ワンダリング・シャドウ 3

 金曜だった。期末試験も球技大会も終わり、あと高一の最後にすることと言ったら、来年度のクラス割りを気にしながら春休みを待ちわびることくらいである。卒業式も二月末に終わっちまってるし、北高生の三分の一がいなくなったことで校舎はどこかかんさんとしているが、来月になったらういういしい新入生が大挙して押し寄せて来る。それは在りし日の俺たちの姿でもあった。

 果たして俺はせんぱいと呼ばれる身分になるんだろうか。SOS団に入団を希望する新一年生などいないとは思うが、さてハルヒがどう出るかだな。

 二時限終わりのまどぎわ後方二番目の席で、俺が日差しだけはすっかり春めいた太陽光線を浴びながら大きくびをしていると、

「キョン」

 さいこうの席にいるやつが俺の背中をシャーペンの先でつついた。

「なんだよ」

 新入団員かんゆうの口上なら考えるつもりはないぞ。

「ちがうわよ。そんなのあたしが考えることだし。じゃなくって」

 ハルヒはペン先を教室の前方へと移動させ、

「今日、阪中が休んでるの気づいてた?」

「いや……。そうだったのか?」

「そうよ。朝からいなかったじゃないの」

 これはおどろき。ハルヒが他のクラスメイトについてげんきゆうするなど、谷口のアホぶりを口にする以外では朝倉の一件以来である。

らいを受けた手前があるんだもの、今日ぐらいに散歩コースが元にもどったかどうか、きんきようを聞こうと思ってたのよ。あんたは気にならなかったの? それにさ、犬は可愛かわいかったしシュークリームも美味おいしかったしね。あたしはそんなに忘れっぽい人間じゃないわよ」

 本来なら、ハルヒにもようやくクラスで気になるような女友達ができたかと本人に代わって喜んでやるところだったが、言われてみれば気にかかる。なんせ阪中家きんこうに犬がタブー視していた一帯があったというのはまぎれもない事実であり、事実は事実として未解決のままほったらかしにしているからだ。そこに来て阪中の欠席。つながりがあっても不思議ではないが、

「季節の変わり目だからな。風邪かぜでもひいたんじゃないか? それかもう学期末だ。サボったって罪は軽い」

「かもしんないけど」

 しゆしようなことにハルヒも同意した。

「あたしだってSOS団の活動がなければ、もう学校に用はないからね。でも、あのそうな阪中が平日を勝手にカレンダーの赤い日にするわけはないわ」

 休日を勝手にSOS団の活動日にしてしまうお前が、こよみを忠実に守っているとは思っていないさ。

「うーん」

 ハルヒはシャーペンをくちびるの上にのせ、

「もう一度調査しに行こうかしら。今度はみくるちゃんにナース服を着せて」

 何の技能もないニセナースに来てもらってもこんわくされるだけだろうぜ。ていうかお前、シュークリームをもういっぺんいたいだけだろ?

「ばか。J・Jにも会いたいわよ。あの羊みたいな毛をったらどうなるかとか思わない?」

 ハルヒが手持ちぶさたそうにシャーペンを指先で回し始めたとき、三限開始を告げるチャイムが鳴った。



 事態が一気に進展したのは放課後だった。

 俺は部室で古泉相手にしようを指していて、長門は読書、朝比奈さんは巫女姿よりよほどお似合いのメイド姿でお茶くみにはげんでいる。

 そこに、そう当番でおくれていたハルヒが飛び込んできた。

「キョン、やっぱりだったわ!」

 こういうことを言い出すときはたいていがおのハルヒだったが、どうしたことか今日はみようゆううつブレンド配合だ。異常事態の予感がする。

「阪中の休みの理由がわかったの。本人も元気なかったけど、本当に元気がないのはルソーで、病院に連れて行ってたんだって。だけど病院では原因不明って言われてものすごくしょんぼりしてて、心配で心配で学校なんていけなかったっていうことなのよ! 電話口で阪中、今にも泣きそうな声してたわ。朝から何も口を通らないくらいに胸が苦しくて、でもルソーも何も食べないからもっと苦しいっていう──」

「ちょっと落ち着けよ」

 と言うしかなかった俺に、一方的にまくしたてていたハルヒはセリフを中断されたことをおこると言うよりは、おぼれる子供を見捨てていくはくじよう者をにらむ目で、

「何よ、あんた。J・Jが病気だっていうのにのんきにお茶なんか飲んでて。J・Jは水いつてきも飲めないほど弱っちゃってんのよ!」

 お茶飲んでて罪に問われるんだったら古泉と朝比奈さんも同罪だが、それよりどうしてお前がいきなり登場したかと思ったら阪中家の内情をがなり始める事態になったのか、そっちをまず教えてくれないか。

「掃除してるちゆうに阪中のけいたいに電話してみたのよ。どうしても気がかりだったから。そしたら──」

 本日二度目の軽サプライズだ。いつの間にかハルヒと阪中は番号をこうかんし合うあいだがらになっていたらしい。

「掃除なんかしてる場合じゃないわ」

 ハルヒは手にした携帯電話をり回しながら、

「やっぱりあの場所には何かあったのよ! あたしが思うに、きっと病気になる元みたいなものなんだわ。だってほら、阪中言ってたじゃない。近所の犬が具合を悪くしてるって」

 それは俺も聞いたし、今言われて思い出した。

「同じしようじようならそうなのかもしれんが……」

「同じ症状なのよ」

 ハルヒはきっぱりと、

「さっき阪中に聞いたの。かかりつけの動物病院に連れて行ったら、そのお医者さん、何日か前にまったく同じ症状の犬が来て今も通院してるってさ。たずねてみたらそれが樋口さんところの犬だったんだって」

 樋口さんてだれだ?

「もうバカキョン! ここに来たとき阪中が言ったでしょ! 犬いっぱい飼ってる樋口さんよ。阪中の家の近くに住んでる。そのうちの一頭が具合悪くしてるって、あんた聞かなかった?」

 だから今思い出したよ。お前だって電話で聞くまで忘れてただろうに、俺ばかりを責めるのはすじちがいだ。だが、ルソーが病気? あんなに元気そうだったのに。

「何の病気なんだ?」

「それが原因不明だって言うのよ」

 ハルヒは団長席に着くことも忘れたように立ちっぱなしで、

「お医者さんには首をひねられたらしいわ。身体からだのどこにも悪いところはないんだけど、とにかく元気だけがなくて、樋口さんところのマイクもそうなの。極度の食欲しんでぐったりしたまま動かないらしいわ。ワンともクンとも言わないからますます心配なわけ」

 まるで俺のせいだと言わんばかりのハルヒの眼光をさけ、俺は部室にいるほかの人員を見回した。

 朝比奈さんはルソーがなぞの病気と聞いて心から心配そうな顔でぼんきしめ、長門は本から顔を上げてハルヒの声に耳をかたむけている姿勢、古泉はばんめんに置きかけていた金将をそっと元の位置にもどしながら、

「再調査の必要がありますね」

 ペットの不調を案じる飼い主にじゆうが向けるようなみをかべ、

「もともとこれは阪中さんが僕たちに持ち込んできたらいでもありました。ここまで関わった以上、とうてい看過できません。最後までおつき合いするのが筋と言えます」

「そ、そうですね。おいに行かなきゃ……」

 古泉の意見表明に対し、朝比奈さんもうなずいた。

「…………」

 長門が本を閉じ、無言で立ち上がる。

 なんとも、全員がルソーの身を心配してるようなこのシチュエーション、たった一日、ともに行動しただけだというのにこうも全員の心をとらえるとはおそるべきカリスマ性を持つ犬だった。

「あんたは?」

 いどみかかるような視線でハルヒが俺を睨んでいる。

「どうなのよ?」

 そして当然、俺だってあのヌイグルミみたいなワンコロが不調をきたしていると聞いて心安らかではいられない。シャミセンと違って温室育ちの貴族階級のようなスコットランド産テリア種だ、身体だってそうそうがんじようではないだろう。

