コーヒー豆の焦(げるような芳(香(、それから人々の気配が俺の五感に一気に雪崩(れ込んできた。目を開ける。
佐々木がくいと片(眉(をあげながら、
「やぁ。おかえり……で、いいのかな」
見ると藤原は素知らぬ顔で片(肘(をつき、九曜は寝(ぼけた顔で反応せず、二人に挟(まれた橘京子は氷水で喉(を潤(している最中だった。俺は疑問に思うところを佐々木にぶつける。
「俺はどうなっていた?」
「別に何も」佐々木は手首を返して細い腕(時(計(を見て、「十秒ほど目を閉じて橘さんと触(れあっていたね」
その手で唇(を一(撫(でし、
「で、見たのかい? 僕の内面世界とやらを」
「ああ」
不承不承、俺は首(肯(した。幻(覚(でなけりゃ、行って来たと言ってもいいだろうな。佐々木にとって十秒ほど、俺と橘京子が消え失(せてなかったというのは解(せない理(屈(だが。
「感想はあるかい?」
「ねえな」
「だろうね」
佐々木はくっくっと喉を鳴らし、
「お恥(ずかしい限りだよ。心を覗かれたも同然だ」
「ねえ、佐々木さん」と橘京子はグラスを置き、「やっぱりどう考えてもあなたが相応(しいの。前向きに考えてくれない?」
「うーん、どうだろうねえ」
わずかに首を傾(げた佐々木は、俺に横目を送ってきた。
「キョンはどう思うんだ。僕が持ってもいいものなんだろうか。その変な力というのは」
よしあしで測るもんじゃないと思うし、だいたい何で俺に訊(く。
なんとなくの感覚で解(ることと言えば、佐々木が奇(妙(奇(天(烈(な偽(神(パワーを持ったとしても、草野球のスコアに不満を覚えて発動させたり映画のシナリオを現実化したり八月を巻き戻し続けたりオーパーツをあわや掘(り出しそうになったりしないってくらいだろう。その代わり、負傷した上級生の代わりにバニーでステージに上がったり生徒会長に刃(向(かったりもしなかっただろう。
いや、んなこたどうだっていい。決定的なのは、佐々木が云(々(ってことではないんだ。
俺はさり気なさを装(った視線を対面に送った。
未来人藤原。他(二名。
こいつらに与(することなど、あり得ないにもほどがある。朝比奈さんを呼び捨てにするスカし野(郎(と朝比奈さん誘(拐(犯(、もう一人は俺たちを雪山で遭(難(させ、あげくの果てに長門を倒(れさせたときたもんだ。
考えるまでもねーだろ。
佐々木とは友人で居続けたいが、こいつらと仲よくしても俺の心身が安らぐことはエンプティを振(り切ってマイナスゾーンに侵(入(しているレベルだぜ。
俺がハッキリその旨(を伝えようと、前段階として大きく息を吸ったとき、
「お待たせしました」
出鼻をくじくタイミングで、ウェイトレスがトレイに四つのカップを載(せてテーブルに近づいてきた。
俺は発言を一時中断し、そろって黙(り込む他の連中の輪に加わった。単なる世間話でもそうだが、電波かと思われるセリフを関係者以外の耳にお届けしたくはないからな。
気(詰(まりな沈(黙(が覆(い被(さる中、カップとソーサーが立てる陶(器(の触れあう音がやけに明(瞭(に聞こえる。一つは佐々木の前に、次に俺、橘京子の順にホットコーヒーが置かれ、最後に九曜の前に──。
ガシャン。
驚(きの展開が目の前で起こっていた。
それまでピクリともしなかった九曜が、ウェイトレスの手首を片手でつかんでいる。
いつ腕(を動かしたのか、まったく目に止まらなかった。動いた気配すら感じさせず、しかし九曜はしっかりと女性店員の腕、それもテーブルにカップを置こうとして受け皿を持った手を握(りしめている。
完全な無表情を前方に固定したまま、片手以外を寸分も動かさずにだ。
「……あ?」
俺はアホのように口を開ける。
もっと驚いたのは、ウェイトレスの持ったカップが、皿から相当飛び跳(ねただろうに中身を一(滴(たりともこぼしていないことだった。割と派手なSEを放ったことからみて、相応の衝(撃(があったのは間(違(いない。
なぜ──?
