ワンダリング・シャドウ 2

 阪中の家は北高から続く山道をどんどん下った坂の下にあるローカル駅から電車に乗り、さらに本線に乗りいで一駅行ったあたりにあるそうだ。ちょうど俺たちSOS団が毎度集合場所に使う駅とは逆方向で、俺もめつに行くことはないが、確かなかなかの高級住宅街が広がりを見せているがらだった。

 きんりんの住人でなくてもその辺りの地名はセレブリティがいっぱい住んでいることで有名なので、よもやと思っていたところ、なんと阪中はしようしんしようめいのおじようさまであることが判明した。父親はどっかの建築関連会社の社長さんであり、兄貴は名門大学の医学部に通っているらしく、まさか自分のクラスメイトに良家のご息女がいようとは、もうすぐ学年末になろうかというこの時期になるまで想像外だった。

「そんな、たいしたことないよー」

 阪中は電車の中でけんきよに手を振る。

「お父さんがやってるのは小さな会社で、お兄ちゃんも国立大学だもん」

 それは金のかからないところを無理して選んだというより、単に頭がよかっただけだと思うぜ。それはともかく阪中の兄貴は妹からお兄ちゃんと呼ばれてるのか。今の俺にはひたすらなつかしい、いいひびきを持つ言葉だ。

 俺は自宅の妹の、にへらっとした笑顔を思い浮かべつつ、電車内を見回した。

 阪中の家に向かう道すがらなので、当然俺たちはひとかたまりになっている。SOS団のメンツに加えて同級生一人という人数は仲よく下校するグループにしては多いような気がするが、私鉄電車の中ではそうそう目立たない。なぜならこの時間、車両は下校する学生たちでくされているからである。特にこうようえん女子の制服姿が多く、というかまんさいで、俺たちのような北高生は私立のにおい立つような女子高生パワーによってすっかりかたすみに追いやられていたが、なぜかきようしんしんな視線がこちらに向かって飛んでくる。

「ううう……」

 べそかき寸前のような顔になってつりかわにつかまっている朝比奈さんがその原因である。

 そりゃぁまあ、巫女さんの姿で満員電車に乗っていればイヤでも目立つことはちがいなく、たとえ本職の巫女さんでも白衣にあかばかまという格好で通勤しないであろうことを考えれば、視線を集めないほうがかえって不思議現象だ。

 もっとも朝比奈さんにはかつてバニーガール姿で電車に乗り、そのまま商店街を練り歩いたという前科があるから、それに比べたらしゆつが少ないぶんマシだとかいしやくしてあげたい。

 しかし朝比奈さんに巫女装束をいた非道なる犯人、ハルヒは居合わせた乗客たちのちんなものを見る目つきなどまったく意にもかいさずに、

「みくるちゃん、あくりようをやっつけるじゆもん祝詞のりとかおきようでもいいけど、何か知ってる?」

「……し、知りません……」

 朝比奈さんは始終うつむいたまま背を丸め、小さくなってか細く答える。

「ま、そうよね」

 しゆうによって縮こまる朝比奈さんとは対照的に、ハルヒはひたすら元気だった。

「有希は? 読んだ本の中にあくばらいとかエクソシストのやつなかった?」

「…………」

 長門はぼんやりと窓の外をける風景を眺めていたが、ゆっくりと首をかたむけ、またもどすという動作を二秒ほどかけておこなった。

 長門の言いたいことが俺にはわかったが、ハルヒにも解ったようで、

「ふうん、そう」

 あっさりなつとくし、

「いちいち覚えてなんていないわよね。でもだいじょうぶよ、あたしが覚えているヤツがあるから、みくるちゃんにはそれを唱えてもらいましょ」

 いったい何を唱えさせるつもりだ。もしそれで変なもんをしようかんしちまったら、責任は朝比奈さんでなくてお前がとれよ。言っとくが俺はげるからな。

「バッカ」

 ハルヒはとことんうれしそうだ。

「そんなすごい呪文を知ってたらとっくにためしてるわよ。実はね、中学の時にちょっとやってみたことがあるの。じゆつ書みたいなのを買ってきて、その通りにしてみたわ。でもなんにも出てこなかった。あたしの経験上、流通ルートに乗っている本に書いてあることは役に立たないわ。あ、いいこと思いついた」

 ハルヒの額十センチ上空で電球がまたたく様が見えた気がした。またらんことを思いつかせてしまったようだ。

「今度の市内パトロールは古本屋さんと古道具屋さんをめぐりましょ。あやしい店主が店番してる古くさい店をねらって、本物の魔術書とかしきに使えそうな道具を探すの。こすったらじんが出てきそうなやつ」

 その魔神が願い事を三つほどかなえて素直につぼに戻ってくれるのならいいが、ハルヒのことだ、ふういんされていたきようの暗黒大魔王を解放しちまって世界にきようこうを巻き起こしそうだから不安なのである。いつの間にか悪霊退散の話が完全に逆になっているし、市内にある古書店とアンティークショップがハルヒの目に留まる前に店じまいしてくれることをひそかに願うのみだ。

 そんな俺の胸中を読みとったのか、となりに立ってられている古泉がフッと笑う。つり革を持たずに立っているのは両手がふさがっているからで、古泉は片手に自分のかばん、もう一方に朝比奈さんの鞄を持っている。ちなみに俺も自分の荷物以外にふくろかたにかけていて、そこには朝比奈さんのかぐわしい制服が入っていた。せめてえてお帰りになっていただこうというはいりよである。制服を部室に置きっぱなしにして、明日も巫女みこしようで登校するようなことになれば、朝比奈さんは学校を休みかねず、そんなことになったら放課後俺は何を飲んでのどうるおせばいいんだ?