 それ以前に原因不明の健康不振というのが気にかかる。俺はハルヒに気取られないように視線をらし、任意の人物へと目を向けた。

「…………」

 あの場所に何もなかったことを保証してくれた長門有希は、どこか考え込むような表情でかばんを手にするところだった。



 朝比奈さんのえを待つのもそこそこに、俺たちは学校を飛び出してほぼ競歩と言っても過言ではないスピードで坂を降り、文字通り発車ぎわだった電車に飛び乗って阪中の家を目指した。ひとたび行動を開始すると決めたハルヒの機動力と指揮能力は、敵軍をついげきするモンゴルへい隊隊長以上になるのである。

 あっという間に再び高級住宅街へとやって来た俺たちは、阪中家のりんを押すハルヒの指先を見た。

「はい……」

 出てきた阪中は見るからにしようぜんとしていた。ものげな顔つき、今まで泣いていたようなれ気味の目で、

「入って。涼宮さん、みんなもありがとう。わざわざ……」

 をとぎれがちにする阪中の招きに応じ、俺たちはこの前も通されたリビングへと足を向ける。ごうソファの上、おそらく阪中の指定席であろうところにルソーが両手足を引っ込めるような形でそべっていた。白い毛並みにも心なしかツヤがなく、あごをソファに投げ出すようにしてぐったりとしているルソーは、大人数で登場した俺たちに見向きもせず、耳の一つも動かさなかった。

「ルソーさん……」

 まっ先に朝比奈さんが近寄り、しゃがみ込んで犬のはなづらのぞき込む。つぶらな黒いひとみがぴくりと動き、悲しげに朝比奈さんを見ると、またゆっくりせられた。朝比奈さんはルソーの頭に手のひらを置いたが、条件反射的に耳先がわずかにれただけだった。確かにこれはただごとではなさそうだ。

「いつからこうなったの?」

 ハルヒが問い、阪中がろうしきったような声で、

「たぶん昨日の夜。その時はねむいのかと思って気にしなかったのね。でも朝起きてもずっとこういう感じだったの。この場所から全然動かないし、ご飯も食べないの。だから朝の散歩もダメ。心配になって病院に行ったら……」

 ハルヒが部室でさけんでいたようなことが判明したというわけか。一つは原因不明、一つはもう一ぴき同じしようじようの犬がいる。

「うん。樋口さんのマイク。ミニチュアダックスなのね。ルソーともいいお友達だったんだけど……」

 朝比奈さんはいたわるようにルソーをでている。小さき物の命を大切にしなければならないことを知っている人特有のやさしさで。朝比奈さんの悲しみが俺にまででんして、人知れず胸を打たれていると、その感傷をやぶるように、

「少しおきしていいでしょうか」

 古泉がしゃしゃり出てきた。

「そうなると樋口家のマイク氏がルソー氏と同様のしようれいうつたえたのは、今日から五日ほど前になりますね。今のマイク氏の具合はどうなっているのですか?」

「樋口さんには昼ごろに電話してみたの。マイクはずっと元気なくて、今でもそうだって。食べ物を受け付けないから病院でてんてきしたり、栄養ざいを注射してもらっているって言ってた。ルソーもそうなっちゃったらどうしよう」

 いつまでもそれではすいじやくする一方だろう。つい数日前まで元気に飛びねていた犬の映像を思い起こし、現在との落差の激しさを改めて思う。パッと見だけでは、コタツの中で動こうとしないシャミセンそっくりの無気力さだが、それが犬ともなれば事情がちがう。さすがに本気で心配になってきた。

「もう一つ」と古泉。「マイク氏とルソー氏、このような症状が出ているのは二頭だけですか? あなたには犬の散歩仲間が大勢いらっしゃるということでしたが」

ほかの人からこんなの、聞いたことがないのね。マイクのときにけっこううわさになったから、あったらきっとあたしも聞いてると思うんだけど……」

「そのマイク氏ですが、飼い主の樋口さんのご自宅はここからすぐ近くですか?」

「うん。向かいの家の三げんどなりだけど……それがどうかしたの?」

「いえ、特には」

 古泉はおだやかに質疑をしゆうりようした。

 阪中はうつむき加減に、

「やっぱりゆうれいなのかなぁ。病院の先生にもわからないなんて」

 すがりつくような小さな声に、ハルヒはまゆの間をくもらせながら、

「そうねぇ……。なんかヘンよね。幽霊かどうかはいいとして、笑い事ではない感じがするわ」

 最初に幽霊だという話に飛びつき、朝比奈さんを巫女みこにしてきようさせたことをいるような顔つきだった。本気でおんりようや悪霊を相手にするなら格好だけの巫女さんではダメだったか、と反省しているような気配である。ハルヒにしてはなやんでいる様子だ。

「ねえ、有希、なんとかなんない?」

 どうして長門に質問するのか不思議だったが、言われた長門のほうはごく自然に動き出した。かばんていねいに置くと、すすっとルソーの前に移動、心配げな朝比奈さんが空けたスペースにしゃがみ込み、そしてルソーの顔を正面からえた。

 俺が息を飲んで見守っていると、

「…………」

 長門は手をばしてルソーのがつに指をもぐらせると、くいと持ち上げ、まばたきのきよくたんに少ない目でルソーの黒い瞳を真っぐに見つめ出した。まるでDVDのえんばんから直接情報を読み取ろうとしているようなしんけんな目の色をしている。ほとんど鼻と鼻がくっつきそうな至近きよで、長門はルソーの目をぎよう、そのまま三十秒ほどそうしていただろうか。

「…………」

 長門は幽霊以上に幽霊じみた仕草で立ち上がると、全員の視線を浴びながら元の立ち位置へともどり、ゆっくりとわずかにだけ首をかしげた。

 ハルヒがためいきをつく。

「そう、有希にもわかんないの? まあ、そうよね。うーん……」

 長門に何を期待したのかは知らないが、この場であっさりりようできるなら長門の万能度は度をしすぎているだろうな。さすがの宇宙人もゴッドハンドの持ち合わせはなかったか、と俺までかたを落としていると、背後に何やら強い気配を感じた。

 り向く。長門が俺に視線を向け、ゆるやかに瞬きしてから、マイクロミリまで目盛りのついた定規で測らないと解らないくらいのうなずき方をした。すぐにらされる。

 だれの目にも止まらなかったはずだ。ハルヒも朝比奈さんも阪中もくたりとしたルソーに気を取られて長門にまで注意が回っていない。だがゆいいつ、長門の動作に目ざとく気づいたろうがいた。

「ここは一時てつ退たいですね」

 古泉が俺の耳元でささやく。

「ここにとどまっていても僕たちにできることはありません。そう、僕やあなたにはね」

 こっそりと古泉は微笑ほほえんで、さらに小声を出す。いきをかけるなよ。気色悪い。

「急ぐことはありませんが、おちおちもしていられません。なにより涼宮さんがあの調子ですから。彼女が我々のおそれるようなアクションを起こす前に事態を収束させねばならないでしょう。それができるのは……」

 古泉のにゆうな目が長門をとらえ、しかしウインクを向けたのは俺へだった。

 何の合図だか──と、しらばっくれたいところだったが、なぜか解ってしまうのは俺が本質的には頭がいいからなのであろうか。長門や古泉の表情うかがいばかりにひいでたところで受験には何の役にもたちそうにないが、今回はそう言ってはいられないな。古泉のためではなく、ルソーと阪中のために。

 手を打つ必要があるだろう。



 阪中の家を辞した後も、ハルヒと朝比奈さんはたましいを病気の犬のもとに置いてきたような上の空ぶりをろうし、歩きながらも電車の中でもずっとだまりがちで、俺たちが電車に飛び乗った駅に降りたっても阪中の落ち込みぶりがでんせんしたように気もそぞろだった。