すぐに解った。
「いかがなさいましたか?」
やんわりと微(笑(むウェイトレスさんは、気を悪くしたふうでも戸(惑(ってもいなかった。他人から見れば何のことはない笑(みだろう。しかし俺の背筋に氷柱(のような悪(寒(が滑(り落ちたのは理由なくしてのことではない。その人の顔を、俺はよく知っていた。
「喜緑さん……」
我ながら呻(くような声だ。
「……何やってんですか、こんなところで」
「こんにちは」
前(掛(けエプロンをその身に帯びた喜緑江美里さんは、まるで高校の上級生が偶(然(顔見知りの下級生と出くわしたような──要するに今の状(況(そのものの──何気ない表情で会(釈(した。少しの淀(みもない口調は、とても謎(の宇宙人に手首を締(め付けられている真っ最中の有機アンドロイドだとは思えない。九曜の握(力(がどの程度なのか俺も実地で体験したくはないが、ただの力以上の仕事量が働いていそうであり、そして九曜は、何事かと身を乗り出している佐々木と橘京子の丸くなった目を考(慮(することなく、ただ超(絶(的な非人間さで片手以外の身体一部分たりとも──女子校の制服を含(めて──寸(毫(も動かしていなかった。
喜緑さんもまた、非現実的なまでの落ち着きぶりを発揮して、
「失礼ですがお客様」
物言わぬ物体となっている九曜に、
「お放しいただけますか。このままでは、ご注文の品をお届けすることができません」
「─────」
金魚のように瞬(きしない目は、はっきり言ってどこも見ていない。
「お客様」喜緑さんの声はどこまでも牧歌的だった。「よろしくお願いします。おわかりですね。わたしの言っていること……」
両者間で、焚(き火の中の薪(が爆(ぜたような効果音を聞いたのは、俺だけだっただろうか。
「─────」
九曜は緩(やかに指を解(いていった。小指から親指までをシャクトリ虫のように動かして喜緑さんの手を解放すると、さらにゆっくりと手を膝(の上に戻(す。
「ありがとうございます」
コーヒーカップを支えたまま、喜緑さんは丁(重(なお辞(儀(を見せると、改めて九曜の眼前に皿を置いた。九曜が元のブリキ人形状態を維(持(し始めたおかげで、俺は盛大に息を吐(くついでに、もう一度尋(ねた。
「何してるんですか、喜緑さん」
「アルバイトです」
見りゃ解(る。店員でもない者がエプロンつけてコーヒー運んで来るわけがないからな。なぜアルバイトなんぞをいきなり始めているのかを、ロマノフ王朝の隠(し金(塊(のありか以上に今聞きたい。
しかして喜緑さんは、何食わぬ顔で伝票をそっとテーブルに置きながら俺に囁(いた。
「会長には内密にお願いします。生徒会役員は原則、アルバイト禁止ですから」
長門にはいいのか。じゃない、そんなことより。
「ごゆっくり、どうぞ」
応対が嚙(み合わないまま、喜緑さんはトレイを下げて引っ込んだ。三年前からこの店でアルバイトしているような小慣れっぷりだが、お冷やを出したりオーダー取りに来たのも彼女だったのか。今まで気づかなかったのは大衆心理に潜(む見えない人理論が働いていたか、何か宇宙的な力が作用していたか……。あるとしたら後者だな。九曜にできることなら喜緑さんにも可能っぽい。
「誰だったんだい?」
佐々木の問いには、
「学校の、先(輩(」
そう答えるしかなかった。俺が九曜の目立ちすぎるくせに人目を寄せ付けない容(貌(と、新しく入ってきた客の元にすかさず冷水グラスを届ける喜緑さんを比べるように眺(めていると、
「くくっ」