「ご心配なく」

 安易にけ負ったのは古泉である。

「お茶くみのほうは僕の手に余りそうですが、朝比奈さんの登下校くらいは簡単です。僕が手配しておくむかえのハイヤーを、」

 と言いかけたのでだまらせた。どうせそのハイヤーを運転しているのも『機関』とやらのメンバーだろう。新川さんだけならまだいいが、あのねんれいしようの森さんからはちょっと怪しい気配がする。ひょっとして古泉の上司なのではないかと疑っている程度の怪しさだが。それにその二人以外のだれかだったりしたらなおのことしんだ。古泉の組織には朝比奈さんゆうかいさわぎの時の借りがあるとはいえ、借りは一つでじゆうぶんだろう。

 古泉はまたフフッと微笑ほほえんで、

「森さんにそうお伝えしておきますよ。おそらく苦笑されるでしょうね」

 電車ががくんと揺れて、減速を開始した。降りるべき駅はもうそこだ。

 今考えるべきは『機関』内の組織図でも、次の市内たんさく紀行のことでもない。

 さて、阪中の犬の散歩コースに、いったい何があるというのかね。



 駅から出た俺たちは、阪中を先頭に再び山の方を目指すことになった。ただし北高へ至る道とはちがってかくてきへいたんな市街地の中で、心なしか道行く人々が全員オシャレに見える。幸い巫女さんの交じっている我が一行は、担当地域の平和はげむ勤勉なポリスマンに職務質問を受けることもなく歩くこと十五分程度、そこに阪中の家があった。

「ここなのね」

 阪中がつうに指差した建造物を見て、俺は生まれの不幸をなげく言葉をそくに五つほど編み出した──くらいのそれはごうしやな家だった。いかにもお金持ちが住んでますみたいな、がいへきからげんかんから立派なオーラが出ている三階建ていつけん、それも芝生しばふの広がる開放的な庭つき。

 さすがに鶴屋さんの純日本風大家屋のようなけたちがいのしき面積はないが、近代的なぶん俺みたいな素人しろうとの高校生にも高級感のほどが理解できる。表札の横には当たり前のようにセキュリティ会社のステッカーがられ、屋根付きガレージには外車と高級国産車が二台ほどまっていて、さらにもう一台停められそうなスペースがあった。どんな善行を積めばこんなところに生まれて育って住めるんだ?

 俺がなんとなくぜんとしてると、阪中はさっさともんを押し開いてハルヒに手招き。ハルヒはハルヒで当然のような顔をして上がり込み、長門、古泉、朝比奈さんもそれに続いた。さいこうが俺。

「ちょっと待ってて」

 阪中は鞄からかぎを取り出し、玄関ドアの鍵穴に差し込む。なんと鍵の種類も三つあり、

めんどうなんだけどね」

 と言いつつ、阪中は慣れた手つきでかいじようしていく。家に誰もいないのかというとそういうわけではなく、母親はいるのだそうだ。ただじようが習慣化しているだけらしい。

 ハルヒは庭の芝生に目をやっていたが、

「犬はどこにいるの?」

「ん、もうすぐ」

 阪中がドアを開くやいなや、

「わわんっ」

 というような鳴き声とともに、白い毛糸のかたまりのようなものが飛び出してきた。短い尻尾しつぽりまくりながら阪中のスカートにじゃれつく小型犬を見て、

「わぁ……かわいい……!」

 朝比奈さんが目をかがやかせてしゃがみ込んだ。その手にさっそくお手をして、さらに巫女姿の周りをぐるぐる走るつぶらなひとみの白い犬には、どう見ても血統書が額に入って付いていそうだった。

「ルソー、お座り」

 飼い主の言葉に即座に従うあたりもしつけが行き届いている。朝比奈さんはやわやわとルソーとやらの頭をでながら、

「あの、だっこしても……?」

「うん、いいよ」

 朝比奈さんは不器用にその小型犬をき上げ、ルソーくんはわふわふ言いながら客人のほおをぺろりとなめた。こういう犬になれるんだったら来世は犬でもいい。

「これがルソー? 電池で動くオモチャみたいね。何ていう犬?」

 朝比奈さんにきゅっと抱きしめられても大人しくしている血筋よさげな犬の頭をつっつきつつ、ハルヒがたずねる。

「ウェストハイランドホワイトテリアですね」

 古泉が阪中より先に舌をかみそうな種族名をすらすらと答え、博識ぶりをにアピールしやがった。阪中は「よく知ってるね」と言いつつ朝比奈さんのほうようを受ける飼い犬にいつくしむような目を向ける。

可愛かわいいでしょ」

 確かにな。むくむくとした白い毛並みと、それにもれるような黒い目がまるでヌイグルミのようだ。ウチの家でゴロゴロしている元ノラの雑種ねことは、生まれも育ちもカースト制度のてっぺんと最下層くらいの差があるね。マハラジャとジャンバラヤくらいに違う。まあシャミセンもあれはあれでアタリの猫なんだが。