 気持ちは俺も共有するさ。元気だったものが元気じゃなくなっていく過程を見るのはつらいものだ。ゆううつでいるより校舎を走り回ってくれているほうが安心するのは俺も同じだ。それが人でも動物でもな。

 しかし、犬の病に関して現時点で部外者にできることはない、というのが古泉の告げた冷たい結論だった。

「今は見守りましょう。動物病院の方も無能ではないでしょうから、いまごろ対応策を研究中だと思いますよ」

 研究して判明するようなものだったらいいさ。だが、そうでなかったら? ルソーのそうになんて俺は立ち会いたくないぜ。

「幸い僕の知り合いにじゆうの方もおられます。いろいろたずねてみることにしますよ。何か手がかりが出てくるかもしれません」

 古泉のとってつけたようななぐさめにも、ハルヒと朝比奈さんの反応はうすかった。うん、とか、ええ、とか言葉をにごすようなことをつぶやくのみである。

 いつまでもこうして暗いふんひたっているわけにもいかず、ここで俺たちは散会することになった。というより無理矢理した。そうでないと本当にいつまでも全員そろってしょんぼりし続けるハメになりかねなかったからな。

 ハルヒと朝比奈さんが肩を並べて線路沿いの道を歩いていく。本来なら俺や古泉もそっち方面のルートを辿たどった方が家に近いが、ハルヒは全然気づかないようで、両者ともすぐに姿が見えなくなった。

 二人には悪いがじや者は消えた。朝比奈さんは残ってくれてもよかったが、今回の事件に彼女の出番はないはずだ。

 俺と古泉といつしよに女子二人の帰り様をながめていた長門が、自分のマンションへ身体からだを向けた。ただし、なかなか第一歩をみ出さない。

「長門」

 ショートヘアのがらな制服姿が機械的に振り向く。俺の呼びかけを予測していたようなスムーズさで。

 その顔を見て俺は直感した。やはりな。長門にはわかっていたんだ。だからえんりよなくこう。

「ルソーにいているのは何だ」

 少しは考えるかと思ったのだが、長門は簡単に口を割った。

「情報生命素子」

 その解答を聞いて、俺は、

「…………」

 と、なる。

 俺の無言を理解不足と思ったのか、長門はセリフをぎ足した。

けい構造生命体共生型情報生命素子」

「…………」

 ますます無言になる俺に対して、長門はさらに説明しようとしたようにくちびるを開いたが、がいとうする言葉を持たなかったのに気づいたように押し黙った。

「……………………」

 そのまま二人してちんもくしていると、

「要するに、かのルソー氏は姿の見えない地球外生命体にひようされているんですね」

 古泉がたんらく的な解答を述べ、長門は少し間を持たせるような、だれかに許可をしんせいしているようなポーズを取った後、

「そう」

 と、うなずいた。

「なるほど。その情報生命素子というのは、人間の目に映らない、というよりも姿そのものがなく、つまり単なる情報そのものであると理解していいでしょうか」

「かまわない」

「すると情報統合思念体に似通った存在ですか? コンピュータ研の部長を乗っ取った、あのネットワークかんせんタイプの情報生命体のように」

「情報統合思念体やあのしゆとは存在レベルがまったく異なる。あまりにも原始的」

「たとえでかくすることはできますか? もし統合思念体を人間に置きえたなら、その珪素構造生命体共生型情報生命素子は何に比定されるでしょうか」

 一回聞いただけでよく覚えられたものだ。ここぞとばかりの古泉の質問こうげきに、長門はだんと変わりなく答えた。簡潔に、

「ウイルス」



「それでなんですね? まず最初の犬が身体……いや精神の調子をくずし、それと同じしようじようがルソー氏にも発生したのは、情報生命素子なる異性体がウイルスのようにぞうしよく、感染するからなのでしょう」

 古泉はびたまえがみはじくように指でさわり、

「ところでそのみような情報生体が、どうして地上にいて、それも犬に寄生することになったのですか?」

「おそらく」

 長門はあわい声で、

「宿主としていた珪素構造体が地球の引力にそくされいんせき化したのだと推定される。その珪素構造体は大気けんとつにゆう時のさつ熱でしようめつしたが、情報を構成要件とする生命素子は物質が消えても残存する。情報は消えない。残った情報生命素子は地上に固着した」

「それが、犬の散歩道にあった、あの場所付近ですね。そして、そこをたまたま通った犬に乗り移ったと」

「珪素生命体の持つネットワーク構造と犬類の脳内神経回路がるいしていたと思われる」

「しかし同じようにはいかなかったというわけです。結果的に犬たちはすいじやくすることになった」

 古泉と問答をり広げていた長門だったが、つと思案するように口を閉ざしてから、

「感染ではない。一体の情報素子がさくメモリの増大化を計っている」

 何のことだか──。

 だが、どうしてだか古泉には解ったようだ。

「一ぴきの犬ではリソース不足だったんですね。ですが二ひきでもとうてい収まりきるとは思えません。珪素で構成される生命体一体のネットワーク構造を過不足なく再現するには、何頭の犬の脳が必要ですか?」

そんデータベースにある珪素生命体の規模を最小と推定して計算する。……地球上に存在するすべての犬科属を使用しても不足」

「ちょっと待ってくれ」

 俺はきよだいな不安とともに割って入った。

「ルソーともう一頭が変な宇宙病原体にやられたってのは解った。そのウイルスろうが隕石にくっついていたってのも、まあ何とか理解した。だが、すると何か。この宇宙には……俺たちみたいな人類……ええと長門、お前がいうところの有機生命体……つまりその有機物でできた生命体じゃない生命体なら存在するってことなのか」

 長門はふっと考えるような目をして、

「その質問への解答は生命そのもののがいねんをどうとらえるかによって左右される」

 あやうく吸い込まれそうになるくらいにとうめいひとみで俺を見つめ、

けいを主幹とした構造体の中に意識を内包するものなら存在する」

 すらすらと回答してくれたが、んな重大なことをこんなところで俺相手にあっさり言われても困っちまうぜ。せめてSETIでもやってるサイクロプス計画の立案者に教えてやったらおどりしてきんりに走り回ると思うのだが。

「ところでだな」

 ここまで話が進んどいて、今さらきにくい部分でもあるのだが、

「珪素ってな、どういうシロモノだ?」

 あいにく化学の授業と教師とは二つまとめて折り合いが悪いんだ。

「一言で言うとシリコンです」

 古泉が答えた。

「半導体の材料として有名ですね」

 古泉は興味深そうなみを長門に向けつつ、

「長門さんが言っているのは、いわゆる機械知性体のことでしょう。我々人類がいまだなし得ない人工知能。ところが宇宙のどこかには人工でない機械知性、自ら意識をかくとくした非有機生命体がいるということです。いえ、むしろ全宇宙をかんすればそちらの方がいつぱん的で、実は僕たち人類のほうがとくしゆなのでは?」

 長門は古泉をすっぱりと無視し、ただ俺を見つめている。まるで解答を俺にゆだねているように。

 というところで俺は思い出した。最初に長門から借りた本。はさんであったしおりの語句に導かれるまま、長門の部屋に初めて連れて行かれたときに聞かされた言葉だ。

 ──情報の集積と伝達速度に絶対的な限界のある有機生命体に知性が発現することなんてありえないと思われていたから──。

 古泉は無意識のようにあごでている。

「もしや、珪素構造体はただの物体でしかなく、情報生命素子が宿って初めて知性を得るという仕組みになっているのですか?」

 長門は空を見上げ、だれかの許可をあおぐようなみような仕草をしてから顔を元の位置にもどした。

「知性とは」

 少し間を開けて、

「情報を収集し、ちくせきした情報を自発的に処理する能力レベルによって判定される」

 今日の長門は久々に──いや、俺に正体を告白したあの日以来に──おしゃべりだった。やはりこいつでも得意分野になるとじようぜつになるのかね。

「情報生命素子は珪素生命体に寄生し、彼らの思索行動を補助する役割を持つ。原始的な情報生命素子は単独では一つの情報群でしかない。新たな情報を獲得し、処理するには物質的な構造を持つネットワーク回路が必要。両者は共生関係を取ることによりたがいに利益を得る」

 しかし、その珪素生命体とかいうのはどういうヤツなんだ。地球の引力に引かれて大気けんで燃えきるまでボーっとしているような、気の遠くなるくらいののんびり屋なのか?