抑(えきれなくなったような変にこもった笑い声を漏(らしたのは、藤原だった。アイロニーにまみれた唇(を歪(ませ、
「はっは。これはいいものを見せてもらった。これぞ茶番の中の茶番だ。ふっくっく、滅(多(に拝むことのできないゼロ次接(遇(じゃないか。実に面(白(い人形劇だ、はっ」
ホットコーヒーを頭からぶっかけたくなったが、未来人は意外にも本気で面白がっているらしかった。俺の前でなければ爆(笑(したんじゃないかと思える勢いで、その実身体(を細かく震(わせている。
驚(愕(顔のまま硬(化(していた橘京子は、やがてあきらめた表情となり、事態についていけないことを示すパフォーマンスのように肩(をすくめ、俺は佐々木と互(いの顔色を探(り合いつつ藤原の反応が何を意味するのか無言のままに問いかけたが、ありもしない答えが得られるわけもなく、九曜の白い顔だけがカップから立ち上る淡(い湯気で隠されていた。
思いも寄らぬアルバイター喜緑さんの闖(入(により、藤原と九曜以外のスタンダード高校生トリオ(俺含む)はすっかり毒気を抜(かれてしまい、気味の悪い思い出し笑いをする未来人と、ホットブレンドを一(顧(だにせず故障した鉱石ラジオ並みに動かない宇宙人製アンドロイドの相手をするのにも疲(れてきたなと思っていると、
「─────」
九曜は何の前振りもなく無音で立ち上がると、ハイレベルな忍(者(マスターよりも足音を立てずムービングウォークに運ばれてるみたいな滑(らかな動きで自動ドアに向かった。さすがは文明の利器、人間には解らなくても機械的センサーには解るらしい、サッと開いたドアをくぐった九曜は、傘(立(てのコンビニ傘を忘れず回収してから、いずこともなく姿を消した。俺たちの間に漂(う雰(囲(気(を察してくれたのかもしれない。だが、何しに来たんだ、あいつは。
「あたしも」
橘京子が弱々しくあるも健(気(な笑みで、
「今日は疲れちゃった。帰ります。でも、あと少し、話したかったな。佐々木さん、またお願いします。あ、ここの払(いはあたしに任せてください。平気だから。今日はありがとうね」
気(丈(に言って席を立つとキャッシャーへと進み、店員さんに「領収書ください。宛(名(は空(欄(で」などとやり取りしつつ支(払(を終え、小さく手を振(って小(雨(の中を傘差して去っていく。
俺もまた未来人の嘲(弄(の対象になるのは少なからず気分を阻(害(するため、暇(を乞(うことにした。部屋に帰ってシャミセンと昼(寝(せねばならん。
「またな、佐々木」
「ああ」佐々木はしんみりと俺を見上げて、「近いうちに連(絡(することになると思う。迷(惑(なのは承知しているよ。けどキョン、僕としてはこの一件を長引かせたくない。次の全国模試が迫(っているしね。早めにケリをつけてしまおう」
「まったくだ」
心の底から同意する。お前でよかったよ。俺の知る、中学時代のままの佐々木でな。
藤原は最初のふてぶてしい面(構(えに戻って俺たちの会話を聞いていたが、最後は何も言わず、いたずらに俺の気を損(ねることはなかった。俺をビックリさせるためのように出現した喜緑さんの存在にひっかかりを覚えたとはいえ、たぶん九曜の観察目的と推察すれば納(得(できる。これが長門だったら九曜相手に融(通(がきかなそうだし、朝倉が復活しなくて何よりだ。ナイフの餌(食(になるのは、俺のバカな人生中でも金(輪(際(断り続けたい経験の一つだ。
こうして俺は喫(茶(店(を出たため、残った佐々木と藤原が何を話したのかは知らない。
知りたいとも思わなかった。この時には。