 長門はまるでシャミセンがそうするように、十秒ほどホワイトテリアのルソーをまばたきせずに観察していたが、やがて興味を失ったように再び視線をぼうようたるものにした。ふむ、こいつの気になるものは少なくともこの犬にはないらしいな。

「ちょっとみくるちゃん、いつまでそうしてんのよ。あたしもその犬っころで遊びたいわ」

 ハルヒの言葉に、朝比奈さんは名残なごりしそうにルソーを手放し、見知らぬ人間が大勢いることにハイになっているのか、ルソーはびはねながらハルヒの手元に飛び込んだ。がさつな抱き方だが、ハルヒに文句も言わずルソーくんは尻尾を振り続ける。

「ふっかふっかね。このジャン・ジャック」

 おいハルヒ、人んちの犬を勝手に改名するなよ、と俺がつっこむより早く、

「あはは。涼宮さん、それ、あたしのお父さんと同じ呼び方」

 くしくも阪中のおやさんと同センスであることをていしたハルヒだったが、いっこうに気にすることもなくフランスのてつがく者みたいな本名を持つらしい犬に高い高いをしながら、

「で、ジャン・ジャックが不思議なものを散歩のルートでぎつけたっていうわけね。そうなのね?」

 犬に向かって話しかけているが、当然ルソーは尻尾を振るばかりで答えず、飼い主がうなずいた。

「うん、まあ。でも不思議なものかどうかはわからないけど。ルソーだけじゃないし、ほかの犬さんたちもだし、何だか不気味でしょ。それでゆうれいじゃないかってうわさに」

 阪中もその犬仲間もずいぶんたんらく的だと思ったが、それは幽霊なみに不思議な存在、たとえば未来人とか宇宙人とかちようのうりよくしやとかの実存を知らされている俺だから思える感想なのかもしれない。しかし朝比奈さんや長門や古泉には実体があってちゃんと目にも見える。目に映らないのに犬たちがおびえるインビジブルなものとは何だ? マジでばくれい? まさかな。


 その後、阪中は家に上がってお茶でも飲んでいくことをすすめてくれたが、一刻も早く不思議ポイントに辿たどり着きたいハルヒはその申し出を固辞、阪中がえるために部屋に行くのとすれちがいにげんかんまでやってきた彼女の母親は、いくら目をこらしても阪中の年のはなれた姉くらいにしか見えないという、しかもものごしから口調から服装から何もかも好印象な美人だった。たまげた。

 美人の阪中母は朝比奈さんの巫女みこ姿に目を細め、俺たちが来訪した理由を聞いてころころと笑い、むすめがルソーを甘やかしすぎて困るという話を上品にして、そのような奥様を前にしてつうに応対していたハルヒはさすがである。俺なんかすっかりしゃちほこばってしまい、よごれたくつで玄関口に立っているのも申し訳ないような気分になっちまってたのに。

 阪中母は帰りにはぜひ娘の部屋にでも上がっていくように進言してくれて、ひとしきりなごやかな時間が経過したあたりでだんになった阪中が下りてきた。

「お待たせー」

 ふう、とりあえず春先の一等地を散歩としゃれこむか。

 荷物を阪中ていに置かせてもらい、俺たち六人と犬一ぴきは玄関を後にした。ホッとした気でいるのは俺だけか? ひょっとして。

 どういうわけかルソーの首輪につながるリードを持ったハルヒがまっ先に道路に飛び出し、

「行くわよ、J・J!」

 また自前のニックネームをさけんだかと思うと、小走りでけていく。J・J・ルソーもづなにぎっているのが会ったばかりの他人だということも気にせず、うれしそうについていくのは古代から番人として人とともに歴史を歩んできた犬としてどうなんだろうね。

「あっ、涼宮さーん、そっちじゃないのねー。こっち、こっちが散歩コース!」

 スコップと犬用はばかりぶくろを持って追いかける阪中と、立ち止まってがおもどってくるハルヒをながめながら、この二人は意外にいいコンビになるのではないかと思い始める俺だった。



 犬という動物はよほどのへんくつか病をわずらってでもいない限り散歩が大好きであり、その血脈的しゆこうはルソーにも受けがれていた。ちょこちょこ歩く白い小型犬の後を、これまたちょこちょこと朝比奈さんが微笑ほほえみながらついていく様は、格好が格好だけあってどこかファンタジーな世界の出来事のようでもあった。

 ちなみにハルヒにヒモを持たせていたらどっちがどっちを散歩させているのか解らないようなことになりそうだったので、ちゆうから飼い主の阪中がリードを握り、主従一体となって街中を進む後を、その他SOS団団員がのんびりと歩いている。