「彼らの生体活動は思索に限定される」

 長門はたんたんと言う。

「思索以外のことは何もしない。宇宙空間は広大。彼らが重力に落ち込む確率はゼロにきんしている。そのため生命や自己保存といった概念を持たない」

 宇宙をさまよいながら何を考えてんだ?

「彼らの思考形態を有機生命体が理解することは不可能。論理ばんが異なり過ぎるから」

 コミュニケーション不能か。ならNASAに教えなくてもよさそうだな。コンタクトしたところでどうせ徒労に終わりそうだ。

「やれやれ」

 阪中のゆうれい話から一気に宇宙の彼方かなたへと話が飛ぶとは、大いにやくしすぎだぜ。しかも知性がどうとか思考形態がどうのとかとなると、せいぜい長門に借りたハードSFを何冊か読んだくらいにしか素養のない俺にはどうにもならん。

 科学的なのかてつがく的なのか宗教的なのかも判断付きかねるというものだ。不可視の情報生命やら、そいつが宿る思考するシリコンのかたまりやら……。だったらよほどわかりやすく幽霊だったほうが。

「ん?」

 と俺は不可思議な引っかかりを覚える。そう、阪中の持ってきたフリは幽霊のうわさばなしで、幽霊と言えばれいこんだ。

「じゃ、たましいはあるのか?」

 実体のない情報生命素子とやらが地球外生命体の知性の源だという。それでもって宿主にしていた本体がしようめつしたものの、いていたほうの情報生命素子が残り地上をフラついていたというこの場合、そいつはまさに幽霊じゃないか。

「人間はどうなんだ。俺たちにも考える頭があって、そこには意識ってものが入っているはずだ。ひょっとして、肉体がほろんでも精神は残るのか?」

 これはけっこう──いや、けっこうどころでない大事な話だぞ。あるとないでは今後の人生の歩み方に大きくかかわってくるぜ。

 長門は答えず、ただみような表情を見せた。と言っても無表情なのはいつも通りなのだが、何というかふんが変化したのを俺は見て取った。誰が気づかずとも俺には解る。こいつとの付き合いもそろそろ一周年だ。そのくらいのどうさつ力がつちかわれるだけの時間はじゆうぶんあったし、そうならざるを得ない出来事だっていくつもあった。その俺が言うんだからちがいはない。

 長門は──、

「…………」

 無言で、無感情で、しかし、それでいて何らかの表情をかべたがっているように思えた。そして俺の観察力がエンプティラインを指しているのでない限り──。

「…………」

 まるでこれから自分の発するジョークに対して、微笑ほほえみをこらえているように思えたのだ。

 そうして、長門が口にした言葉はいちじるしく短かった。

「それは、禁則こう



 大げさなためいきが聞こえた。俺の口からき出された息である。禁則事項か。これまた、いつか俺も使いたい言葉だな。答えようのない質問を受けたときとかにさ。今度授業で指されたときにでも教師に向かって言ってやろうかね。

 長門が生誕史上初のじようだんを言ったのかどうかも大問題といえばそうなのだが、それはともかく、今はルソーのことが最優先だった。宇宙的ウイルスろうをどうするかが問題だ。

「何とかするしかないな。長門、できるか?」

「可能」

 そう言ってくれる長門がひたすらたのもしい。

とうがい情報生命素子の構成情報をせいぎよ、最小化したうえで圧縮アーカイブし活動停止状態に置く。ただし書庫化したデータを保存する生体ネットワークが必要」

 よく解らないがややこしい。すぱっと消し去っちまったらどうだ?

「消去は不可」

 なぜ?

「許可が下りない」

 お前の親玉のか?

「そう」

 その情報生命素子は銀河系のぜつめつしゆに指定でもされているのか。

「有益な存在」

 人間にとってのビフィズスきんとか乳酸菌みたいなもんらしい。

 古泉にもってやろう。何をおもしろそうな顔をしていやがる。

けいの塊にそいつを宿らせてロケットで宇宙にもどすわけにはいかないのか。お前の組織ならできるんじゃないか?」

 古泉はひょいとかたをすくめ、

「シリコンバレーからインゴットを取り寄せるくらいならいくらでも用意しますし、水素燃料ロケットのほうも込み入った政治工作と大がかりな経済活動をおこなえば可能かもしれませんが、珪素生命体の準備までは手が回りそうにないですね」

 だめか。いや……待てよ。

 俺ののうれいな文様の金属棒がかがやきつつよぎった。鶴屋さんの持ち山ではつくつされ、鶴屋家所蔵になっているげんろく時代のせき物。アレはこの時のために用意されたものか? 過去からのおくものなぞのオーパーツ……。

ちがうか」

 鶴屋さんの話では写真に写っていた棒状物質は、チタニウムとセシウムからなる合成加工金属だった。もし学会に広く公表したらたいこくの所在地どころのさわぎではなくなるだろうが、アレは水につけたら復活するかもといった、かんそうワカメ的な珪素生命体の化石などとかいう都合のよさとはえんの産出物である。また別の機会に必要となる物体か、もしくは永遠にふういんすべきものなのか、あるいは俺たちの時代よりさらに未来に残すべき品物なんだろう。できれば二度と見たくはないな。俺がきっかけで発見したものだとはいえさ。

 俺が自分のさくまいぼつしていると、古泉の声が現実に引き戻した。

「幸い急を要する事態ではなさそうです。最初の犬が体調をくずしてから、二ひき目と思われるルソー氏にしよくしゆばされるまで、数日のタイムラグがあります。今日明日中に何とかしておけば、これ以上がいまんえんすることはないでしょう」

 地球上と広大な宇宙では時間の感覚も相当違うだろうからな。ウイルスもどきが宇宙時間を採用していてくれて助かったと言うべきか。

「阪中さんの家をおとずれるのは明日でいいでしょう。休日ですしね。ただ、訪問の理由を考えておいたほうがいいかもしれませんね。日を置かずにいに行ってもしんには思われないでしょうが、実際にはりようしにいくのですから。さらにもう一頭、樋口さんの犬も同様の処置をしなければ」

 古泉のセリフを俺は半ば聞き流していた。そういう理由はお前が何とでも考えろ。治療も処置もするのは長門だ。

「明日だな。すまないが頼んだぜ、長門」

 心を阪中家に残して来たハルヒと朝比奈さんのように、俺は俺で心が宇宙へ飛び出しそうなのをおさえなければならなかった。そんなわけで俺はぼんやりとしており、ぼんやりしたまま立ち去りかけた身体からだに急制動がかかった。なんだなんだ。

 振り返ってみると、長門が俺のベルトに指をかけて静止している。止めてくれるのはいいんだがな、長門。せめて声をかけるとか、あるいはそでぐちを引っ張るとかしてくれないかな。俺としては後者を希望したいところなのだが。

 長門の無表情な口元がゆっくりと動いて、

「必要なものがある」

「何だ」

ねこ

 俺があっけにとられていると、長門は言葉を選び出すような口調で言った。

「あなたの家の猫が望ましい」



 しばらく古泉と長門と俺とで計画を練った後、俺は自宅に向かって歩きながらけいたいでんをかけた。

「ハルヒ? ああ、俺だ。ルソーのことで話がある。実はな、帰るちゆうに聞いたんだが、長門が昔読んだ本の中に、今回のルソーと似たような犬の病気の話があったそうだ。……うん、治療方法も書いてあったんだと。絶対うまくいくとは言い切れないが…………ああ、わかってる。ためしてみる価値はあるだろ? やり方は長門が知ってる。だから明日、もう一度阪中の家におじや……今から? そりゃ無理だ。用意するもんがあってだな、明日にはそろうからそう急ぐな。古泉……じゃなかった、長門によれば急に容態が悪化するもんじゃなさそうなんだ。……そうだな、阪中にはお前から言っといてくれ。あ、それからだな、もう一ぴき犬がいただろ? 樋口さんとこのマイクとかいうやつ。そいつも……そうだ、阪中の家に連れてくるようにと伝えてくれ。朝比奈さんには俺から言っとく。じゃあ、明日の……九時な。それでいいだろう。いつもの駅前集合ってことで」