「どっち? J・J、もっと早く走れない? ほらほら」

 ルソーの横に並ぶようにしてハッパをかけるハルヒに、

「それじゃ速いよ、涼宮さん。走るんじゃなくて歩くの」

 やんわりと答えつつルソーに引っ張られる阪中だった。

 ほうっておくと犬よりも先行しそうなハルヒと、ひたすら犬の後を追う朝比奈さんはさておき、長門はもくもく、そして古泉が一万分の一市内地図を広げてついてくる。

 俺は古泉の手元をのぞき込みながら、

「どうすんだ? そんなもん眺めてよ。観光名所でもあんのか」

 たずねたところ、古泉はポケットからペンを取り出して、

「犬が近寄りがたく思っている地点を調べようと思いましてね。すみずみまで歩かずとも、だいたいの位置なら地図上に図形をえがくことで解ります」

 ああ、そういうのはお前に任せるさ、この図形好きめ。たとえ犬たちが通ることすらかいしようとする場所があろうがなかろうが、阪中家の飼い犬の元気さを眺めているだけで俺はすでに単なる散歩気分だ。犬飼いたくなってきた。こんな大層なやつでなくてもいい。雑種でじゆうぶんだからさ。見たところ、ハルヒも幽霊話なんかすっかり忘れてるんじゃないかね。ルソーとじゃれ合うようにウサギみたいに飛びねてるし。

 普段着なのは阪中だけで後は全員制服、おまけに巫女一名、ついでに犬というよく解らん一団と化した俺たちは、阪中とルソーのいつもの散歩コースを忠実に再現して歩いていく。それが普通なのか性格的なものなのか、阪中は相当おっとりとした感じで歩を進めている。方向性としては東に向かっている感じ。このまま真っぐ行くとあの川にぶち当たるな。朝比奈さんの未来告白を受けたり、かめ投げ込んでまた拾い上げてメガネくんにやったりした、あの桜並木沿いの川だ。ちょうど犬の散歩にもごろそうな遊歩道もあった……。

 と思っていると、阪中の足がピタリと止まった。

「あ。やっぱりここで止まっちゃうのね」

 ルソーはしっかりをつっぱってアスファルトをみしめていた。阪中がリードを引いても、首に力を込めて後ずさり。

 くーん、と悲しげな声を出されては飼い主のみならずこれ以上は、という気分になる。

「へぇ」

 ハルヒがやっと目的を思い出したように目を丸くした。次いで周囲を眺める。

「別にあやしいところがあるようには見えないけど」

 宅地の中だが、川が近いこともあって緑が目立つ。北の方を見上げると北高と似たような標高をほこりそうな山々のりようせん彼方かなたに見えた。ここらにくまはいないがいのししならたまに降りて来るという話を聞いたことがある。しかしそれにしたってこんな駅近くの市街地までとなると相当規模でめずらしく、そんなニュースにはいまだお目にかかったことはない。

 阪中は言うことを聞かないルソーのリードを握ったまま、

「先週まではここを真っ直ぐ行って、土手の階段を上がって川沿いの道を歩いてたの。しばらく歩いてまた降りてきて家に帰るってコースね。でも一週間前からルソーが川に近寄らなくなっちゃって」

 朝比奈さんがひざを折って動かなくなったルソーの耳をいてやっている。そのピクピクしている白い耳をながめつつ、ハルヒは自分の耳たぶをつまんだ。

「その川が怪しいんじゃない? 有毒物質が流れているのかもしれないわ。上流に化学工場みたいもんでもあるんじゃないの?」

 そんなもんがないことは俺たち北高生が一番よく知っているだろう。この川を上っていけばそのまま俺たちの通学コースにぶち当たる。本当に山しかなくて毎日ウンザリしてるじゃねえか。買い食いする場所すらろくすっぽないような田舎いなかだぞ。

「それがね」と阪中は説明を続行。「川でももっと上の方とか、下流の方ならちゃんと散歩できるみたいなのね。樋口さんや阿南さんが言ってたから」

「そうなの」

 ハルヒは朝比奈さんの手のこうをぺろりとめるルソーをじっと見ていたが、いきなりその白い高貴な毛並みを持つあいがん動物をかかえ上げ、

「じゃあさ、J・J、とにかく、ここだって場所まで案内してちょうだいよ。そのポイントに来たらここほれワンワンしてくれたらいいから。さ、行きましょ」

 ごういんに歩き出そうとしたハルヒだが、阪中がにぎりしめるリードの長さまでしか進めなかった。なぜならルソーはたんに悲しげな声でくぅんくぅんと鳴き始め、飼い主もまた一歩も動かなかったからである。

 ルソーと同じくらい悲しそうな顔になった阪中の主張するところによると、たとえ何であれ飼い犬がしょんぼりするところは見たくないのだそうだ。

「あたしルソーおこったことないの」

 ハルヒのうでからルソーを取り返し、阪中は頭をでながら、

「知ってる? 飼い主に怒られてショックで死んじゃう犬もいるんだって。そんなことになったらあたしも死んじゃいそう。だからね?」

 あきれるくらいの犬バカだ。いくらいいとこのおじようさまでも飼い犬を甘やかしすぎだろう。ウチのシャミセンを一度ホームステイさせてやりたいな。きっとそこにはシャミセンにとってのパラダイスが広がっているはずだ。

 さしものハルヒも口を半開きにしてルソーをきしめる阪中を眺めていたが、朝比奈さんはなつとくしたようにうんうんとうなずいている。かくも短時間で朝比奈さんの心をうばった犬ふぜいに軽くしつを覚えていると、

「そこまで強引に連れて行くことはありませんよ」

 古泉がにゆうに割って入ってきた。地図をひらひらさせながら、

「今、僕たちがいる現在地が」

 と、地図上に赤ペンで印をつけて、

「ここです。犬たちが何らかの危機意識を感じているという地点はここから先、延長線上にあるはずですね。または地点というよりは地域と言うべきはんに広がっているのかもしれませんが、ともかくこのまま進んでもかえって位置は特定しにくいんです」