 翌日、SOS団集合ポイントとしてそろそろ観光名所になりそうな駅前に行くと、まだ二十分も前だってのに全員が俺を待っていた。

 ただし、いつもと同じ表情でいるのは長門と古泉だけで、朝比奈さんは不安そうなお顔でたたずみ、ハルヒは有り金をすべて宝くじにつぎ込んだ人間がちゆうせんむかえたような顔をして、

おそいわよ」

 どこか複雑な顔つきで俺をにらんだ。

 この日ばかりはハルヒもてん代おごりをばつそくとして課すことはなく、俺のうでを取ると改札へずんずん歩き始める。

「あんたが来る前に古泉くんに聞いたわ」

 ハルヒは人数分のきつをまとめて買いながら、

「有希が民間治療を試してくれるんですって? 陽猫病の」

 ヨウネコビョー? 何だそれは。ポリネシアあたりに生息する新種のようかいか。

「ルソー氏がかんしたと思われる病ですよ」

 切符を受け取った古泉が自動改札口へ片手を広げた。俺がボロを出さないようだろう、早口で、

「本来活発であるはずの犬がこれといった原因もなく、ある日とつぜんあたかもまりにうずくまる猫のように動かなくなってしまうしようれいを指します。非常になケースでしてね。医学書にもっていません。一説にはノイローゼの一種なのではないか──」

 古泉は俺に向けてウインクし、

「──というのが、僕が長門さんからお聞きした説明です。長門さんは古い本からそのことを知ったそうです。でしたよね?」

 一人、制服姿の長門がだれの目にも解りやすくうなずいた。なんとか打ち合わせの通りにしてみました、といわんばかりのぎこちなさで。

 長門は古泉がげている有名百貨店のかみぶくろを見つめ、それから俺が持っているキャリーボックスに目を移した。

「にゃあ」

 箱のすきをかりかりつめいているシャミセンが、長門にあいさつするような声で鳴く。

 ハルヒはコンと猫用キャリーをはたき、

りように猫がいるなんて不思議な病気ね。有希、ホントにだいじょうぶなの? それ、しんらいできる本?」

 治療ってよりはじよれいに近いのだが、ハルヒに教えてやるわけにはいかない。長門が無口属性を持っていてよかった。

 長門はだまったままこくりと首をけいしやさせ、俺に向かって片手を差しべてきた。そんなふうに手を伸ばされても俺が持っているのはシャミセンの入ったプラボックスだけだぜ、と思っていると、

「猫」

 長門はよくようの平らな声で告げた。

「かして」



 かくして俺は手ぶらとなり、ねこ入りキャリーボックスは電車に乗っている間、座席に座った長門のひざの上に置かれていた。電車の中だからなのか、長門が無言で何かの合図を送っているのか解らなかったが、シャミセンはさわぎもせずに大人しくしている。

 長門をはさむようにして席についているハルヒと朝比奈さんが猫の入った箱を気にしているのとはたいしよう的に、中身と言うなら俺は古泉の手提げ紙袋のほうがよほど気になるね。

「ご心配なく、ちゃんとそれらしいものを用意してきました」

 男二人して電車とびらにもたれるように立っているので会話がハルヒに届く心配はない。古泉はかさりと紙袋をって、

「一晩で用意するのは少々手間でしたが、何とかね。後は長門さんしだいです」

 長門のしゆわんに疑問を持つ余地などないさ。必ずルソーを救ってやれる。俺が今から頭を痛めているのは、事後処理に関してだぜ。

「そちらは僕の役割ですね。これは僕のかんですが、それほどはんざつなことにはならないと思いますよ。涼宮さんを見ていれば解ります。目下のところ、彼女にとっての最優先こうはルソー氏の完治ですから。それさえ果たしてしまえば僕たちの任務も終わります」

 だといいんだがな。

 俺はゆうしようかべる古泉から目をらし、電車の減速にそなえて手すりをつかんだ。阪中の家に続く駅まではたったの二駅。あまり考えている余裕はなかった。



 阪中の家にじやするのはこれで三回目だ。まさか一週間のうちに三度も上がり込むことになるとは思わなかった。

 むかえてくれた阪中は昨日と同様しょげていたが、いちの希望をいだいているようで、俺たちを見る目にすがるような色が交じっている。

「涼宮さん……」

 泣きそうな声で言葉をまらせる阪中に、ハルヒはな顔でうなずいて振り向いた。見ているのは団員の中で最もゆうしゆうと目される、長門のほっそりした制服姿である。

「まかせといて、阪中さん。こう見えても有希は何でもできるしっかりっなんだから。J・Jもすぐによくなるわ」

 ほどなく通された阪中家の居間には、阪中母ともう一人の女性がいた。見たところ女子大生っぽいが、どうやらその人が樋口さんというもう一ぴきがい犬の飼い主であるのは、うかない表情を観察するまでもなくわかる。彼女にかれてぐったりしているミニチュアダックスフントがマイクという名を持つのもな。

 ルソーの不調は昨日のままだった。ソファの上でじっとしたまま動かない。目は開いているがどこも見ていなさそうな感じは、マイクとまったくうり二つのものだ。

 ここからだな。俺は長門と古泉に目配せする。

 そして開始されたのは、長門がたんたんと指示を告げ、俺がアシスタントを務めるという、昨日、俺と長門と古泉でおこなった三者会談によって決定されたものだ。それらしい道具は古泉が用意してきた。どこから持ってきたのかは知らんが、こういう時には役に立つろうだ。けい構造体を持ってくるよりははるかに簡単なことなんだろう。

 まずカーテンを閉じて日光をしやだんする。当然電灯はつけず、部屋をうすぐらくした上で、俺は古泉が持参した荷物の中から太くてカラフルなろうそくを取り出し、年代物のキャンドルスタンドにき立ててマッチで火をともした。さらに小さなつぼこうりようを入れ、こちらにも火をつける。ヘンな色とかおりをしたけむりがゆるやかに立ち上るのをかくにんし、俺は長門に合図を送る。

 長門はキャリーボックスからシャミセンを取り出し、りようわきかかえるようにして抱いた。実はそれはシャミセンのいやがる抱かれ方だったが、なぜかいつもはきばねこも長門にはていこうだった。

 俺はせきばらいをして、

「えー、ルソーのとなりにその犬も置いてもらえますか?」

 若くて気品ありげな樋口さんは、まるでじゆじゆつでも始めそうな俺たちに不安そうな顔をしていつつも、進行役を務める俺の言葉に従ってくれた。ソファに横たわる犬が二ひきに増え、たましいかれたように力なくぼんやりしている。

 そのソファの前に、長門が猫を持ってひざまずいた。

 最後の仕上げだ。俺はデジタルレコーダーのスイッチを押した。テルミンとシタールをしゆせんりつとしたキテレツな音楽が流れ始める。正直やりすぎではないかと思うんだが、ギミックにるならとことんまでというのが古泉の主張だった。

 蠟燭のほのおたよりなく灯り、みように甘ったるいにおいのおこうがたかれて、オリエンタルなインストゥルメンタルが流れる中、長門はかいしきとしか思えないような行動に出た。

「…………」

 薄暗い室内でも白い顔はフリーズドライされたかのような無表情。その白い顔と同じだけの白さを持つ手が動いた。片手をルソーの頭に乗せ、なで回すような仕草をしてから、その手をシャミセンの額に当てる。未知の家、しかも犬二匹と正対しているのにシャミセンは感心してやっていいくらいにじっとしていた。