 どういうことだ、と俺が聞き返す前に、古泉は阪中にキャッチセールスマンのようなみを投げかけた。

「いったんもどりましょう。ルソー氏には引き続き、別コースの散策を楽しんでもらうことにします」



 古泉の言葉通り、俺たちは元来た道を引き返すと、五分ほど歩いたところにあった十字路を左折して南に向かった。駅が近くになるつれ人通りも多くなってきた。しかし朝比奈さんは自分のしようよりもルソーが気になっているようで、あまり人目を気にしている様子もない。もしくはコスプレによる外出にも少しずつ慣れてきているのだろうか。

 先頭を歩いているのは地図片手の古泉で、これは割と珍しい光景だった。じよさいないハンサムづらに人好きのするしようかべ、先導役を務め上げている。

「次はこちらに」

 一度南下した古泉は、再び東に進路を取った。ぞろぞろとついていく俺たち。

 そして、さらに五分ほどを歩き終えた時、

「くーん」

 ルソーの前進きよが始まった。

「やっぱり川なんじゃない?」

 ハルヒが指差す方向は俺たちが向かっていた方角で、すでに川横にある土手のしやめんと桜の木々が見えている。

 古泉は近くの標識や住所を記したプレートを確認の上、注意深く地図に現在位置の印を新たに付けた。

「これでだいぶわかってきました。もう一カ所くらいでいいでしょう」

 古泉が何を解りかけているのかは解らんが、俺たちはまたもや南下を開始した。今度は来た道を戻らず、その場から小道に入って海方向を目指す。といっても海は遠く、古泉もそこまでたんさくを続ける気にはならなかったようで、進むことせいぜい五分。ちょうど最初にルソーが立ち止まった所から二番目の所までくらいのきよを歩き、そしてまた東へ向かう。

 今度は三分もかからなかった。

「く~~ん」

 ルソーくん、三度目の拒否行動。もともとヌイグルミみたいな犬が物悲しい声で鳴くもんだから、ただそれだけでも可哀かわいそうになる。そくに抱き上げてやった阪中の気分もよく解るぜ。俺でも心がさぶられる。

 朝比奈さんもハラハラ、長門は相変わらずの無表情だが、古泉は得心したようなほがらかなスマイルで、

「なるほど」

 地図に印をつけて、さてここから本番だと言わんばかりに俺たちにり向いた。またワケの解らないことを言い出しそうなふんを感じ取ったものの、無視し続けるわけにもいくまい。

「どういうこった?」

 いて欲しそうだったので訊いてやる。俺のはいりよをありがたく受け取るがいい。

「まずこの地図を見てください」

 古泉が広げた地図に俺たちの視線が集中する。

「赤く印をつけたところがルソー氏の立ち入り拒否した地点です。今、僕たちが立っているこの場所をふくめて三つあります。最初のものから仮に地点A、B、Cと呼びますが、この三つの印を見て何か気づいたところがありませんか?」

 何の野外授業を始めるつもりだ?

 教室以外での学業を半ばほうすることにしている俺が回答を拒否していると、即座にハルヒが挙手もなしに言った。

「直線距離にしたらAとB、BとCの間がほとんど同じね」

「よくお気づきです。そうなるように選んで歩きましたからね」

 理想の生徒を得て古泉は満足そうに、

「重要なのは個々のポイントにはあまり意味がないということなんです。特に地点Bは通過点に過ぎません。論よりしよういてしまったほうが解りやすいでしょう」

 赤ペンを気取った仕草でにぎり直した古泉は、地図にさっと線を引いた。地点AからBを中間点にしてCへと至る曲線である。一万分の一縮尺図の中に、小さなが浮かび上がる。

「ああ、そういうことね」

 ハルヒがだれよりも早く解答に辿たどり着いたようだった。俺は解らん。

「キョン、見たら解るじゃないの。この曲線が何に見える?」

 曲線以外の何にも見えんが。

「だからあんたは数学がダメなのよ。こんなの直感で気づかないと。いい? 古泉くん」

 ハルヒは古泉からペンを借り受けると、地図に新たな線を描き足した。

「曲線をさらに延長させるの。弧の角度をできるだけそのままにして、こうしてぐるっと一周させるわけ。そうすると円になるでしょ?」

 まさしく。フリーハンドにしてはかなり真円に近いものが赤ペンで描かれていた。まるで市内地図に宝の在処ありかを記したような小型の円。

 やっと解った。そういうことか。

「この円の中が犬の立ち入り拒否区画と言いたいんだな」

「仮のものですけどね」

 古泉が補足する。

「その区画が円状に広がっていると仮定した場合はこうなります。ゆうれいのようなちよう自然現象か、有害物質のようなじん的なものかは今のところ判別できませんが、ただ、これで少しは解りやすくなったでしょう」

 ハルヒと共同制作した円を指しつつ、

「何かがあるのだとしたら、曲線上にあるすべての地点から同一距離、つまり円の中心点が一番あやしいわけです。三つの地点を参考にしただけですから、かなりの誤差はあるでょうが、あながちちがってはいないと思いますよ。それでその中心点にあるのは──」

 古泉が指差すより、ハルヒがそこにペン先を置くほうが早かった。

「やっぱり川沿いね」

 ハルヒの声を聞くまでもなかった。地図が位置を教えてくれている円の中心、そこには俺にはおみの桜並木が広がっているはずだ。ただし思い出深い朝比奈さんベンチがあるところとは対岸になるが。

「すごーい」

 阪中が素のかんたん声を出し、

「古泉さん、よくこんなの考えられたのね。わー、感動しちゃう」

「それほどでも」

 微笑ほほえむ古泉に、真っぐで素直な目を向ける阪中。おいおい、そいつはよしといたほうがいいぜ。腹の底では何考えてるかわからんヤツだし、赤い光のボールに変身するような変態だからな。

 そう忠告したいところだったが、あえて俺は口を閉ざしたまま地図をながめ続けた。

 どうもかいな事件が起きるたびに、俺の見知った場所に辿り着くような気がする。まるで何者かに呼び寄せられているような感覚だが、今度こそ車にひかれかかった少年を助けたり、新キャラが出てきてイヤミくさいことを言ったりはしないだろう。あん時は俺と朝比奈さんだけだった。しかし今は全員がそろっている。何が起ころうとこのうちの誰かが何とでもするだろうし、何より団長閣下がここにいるんだ。

「行きましょ」

 ハルヒが楽しそうに号令をかけた。

「その怪しいポイントにね。阪中さん、J・Jも、後はごう客船に乗った気でいてちょうだい。あたしたちが幽霊とかそんなのと記念さつえいしたあとで、ちゃんと除霊してくるから」

「じょ、除霊……ですか?」

 やっと自分のふんそうを思い出したように、朝比奈さんがりようかたくようなポーズをする。そのうでを取ってハルヒは、

「さあ超特急でそこまで、全員あし!」

 そう言って、本当に走り出した。



 そこから目的地まではほど近く、あっという間にとうちやくしたのはハルヒの駆け足行軍指令のたまものだ。古泉の持つ地図通りの推定オカルトポイントは、花をかせるエネルギーを着々とたくわえつつある桜が立ち並ぶ川そばの並木道にそうなかった。

 地図とにらめっこしながらハルヒは最も円の中心に近いところを探しているが、古泉の算出方法だってけっこうアバウトなものだからそんなに正確さを求めなくていいと思うぞ。

「このへんかしら」

「そのへんでよいのではないでしょうか」

 ハルヒが熱心に地図と地面を見比べるのに対し、古泉が適当な返答をしているのは自覚があるからだろう。

 ここまでやって来たのは正規のSOS団員五人のみだった。阪中とルソーは自宅で待機、というか、「いやがるルソーを連れて行くことなんてできないのね」とかたくなに言い張った阪中が同行をきよしたのだ。その一ぴきと一人がいたところで立会人以外の役には立たないであろうから、ハルヒも俺も気にしなかった。無論、役に立つ立たないの話になれば俺だって見物人役エキストラ以上になれないことは明白だ。

 この場で明快な役をられているのは、

「みくるちゃん、お待たせ。やっと出番よ」

「は、ははいっ」

 ハルヒにとってみれば朝比奈さんだけである。そのために巫女みこの扮装までさせたのだ。ここで何もせずに帰ったりしたら、せっかくのしようがかなりもったいない。

「で、でも、あたし、何をしたら……」

「まっかせなさいって。ちゃんと用意はしてあるわ。みくるちゃんはそこに立って。ほら、この棒も持って」

 へいつきの棒きれを持たせ、ハルヒは朝比奈さんを川岸近くの草むらに位置取りさせると、スカートのポケットから丸めたコピー用紙の束を取り出した。

「それじゃあ」

 ハルヒはきょときょとしている朝比奈さんの肩を抱き、俺たちを振りあおぎながら、

「見たとこゆうれいの姿はないし、さっさとはらいを始めましょう!」



「か……かんじざいぼ、さつぎょ?……ぎょうじんはんにゃーはらみーたじーい、しょ、しょうけんごうんかいくーう、」

 どこから持ってきたじゆもんかと思ったら、何のことはない、はんにやしんぎようだ。巫女衣装で経文を唱えるのは何となくばちたりのような気もするが、考えようによってはしんとうと仏教のダブル効果でれいげんあらたかさ二倍になっていると言えなくもないだろう。

 ハルヒが持ったカンペを見ながら必死に唱えている朝比奈さんのしんさにめんじて、寺社仏閣各関係者にはかんじよを求めたいと切に願う所存である。

 ハルヒは次々とカンペをめくり、般若心経の書きくだし文ルビ付きを朝比奈さんに見せるアシスタントをやっていた。

「ど、ど、どいちさいくやくしゃりしぃ、しきふいーくーくーうふいーしきー……?」

 そうやって朝比奈さんがインチキ巫女にしてはけいけんおもちでおきようを唱えている間、俺は個人的に気になっているヤツの顔色をうかがっていた。それがだれかなんて言うまでもないよな。

「…………」

 長門は夜風にれるガラス製ふうりんのような目で、朝比奈さんの後ろ姿をながめていた。何らおかしいところはなく、手持ちぶさたにしている姿は通常モードの長門のものだ。部室で本読んでいるときと変わらない揺らぎのなさ。

 これは安心してもいいか。

 朝比奈さんが臨時そうりよを務めるこの辺りが本当に「何かある」ジャストのポイントだと言うつもりはない。しかしここではなくともこの周辺にオカルトないしサイエンスなものがあるのだったら、長門がそれに気づかないはずはなく、長門が気づいたということを俺が感づかないこともない。つうか、長門ならそれとなく教えてくれるはずだ。あのカマドウマのときのようにな。

 横顔をじっと見られていることをさとったのか、長門は最初に目を動かし、次に顔をこっちに向けて、まるで心を読んだかのようなコメントを小さく発した。

「何もない」

 ばくだんとうみん中のくまや放射性同位元素や卑弥呼の金印とか──。

「ない」

 こんせきもか?