 長門はシャミセンをルソーの鼻先まで近づけていく。ルソーの黒いひとみかんまんに動いて三毛猫の見開いた瞳と重なり合う。長門はまるで、ルソーの身体からだからシャミセンの身体に何かを移すようにこうに手を動かし、同じことをマイクにもおこなった。長門のくちびるが小さく動いて言葉として聞こえないような言語を発していた、と気づいているのは俺と古泉だけだったろう。

 最後に長門は、シャミセンのせまい額を二匹の犬のはなづらに押しつけ、とうとつに立ち上がった。何も言わずにシャミセンをキャリーボックスに押し込むと、すたすた歩いてきて俺のむなもとに持ち上げて言った一言が、

「終わった」

 当然、全員がぜんとしている。キャリーを受け取った俺もそうなのだから、ハルヒや朝比奈さん、とりわけ阪中と樋口さんはなおさらであろう。

 口を開きっぱなしでは何だと思ったのか、開きついでのようにハルヒが、

「終わったって、有希。今ので? というか今の、何だったの?」

「…………」

 長門はただ、首をひねって二匹の犬に視線を飛ばした。見るのはあっちだと言うように。

 全員の視線がソファに向けられた。

 そこには──。

 よろよろと、だが生気のもどった目で立ち上がり、それぞれの主人を愛らしい仕草で探す犬たちの姿があった。

「ルソー!」

「マイク!」

 阪中と樋口さんがけ寄って両手をばす。くーん、と鳴いて二匹の犬は弱々しくもって応じ、飼い主のほおめた。



 朝比奈さんがもらい泣きするくらいに感動的なシーンの数分後、リビングはうさんくさい呪術スペースから日常の風景を取り戻した。

 ルソーとマイクは台所で阪中母に食事をもらっている最中であり、高そうなテーブルを囲んでソファに座っているのは俺たち五人と阪中、樋口さんだ。その二人に、

「長門さんがおこなったのは、ねこを使ったアニマルセラピーを動物相手におこなうという画期的なりよう法なのです」

 あまりにも苦しい古泉の説明だが、ほがらかながおと明快な口調のせいかみなだまされてくれた。

ろうそくとお香にはアロマ成分がふくまれていまして、きゆうかくするどい犬には人間以上に有効です。音楽はちようかくうつたえかけることでリラックスできるものを選びました」

 デタラメにも限度があるが、なにしろ本当にルソーとマイクは元気を取り戻したのだから結果オーライ、阪中と樋口さんの喜びようははんではなく、これまた飼い犬とむすめの元気が同時に戻って阪中母にも大感謝され、以前ハルヒが絶賛したシュークリームを山のように焼きまくって出してくれた。

 母親以上に喜んでいるのは阪中で、

「でも本当にすごいのね。長門さん。動物の先生も知らなかったことを知ってるなんて」

「有希はね、SOS団一のばんのう選手なの」

 無言でシュークリームを食べている長門より、ハルヒのほうが鼻高々に、

「たくさん本読んでて物知りでギターも料理もうまいし、スポーツだってインハイ級なのよ」

「治療法が長門さんの読んだ古いぶんけんの中にあって助かりました」

 追加フォローする古泉はゆうに紅茶をすすり、

「漢方薬の中にはなぜ効果があるのか科学的に説明できないものもあるそうです。民間療法もいちがいにはおろそかにできないということですね」

 と、デタラメのうわりとしか思えないことを言った。

 用済みとなったアロマセットはまとめてかみぶくろの中にねむらせてある。同じく治療の道具として使われたシャミセンだけでも、せめてキャリーから出してやろうかと思ったが、阪中家の高価な家具でつめぎなどしたらせつかんではすまないのでそのままだ。長門の手をはなれた今は、にゃごにゃごと箱をらしているが、しばらくほうっておいたらうたたでもしてくれるだろう。

 本当なら特大の功労賞をあたえなければならないのはシャミセンであり、ほかの道具は単なる目くらましなのだが、それは俺と長門と古泉の胸に秘めておけばいいことさ。

 長門がすべきことは情報生命素子のとうけつ、それだけだった。

 だから、やろうと思えば長門はかんした犬二ひきの中に情報生命素子を凍結することだってできたわけだ。たんてきで最も簡潔な解決方法だったが、それでは後々問題が生じる。樋口さんところのマイクや阪中愛するルソーがてん寿じゆを全うし、天にされた後も凍結状態の情報生命素子は残ってしまう。活動を停止したそいつが何かのひようかいとうされ、再び動き出す可能性は無視できないという。ならばそいつを常時かん状態に置ける生命体に設置するのが最善のことである。宿主となる生命体は何でもよかった──俺とかハルヒでも──が、一番問題のなさそうなしろとして長門はシャミセンを指名した。かりそめにでも人語を話したことがあるというちようじよう現象を体験したオスのねこ。この際新たな宇宙的変態性能が加わってもたいした問題にはならないだろう、何か変化が生じたらすぐに俺が気づくし……という仕組みである。

 やれやれ、と言うだいたいあんとして俺は手作りシュークリームを口にめ込んだ。

 阪中もとんだ災難だったが、その災難のもとを体内に閉じこめた猫の飼い主となった俺の立場はだれかんあんしてくれるのかね?

 長門のマンションがペット可なんだったら、いっそじようするという手もあったんだが、妹の説得に時間がかかりそうでもあるし、俺としてももう情がわいているしな。いいさ、シャミセン。いっそのことねこまたになるくらいまで長生きしてくれ。

 一気に祝賀ムードになった阪中家のリビングで、俺は再びシャミセンがしやべり出す日があるのかもなと考えていた。



 俺たちが阪中家を去るころには、ルソーもマイクもうそみたいに元気になっていた。これにはハルヒも朝比奈さんも大いに喜び、二匹の人なつっこい犬をかわるがわるきしめて、とびっきりスーパーな笑顔を見せた。

 帰りぎわ、阪中母はお土産みやげにと、余ったシュークリームを大量に持たせてくれた。特に長門に差し出されたぶくろひときわ大きく、感謝されるべき人物が相応にはいりよされているのを見るのはいい気分だった。だんしようちゆうわかったことだが、やっぱり女子大生だった樋口さんも感謝を形にしたいようなことを言ってくれたものの、ハルヒはきっぱりと、

「いいっていいって。もともとタダでけ負ったことだもんね。マイキーを抱かせてくれただけでじゆうぶん。あたしのSOS団は営利組織じゃないから、お金や物で動いたりはしないのよ。J・Jとマイキーが元気になってうれしいっていうこの気持ちがほうしゆうみたいなものだわ。ね、有希」

 長門はうんともすんと言わず、少しだけあごを引いた。

 古泉は冷静さを失わず、阪中に、

「今回のルソー氏のようなしようじようおちいっている犬が他にいたらご一報ください。可能性は低いと思いますが、念のためです」

「うん。散歩仲間の人たちを一通り当たってみるのね」

 熱心にうなずく阪中だった。

 また学校で、と手をるクラスメイトに別れを告げ、ハルヒはごげんな表情で歩き始める。その後をついて行きつつ俺は思う。

 来年度ハルヒと阪中が同じクラスになれば、それは非常にいいことなのかもしれない。



 駅までの道のりでも帰りの電車の中でも、ハルヒはあることをすっかり忘れているようで、朝比奈さんと犬について語っていた。俺としても忘れていてくれたほうが助かるから、ヘタなことは言わずにおく。

 集合地点の駅前にもどるより早く、俺たちはなしくずし的に散会することになった。ハルヒと長門と朝比奈さんは一つ手前の駅で降りほうが家に近く、まだ昼過ぎだったがシュークリームで腹はふくれていたし、ねこを連れて飲食店に入るのは俺がえんりよする。なので、今日のSOS団的活動は以上でしゆうりようだ。

 俺と同じ改札を通り、同じ駅に降り立ったのは古泉一人だった。

 自宅に向かって歩く俺の横に、古泉が同じ歩調でくっついている。お前の住んでるとこはこっちだったか?

 何かと目立ったりかしましいSOS団女子団員たちと離れ、ちようのうりよくろうと二人で歩いているとしように目や耳がさびしくなるな。

「今日はおつかさまでしたね」

 古泉にそう言われても単なる社交辞令にしか聞こえんぜ。

「何しろ問題の原因が難解きわまるものでしたから。シャミセン氏にもご出張いただきましたしね。それにしても本当に長門さんには色々助けられます。そういえば去年も似たようなことがありましたね。喜緑さんが訪れて、僕たちはコンピュータ研の部長さんを情報生命体から救い出した……。僕たちのところに来るらいは長門さんがらみのものが多いと思いませんか?」

「何が言いたい」

「長門さんがSOS団にいるのははや必然だということです。僕の単なる感想ですけどね。むしろ言いたいことは、あなたのほうが多いのではないかとにらんでいるのですが」

 俺が思うことなんてそんなにないぜ。あえて感想を言うとしたら、カマドウマ寄生体といい、今回のやつといい、まるで磁石に引き寄せられる砂鉄のように宇宙から地球にやって来るのはどういうくつだ? それを言えば長門もそうか。だが長門はハルヒがいたからで──。

 俺はハタと立ち止まる。

 ハルヒ。

 それが答えなのか? ハルヒが発したという情報ばくはつが原因で情報統合思念体は長門を送り込んできて、どちらかというとそれは能動的なこうだ。逆にコンピ研の部長の部屋をあんなふうにしたり、けいにくっついて落ちてきた精神ウイルスもどきのねらいがハルヒにあったとは思えない。前者に至っては、地球に来たのが何百万年も前だと長門が説明してくれたしな。

 もし、ハルヒの無意識が時間をさかのぼってそんな過去にまで作用するようなものなんだったとしたら、かなりの勢いで話がぶっ飛びすぎている。だが、朝比奈さん……未来人がこの時代に来ているということは──。

 俺が心持ちしんけんに考えていると、まるで俺が自分の思考を独り言でつぶやいていたのを聞いたように、あるいは俺が頭をめぐらすのをじやするようなタイミングで、

ぐうぜんだと思いますか?」

 だまっていればいいものを、きつてんのウェイターが客のオーダーを確認するような口調で古泉が声をかけてきた。俺は古泉が何を言い出すか、予感めいたものを感じつつ、

「はっきり言えよ。お前相手に腹のさぐり合いをするつもりはねえ」

「わざわざ僕たちの住む街に宇宙生命体が落ちてきて、その精神寄生体が北高の生徒の飼い犬にき、さらに阪中さんは事前にSOS団に相談に訪れており、たまたま出張って行った僕たち……長門さんが真相に気づいて事件を処理する。これらがすべてへいりつ的に起きたぐうはつ的産物なのだとしたら、それらは天文学的な確率でしか複合しえません」

 そう言われると反論したくなるのが俺のしようぶんだ。ハルヒのかたを持つわけじゃないが。

「だから天文的だったじゃないか。結果的に二種類の宇宙人モドキがかいざいしていたしな。これが偶然じゃなかったから何なんだ。お前のミステリ劇のように、長門がシナリオを書いていたとでもいうのか」

「それはないでしょうね。やったのだとしたら情報統合思念体本体か、まだ未知なる別口の異星人でしょう。涼宮さんが望んだことでもないことは確かです」

 なぜわかる。春休みまでヒマを持てあましつつあったあいつがここらで一つ事件でも──と考えて、それが実現しただけかもしれないじゃねえか。

「言ったでしょう? 涼宮さんの精神はどんどんへいおんになっています。それこそひようけするくらいにね。そして、それが問題なんです」

 俺は黙ったまま先をうながし、古泉はくちびるを指でなぞりながら、

「涼宮さんが大人しくしていたらおもしろくない何者かがまだいるのかもしれません。情報フレア、時空しんへい空間。なんでもいいですが、とにかく彼女の持つぶんせき不能な能力を発現させたいと思う一派がどこかの分野にいるのかもしれないのですよ」

 古泉のがおがだんだんちがうものに見えてきた。朝倉涼子のイメージとダブる。

「ですから、今回の事件はなんらかの予兆なのかもしれません」

 何のだよ。なんでもかんでも予兆にしていいってんなら、俺だって今すぐ予言者の看板を出してノストラダムス二世を名乗れるぜ。

 古泉はシニカルなスマイルをかべ、

「宇宙からの来訪者がこのタイミングで来たのは偶然では説明がつきません。あなたは知っているはずですよ。宇宙人と呼ぶべき存在、それも僕たちのごく近くにひそんでいるであろう地球外知性がTFEI、何も統合思念体の人型たんまつに限った話ではないということをね」

「ちっ」

 あまりしば的なことはしたくなかったが、俺は顔をしかめて舌を打った。古泉、お前がたまに見せるあく的な言動には付き合いきれん。長門を人型端末と呼びたいならそうするがいいさ。事実なんだしな。だが、

「俺は、お前がほかの宇宙人に心当たりがあるってほうが気がかりだぜ」

「『機関』はいろいろな情報源を持っていますからね。僕の知り得ることもおのずと多様性を持つのです。すべてとは言いませんが。ですが、まあ。そうですねぇ」

 やっと古泉のしようがノーマルモードに変化した。

「別口の宇宙人は長門さんにお任せしますよ。僕は『機関』のライバル組織のほうに重点を置くことにします。またそろそろ何かをしかけてくる予感がするのでね。同様に、別種の未来人は朝比奈さんに何とかしてもらいましょう」

 古泉の表情からはしんけんが感じられなかったが、同感だな。ただし今の朝比奈さんではなく、もっと未来の朝比奈さんにだが。

 長門に関しては心配無用だ。今のあいつほど強い自己意識を持っている存在はないと俺がたいばんを押してやれる。いざとなったら古泉、お前も俺といつしよに走り回ってもらうぜ。必要なら何度でもり返してやる。あの雪山での約束を忘れたとは言わせん。

「覚えていますよ、もちろん。忘れたとしてもすぐに思い出させてくれるんでしょう? あなたが」

 さわやかな微笑で応じ、古泉は手を広げた。

「その時が来たら、ね」



「あ、おかえりー」

 部屋にもどると、妹が俺のベッドにそべって俺のマンガを読んでいた。

「シャミ持ってどこ行ってたのー?」

 俺は答えず、キャリーボックスからシャミセンを出してやった。そくにベッドにけ上がり、妹の背中に乗るとマッサージするように前足みをし始めるねこ。妹はくすぐったそうに笑いながら足をパタパタさせて、

「キョンくん、シャミ取ってー。起きれないー」

 猫をき上げ、妹のかたわらに置いてやる。現在小学五年生十一歳、そろそろ小学校でも最高学年にならんとする我が妹は、マンガ本をほうり出すととんの上にうずくまるシャミセンをめったやたらにさわりつつ、鼻をくんくんさせて、

「甘いにおいがするっー。なーにー?」

 俺は土産みやげにもらった阪中母手製シュークリームをわたしてやった。喜びいさんでパクつき始める妹を横目に、俺は机の上に置いていたハードカバー本を取り上げた。

 一週間くらい前だ。学期末考査の終わった頭をクールダウンでもさせようと部室のほんだなにあった長門の所蔵本を借りてきたやつである。「なんか面白い本ないか。今の俺の気分にぴったりなものは」という俺の問いに、長門は五分ほどたなの前でこうちよくしていたが、おもむろにこれを俺にきつけた。まだちゆうばんまでしか読めていないが、それは高校生から大学生に至る二人の男女が織りなすれんあい小説らしく、SFでもミステリでもファンタジーでもない、ごくつうの世界の物語で、様々な意味でその時および現在の俺の気分にがつしていた。長門はじゆうでもアロマセラピストでもうらなでもなく、将来は司書になるべきだ。