「わたしの感知能力の限りにおいて」

 長門は九九の一の段を暗唱するような口ぶりで、

とくしゆな残存物は発見できない」

 じゃあルソーほかの犬たちがこの一帯に近づかなくなったのは何故なぜだ? 何もないんだったらそんな理由もなくなるぜ。

「…………」

 長門はふうに揺れる風鈴のように頭を揺らし、ついっと俺のはすかいに視線をやった。

 つられるように俺もそちらを向き、

「えあ?」

 下流の方からトレーニングウェアに身を包んだ長身の男性が走ってくる。通りすがりのジョガーとお見受けするが、俺の目をくぎけにしたのは、彼が片手に持っているリードと、その先にいる一頭の犬の姿だった。と言っても茶色のしばいぬがそんなにめずらしかったわけではない。何のてらいもへんてつもない柴犬だった。

 なぜ犬がここに? この辺一帯は臨時的な犬の禁足地ではなかったのか?

「あれ?」

 ハルヒも気づいた。きようしていた朝比奈さんも、カンペめくりの中断を受けて顔を上げ、俺たちの視線を読んで声をまらせる。

「むちゃむく……とく……え?」

「ほう」

 うでみしていた古泉が、目をすがめて男性と並んで走る柴犬を注視した。

 阪中家のウェストハイランドホワイトテリアがちょっと前に見せていたようなしんな挙動はその犬にはなかった。主人と走るのが楽しくてしかたがないというぜいでハッハッと規則的な息づかいで四本のあしをちょこまかさせて土をっている。

 その若い大学生くらいの男性と飼い犬くんは、彼らよりもよほど不審な一団、つまり俺たちにいちべつをくれつつ、後ろを通り過ぎようとしたところで、

「ちょっと! 待って!」

 横から飛び出てきたハルヒによって通行をはばまれた。

きたいことがあるの」

 ハルヒの圧力すら感じさせる強い視線がレーザー光のように柴犬に向けられて、

「少しお時間いいかしら。どうしてその犬はつうにここを走ってるの? ああ、ええと、話すとちょっとだけ長くなるんだけど」

 と言いつつ、俺の制服のネクタイをつかんで引き寄せ、何だこいつらという顔をして立ち止まった男性と不思議そうに舌を出している犬をしりに俺の耳元でささやいた。

「説明してあげなさい、キョン」

 俺がかよ。

 古泉にバトンをわたしたいところだったが、ハルヒに背を押されて犬と飼い主の前にまろび出てしまった。しかたがない。散歩をじやしてすみませんが、と前置きして俺は説明を開始した。一週間ほど前からきんりんの犬がこの辺を歩きたくなくなったらしい。俺たちは友人からそのことを聞き、不審を覚えて調査することにした。その友人の犬はつい先だってもここの近くには来たくないりを見せていた。てっきり何かあるんじゃないかと思って調査を続行していたところ、あなたとその犬がランニングしてきた。そのかしこそうな柴犬は全然平気に見えるが、それはなぜなのだろう。

「ああ、そのことか」

 と、二十はたち前後の男性はすぐになつとくしてくれた。御幣へい棒を持ってっ立つ朝比奈さんをしげしげと見やりつつ、

「確かに先週のいつからだったか、こいつが」と犬を指し、「いつものジョギングコースをけるようになったな。川の土手を上がろうとするとてこでも動かなくなって、何だろうとは思っていたよ」

 スポーツマンらしい犬連れの男性は、朝比奈さんとハルヒの間の空間で視線をゆっくり移しながら、

「でも、こっちもここは走るには最適の道だから、どうにかして引っ張り上げられないかとやってみたんだ。そしたら、一昨日おとといか、三日前からだったかな? 最初はむずがっていたけど、今はこの通り、また元の散歩コースを走るようになった。もう平気のようだ」

 犬の顔色を読めるほど俺は動物医学にひいでていないが、主人の足元でぎよう良く座っている柴犬は心身ともに健康そのものに見えた。何のなやみもなさそうな目をしている。

「きっとキミたちの友達の犬も、ごういんにでも連れてきたら元にもどると思うね。何だったんだろうとちょっとは不思議に思うが、きっと熊でもいたんじゃないかな。そのにおいが残ってたんだろ」

 古泉のような発想のコメントを告げ、スポーツ大学生らしき男性は、

「もういいか?」

「ありがとうございました。大変参考になったわ」

 ハルヒがまともな口調で礼を言い、青年は朝比奈さんのふんそうに何か言いたげな顔をいつしゆんしたものの、きっと出しゃばらないタチの性格をしているんだろう、いい人で助かった。「じゃあ」と言い残して犬とともに上流方面へとジョギングを再開して行く男性。

 残されたのは俺、はんにやしんぎようのカンペを持っているハルヒ、神社に行く道をちがった風情の朝比奈さん、川の流れに目を落としている長門、あごに手を当てて思案顔の古泉というマヌケな五人組だった。



「どういうことよ?」

 見て聞いたとおりのことだろう。

ゆうれいは? 楽しみにしてたのに」

 んなもんいなかったと言うべきだろうな。

「じゃ、何だったのよ?」

 知らん。

「……みよううれしそうね、あんた。何だか腹が立つわ」

 言いがかりさ。俺はいつでもな顔をしているつもりだ。ハルヒの期待通りのものが出てこず、それどころかはやなかったことを心からあんしているなんてこともないぜ。

「うそばっか」

 プイとハルヒは前を向き、おおまたで歩く歩調を早めた。

 川沿いの並木道を後にした俺たちは一同そろって阪中の家に向かっていた。荷物を置きっぱなしだし、らい主に調査報告もせにゃならん。

「でもぉ」

 俺のななめ後ろで人目をはばかるように歩いている朝比奈さんが、ひかえめに疑問をていした。

「ほんとにどうしてだったんでしょう? ルソーさんが今日も散歩をいやがったのって」

 これには古泉が身を乗り出して、

「さきほどの方の話によると三日前ですか。それまで犬たちがけいかい心を覚える何かがあったことは確かです。しかし現在、それはないようです。ルソー氏や阪中さんの話によるほかの犬たちがいまだに接近をかいしようとするのは、たぶん過去のおくがそうさせているのでしょう。あのしばいぬも飼い主に無理に連れてこられなければ、やはり近寄ることはなかったと思います」

 犬にも二種類あるんじゃないか? 異変をいつまでも覚えることにけてんのとそうでないのと。思うにルソーは記憶力のいいほうで、さっきの柴犬はおおらかな脳みそをしてるんだ。

「…………」

 長門の無言が心地ここちよい。こいつが何もないと言うからには絶対的に何もなかったのである。今なら、とうみん中だったくまが三日前に山に戻った説に一票を投じてもかまわない気分だ。

 この時期の夕暮れぎわはややはださむく、俺たちはハルヒの早足に合わせるように阪中宅への道を急いだ。せっかくの依頼を受けたものの結局何だかわかりませんでした、と報告するのが団長としてのきようを傷つけるのか、ハルヒはプリプリしていたが、こいつの性格上、こんなことはすぐに忘れる。一つのことにこだわるより、ダメならダメでさっさと次に移っていくのが涼宮ハルヒの習性だ。

 案の定、ハルヒは阪中のごうしやな家を再訪し、今度こそ客人としてリビングに通されて阪中母の手作りシュークリームを一口ほおったたんげんを直した。

「すご。うま。おいしい。お店開けるわよ、この味」

 リビングルームの調度品も適度にシックな高級そうなものが揃っており、俺が座っているソファなんてシャミセンを乗せてやったら十二時間くらい続けるかもしれないくらいにフカフカである。美人のお母さんに高級犬まで加わって、まったく金持ちの家はえからふんまでちがう。ハルヒもこんなかんきようで育っていれば阪中みたいな性格になったのかもしれないな。

 俺たちが絶品シュークリームとアールグレイをごしようばんにあずかっている間、調査のてんまつは古泉が阪中に説明していた。阪中はいたルソーの頭をでながら言葉一つ一つにうなずいていたが、説明がしゆうりようしてもやはり不思議そうな表情を消さなかった。

「もうだいじようそうだっていうのは解ったのね」

 ぴくぴくしているルソーの耳をみつめながら、

「けど、やっぱり今日もルソーは嫌がってたし、このコや他の犬さんたちが平気で歩くようになるまであの道は散歩させないことにする。かわいそうだもん」

 そこは飼い主の判断にまかせるさ。ルソーもいい主人様に当たったもんだ。ちょいと甘やかしすぎな気もするが。

 ハルヒと長門の食べっぷりに気をよくした阪中母がどんどん焼きたてシュークリームを運んでくる中、しばらく俺たちは阪中による犬エピソードを中心に談笑を続けた。ルソーは阪中の横にはらいになって耳をかたむけていたが、やがてねむそうな黒目をせてまどろみ始める。そんなルソーをいとおしげに見つめる朝比奈さんが、せんぼうためいきらして微笑ほほえんだ。

「いいなぁ。お犬さん、いいなぁ」

 未来ではペットを飼うことが禁止されているのかもしれないが、俺の本音を言わせてもらうと犬より朝比奈さんを自宅に置いておきたいね。メイド姿で朝晩のおくむかえ、それこそまさしくメイドの正当なる仕事なのではあるまいか。古ぼけた部室でお茶入れているよりずっと似合っていると思うぜ。

 まあ、思うだけにしておくけどな。


 結局この日、俺たちのしたことと言ったらみんなして阪中んまでやってきて、犬とたわむれつつ散歩させ、朝比奈さん巫女みこ仕様にはんにやしんぎようを唱えさせたあげく、シュークリームとお茶をよばれてそれぞれ帰宅する、というつうにクラスメイトの家に遊びに来たようなもので終わった。

 そして俺の予想ではこのままこの事件はめいきゆう入りし、やがてハルヒや俺ののうからも消え去ってしまうことになっていたのだが……。

 数日後、予期せぬことが発生した。

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