 俺はベッドに寝ころんで本を読み始め、妹は二個目のシュークリームを持って飲み物を探しに台所へ降りていった。

 どれほどの時間が経過しただろう。

 読書にぼつとうしていた俺がふと気づくと、シャミセンがドアをカリカリいている。これを開けてここから出せというシャミセンの意思表示である。いつもはこいつが出入りできるように半開きにしてやっているのだが、妹が出たひように閉じてったようだ。

 俺は本にしおりはさみ、猫のためにとびらを開いてやる。シャミセンはするりとすきからろうに出ると、り返って礼でも言うようにニャアと鳴く。そして振り返った顔をそのままにして、俺のかたぐちの上をぎようした。その視線の先を読んで俺も振り返る。

 てんじようかたすみだ。何もない。いない。

 シャミセンは天井の角に向けていた丸く開いた目を、ゆっくりと動かした。視線の終着点には外側のかべがある。まるで俺には見えない何かが天井から壁をすりけて出て行ったような、そんな目の動きだった。

「おい」

 だが、シャミセンがそうしていたのも数秒で、俺の問いかけを聞いたのはやつの尻尾しつぽの先だけだ。てってってっと歩く音が遠ざかる。台所に行った妹につられて、自分もエサをもらおうとしているんだろう。

 俺は猫が入って来やすいように隙間を残して扉を閉め、さっきのシャミセンの挙動がありがちなことを思い出した。動物というのは人がのがしがちな小さい物に反応したり、外の小さな物音にもピクリとするものさ。

 だが、もし。

 人には見えないがシャミセンには見えるようなモノがそこにいたのだとしたら。そのとうめいな何かが俺の部屋の天井に張り付いていて、ふよふよただようように壁を素通りして行ったんだとしたらどうだろう。

 ──ゆうれいはいるのか?

 ──それは禁則。

 何百万年か、何千万年かの昔、地球に犬を宿主にせず、人類をせんたくするような情報生命素子が降ってきたのだとしたらどうだろう。人のほうもルソーみたいなきよ反応を見せず、普通に共生した可能性は完全にゼロだと言い切れるだろうか。それによって原始の初期人類がをつけたのだというのはやくのしすぎか?

 だとしたら、長門の親玉が不思議がるような有機生命体が知性を身につけることだってできたのかもしれない。自力ではなく、地球外からの思わぬおくものによって。

 俺が思いつくようなことを統合思念体とやらが考察済みでないのは不自然だが、ミトコンドリアが元々自前のものではなかったように、いつの間にか体内に組み込まれてしまった精神共生体が太古の昔にさるよりちょっとマシ的な脳みそに入り込み、今までも連綿とがれているんだとしたら、一応の筋は通る──。

「なんてな」

 ってこんなん俺が考えるのは、実にらしくない。人は自分の持つ想像力以上のものを想像できたりはしないものだ。ましてや俺においておや、だ。こ難しいトンデモへくつさく担当は古泉一人に任せておこう。あいつが異星人対策を長門に一任したように、こっちは聞き役に回らせてもらおうじゃないか。古泉がたまに見せる人を食ったようなげんの本質だってわかってるんだ。そのうちボクはてのひらを返すかも知れませんよ、と、あたかも忠告せんかのようなセリフの数々は、全部アリバイ工作に過ぎないんだろ?

 悪いが古泉、アリバイってのはくずされることが前提になってるものなのさ。俺やハルヒにあさじみたちんなエクスキューズは通用しねえ。

 それに、だ。もし古泉が『機関』とかのいんぼうで身動きが取れなくなったとしても、俺にはまだ手が残っている。そうなりゃ全知全能をくし、土下座してでも鶴屋さんを引っ張り込むだけのことだ。あの明るくも天才的なせんぱいが存分にらつわんを振るい笑顔のままあんやくするようなことになれば、さぞかし『機関』とやらのトップもこんわく顔をみせるだろうぜ。

 どうやってそうするか、そうなったらどうなるかは脳みそ一ミリぶんも考えがおよばないんだが。今のところは、というただき付きで。

「……やっぱ、あれこれ考え込むのは俺のしようぶんじゃねーな」

 まあ、いいさ。俺が俺以外のだれにもなれないように、俺の頭ん中にある意識はほかの誰のもんでもなく、イッツオールマイン、俺だけのもんだ。

 だから、いまさら返せと言っても返済期限はとうに時効の彼方かなただぜ。

 と、そうやって俺がやくたいもないことを考えていると、机の上のけいたい電話がブルブルふるえだした。まさか先取りした知恵のとくそく電話ではあるまいなと手に取ると、発信元にはハルヒの名。

「何だ」

『ねえ、キョン。大切なことを忘れていたわ』

 前置きもなしに用件に入るのがハルヒ流電話作法である。

『J・Jとマイキーが治ったのはいいけどさ、どうしてあんなヘンな心の病気にかかったんだと思う? あたしが思ったのはね、あの二ひきは本当に幽霊を見たショックでああなっちゃったのよ!』

 ほらな、古泉。俺が事後処理について思いなやんでいたのが解っただろう。こいつはこういうことを思いつくやつなんだよ。

『たぶん、あたしたちが行った散歩道に一週間くらい前までいたんだわ。あたしの読みではまだじようぶつしていないわね。きっとゆうれいになってあっちこっちをブラブラしているにちがいないの』

「なんの幽霊か知らんが、さっさとごくらくじように行かせてやれよ」

『だから明日、また全員集合! 今度こそ幽霊と記念さつえいしないと』

「幽霊とどうやってかたを組むつもりだ」

『日中じゃダメね、きっと。夜にしましょう。この世に残った霊が会合を開きそうな所を探して、そこで写真をりまくるのよ。そしたら二、三枚くらい写ってくれるわ』

 ハルヒは一方的に集合時間を告げると、俺の日曜の予定も聞かずに電話を切った。数秒後には他の団員にも招集電話がかけられるのはちがいない。どうやら明日の不思議たんさくパトロールは、深夜のしんれいスポットめぐりになりそうだ。

 俺は携帯を置いて、再び部屋のすみながめた。

 阪中の持ってきた幽霊話は、犬の不具合を経由して最終的に長門のかんかつで終わった。幽霊などのかいざいがなかったことを俺は知っているし、古泉にも解っている。しかしハルヒの頭にはまだその言葉は数時間を経て思い出すくらいには残っていたらしい。団長殿どのは宇宙から来たナントカ生命体ではなく、今度こそ本家本元の幽霊をお望みだ。

 ともあれ、市内地図を開いて印をつける役目は古泉にたくしよう。万が一、リアルな心霊写真が撮れてしまったら科学的なイイワケをする役もな。俺は暗がりを歩く朝比奈さんが風の音にビクついて、すがりつかれる役を買って出るつもりだ。

 夜道をねり歩きながらところかまわず記念撮影するなぞの一団か。ハタ目から見れば、写るはずのない幽霊を求めて彷徨さまよう俺たちのほうがよほどかいかもしれん。それでも、そろそろ暖かくなる季節だし、「春ですから」の一言で説明しゆうりようできようというものさ。いざとなったら朝比奈さんに巫女みこ姿ではんにやしんぎよう唱えてもらえばいい。それでハルヒ的にはじよれいかんりようする。

 それにマジもんのゆうれいがいたとしても、ちょっと歩いただけで出くわすほどそこらに群れているわけはないだろう。ハルヒだって本当に会いたがっているわけじゃない。

 もう一年近くハルヒを見ていればそのくらい解る。あいつが好きなのは幽霊なんかではなく、幽霊をみんなで探すというこうなのだ。

 だが、まあ、俺としては──。

「別に出てきても構わないぜ」

 シャミセンが眺めていたてんじようにそうつぶやきかけつつ、俺は読書の続きにもどった。本の中には、俺の周りに広がっているものよりよほど常識的な現実があった。

 しかし、だからと言って、そんな現実的な現実がうらやましいとも感じないんだ。


 今の俺にはね。

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